雪之丞変化/毒蛇の巣

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毒蛇の巣[編集]

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世の中が、凶作よ、不作よと、騒々しいためばかりとも思われぬが、このごろずッと不入りつづき、毎月、蓋があけられるどころの話ではなく、やっと開けても、桟敷に何組、土間に幾十人と、舞台から頭がかぞえられるようなありさまで、十日と待たず千秋楽になってしまうのが、癖のようになっていた中村座、上方まら招いた菊之丞一行が加入しての、懸命の働きが功を奏して、珍しく、その月がもう日が無くなっても、押すな押すなの大入り続きなのだ。
いうまでもなく、菊之丞一行中の、雪之丞の、天から授かったような美色、これまでの役者に見られなかった品の良さ、一挙手、一投足につきまとっている不思議な妖気――と、いったようなのが、この成功の八分を齎(もたら)したのは、誰にも判っていた。
師匠菊之丞の得意は勿論、最初は、
――何しろ上方の、それも緞帳(どんちょう)から成り上った器用役者、あざとくって、けれん沢山で見ちゃあいられねえ――
とか、
――ま、見たところは、美しいですが、とんと場違いで、近海の鯛に馴れた舌には、ちと頂けませんな。
とか、尤もらしい顔をして、蔭口を吐いてた、いわゆる、通人の連中も、いつとはなしに歎化してしまって、昨日の舌の根を、今日は、どう乾かしたものか。
――いやもう、かの役、至極絶妙、極上上吉、歌舞伎道、創まっての逸品とでも申しましょうか
――あれの舞台をじっと見ているてえと、どうもおたげえに、江戸ッ子の泥ッくささが、小ッ恥かしくってならなくなるから妙だ。あれに付き合っている、座つきの役者たちは、みんなピチピチした連中なはずなんだが、あれに並ぶと、残念ながら、月とすッぽん――たまげやしたねえ。
――何とかして、あの役者を、足止めにして、今は若い身を病気で引っ込んでいる。江戸一の立役者と、並べて眺めてみたいものだな。
なぞと、打ってかえした評判が、渦を巻きはじめる。
それで、目先きの利いた中村座の関係者は、師弟を口説いて、現在の滝夜叉譚(たきやしゃばなし)を、打てるだけ打って、おっかぶせて、師走狂言(しわすきょうげん)
「忠臣蔵――初春まで、同じ顔ぶれで待ち越して、最近の興行界に、記録を残して見たい――」
と、いうような筋を運んだが、その実、師匠の菊之丞も、そのほかの弟子も要(い)らぬ。ただ雪之丞一人だけを、未来永劫、江戸に取ってしまいたいという肚なのだ。
座方も、贔屓も、肚は合った。
日ごろは、芸界になぞ、縁どおい一般世界までが、こうなると、煽られたように、
――雪之丞とかが、御当地に居付くだろうか――ッて?当り木だよ。公方さまのお膝元じゃあないか。日本中の結構なもの、立派なもの、みんな大江戸にあつまるのが、天下の定法なんだ。
――へ、へ、へ、その中には、お前さんのように、結構で、立派で、何とも見ッともなくって、正面(まとも)に見られねえ馬づらもまじってはいるが――
――人を!いい加減にしねえと胴突くぜ!
と、いった工合で、雪之丞、人気を振り捨て兼ねて、却て迷惑げに見えたが、しかし、師弟とも、肚では、
――大敵多勢を持つ身に、用意の月日をあたえて下さること、一に神仏の御利益――
と、涙が出るほどうれしいのだ。


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雪之丞畢生の大願は、これまでの経過から言えば、徐々に確実に運んでゆけば、必ず十分な成果を挙げることが出来ると信じられるのだった。
もはや、土部三斎に対する、第一段の復讐工作は、完了したと言ってもいいではないか?
公方の寵愛をほしいままにして父兄栄達の原動力をなしていると言われる、浪路の存在は、大奥から消えてしまった。そして、浪路が、公方の寵愛を振り捨てて、姿を隠してしまったとなれば、三斎一家に対する柳営の気持が、どんなに変って来るかは、言うまでもないことである。
世の中の辛酸も、道理も理解することの出来ぬ、公方というような、最大特権階級の我儘者の、愛憎が、どのように変化の甚だしいものであるかは説明を持たない。
この不幸をきっかけにして、土部三斎や、横山、浜川と言ったような、奸妄暴慾(かんねいぼうよく)な武士たちは、だんだんに、雪之丞の計略の罠(わな)に陥ちてゆくであろう。
父親の見世の、子飼の手代の癖に、当の主人を死地におとしいれた、長崎屋三郎兵衛はどうだ?
雪之丞が、孤軒老師の訓えのままに投げた、恐ろしい暗示によって動いた、長い間、悪謀をともにして来た、言わば親友の広海屋の詐略のために、ふたたび起つあたわぬ打撃をうけてしまった。
して、長崎屋は、あの豺狼(さいろう)に似た根性を以て、当然、ごく最近、今度はあべこべに広海屋に嚙みつくであろう。
――現世の栄華を、いのちよりも、魂よりも貴く思う人達から、まず、一ばん大切なものを奪い取って、零落の淵に沈ませ、恥辱をあたえ、さんざんに苦しみ悩ませてから、必殺の刃で、一思いに一命を絶ってやってこそほんとうの復讐なのだ。一どきに殺してしまうには、あの人達の罪業は、あまりに深い――
そう思っている雪之丞、師走興行に、忠臣蔵が、出るということを聴いて、これも天の配剤なのだろうと考えた。
――赤穂の義士方も、あれだけの辛抱があればこそ、残すなく望みを遂げた。わしも、構えて、あわてまいぞ。
あわてたなら、一人二人を仆すことが出来ても、五人の敵を、剰(あま)さず亡ぼすことは不可能であろう。
そんな覚悟で、もう、あと三日で、千秋楽という舞台を踏んで、楽屋に戻ると、「田圃、と、著名した文が届けられていた。今夜、急用で打合せしたいことがあるゆえ、遅く、旅宿をたずねる――と、いう意味のことを、知らせていた。
――田圃――
と、いえば、浅草の闇太郎に相違なかった。
が、その処を読みおわらないうちに、男衆がはいって来て、膝を突くと、
「親方、広海屋さんから――と、いって、お迎えのかごが待っておりますが――」
広海屋と聴いて、雪之丞の心は緊張した。その後、長崎屋との争論(でいり)は、どんなことになったであろう――自分が投げてやった、毒菓子に、ガブリとむしゃぶりついた二人の男の成りゆきが聴きたかった。
闇太郎の文もあり、いつもならそう手軽くうけ引きはしなかったのだろうに。
「広海屋さんは、どこにおいでなのだろう?」
「柳ばしの、ろ半で、おまちなそうで厶います」


