前編
未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切に小き膓は断れぬべし。
元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌されたる日記を涜して、この黄昏より凩は戦出でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥むる者無きより、憤をも増したるやうに飾竹を吹靡けつつ、乾びたる葉を粗なげに鳴して、吼えては走行き、狂ひては引返し、揉みに揉んで独り散々に騒げり。微曇りし空はこれが為に眠を覚されたる気色にて、銀梨子地の如く無数の星を顕して、鋭く沍えたる光は寒気を発つかと想はしむるまでに、その薄明に曝さるる夜の街は殆ど氷らんとすなり。
人この裏に立ちて寥々冥々たる四望の間に、争か那の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重の天、八際の地、始めて混沌の境を出でたりといへども、万物未だ尽く化生せず、風は試に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫に邈く横はれるに過ぎざる哉。日の中は宛然沸くが如く楽み、謳ひ、酔ひ、戯れ、歓び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚くも夏果てし孑孑の形を歛めて、今将何処に如何にして在るかを疑はざらんとするも難からずや。多時静なりし後、遙に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽ち一点の燈火は見え初めしが、揺々と町の尽頭を横截りて失せぬ。再び寒き風は寂き星月夜を擅に吹くのみなりけり。唯有る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間の下水口より噴出づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温の四方に溢るるとともに、垢臭き悪気の盛に迸るに遭へる綱引の車あり。勢ひで角より曲り来にければ、避くべき遑無くてその中を駈抜けたり。
「うむ、臭い」
車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
車夫のかく答へし後は語絶えて、車は驀直に走れり、紳士は二重外套の袖を犇と掻合せて、獺の衿皮の内に耳より深く面を埋めたり。灰色の毛皮の敷物の端を車の後に垂れて、横縞の華麗なる浮波織の蔽膝して、提灯の徽章はTの花文字を二個組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭を北に折れ、稍広き街に出でしを、僅に走りて又西に入り、その南側の半程に箕輪と記したる軒燈を掲げて、剡竹を飾れる門構の内に挽入れたり。玄関の障子に燈影の映しながら、格子は鎖固めたるを、車夫は打叩きて、
「頼む、頼む」
奥の方なる響動の劇きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪ひつつ、格子戸を連打にすれば、やがて急足の音立てて人は出で来ぬ。
円髷に結ひたる四十ばかりの小く痩せて色白き女の、茶微塵の糸織の小袖に黒の奉書紬の紋付の羽織着たるは、この家の内儀なるべし。彼の忙しげに格子を啓るを待ちて、紳士は優然と内に入らんとせしが、土間の一面に充満たる履物の杖を立つべき地さへあらざるに遅へるを、彼は虚さず勤篤に下立ちて、この敬ふべき賓の為に辛くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄のみは独り障子の内に取入れられたり。
箕輪の奥は十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銅鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに耀き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊を為るなりけり。蝋燭の焔と炭火の熱と多人数の熱蒸と混じたる一種の温気は殆ど凝りて動かざる一間の内を、莨の煙と燈火の油煙とは更に縺れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面は皆赤うなりて、白粉の薄剥げたるあり、髪の解れたるあり、衣の乱次く着頽れたるあり。女は粧ひ飾りたれば、取乱したるが特に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋の裂けたるも知らで胴衣ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四まで紙にて結ひたるもあり。さしも息苦き温気も、咽ばさるる煙の渦も、皆狂して知らざる如く、寧ろ喜びて罵り喚く声、笑頽るる声、捩合ひ、踏破く犇き、一斉に揚ぐる響動など、絶間無き騒動の中に狼藉として戯れ遊ぶ為体は三綱五常も糸瓜の皮と地に塗れて、唯これ修羅道を打覆したるばかりなり。
海上風波の難に遭へる時、若干の油を取りて航路に澆げば、浪は奇くも忽ち鎮りて、船は九死を出づべしとよ。今この如何とも為べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王あり。猛びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和ぎて、終に崇拝せざるはあらず。女たちは皆猜みつつも畏を懐けり。中の間なる団欒の柱側に座を占めて、重げに戴ける夜会結に淡紫のリボン飾して、小豆鼠の縮緬の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を瞪りて、躬は淑かに引繕へる娘あり。粧飾より相貌まで水際立ちて、凡ならず媚を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普く知られぬ。娘も数多居たり。醜きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑せるかと覚きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装は宮より数等立派なるは数多あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘とて、最も不器量を極めて遺憾なしと見えたるが、最も綺羅を飾りて、その起肩に紋御召の三枚襲を被ぎて、帯は紫根の七糸に百合の折枝を縒金の盛上にしたる、人々これが為に目も眩れ、心も消えて眉を皺めぬ。この外種々色々の絢爛なる中に立交らひては、宮の装は纔に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何なる美き染色をも奪ひて、彼の整へる面は如何なる麗き織物よりも文章ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽ふ能はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
袋棚と障子との片隅に手炉を囲みて、蜜柑を剥きつつ語ふ男の一個は、彼の横顔を恍惚と遙に見入りたりしが、遂に思堪へざらんやうに呻き出せり。
「好い、好い、全く好い! 馬士にも衣裳と謂ふけれど、美いのは衣裳には及ばんね。物それ自らが美いのだもの、着物などはどうでも可い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら猶結構だ!」
この強き合槌撃つは、美術学校の学生なり。
綱曳にて駈着けし紳士は姑く休息の後内儀に導かれて入来りつ。その後には、今まで居間に潜みたりし主の箕輪亮輔も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途と激き勝負の最中なれば、彼等の来れるに心着きしは稀なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早く目を側めて紳士の風采を視たり。
広間の燈影は入口に立てる三人の姿を鮮かに照せり。色白の小き内儀の口は疳の為に引歪みて、その夫の額際より赭禿げたる頭顱は滑かに光れり。妻は尋常より小きに、夫は勝れたる大兵肥満にて、彼の常に心遣ありげの面色なるに引替へて、生きながら布袋を見る如き福相したり。
紳士は年歯二十六七なるべく、長高く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬の辺には薄紅を帯びて、額厚く、口大きく、腮は左右に蔓りて、面積の広き顔は稍正方形を成せり。緩く波打てる髪を左の小鬢より一文字に撫付けて、少しは油を塗りたり。濃からぬ口髭を生して、小からぬ鼻に金縁の目鏡を挾み、五紋の黒塩瀬の羽織に華紋織の小袖を裾長に着做したるが、六寸の七糸帯に金鏈子を垂れつつ、大様に面を挙げて座中を眴したる容は、実に光を発つらんやうに四辺を払ひて見えぬ。この団欒の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々しく装ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
例の二人の一個はさも憎さげに呟けり。
「可厭な奴!」
唾吐くやうに言ひて学生はわざと面を背けつ。
「お俊や、一寸」と内儀は群集の中よりその娘を手招きぬ。
お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙く起ちて来れるが、顔好くはあらねど愛嬌深く、いと善く父に肖たり。高島田に結ひて、肉色縮緬の羽織に撮みたるほどの肩揚したり。顔を赧めつつ紳士の前に跪きて、慇懃に頭を低れば、彼は纔に小腰を屈めしのみ。
「どうぞ此方へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷けり。母は歪める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
お俊は再び頭を低げぬ。紳士は笑を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
主の勧むる傍より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内して、客間の床柱の前なる火鉢在る方に伴れぬ。妻は其処まで介添に附きたり。二人は家内の紳士を遇ふことの極めて鄭重なるを訝りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒の間を過ぎたりしが、無名指に輝ける物の凡ならず強き光は燈火に照添ひて、殆ど正く見る能はざるまでに眼を射られたるに呆れ惑へり。天上の最も明なる星は我手に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未だ曾て見ざりし大さの金剛石を飾れる黄金の指環を穿めたるなり。
お俊は骨牌の席に復ると侔く、密に隣の娘の膝を衝きて口早に咡きぬ。彼は忙々く顔を擡げて紳士の方を見たりしが、その人よりはその指に耀く物の異常なるに駭かされたる体にて、
「まあ、あの指環は! 一寸、金剛石?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
お俊の説明を聞きて彼は漫に身毛の弥立つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
鱓の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳か念懸くれども未だ容易に許されざる娘の胸は、忽ち或事を思ひ浮べて攻皷の如く轟けり。彼は惘然として殆ど我を失へる間に、電光の如く隣より伸来れる猿臂は鼻の前なる一枚の骨牌を引攫へば、
「あら、貴女どうしたのよ」
お俊は苛立ちて彼の横膝を続けさまに拊きぬ。
「可くつてよ、可くつてよ、以来もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を覚して、及ばざる身の分を諦めたりけれども、一旦金剛石の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚かりける手腕の程も見る見る漸く四途乱になりて、彼は敢無くもこの時よりお俊の為に頼み難き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石⁇」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石⁇」
「可感い金剛石」
「可恐い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬く間に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳へり。
彼は人々の更互におのれの方を眺むるを見て、その手に形好く葉巻を持たせて、右手を袖口に差入れ、少し懈げに床柱に靠れて、目鏡の下より下界を見遍すらんやうに目配してゐたり。
かかる目印ある人の名は誰しも問はであるべきにあらず、洩れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継とて、一代分限ながら下谷区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中にも富山重平の名は見出さるべし。
宮の名の男の方に持囃さるる如く、富山と知れたる彼の名は直に女の口々に誦ぜられぬ。あはれ一度はこの紳士と組みて、世に愛たき宝石に咫尺するの栄を得ばや、と彼等の心々に冀はざるは希なりき。人若し彼に咫尺するの栄を得ば、啻にその目の類無く楽さるるのみならで、その鼻までも菫花の多く齅ぐべからざる異香に薫ぜらるるの幸を受くべきなり。
男たちは自から荒められて、女の挙りて金剛石に心牽さるる気色なるを、或は妬く、或は浅ましく、多少の興を冷さざるはあらざりけり。独り宮のみは騒げる体も無くて、その清き眼色はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深く、心様も幽く振舞へるを、崇拝者は益々懽びて、我等の慕ひ参らする効はあるよ、偏にこの君を奉じて孤忠を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面の皮を引剥かん、と手薬煉引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢はあたかも日月を並懸けたるやうなり。宮は誰と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念するところなりけるが、鬮の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数はこの時合併して一の大なる団欒に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合に坐りければ、夜と昼との一時に来にけんやうに皆狼狽騒ぎて、忽ちその隣に自ら社会党と称ふる一組を出せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則ち彼等は専ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧とを妨害せんと為るなり。又その前面には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組と称し、右翼を蹂躙隊と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫かんと大童になれるに外ならざるなり。果せる哉、件の組はこの勝負に蓬き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白み、美き人は顔を赧めて、座にも堪ふべからざるばかりの面皮を欠されたり。この一番にて紳士の姿は不知見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌の玉を失へる心地したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に怖をなして、密に主の居間に逃帰れるなりけり。
鬘を被たるやうに梳りたりし彼の髪は棕櫚箒の如く乱れて、環の隻捥げたる羽織の紐は、手長猿の月を捉へんとする状して揺曳と垂れり。主は見るよりさも慌てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
彼はやにはに煙管を捨てて、忽にすべからざらんやうに急遽と身を起せり。
「ああ、酷い目に遭つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲れた」
手の甲の血を吮ひつつ富山は不快なる面色して設の席に着きぬ。予て用意したれば、海老茶の紋縮緬の裀の傍に七宝焼の小判形の大手炉を置きて、蒔絵の吸物膳をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢を呼び、大急に銚子と料理とを誂へて、
「それはどうも飛でもない事を。外に何処もお怪我はございませんでしたか」
「そんなに有られて耐るものかね」
為う事無さに主も苦笑せり。
「唯今絆創膏を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々御招申しまして甚だ恐入りました。もう彼地へは御出陣にならんが宜うございます。何もございませんがここで何卒御寛り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
物は言はで打笑める富山の腮は愈展れり。早くもその意を得てや破顔せる主の目は、薄の切疵の如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意に召したのが、へえ?」
富山は益笑を湛へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「何故な」
「何故も無いものでございます。十目の見るところぢやございませんか」
富山は頷きつつ、
「さうだらうね」
「あれは宜うございませう」
「一寸好いね」
「まづその御意でお熱いところをお一盞。不満家の貴方が一寸好いと有仰る位では、余程尤物と思はなければなりません。全く寡うございます」
倉皇入来れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方にお在あそばしたのでございますか」
彼は先の程より台所に詰きりて、中入の食物の指図などしてゐたるなりき。
「酷く負けて迯げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
例の歪める口を窄めて内儀は空々しく笑ひしが、忽ち彼の羽織の紐の偏断れたるを見尤めて、環の失せたりと知るより、慌て驚きて起たんとせり、如何にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、宜い」
「宜いではございません。純金では大変でございます」
「なあに、可いと言ふのに」と聞きも訖らで彼は広間の方へ出でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、大した事はございませんです」
「それはさうだらう。然し凡そどんなものかね」
「旧は農商務省に勤めてをりましたが、唯今では地所や家作などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三と申して、直隣町に居りまするが、極手堅く小体に遣つてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
我は顔に頤を掻撫づれば、例の金剛石は燦然と光れり。
「それでも可いさ。然し嫁れやうか、嗣子ぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢや窮るぢやないか」
「私は悉い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
程無く内儀は環を捜得て帰来にけるが、誰が悪戯とも知らで耳掻の如く引展されたり。主は彼に向ひて宮の家内の様子を訊ねけるに、知れる一遍は語りけれど、娘は猶能く知るらんを、後に招きて聴くべしとて、夫婦は頻に觴を侑めけり。
富山唯継の今宵ここに来りしは、年賀にあらず、骨牌遊にあらず、娘の多く聚れるを機として、嫁選せんとてなり。彼は一昨年の冬英吉利より帰朝するや否や、八方に手分して嫁を求めけれども、器量望の太甚しければ、二十余件の縁談皆意に称はで、今日が日までもなほその事に齷齪して已まざるなり。当時取急ぎて普請せし芝の新宅は、未だ人の住着かざるに、はや日に黒み、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。
骨牌の会は十二時に迨びて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数の三分の一強を失ひけれども、猶飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼若疾く還りたらんには、恐く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
彼に心を寄せし輩は皆彼が夜深の帰途の程を気遣ひて、我願くは何処までも送らんと、絶か念ひに念ひけれど、彼等の深切は無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石に亜いでは彼の挙動の目指れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の外は人目を牽くべき点も無く、彼は多く語らず、又は躁がず、始終慎くしてゐたり。終までこの両個の同伴なりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて門を出づるを見て、始めて失望せしもの寡からず。
宮は鳩羽鼠の頭巾を被りて、濃浅黄地に白く中形模様ある毛織のシォールを絡ひ、学生は焦茶の外套を着たるが、身を窄めて吹来る凩を遣過しつつ、遅れし宮の辿着くを待ちて言出せり。
「宮さん、あの金剛石の指環を穿めてゐた奴はどうだい、可厭に気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれど衆があの人を目の敵にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷い目に遭されてよ」
「うむ、彼奴が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹を二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭だわ」
「芬々と香水の匂がして、金剛石の金の指環を穿めて、殿様然たる服装をして、好いに違無いさ」
学生は嘲むが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組は鬮だから為方が無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
宮はシォールを揺上げて鼻の半まで掩隠しつ。
「ああ寒い!」
男は肩を峙てて直と彼に寄添へり。宮は猶黙して歩めり。
「ああ寒い‼」
宮はなほ答へず。
「ああ寒い※〈[#感嘆符三つ、23-5]〉」
彼はこの時始めて男の方を見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くて耐らんからその中へ一処に入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
「可笑い、可厭だわ」
男は逸早く彼の押へしシォールの片端を奪ひて、その中に身を容れたり。宮は歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面から人が来てよ」
かかる戯を作して憚らず、女も為すままに信せて咎めざる彼等の関繋は抑も如何。事情ありて十年来鴫沢に寄寓せるこの間貫一は、此年の夏大学に入るを待ちて、宮が妻せらるべき人なり。
間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙る所無くて養はるるなり。母は彼の幼かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆の中に父を葬るとともに、己が前途の望をさへ葬らざる可からざる不幸に遭へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦き痩世帯なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに先ちて食ふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬すべき急、猶これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ幼き者の如何にしてこれ等の急を救得しか。固より貫一が力の能ふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個に引承けて万端の世話せしに因るなり。孤児の父は隆三の恩人にて、彼は聊かその旧徳に報ゆるが為に、啻にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着けては貫一の月謝をさへ間支弁したり。かくて貧き父を亡ひし孤児は富める後見を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時を以て慊らず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
亡き人常に言ひけるは、苟くも侍の家に生れながら、何の面目ありて我子貫一をも人に侮らすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民の上に立たしめん。貫一は不断にこの言を以て警められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以て喞たれしなり。彼は言ふ遑だに無くて暴に歿りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰に疎まるる如き憂目に遭ふにはあらざりき。憖ひ継子などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許か幸は多からんよ、と知る人は噂し合へり。隆三夫婦は実に彼を恩人の忘形見として疎ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸くその心は出で来て、彼の高等中学校に入りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
貫一は篤学のみならず、性質も直に、行も正かりければ、この人物を以つて学士の冠を戴かんには、誠に獲易からざる婿なるべし、と夫婦は私に喜びたり。この身代を譲られたりとて、他姓を冒して得謂はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽を懐きて、益学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半には過ぎざらん。彼は自らその色好を知ればなり。世間の女の誰か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過るに在り。謂ふ可くんば、宮は己が美しさの幾何値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔に箇程の資産を嗣ぎ、類多き学士風情を夫に有たんは、決して彼が所望の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤より出でし例寡からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭ひて、美き妾に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干を見たりしに、その容の己に如かざるものの多きを見出せり。剰へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸人は彼の愛らしき袂に艶書を投入れぬ。これ素より仇なる恋にはあらで、女夫の契を望みしなり。殆ど同時に、院長の某は年四十を踰えたるに、先年その妻を喪ひしをもて再び彼を娶らんとて、密に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
この時彼の小き胸は破れんとするばかり轟けり。半は曾て覚えざる可羞の為に、半は遽に大なる希望の宿りたるが為に。彼はここに始めて己の美しさの寡くとも奏任以上の地位ある名流をその夫に値ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆を隣れる男子部の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
若かのプロフェッサアに添はんか、或は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣ぐの比にはあらざらんをと、一旦抱ける希望は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己を見出して、玉の輿を舁せて迎に来るべき天縁の、必ず廻到らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽からんとは念へるなり。如此く決定にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。
