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Page:小亞細亞横斷旅行談 01.pdf/9

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ス河に架けてある橋であります、此の橋は頗る壮大なもので、羅馬のジヤステニアン時代の残片が所々に遺つて居ります、又サロス河の右岸にはハルン、エルラシードの古城の趾(A.D.782)が残つて居ります、それから此のアダナから東北の方に古跡が澤山あるのですが、それは訪問する時間がありませぬから再びタルスースに引返してこゝからタウルス越を試みました、

タルスースから内地に這入るにはタウルス越をするので、大變困難な路でありますが、今日は馬車が通じます、即ちタルスースからエレグリと云ふ處まで馬車で行くので、エレグリから君士坦丁堡までは滊車が全通して居るから樂であります、エレグリ、タルスース間は日本里数で約三十九里、是は馬車を驅て行くと通例三日間、私の行きましたのは日の短い時でありましたので、四日間を費しました、このタウルス越は小亜細亜から叙利亜へ通ずる唯一の道路で昔しサイラス王、歴山大王、シセロ、ハルン、エル、ラシード、十字軍、イブラヒム、パシヤ等皆仝し道を通りました、私は明治三十七年十二月三日にタルスースを出發し一名の護衛兵及從僕と一行三人一輌の馬車を驅て前進しました、それで第一日目にはタルスースを出發しキドヌス河に沿ふて上ぼりました、行くこと三里許で山路にかゝり、古への羅馬街道と離合して登ります、凡そ十里許りも行て此日はメザルオルクに一泊しました、素より完全な宿屋と云ふものはないので、只だ泥と板とで圍つた、アバラ屋へ用意の寝具を敷て寐る丈けでその困難なことは、支那内地の尤もヒドイ處よりも一層ヒドイのです、况や氷點以下の寒風は四方から吹き込んで來るので、終宵夢を結び、兼ねました、翌日またキドヌス河に沿ふて進みギユレク、ボガーヅと云ふ處へ行くとこゝは分水嶺で海抜四千二百尺所謂シリシアン、ゲー

 (小亞細亞横斷旅行談)九(9)