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それなら、ろ半とやらで、ほんの短い間、広海屋と逢って、それから、闇太郎の急用というのを聴くために、宿へ戻っても遅くはないであろう――と、雪之丞は、そんな風に考えたので、舞台化粧をザッと落して、着類をあらためると、迎えのかごというのに、躊躇(ちゅうちょ)なく身を委ねた。
かごと一緒に、使いに来た男は、小柄な、はしっこそうな若者だった。乗物の脇に引き添って、
「かごの衆、おまち兼ねだから、いそいでくれよ」
「合点だ」
雪之丞は、かごに揺られながら、今夜、広海屋がどんな土産話を聴かせるであろうかを、楽しんでいる。
彼の想像では、広海屋は、あのように、きっぱりと長崎屋と手切れをした以上は、思い切って圧迫を加えたであろうし、長崎屋は長崎屋で、自棄(やけ)になって、どんな非常手段でも取って、対抗しようとするであろう――
――現に、江戸の、お米の値段は、このごろめっきり下ったそうな――長崎屋一味の店前(さき)に、石つぶてを投げる者さえあるというはなし――長崎屋も、黙ってはいまい。あの長虫のような執拗さで、広海屋に嚙みついてゆくであろうが、それを相手がどう受けるか――
二頭の猛獣が、四ツに組んでお互のからだに牙を突き入れたときこそ、雪之丞が、今度こそ秘めた破邪の剣を下すべきときなのだ。
――一あし一あし、わしは目あてに近づいてゆく。
はっきりと、勝利を予想して、彼の胸は躍るのだ。
そうしたことを考えている間に、かごは、どこまで来たであろうか?もう大分、長いこと乗っているのに、柳ばしに着いた容子もない。
ふと、気がつくと、かごかきの足音が違っている。草鞋が土を踏んでいるひびきではない。
――おや、橋を渡っているが――それも、長い橋を――
雪之丞は、いぶかしさを感じた。
耳をすまして、少し考えこんだが、
「かご屋さん、これは、柳ばしへゆくのではないの?」
「へえ、それが模様換えになったので――」
と、かご脇に引き添って、駆けていた若ものが、何でも無げに答えた。
「模様換えというと――」
雪之丞、かすかな不安を覚えたものの、
「わたしは、柳ばしろ半の出店が、深川にありますんでね――へえ」
かごは、いつか、橋を渡り切って、かまわず、急いで行く。
川風が、荒っぽく、垂れの外に吹きすぎるのをきって走ってゆく。
やがて、傾斜を下りて、人気はなれたあたりへ出たらしかった。
すると、とある曲り角を、曲ったと思うと、そこで、二、三人の足音が、乗物にまつわって来た。
――はて?
はじめて、雪之丞は、一種の殺気が、自分を押しつつむのを感じた。
――早まったかな?わしには、敵がないわけではなかった。
敵を敵をと、狙う身、あべこべに狙うものがあることをとかく、忘れがちになるのは当然だった。


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――ふうむ、先の奴をまぜて、一人、二人、三人、四人、付いたな。気息(いき)の使方で見ると、一通り、武芸の心得もある奴らしいが――
雪之丞は、とにかく、何かしら、陥穴(おとしあな)のようなものに、落ち込んでしまったと、ハッキリ思い知った上は、気を強めて、難場を切り抜けるだけの心支度をする外はないのだった。
――いつもいつも、一松斎先生や、孤軒先生から伺っていた通り、敵を知り、おのれを知らねば、闘争(たたかい)に勝つことは出来ぬ。まず以て直接(じか)に自分にまつわっている人々が、どこまでの用意をして置くかを調べて、それによって、背後(うしろ)の立て物を見抜くが第一――
四人も、ここまで出張っていて、なお、手を出さず、ひそまり返って、乗物の進むにまかせているので、想察すれば、このかごの行く先にこそ、この人達をあやつり使っている大物が、待っているとしか思われなかった。
――やはり、三斎隠居であろうか?浪路どのの失踪が、わしの細工と見て取って、窮命するつもりでもあるのであろうか?どうも、そうは思われぬが――隠居は、わしをまだまだ信じ切ッている。不思議な、非理なわけだが、わしほどの芸を持ったものに、女を奪って隠すような、いやしい私心は無いものと信じ切っている。どうしても、わしには、この四人の人形をあやつる糸が、三斎の手の中から伸びているものとは考えられない。三斎でないと、して見れば、何ものだろう?
雪之丞の頭の中では、突嗟(とっさ)にこうした懸念が、火花を散らしながら渦を巻いた。
――まさか、わし程のものの出迎役を引きうける奴ばら、いかに未熟でも、途中でかごから抜けさせるような能なし猿ばかりではあるまい。が――
と、雪之丞は、いつもの凄まじい沈着を失わずに、隠せぬ口調で、だしぬけにいいかけた。
「かご脇の方々――いずれまで、お連れを願わねばならぬのでござりますか?ちと揺られくたびれましたが――」
しいんと、黙りこくって、答えるものがない。
――相当の心構だな。
雪之丞は、敵が、挑みに応じて、荒ら立って来るのを望んだ。そこに、彼はたやすく活路を見いだし、左まで精力を費すこと無しに、身の自由を得られることを信じるのだった。
しかし、案外、相手が静粛を保っているので、追っかけて、
「お許しなされずとも、当方より、乗物を捨てまするぞ!」
グッと、身を斜に、かごに、重みをかけて、今にも、やわ作りの乗物を、踏み抜こうやに見せかけたが、相手は、なおも、応(いら)わなかった。
雪之丞は、まざまざと、四本の刀の切ッさきが、垂れの外で、自分を目がけて、差しつけられているのを感知した。
――こやつ等、左まで心得のある者どもでは無いであろう――うしろで、糸を引く者が、わしの力を、十分に知っていて、大事に大事を取らせていると見える――
と、考えたとき、パアッと、明るみが、彼の胸を射し渡した。
――おッ!そうだ!門倉だ!平馬だ!あの人こそ、わしの肉を食いたいとまで思っている随一人だ。
雪之丞の目に、あの無月の夜の、山ノ宿田圃路の一件がうかんで来るのだった。