漆の如き闇の中に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島の八百松に新年会ありとて未だ還らざるなり。
宮は奥より手ラムプを持ちて入来にけるが、机の上なる書燈を点し了れる時、婢は台十能に火を盛りたるを持来れり。宮はこれを火鉢に移して、
「さうして奥のお鉄瓶も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方は御寝になるのだから」
久く人気の絶えたりし一間の寒は、今俄に人の温き肉を得たるを喜びて、直ちに咬まんとするが如く膚に薄れり。宮は慌忙く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚に飾れる時計を見たり。
夜の闇く静なるに、燈の光の独り美き顔を照したる、限無く艶なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢に月のうつろへるが如く、背後の壁に映れる黒き影さへ香滴るるやうなり。
金剛石と光を争ひし目は惜気も無く瞪りて時計の秒を刻むを打目戍れり。火に翳せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬の半襟に韜まれたる彼の胸を想へ。その胸の中に彼は今如何なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来を待佗ぶるなりけり。
一時又寒の太甚きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面なる貫一が裀の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
若やと聞着けし車の音は漸く近きて、益轟きて、竟に我門に停りぬ。宮は疑無しと思ひて起たんとする時、客はいと酔ひたる声して物言へり。貫一は生下戸なれば嘗て酔ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂んとす。
門の戸引啓けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌ててラムプを持ちて出でぬ。台所より婢も、出合へり。
足の踏所も覚束無げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾き、ハンカチイフに裹みたる折を左に挈げて、山車人形のやうに揺々と立てるは貫一なり。面は今にも破れぬべく紅に熱して、舌の乾くに堪へかねて連に空唾を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産です。還つてこれを細君に遣る。何ぞ仁なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了つた」
「あら、貫一さん、こんな所に寐ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
仰様に倒れたる貫一の脚を掻抱きて、宮は辛くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽いてくれなければ僕には歩けませんよ」
宮は婢に燈を把らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉きつつ肩に縋りて遂に放さざりければ、宮はその身一つさへ危きに、やうやう扶けて書斎に入りぬ。
裀の上に舁下されし貫一は頽るる体を机に支へて、打仰ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷の衣を惜むなかれ。君に勧む、須く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪へなば直に折る須し。花無きを待つて空く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦いでせう」
「然矣、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就いては大いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌ひの癖に何故そんなに飲んだの。誰に飲されたの。端山さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷いわね、こんなに酔して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮さん。謝、多謝! 若それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口を差されたのだ。祝盃などを受ける覚は無いと言つて、手を引籠めてゐたけれど、なかなか衆聴かないぢやないか」
宮は窃に笑を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初にもああ云ふ美人と一所に居て寝食を倶にすると云ふのが既に可羨い。そこを祝すのだ。次には、君も男児なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪られるやうな事があつたら、独り間貫一一個人の恥辱ばかりではない、我々朋友全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延いて高等中学の名折にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一にして結の神に祷つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却つて神罰が有ると、弄謔とは知れてゐるけれど、言草が面白かつたから、片端から引受けて呷々遣付けた。
宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜く願ひます」
「可厭よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥よ僕の男が立たない義だ」
「もう極つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃翁さんや姨さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余りだわ」
貫一は酔を支へかねて宮が膝を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又寐ちや……貫一さん、貫一さん」
寔に愛の潔き哉、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾めて、富も貴きも、乃至有ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶されて、彼は唯妙に香き甘露の夢に酔ひて前後をも知らざるなりけり。
諸の可忌き妄想はこの夜の如く眼を閉ぢて、この一間に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明なる燈火の光の如きものありて、特に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。
或日箕輪の内儀は思も懸けず訪来りぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩にて常に往来したりけれども、未だ家と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識らで過ぎたりしに、今は二人の往来も漸く踈くなりけるに及びて、俄にその母の来れるは、如何なる故にか、と宮も両親も怪き事に念へり。
凡そ三時間の後彼は帰行きぬ。
先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍き客来のありしを知らず、宮もまた敢て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為ざりき。この間に両親は幾度と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因もあらねど、片時もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出さんは難き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽に光を失ひたるやうにて、振舞など別けて力無く、笑ふさへいと打湿りたるを。
宮が居間と謂ふまでにはあらねど、彼の箪笥手道具等置きたる小座敷あり。ここには火燵の炉を切りて、用無き人の来ては迭に冬籠する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦めば琴をも弾くなり。彼が手玩と見ゆる狗子柳のはや根を弛み、真の打傾きたるが、鮟鱇切の水に埃を浮べて小机の傍に在り。庭に向へる肱懸窓の明きに敷紙を披げて、宮は膝の上に紅絹の引解を載せたれど、針は持たで、懶げに火燵に靠れたり。
彼は少く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入りて、深く物思ふなりけり。両親は仔細を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為すままに委せたり。
この日貫一は授業始の式のみにて早く帰来にけるが、下座敷には誰も見えで、火燵の間に宮の咳く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄りぬ。襖の僅に啓きたる隙より差覗けば、宮は火燵に倚りて硝子障子を眺めては俯目になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐きて、忽ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠るは、何をか思凝すなるべし。人の窺ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶をその状に顕して憚らざるなり。
貫一は異みつつも息を潜めて、猶彼の為んやうを見んとしたり。宮は少時ありて火燵に入りけるが、遂に櫓に打俯しぬ。
柱に身を倚せて、斜に内を窺ひつつ貫一は眉を顰めて思惑へり。
彼は如何なる事ありてさばかり案じ煩ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
かく又案じ煩へる彼の面も自ら俯きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定めて、再び内を差覗きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時か落ちけむ、蒔絵の櫛の零れたるも知らで。
人の気勢に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍に在り。彼は慌てて思頽るる気色を蔽はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚した。何時御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些も知らなかつた」
宮はおのれの顔の頻に眺めらるるを眩ゆがりて、
「何をそんなに視るの、可厭、私は」
されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背きて、裁片畳の内を撈せり。
「宮さん、お前さんどうしたの。ええ、何処か不快のかい」
「何ともないのよ。何故?」
かく言ひつつ益急に撈せり。貫一は帽を冠りたるまま火燵に片肱掛けて、斜に彼の顔を見遣りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直に疑深いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然考へたり、太息を吐いたりして鬱いでゐるものか。僕は先之から唐紙の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞したつて可いぢやないか」
宮は言ふところを知らず、纔に膝の上なる紅絹を手弄るのみ。
「病気なのかい」
彼は僅に頭を掉りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
宮は唯胸の中を車輪などの廻るやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐にも言を出すべき術を知らざりき。彼は犯せる罪の終に秘む能はざるを悟れる如き恐怖の為に心慄けるなり。如何に答へんとさへ惑へるに、傍には貫一の益詰らんと待つよと思へば、身は搾らるるやうに迫来る息の隙を、得も謂はれず冷かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
貫一の声音は漸く苛立ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚に言出せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
呆れたる貫一は瞬もせで耳を傾けぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時死んで了ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽な事もある代に辛い事や、悲い事や、苦い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図さう思出したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭な心地になつて、自分でもどうか為たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
目を閉ぢて聴ゐし貫一は徐に眶を開くとともに眉を顰めて、
「それは病気だ!」
宮は打萎れて頭を垂れぬ。
「然し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
異く沈みたるその声の寂しさを、如何に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為だ、脳でも不良のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固より世の中と云ふものはさう面白い義のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆が皆そんな了簡を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了ふ。儚いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切ては楽を求めやうとして、究竟我々が働いてゐるのだ。考へて鬱いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽が無ければならない。一事かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
彼は笑を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
宮の肩頭を捉りて貫一は此方に引向けんとすれば、為すままに彼は緩く身を廻したれど、顔のみは可羞く背けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
肩に懸けたる手をば放さで連に揺るるを、宮は銕の槌もて撃懲さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷なる汗は又一時流出でぬ。
「これは怪しからん!」
宮は危みつつ彼の顔色を候ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面は和ぎて一点の怒気だにあらず、寧ろ唇頭には笑を包めるなり。
「僕などは一件大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐らんの。一日が経つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死を倶にするのだ。宮さん、可羨いだらう」
宮は忽ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪へかねて打顫ひしが、この心の中を覚られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒」
「ええ悉皆遣つて了へ!」
彼は外套の衣兜より一袋のボンボンを取出して火燵の上に置けば、余力に袋の口は弛みて、紅白の玉は珊々と乱出でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。
その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶の水薬を与へられぬ。貫一は信に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩として憂に堪へざらんやうなる彼の容体に幾許の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋する苦痛は、益募りて止ざるなり。
貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面を合すれば冷汗も出づべき恐怖を生ずるなり。彼の情有る言を聞けば、身をも斫らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根を見ることを恐れたり。宮が心地勝れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生に一層を加へたれば、彼は死を覓むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪ふべからざる限に至りぬ。
遂に彼はこの苦を両親に訴へしにやあらん、一日母と娘とは遽に身支度して、忙々く車に乗りて出でぬ。彼等は小からぬ一個の旅鞄を携へたり。
大風の凪ぎたる迹に孤屋の立てるが如く、侘しげに留守せる主の隆三は独り碁盤に向ひて碁経を披きゐたり。齢はなほ六十に遠けれど、頭は夥き白髪にて、長く生ひたる髯なども六分は白く、容は痩せたれど未だ老の衰も見えず、眉目温厚にして頗る古井波無きの風あり。
やがて帰来にける貫一は二人の在らざるを怪みて主に訊ねぬ。彼は徐に長き髯を撫でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日医者が湯治が良いと言うて切に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着で、脚下から鳥の起つやうな騒をして、十二時三十分の滊車で。ああ、独で寂いところ、まあ茶でも淹れやう」
貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私もそんな塩梅で」
「然し、湯治は良いでございませう。幾日ほど逗留のお心算で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、些の着のままで出掛けたのだが、なあに直に飽きて了うて、四五日も居られるものか、出養生より内養生の方が楽だ。何か旨い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
貫一は着更へんとて書斎に還りぬ。宮の遺したる筆の蹟などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便あらんと思飜せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来れるは、心の痩するばかり美き俤に饑ゑて帰来れるなり。彼は空く饑ゑたる心を抱きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許急いで出掛けたつて、何とか一言ぐらゐ言遺いて行きさうなものぢやないか。一寸其処へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
女と云ふ者は一体男よりは情が濃であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈にあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向は有つてゐたけれど、今のやうに太甚くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆ど……殆どではない、全くだ、全く溺れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷い話だ。これが互に愛してゐる間の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為れると実に憎い。
小説的かも知れんけれど、八犬伝の浜路だ、信乃が明朝は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更に逢ひに来る、あの情合でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処の娘と許嫁……似てゐる、似てゐる。
然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉して、余り憎いな、そでない為方だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀さうだ。
自分は又神経質に過るから、思過を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過であるか、あの人が情が薄いのかは一件の疑問だ。
時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少か自分を侮つてゐるのではあるまいか。自分は此家の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自ら主と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否、それもあの人に能く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太く慍られるのだ、一番それを慍るよ。勿論そんな様子の些少でも見えた事は無い。自分の僻見に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若もあの人の心にそんな根性が爪の垢ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘とはなつても、未だ奴隷になる気は無い。或はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措くものか。
それは自分の僻見で、あの人に限つてはそんな心は微塵も無いのだ。その点は自分も能く知つてゐる。けれども情が濃でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊すほどに熱しないのか。或は熱し能はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」
彼は意に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾て解釈し得ざるなりけり。今日はや如何に解釈せんとすらん。
翌日果して熱海より便はありけれど、僅に一枚の端書をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟なり。貫一は読了ると斉しく片々に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何にとも言解くなるべし。彼の親く言解かば、如何に打腹立ちたりとも貫一の心の釈けざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍をも、恨をも、憂をも忘るるなり。今は可懐き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍は野火の飽くこと知らで燎くやうなり。
この夕隆三は彼に食後の茶を薦めぬ。一人佗しければ留めて物語はんとてなるべし。されども貫一の屈托顔して絶えず思の非ぬ方に馳する気色なるを、
「お前どうぞ為なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それは好くない。劇く痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜いのでございます」
「それぢや茶は可くまい」
「頂戴します」
かかる浅ましき慍を人に移さんは、甚だ謂無き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖ひ心を傷めんより、人に対して姑く憂を忘るるに如かじと思ひければ、彼は努めて寛がんとしたれども、動もすれば心は空になりて、主の語を聞逸さむとす。
今日文の来て細々と優き事など書聯ねたらば、如何に我は嬉からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易へて、その楽は深かるべきを。さては出行きし恨も忘られて、二夜三夜は遠かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
彼はその身の卒に出行きしを、如何に本意無く我の思ふらんかは能く知るべきに。それを知らば一筆書きて、など我を慰めんとは為ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐しと思へる人の何故にさは為ざるにやあらん。かくまでに情篤からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽ちその事を忘るべき吾に復れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
笑ふにもあらず、顰むにもあらず、稍自ら嘲むに似たる隆三の顔は、燈火に照されて、常には見ざる異き相を顕せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
彼は長き髯を忙く揉みては、又頤の辺より徐に撫下して、先打出さん語を案じたり。
「お前の一身上の事に就いてだがの」
纔にかく言ひしのみにて、彼は又遅ひぬ、その髯は虻に苦しむ馬の尾のやうに揮はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
貫一は遽に敬はるる心地して自と膝を正せり。
「で、私もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様に対して恩返も出来たやうな訳、就いてはお前も益勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為せて、指折の人物に為たいと考へてゐるくらゐ、未だ未だこれから両肌を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
これを聞ける貫一は鉄繩をもて縛められたるやうに、身の重きに堪へず、心の転た苦きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念つてをります。愚父の亡りましたあの時に、此方で引取つて戴かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸なものは恐く無いでございませう」
彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己を見て、その着たる衣を見て、その坐れる裀を見て、やがて美き宮と共にこの家の主となるべきその身を思ひて、漫に涙を催せり。実に七千円の粧奩を随へて、百万金も購ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。
「お前がさう思うてくれれば私も張合がある。就いては改めてお前に頼があるのだが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
彼はかく潔く答ふるに憚らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言を出す時は、多く能はざる事を強ふる例なればなり。
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣らうかと思つて」
見るに堪へざる貫一の驚愕をば、せめて乱さんと彼は慌忙く語を次ぎぬ。
