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ンチン時代に出來たのをカラマン時代に修築したのが即ち是であります、所々にビザンチン式の痕跡が見へます、(寫眞略之)

カラマンは海抜四千〇五十尺に達し南にタウルスを負て居るので氣候冱寒です、十二月九日の朝、寒暖計華氏の十四度を示しました、これは私の三年有餘の族行中で經驗しました最低温度です勿論温帯地方のことですから寒いと云つても多寡の知れたものです、

それから今度はカラマンを立つて西北の方コニアに参りました此の間も非常に曠漠たる原野でありまして、唯細かい短い草が一面に生えて居る斗りで、多くの羊や牛の諸處に群居するのを見ましたが耕作したる畑などはありませぬ、此の間は百十粁で、汽車で三時間餘を費します

コニアは海抜三千六百尺の高地の上に在る都會の地で、即ちコニア州の首府です。人ロは約四萬五千と云ひます、即ち是は昔のイコニユームであります、イコニユームは非常に古い都であるので、いつから出來たと云ふはつきりした年代は分つて居りませぬ、それで昔希臘羅馬の時に此の地方は丁度リカオニアと云つた土地に當る、さうして此の當時多島海岸にあるエフエソスと云ふ希臘の殖民地の繁昌した頃は此の希臘からして、内地を經てこちらの波斯及東方亜細亜へ旅行するには必ずイコニユームを通つたもので。夫が爲に非常に繁昌を極めました、今日でも僅ながら希臘羅馬時代の遺物が存在して居ります、それから追々と時代が經過して一千〇九十九年に至り、セルヂユークトルコが亜細亜の方からこちらに這入つて來て此所にスルタン國を拵へた、即ちそれがルーム國であります、此のルーム國はイコニウムを以て首府となし、こゝに澤山の建築を起しました、此の

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