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――そうか、やはり門倉平馬の細工だったのか?それで、広海屋の名を使ったのも読めた。
と、雪之丞は、胸に呟いた。
彼は、まだ、軽業お初が――あの強烈暴虐な執念の女鬼が、鉄心庵から、島抜け法印を盛りつぶして、抜け出し、ふたたび浮世に舞い戻って、怖ろしい計画を立てていることに就いては、何等の報告も受けていなかったので、表面の敵を、只、平馬一人とかぞえているのだった。
――それなら、面白い。
と、大胆不敵な、この女装の剣者は、独(ひと)り言(ご)つ。
――日頃から、邪智ぶかい平馬、一度ならず後れを取ったことゆえ、今度は、多勢の手をかりて、わしをこの世から、あの世の闇に送ってしまおうとするのであろう――恐らくは、江戸で聴えた、若手の剣客が、こぞってあの男の味方をしているかも知れない。では、一つ関東風の、鋭い切っ先きというものを、今夜は充分に賞翫(しょうがん)して見ようか?
雪之丞は、人間がこの世に生れ出た以上、どんな成りゆきで、強敵を向うにまわさねばならぬかを、知りすぎるほど知っている。そして、剣技と、士魂とを、一松斎や孤軒から訓えこまれて、その敵が、多ければ多いほど、心を逞(たく)ましくすべきだということを覚悟している。一個の男子に取っては、いわば、敵は多いほどよかった。そういう場合にだけ、人間の精神力、能力――一切の力は、限りなく発揮されるはずなのだ。
勿論、雪之丞とても、人、今夜、これから自らが瀕(のぞ)むべき危険を想像すると、一種の胸さわぎのようなものは感じるのだ。
しかし、彼は、古来の、秀抜な剣士の、遺して行った歴史に力づけられずにはいなかった。
すべての剣聖は、言いのこしていた。
――百人の敵も、一度に、彼等の力を、一人の我に注ぐことは出来ぬ。百の力は、結局、一と一との比で、自分に向って来るのだ。恐れることはない。一人一人、それを倒せ。何でもないことだ。
そして、そうした言葉を言い残している古人達は、みんな、実際に於いて、決闘上の、大場面を――大傑作を演じて見せているのだった。
雪之丞は、自分に言った。
――門倉平馬の力で、まとめられるほどの敵が、何百人あろうと、それに打ち負かされるようで、わしの悲願が成し遂げられようか?わしの敵どもは、もっともっと力の強い人達だ。
タ、タ、タ、タ――
と、小刻みに、そういううちにも、かごかきの足どりは進んでゆく。
雪之丞は、乗物の四囲に、鋭い刀尖(とうせん)が、青い星の光を宿しながら、つきつけられているのを感じている。
――抜ければ抜けられる。
と、彼は思う。
彼が、かごの中で、激しく身じろぎしたとき、ぐうっと、通して来る刃は、多くて四本――その四本の刀尖の交叉する一点を中心に四ツの空間があるのだった。彼ほどの身のさばきのすばやい人間に取っては、その空間は、あまりに大きすぎる位の安全地帯。
そして、その安全地帯に、一度身を置いた次の瞬間には、彼の全身は、乗物の外に飛び出してしまっているだろう。
が、彼は、動かなかった。騒がずに、平馬の目の前に、この身を運んでゆかせたかったのだ。


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雪之丞を載せたかごは、なおもそうそうと、夜の北風が吹く、田圃みちを進んでゆく。
雪之丞は、心の用意が済んだので、水のように澄み切った気持で背をもたせたまま、目を半眼に閉じて、揺られるままに身を任せている。
やがて、かごかきの足どりが、少しゆるんで、ゆるやかな傾斜にかかったようだ。
どこかで、微かに人ごえがしている。
と、雪之丞は半眼にしていた目をパチリと開けた。
人ごえが、やんで、しいんとしたが間もなく、かごわきで、
「止まれ、下せ」
と、錆びた声が――
その命令で、乗物が、とんと下りる。
「珍客、召し連れ申したが、いかがいたしましょうか?」
と、同じこえが、云った。
「御苦労、御苦労」
案にたがわず、門倉平馬の声音(こわね)だ。
それが、いくらか、高みから聴えるところを見ると、大きな家の、縁端での挨拶らしかった。
「そこに、珍客のための、席も設けてある。それに、招じるがよいであろう」
「しからば――」
と、錆ごえが答えて、
「おのおの、御用意――」
と、言ったと思うと、サッと、急に、かごの垂れが上げられる。
「河原者、雪之丞、出い!」
錆声が、野太く叫んだ。
雪之丞は、すさまじい刀尖が、左右から突きつけられているのを見た。そして、次に、そこが古寺の荒庭で、鈍い灯火(あかり)に照らされたあたりに、荒ごもが一枚布かれているのを見た。
が、まだ、縁の上に、いかなる人々が並んでいるのか、見ることが出来ない。
「出い!雪之丞!」
と、命令が、ふたたび叫ばれた。
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、美しい、朗かにさえひびく声で、雪之丞は笑った。
「これは、まあ、とんだ御念の入った、ご案内ぶり――」
そして、冷たい調子で、

:「わたくしは、まだ、わが手で、自分の履きものを、揃えたことがありませぬ。かご屋、はき物を――」

「何をつべこべ!」
と、刀尖をつきつけている青年武士が、上釣った調子で嚇した。
「たわ言を並べおるうちに、首が飛ぶぞ。それが怖ろしくば、早う出い!」
「ほ、ほ、首が飛ぶは、怖ろしいに相違ありませぬが、はだしにては、下に下りられませぬ」
「黙れ!出い!」
「こなたの申すこと、おきき入れなくば、わたくしも、おいいつけを、おことわりいたすばかり――決して、この乗ものの外へ、お手向いなしには出ませぬ!」
雪之丞は、相変らず、笑みさえふくめた声でいった。
若侍は、怒った。
「おのれ、血迷うたか!嚇しではないぞ――この刃は――」
「さようでござりましょうとも――立派なお武家が、役者風情をお連れなさるのに、よほど怖うのうては、これ程のお支度はなされますまい」


