Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/171

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者の高敎を仰ぐことは、學問上極めて重大にして意義ある事柄ではあるが、問題が 餘りに廣汎に亘り、本篇の趣旨に合せぬ虞があるから、玆では單に今日方言として 存するものの中、新羅時代乃至其の言語にして古語の系統を引けるものと認むべき 若干の語彙に就き說明を加へようと思ふ。

慶尙道方言に關し、古人にして觀察を下したものが一二無いではない。正祖朝の學 者李德懋の著はせる「靑莊館全書」中「新羅方言」と題して

「官長と爲り、能く方言に習はば俗情に通ずべし。余初め尙州に到りし時吏隷の 言解すべからず。蓋し新羅方言なり。余の言吏隷亦曉る能はず、事謬錯多し。幾 くもなく余方言に習熟し、遂に方言を以て民に臨む。嘗て糴を收めて倉に納む。 余試みに官隷に分付して曰く、居穉完からざれば羅洛必ず漏る。請以を以て簸𩗺 して然る後に沙暢歸を堅く縛り、丁支間に納めよと。適ま京客坐に在り、口を掩 うて笑つて曰く、是れ何の語ぞと。余一一釋訓して曰く、居穉は苫なり、羅洛は 稻なり、請伊は箕なり、沙暢歸は藁索なり、丁支間は庫なりと。」