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Page:成吉思汗実録.pdf/131

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​馬乘​​ウマノリ​して、​彼​​カレ​の​二​​フタ​つの​領​​エリ​を​交​​マジ​へ​扼​​オサ​へて、​彼​​カレ​の​脊梁​​セボネ​を​膝​​ヒザ​に​据​​ス​ゑて​折​​ヲ​りて​遣​​ヤ​りたり。​不哩 孛可​​ブリ ボコ​は、​脊梁​​セボネ​を​折​​ヲ​られて​言​​イ​はく「​別勒古台​​ベルグタイ​に​勝​​カ​たれ(負け)ざるなりき、​我​​ワレ​。​合罕​​カガン​を​恐​​オソ​れて、​佯​​イツハ​り​倒​​タフ​れ​猶豫​​タメラ​ひて、​命​​イノチ​を​取​​ト​らせたり、​我​​ワレ​」と​云​​イ​ふと、​死​​ス​にて​去​​サ​りぬ。​別勒古台​​ベルグタイ​は、​彼​​カレ​の​脊梁​​セボネ​を​扯​​ヒ​き​折​​ヲ​ると、​引摺​​ヒキズ​りて​除​​ノ​けて​去​​サ​りぬ。​合不勒 罕​​カブル カン​の​七人​​ナヽタリ​の​子​​コ​の​兄​​アニ​ ​斡勤 巴兒合黑​​オキン バルカク​ありき。​次​​ツギ​に​巴兒壇 巴阿禿兒​​バルタン バアトル​ありき。その​子​​コ​ ​也速該 巴阿禿兒​​エスガイ バアトル​ありき。(明譯 この間に下の句あり。​也速該 子​​エスガイノ コハ​、​卽​​スナハチ​​是​​ナリ​​太祖︀​​タイソ​。)​彼​​カレ​(巴兒壇)の​次​​ツギ​に​忽禿黑圖 蒙列兒​​クトクト モンレル​(卷一の忽禿黑禿 蒙古兒)ありき。その​子​​コ​ ​不哩​​ブリ​ありき。​取​​ト​り​合​​ア​ひ(物を爭ひ)て、​巴兒壇 巴阿禿兒​​バルタン バアトル​の​子​​コ​より​隔​​ヘダ​​客禿思​たり、​巴兒合黑​​バルカク​の​勇​​ユウ​ある​子​​コ​らに​伴​​トモ​となれるが​爲​​タメ​に、​不哩 孛可​​ブリ ボコ​、​國​​クニ​の​孛可​​ボコ​、​別勒古台​​ベルグタイ​に​脊梁​​セボネ​を​折​​ヲ​られて​死​​シ​にたり。


§141(04:30:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


十一部の​札木合​​ヂヤムカ​ ​推戴​​スヰタイ​

 その​後​​ノチ​ ​雞​​ニハトリ​の​年​​トシ​(我が土御門 天皇 建仁 元年 辛酉、金の章宗 泰和 元年、宋の寧宗 嘉奉 元年、西紀 一二〇一年、成吉思 汗 四十歲の時)、​合塔斤​​カタギン​、​撒勒只兀惕​​サルヂウト​(親征錄 元史​哈荅斤​​ハタギン​、​散只兀​​サンヂウ​)​一​​ヒト​つになりて、​合塔斤​​カタギン​の​巴忽搠囉吉​​バクシユロギ​が​頭​​カシラ​たる​合塔斤​​カタギン​、​撒勒只兀惕​​サルヂウト​の​赤兒吉歹 巴阿禿兒​​チルギタイ バアトル​が​頭​​カシラ​たる[​撒勒只兀惕​​サルヂウト​]は、​朶兒邊​​ドルベン​(親征錄 元史​朶魯班​​ドルバン​)、​塔塔兒​​タタル​に​睦​​ムツ​び​合​​ア​ひて、​朶兒邊​​ドルベン​の​合只溫 別乞​​カヂウン ベキ​が​頭​​カシラ​たるもの、​塔塔兒​​タタル​の​阿勒赤 塔塔兒​​アルチ タタル​(塔塔兒の分部の名。親征錄 元史​案赤 塔塔兒​​アンチ タタル​)の​札隣不合​​ヂヤンブリカ​〈[#「札隣 不合」は底本では「札隣不合」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§141(04:30:05)の漢︀字音訳「札鄰-不合」に倣い二語に分割]〉が​頭​​カシラ​たるもの、​亦乞咧思​​イキレス​(親征錄 元史​亦乞剌思​​イキラス​)の​土格馬合​​ドゲマカ​が​頭​​カシラ​たるもの、​翁吉喇惕​​オンギラト​(親征錄 元史​弘吉剌​​ホンギラ​)の​迭兒格克 額篾勒​​デルゲク エメル​