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落着き払った、雪之丞の嘲笑に憤怒を煽り立てられたような、青年(わかもの)の一人が、
「おのれッ!いわせて置けば!」
と、押えかけて、ぐッと、刀を突ッかけて来るのを、かわして、
「ほ、ほ、これはまた、性急(せっかち)なお方!」
と、笑って見せて、その手首を、やんわりと、握りしめた雪之丞、ぐいと、引きつけて、狼狽(あわ)てて、身を退(ひ)こうとする相手の力に、きかせるように、スルリと、かごから出てしまったので、たとえ、出しなを斬ってしまおうと、企んでいたとて、きっかけは、失われてしまったのだ。
「聴いたにまさる、しぶとい奴だ!さあそれへ坐れ!」
ほかの若僧たち、太刀の切ッさきで、追うように、荒薦(あらごも)に坐らせようとする。
「これは、御丁寧すぎる、おもてなし――」
にんまりと、花のような唇を綻ばして、まるで、舞台にいるときにも似たしとやかさで、くの字なりに居くずれて、片手を突いて、じっと、見上げた目の行く先、鋭い燭の灯に照された、縁の上――
思い設けたとおり、そこに、威を張って、肩をそびやかし、三白眼を、光らせて控えているのが、門倉平馬――別に雪之丞をおどろかすには足りない。
左右に、五人ばかり、これも、いくらか鍛錬は積んでいるに相違ない、面ずれというのに、小鬢、小額を、抜け上らせた、連中が、敵意と、好奇心とに、目を剝くようにして押し並んでいる。
その中には、いつぞや、山ノ宿の出逢いで、呆気なく、当て仆された、あの浅草の武術家もいるに相違なかった。
「雪、びっくりいたしたか?」
平馬は、皺枯れた、毒々しい調子を浴びせて来た。
雪之丞は、相変らず、焦立ちも見せず、含笑(わら)って、
「最初は、ちょいとばかり、気に病みましたが、どうせ、気がつかずにはいませなんだ――矢を射かけられれば、射手の在りかはわかりますからねえ」
むしろ、旧交に、なんの害意も持ち合わず、めぐり合ったときでもあるような、しずかな答。
その語調に、はじめて、この不思議な存在を認識したであろう武術者たちの目がおに、ありありと、驚異のいろがうかぶ。
彼等は、平馬から、雪之丞の本質について、聴かされてはいても、その美しさ、その妖しさ、その悠揚さ、その鋭尖(えいせん)さを、目に見耳に知り、五体に感知するのは今が最初で、しかも、相当の修行者であるとすれば、相手の一身に、みじん、隙も退け目もないのは、一瞥(べつ)で判ったであろう。
驚異ばかりか、恐怖さえ、漂うように見えた。
平馬は、のしかかるように、
「今宵こそ、雪、生きて、この場を、立ち去れると思うと違うぞ」
「ほんとうに、凄いようなところですこと」
と、女装の若っものは答えた。
「よくもまあ、お江戸には、こうした荒れ果てたお寺もあるものでござりますね――もっとも、川向う、お構いうちではありますまいけれど――相馬の古御所の、舞台よりもっと物ざびしいすさまじい景色――今度、いずれ、こういう背景で、何か演(し)て見とうござります」
彼は、笑みつづけていた。


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雪之丞の自若とした容子に、驚嘆の目をみはっていた一人が、傍の、肩の尖った男にいいかけた。
「なるほど、間柄、貴公から、雪之丞という奴、とんだばけ物と承っていたが、これは又、途方もない白徒(しろものだ」
間柄助次郎――これが浅草鳥越の道場持で、こないだ、安目に踏んで、手痛いあしらいを受けた人物だ。
――憎々しげに、雪之丞を睨(ね)め下したまま、
「いや、あの時に、拙者も門倉うじも、少し食べ酔いすぎていたからよ。今夜こそは、先日の恨みがある。拙者の手で、皮肉の破れるほど、打ち据えてやらなければ――」
「間柄うじ、そう思(おぼ)したら、遠慮のう、手を下されたがいいぞ」
と、平馬がいった。
「おお、許すとありゃ――」
と、助次郎、今夜も、かなり酔いがまわっているように見えたが、縁側から、履脱げに揃えてあった、庭下駄を突くかけて下りると大股に、雪之丞の側に歩み近づいて、
「これ、河原者!」
と、鉄扇を突きつけて、
「その方、身分ちがいの身を以て、生意気に、剣技を誇るなぞ、奇怪至極だ。今宵は、江戸剣者一同の名誉のため、さんざんな目に逢わせて、御府内に姿を現さんうようにいたしつかわすぞ」
そう、濁った声で、嚇したが、次の瞬間、
「えい!鉄扇を受けて見ろ」
と叫びながら、真向から額を狙って打ってかかった。
が、
「これは理不尽な――」
と、やさしい声が、答えたと思ったとき、助次郎の、右の利き腕がぐっとつかまれて、仰向けざまに引き据えられていた。
「あぶない、御冗談を――御冗談とは存じおっても、当方にも、手足がござりますゆえ、どこに当るかわかりませぬ――いい程になされた方が――」
と、冷たくいって、平馬を仰いで、
「只今、うけたまわれば、わたくしが、御当地におりますことは、御歴々の御名誉を傷(そこ)のうものとか――なぜで厶りましょう?わたくしは、御存知の通り、剣を握る力があるなぞと、他人(ひと)に明したことも厶りませぬが――」
「はは」
と、平馬が、艶の悪い脣で笑って、
「貴さま、先夜にいたせ、懷剣を抜いて、かよわい婦女子に、危害を加えようとしていたではないか?それが剣技を汚すものでなくて何だ?」
「かよわき女性とは、あの折の女子(おなご)のことで厶りますか?あの者は、あり来りの女ではありませぬ。底には底があることで――が、お言いわけは致しますまい――あれが、気に入らなんだと思召しなら、どうぞ、御歴々御一統にて、この雪之丞を御随意に――何分、朝の早い渡世をいたします身、あまり手間ひま取ってはおられませぬゆえ――」
雪之丞は、助次郎の二の腕を、ぐっと、指をまわして、摑み緊(し)めて置いて、突きはなす。
摑まれた腕が、痺れたが、つきはなされて助次郎、あわてて、よろよろと身を退いた。
「御成敗となら、早うお手をお下しなされませ――但し、雪之丞、生き物でござりますゆえ、お手向いはいたしますぞ」
「それ、おのおの!」
平馬が、並居る仲間を、顎で縁側から追い下すようにした。