「これに就いては私も種々と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了うての、お前はも少しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴へ留学して、全然仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
汝の命を与へよと逼らるる事あらば、その時の人の思は如何なるべき! 可恐きまでに色を失へる貫一は空く隆三の面を打目戍るのみ。彼は太く困じたる体にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更変換を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
待てども貫一の言を出さざれば、主は寡からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大した事は無いがこの家は全然お前に譲るのだ、お前は矢張私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
約束をした宮をの、余所へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処はお前が能く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴の人物に成るのが第一の希望であらう。その志を遂げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然しこれは理窟で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼が有ると言うたのはこの事だ。
従来もお前を世話した、後来も益世話をせうからなう、其処に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
貫一は戦く唇を咬緊めつつ、故ら緩舒に出せる声音は、怪くも常に変れり。
「それぢや翁様の御都合で、どうしても宮さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
得言はぬ貫一が胸には、理に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰るべき事、罵るべき、言破るべき事、辱むべき事の数々は沸くが如く充満ちたれど、彼は神にも勝れる恩人なり。理非を問はずその言には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬みても、敢て言はじと覚悟せるなり。
彼は又思へり。恩人は恩を枷に如此く逼れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何なる斧を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情は我が思ふままに濃ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也と、彼は可憐き宮を思ひて、その父に対する慍を和げんと勉めたり。
我は常に宮が情の濃ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節に遇はずんば。
「嫁に遣ると有仰るのは、何方へ御遣しになるのですか」
「それは未だ確とは極らんがの、下谷に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
それぞ箕輪の骨牌会に三百円の金剛石を炫かせし男にあらずやと、貫一は陰に嘲笑へり。されど又余りにその人の意外なるに駭きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰かは恋ひざらん。独り怪しとも怪きは隆三の意なる哉。我十年の約は軽々く破るべきにあらず、猶謂無きは、一人娘を出して嫁せしめんとするなり。戯るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇かるべしと信じたりき。
彼は競争者の金剛石なるを聞きて、一度は汚され、辱められたらんやうにも怒を作せしかど、既に勝負は分明にして、我は手を束ねてこの弱敵の自ら僵るるを看んと思へば、心稍落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
この一言に隆三の面は熱くなりぬ。
「これに就いては私も大きに考へたのだ、何に為ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然し、お前の後来に就いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若しと云ふもので、ここに可頼い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧からん家格だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易するのも、私たちが一人娘を他へ遣つて了ふのも、究竟は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。
それに、富山からは切つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家のつもりで、決して鴫沢家を疎には為まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
決して慾ではないが、良い親類を持つと云ふものは、人で謂へば取も直さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家の友達だ。
お前がこれから世の中に出るにしても、大相な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
私の了簡はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効も無く事を好んで、何為に若いものの不為になれと思ふものかな。お前も能く其処を考へて見てくれ。
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少しのところを辛抱して、いつその事博士になつて喜ばしてくれんか」
彼はさも思ひのままに説完せたる面色して、寛に髯を撫でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、漸くその心事の火を覩るより明なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄して倦まざるは、畢竟利の一字を掩はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或は穢れたる念を起し、或は穢れたる行を為すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈穢れたるの最も大なる者ならずや。
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独り汚に染みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子を養へる志は、これを証して余あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐き宮が事を思へるなり。
我の愛か、死をもて脅すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某の帝の冠を飾れると聞く世界無双の大金剛石をもて購はんとすとも、争でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥の中に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱きて、この世の渾て穢れたるを忘れん。
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨しとは思ひつつも、枉げてさあらぬ体に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮さんも知つてゐるのですか」
「薄々は知つてゐる」
「では未だ宮さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様や御母様の宜いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸く得心がいつたのだ」
断じて詐なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉い事は何れ又寛緩話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々考へて置くが可いの」
「はい」
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲乱れて、日に映へる光は玲瓏として人の面を照し、路を埋むる幾斗の清香は凝りて掬ぶに堪へたり。梅の外には一木無く、処々の乱石の低く横はるのみにて、地は坦に氈を鋪きたるやうの芝生の園の中を、玉の砕けて迸り、練の裂けて飜る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗に霽れたる空を攅してその頂に方りて懶げに懸れる雲は眠るに似たり。習との風もあらぬに花は頻に散りぬ。散る時に軽く舞ふを鶯は争ひて歌へり。
宮は母親と連立ちて入来りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几を据ゑたる木の下を指して緩く歩めり。彼の病は未だ快からぬにや、薄仮粧したる顔色も散りたる葩のやうに衰へて、足の運も怠げに、動すれば頭の低るるを、思出しては努めて梢を眺むるなりけり。彼の常として物案すれば必ず唇を咬むなり。彼は今頻に唇を咬みたりしが、
「御母さん、どうしませうねえ」
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発にお前が適きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一さんの事が気になつて。御父さんはもう貫一さんに話を為すつたらうか、ねえ御母さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若し適くのなら、もう逢はずに直と行つて了ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
声は低くなりて、美き目は湿へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適きたいとお言ひなのだえ。さう何時までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然極めなくては可けないよ。お前が可厭なものを無理にお出といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合と云ふものだから、其処を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇はずに行くなんて、それはお前却つて善くないから、矢張逢つて、丁と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来をしなければならないのだもの。
いづれ今日か明日には御音信があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
宮は牀几に倚りて、半は聴き、半は思ひつつ、膝に散来る葩を拾ひては、おのれの唇に代へて連に咬砕きぬ。鶯の声の絶間を流の音は咽びて止まず。
宮は何心無く面を挙るとともに稍隔てたる木の間隠に男の漫行する姿を認めたり。彼は忽ち眼を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮る隙を縫ひつつ、姑くその影を逐ひたりしが、遂に誰をや見出しけん。慌忙く母親に咡けり。彼は急に牀几を離れて五六歩進行きしが、彼方よりも見付けて、逸早く呼びぬ。
「其処に御出でしたか」
その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉く、恐れたる風情にて牀几の端に竦りつ。
「はい、唯今し方参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
母はかく挨拶しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方を見向きもやらで、彼の急足に近く音を聞けり。
母子の前に顕れたる若き紳士は、その誰なるやを説かずもあらなん。目覚く大なる金剛石の指環を輝かせるよ。柄には緑色の玉を獅子頭に彫みて、象牙の如く瑩潤に白き杖を携へたるが、その尾をもて低き梢の花を打落し打落し、
「今お留守へ行きまして、此処だといふのを聞いて追懸けて来た訳です。熱いぢやないですか」
宮はやうやう面を向けて、さて淑に起ちて、恭く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨り高るを忘れざりき。その張りたる腮と、への字に結べる薄唇と、尤異き金縁の目鏡とは彼が尊大の風に尠からざる光彩を添ふるや疑無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真に今日はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」
母は牀几を払へば、宮は路を開きて傍に佇めり。
「貴方がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙い体、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌の朝立たなければならんのであります」
「おや、それは急な事で」
「貴方がたも一所にお立ちなさらんか」
彼は宮の顔を偸視つ。宮は物言はん気色もなくて又母の答へぬ。
「はい、難有う存じます」
「それとも未だ御在ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
宮は笑を含みて言はざるを、母は傍より、
「これはもう遊ぶ事なら嫌はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後盛にお遊びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌ですか、ははあ。船が平気だと、支那から亜米利加の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山に行いたところで知れたもの。どんなに贅沢を為たからと云つて」
「御帰になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全で為方が無い! こんな若い野梅、薪のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走を為ますよ。お宮さんは何が所好ですか、ええ、一番所好なものは?」
彼は陰に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞しげに打笑めり。
「で、何日御帰でありますか。明朝一所に御発足にはなりませんか。此地にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内には音信がございます筈で、その音信を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
唯継は例の倨りて天を睨むやうに打仰ぎて、杖の獅子頭を撫廻しつつ、少時思案する体なりしが、やをら白羽二重のハンカチイフを取出して、片手に一揮揮るよと見れば鼻を拭へり。菫花の香を咽ばさるるばかりに薫じ遍りぬ。
宮も母もその鋭き匂に驚けるなり。
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿いて、田圃の方を。私未だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程が有るから、貴方は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良のだから散歩は極めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」
彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい。難有うございます。お前お供をお為かい」
宮の遅ふを見て、唯継は故に座を起てり。
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循してゐては可けない」
つと寄りて軽く宮の肩を拊ちぬ。宮は忽ち面を紅めて、如何にとも為ん術を知らざらんやうに立惑ひてゐたり。母の前をも憚らぬ男の馴々しさを、憎しとにはあらねど、己の仂なきやうに慙づるなりけり。
得も謂はれぬその仇無さの身に浸遍るに堪へざる思は、漫に唯継の目の中に顕れて異き独笑となりぬ。この仇無き娧しらしき、美き娘の柔き手を携へて、人無き野道の長閑なるを語ひつつ行かば、如何ばかり楽からんよと、彼ははや心も空になりて、
「さあ、行つて見ませう。御母さんから御許が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方、宜いでありませう」
母は宮の猶羞づるを見て、
「お前お出かい、どうお為だえ」
「貴方、お出かいなどと有仰つちや可けません。お出なさいと命令を為すつて下さい」
宮も母も思はず笑へり。唯継も後れじと笑へり。
又人の入来る気勢なるを宮は心着きて窺ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙く踏立つる足音なりき。
「ではお前お供をおしな」
「さあ、行きませう。直其処まででありますよ」
宮は小き声して、
「御母さんも一処に御出なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
母親を伴ひては大いに風流ならず、頗る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、
「いや、御母さんには却つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭だつたら直に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
この時忙しげに聞えし靴音ははや止みたり。人は出去りしにあらで、七八間彼方なる木蔭に足を停めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方の三人は誰も知らず。彳める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套を着て、肩には古りたる象皮の学校鞄を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
再び靴音は高く響きぬ。その驟なると近きとに驚きて、三人は始めて音する方を見遣りつ。
花の散りかかる中を進来つつ学生は帽を取りて、
「姨さん、参りましたよ」
母子は動顛して殆ど人心地を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆れ果てたる目をば空く瞪りて、少時は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽ち消えてこの土と成了らんことの、せめて心易さを思ひつつ、その淡白き唇を啖裂かんとすばかりに咬みて咬みて止まざりき。
想ふに彼等の驚愕と恐怖とはその殺せし人の計らずも今生きて来れるに会へるが如きものならん。気も不覚なれば母は譫語のやうに言出せり。
「おや、お出なの」
宮は些少なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀へる如く、木蔭に身を側めて、打過む呼吸を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩ひて、見るは苦けれども、見ざるも辛き貫一の顔を、俯したる額越に窺ひては、又唯継の気色をも気遣へり。
唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客の来れるよと、例の金剛石の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮を張れり。
貫一は今回の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇と言はん、今は姑く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮めて、苦き笑顔を作りてゐたり。
「宮さんの病気はどうでございます」
宮は耐りかねて窃にハンカチイフを咬緊めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日内には帰らうと思つてね。お前さん能く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日明後日と休課になつたものですから」
「おや、さうかい」
唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過ちて野中の古井に落ちたる人の、沈みも果てず、上りも得為ず、命の綱と危くも取縋りたる草の根を、鼠の来りて噛むに遭ふと云へる比喩に最能く似たり。如何に為べきかと或は懼れ、或は惑ひたりしが、終にその免るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚だ勝手がましうございますが、私等はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下さいよ。宜いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
彼は行かんとして、更に宮の傍近く寄来て、
「貴方、きつと後にお出なさいよ、ええ」
貫一は瞬も為で視てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為かねつ。娘気の可羞にかくあるとのみ思へる唯継は、益寄添ひつつ、舌怠きまでに語を和げて、
「宜いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
貫一の眼は燃ゆるが如き色を作して、宮の横顔を睨着けたり。彼は懼れて傍目をも転らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独り心を慄かせしが、猶唯継の如何なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許の幸なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容れず、唯饜くまでも娧き宮に心を遺して行けり。
その後影を透すばかりに目戍れる貫一は我を忘れて姑く佇めり。両個はその心を測りかねて、言も出でず、息をさへ凝して、空く早瀬の音の聒きを聴くのみなりけり。
やがて此方を向きたる貫一は、尋常ならず激して血の色を失へる面上に、多からんとすれども能はずと見ゆる微少の笑を漏して、
「宮さん、今の奴はこの間の骨牌に来てゐた金剛石だね」
宮は俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為して、折しも啼ける鶯の木の間を窺へり。貫一はこの体を見て更に嗤笑ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面は!」
「貫一さん」母は卒に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥だらうから、お湯にでも入つて、さうして未だ御午餐前なのでせう」
「いえ、滊車の中で鮨を食べました」
三人は倶に歩始めぬ。貫一は外套の肩を払はれて、後を捻向けば宮と面を合せたり。
「其処に花が粘いてゐたから取つたのよ」
「それは難有う※〈[#感嘆符三つ、64-13]〉」
打霞みたる空ながら、月の色の匂滴るるやうにして、微白き海は縹渺として限を知らず、譬へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
五歩六歩行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍して下さい」
「何も今更謝ることは無いよ。一体今度の事は翁さん姨さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可いのだから」
「…………」
「此地へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡のあるべき筈は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間で、知れきつた話だ。
昨夜翁さんから悉く話があつて、その上に頼むといふ御言だ」
差含む涙に彼の声は顫ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体は火水の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は蹈留りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣しげにその顔を差覗きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆私が……どうぞ堪忍して下さい」
貫一の手に縋りて、忽ちその肩に面を推当つると見れば、彼も泣音を洩すなりけり。波は漾々として遠く烟り、月は朧に一湾の真砂を照して、空も汀も淡白き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁さんが僕を説いて、お前さんの方は姨さんが説得しやうと云ふので、無理に此処へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々と言つて聞いてゐたけれど、宮さんは幾多でも剛情を張つて差支無いのだ。どうあつても可厭だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了ふのだ。僕が傍に居ると智慧を付けて邪魔を為ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜は夜一夜寐はしない、そんな事は万々有るまいけれど、種々言はれる為に可厭と言はれない義理になつて、若や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家は学校へ出る積で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処に在る‼ 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知……知……知らなかつた」
宮は可悲と可懼に襲はれて少く声さへ立てて泣きぬ。
憤を抑ふる貫一の呼吸は漸く乱れたり。
「宮さん、お前は好くも僕を欺いたね」
宮は覚えず慄けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
泣入る宮を尻目に挂けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為んよ。
お前が得心せんものなら、此地へ来るに就いて僕に一言も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来すが可いぢやないか。出抜いて家を出るばかりか、何の便も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈になつてゐたのだ。或は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦だよ。姦通したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余りだわ、余りだわ」
彼は正体も無く泣頽れつつ、寄らんとするを貫一は突退けて、
「操を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時私が操を破つて?」
「幾許大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処に在る?」
「さう言はれて了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等が此地に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
