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 (小亞細亞横斷旅行談)七二(72)

セルヂユーク人は不思議にも建築に對しては獨特の創造力を持つて居りまして、終に一種の流派を大成しました。此のルーム國内に於て今日なほ重要なるセルヂユーク式建築の遺物を有する處は第一にコニアを中心とし、東の方ではスルタンハン、アクセライ、ニグデ、カイザリエ、シウアスよりヂヤルベクルまでに及び、西の方はべイシェヒール、アクシェヒールを始として、遠くキュタヤ、エスキシエヒールに及び、南はカラマン北はアンゴラに到つて居る、要するにセルヂユーク式は建築史上慥かに一の特殊なるスタイルとして取扱はれ得べき性質のものであります、

それからイコニウムは十字軍の時になつてフレデリツク、バルバロツサの爲に一時占領されましたが、バルバロツサの死んだ後に之を回復してルーム國が再び起ちました、その後間もなく成吉思汗に併呑せられ、終に元の附庸國となりました、それで千三百〇七年最後の王アラウッヂンの死後國土分裂して前きに御話したカラマンの世の中になつたのであります、でありますからコニアの遺物と云ふものは大凡千百年から千三百年に至る二百年間の遺物であります、其の二百年間に出來た遺物の中で一番に重要な遺物は即ちアクロポリスでありまして市の中央に小高い丘があります、其所が王城であつた所であります、此の寫眞は王城の門の遺跡でありまして、下に獅子の彫刻がある、(第二版)是は王城の中にある寺の寫眞で此の寺は國王の名に因りアラウッヂン寺と呼んで居ります、即ち千二百十九年から千二百九十年の間に出來たのであります、是は其の寺即モスクの周圍の壁の上の彫刻の寫眞です、此の幾何學的の模様のやり方が面白い、それから此のアーチが面白い、是も同じくさうであります、是は此のアーチの輪廓に斯う云ふ風に輪が互にからんだや