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平馬に駆(か)り集められて、面白半分、雪之丞折檻の役割を、買って来た剣術使たち、
「かやつ、御存分に――」
と、主人に唆(そそ)のかされて、いずれも、太刀を引き寄せると、足袋はだしで、庭上に飛び下りた。
一人、二人、三人――五人の同勢だ。
その連中の先頭に立った間柄助次郎、いつぞやの恨みもあり、今また速まって不覚をとった不面目をそそごうとあせる。――
近づくのを、物の数でもなげに、笑みをふくんで眺めている雪之丞の前に、立ちはだかると、
「こりゃ、生れぞくない――今、門倉うじの仰せの通り、汚らわしい身を以て、剣法をもてあそぶ奴、生けては、この場を立たせぬのだ。覚悟するがいいぞ」
「ま」
と、雪之丞は、女のように、紅唇から、白い前歯をチラリとさせて、
「なるほど、生れぞくないと、おっしゃるとおり、男ながら、女のように装うている、役者風情のわたくしに、立派な剣者のあなたが、お負けなされては、他の聴えもいかが、お腹立ちは尤もながら、勝つものは、いつも勝ち、負けるものは、いつも敗れるが、術の道――生けて、立たせぬと仰せられても、立つ、立たぬは、わたくしの自由と思いますが――」
「おのれ、いわせて置けば!」
さすがに、刀に手はかけなかったが、摑み直した、南蛮鉄の鉄扇、一尺五寸もあるのを、振り上げざまに、
「えい!」
と打ち込んで来る。
「おたわむれを!」
と、雪之丞、なまめかしく居くずれたまま、上体を、ほんの少しかわしたのだが、見当がちがった助次郎、タ、タ、タ、たたらを踏んで、よろめいて来るのを、サッと、白い手を閃めかして、小腕を打つと、脆(もろ)くも取り落す鉄扇――
しずかに拾って、雪之丞、膝の上でまさぐったが、
「だから、何度おかかりになっても、同じことだと申し上げておりますのに――」
「ううむ」
憤怒と屈辱とに、ドス赤くなって、たまらず刀柄に手をかけて、鯉口を切ろうとする――仲間の剣客も、そのうしろに、今は、いつでも抜き放とう気勢――
そして、当の、雪之丞の背後、左右には、すでに、抜身の若侍が四人、退路をふさいでいるのだ。
これをしも、袋のねずみといわずして、何であろう。
たった一人、縁側に居のこった平馬、白目をギラギラと、すさまじく光らせて笑った。
「雪、虚勢は廃(よ)せ。なあ、貴さまと、拙者、あの一剋の一松斎の門では、、一つ鍋の飯を食うたことがあるのだ。肉をくらってもあきたらぬ奴と思ってはいても、そうして、逃げ場を失い、天にも地にも、途方に暮れるのを見ると、あわれになる。どうじゃ?もうこれまでの生利(なまき)きな気性を捨てて、拙者に詫びを入れ、酒席の酌でもいたすというなら、御一統に、拙者から、いのち乞いを願ってもつかわすぞ。どうじゃ?」
「それはまた、御親切な――わたくしも事は好みませんが、お詫びというて、何を詫びたらいいのでありますえ?」
雪之丞、刀葉林に坐るして、まるで平馬と差し向いで、世間ばなしでもしている台調(だいちょう)だ。


一〇[編集]

「何を詫びたらよいか?――と、訊くのか」
と、平馬は、馬鹿にした調子で、
「一たいに、貴さまが、江戸で舞台を踏むのなぞ、見るのも厭じゃ――まずこれまで、お目をけがしましてと、言って、役者をやめて、拙者の道場の下男にでもなれ――それから、従って、一松斎へ、貴さまも、縁切状をつけねばならぬ――」
平馬は、自分の烏滸(おこ)のこころに引きくらべて、雪之丞が、現在、平気をよそおってはいながらも、内心では生きた気持もないものと信じ、さんざんになぶってから、残忍なおしおきに逢わせてやろうと企らんでいるのだ。
雪之丞は、茶ばなしでもしているような、心易げな語韻(ごいん)で、
「それは困りましたね」
と、小首をかしげるようにしたが、
「わたしが役者になったのは、身ずぎ世すぎのためで、つまりは、どなたさまの下男になって、水を汲んだり、庭を掃いたりするのが、厭だったためでございます。それはもう、堅気衆から、御覧になったら、草履をつかもうと、天びんをかつごうと、河原者と一くちに、いわれる渡世をするよりも、いくらいいかわからないと思召すでしょうが、人は顔かたちの違うように、心持もちがっております。わたくしが、好きでえらんだなりわい、どなたが、何とおっしゃっても、止めるわけにはゆきかねます。むずかしいことは存じませぬが、古から、匹夫(ひっぷ)も、こころざしは奪うべからず――とか、ほ、ほ、ほ、生意気なことと、お笑いなされましょうが、わたしが、役者が、やめられるのは、あなたさまが、お武家がおやめになれぬのと、同じわけ――」
「なに、何と申す?では、拙者の剣法を、貴さま自身にひきくらべて、匹夫のこころざし――と申すのか!おのれ、無礼な!」
平馬、相手が、おどしに乗らぬので、業を煮やして、いら立って来た。
「ま、お腹立ちなされますな、ただ、たとえでございますよ」
「こりゃ、おのおの」
と、おのが武威を穢(けが)されもしたように、怺(こら)え性をなくして、平馬は叫んだ。
「むかしのおしみにて、おのおのから、いのち乞いをしてつかわそうと、これまで申すに、重ね重ね雑言を吐く奴――もはや、止めませぬん。さ、御存分に、撲って、蹴って、最後は、膾(なます)にしておやり下さい」
雪之丞は、いっそのこと、早く始末をつけてしまいたいのだ。宿には、闇太郎を待たせてあるし。用をすまして眠りたい。
――揃っておいでなさい。鉄扇一本で、おのおの方を、寝(やす)ませて上げますから――。
ニッコリ笑って、誘うように、からだ中に隙を見せたが、相手の五人武者――いずれも、敵を見る目ぐらいは持っているし、現在、軽はずみに、突ッかかって行った間柄助次郎の、失敗を目に見たことだから、先を切ッて、飛びかかってゆくものもない。
平馬は、わざと、平然たる態度をよそおおうとして、くわえていた銀煙管(ぎんぎせる)の吸口を、嚙みつぶすばかり、ギリギリと、嚙んで、雪之丞の退路を絶とうと、背後に押し並ばせた、おのが門弟どもに、あたるように、
「貴さまたち、何を愚図々々、それ、引ッ包んで、かまわぬ、斬れ!」
これは、生兵法(なまびょうほう)中の生兵法の手合、その中の瘋癲者(ふうてんもの)が、師匠に煽られて、
「えい!」
と、だしぬけに斜うしろから、斬りつけて来た。


一一[編集]

