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 (小亞細亞横斷旅行談)七〇(70)

なるソルタン國の首府は即ち此處でありました、併し此のカラマン國は千四百七十二年頃でありましたがオスマントルコのスルタン、ムハンマツド第二の爲に併呑されて、今日では引績いて土耳其領になつて居るのでありますが、なほカラマン王國時代の遺物が今に残つて居ります、夫は紀元後三百年から千四百年までの間の遺物であります、即ち最古のものはビザンチン式、後のものはセルヂユーク式であります、此のセルヂユーク式の事に付きましては未だ餘り世の中に紹介されて居ないやうに考へますから今日は特にセルヂユークの藝術の要領を御話して置きたいと思ひます、

それで此所に在ります寫眞はハツニエ、メドレツセーと云ふものです、メドレツセーと云ふのは回教徒の學校のことであります、此のメドレツセーのやり方は中央に中庭を取りまして其の周圍に學生の居る所を取り、正面に一段高い講堂を取り中庭の中央に噴水を置くのが一般の風習でありましたが、此の寫眞は講堂の横の部屋の戸でありまして此の寫眞は入口の門であります、之をよく御覧になると非常に細かな彫刻が施してあります、で此の模樣は亜刺比亜系統でありまして、然かも一層東洋に近い趣味を有して居ります、即ち波斯趣味を非常に持つて居る所が面白い、即ち所謂セルヂユーク式です、是から先きに追ひセルヂユーク式の遺物が出て來ますから尚ほそれに付て追ひ特色を御話しやうと思ひます、此の寫眞も同じくカラマンにあるメドレツセ的の寺でエミル、ムサ、ジヤーミと云ひます、丸い細高い塔が附属して居ます次にイマレツトジヤーミ、これもメドレツセ的で波斯的の装飾紋様がある、それから是はカラマンの古城であります、是はビザ