Page:成吉思汗実録.pdf/187

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いかんぞ​殺︀​​コロ​さしめん」と​云​​イ​ひ、​廢​​ス​つる​能​​アタ​はずして「​命​​イノチ​を​助​​タスケ​かり​逃去​​ニゲサ​れ」と​云​​イ​ひ、​挑​​イド​み​鬭​​タヽカ​ひ​禦​​フセ​ぎ​合​​ア​ひたり、​我​​ワレ​。​今​​イマ​ ​死​​シ​なしめられば、​死​​シ​なん。​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​恩賜​​オンシ​せられば、​力​​チカラ​を​與​​アタ​へん」と​云​​イ​へり。​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​合荅黑 巴阿禿兒​​カダク バアトル​の​言​​コトバ​を​善​​ヨ​しとして、​勅​​ミコト​あるに「​正主​​セイシユ​の​君​​キミ​を​廢​​ス​つる​能​​アタ​はずして、「​命​​イノチ​を​助​​タスケ​かり​逃去​​ニゲサ​れ」と​云​​イ​ひ、​禦​​フセ​ぎ​合​​ア​ひたる​丈夫​​ヲトコ​にて​彼​​カレ​はあらずや。​伴​​トモ​となるべき​人​​ヒト​なり」と​云​​イ​ひて、​恩賜​​オンシ​して​死​​シ​なしめず、

​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の遺族の​賞賜​​シヤウシ​

​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の​命​​イノチ​(戦死)の​故​​ユヱ​に、​合荅黑 巴阿禿兒​​カダク バアトル​を​百人​​ヒヤクニン​の​只兒斤​​ヂルギン​を​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の​妻子​​ツマコ​に[​與​​アタ​へ、「​彼等​​カレラ​に]​力​​チカラ​を​與​​アタ​へよ。​男​​ヲトコ​の​子​​コ​ ​生​​ウマ​れば、​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の​子孫​​シソン​の​子孫​​シソン​に​至​​イタ​るまで​隨​​シタガ​ひて​力​​チカラ​を​與​​アタ​へよ。​女​​メ​の​子​​コ​ ​生​​ウマ​れば、その​父母​​チヽハヽ​は​己​​オノ​が​意​​コヽロ​にて​勿​​ナ​ ​嫁​​トツ​がせそ。​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の​妻子​​ツマコ​の​前後​​マヘウシロ​に​仕​​ツカ​へよ」と​恩賜​​オンシ​し​勅​​ミコト​ありき。​忽亦勒荅兒 薛禪​​クイルダル セチエン​の​口​​クチ​を​先​​マヅ​ ​開​​ヒラ​きたるが​故​​ユヱ​に、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は​恩賜​​オンシ​して​勅​​ミコト​あるに「​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の​子孫​​シソン​の​子孫​​シソン​に​至​​イタ​るまで、​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の​功​​イサヲ​の​故​​ユヱ​に、​遺族​​ヰゾク​の​賞賜​​シヤウシ​を​取​​ト​り​居​​ヰ​よ」と​勅​​ミコト​ありき。(

​畏荅兒​​ウイダル​の​傳​​デン​の​原據​​ゲンキヨ​

姚燧の牧庵 文集に、平章 忙兀公 博羅驩の碑あり。本書の文と相 證する所あるが故に、下に引かん。博羅驩は、忽亦勒荅兒の曾孫にして、世祖︀の朝の平章政事なり。「畏荅而與兄 畏翼、俱事太祖︀。時 太疇 盛彊、畏翼 謀往歸之。畏荅而 苦止曰「帝何負汝而爲是。」竟去。追之不復。雪泣而歸、請獨宣力。帝貳之曰「汝兄與眾皆往、獨畱何爲。」乃折矢誓曰「所不帝、有此矢。」帝感其誠、易名 屑廛、約爲按荅。帝與王罕於 曷剌眞、彼眾我寡。敕兀魯 一軍先發。其將 朮徹帶 玩鞭馬鬣應。屑廛 請曰「戰猶鑿也。匪斧不入。我先爲鑿。」顧帝訣曰「臣萬一不還、三黃頭兒將聖慮者︀。」辰入疾戰、大敗其軍、晡猶逐北。勅使之。乃旋師、免冑爲殿。腦中流矢、帝親爲傳葯、寢與同帳、踰月而卒。帝曰「曩 只里吉 爲敵將、實禦屑廛。其以只里吉 民 百戶屑廛 子、世世歲賜勿絕。」其 族散亡者︀、收完之、卽封北方萬家」。元史 畏荅兒の傳は、全くこの文を採り、只 畏荅而を改めて畏荅兒とし屑廛を薛禪とし、按荅を按達とし、曷剌眞を哈剌眞とし、朮徹帶を朮徹台とし、只里吉を只里吉實と誤れり。又 太疇は泰赤兀惕、兀魯は兀魯兀惕、曷剌眞は合剌合勒只惕、朮徹帶は主兒扯歹なり。只里吉は、卽ち只兒斤なるを、誤りて敵將の名とせり。又この戰は、日暮に始まりて霎時にして決したるを、辰より晡に至るとせるは、非なり。合荅黑 勇士を忙兀惕 氏に賜はれる事につきて、李文田は「以其 忠誠 衞上、使忽亦勒荅兒 家、得其死力也」と云へり。然るに元史は、この碑文に據り、只里吉の抗敵したるが爲に賜はれりと書けるに由り、高寶銓〈[#「銓」は底本では「詮」]〉は、之を駁して「刺忽亦勒荅兒馬者︀、初非只兒斤。且太祖︀方嘉合荅黑 可以做伴、則其所以與忽亦勒荅兒 家者︀、李說爲長。元史 云云、淺矣」と云へるは、甚だ當れり。


成吉思 汗 實錄 卷の六 終り。