宮はその唇に釘打たれたるやうに再び言は出でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過を悔い、罪を詫びて、その身は未か命までも己の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかりもさせる気色は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変を、貫一はなかなか信しからず覚ゆるまでに呆れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛みし人は芥の如く我を悪めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤は彼の胸を劈きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖ひて、この熱膓を冷さんとも思へり。忽ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪へずして尻居に僵れたり。
宮は見るより驚く遑もあらず、諸共に砂に塗れて掻抱けば、閉ぢたる眼より乱落つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨ひて、迫れる息は凄く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後より取縋り、抱緊め、撼動して、戦く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇に拭ひたり。
「吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
宮は挫ぐばかりに貫一に取着きて、物狂う咽入りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余り言難い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽へてくだらんことを言ふな。食ふに窮つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
翁さん姨さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方は幾許もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適つて見る気は有るのかい」
貫一の眼はその全身の力を聚めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息したり。
「宜い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按じつつも、彼は乱るる胸を寛うせんが為に、強ひて目を放ちて海の方を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍に在らずして、六七間後なる波打際に面を掩ひて泣けるなり。
可悩しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、淼々たる海の端の白く頽れて波と打寄せたる、艶に哀を尽せる風情に、貫一は憤をも恨をも忘れて、少時は画を看る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭を低れて足の向ふままに汀の方へ進行きしが、泣く泣く歩来れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
殆ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財なのだね。如何に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相は尽きないかい。
好い出世をして、さぞ栄耀も出来て、お前はそれで可からうけれど、財に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂はうか、口惜いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺へてお前を人に奪れるのを手出しも為ずに見てゐる僕の心地は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾になつた覚は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物にしたのだね。平生お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
それは無論金力の点では、僕と富山とは比較にはならない。彼方は屈指の財産家、僕は固より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧ろ害になり易い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。
然し財といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然気の変つたのも、或は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎めない、但もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂ふことを。
雀が米を食ふのは僅か十粒か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒い思を為せるやうな、そんな意気地の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
貫一は雫する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁く、それは立派な生活をして、栄耀も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招れて行く人もあれば、自分の妻子を車に載せて、それを自分が挽いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁けば、家内も多ければ人出入も、劇しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似をして、妻は些の床の置物にされて、謂はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦ばかりで楽は無いと謂つて可い。お前の嫁く唯継だつて、固より所望でお前を迎ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財が有るから好きな真似も出来る、他の楽に気が移つて、直にお前の恋は冷されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地を考へて御覧、あの富山の財産がその苦を拯ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽かい、満足かい。
僕が人にお前を奪られる無念は謂ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
僕に飽きて富山に惚れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過つてゐる、それは実に過つてゐる、愛情の無い結婚は究竟自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛くは思はんのかい」
彼は危きを拯はんとする如く犇と宮に取着きて匂滴るる頸元に沸ゆる涙を濺ぎつつ、蘆の枯葉の風に揉るるやうに身を顫せり。宮も離れじと抱緊めて諸共に顫ひつつ、貫一が臂を咬みて咽泣に泣けり。
「嗚呼、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方へ嫁つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓の腐つた女! 姦婦‼」
その声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたと踢たり。地響して横様に転びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為ず弱々と僵れたるを、なほ憎さげに見遣りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了ふのだ。学問も何ももう廃だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁さん姨さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あつて貫一はこのまま長の御暇を致しますから、随分お達者で御機嫌よろしう……宮さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若し貫一はどうしたとお訊ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方知れずになつて了つたと……」
宮はやにはに蹶起きて、立たんと為れば脚の痛に脆くも倒れて効無きを、漸く這寄りて貫一の脚に縋付き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方これから何……何処へ行くのよ」
貫一はさすがに驚けり、宮が衣の披けて雪可羞く露せる膝頭は、夥く血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有ればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を極めて振断れば、宮は無残に伏転びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷に幾度か仆れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺した事がある」
遂に倒れし宮は再び起つべき力も失せて、唯声を頼に彼の名を呼ぶのみ。漸く朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶して猶呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、此方を目戍れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙に来りぬ。
「宮さん!」
「あ、あ、あ、貫一さん!」
首を延べて眴せども、目を瞪りて眺むれども、声せし後は黒き影の掻消す如く失せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋き貫一の名を呼びたりき。
〈[#改ページ]〉
中編
新橋停車場の大時計は四時を過ること二分余、東海道行の列車は既に客車の扉を鎖して、機関車に烟を噴せつつ、三十余輛を聯ねて蜿蜒として横はりたるが、真承の秋の日影に夕栄して、窓々の硝子は燃えんとすばかりに耀けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚くを余所に、大蹈歩の寛々たる老欧羅巴人は麦酒樽を窃みたるやうに腹突出して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘の柄に橙色のリボンを飾りたるを小脇にせると推並び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色も無く過る後より、蚤取眼になりて遅れじと所体頽して駈来る女房の、嵩高なる風呂敷包を抱くが上に、四歳ほどの子を背負ひたるが、何処の扉も鎖したるに狼狽ふるを、車掌に強曳れて漸く安堵せる間も無く、青洟垂せる女の子を率ゐて、五十余の老夫のこれも戸惑して往きつ復りつせし揚句、駅夫に曳れて室内に押入れられ、如何なる罪やあらげなく閉てらるる扉に袂を介まれて、もしもしと救を呼ぶなど、未だ都を離れざるにはや旅の哀を見るべし。
五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅に円居して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装にて、紋付の袷羽織を着たるもあれば、精縷の背広なるもあり、袴着けたるが一人、大島紬の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別の瓶、凾などを網棚の上に片附けて、その手を摩払ひつつ窓より首を出して、停車場の方をば、求むるものありげに望見たりしが、やがて藍の如き晩霽の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟」
黒餅に立沢瀉の黒紬の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条の仙台平の袴を着けたる、この中にて独り頬鬚の厳きを蓄ふる紳士なり。
甘糟の答ふるに先ちて、背広の風早は若きに似合はぬ皺嗄声を振搾りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒きに堪へんことを僕は丁と洞察してをるのだ」
「これは憚様です」
大島紬の紳士は黏着いたるやうに靠れたりし身を遽に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利と甘糟は夙て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔を吐く意なのさ」
「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪しからん事たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣らるるね。ええ、肩書を辱めん限は遣るも可からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
この老実の言を作すは、今は四年の昔間貫一が兄事せし同窓の荒尾譲介なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙げられ、踰えて一年の今日愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢と深慮と誠実との故を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
「これで僕は諸君へ意見の言納じや。願くは君達も宜く自重してくれたまへ」
面白く発りし一座も忽ち白けて、頻に燻らす巻莨の煙の、急駛せる車の逆風に扇らるるが、飛雲の如く窓を逸れて六郷川を掠むあるのみ。
佐分利は幾数回頷きて、
「いやさう言れると慄然とするよ、実は嚮停車場で例の『美人クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖ふかと思ふね、毎見ても美いには驚嘆する。全で淑女の扮装だ。就中今日は冶してをつたが、何処か旨い口でもあると見える。那奴に搾られちや克はん、あれが本当の真綿で首だらう」
「見たかつたね、それは。夙て御高名は聞及んでゐる」
と大島紬の猶続けんとするを遮りて、甘糟の言へる。
「おお、宝井が退学を吃つたのも、其奴が債権者の重なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金の腕環なんぞ篏めてゐると云ふぢやないか。酷い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊にならんやうに褌を緊めて掛るが可いぜ」
「誰か其奴には尻押が有るのだらう。亭主が有るのか、或は情夫か、何か有るのだらう」
皺嗄声は卒然としてこの問を発せるなり。
「それに就いては小説的の閲歴があるのさ、情夫ぢやない、亭主がある、此奴が君、我々の一世紀前に鳴した高利貸で、赤樫権三郎と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的媱物と来てゐるのだ」
「成程! 積極と消極と相触れたので爪に火が熖る訳だな」
大島紬が得意の譃浪に、深沈なる荒尾も已むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄ぶのが道楽で、此奴の為に汚された者は随分意外の辺にも在るさうな。そこで今の『美人クリイム』、これもその手に罹つたので、原は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾は六十ばかりの禿顱の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
固唾を嚥みたりし荒尾は思ふところありげに打頷きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
甘糟はその面を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
佐分利の話を進むる折から、滊車は遽に速力を加へぬ。
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
甘「さあ、御順にお膝繰だ」
佐「荒尾、あの葡萄酒を抜かんか、喉が渇いた。これからが佳境に入るのだからね」
甘「中銭があるのは酷い」
佐「蒲田、君は好い莨を吃つてゐるぢやないか、一本頂戴」
甘「いや、図に乗ること。僕は手廻の物を片附けやう」
佐「甘糟、焠児を持つてゐるか」
甘「そら、お出だ。持参いたしてをりまする仕合で」
佐分利は居長高になりて、
「些と点けてくれ」
葡萄酒の紅を啜り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐に語を継ぐ、
「所謂一朶の梨花海棠を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父さん、どうか承知して下さいは、親父益す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相を尽して、唯一人の娘を阿父さん彼自身より十歳ばかりも老漢の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家の方へ貢ぐと思の外、極の給の外は塵葉一本饋らん。これが又禿の御意に入つたところで、女め熟ら高利の塩梅を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭の方が大事、といふ不敵な了簡が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
荒尾は可忌しげに呟きて、稍不快の色を動せり。
「そこで、敏捷な女には違無い、自然と高利の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺から禿は中気が出て未だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁を一板敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな――然し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独で腕を揮つて益す盛に遣つてゐる。これ則ち『美人クリイム』の名ある所以さ。
年紀かい、二十五だと聞いたが、さう、漸う二三とよりは見えんね。あれで可愛い細い声をして物柔に、口数が寡くつて巧い言をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替だの、手形に願ふのと、急所を衝く手際の婉曲に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿されたが、柔能く剛を制すで、高利貸には美人が妙! 那彼に一国を預ければ輙ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
風早は最も興を覚えたる気色にて、
「では、今はその禿顱は中風で寐たきりなのだね、一昨年から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
佐分利は頭を抑へて後様に靠れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕ちて、今はしも連帯一判、取交ぜ五口の債務六百四十何円の呵責に膏を取るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後に又二百円、無疵なるは風早と荒尾とのみ。
滊車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑しげに傍聴したりし横浜商人体の乗客は、幸に無聊を慰められしを謝すらんやうに、懇に一揖してここに下車せり。暫く話の絶えける間に荒尾は何をか打案ずる体にて、その目を空く見据ゑつつ漫語のやうに言出でたり。
「その後誰も間の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声は問反せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸の才取とか、手代とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
我が意を得つと謂はんやうに荒尾は頷きて、猶も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸と云ふのはどうも妄ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
彼は忍びやかに太息を泄せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然と外眥の昂つた所が目標さ」
蒲「さうして髪の癖毛の具合がな、愛嬌が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖を抂いて、かう下向になつて何時でも真面目に講義を聴いてゐたところは、何処かアルフレッド大王に肖てゐたさ」
荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟よりも間の居らなくなつたのを悲む」
愁然として彼は頭を俛れぬ。大島紬は受けたる盃を把りながら、更に佐分利が持てる猪口を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番間の健康を祝さう」
荒尾の喜は実に溢るるばかりなりき。
「おお、それは辱ない」
盈々と酒を容れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉く戞と相撃てば、紅の雫の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺して、
「蒲田は如才ないね。面は醜いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言れて見ると誰でも些と憎くないからね」
甘「遉は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
言を改めて荒尾は言出せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場で間を見たよ。間に違無いのじや」
唯の今陰ながらその健康を祷りし蒲田は拍子を抜して彼の面を眺めたり。
「ふう、それは不思議。他は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口の所で些と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子を起つと、もう見えなくなつた。それから有間して又偶然見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍の柱に僕を見て黒い帽を揮つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
横浜! 横浜! と或は急に、或は緩く叫ぶ声の窓の外面を飛過るとともに、響は雑然として起り、迸り出づる、群集は玩具箱を覆したる如く、場内の彼方より轟く鐸の音はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
☆昨七日イ便の葉書にて(飯田町局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或はベルクリイムの傍訓有度との言を貽られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖に理詰ならむよりは、出まかせの可笑き響あらむこそ可かめれとバイスクリイムとも思着きしなり。意は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗しさを嫌ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者の思僻めてん字は添へたるなり。陋しげなるびじクリイムの響の中には嘲弄の意も籠らむとてなり。なほ高諭を請ふ(三〇・九・八附読売新聞より)
柵の柱の下に在りて帽を揮りたりしは、荒尾が言の如く、四年の生死を詳悉にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自の影を晦し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略を伺ふことを怠らざりき、こ回その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所ながら暇乞もし、二つには栄誉の錦を飾れる姿をも見んと思ひて、群集に紛れてここには来りしなりけり。
何の故に間は四年の音信を絶ち、又何の故にさしも懐に忘れざる旧友と相見て別を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自ら解釈せらるべし。
柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独り間貫一のみにあらず、そこもとに聚ひし老若貴賤の男女は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一なり。数分時の混雑の後車の出づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸く踵を旋せし時には、推重るまでに柵際に聚ひし衆は殆ど散果てて、駅夫の三四人が箒を執りて場内を掃除せるのみ。
貫一は差含るる涙を払ひて、独り後れたるを驚きけん、遽に急ぎて、蓬莱橋口より出でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
慌てて彼の見向く途端に、
「些と」と戸口より半身を示して、黄金の腕環の気爽に耀ける手なる絹ハンカチイフに唇辺を掩いて束髪の婦人の小腰を屈むるに会へり。艶なる面に得も謂はれず愛らしき笑をさへ浮べたり。
「や、赤樫さん!」
婦人の笑もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉だに動かさず。
「好い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些と此方へ」
婦人は内に入れば、貫一も渋々跟いて入るに、長椅子に掛れば、止む無くその側に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅の件なのでございますがね」
彼は黒樗文絹の帯の間を捜りて金側時計を取出し、手早く収めつつ、
「貴方どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方へかお供を致しませう」
紫紺塩瀬に消金の口金打ちたる手鞄を取直して、婦人はやをら起上りつ。迷惑は貫一が面に顕れたり。
「何方へ?」
「何方でも、私には解りませんですから貴方のお宜い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有らずに、私は何方でも宜いのでございます」
荒布革の横長なる手鞄を膝の上に掻抱きつつ貫一の思案せるは、その宜き方を択ぶにあらで、倶に行くをば躊躇せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭に、入来る者ありて、その足尖を挫げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高き老紳士の目尻も異く、満枝の色香に惑ひて、これは失敬、意外の麁相をせるなりけり。彼は猶懲りずまにこの目覚き美形の同伴をさへ暫く目送せり。
二人は停車場を出でて、指す方も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
満枝は彼の心進まざるを暁れども、勉めて吾意に従はしめんと念へば、さばかりの無遇をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻鱺は上りますか」
「鰻鱺? 遣りますよ」
「鶏肉と何方が宜うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶ですね」
「何為ですか」
この時貫一は始めて満枝の面に眼を移せり。百の媚を含みて睼へし彼の眸は、未だ言はずして既にその言はんとせる半をば語尽したるべし。彼の為人を知りて畜生と疎める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露して片笑みつつ、
「まあ、何為でも宜うございますから、それでは鶏肉に致しませうか」
「それも可いでせう」