背後から、閃きめき落ちる白刃――鉄壁微塵と斬りつけて来るのを、振向きもせず、体を少しばかり捻った雪之丞、相手がかわされて、空を斬りながら、つンのめって、蔽いかぶさるようになった所を、その若者の袴腰に左手(ゆんで)をかけて、軽く突くと、
「アッ!」
と、あわてふためいた叫びを上げて、たたらを踏んで、前に並んだ五人武者の方へ、よろけて行く。
と、隙間あらせまじと、右と、左から、
「やッ!」
「とう!」
と、殆んど同時に、無鉄砲に振り下して来たが、いつ、雪之丞の手の鉄扇が働いたか、二人の敵、一人は眉間(みけん)を、一人は鳩尾(みぞおち)を、グッと衝かれて、う、うんとあおのけざまに、弓反りになって、ズーンとぶっ倒れる。
雪之丞は、その瞬間、もう荒薦(あらごも)の上に、なまめかしく居崩れてはいなかった。
いつ突っ立ったか、五人武者をまともに引きうけて、スラリと、右入身に、鉄扇を中段に、星の瞳をきらめかして、澄んだ、しかし激しい語調で、
「武芸の師と、自ら言われる方々が、それだけ押し並んで、子供ばかりを挨拶に出されるとは何ごと?折角のお招き、雪之丞、太刀すじが賞翫(しょうがん)いたしとうござります。いざ!」
臆せぬ挑戦だった。
間柄は、五人の中央でギリギリと、聴えるほど奥歯を嚙んだが、たった今の、あの不ざまな負け目を、一同に、まざまざと見られているのだから、こうまで言われては引っ込んではいられない。
「ばけ物!思い知れ!」
ギラリと、抜いた、幅広、部厚の大刀を、ぐうッと、上段に引き上げて、鉄(かな)棒のように硬く長いからだを、ずいずいと進めて来た。
と、同時に、あとの四人、いずれも、抜き連れた刀に、赤黒い灯火(ひかり)を宿させて、間柄助次郎の手にあまったら、ほんとうに、即座に斬り伏せようという気勢――もはや、弄び嘲って悪謔(あくぎゃく)をほしいままにしようなぞという、いたずら気は毛頭なかった。
――大敵だ!なるほど、門倉や間柄から聴かされていた通り、こやつまざまざと、わが目で見ねば信じ難いほどの業師――油断すれば、こちらが危い。その上、もし討洩(うちも)らして、やみやみ逃れられもしたら、もはや、剣の師として、江戸で標札が上げられぬことにもなろう――どうしても、斬ってしまわねば――
個人としては、雪之丞に、何の恩怨もない彼等だが、不届きな芸人を、さんざんに、剣の先でもてあそんだ末、試し斬りも自由という、平馬の面白おかしい誘引に乗って、ここまで来てしまった彼等、いのち賭けの仕事と、はじめて思い知って、みんな、唇の色が変った。
だが、それだけ、殺気が充実して、すべての面上、必殺の凄味があふれる。
それを見のがす雪之丞ではない。しかし、却て、やっとのことで、張合いが出て来たというように、
「おお、いよいよ、御一同、抜かれましたな――が、辻斬りで、年寄り子供を斬るとは、ちがって、お手向いいたす敵手(あいて)となると、お気おくれがなさるようで――」
花はずかしい美青年の唇の、どこからこんな冷罵が出るかと、思われるようだ。
が、一同、む、むと、気合をためているばかりだ。


一二[編集]

「間柄、殺(や)っておしまいなさい!」
その時、縁側から、平馬の狂犬(やまいぬ)を咬(け)しかけるような声――
間柄助次郎、そのひと声に、刺輪(しりん)で蹴られた悍馬(かんば)のように、もう、前後の見境もなく、
「だあッ!」
と、濁った呶号を発つと一緒に、躍り上ったと見えたが、上段に振りかぶっていた一刀を、雪之丞の真向から叩きつけて来た。
翻(かわ)すかと見えた雪之丞、居なりで、鉄扇で、ガッと受け止めたが、一尺五寸にも充たぬ扇が長刀の如く伸びたかのように、ジリジリと、助次郎の刀に捲(まき)ついて、
――ピーン――
と、怪しい響を立てたと思うと、相州物の大業ものが、不思議にも、鍔から八、九寸のところで、ゴキリと折れてしまった。
すわやと、おどろいて、退(しざ)とうとする助次郎の肩先に、
「御免!」
と、激しい打ちがはいる。
「む、ううむ」
助次郎は、肩口を抑えて、よろよろとよろめいて、しゃがんでしまった。
雪之丞の、この太刀折りの手練は、ほかの四人の剣者、見たことも、聴いたこともない。しかもそれが刹那の成りゆきで、助次郎、敗れたと見たら、すぐに斬り込もうと考えていた約束が違った。
けれども、その儘には差し置けない。
「行くぞう!」
と、右手(めて)の一人、グ、グ、グと、荒潮のように、押しつけて来て、
「おうッ!」
と、唸りざま、中段の刀を、からだごと突ッかける。
開いて、空をつかせた雪之丞、構が直(なお)らぬ間に、もう一人、
「とうッ!」
と、折り敷くように、胴を薙いで来るのを、ジーンと弾き返して、利き腕に、一撃、腕が折れたか、その場に腰をついてしまったのを見向きもせず、突き損じて、のめりかけた奴が、
「えい!」
と、大袈裟に斬って来たのを、肩先一寸で、かわして、
「む」
と、詰めた気合で、心臓に、鉄扇の尖が、真ッ直ぐにはいる。
残された二人、
「やッ!」
「や、やあッ!」
正面と、横合から、合打を覚悟のように、斬りかかったが、雪之丞は、その二本の刃が、触れ合わないうちに、どう潜ったか、潜り抜けて、ズン、ガッと、たった二打ち、一人は、後頭部を、一人は背を、打ち割られ、付き破られて、重なり合うように悶絶してしまった。
雪之丞は、しずかに、いつもの微笑の目を、縁側に、さすがに坐ってもいられず、虚勢を失って、靑ざめて、立ち上った平馬に送って、
「門倉さま、まいられるか?まいられねばなりますまい?」
平馬が、
「悪魔メ!」
と、股立を取って、刀を摑んだまま、庭上に飛び下りようとしたとき、
「門倉さん、お前さんまで、ぶッたおされるにも及びますまいよ」
破れ障子の蔭から、そう、艶妓(あだ)っぽい声をかけて、赤茶けた灯影が照す縁側に、すらりとした立姿を現した女があった。


一三[編集]

