Page:成吉思汗実録.pdf/377

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十餘城(高麗傳)。侵掠連年不已(高麗史)。十年戊戌、薛闍 卒、子 收國奴 襲爵、易名 石剌、亦從征高麗功(畱哥 傳)。五月、高麗人趙玄習、李元祐︀等、率二千人蒙古。命居東京、受福︀源節︀制。十二月、高宗遣將軍金寶鼎、御史宋彥琦等、奉表朝蒙古(高麗傳)。十一年己亥四月、蒙古 兵還(高麗史)。五月、詔徵王入朝。王以母喪辭、六月乃遣使奉表入朝。十月、諭王徵其親朝。十二月、王遣使入貢。十二年庚子三月、又入貢。五月、復詔諭之。十二月、入貢(高麗傳)。十三年辛丑四月、以族子永寧公綧己子、入蒙古、充禿魯花(高麗史)。禿魯花は、蒙語 質子なり。定宗 憲宗の世、歲貢 入らずして、四たび征伐せられしが、憲宗 九年に世子 倎(元宗 順孝王)を質子としてより、永く元の東藩となりき。

​撒兒台​​サルタイ​を誤れる​札剌亦兒台​​ヂヤライルタイ​

祕史の札剌亦兒台 豁兒赤は、撒兒台 豁兒赤の誤寫 又は誤譯ならん。撒兒台は、親征錄に撒兒塔 火兒赤、太宗紀 高麗傳 高麗史に撒禮塔、洪福︀源の傳に撒里塔、吾也而の傳に撒里荅 火兒赤、王珣の傳に撒里台などあり。元史には、兒の音を里と書けること多ければ、これも、正しくは耶律 畱哥の傳に見えたる如く撒兒台なるべくして、親征錄 吾也而の傳なる火兒赤は、卽 豁兒赤なり。也速迭兒 豁兒赤は、何人なるか、東征の役に與れる諸︀將の誰なるか、考へ得ず。蒙古の朝には也速迭兒と云へる人 甚多く、康里の也速䚟兒は、元史に傳あり、その外 康里の艾兒 拔都︀の子 也速荅兒、珊竹帶の紐璘の子 也速荅兒、札剌兒の阿剌罕の子 也速迭兒、阿速の玉哇失の兄 也速歹兒、氏族志には、兀良合の速不台の從孫 也速䚟兒、達達兒の忙兀台の叔父 也速歹兒などあれども、いづれも時代 稍 後れて、こゝの也速迭兒 豁兒赤とは思はれず。耶律 薛闍 吾也而 唐古などの別名には非ずや。


§275(12:28:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​不哩​​ブリ​ ​古余克​​グユク​を訴ふる​巴禿​​バト​の使

 ​巴禿​​バト​は、​乞卜察黑惕​​キブチヤクト​(卽 乞卜察兀惕)の​征伐​​セイバツ​の​上​​ウヘ​より、​斡歌歹 合罕​​オゴダイ カガン​に​使​​ツカヒ​より​奏​​マウ​して​遣​​ヤ​るには「​長生​​トコヨ​の​上帝​​アマツカミ​の​力​​チカラ​にて、​合罕​​カガン​ ​叔父​​オヂギミ​の​福︀​​サイハヒ​にて、​篾格惕​​メゲト​の​城​​シロ​を破りて、​斡嚕速惕​​オルスト​の​民​​タミ​を​虜︀​​トラ​へて、​十一國​​ジフイツコク​の​民​​タミ​を​正​​タヾシキ​に​入​​イ​らしめて、​金​​コガネ​の​縻繩​​ハヅナ​を​退​​ソ​け​扯​​ヒ​きて、​別​​ワカ​るゝ​筵會​​ウタゲ​に​筵會​​ウタゲ​せんと​云​​イ​ひ​合​​ア​ひて、​大​​オホイ​なる​天幕​​テンマク​を​起​​タ​てて​筵會​​ウタゲ​する​時​​トキ​、​我​​ワレ​はこゝに​居​​ヲ​る​諸︀王​​ミコダチ​の​兄君​​アニギミ​(蒙語 阿合罕、首長)となれるとなりて、​一二盞​​ヒトフタサカヅキ​の​喝︀盞​​アイザン​を​先​​サキ​に​飮​​ノ​みたりとて、​我​​ワレ​に​不哩​​ブリ​ ​古余克​​グユク​ ​二人​​フタリ​ ​怒​​イカ​りて、​筵會​​ウタゲ​に​筵會​​ウタゲ​せず、​上馬​​ジヤウバ​せられたり。​上馬​​ジヤウバ​して、​不哩​​ブリ​ ​言​​イハ​く「​巴禿​​バト​と​齊等​​ヒトシナミ​になりて​居​​ヲ​るに、​先​​サキ​にいかんぞ​飮​​ノ​みたりし。​髯​​ヒゲ​ある​嫗​​オウナ​ども