三十間堀に出でて、二町ばかり来たる角を西に折れて、唯有る露地口に清らなる門構して、光沢消硝子の軒燈籠に鳥と標したる方に、人目にはさぞ解あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺に六畳の隠座敷の板道伝に離れたる一間に案内されしも宜なり。
懼れたるにもあらず、困じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色にて貫一の容さへ可慎しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸けざる為体を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早く満枝が好きに計ひて、少頃は言無き二人が中に置れたる莨盆は子細らしう一炷の百和香を燻らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘を有仰いまし」
かくても貫一は膝を崩さで、巻莨入を取出せしが、生憎一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
麻蝦夷の御主殿持とともに薦むる筒の端より焼金の吸口は仄に耀けり。歯は黄金、帯留は黄金、指環は黄金、腕環は黄金、時計は黄金、今又煙管は黄金にあらずや。黄金なる哉、金、金! 知る可し、その心も金! と貫一は独り可笑しさに堪へざりき。
「いや、私は日本莨は一向可かんので」
言ひも訖らぬ顔を満枝は熟と視て、
「決して穢いのでは御坐いませんけれど、つい心着きませんでした」
懐紙を出してわざとらしくその吸口を捩拭へば、貫一も少く慌てて、
「決してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐きなさるなら、もう少し物覚を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日鰐淵さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪のやうな恰好のお煙管で、さうして羅宇の本に些と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓に塞がざりき。満枝は仇無げに口を掩ひて笑へり。この罰として貫一は直に三服の吸付莨を強ひられぬ。
とかくする間に盃盤は陳ねられたれど、満枝も貫一も三盃を過し得ぬ下戸なり。女は清めし猪口を出して、
「貴方、お一盞」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑めて酌せんとこそあるべきに、甚い哉、彼の手を束ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞お受け下さいましな」
貫一は止む無くその一盞を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
彼は忽ち眉を攅めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意なのでございますもの」
その媚ある目の辺は漸く花桜の色に染みて、心楽しげに稍身を寛に取成したる風情は、実に匂など零れぬべく、熱しとて紺の絹精縷の被風を脱げば、羽織は無くて、粲然としたる紋御召の袷に黒樗文絹の全帯、華麗に紅の入りたる友禅の帯揚して、鬢の後れの被る耳際を掻上ぐる左の手首には、早蕨を二筋寄せて蝶の宿れる形したる例の腕環の爽に晃き遍りぬ。常に可忌しと思へる物をかく明々地に見せつけられたる貫一は、得堪ふまじく苦りたる眉状して密に目を翥しつ。彼は女の貴族的に装へるに反して、黒紬の紋付の羽織に藍千筋の秩父銘撰の袷着て、白縮緬の兵児帯も新からず。
彼を識れりし者は定めて見咎むべし、彼の面影は尠からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失せて、四年に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自ら暗き陰を成してその面を蔽へり。撓むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色の表に動けども、嘗て宮を見しやうの優き光は再びその眼に輝かずなりぬ。見ることの冷に、言ふことの謹めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎るるを憚れば、自もまた苟も親みを求めざるほどに、同業者は誰も誰も偏人として彼を遠けぬ。焉んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪むなりけり。
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃を重ぬる体を打目戍れり。
「もう一盞戴きませうか」
笑を漾ふる眸は微醺に彩られて、更に別様の媚を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方が止せと仰有るなら私は止します」
「敢て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
答無かりければ、満枝は手酌してその半を傾けしが、見る見る頬の麗く紅になれるを、彼は手もて掩ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
貫一は聞かざる為して莨を燻らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
満枝は嘲むが如く微笑みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障へては困りますの。然し、御酒の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意で、宜うございますか」
「撞着してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰らずに、高が女の申すことでございますから」
こは事難うなりぬべし。克はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱きつつ俯目になりて、力めて関らざらんやうに持成すを、満枝は擦寄りて、
「これお一盞で後は決してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
貫一は些の言も出さでその猪口を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「易い願ですな」と、あはや出でんとせし唇を結びて、貫一は纔に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未だお長くゐらつしやるお意なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「勿論です」
「さうして、まづ何頃彼方と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
満枝は忽ち声を斂めて、物思はしげに差俯き、莨盆の縁をば弄べるやうに煙管もて刻を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽に晦むに驚きて顔を挙れば、又旧の如く一間は明うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
意外に打れたる貫一は箸を扣へて女の顔を屹と視たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
可恨しげに満枝は言を絶ちて、横膝に莨を拈りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
貫一が飯桶を引寄せんとするを、はたと抑へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様です」
満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀をそれに伏せて、彼方の壁際に推遣りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克はんですから赦して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方で思つてゐることが全で先方へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰ることの主意が能く解らんのですもの」
「何故お了解になりませんの」
責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空いて来ました」
「それとも貴方外にお約束でも遊ばした御方がお在なさるのでございますか」
彼終に鋒鋩を露し来れるよと思へば、貫一は猶解せざる体を作して、
「妙な事を聞きますね」
と苦笑せしのみにて続く言もあらざるに、満枝は図を外されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
貫一も今は屹と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解になりまして⁈」
嬉しと心を言へらんやうの気色にて、彼の猪口に余せし酒を一息に飲乾して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
発に乗せられて貫一は思はず受ると斉く盈々注れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜!
「その盃は清めてございませんよ」
一々底意ありて忽諸にすべからざる女の言を、彼はいと可煩くて持余せるなり。
「お了解になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
僅にかく言ひ放ちて貫一は厳かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔を冷して、彼の気色を候ひたりしに、例の言寡なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
貫一は緩かに頷けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹まず自分の考量をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆とは大きに考量が違つてをります。
第一、私は一生妻といふ者は決して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷めて、この商売を始めたのは、放蕩で遣損つたのでもなければ、敢て食窮めた訳でも有りませんので。書生が可厭さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外に幾多も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日盗を為すと謂はうか、病人の喉口を干すと謂はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択むものですか」
聴居る満枝は益す酔を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日始めて知つたのではない、知つて身を堕したのは、私は当時敵手を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
火影を避けんとしたる彼の目の中に遽に耀けるは、なほ新なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原はと云へば、金銭からです。仮初にも一匹の男子たる者が、金銭の為に見易へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一……一生忘れられんです。
軽薄でなければ詐、詐でなければ利慾、愛相の尽きた世の中です。それほど可厭な世の中なら、何為一思に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹と霽さなければ措かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚い、殆ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭ゆゑに売られもすれば、辱められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望も持たんのです。又考へて見ると、憖ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐か頼になりますよ。頼にならんのは人の心です!
先かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
彼は仰ぎて高笑しつつも、その面は痛く激したり。
満枝は、彼の言の決して譌ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実にさるべき所見を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉を閉ぢて、詐と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌で、総ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
今は取付く島も無くて、満枝は暫し惘然としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
打萎れつつ満枝は飯を盛りて出せり。
「これは恐入ります」
彼は啖ふこと傍に人無き若し。満枝の面は薄紅になほ酔は有りながら、酔へる体も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
かく会釈して貫一は三盃目を易へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣みて遽に応ふる能はず、唯目を挙げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶を受けては、私実に面目無くて……余り悔うございますわ」
慌忙くハンカチイフを取りて、片手に恨泣の目元を掩へり。
「面目無くて私、この座が起れません。間さん、お察し下さいまし」
貫一は冷々に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅の件に就いてのお話は?」
泣赤めたる目を拭ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召して下さい。で、お可厭ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優い言をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決して忘れません。これなら宜いでせう」
満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠りて、その太股を絶か撮れば、貫一は不意の痛に覆らんとするを支へつつ横様に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢を呼ぶなりけり。
赤坂氷川の辺に写真の御前と言へば知らぬ者無く、実にこの殿の出づるに写真機械を車に積みて随へざることあらざれば、自ら人目を逭れず、かかる異名は呼るるにぞありける。子細を明めずしては、「将棊の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器を抱きながら、五年を独逸に薫染せし学者風を喜び、世事を抛ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆にすれども、なほ歳の入るものを計るに正に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春その人なり。
氷川なる邸内には、唐破風造の昔を摸せる館と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造の異きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄にて、独逸に名ある古城の面影を偲びてここに象れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充てて、万足らざる無き閑日月をば、書に耽り、画に楽み、彫刻を愛し、音楽に嘯き、近き頃よりは専ら写真に遊びて、齢三十四に迨べども頑として未だ娶らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自らなる七万石の品格は、面白う眉秀でて、鼻高く、眼爽に、形の清に揚れるは、皎として玉樹の風前に臨めるとも謂ふべくや、御代々御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
かかれば良縁の空からざること、蝶を捉へんとする蜘蛛の糸より繁しといへども、反顧だに為ずして、例の飄然忍びては酔の紛れの逸早き風流に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛して、末の契も堅く、月下の小舟に比翼の櫂を操り、スプレイの流を指して、この水の終に涸るる日はあらんとも、我が恋の燄の消ゆる時あらせじ、と互の誓詞に詐はあらざりけるを、帰りて母君に請ふことありしに、いと太う驚かれて、こは由々しき家の大事ぞや。夷狄は□□〈[#「□□」は2倍の長方形]〉よりも賤むべきに、畏くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣の檻と為すべき。あな、可疎しの吾子が心やと、涙と共に掻口説きて、悲び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無くて、心苦う思ひつつも、猶行末をこそ頼めと文の便を度々に慰めて、彼方も在るにあられぬ三年の月日を、憂きは死ななんと味気なく過せしに、一昨年の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存へかねし身の苦悩を、御神の恵に助けられて、導かれし天国の杳として原ぬべからざるを、いとど可懐しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐を亡き人に寄せて、形見こそ仇ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女が十九の春の色を苦に手写して、嘗て貽りしものなりけり。
殿はこの失望の極放肆遊惰の裏に聊か懐を遣り、一具の写真機に千金を擲ちて、これに嬉戯すること少児の如く、身をも家をも外にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛ありて、その人迂ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴ける田鶴見家も、幸に些の破綻を生ずる無きを得てけり。
彼は貨殖の一端として密に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以て、高利貸の大口を引受くる輩のここに便らんとせざるはあらず。されども慧き畔柳は事の密なるを策の上と為して叨に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺にか金穴あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
鰐淵の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂ふにも足らぬ足軽頭に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後出でて小役人を勤め、転じて商社に事へ、一時或は地所家屋の売買を周旋し、万年青を手掛け、米屋町に出入し、何れにしても世渡の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金これ権と感ずるところありて、奉職中蓄得たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或は欺き、或は嚇し、或は賺し、或は虐げ、纔に法網を潜り得て辛くも繩附たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆ど数万に上るとぞ聞えし。
畔柳はこの手より穫るる利の半は、これを御殿の金庫に致し、半はこれを懐にして、鰐淵もこれに因りて利し、金は一にしてその利を三にせる家令が六臂の働は、主公が不生産的なるを補ひて猶余ありとも謂ふべくや。
鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢の身を寄せて、牛頭馬頭の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年の今日まで寄寓せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇はれ、手代となり、顧問となりて、主の重宝大方ならざれば、四年の久きに弥れども主は彼を出すことを喜ばず、彼もまた家を構ふる必要無ければ、敢て留るを厭ふにもあらで、手代を勤むる傍若干の我が小額をも運転して、自ら営む便もあれば、今憖ひにここを出でて痩臂を張らんよりは、然るべき時節の到来を待つには如かじと分別せるなり。彼は啻に手代として能く働き、顧問として能く慮るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己を衒はず、他を貶めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有き若者なり、と鰐淵は寧ろ心陰に彼を畏れたり。
主は彼の為人を知りし後、如此き人の如何にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己の履歴を詐りて、如何なる失望の極身をこれに墜せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿もせられで、やがては、暖簾を分けて屹としたる後見は為てくれんと、鰐淵は常に疎ならず彼が身を念ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯は四十六なり。夫は心猛く、人の憂を見ること、犬の嚏の如く、唯貪りて饜くを知らざるに引易へて、気立優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
いと幸ありける貫一が身の上哉。彼は世を恨むる余その執念の駆るままに、人の生ける肉を啖ひ、以つて聊か逆境に暴されたりし枯膓を癒さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起せる心中には、百の呵責も、千の苦艱も固より期したるを、なかなかかかる寛なる信用と、かかる温き憐愍とを被らんは、羝羊の乳を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉、彼はこの喜を如何に喜びけるか。今は呵責をも苦艱をも敢て悪まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終には慾の為に剥がれ、この憐愍も利の為に吝まるる時の目前なるべきを固く信じたり。
毒は毒を以て制せらる。鰐淵が債務者中に高利借の名にしおふ某党の有志家某あり。彼は三年来生殺の関係にて、元利五百余円の責を負ひながら、奸智を弄し、雄弁を揮ひ、大胆不敵に構へて出没自在の計を出し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係りては、逆捩を吃ひて血反吐を噴されし者尠からざるを、鰐淵は弥よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿も折れぬべきに持余しつるを、克はぬまでも棄措くは口惜ければ、せめては令見の為にも折々釘を刺して、再び那奴の翅を展べしめざらんに如かずと、昨日は貫一の曠らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
彼は散々に飜弄せられけるを、劣らじと罵りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣らで壮に言争ひしが、病者に等き青二才と侮りし貫一の、陰忍強く立向ひて屈する気色あらざるより、有合ふ仕込杖を抜放し、おのれ還らずば生けては還さじと、二尺余の白刃を危く突付けて脅せしを、その鼻頭に待ひて愈よ動かざりける折柄、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来にけるが、これが為に彼の感じ易き神経は甚く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転た勝れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠れるなりけり。かかることありし翌日は夥く脳の憊るるとともに、心乱れ動きて、その憤りし後を憤り、悲みし後を悲まざれば已まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故に彼は折に触れつつその体の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸く慣れてけれど、彼の心は決してこの悪を作すに慣れざりき。唯能く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来終天の失望と恨との一日も忘るる能はざるが為に、その苦悶の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或は人の加ふる侮辱に堪へずして、神経の過度に亢奮せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙を得ることあり。
朗に秋の気澄みて、空の色、雲の布置匂はしう、金色の日影は豊に快晴を飾れる南受の縁障子を隙して、爽なる肌寒の蓐に長高く痩せたる貫一は横はれり。蒼く濁れる頬の肉よ、髐へる横顔の輪廓よ、曇の懸れる眉の下に物思はしき眼色の凝りて動かざりしが、やがて崩るるやうに頬杖を倒して、枕嚢に重き頭を落すとともに寝返りつつ掻巻引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣りて仰向になりぬ。折しも誰ならん、階子を昇来る音す。貫一は凝然として目を塞ぎゐたり。紙門を啓けて入来れるは主の妻なり。貫一の慌てて起上るを、そのままにと制して、机の傍に坐りつ。
「紅茶を淹れましたからお上んなさい。少しばかり栗を茹でましたから」
手籃に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
彼は会釈して珈琲茶碗を取上げしが、
「旦那は何時頃お出懸になりました」
「今朝は毎より早くね、氷川へ行くと云つて」
言ふも可疎しげに聞えけれど、さして貫一は意も留めず、
「はあ、畔柳さんですか」
「それがどうだか知れないの」
お峯は苦笑しつ。明なる障子の日脚はその面の小皺の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛の歯通りて、一髪を乱さず円髷に結ひて顔の色は赤き方なれど、いと好く磨きて清に滑なり。鼻の辺に薄痘痕ありて、口を引窄むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅めたるが、かかるをや烏羽玉とも謂ふべく殆ど耀くばかりに麗し。茶柳条のフラネルの単衣に朝寒の羽織着たるが、御召縮緬の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為ですか」
お峯は羽織の紐を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅へる風情なるを、強ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃なる栗を取りて剥きゐたり。彼は姑く打案ぜし後、
「あの赤樫の別品さんね、あの人は悪い噂が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物に為るとか云ふ……」
貫一は覚えず首を傾けたり。曩の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴男を引掛けなくても金銭には窮らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方へお貸しなさい」
「これは憚様です」
お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々と手を束ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択みて、その頂よりナイフを加へつ。