五人の友輩、幾人かの弟子どもを、刀を抜かず打ち倒した雪之丞の、あまりに昂然たる意気に、気圧(けお)されはしたが、退きもならず、勇気を振い起し、髪の毛を逆立てて、庭上を刎(は)ね下りようとした平馬を艶っぽく押し止めて、縁側に、スラリとした姿を現した一人の女性――
その姿を仰いだとき、さすがの雪之丞の紅唇(くちびる)から、
――アッ!
と、驚きの声がほとばしろうとした。
洗い髪にして、縞物(しまもの)の裾を長目に、素足を見せて、黒繻子の帯を引ッかけ結びにした、横櫛の女、いうまでもなく、軽業お初だ。
闇太郎の手で、殺しこそはせぬが、谷中の鉄心庵という古寺に、慥(たし)かに身の自由を失わせて、監禁しているという、そのお初が、何ごとぞ、今、雪之丞の前に、而も、門倉平馬の一味女頭目らしく、悠然として出現したのである。
瞠目(どうもく)した雪之丞を、お初、ふところ手で、柱に凭(もた)れかかるようにしたまま、冷たく笑って眺め下した。
「どうだい?女形(おやま)、驚いたかい?ふふ、鳩が豆鉄砲を食ったような、きょとんとした顔をしてサ――いい流行児(はやりっこ)が、日本一の人気者が、何て馬鹿らしい顔をして見せるのサ?」
そして、太刀を抜いて、立膝になっている平馬に、
「御覧なさいよ。先生がお手をお出しなさるにゃ及ばない――どこかの両性児(ふたなり)みたいな人は、あんまり仰天したので、そのまま石になってしまおうとしていますよ」
雪之丞は、不思議にも、これまでにない、ある戦慄に似たものを感じた。
――不思議だ。闇の親分ほどの人が、念を入れた手配を潜って、ぬけぬけとわしに顔を見せるとは!しかも、門倉平馬と、さも一味一体らしく――
その上、お初が、こちらの力量を、知りすぎるほど知っている癖に、仲間の多くはすでに戦闘力を失い、残っているのは平馬一人、その平馬が、いかに阿修羅のように荒れたとて、敵ではないにきまっているのに、さも、尚(なお)恃(たの)むところありげに、怯(おく)れも見せず佇(たたず)む姿には、必勝を期するものの自信がありありと見えるのだった。
――一たい、どうしたというのであろう?お初は、わしに勝ったと信じている――あの気持は、どこから来ているのか?
当然、雪之丞は、お初をかくも勢いづけている、背後の力というようなものを、想像して見ずにはいられない。それは、平馬一味というような存在に比べて、各段大きな、力強い威力でなければならぬ。
では、あの女、とうとう淫らな慾念の叶わぬ恨みを、わしの秘密を敵方に売って、世に浅間しい方法で晴らそうとするものに違いない――と、して見れば、この古寺の物影には、土部一派、横山、浜川の手の者が、あまた隠されているのでもあろうか?油断はならぬ――
と、屹と、唇を嚙んで思わず、お初を睨め上げる。
「何とかおいいよ――雪之丞さん」
と、お初は、ふところ手のままで、流し目のような視線に、嘲笑を罩めて投げかけるのだ。
「お前さんは、あたしほどの者を、小指の先であしらったと思っておいでらしいが、どっこい、問屋は、そうは卸しはしないよ。これでも、江戸で、いくらか知られた女ですからえ。さあ、何とか、挨拶ぐらいしたらいいじゃあないか」


一四[編集]

お初の、むしろ、べったりと、ねばッこく響くがゆえに、一そう薄気味悪い言葉は、なおもつづく。
「実はねえ、お前さんのやり方が、あんまりいまいましいから、ついした事から知り合いになったこの門倉さんに力をかりて、始末をつけて貰おうと思ったのだが、この剣術(やっとう)の先生が、折角集めてくれたのが、そこにころがっているお人たち――やっぱし、門倉さんには、お前さんは荷が勝ちすぎた相手だとわかったので、とうとうあたしが、顔を見せなければならないことになったのだがね――」
お初が、べらべらと、しゃべり立てているうちに、平馬、妙な顔つきになって来た。それも尤も、かなり手ひどいコキ下し方なのだ。
たまらなくなった風で、
「いや、かかる斗宵(としょう)の輩、何が怖い――今夜こそ、拙者、是非とも――」
と、惚れたお初から蔑(さげ)すまれて、じっとしていられない平馬、縁側から飛び下りようとするのを、激しく恥じしめるように、お初が、また止めた。
「お止しよ、門倉さん、ふふ、いろ男は、金と力が無いからって、何もはずかしいことはありはしないやね。わざわざ、お前さんが立ち向って、また、いつぞやのように、当身(あてみ)でも食って、のけぞってしまったら、それこど御念が入りすぎるよ。まあ、雪之丞のことは、わたしにまかせてお置きなさいよ」
「じゃというて、このままに、こやつを帰すことは――」
「だれも、この人を、ここから逃がすとはいっていませんよ」
「しかし、一味一党、無念や、おくれを取ってしまった今、拙者が出なんだら――」
と、平馬は青ざめて、油汗を額にうかべて、
「とはいえ、そなたはかよわい女――とても、あやつを、押し伏せることは叶わぬ」
「ほ、ほ、ほ、ほ、なるほど、あたしは弱いさ――腕も力もない筈なのさ。だけれど、ねえ門倉さん、お前さんより、いくらか智慧はあるかも知れないよ」
と嘲笑(あざわら)って、
「それに比べると、さすがに、雪さんだ。あの人は、何か、心に感じたね――ここに集っていた、でくの坊のような先生方とは、ちょっと変ったところのある女だと、今になって思い当った風だねえ?ねえ門倉さん、雪さんの容子を御覧なさい。彼(あ)の人は、これまで白刃にかこまれても、びくともしずに坐っていたが、あたしが出て来てから、すっかり容子が変ったでしょう――あの人は、もう坐っている心のゆとりなんぞありはしない――あの人は、ちっとも油断も隙も見せなくなった。大方、あたしが、よっぽど力強い味方をうしろに連れているとでも感づいたのでしょう――全く、それに違いないのさ。いかに、武芸、才智にすぐれた雪さんだって、あたしの手が――」
と、ふところ手にしたのを、乳のあたりでちょいと動かして見せて、
「この手が、ちょいと動いてごらん、お前さんのいのちは、はばかりながら無いのだよ――そのときには、さすがに雪さんも、あたしのいうままになる外はないのさ」
平馬は、お初の昂然たるう気焔を聴いて、あたしのいうままになる外はないのさ」
――では、この女、何者を、助勢として別にかくしているのであろう――手をあげて合図をすればわれわれより腕の立つ連中が、いずくからか現れて来もするのか!
平馬は、きょろきょろ、光の届かぬ植込の影の、暗がりなぞを見まわすようにするのであった。


一五[編集]

