合阿台 荅兒麻剌カアタイ ダルマラ。この三ミつの篾兒乞惕メルキトは、前サキの訶額侖 額客ホエルン エケを赤列都︀チレド(卷一の也客 赤列都︀)より奪ウバひて取トられきとて、今イマその怨ウラミを霽ハラしに來キつるなりき。彼カの篾兒乞惕メルキト 言イひ合アへらく「訶額侖ホエルンの讎アタを報ムクいんと、今イマ 彼カレの婦人ヲミナどもを取トれり。讎アタを報ムクいたり、我等ワレラ」と云イひ合アひて、不兒罕 獄ブルカン ダケより降オりて己オノが家家イヘイヘに回カヘりたり。
§103(02:49:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
不兒罕 嶽ブルカン ダケに救はれたる帖木眞テムヂンの感謝
帖木眞テムヂンは、彼カの三ミつの篾兒乞惕メルキト、實マコトに己オノが家家イヘイヘに回カヘれりや伏フしたりやと、別勒古台ベルグタイ、孛斡兒出ボオルチユ、者︀勒篾ヂエルメ 三人ミタリを、篾兒乞惕メルキトの後シリヘより偵ウカヾひ、三ミたび宿ヤドり随シタガはせて、篾兒乞惕メルキトに離ハナれさせて、帖木眞テムヂンは、不兒罕ブルカンの上ウヘより下オりて、その胸ムネを椎ウちて言イはく「豁阿黑臣 額客ゴアクチン エケが(嫗の大功ありし故に母と貴びたるなり)鼬イタチ鎖耶合となりて聽キ莎那思きたる故ユヱに、銀鼠ギンソ兀年となりて見ミ兀者︀たる故ユヱに、本モト不敦の身ミを躱ノガ不嚕兀敦れんと、絆ホダシ不吉牙せる(足 繋ぎて轡なき)馬ウマにて、鹿シカ不忽の徑コミチを徑ワタりて、楡ニレ不兒合孫の條エダの家イヘを家作ヤヅクらんと、不兒罕ブルカンの上ウヘに上ノボりき、我ワレ。不兒罕ブルカンの御獄ミタケに、蝨シラミ孛額速の如ゴトき命イノチ不勒只兀勒荅を匿カクされたり、我ワレ。獨ヒトリ合黑察罕の命イノチを惜ヲシ合赤喇まんと、一ヒト合黑察つの馬ウマにて、罕荅孫カンダスン(獸の名)の徑コミチを徑ワタりて、柳ヤナギ合勒合孫の枝エダの家イヘを家作ヤヅクらんと、御嶽ミタケ合勒敦の上ウヘに上ノボりき、我ワレ。御嶽ミタケ合勒敦 不兒罕ブルカン に蟻アリ合兒察の如ゴトき命イノチを救スク合勒合剌黑荅はれたるぞ、我ワレ。甚イタく恐オソれさせられたり、我ワレ。不兒罕ブルカンの御嶽ミタケを朝アサ馬納合兒ごとに祭マツ馬里牙速孩れ、日ヒ兀都︀兒ごとに禱イノ斡赤速孩れ。我ワが子孫シソン兀嚕渾の子孫シソン兀嚕黑 覺オボ兀合禿孩え居ヲれ」とて、日ヒを迎ムカへて、帶オビを項ウナジ に掛カけて、帽バウを手テ(左手)に持モち添ソへて、手テ(右手)に胸ムネを椎ウちて、日に[向ムカひ]九コヽノたび跪ヒザマヅきて、灌奠クワンテン(明譯將ヲ㆓馬妳ウマノチヽ子㆒灑奠ソヽギソナヘ)祈︀禱キタウを捧サヽげたり。
成吉思 汗 實錄 卷の二 終り。