「些と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人だから可いけれど、本当にあんな者に係合ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣ると云ふのは評判ですよ。金窪さん、鷲爪さん、それから芥原さん、皆その話をしてゐましたよ」
「或はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内の人も同じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
お峯がナイフを執れる手は漸く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
お峯は又一つ取りて剥き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運は愈よ等閑なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処きりの話ですからね」
「承知しました」
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自から潜りぬ。
「どうも私はこの間から異いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫があの別品さんに係合を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑して、
「そんな馬鹿な事が、貴方……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房の私が……それはもう間違無しよ!」
貫一は熟と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳でしたな」
「五十一、もう爺ですわね」
彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの‼」
息巻くお峯の前に彼は面を俯して言はず、静に思廻らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言を継がざりしが、さて徐に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾も楽も可うございます。これが芸者だとか、囲者だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡の代物ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落た沙汰ぢやありはしません。あんな者に係合つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下し渾成で、その奇麗事と謂つたら、何が日にも氷川へ行くのにあんなに靚した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒くて心苛つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手が悪いからねえ」
思ひ直せども貫一が腑には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然し、何にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処を突止めたいのだけれど、私の体ぢや戸外の様子が全然解らないのですものね」
「御尤」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉、紅茶と栗と、と貫一はその余に安く売られたるが独り可笑かりき。
「いえ、一向差支ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余りお気の毒ね」
彼の赤き顔の色は耀くばかりに懽びぬ。
「御遠慮無く有仰つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
お峯は彼が然諾の爽なるに遇ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若し行つたのなら、何頃行つて何頃帰つたか、なあに、十に九まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
彼は起ちて寝衣帯を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今俥を呼びに遣るから」
かく言捨ててお峯は忙く階子を下行けり。
迹に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
と端無く思ひ浮べては漫に独り打笑れつ。
貫一は直に俥を飛して氷川なる畔柳のもとに赴けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入すべく、館の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣に取廻して、昔形気の内に幽しげに造成したる二階建なり。構の可慎う目立たぬに引易へて、木口の撰択の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
貫一も彼の主もこの家に公然の出入を憚る身なれば、玄関側なる格子口より訪るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物は在らず。はや帰りしか、来ざりしか、或は未だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言にも符号すれども、直にこれを以て疑を容るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主の妻の声して、連に婢の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出でした」
眼のみいと大くて、病勝に痩衰へたる五体は燈心の如く、見るだに惨々しながら、声の明にして張ある、何処より出づる音ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂へるその人なり。年は五十路ばかりにて頭の霜繁く夫よりは姉なりとぞ。
貫一は屋敷風の恭き礼を作して、
「はい、今日は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸りたいと申してをりましたところ。唯今御殿へ出てをりますので、些と呼びに遣りませうから、暫くお上んなすつて」
言はるるままに客間に通りて、端近う控ふれば、彼は井の端なりし婢を呼立てて、速々主の方へ走らせつ。莨盆を出し、番茶を出せしのみにて、納戸に入りける妻は再び出で来らず。この間は貫一は如何にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促き還来にける気勢せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今些と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方へお出なすつて。直其処ですよ。婢に案内を為せます。あの豊や!」
暇乞して戸口を出づれば、勝手元の垣の側に二十歳かと見ゆる物馴顔の婢の待てりしが、後さまに帯㕞ひつつ道知辺す。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫を敷きたる径ありて、出外るれば子爵家の構内にて、三棟並べる塗籠の背後に、桐の木高く植列ねたる下道の清く掃いたるを行窮れば、板塀繞らせる下屋造の煙突より忙しげなる煙立昇りて、折しも御前籠舁入るるは通用門なり。貫一もこれを入りて、余所ながら過来し厨に、酒の香、物煮る匂頻りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間に導かれぬ。
畔柳元衛の娘静緒は館の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持に召れて、高髷、変裏に粧を改め、お傍不去に麁略あらせじと冊くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子の半を昇行く後姿に、その客の如何に貴婦人なるかを窺ふべし。鬘ならではと見ゆるまでに結做したる円髷の漆の如きに、珊瑚の六分玉の後挿を点じたれば、更に白襟の冷豔物の類ふべき無く、貴族鼠の縐高縮緬の五紋なる単衣を曳きて、帯は海松色地に装束切摸の色紙散の七糸を高く負ひたり。淡紅色紋絽の長襦袢の裾は上履の歩に緩く匂零して、絹足袋の雪に嫋々なる山茶花の開く心地す。
この麗き容をば見返り勝に静緒は壁側に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯きて昇れるに、櫛の蒔絵のいと能く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失ねて、凄き響の中にあなや僵れんと為たり。幸に怪我は無かりけれど、彼はなかなか己の怪我などより貴客を駭かせし狼藉をば、得も忍ばれず満面に慚ぢて、
「どうも飛んだ麁相を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処もお傷めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
こ度は薄氷を蹈む想して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些とお待ちなさい」
進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌て驚きて、
「あれ、恐入ります」
「可うございますよ。さあ、熟として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
争ひ得ずして竟に貴婦人の手を労せし彼の心は、溢るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書の内訓に出でたりとて屡ば父に聴さるる「五綵服を盛にするも、以つて身の華と為すに足らず、貞順道に率へば、乃ち以つて婦徳を進むべし」の本文に合ひて、かくてこそ始めて色に矜らず、その徳に爽かずとも謂ふべきなれ。愛でたき人にも遇へるかなと絶に思入りぬ。
三階に着くより静緒は西北の窓に寄り行きて、効々しく緑色の帷を絞り硝子戸を繰揚げて、
「どうぞ此方へお出あそばしまして。ここが一番見晴が宜いのでございます」
「まあ、好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀が匂ひますね、お邸内に在りますの?」
貴婦人はこの秋霽の朗に濶くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色して佇めり。窓を争ひて射入る日影は斜にその姿を照して、襟留なる真珠は焚ゆる如く輝きぬ。塵をだに容さず澄みに澄みたる添景の中に立てる彼の容華は清く鮮に見勝りて、玉壺に白き花を挿したらん風情あり。静緒は女ながらも見惚れて、不束に眺入りつ。
その目の爽にして滴るばかり情の籠れる、その眉の思へるままに画き成せる如き、その口元の莟ながら香に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃に光をさへ帯びたる、色の透るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢に、頭も重げに束ねられたれど、髪際の少く打乱れたると、立てる容こそ風にも堪ふまじく繊弱なれど、面の痩の過ぎたる為に、自ら愁う底寂きと、頸の細きが折れやしぬべく可傷きとなり。
されどかく揃ひて好き容量は未だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外せし麁忽ははや忘れて、見据うる流盻はその物を奪はんと覘ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍には見劣せらるること夥かり。彼は己の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止まざりき。実にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧づべき。婦の徳をさへ虧かでこの嬋娟に生れ得て、しかもこの富めるに遇へる、天の恵と世の幸とを併せ享けて、残る方無き果報のかくも痛き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者は愜はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨の念強けれど、妬しとは及び難くて、静緒は心に畏るるなるべし。
彼は貴婦人の貌に耽りて、その欵待にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西より持ち帰られし名器なるを、漸く取出して薦めたり。形は一握の中に隠るるばかりなれど、能く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉もて造られ、僅に黄金細工の金具を施したるのみ。
やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措くを忘らるるまでに愛でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽されて、彼はこの鏡の凡ならず精巧なるに驚ける状なり。
「那処に遠く些の小楊枝ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄に赤い柳条の模様まで昭然見えて、さうして旗竿の頭に鳶が宿つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度御座いませんさうで、招魂社のお祭の時などは、狼煙の人形が能く見えるのでございます。私はこれを見まする度にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜うございませう。余り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方の音が一所に成つて粉雑になつて了ひませう」
かく言ひて斉く笑へり。静緒は客遇に慣れたれば、可羞しげに見えながらも話を求むるには拙からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴きました折、殿様に全然騙されましたのでございます。鼻の前に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直にその眼鏡を耳に推付けて見ろ、早くさへ耳に推付ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
淀無く語出づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在でゐらつしやいましたが、皆為つて御覧遊ばしました」
貴婦人は怺へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水と申す者は余り急ぎましたので、耳の此処を酷く打ちまして、血を出したのでございます」
彼の歓べるを見るより静緒は椅子を持来りて薦めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西に居た時には能く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇を親く睹たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝れ遊ばしませんので、お険いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒に空目遣して物の思はしげに、例の底寂う打湿りて見えぬ。
やや有りて彼は徐に立ち上りけるが、こ回は更に邇きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方に差向くる筒の当所も無かりければ、偶ま唐楪葉のいと近きが鏡面に入り来て一面に蔓りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自から得忘れぬ面影に肖たるところあり。
貴婦人は差し向けたる手を緊と据ゑて、目を拭ふ間も忙く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉の遮りてとかくに思ふままならず。漸くその顔の明に見ゆる隙を求めけるが、別に相対へる人ありて、髪は黒けれども真額の瑩々禿げたるは、先に挨拶に出でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃く、外眦の昂れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖たりとは未や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡持てる手は兢々と打顫ひぬ。
行く水に数画くよりも儚き恋しさと可懐しさとの朝夕に、なほ夜昼の別も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年の久きを、熱海の月は朧なりしかど、一期の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日は必ずと念懸けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫も昔に渝らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何なる労をやさまでは積みけん、齢よりは面瘁して、異うも物々しき分別顔に老いにけるよ。幸薄く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁りて失したりと思ひたれど、所為無くハンカチイフを緊く目に掩てたり。静緒の驚駭は謂ふばかり無く、
「あれ、如何が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良ものですから、余り物を瞶めてをると、どうかすると眩暈がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭をお摩り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直に癒ります。憚ですがお冷を一つ下さいましな」
静緒は驀地に行かんとす。
「あの、貴方、誰にも有仰らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏りました」
彼の階子を下り行くと斉く貴婦人は再び鏡を取りて、葉越の面影を望みしが、一目見るより漸含む涙に曇らされて、忽ち文色も分かずなりぬ。彼は静無く椅子に崩折れて、縦まに泣乱したり。
この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継と倶に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交す間を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰も日本写真会々員たるに因れり。自ら宮の除物になりて二人の興に入れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意を獲んと力めけるより、子爵も好みて交るべき人とも思はざれど、勢ひ疎じ難くして、今は会員中善く識れるものの最たるなり。爾来富山は益す傾慕して措かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定を乞ふを名として、曩に芝西久保なる居宅に請じて疎ならず饗す事ありければ、その返とて今日は夫婦を招待せるなり。
会員等は富山が頻に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為にするところあらんなど言ひて陋み合へりけれど、その実敢て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交るところは、その地位に於て、その名声に於て、その家柄に於て、或はその資産に於て、孰の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実に彼は美き友を有てるなり。さりとて彼は未だ曾てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉めて交は求むるならん。故に彼はその名簿の中に一箇の憂を同うすべき友をだに見出さざるを知れり。抑も友とは楽を共にせんが為の友にして、若し憂を同うせんとには、別に金銭ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固よりこの理に外ならず、寔に彼の択べる友は皆美けれども、尽くこれ酒肉の兄弟たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然りと為すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を眊めて、陋みても猶余ある高利貸の手代に片思の涙を灑ぐにあらずや。
宮は傍に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏れて、熱海の浜に打俯したりし悲歎の足らざるをここに続がんとすなるべし。階下より仄に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭を支へつつ室の中央なる卓子の周囲を歩みゐたり。やがて静緒の持来りし水に漱ぎ、懐中薬など服して後、心地復りぬとて又窓に倚りて外方を眺めたりしが、
「ちよいと、那処に、それ、男の方の話をしてお在の所も御殿の続きなのですか」
「何方でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内でございます。これから直に見えまする、あの、倉の左手に高い樅の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直とお宅の方へ行かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
宮はここを去らんとして又葉越の面影を窺へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処にお父様とお話をしてゐらつしやるのは何地の方ですか」
彼の親達は常に出入せる鰐淵の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告るなり。
「他は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買を致してをります者の手代で、間とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
宮は聞えよがしに独語ちて、その違へるを訝るやうに擬しつつ又其方を打目戍れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
この物語に因りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何にとも逢ふべき便はあらんと、獲難き宝を獲たるにも勝れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇に、余所ながら見て別れんは本意無からずや。若し彼の眼に睨まれんとも、互の面を合せて、言は交さずとも切ては相見て相知らばやと、四年を恋に饑ゑたる彼の心は熬るる如く動きぬ。
さすがに彼の気遣へるは、事の危きに過ぎたるなり。附添さへある賓の身にして、賤きものに遇はるる手代風情と、しかもその邸内の径に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑や幾許り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面に唾吐るるも厭はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬は今日の一日に限らぬものを、事の破を目に見て愚に躁るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機ならず、辛くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺して、邸内を一周せんと、西洋館の後より通用門の側に出でて、外塀際なる礫道を行けば、静緒は斜に見ゆる父が詰所の軒端を指して、
「那処が唯今の客の参つてをります所でございます」
実に唐楪葉は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴けり。宮が胸は異うつと塞りぬ。
楼を下りてここに来たるは僅少の間なれば、よもかの人は未だ帰らざるべし、若しここに出で来らば如何にすべきなど、さすがに可恐きやうにも覚えて、歩は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入らで、さて行くほどに裏門の傍に到りぬ。
遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙れども何処を眺むるにもあらず、俯き勝に物思はしき風情なるを、静緒は怪くも気遣くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「家の中よりは戸外の方が未だ可いので、もう些と歩いてゐる中には復りますよ。ああ、此方がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿が盛ですこと。白ばかりも淡白して好いぢやありませんか」
畔柳の住居を限として、それより前は道あれども、賓の足を容るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣の此方に、樫の実の夥く零れて、片側に下水を流せる細路を鶏の遊び、犬の睡れるなど見るも悒きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼は忽ちその心を襲へり。
この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来るに会はば、遁れんやうはあらで明々地に面を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何にせん。仮令此方にては知らぬ顔してあるべきも、争でかの人の見付けて驚かざらん。固より恨を負へる我が身なれば、言など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭は如何ならん。仇に遇へるその憤懣は如何ならん。必ずかの人の凄う激せるを見ば、静緒は幾許我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉く身内は熱して冷き汗を出し、足は地に吸るるかとばかり竦みて、宮はこれを想ふにだに堪へざるなりけり。脇道もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣る方も無く惑へる宮が面色の穏からぬを見尤めて、静緒は窃に目を側めたり。彼はいとどその目を懼るるなるべし。今は心も漫に足を疾むれば、土蔵の角も間近になりて其処をだに無事に過ぎなば、と切に急がるる折しも、人の影は突としてその角より顕れつ。宮は眩きぬ。
これより帰りてともかくもお峯が前は好きやうに言譌へ、さて篤と実否を糺せし上にて私に為んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍目深に引側め、通学に馴されし疾足を駆りて、塗籠の角より斜に桐の並木の間を出でて、礫道の端を歩み来れり。
四辺に往来のあるにあらねば、二人の姿は忽ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾く知られけれど、顔打背けたる貴婦人の眩く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近けば、貫一は静緒に向ひて慇懃に礼するを、宮は傍に能ふ限は身を窄めて密に流盻を凝したり。その面の色は惨として夕顔の花に宵月の映へる如く、その冷なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚は打顫ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟くを、覚られじとすれば猶打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際に、ふと目鞘の走りて、館の賓なる貴婦人を一瞥せり。端無くも相互の面は合へり。宮なるよ! 姦婦なるよ! 銅臭の肉蒲団なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨めて動かざる眼には見る見る涙を湛へて、唯一攫にもせまほしく肉の躍るを推怺へつつ、窃に歯咬をなしたり。可懐しさと可恐しさと可耻しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付きても思ふままに苛まれんをと、心のみは憧れながら身を如何とも為難ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠むるより外はあらず。
