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Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/220

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る享保年間の事で、主として井戶平左衙門ママと靑木昆陽との力によるものなることは 誰しも周知の事である。然るに之が對馬に傳來したのは正德五年(西紀一七一五)の頃であつ て、元祿十一年を去る僅々十八年後の事である。對馬に於ける甘藷傳來の如何に古 かつたかは此の一事を以ても知ることが出來よう。

扨て甘藷が如何なる經路を取つて對馬に移入せられたかは甚だ興味ある問題であ る。元來對馬は平地少なく、土地瘠せ、水田にも乏しいから、一度飢饉の威を逞しうす る事あらば、庶民皆手を束ねて死を待つより外無かつた。此の民の患苦を救濟すべ き大使命を帶んで世に現はれたのは實に陶山訥庵先生其の人であつた。訥庵は儒者 として世人の尊崇を受けたのみならず、偉大なる經世家として記念すべき大事業を 遺したのである。彼れ嘗て宮崎安貞の「農業全書」を繙き、安貞の甘藷に關する記事 を見、對州に於ける饉災を防ぐには甘藷の效の著しかるべきを覺り、直ちに之を薩摩 に求めしめた。然るに當時薩藩では他に之を傳へることを禁じて居たため、之を得ん とする訥庵の苦心は想像するに難くなかつた。其の最後の手段として彼はかみ縣郡あがた