Page:尋常小學國史 上巻 1934.pdf/24

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くわが國からははなれてしまつたのである。けれども、唐とは、この後も、つきあひをやめるやうなことはなかつた。 国内の政治を改めなさつた これから、天皇は御心を一筋に國内の政治にお向けになり、まづ都を近江にうつされ、また鎌足にいひつけて、いろいろ新しい法令を定めさせられた。 大宝律令 この法令は、第四十二代文武天皇の大宝の御代になつて大いに改められ、大宝律令といつて、ながく政治の本となつたのである。 鎌足のてがら 中臣鎌足は、さきに蘇我氏をほろぼしてから、二十年余りの長い間、真心をこめて朝廷にお仕へ申しあげ、てがらが多かったので、天皇はいつも重くお用ひになつてゐた。鎌足が大病にかゝつた時には、おそれ多くも、その家に行幸をなさつて、したしく病気をおいたはりになり、「何でも望むことがあるなら遠慮なく申せ」とおほせられた。鎌足は、深く天皇の御恩に感激して、「私のやうなおろかな身に、何のお望み申しあげることがございませう。たゞ一つ、どうか私の葬儀をてあつくなさらないやう、お願ひ申しあげます。」とお答へもうしあげた。しかし、天皇は、やがて鎌足に最も高い位をお授けになり、また藤原という姓をお与へになつた。 藤原氏の始 後に栄えた藤原氏は、この時に始まったのである。鎌足は、大和の談山神社にまつられている。