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Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/221

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ばら村の農民原田三郞右衛門なるものを薩摩に遣し、辛うじて之を求めることが出來 た。一說には三郞右衛門が夜陰に乘じて盜み去つたといはれて居る。兎に角對州に 甘藷の移入せられたのは、全く訥庵先生と三郞右衛門の功といふ事が出來よう。今 日も久原村の入口に「甘藷翁原田君之碑」とて一基の石碑が建てられて居る(明治三十八年五井上義臣撰書)。 其の文意を抄錄すると「本島は土地瘠せ、農產物に乏しく、不幸にして飢饉の 見舞ふことあらば、みす目も當てられぬ慘狀を呈するのである。翁は如何にか して之を救はんとし、藩主に請うて遠く薩摩に渡り、始めて甘藷を採り來り、之を 久原の地に試植したが、培養時を失して好結果を収めることが出來なかつた。不撓 の翁は之に懲りず、再び薩摩に航して之を求め、再植よく其の素志を達し、爾來本 島の常食物となるに至つた」とある。三郞右衞門が薩摩に赴き、種藷を求めんとす る苦心は實に斯の如くであつたのである。

然るに當時の模樣につき異說がある。卽ち元祿の末に琉球薩摩に甘藷傳來し、長崎 が始めて種子を薩摩に求めた。當時對馬には此の藷が無かつたから、平山左吉・內