「ときに、雪さん、どうだね?あたしが、今夜、何か言い出したら、今度こそ、うんと言ってくれますかい」
お初の舌鋒(ぜっぼう)は、ふたたび、雪之丞に、鋭く注がれはじめた。
「今夜こそ、おまはんに負けました――と、あたしの前で手をついて、何でも言うままになりますかい?それを聴きたいものですね」
雪之丞は、心耳(しんじ)をすましている。が、彼の感覚には、何も怪しい気配は感じられぬ。目の前に傷つきうめいている人々の外には、手に立つほどの敵がひそんでいる容子もない。
――女狐よりも狡い奴――どうせ、狡猾な手段で、囚われの家を抜け出して来たに相違ないが、今も今、口先きの嚇しにかけて、心を擾(みだ)させ、何か良からぬ計略をめぐらそうとしているに相違ない。
雪之丞は、明るげに笑って、
「世の中からは、卑しい俳優(わざおぎ)と、さげすまれてはいるものの、魂では、いかなるもののふにも、負(おく)れは取らじと思うているわたし、いつ逢うても、汚らわしいことばかり口にするそなたの言葉を聴いて、耳が洗い度い――とにかく、わたしも用の多い身、折角の招きながら、あしらえが気に入らぬゆえ、この場を立ち去りますぞ。門倉どのにも、いずれ又――」
ツと、立ち上ろうとしたとき、ふところ手をしていた、お初の右手の肘が少しばかり動いて、はだけられた襟のあわいから、キラリと、黒く光るものがのぞいた。
冷たげな、小さい、丸い一ツ口――
――銃口(つつぐち)だ!
さすがに、雪之丞が、ハッとしたとき、お初は、赤勝ち友禅の長襦袢の腕がからむ、白い袖を、ふところから襟にくぐらせて、はばかりもなくずいと突き出した。
その手の中に、軽くつかまれた、ドス黒い武器――
「わかりましたか?これはついこのごろ、紅毛(おらんだ)から渡って来た元込め銃――一発、ドンと射つと、それっきり、又込めなければ、つづけて射てぬ、あの古ッくさい、不自由な鉄砲とはちがうのだよ。曳(ひ)き金を曳きさえすれば、つづけ射ちに打てるのです。それに、これでも、このお初は、軽業小屋にいたおかげで、狙った的ははずさないのさ?御府内の銃(つつ)ばらいは、御禁制だが、ここは川向う、しかも小梅のはずれ、おとがめもあるまいから、どれ、ひとつ、久しぶりで、腕だめしを見せましょうか――そうさねえ、雪さん、ついお前さんのうしろの、何の木だか、細い幹、あの木の地上から五尺ばかりに見えている、枝を払ったあとの瘤(こぶ)、あそこへ中(あて)て見ましょうね――」
雪之丞はじめ、平馬も、手負いも、お初の能弁に魅されたように目をみはって、じっと、手元と、的を見比べる。
お初は、小さな武器を、掌に躍らすようにして、持ち直すと、裾を乱し、緋(あか)いいろをこぼして佇んだまま、片肌ぬぎの無造作さで、短筒(たんづつ)を摑んだ手を、前に出して、片目を押さえて、狙いをつける。
「いいかい?射って見せますよ」
たのしげにいって、曳き金にかけた細い指に、かそかに力を加える。
と、だしぬけに、
――ズーン――
と、いう、あまり高からぬ、が不気味なひびき――銃口から赤い火がパッとほとばしって、青白い煙が交ったと思ったが、的に集まった、目という目が、一どきに驚愕(きょうがく)の色も漲(みなぎ)らした。
薄暗さの中にかすかに見える。木瘤、小さな瘤の真ン中に、たしかにプスリと弾丸が突き刺さったのだ。


一六[編集]

「ね、どう?ちょいと、あざやかな技倆(うでまえ)でしょう?門倉さん、それからみなさん方――」
と、お初は、得意げに笑って、
「ことさら、雪さん、この隠し芸には、幾らかびっくりしたでしょうね?どう?」
と、いったときいつか、彼女は短銃を、じーっと雪之丞その人に狙いをつけているのだった。
「いつもいつも、いやに落ちつき払ってさ、高慢ちきに取りすまして、天下で、わたしほど、武術も、芸も、すぐれたものはあるまいと、いわんばかりの顔をしておいでの、雪之丞さん、わちきは、刃ものを取っては、おまはんの敵であろうはずはないけれど、今夜は別だと思ってるのですよ。なぜッて、わちきの掌の中には、こんな魔ものが宿ってるのですものねえ――ふ、ふ、紅ッ毛で、天狗鼻の、ちん毛唐という人達も、いい道具を発明してくれたものさ」
と、嘲けったが、急に、乱暴な、ぞんざいな、下婢(げび)切ッた口調になて、
「ええ、おい、何とか返事をおしよ。腰が抜けたような顔をして、ぼんやり坐っていないでさ。この短銃はね、決して、舞台の小道具じゃあないのだよ。この曳き金に、お初ちゃんの細い細い、ほ、ほ、白魚のような指がさわりゃあ、この可愛らしい銃口から、小ちゃい小ちゃい、小豆つぶのような弾丸が飛び出して、まあ、蠟で作ったといおうか、珠玉(たま)をみがいたようだと言おうか、何とも言われず美しい、おまえさんの、その額の真ん中に、ボーンと食い込んでゆくのだよ。ほ、ほ、口惜しそうに、そんなに怖い顔をしたって、駄目の皮さ。たとえ、おまはんが、天狗昇(てんぐしょう)、飛び切りの術を心得ていたって、ここからそこまでは五間もある。飛びついて来る途中で、一度当ったが最後、はがねの板でも抜こうという、鉄砲玉が、おむかえにいくのだからね――雪さん、そんなへッぴり腰をして、鉄扇なんど振りまわすのは、やめたらどうだい?ええ、こう、そんな物は、捨てしまえと、言っているのに!」
紅い唇を、食い反らすようにお初は罵り続けた。
雪之丞は、しかし、別に、恐怖に度を失った容子はない。
彼はしずかに考える。
――なるほど、お初の申すとおりじゃ。こちらから、飛びかかって行ったところで、あの弾丸(たま)が迎えに来れば、途中で射仆されてしまうにきまっている。闇夜のつぶては避けようがあっても、まともに狙われた鉄砲では、どうしようもない。つねづね師から鉄砲で狙われたら、一がいに敵対しよううとせず、策を以て対する外はないとうけたまわっていた――ここのことだ。
雪之丞は、どんなときも失わぬ、心の余裕を保っていた。
――それに、若し、あの女がわしをすぐに射ち殺すつもりなら、四の五の並べず、射ちかけて来るはずだ。それを、あんなにべらべらと、しゃべり立てているところを見ると、今、この場で、殺す気はないのであろう。
いやいや、一時にいのちを取るには、あまりに憎らしい奴と、思い詰めているのであろう。鉄砲をつきつけて、さんざんに嚇したり罵ったり、あらゆる残忍なしもとを加えたあとで、殺そうとでもいうのだろう。そこをうまくあやつらねばならぬ――今こそ、大事な場合なのだ。
雪之丞は、鉄扇を、ポーンと闇に投げて、その場に膝を突いた。
「なるほど、飛道具にあらがうすべはない。持ちあわさぬ。お言やるとおりにするほかはありますまい」

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。