貫一はつと踏出して始の如く足疾に過行けり。宮は附人に面を背けて、唇を咬みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁へねど、推すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓の顔色のさしも常ならず変りて可悩しげなるを、問出でんも可や否やを料りかねて、唯可慎う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出あそばして、お休み遊ばしましては如何でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可けませんから、お庭を一周しまして、その内には気分が復りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰います」
貴婦人はその無名指より繍眼児の押競を片截にせる黄金の指環を抜取りて、懐紙に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証に」
静緒は驚き怖れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様にも阿母様にも誰にも有仰らないやうに、ねえ」
受けじと為るを手籠に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑するが聞えぬ。
宮はこの散歩の間に勉めて気を平げ、色を歛めて、ともかくも人目を逭れんと計れるなり。されどもこは酒を窃みて酔はざらんと欲するに同かるべし。
彼は先に遭ひし事の胸に鏤られたらんやうに忘るる能はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出でて、募りに募らんとする心の乱は、堪ふるに難き痛苦を齎して、一歩は一歩より、胸の逼ること急に、身内の血は尽くその心頭に注ぎて余さず熬らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛ぎて意任せの我が家に独り居たらんぞ可き。人に接して強ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩しと、例の劇く唇を咬みて止まず。
築山陰の野路を写せる径を行けば、蹈処無く地を這ふ葛の乱れ生ひて、草藤、金線草、紫茉莉の色々、茅萱、穂薄の露滋く、泉水の末を引きて𥻘々水を卑きに落せる汀なる胡麻竹の一叢茂れるに隠顕して苔蒸す石組の小高きに四阿の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱しげに憩へり。
彼は静緒の柱際に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
その色の前にも劣らず蒼白めたるのみならで、下唇の何に傷きてや、少く血の流れたるに、彼は太く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何あそばしました」
ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴の花弁の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡取出して、咬むことの過ぎし故ぞと知りぬ。実に顔の色は躬も凄しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周して我はこの色を隠さんと為らんと、彼は心陰に己を嘲るなりき。
忽ち女の声して築山の彼方より、
「静緒さん、静緒さん!」
彼は走り行き、手を鳴して応へけるが、やがて木隠に語ふ気勢して、返り来ると斉く賓の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直に彼方へお出あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
道を転じて静緒は雲帯橋の在る方へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭きまで盃盤を陳ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
此方の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方に燈籠がございませう、あの傍へ些とお出で下さいませんか。一枚像して戴きたい」
写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立ちて、早くもカメラの覆を引被ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
いでや、事の様を見んとて、慢々と出来れるは富山唯継なり。片手には葉巻の半燻りしを撮み、片臂を五紋の単羽織の袖の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑を浮べつつ、
「ああ、おまへ其処に居らんければ可かんよ、何為歩いて来るのかね」
子爵の慌てたる顔はこの時毛繻子の覆の内よりついと顕れたり。
「可けない! 那処に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方は巧い言をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方へ。静緒、お前奥さんを那処へお連れ申して」
唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛つて頬杖でも拄いて、空を眺めてゐる状なども可いよ。ねえ、如何でせう」
「結構。結構」と子爵は頷けり。
心は進まねど強ひて否むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
かく呟きつつ庭下駄を引掛け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚しめ、頬杖を拄しめ、空を眺めよと教へて、袂の皺めるを展べ、裾の縺を引直し、さて好しと、少く退きて姿勢を見るとともに、彼はその面の可悩げに太くも色を変へたるを発見して、直に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処か不快のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私が訳を言つてお謝絶をするから」
「いいえ、宜うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭な色だ」
彼は眷々として去る能はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「如何ですか」
唯継は慌忙く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
鏡面に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板を挿入るれば、唯継は心得てその邇を避けたり。
空を眺むる宮が目の中には焚ゆらんやうに一種の表情力充満ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣は唐松の翠の下蔭に章を成して、秋高き清遠の空はその後に舗き、四脚の雪見燈籠を小楯に裾の辺は寒咲躑躅の茂に隠れて、近きに二羽の鵞の汀に𩛰るなど、寧ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽ち頽れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破と伏しぬ。
遊佐良橘は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗る謹直を以て聞えしに、却りて、日本周航会社に出勤せる今日、三百円の高利の為に艱さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外を張らざるべからざる為の遣繰なるべしと言ひ、或ものは隠遊の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂ふべからざる事情の下に連帯の印を仮せしが、形の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助とあるのみ。
凡そ高利の術たるや、渇者に水を売るなり。渇の甚く堪へ難き者に至りては、決してその肉を割きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値玉漿を盛るに異る無し。故に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒るに及びては、玉漿なりとして喜び吃せしものは、素と下水の上澄に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以て、高利は借るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹れる哉と、彼は人の為ながら常にこの憂を解く能はざりき。
近きに郷友会の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰さを彼等は三人打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走と云つては無いけれど、松茸の極新いのと、製造元から貰つた黒麦酒が有るからね、鶏でも買つて、寛り話さうぢやないか」
遊佐が弄れる半月形の熏豚の罐詰も、この設にとて途に求めしなり。
蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然し、どうもその長足のちやうはてう(貂)足らず、続ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然フロックが止つた? ははははは、それはお目出度いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
風早は例の皺嗄声して大笑を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖をして二寸三分クロオスを裂かなければ可けません」
蒲「三たび臂を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳の手際も知らんで」
これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処の主翁がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失る……」
蒲「穿得て妙だ」
風「チョオクの多少は業の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇に杖を取易へるのだつて、決して見とも好くはない」
蒲田は手もて遽に制しつ。
「もう、それで可い。他の非を挙げるやうな者に業の出来た例が無い。悲い哉君達の球も蒲田に八十で底止だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
語も訖らざるに彼は傍腹に不意の肱突を吃ひぬ。
「あ、痛! さう強く撞くから毎々球が滾げ出すのだ。風早の球は暴いから癇癪玉と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔いから蒟蒻玉。それで、二人の撞くところは電公と蚊帳が捫択してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度も行かんが、天狗の風早に二十遣るのさ」
二人は劣らじと諍ひし末、直に一番の勝負をいざいざと手薬煉引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛り出来るさ。帰つて風呂にでも入つて、それから徐々始めやうよ」
往来繁き町を湯屋の角より入れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑りながら閑静に、家並整へる中程に店蔵の質店と軒ラムプの並びて、格子木戸の内を庭がかりにしたる門に楪葉の立てるぞ遊佐が居住なる。
彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出で来りて、伴へる客あるを見て稍打惑へる気色なりしが、遽に笑を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤められて、彼はいよいよ困じたるなり。
「唯今些と塞つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
勝手を知れる客なれば傱々と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些とお会ひなすつて、早く還してお了ひなさいましな」
「松茸はどうした」
妻はこの暢気なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私は那奴が居ると思ふと不快な心持で」
遊佐も差当りて当惑の眉を顰めつ。二階にては例の玉戯の争なるべし、さも気楽に高笑するを妻はいと心憎く。
少間ありて遊佐は二階に昇り来れり。
蒲「浴に一つ行かうよ。手拭を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
実に言ふが如く彼は心穏かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸が来てをるのだよ」
蒲「那物が来たのか」
遊「先から座敷で帰来を待つてをつたのだ。困つたね!」
彼は立ちながら頭を抑へて緩く柱に倚れり。
蒲「何とか言つて逐返して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍した皮肉な奴でね、那奴に捉つたら耐らん」
蒲「二三円も叩き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々なのでね、他は書替を為せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮つて」
「これは外の談判と違つて唯金銭づくなのだから、素手で飛込むのぢや弁の奮ひやうが無いよ。それで忽諸すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀を為るから」
いと難しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可かない。ああ云ふ風だから益す脚下を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭の貸借だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利を貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利や無利息なんぞを借りるから見れば、夐に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭に窮らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為まいし、名誉に於て傷くところは少しも無い」
「恐入りました、高利を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚づべき行と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能はざるなりだらう。宋の時代であつたかね、何か乱が興つた。すると上奏に及んだものがある、これは師を動かさるるまでもない、一人の将を河上へ遣して、賊の方に向つて孝経を読せられた事ならば、賊は自から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割と吃つて一月隔に血を吮れる。そんな無法な目に遭ひながら、未だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族さ」
得意の快弁流るる如く、彼は息をも継せず説来りぬ。
「濡れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな悞だ。それは勿論借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物にして一物ならずだよ。武士の魂と商人根性とは元是一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容さんことは、武士の魂と敢て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利を借りて、栄と為るに足れりと謂ふに至つては……」
蒲田は恐縮せる状を作して、
「それは少し白馬は馬に非ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕深く探る蛟鰐の淵と出掛けやうか」
「空拳を奈んだらう」
一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独り臥つ起きつ安否の気遣れて苦き無聊に堪へざる折から、主の妻は漸く茶を持ち来りぬ。
「どうも甚だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
彼はその美き顔を少く赧めて、
「はい、あの居間へお出で、紙門越に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「私はもう彼奴が参りますと、惣毛竪つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭に陰気な韌々した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
急足に階子を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
と上端に坐れる妻の背後を過るとて絶かその足を蹈付けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
骨身に沁みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺へつつ、さり気無く挨拶せるを、風早は見かねたりけん、
「不相変麁相かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「落付れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸と云ふのは、誰だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面を蹈んだ」
「でも仕合と皮の厚いところで」
「怪しからん!」
妻の足の痛は忽ち下腹に転りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た⁈」
「さう! 驚いたらう」
彼は長き鼻息を出して、空く眼を瞪りしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
別して呆れたるは主の妻なり。彼は鈍ましからず胸の跳るを覚えぬ。同じ思は二人が面にも顕るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友なのでございますか」
蒲田は忙しげに頷きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「夙て学校を罷めてから高利貸を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和い男で、高利貸などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚と想ふのです」
「本にさうでございますね」
少き前に起ちて行きし風早は疑を霽して帰り来れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影があるだらう」
「エッセクスを逐払はれた時の面影だ。然し彼奴が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
主の妻はその美き顔を皺めたるなり。
蒲「随分酷うございますか」
妻「酷うございますわ」
こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽に取りて飲干し、
「然し間であるのが幸だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕なことは言ひもすまい。次手に何とか話を着けて、元金だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴なら恐れることは無い」
彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些と気凛とするが可い、帯の下へ時計の垂下つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主の妻は傍より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様です。些と身支度に婦人の心添を受けるところは堀部安兵衛といふ役だ。然し芝居でも、人数が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間如きに」
「急に強くなつたから可笑い。さあ。用意は好いよ」
「此方も可い」
二人は膝を正して屹と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討の門出だ。互に交す茶盃か」
座敷には窘める遊佐と沈着きたる貫一と相対して、莨盆の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍に茶托の上に伏せたる茶碗は、嘗て肺病患者と知らで出せしを恐れて除物にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
遊佐は憤を忍べる声音にて、
「それは出来んよ。勿論朋友は幾多も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
貫一の声は重きを曳くが如く底強く沈みたり。
「敢て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私の方が立ちません。何方とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固より貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼として、何方でも承諾なさりさうなものですがな。究竟名義だけあれば宜いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「何方でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論差押です」
遊佐は強ひて微笑を含みけれど、胸には犇と応へて、はや八分の怯気付きたるなり。彼は悶えて捩断るばかりにその髭を拈り拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金で貴方の御名誉を傷けて、後来御出世の妨碍にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決して可好くはないのです。けれども、此方の請求を容れて下さらなければ已むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金の上に借用当時から今日までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強、それと合して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書される! 余り馬鹿々々しくて話にならん。此方の身にも成つて少しは斟酌するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
空嘯きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
遊佐は陰に切歯をなしてその横顔を睨付けたり。
彼も逭れ難き義理に迫りて連帯の印捺きしより、不測の禍は起りてかかる憂き目を見るよと、太く己に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸くることもやと、断じて貫一の請求を容れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷るとともに貫一もこの場は一寸も去らじと構へたれば、遊佐は羂に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜りて一点の人情無き賤奴の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日にお払ひ下さるべきのを、未だにお渡が無いのですから、何日でも御催促は出来るのです」
遊佐は拳を握りて顫ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空く帰るその日当及び俥代として下すつたから戴きました。ですから、若しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜い訳なのです。まあ、過去つた事は措きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「今日はその事で上つたのではないのですから、今日の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有るのですな」
「出来ん!」
「で、金も下さらない?」
「無いから遣れん!」
貫一は目を側めて遊佐が面を熟と候へり。その冷に鋭き眼の光は異く彼を襲ひて、坐に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽ち吾に復れるやうに覚えて、身の危きに処るを省みたり。一時を快くする暴言も竟に曳れ者の小唄に過ぎざるを暁りて、手持無沙汰に鳴を鎮めつ。
「では、何ごろ御都合が出来るのですか」
機を制して彼も劣らず和ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰るところは少しも有りはしません、その代り何分か今日お遣し下さい」
かく言ひつつ手鞄を開きて、約束手形の用紙を取出せり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少で宜いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円は有りはせん」
「それぢや、どうも」
彼は遽に躊躇して、手形用紙を惜めるやうに拈るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
折から紙門を開きけるを弗と貫一の睼ふる目前に、二人の紳士は徐々と入来りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少く座を動ぎて容を改めたり。紳士は上下に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作せり。
蒲「どうも曩から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
貫一は愕然として二人の面を眺めたりしが、忽ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出せるなり。
「これはお珍い。何方かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲りませう」
貫一は打笑みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
彼の毫も愧づる色無きを見て、二人は心陰に呆れぬ。侮りし風早もかくては与し易からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然し思切つた事を始めましたね。君の性質で能くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業ぢやありませんな」
これ実に真人間にあらざる人の言なり。二人はこの破廉耻の老面皮を憎しと思へり。
蒲「酷いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私のやうな者が憖ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧真人間で居てもらひたいね」
