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て、一八七三年(同治十二年)までその地を領したりしものどもは、蒙古の諸︀帝の時まで溯りて跡附けられ得ることは、大抵慥ならんと信ぜらる」。

 次に擧ぐる​回回​​フイフイ​人は、太祖︀太宗の功臣に非ざれども、支那の朝廷に遠西の異敎の民の聚れるは、前後に例なき珍しき事なれば、それらの著︀しき人の名氏と仕履の槪略とを列記せん。


5。​怯烈​​ケレ​。

 列傳卷二十、​怯烈​​ケレ​、西域人。世居太原。由中書譯史、從平章政事​賽典赤​​サイデンチ​、經略川陜。經略川陜。西域はいづことも知れざれども、​賽典赤​​サイデンチ​に從へるを見れば、​回回​​フイフイ​の地より來にける人なるべし。世居太原は、​怯烈​​ケレ​の子孫の事を云へるなり。屢緬國を征し、至元の末、雲南諸︀路行中書省の左丞。


6。​愛薛​​アイセ​。

 列傳卷二十一、​愛薛​​アイセ​、西域​弗林​​フリン​人。通西域諸︀部語、工星曆醫藥。初事定宗、直言敢諫。時世祖︀在藩邸器︀之、中統四年、命掌西域星曆醫藥二司事。後改廣惠司、仍命領之。至元中、翰林學士承旨。大德元年、平章政事。仁宗時、封秦國公、卒、追封​佛林​​フリン​忠獻王。​弗林​​フリン​即​拂林​​フリン​は、古の大秦國なるが故に、秦國公に封ぜられたり。然らば​愛薛​​アイセ​は、​東囉馬​​ヒガシローマ​の地に生れたる人なるべし。されども世祖︀紀至元十年正月の條に「改​回回​​フイフイ​​愛薛​​アイセ​所立京師醫藥院、名廣惠司」とあれば、​愛薛​​アイセ​は、​克哩思惕​​クリスト​敎徒に非ずして、​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒なるべし。


7。​察罕​​チヤガン​。

 列傳卷二十四、​察罕​​チヤガン​、西域、​板勒紇​​バルフ​城人也。父​伯德那​​ベデナ​、歲庚辰(太祖︀十五年)、國兵下西域、擧族來歸。​板勒紇​​バルフ​は、​巴勒黑​​バルク​なり。「​察罕​​チヤガン​、魁偉穎悟、博覽强記、通諸︀國字書」。至元中、​奧魯赤​​アウルチ​に從ひ、湖廣江西兩省に出入し、大德の末、河南行省の郞中。至大中、太子の家令。皇慶元年、平章政事、商議中書省事。​脫必赤顏​​トビチヤン​を譯して聖武開天記(今の親征錄)を作れるは、この人なり。


8。​曲樞​​クチユ​。

 列傳卷二十四、​曲樞​​クチユ​、西土人。曾祖︀​達不台​​タブタイ​、祖︀​阿達台​​アタタイ​、父​質理花台​​デリハタイ​。​曲樞​​クチユ​は、本紀宰相表に皆​曲出​​クチユ​とあり。大德中より仁宗に事へ、至大元年、太子の詹事、平章軍國重事。四年、錄軍國重事、集賢大學士。長子​伯德​​ベデ​は、至大中、中書右丞。次子​伯帖木兒​​ベテムル​は、至大中、翰林學士承旨、大都︀の留守。


9。​奕赫抵雅爾丁​​イヘヂヤルヂン​。

 列傳卷二十四、​奕赫抵雅爾丁​​イヘヂヤルヂン​、字太初、​回回​​フイフイ​氏。父​亦速馬因​​イスマイン​(​亦思馬額勒​​イスマエル​)、仕至大都︀南北兩城兵馬都︀指揮使。​奕赫抵雅爾丁​​イヘヂヤルヂン​、幼穎悟嗜學、所讀書一過目、卽終身不忘、尤工其國字語。至元中、中書右司郞中。大德中、江東建康道の肅政廉訪使。至大中、參議中書省事。


10。​徹里帖木兒​​チエリテムル​。

 列傳卷二十九、​徹里帖木兒​​チエリテムル​、​阿魯溫​​オルエン​氏。祖︀父累立戰功、爲西域大族。​卜咧惕施乃迭兒​​ブレトシユナイデル​曰く「​阿魯溫​​オルエン​は、蓋​奇兒曼沙​​キルマンシヤ​と​巴固荅惕​​バグダート​との間なる​訶勒飯︀​​ホルヷン​ならん」。天曆二年、中書平章政事。至元元年、再中書平章政事となり、南安に貶せられき。


11。​贍思​​シヤンス​。

 列傳卷七十七、儒學二、​贍思​​シヤンス​、字得之、其先​大食​​タージ​國人。國旣內附、大父​魯坤​​ルクン​、乃東遷豐州。太宗時、以材授眞定濟南等路監權課稅使、因家眞定。父​斡直​​オチ​、始從儒先生問學。​贍思​​シヤンス​は、順帝の時、臺憲の官に歷任せり。「邃於經、而易學尤深、至於天文地理鐘律算數水利、旁及外國之書、皆究極之」。その著︀書の內に、西國圖經、西域異人傳などありしが、今傳はらず。