Page:成吉思汗実録.pdf/134

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​合​​ア​ひて​叫​​サケ​びて、​晩​​クレ​になられて、「あす​戰​​タヽカ​はん」と​言​​イ​ひて、​退​​シリゾ​きて​大軍​​タイグン​に​合​​ア​ひ​宿​​ヤド​れり。


§143(04:35:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


風雨の​呪​​マジナヒ​

 ​明日​​アス​ ​行​​ユ​かしめて、​近​​チカ​づきて​闊亦田​​コイテン​(親征錄 元史​闕亦壇​​ケイタン​)に​對陣​​タイヂン​して、​下​​クダ​りつ​上​​ノボ​りつ​挑​​イド​み​合​​ア​ひ​勢揃​​セイゾロヘ​し​合​​ア​ひて​居​​ヲ​る​時​​トキ​、​彼等​​カレラ​、​不亦嚕黑 罕​​ブイルク カン​、​忽都︀合​​クドカ​ ​二人​​フタリ​、​呪​​マジナヒ​(蒙語​札荅​​ヂヤダ​)を​知​​シ​りて​居​​ヲ​りき。​呪​​マジナヒ​したるに、​風雨​​アラシ​(蒙語​札荅​​ヂヤダ​、呪ひて起したる風雨)​翻​​ヒルガヘ​りて、​彼等​​カレラ​の​上​​ウヘ​に​風雨​​アラシ​となりき。​彼等​​カレラ​ ​行​​ユ​く​能​​アタ​はずして​溝​​ミゾ​の​裏​​ウチ​に​倒​​タフ​るゝと、「​上帝​​アマツカミ​に​愛​​メグ​まれざりき、​我等​​ワレラ​」と​言​​イ​ひ​合​​ア​ひて​潰​​ツイ​えけり。(札荅の事は、輟耕錄 卷四 に「往往見蒙古人之禱雨者︀、惟取淨水一盆、浸石子數枚而已。其大者︀若雞卵、小者︀不等。然後默持密呪、將石子淘漉玩弄。如此良久、輒有雨。石子、名曰鮓荅、乃走獸腹中所產。獨牛馬者︀最妙。恐亦是牛黃狗寶之屬耳。」金幼孜の北征錄に「永樂八年五月二十八日、發雙淸源、午至河、縛筏渡水。得一木板、上有虜︀字。譯史讀之、乃祈︀雨之言也。虜︀語謂之札達、華言云風雨。蓋虜︀中有此術也。」東華錄に載せたる康熙 五十六年の勅喩に「書册所載、有所語雷斧雷楔。大約得深林者︀皆石、得平原者︀皆銅。朕所得最多。將小石一塊、置於泉水之、卽可祈︀雨。蒙語謂之査達齊、書冊則曰資達也。」方觀承の松溪章詩の注に「蒙古西域祈︀雨、以楂達石水中之、輒驗。楂達生駝羊腹中。圓者︀如卵、扁者︀如虎脛。在腎以鸚鵡嘴者︀良、色有黃白。駝羊有此、則漸羸瘁。生剖得者︀尤靈」などあり。この迷信は、古に起りて今も變はらずにありと見ゆ。


§144(04:36:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


諸︀部の潰走

 ​乃蠻​​ナイマン​の​不亦嚕黑 罕​​ブイルク カン​は、​阿勒台 山​​アルタイ ザン​の​前​​マヘ​なる​兀魯黑塔黑​​ウルクタク​(親征錄​兀魯塔 山​​ウルタ ザン​)を​指​​サ​し、​離​​ハナ​れ​動​​ウゴ​きけり。(阿勒台 山は、古の金山、淸 一統志の阿爾泰 山にして、綿亙 二千餘里、その最大幹は、烏布薩 諾爾の西北に在り。淸露 兩國の界をなし、科布多 城の北に當れり。古出兀惕 乃蠻の王庭のありし兀魯黑塔黑の地は、阿勒台 山の前 卽ち南に在りと云へば、卽ち今の科布多 地方なるべし。)​篾兒乞惕​​メルキト​の​脫黑脫阿​​トクトア​の​子​​コ​ ​忽禿​​クト​は、​薛涼格 河​​セレンゲ ガハ​を​指​​サ​し​動​​ウゴ​きけり。​斡亦喇惕​​オイラト​の​忽都︀合 別乞​​クドカ ベキ​は、​林​​ハヤシ​を​爭​​アラソ​ひ、​失思吉思​​シスギス​を​指​​サ​し​動​​ウゴ​きけり。​泰赤兀惕​​タイチウト​の​阿兀出 巴阿禿兒​​アウチユ バアトル​