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地學雑誌第拾八秊第貳百拾八號 明治四十年二月十五日發行

小亞細亞横斷旅行談(承前)
工學博士 伊東忠太

さてエレグリを出發し滊車に由て順路カラマンに行きました、滊車の出來ませぬ中はカラマンを經由せずに、一直線にコニアに行く路がありましたが今は殆と廢道になつてしまいました、エレグリ、カラマン間は茫々たる平野で所々に死火山が點出されて居る。就中カラマンの北に當て黒岳カラダーグ高く聳へ山中にビンビルキリセと名くる故趾があります、即ち百一寺と云ふ意味でビザンチン時代の古建築が残て居るそうですが、遂に訪問を果しませんでした

カラマンはエレグリの西南八十五粁、滊車で二時間半程の處で、今日では非常に荒れ果て、人口一萬未満でありますが、歴史的には頗る有名です、即ち昔はラランダと云つた所であります、中古に回教徒である所のセルヂユークと云ふ土耳其人が這入つて來て所謂ルーム國を建てコニアに都したのでありますが、此のルーム國が十四世紀の初に滅びて其の土地が十に分裂した、其の中で此のカラマンが一番強くつて、其領土を擴げて、遙かに北の方までも行つたことがあります、此の強大

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