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鹿兒島縣史 第一巻/第三編 國司時代/第一章 大化改新と二國一島の設置

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第三編 國司時代

第一章 大化改新と二國一島の設置

 孝徳天皇の大化二年正月、改新の詔の宣布せられたる所謂大化の改新は、我が國史上の一大轉換期であつて、蘇我氏の滅亡と共に、先づ閥族政治を廢して、左右大臣以下の職を置き、以つて門閥打破、人才登用の道を開き、又國司を諸國に遣はして中央集權の基を立て、王士王民主義によつて土地人民を収公し、班田収授の法を施行せられ、其の他、舊制を改めて革新の政治が諸方面に亘つて行はれた事は明治維新にも比すべきである。 しかし、斯くの如き大改革は一朝一夕に完成すべき筈なきのみならず、猶ほ新政に不滿を抱く者もあり、一方に蝦夷征伐、對新羅問題等切迫せる事件があつた爲に、改新の政治は孝徳天皇・斎明天皇の御代に於て未だ完成するに至らず、爾來、天智天皇から持統天皇の御代に及んで、幾多制度の改磨を經て、文武天皇の大寶律令の制定によつて整頓するに至つた。大化改新の後國郡制定の際、薩隅の地は盡く日向國の管轄に屬して居たのであるが、續日本紀に、大寶二年、薩摩多褹の隼人が平定された後に、「初めて戸を校し吏を置く」とあつて、こゝに於て、薩摩の地方に戸籍法が施行される事となり、更に下つて天平二年三月の太宰府の言上にも、大隅・薩摩の兩國の百姓、建國以來、未だ曾つて班田せず、其の所有の田、悉く是れ墾田にて、相承して佃り、改むるを願はない、若し班授の制を布けば、恐らく喧訴するであらう、よつて舊來のまゝ自佃せしむる事となつたとある位であつて、他の國々の如く、百姓の墾田を収めて口分田を授くるに至つたのは、漸く延暦十九年十二月の事である。斯くの御問状態であつた故、當初薩隅兩國が日向國に屬して居たと云つても、尚ほ特別な行政地域として取扱はれて居たのである。

 日向國を北から南に進んだ中央の經營の力は、一方有明灣沿岸、大隅平原の方に開拓の歩を進められると共に、他方大淀川を溯つて川内川の上流に向つたことゝ推測することが出來るであらう、菱刈柵の存在の如きも、東から西へと薩摩地方に進んだ中央の力のあとを示すものと見る可きであらう。

 然るに、續日本紀文武天皇四年の條に、衣評督・同助督の名あり、又、大寶二年十月の條には唱更國司とあり、和銅二年には隼人郡司の名が見出されるのを以て見れば、この頃漸く薩摩半島方面の經營も進んで行つたことゝ思はれる。 隼人郡司の如きは、或は阿部比羅夫が蝦夷征伐に當つて、淳代・津輕・後方羊蹄等に郡家を置いたと云ふものと同一類のものと考へてよからう。 督・助督は即ち後の大領・少領で、多くは隼人中の豪族であつたことは、隼人を率ゐて上京した魅帥酋帥を郡司とも記してゐることによつても窺ふことが出來る。 かくして中央の勢力に接し、その統御に服した地方に郡を設け、更に國として獨立した行政區轄となつて行つたと見て差閊なからう。

 かく薩隅兩國は、初め日向國に屬し、郡制は早くから施かれたやうであるが、なほ郡の外に地方の汎稱として大隅と阿多との語が屢、用ひられ、その多くは隼人の冠辭としてであるが、持統天皇の六年に、沙門を大隅と阿多とに遣はすとあるが如きは、明らかに土地名として用ひられてゐる。 然るに續日本紀になると、大隅に對して薩摩の語が用ひられて居る、これは間もなく薩摩國が創置された爲であらうが、また、薩摩國の中心が阿多郡より薩摩郡方面に移動した事を表はして居るのでなからうか。 但し、薩摩の名は、これより前日本書紀孝徳天皇白雉四年の條に、「薩麻之曲、竹島之門」と載せ、又文武天皇四年六月の條に、「薩末比賣・久賣・波豆」と見えるが、未だ國名ではなく、また大寶二年四月の條に、筑紫七國の名が見えて居る故、當時も未だ薩摩地方は日向國に屬して居たのである。尤も右の薩麻、或は薩末の文字を充てゝゐる處が何處の邊を指す明瞭ではないが、恐らく後の薩摩郡の地方を指すものではなからう。 蓋し薩摩の國の中心は、可成り早くから阿多を去り、薩摩地方に移つたもので、舊稱によりて阿多とも云ひ、又は薩摩なる號も用ひて居たものであらう。 國造本紀に薩摩國造を擧げ、新撰姓氏録に阿多御手犬養氏を薩摩若相樂の後として居るのを参照すべきである。

