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論説 (小亞細亞横斷旅行談)七(7)
トと稱せられ、古來重要な關門でイブラヒム、パシヤの築いた要塞が今も残つて居ります、東羅馬では教徒の侵入を防禦する爲、こゝに城堡を築いたことがあるそうです、この分水嶺を越えると今度はサロス河の水界に出ます、一つの谷川を下つてサロス河の本流へ出た所がボザンジと云ふ處です、こゝからカイザリエへ分岐する路があります、又サロス河を溯て高山峻嶺の間を進みアク、ケプリ(白橋)で一泊しました、こゝの宿(即ちハンと稱するもの)は尤もヒドイアバラ屋で土間の上へ藁蓆一枚敷いて寢ましたが夜半氷點以下四度の寒風に包圍され戦慄しながら夜を明しました、尤も盛に火を焚きましたが、野宿仝様ですから一向に効能がありません、翌日は仝し谷川に沿ふて急峻なる阪を登りました、雪は追ひ〳〵に現はれ來り、終には一面純白の銀世界となりました、此日はチフテハンを過ぎバヤーグに一泊しましたが例の通りの次第で温度は氷點以下六度に降りました、この邊から地勢漸く開いて高原の形となり、先日來の高山峻嶺は多くは眼下に見へますが、獨りブルガル岳は盆々高く、巍々堂々として群山の上に君臨して居ります、この奥にブルガルマデンと云ふ村があり、カイマカムが居て鑛山の監督をして居るそうです、
翌日又進んでウルーキシラと云ふ村を過ぎました、こゝは人家二三十もあり、タルスース以來始ての村らしい村です、今まで通過した村は只一つ或は二三のハンがある許りで住民と云ふてはハンの番人丈けで外には誰も居らない、全く村の体裁はないのでありました、このウルーキシラは古へのフアウスチノボリスであると考へられて居ます、即ちマルクス、アウレリウスの造つた所で女王フアウスチナが此處で死んだ爲にこの名を得たと云ふことです、この邊は山水の景色に富んで