鎌倉丸の艶聞 (一)
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[編集]昨年 九月八日郵船會社 米國航路 の滊船 鎌倉丸 は米國 シヤートルへ向 ひて橫濵 を解纜 したり航中 には數多 の乘客 ありし中 に一等船室 占 めしは十數名 の紳士なりしが波路 の末 淡 くなり行 く島影 と共 に一船 を一家 とする海 の上 の親 しみ易 く心々 に話相手 を求 めて船中 の誰彼 早 くも其名 を知 り合 ひ互 ひに船室 を訪 ひ訪 はるゝ程 の仲 となりしが此 に一團 の賑 やかなる團樂 は只 ある船室 に開 かれぬこの團樂 に入 れる人々 の名 は暫 らく祕 して後 に讓 りこの室 には每 に五六人 の人々 寄 り集 ひて笑 ひさゞめく聲 は洋杯 の相 觸 るゝ音 と混 りて晝 となく夜 となく談笑 の聲 船扉 を漏 れ冷々 たる船中 の秋雨 もこの室 の內 には聞 えず室內 は春風 の陽氣 加減 、團樂 には一人 の女性 を中心 として他 は何 れも交際 上手 の當世 紳士 船客 もあり船員 もあり骨牌 に倦 めば酒 となり酒興 に乘 じては甚句 都々逸 の戲歌 にさんざめかす事 ありて同 じ一等船客 のこの團樂 に漏 れたる人々 は心 から眉 を顰 めて其 卑俗 なる動作 を厭 ふ者 あり又 艷福 を羨 み心 に紳士 の行爲 にあらずと批謗 するもあり船中 に猶 免 かれぬ世間 の口 は流石 に彼 の室 の人々 も後 めたくや定時 の食事 にも儀式 立 たる食堂 に出 でゝ衆客 と食 を同 じふするを嫌 ひ時刻 を前後 して之 と共 にせぬやうに避 くれば終 には彼 の室 の人々 は他 の乘客 とは別物 のやうに疎々 しくなるに至れりさて彼 の室 の女性 とはいかなる者 ぞその素性 は暫 らく措 きその容貌 風采 はといへば背 は小造 りの品好 く淺黑 き顏 に目口 の屹 と締 りたるは令孃 とよりは粹者 に相應 しき意氣肌 にて折々 は細帶 一つしだらなき身嗜 みにて海 吹 く風 に鬢 の後毛 を亂 して佇 ずむ外見 は愈 よ品下 れる姿 なれどさる賤業 き者 にあらざるは英語 などにて紳士等 と物 いひ交 すにても知 らるべく下卑 なき振舞 はあれど其 言語振 は多 くの男 に對 しても更 に遜 るけしきもなく能 く語 り能 く辯 ずる相手 上手 は人 を引付 くる魔力 あるも宜 なるさても怪 しきこの女性 の名 は次 に記 す事 として只 母 は有名 なる女子敎育家 この船中 は許婚 の人 の米國 に在 ると遥々 と尋 ねる途 にして此 航途 の風浪 は却々 に人 の上 に起 り來 る長 き物語 は追々 に記 すべし