屯 卽 黑林の斡兒朶は、王罕の舊營なり。
多遜は、この處に四皇子 分封の事を叙べて、「成吉思 汗 東に歸り、四子の分地を定め、喀喇科嚕姆の山と斡難︀ 河の源との閒を拖雷に與へ、額米勒 河の邊を斡歌台に與へ、昔渾 河の東を察合台に與へ、喀思闢の海︀の北 闊喇自姆の湖(阿喇勒 海︀)の周圍を拙赤に與へたり」と云ひ、額兒篤曼は、斡歌台の分地を亦米勒 孫噶哩亞の地とし、察合台の分地を委古兒の境より孛合哩亞までの地とし、拙赤またその諸︀子の分地を喀牙里克 貨咧自姆より不勒噶兒 撒克新まで蒙古の馬の蹄の蹂みたる限りとし、拖雷は、蒙古の本國を領する外に、帳殿 家族 國の記錄の保管を任せられたりと云へり。今これを短く言ひ換ふれば、拖雷は蒙古の地を得、斡歌台は乃蠻の故地を得、察合台は西遼の故地を得、拙赤は闊喇自姆 康克里 乞卜察克の地を得たり。祕史の太祖︀ 西征の條は、親征錄 元史より委しけれども、叙事の顚倒 錯亂 多きは惜むべし。今 尙書の「今考定武成」の例に倣ひ、試にその次序を左の如く考へ正せり。)
〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§257(11:36:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
兔ウサギの年トシ、撒兒塔兀勒サルタウルの民タミの處トコロに阿喇亦アライに依ヨり越コえ出馬シユツバするに、成吉思 合罕チンギス カガンは、合屯カトンより忽闌 合屯クラン カトンを伴ツれ進スヽみ、弟オトヽだちより斡惕赤斤 那顏オツチギン ノヤンを大 老營タイ ラウエイに畱守ルスせしめて出馬シユツバせり。途ミチに額兒的失エルチシに駐夏チウカして、成吉思 合罕チンギス カガンは、自ミヅカラ 兀的喇兒ウヂラルの城シロに下營カエイせり。
かくて成吉思 合罕チンギス カガンは、[龍タツの年トシの春ハル]兀都︀喇兒ウドラルの城シロを下クダして、兀都︀喇兒ウドラルの城シロより動ウゴきて、不合兒ブカルの城シロに下營カエイせり。[その夏ナツ]不合兒ブカル〈[#ルビの「ブカル」は底本では「ブカ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉の城シロより動ウゴきて、薛米思加卜セミスカブの城シロに下營カエイせり。そこに成吉思 合罕チンギス カガンは、巴剌を待たんと金コガネの寨トリデの嶺ミネなる莎勒壇シヨルタンの避暑︀處ナツヨケドコロに避暑︀ナツヨケして、
者︀別ヂエベを先鋒センポウに遣ヤりぬ。者︀別ヂエベの後援ゴヱンに速別額台スベエタイを遣ヤりぬ。速別額台スベエタイの後援ゴヱンに脫忽察兒トクチヤルを遣ヤりぬ。この三人ミタリを遣ヤるに、「外面ソトモに往ユきて、速勒壇スルタンの彼方カナタに出イでて、我等ワレラを到イタらしめて夾攻ハサミセめん」と宣ノリタマひて遣ヤりぬ。者︀別ヂエベは、かく往ユきて、罕篾里克カンメリクの