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南國、呂私即日本屬國云、按周厓疑朱厓之訛」(敍源の部)
尙ほ自らは次の如く附說して居る。
「我東傳種、始于英宗乙酉(乾隆三十年西紀一七六五)來自日本、蓋香藷也。若山藷則未之見焉」(敍源の部)
「嘗聞甘藷自閩淅漸及內地、將不復以水旱爲憂。念得此物傅種東國、其利益有不 可勝者。顧恨無由致之。適有故人子隨信使往日本。余以是勤托之。明年春余夜坐、 姜生啓賢在側。余言信使之歸其得藷種以來、未可必吾意。萊釜間必有傳種者。徃 彼窮搜或可得。恨無人能徃耳。姜生慨然請往、四月辭去七月晦用木櫃貯蓄種以來 云。是信使行所購求也。余治庭前地種之。至八九月蔓葉甚盛、幾遍數步。旣而隣 人有與萊伯親熟者、使作書盛言藷事。萊伯果力圖之。明年藷種多至京。又多留植 其地。而吾庭中所植不善、收藏不可作種。求得數本於萊伯家分種之。藷種之傳於 國中始此。卽乙西歲(英祖乙酉、乾隆三十年西紀一七六五)也。(麗藻の部)
以上の如く「海槎日記」中に現はれた孝子といふ語は意義孝行に同じく、孝子麻又は