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「歲壬子(憲宗 二年)、帝駐桓撫閒。憲宗令斷事官 牙魯瓦赤、與不只兒 等、總天下財賦 于燕云云」と見えたり。牙魯瓦赤 牙老瓦赤は、卽 牙剌哇赤なり。麻合沒的 滑剌西迷は、牙剌哇赤の全名 馬呵木惕 牙剌哇赤にして、西迷は瓦赤の誤なり。麻速忽は、卽 馬思忽惕なり。

​兀兒禿 撒哈勒​​ウルト サハル​

兀都︀ 撒罕は正しくは兀兒禿 撒哈勒、長髯の蒙古語にて、耶律 楚材の稱號なり。元史 楚材の傳に「楚材 身長八尺、美髯宏聲。帝偉之云云。遂呼楚材吾圖 撒合里而不名。吾圖 撒合里、蓋國語長髯人也」とあり。睿宗の傳に楚材を吾圖 撒合里と書き、食貨志 歲賜の篇に「曳剌 中書 兀圖 撒罕里」とあるも、楚材にして、金人(隨て蒙古 人)は耶律を曳剌 又 移剌と呼べり。親征錄に牙剌哇赤の漢︀民を管する事を太宗 十三年 卽 本書(祕史續集)の成りたる翌年の所に記したれども、こゝに明に「中都︀の城を知らしめに伴れ來たり」とあれば、太祖︀の時より燕京の財政に與り居たるならん。


§264(11:51:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


七年の遠征

 ​撒兒塔兀兒​​サルタウル​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​七年​​ナヽトセ​ ​行​​ユ​きて、そこに​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​巴剌​​バラ​を​待​​マ​ちて​居​​ヲ​る​時​​トキ​に、(太祖︀の西征は、十四年 己卯より二十年 乙酉まで七年かゝれり、されども巴剌を待ちたるは、その七年目にはあらず、四年目なる十七年 壬午の夏 巴嚕安 原にて避暑︀して居たる時なり。親征錄 集史は、誤りてその翌年 癸未の夏とせり。

​巴剌​​バラ​の印度 侵掠

​巴剌​​バラ​は、​申 木嗹​​シン ムレン​を​渡​​ワタ​りて、​札剌勒丁 莎勒壇​​ヂヤラルヂン シヨルタン​ ​罕篾里克​​カンメリク​ ​二人​​フタリ​を​欣都︀思​​ヒンドス​の​地​​チ​に​到​​イタ​るまで​追​​オ​ひて、​札剌勒丁 莎勒壇​​ヂヤラルヂン シヨルタン​ ​罕篾里克​​カンメリク​ ​二人​​フタリ​を​失​​ウシナ​ひて、​欣都︀思​​ヒンドス​の​中​​ナカ​に​到​​イタ​るまで​尋​​タヅ​ねて、[​得​​エ​]かねて​回​​カヘ​りて、​欣都︀思​​ヒンドス​の​傍邊​​カタホトリ​の​民​​タミ​を​虜︀​​トラ​へて、​多​​オホ​き​駱駝​​ラクダ​ ​多​​オホ​き​薛兒客思​​セルケス​(勢を去りたる山羊)を​取​​ト​りて​來​​キ​ぬ。(親征錄に曰く「遂遣八剌 那顏兵急追之、不獲、因大携忻都︀ 人民之半而還。」集史に曰く「者︀剌亦兒の別剌 那顏は、朶兒伯と共に、者︀剌列丁を追ひて印度に入りたれども、ゆくへ知れず、必亞の城を取り、木勒壇まで進みたり。その地に石なく、筏を作り石を運び來て、攻具 備はりたれども、暑︀さ烈しきが爲に捨てて去り、剌和兒 珀沙兀兒 篾里克普兒を侵掠して回り、羊の年の夏 成吉思 汗 別嚕安に避暑︀し居る時、別剌 等 至れり。」

​必亞​​ビア​

必亞は、必亞思 河の畔にありし城なるべし。

​木勒壇​​ムルタン​

木勒壇は、唐 西域記の茂羅三部盧にして徹納卜 河の左邊にあり。印度のいと古き名城にして、阿歷散迭兒 東征の頃は、馬里 國の都︀となり、希臘 人のそれを攻め落す時、阿歷散迭兒は重傷を受けたりき。城內に莊嚴なる日天の祠ありて、西域記に「其日天像、鑄以黃金、飾以奇寶、靈鑑幽通、神︀功潛被、五 印度 國諸︀王豪族、莫此捨施珍寶、建立福︀舍」とありしが、その祠堂は、木噶勒 帝 奧郞在卜に廢せられたり。

​剌和兒​​ラホル​

剌和兒は、喇毘 河の左邊にあり。西域記にその名 見えざれども、玄奘の、磔迦 國より至那僕底 國に往く時、磔迦の東界なる大城に一月 畱まれりと、慈恩 三藏 法師 傳に見えたるは、その城ならんと、堪寧哈姆 云へり。剌和兒の壯麗なる都︀となれるは、木噶勒 朝の時なり。

​珀沙兀兒​​ペシヤウル​

珀沙兀兒は、健駄羅の迦膩色迦 王の故都︀なる布路沙布邏にて、喀不勒の東 孩巴兒 山口の東麓に