Page:那珂通世遺書.pdf/457

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言者︀の義なる​陛黔別兒​​ベイゲムベル​を音譯したるにて、敎祖︀​抹哈篾惕​​モハメト​を指せるなり。​賽典赤​​サイデンチ​は、太宗の時、山西地方の​達魯花赤​​ダルハチ​より入りて燕京の斷事官となり、憲宗の初年、燕京路の總管に遷り、採訪使に擢てられ、憲宗蜀を伐てる時、饋餉供億を主れり。世祖︀位に卽き、燕京路の宣撫使となり。中統二年中書平章政事となり、至元元年陝西五路西蜀四川の行中書省を置きたる時、出でてその平章政事となり、七年分れて四川を鎭し、八年興元にて省事を行ひ、十一年雲南行省の平章政事となり、十六年雲南に卒しき。子五人あり。長は​納速剌丁​​ナスラヂン​(​納思兒兀丁​​ナスルウツヂン​卽​納思嚕丁​​ナスルツヂン​)、次は​哈散​​ハサン​(​哈思散​​ハスサン​)、次は​忽辛​​フツシン​(​許思薛因​​フスセイン​)、次は​苫速丁兀默里​​シエンスヂンウメリ​、次は​馬速忽​​マスフ​(​馬思許惕​​マスフト​)にて、いづれも高官に陞れり。​納速剌丁​​ナスラヂン​は、雲南路の宣慰使都︀元帥として、至元十六年金齒・蒲驃・曲蠟・緬國を招撫し、父​贍思丁​​シエスヂン​歿したるに由り、明年雲南行省の左丞となり、尋で右丞に陞り、二十一年平章政事に進み、二十二年​合剌章​​カラヂヤン​〈[#ルビの「カラヂヤン」は底本では「カヂヤン」。他の「合剌章」のルビに倣い修正]〉豪古の軍干人を以て皇子​脫歡​​トホン​に從ひ、交趾を征して功あり、二十八年陝西行省の平章政事に進み、明年卒しき。子十二人の內、​伯顏​​バヤン​、​烏馬兒​​ウマル​(​斡馬兒​​オマル​)、​箚法兒​​ヂヤフアル​、​忽先​​フツセン​(​許思薛因​​フスセイン​)、​沙的​​シヤヂ​(​撒阿的​​サアヂ​)、​阿容​​アユン​、​伯顏察兒​​バヤンチヤル​の七人、皆高官に陞れり。​納速剌丁​​ナスラヂン​、​伯顏​​バヤン​は、皆​賽典赤​​サイデンチ​の號を襲ぎ、​伯顏察兒​​バヤンチヤル​は、泰定中中書平章政事となり、​燕鐵木兒​​エンテムル​に殺︀されき。​忽辛​​フツシン​は、至元中地方の諸︀官に歷任し、三十年兩潮の鹽運使、大德中雲南行省の右丞、至大元年江西行省の平章政事、二年職を辭し、三年卒しき。子二人あり、​伯杭​​バハン​・​曲列​​クレ​と云へり。

 ​賽典赤​​サイデンチ​は、​不忽木​​ブクム​の傳に​塞咥旃​​サイデゼン​とも書き、考異に「石刻濟瀆靈異碑作​賽天知​​サイテンヂ​、中堂事紀作​賽典只兒​​サイデンヂル​」とあり。これは、疑も無く​喇失惕​​ラシツト​の史(​多遜​​ドーソン​二、四六七)に​撒亦惕額者︀勒​​サイドエヂエル​卽​撒亦迭者︀勒​​サイデヂエル​と云へる人にして、​不忽木​​ブクム​の傳の塞咥旃は、最音協へり。集史に據れば、​撒亦迭者︀勒​​サイデヂエル​は、​孛合喇​​ボカラ​の人にして、​曼古​​マング​の朝に​庫必賚​​クビライ​の​喀喇章​​カラヂヤン​(雲南)に入りし時、その地の太守となり、尋で宰相となり、​庫必賚​​クビライ​の朝の初に財政を掌れりと云へり。これは、至元十一年に雲南行省の平章となれること、中統二年に中書に入りたること、憲宗の朝に饋餉供億を主りたることを、時代を誤りて​後前​​アトサキ​に記したるなり。又「その子​納思嚕丁​​ナスルツヂン​は、​喀喇章​​カラヂヤン​の太守に任ぜられ、五六年前に死したるまでその職を保ちき」と​喇失惕​​ラシツト​云へり。​喇失惕​​ラシツト​は、一三〇〇年(大德四年)ごろにその文を書きたれば、五六年前は、至元三十一年又は元貞元年にして、元史に至元二十九年卒とあるより二三年違へり。又陜西行省に遷りたることを​喇失惕​​ラシツト​は未聞かざりしなり。​納思嚕丁​​ナスルツヂン​は、​馬兒科保羅​​マルコポーロ​も記して、​捏思克喇丁​​ネスラヂン​と呼べり。​納思嚕丁​​ナスルツヂン​の子​阿不別克兒​​アブベクル​一名​巴顏芥羼​​バヤンフエンチヤン​は、​喇失惕​​ラシツト​の書ける時に​在屯​​ザイトン​(剌桐卽泉州)の太守なりき。この人も、​撒亦迭者︀勒​​サイデヂエル​なる祖︀父の號を用ひ、​庫必賚​​クビライ​の嗣君の朝に財務の卿となりき(​多遜​​ドーソン​二、四七六、五〇七)。この​巴顏芥羼​​バヤンフエンチヤン​は、​納速剌丁​​ナスラヂン​の長子なる​賽典赤伯顏​​サイデンチバヤン​にして、宰相表に據れば、至元三十年より大德七年まで中書平章政事の欄︀にあり。その間に福︀建行中書省に派遣せられたることもありしなるべし。


4。​回回​​フイフイ​卽​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒の移住。

 ​札八兒​​ヂヤバル​・​阿剌瓦而思​​アラワルス​・​賽典赤​​サイデンチ​の外に、元史列傳には、定宗以後の朝に事へたる​回回​​フイフイ​人甚多し。​卜咧惕施乃迭兒​​ブレトシユナイデル​曰く「​成吉思​​チンギス​とその後嗣との征服は、亞細亞の東と西との間に交通の大道を開き、西方の民は、極東に往くことを、そこに住むことさへ始めき。蒙古の諸︀帝は、外國人の支那に移住することを保護し、​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒につきては、​曼古汗​​マングカン​の弟​旭剌古​​フラグ​が西亞細亞を支配してより、​珀兒沙​​ペルシヤ​より支那に移住する者︀著︀しく殖えたりしと見ゆ。今支那本部の全土に散處し、殊に甘肅山西直隸の三省にて大なる社︀會をなせる​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒の大半は、​馬兒科保羅​​マルコポーロ​の記したるそれらの諸︀省の​撒喇先​​サラセン​どもの子孫ならんとと然るべきことと思はる。​喇失惕額丁​​ラシツトエツヂン​は、支那の事を記述して(​裕勒​​ユール​の「​喀勢​​カセイ​」二六九)、當時​喀喇章​​カラヂヤン​(雲南)の住民は皆​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒なりきと云へり。又​必兒馬​​ビルマ​にて​潘泰​​バンタイ​と名づくる雲南の​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒、一八五七年(成豐七年)に大理府を陷し