 薩摩國としては、續日本紀大寶二年八月の條に、薩摩多褹を征討し、戸を校へ吏を置く事を載せ、同年十月の條に唱更國司の語が見え、「今薩摩國也」と註するのが最も早く見えるものである。 唱更とは隼人の義で、上文に薩摩隼人とある故、唱更國司と載せたのであらうが、大寶二年八月の條に、「校戸置吏」とある語句には、國司を置く事も含まれて居ることも考へられる。而して、明白に薩摩と見ゆるは、其の後八年を經過した和銅二年六月の勅に、「薩摩多禰兩國司」とある故、大體その以前に一國となつた譯である。 而してその各郡の建置に就いては今明確に出來ないが、續日本紀の文武天皇四年の條にある衣評は後の頴娃郡と推論して差閊ないであらうが、和銅二年の條に見える隼人郡は、何處の邊の郡で、その後如何になつたか判明しないが、或は薩摩郡の邊でなからうか。 併し正倉院文書天平八年薩摩國正税帳や唐大和上東征傳及び續日本紀等には、高城郡・河邊郡・阿多郡及び甑島郡の名があり、更に正税帳の内容からも十三郡と推論出來、律書殘篇には明らかに薩摩國十三郡と記載されて居る、九條公爵家本延喜式及び和名抄にも十三郡となつてゐることから見れば、奈良朝時代以來十三郡が置かれたのである。

〈 〔補説〕 古事記傳には「隼人司義解に、隼人者分番上下、一年爲限云々とある意を以て、其ころ唱更とは書たりしなり」とあり、三國名勝圖會所引の本田親孚の説には、「初めて國を建、阿多隼人の號を停め、薩摩の隼人と稱したる歳なれば、となへあらたまりかはる國の守といふこゝろにて、唱更とは記すなるべし」と云つてゐるが、唱更の文字は史記の呉王濞の傳に、卒踐更、■興平買とあるを、正義に、踐更、若今唱更行更者也と解すものに依つたものであらう。

三國名勝圖會に唱更國司の如きは、隼人國司とあるのと同義なりと稱し、上句に先是征薩摩時と記し、下句に唱更國司言すとあるは、上句薩摩の字を承る故唱更國司は即ち薩摩隼人國司の略語ならんと。 〉多褹國は多禰國とも書き、その創置は詳かでないが、日本書紀天武天皇十年の條に、中央から派遣の使人が多禰國圖を奉つた事が見えるが、未だ國司を置いたとは考へられぬ。 蓋し薩摩と殆んど同時代に一國となつたものであらう。その郡は既に續日本紀天平五年の條に熊毛・益救・能滿の三郡の名が載せられ、天長元年に益救郡を馭謨郡に併せた事が見えてゐるから、或は奈良朝時代から四郡の設置を見たものであらう。

 大隅國の創置は、以上の二國よりもなほ遅れ、和銅六年四月に、日向國から肝坏・贈於・大隅・姶羅の四郡を割いて、初めて大隅國を置いたのである。 その後、天平勝寶七歳五月、菱刈村の浮浪九百三十餘人が郡家を建てん事を願つて許されたから、次で一般の郡として獨立し、これが即ち菱刈郡となつたであらう。 而して律書殘篇には五郡とあるが、日本後紀延暦二十三年三月の條に桑原郡の名が見えるから、奈良朝時代の末には六郡となつてゐたであらう。

 而して郡は從來評と書かれ、督は大領、助督は少領に相當する、郡は大領・少領の支配下にあつたが、この郡司は、當時他の諸國に於いても多くの譜第の者を探用したのであるから、この地方に於ても勿論、多く地方譜第の豪族がこれになつたのである。 この郡の下には、もと里なる行政區劃があつたが、これは後に郷と改められ、郷内の部落を指して里と云ふ様になつた。

 大寶令の制度によれば、里は五十戸と定められて居たが、戸は一家を指すのでなく、五等親を包含する大家族であつたから、家數としては其の數倍に達するのが常である。 薩摩・大隅兩國の郷里に就いては、律書殘篇に、

薩摩國  郡十三 郷廿五 里六十 去京行程十二日
大隅國  郡 五 郷十九 里廿七 去京行程十三日

と見える。 此の薩摩・大隅兩國の郷里制度については詳かに知ること能はざるも、この律書殘篇の記載は、ほゞ信用して差閊ないものである。 郷里は戸が基礎となつて居るのである故、その設置は戸籍法の施かれた時で、遅くとも前述大寶二年の戸を校し、吏を置いた時に始まつたと考へられる。 蓋し吏は郷長を指すのであらう。

 薩摩の國府は高城郡の地に在つて、今の薩摩郡川内町の可愛山陵より西北の屋形ヶ原と云ふのが、國司の役所、即ち國衙の遺蹟であらうと考へられて居る。 その地は方三四町で平坦、南の一面のみ高さ一丈餘、切岸の如くなつて居るが、蓋し國衙 は此の上に建てられ、南面して居たと考へられる。 他國にも斯様な地形の場所に國衙が在り、その郷を高家郷と呼ばれて居る所から想像して、當國高城の郡名も此の國衙の地から起つたもので、恐らく古くは此の邊まで薩摩郡内であつたかと思われる。 後世、紀綱亂れ、國衙の官人が國政を専らにするに及んで、多くは東郷に在つて國政を執り、之れを國司城と稱した。

 大隅の國府は桑原郡國分郷府中村即ち今の姶良郡國分町府中にあつて、守公神社に隣接した地に國衙の遺蹟が残つて居る。 守公神社は諸國々衙の地に多く鎮座するシュミヤに外ならぬ故、此の地が國衙の遺蹟である事は疑ひがない。

 多褹國府の地は島北、國上方向との二説あるが、或は西之表附近で、甲女川の甲は國府コフの訛とも考へられる。


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