風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分浮名の聒かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
貫一は知らざる為してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
よしその旧友の前に人間の面を赧めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印を願ひます」
彼は矢立の筆を抽きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些と、その手形はどう云ふのですね」
貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程御尤、そこで少しお話を為たい」
蒲田は姑く助太刀の口を噤みて、皺嗄声の如何に弁ずるかを聴かんと、吃余の葉巻を火入に挿して、威長高に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
彼も答へず、これも少時は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
「究竟君の方に損の掛らん限は減けてもらひたいのだ。知つての通り、元金の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処は能く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹つたので、如何にも気の毒な次第。ところで、図らずも貸主が君と云ふので、轍鮒の水を得たる想で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林が従来三回に二百七十円の利を払つて在る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費はずに空に出るのだから随分辛い話、君の方は未だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前にはなつてゐる、此方は三百九十円の全損だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
「全でお話にならない」
秋の日は短しと謂はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面を注視せし風早と蒲田との眼は、更に相合うて瞋れるを、再び彼方に差向けて、いとど厳く打目戍れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印を願ひませう。日限は十六日、宜うございますか」
この傍若無人の振舞に蒲田の怺へかねたる気色なるを、風早は目授して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何とも手の着けやうが無い。対手が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
「私は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
遊佐はその独に計ひかねて覚束なげに頷くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒はこの時衝くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰が門に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然き挨拶を為たまへ」
「お話がお話だから可然き御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間! 貴様の頭脳は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑したこの有様を、荒尾譲介に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱いでゐたぞ。その一言に対しても少しは良心の眠を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形はそれで一先附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜い」
「ではさう為つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦は」
「ええ? 常談ぢやありません」
さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日内に篤と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰るで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方御承諾なすつて置きながら今になつて遅々なすつては困ります」
蒲「疫病神が戸惑したやうに手形々々と煩い奴だ。俺が始末をして遣らうよ」
彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
かかる事は能く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈は無い」
貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂けて、
「九十円が元金、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利の定法です」
音もせざれど遊佐が胆は潰れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
蒲田は物をも言はず件の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶も引裂き引裂き、引捩りて間が目先に投遣りたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰に懼を作して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
蒲田は仡と膝を前めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
彼の鬼臉なるをいと稚しと軽しめたるやうに、間はわざと色を和げて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為さい」
蒲田が腕は電光の如く躍りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴に無図と捉りたり。
「間、貴様は……」
捩向けたる彼の面を打目戍りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠つて煖炉の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼、順い間を、と力抜がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
鷹に遭へる小鳥の如く身動し得為で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自から別問題……」
彼は忽ち吭迫りて言ふを得ず、蒲田は稍強く緊めたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸が止るぞ」
貫一は苦しさに堪へで振釈かんと捥けども、嘉納流の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴くするなよ」
蒲田は哄然として大笑せり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝にある図だらう。惟ふに、凡そ国利を護り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争は抑も誰の手で公明正大に遺憾無く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰く戦!」
風「もう釈してやれ、大分苦しさうだ」
蒲「強国にして辱められた例を聞かん、故に僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷い目に遭せると、僕の方へ報つて来るから、もう舎してくれたまへな」
他の言に手は弛めたれど、蒲田は未だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
「吭を緊められても出す音は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面を五百円の紙幣束でお撲きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
油断せる貫一が左の高頬を平手打に絶か吃すれば、呀と両手に痛を抑へて、少時は顔も得挙げざりき。蒲田はやうやう座に復りて、
「急には此奴帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為う」
「さあ、それも可からう」
独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨くないね。さうして形が付かなければ、何時までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞になつてこればかり遺られたら猶困る」
「宜い、帰去には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
と彼は横手を拍ちて不意に※〈[#「口+斗」、U+544C、170-16]〉べば、
「ええ、吃驚する、何だ」
「憶出した。間の許婚はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日ぢや大きに日済などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為しちや可かんよ。けれども高利貸などは、これで却つて女子には温いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪る所以の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨を殖へるやうだがな、譬へば、軍用金を聚めるとか、お家の宝を質請するとか。単に己の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多のガリガリ亡者は論外として、間貫一に於ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存するのだらう」
秋の日は忽ち黄昏れて、稍早けれど燈を入るるとともに、用意の酒肴は順を逐ひて運び出されぬ。
「おつと、麦酒かい、頂戴。鍋は風早の方へ、煮方は宜くお頼み申しますよ。うう、好い松茸だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白で、庖丁が軋むやうでなくては。今年は不作だね、瘠せてゐて、虫が多い、あの雨が障つたのさ。間、どうだい、君の目的は」
「唯貨が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃飲んで、今日は機嫌好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
「私は酒は不可のです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
差付けらるるを推除くる機に、コップは脆くも蒲田の手を脱れば、莨盆の火入に抵りて発矢と割れたり。
「何を為る!」
貫一も今は怺へかねて、
「どうしたと!」
やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板を衝れて、一耐もせず仰様に打僵けたり。蒲田はこの隙に彼の手鞄を奪ひて、中なる書類を手信に掴出せば、狂気の如く駈寄る貫一、
「身分に障るぞ!」と組み付くを、利腕捉つて、
「黙れ!」と捩伏せ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴を取つて了ひ給へ」
これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余に暴なるを快しと為ざるなりき。貫一は駭きて、撥返さんと右に左に身を揉むを、蹈跨りて捩揚げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期に及んで! 躊躇するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
手を出しかねたる二人を睨廻して、蒲田はなかなか下に貫一の悶ゆるにも劣らず、独り業を沸して、効無き地鞴を踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善くない、善くない」
「善いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を懵然してゐるのだ」
彼はほとほと慄きて、寧ろ蒲田が腕立の紳士にあるまじきを諌めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入りながら手を空うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上れば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
かく言捨てて蒲田は片手して己の帯を解かんとすれば、時計の紐の生憎に絡るを、躁りに躁りて引放さんとす。
風「独でどうするのだよ」
彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴を蹈縛つて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏でないから、それだけは思ひ止り給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴の言ふ事が!」
間は苦き声を搾りて、
「きつと話を付けるから、この手を釈してくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方の要求を容れるか」
間「容れる」
詐とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫けて、竟に貫一を放ちてけり。
身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚め、鞄を拾ひてその中に捩込み、さて慌忙く座に復りて、
「それでは今日はこれでお暇をします」
蒲田が思切りたる無法にこの長居は危しと見たれば、心に恨は含みながら、陽には克はじと閉口して、重ねて難題の出でざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱に呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容れん内は、今度は此方が還さんぞ」
膝推向けて迫寄る気色は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮から散々の目に遭されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
忽ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑して、
「間、貴様は犬の糞で仇を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今毎でも蒲田が現れて取挫いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇は取らない」
「利いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処まで送らう」
遊佐と風早とは起ちて彼を送出せり。主の妻は縁側より入り来りぬ。
「まあ、貴方、お蔭様で難有う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些と壮士芝居といふところを」
「大相宜い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
件の騒動にて四辺の狼藉たるを、彼は効々しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛り召上つて下さいまし」
妻の喜は溢るるばかりなるに引易へて、遊佐は青息呴きて思案に昏れたり。
「弱つた! 君がああして取緊めてくれたのは可いが、この返報に那奴どんな事を為るか知れん。明日あたり突然と差押などを吃せられたら耐らんな」
「余り蒲田が手酷い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前を考へて遣つてくれなくては他迷惑だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
蒲田は袂の中を撈りて、揉皺みたる二通の書類を取出しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
何ならんと主の妻も鼻の下を延べて窺へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
彼は先づその一通を取りて披見るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
二人は蒲田が案外の物持てるに驚されて、各息を凝して瞪れる眼を動さず。蒲田も無言の間に他の一通を取りて披けば、妻はいよいよ近きて差覗きつ。四箇の頭顱はラムプの周辺に麩に寄る池の鯉の如く犇と聚れり。
「これは三百円の証書だな」
一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前なる遊佐良橘の名をも署したり、蒲田は弾機仕掛のやうに躍り上りて、
「占めた! これだこれだ」
驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤の鉢の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭に銚子を薙倒して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋の活動を失へるやうにて幾度も捉へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽ち胸塞りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ‼ 難有い※〈[#感嘆符三つ、177-14]〉」
証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六の目を以て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明めたり。
「君はどうしたのだ」
風早の面はかつ呆れ、かつ喜び、かつ懼るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒の満を引きし蒲田は「血は大刀に滴りて拭ふに遑あらざる」意気を昂げて、
「何と凄からう。奴を捩伏せてゐる中に脚で掻寄せて袂へ忍ばせたのだ――早業さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘ふ敵の証書ならんとは、全く天の善に与するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方へ取つて了へば、三百円は蹈めるのかね」
蒲「大蹈め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動したつて『河童の皿に水の乾いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然蹈むのもさすがに不便との思召を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜く樽爼の間に折衝して、遊佐家を泰山の安きに置いて見せる。嗚呼、実に近来の一大快事だ!」
人々の呆るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方が音頭をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒開けんといふに励されて、さては一生の怨敵退散の賀と、各漫に前む膝を聚めて、長夜の宴を催さんとぞ犇いたる。
茫々たる世間に放れて、蚤く骨肉の親むべき無く、況や愛情の温むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然として横はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊らず、母の一部分となし、妹の一部分となし、或は父の、兄の一部分とも為して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒に値せしなり、故に彼の恋は青年を楽む一場の風流の麗き夢に似たる類ならで、質はその文に勝てるものなりけり。彼の宮に於けるは都ての人の妻となすべき以上を妻として、寧ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時に花を着くる心地して、曩の枯野に夕暮れし石も今将た水に温み、霞に酔ひて、長閑なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃になり勝れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙く宮を奪はれし貫一が心は如何なりけん。身をも心をも打委せて詐ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己に反きて、空く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何なりけん。彼はここに於いて曩に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥を感ずるのみにて止らず、失望を添へ、恨を累ねて、かの塊然たる野末の石は、霜置く上に凩の吹誘ひて、皮肉を穿ち来る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併せて取去られしなり。
彼は或はその恨を抛つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦太くその心を傷けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強ふる痛苦は、能く彼の痛苦と相剋して、その間聊か思を遣るべき余地を窃み得るに慣れて、彼は漸く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵に遇ひ、悪徒に罹りて、或は弄ばれ、或は欺かれ、或は脅され勢毒を以つて制し、暴を以つて易ふるの已むを得ざるより、一はその道の習に薫染して、彼は益す懼れず貪るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻つやうに募ることありて、心も消々に悩まさるる毎に、齷齰利を趁ふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐はざるにあらず。唯その一旦にして易く、又今の空き死を遂げ了らんをば、いと効為しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度前の失望と恨とを霽し得て、胸裡の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨ぐが如く為ざらん、その夕ぞ我は正に死ぬべきと私に慰むるなりき。
貫一は一はかの痛苦を忘るる手段として、一はその妄執を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪れるなり。知らず彼がその夕にして瞑せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少く事の大きく男らしくあらんをば企図せるなり。然れども、痛苦の劇く、懐旧の恨に堪へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆ちぬ。
「唉、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐に勝だ。死んでさへ了へば万慮空くこの苦艱は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨が有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今俺の貯へた貨は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂ふだらう。俺には無い! 第一貨などを持つてゐるやうな気持さへ為んぢやないか。失望した身にはその望を取復すほどの宝は無いのだ。唉、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜された宮は、決して旧の宮ではなければ、もう間の宝ではない。間の宝は五年前の宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋いのは宮だ。かうしてゐる間も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫、鴫沢の宮! 五年前の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲られんのだ! 思へば貨もつまらん。少いながらも今の貨が熱海へ追つて行つた時の鞄の中に在つたなら……ええ‼」
頭も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見の底に逍遙せし富山が妻との姿は、双々貫一が身辺を彷徨して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮さざること仇敵の如く、債務を逼りて酷を極むるなり。退いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽ち勢に駆られて断行するを憚らざるなり。かくして彼の心に拘ふ事あれば、自ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素より彼は正を知らずして邪を為し、是を喜ばずして非を為すものにあらざれば、己を抂げてこれを行ふ心苦しさは俯して愧ぢ、仰ぎて懼れ、天地の間に身を置くところは、纔にその容るる空間だに猶濶きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐に忍ぶの易く、体のまた胖なるをさへ感ずるなりけり。
一向に神を労し、思を費して、日夜これを暢るに遑あらぬ貫一は、肉痩せ、骨立ち、色疲れて、宛然死水などのやうに沈鬱し了んぬ。その攅めたる眉と空く凝せる目とは、体力の漸く衰ふるに反して、精神の愈よ興奮するとともに、思の益す繁く、益す乱るるを、従ひて芟り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟に如何に為ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤なりし髪は、後脳の辺に若干の白きを交へて、額に催せし皺の一筋長く横はれるぞ、その心の窄れる襞ならざるべき、況んや彼の面を蔽へる蔭は益す暗きにあらずや。
吁、彼はその初一念を遂げて、外面に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜つるを得たりけるなり。貪欲界の雲は凝りて歩々に厚く護り、離恨天の雨は随所直に灑ぐ、一飛一躍出でては人の肉を啖ひ、半生半死入りては我と膓を劈く。居る所は陰風常に廻りて白日を見ず、行けども行けども無明の長夜今に到るまで一千四百六十日、逢へども可懐き友の面を知らず、交れども曾て情の蜜より甘きを知らず、花咲けども春日の麗なるを知らず、楽来れども打背きて歓ぶを知らず、道あれども履むを知らず、善あれども与するを知らず、福あれども招くを知らず、恵あれども享くるを知らず、空く利欲に耽りて志を喪ひ、偏に迷執に弄ばれて思を労らす、吁、彼は終に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目せざるはあらずなりぬ。
かの堪ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻なる厳談酷促は自から此処に彼処に債務者の怨を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡からず、同業者といへども時としては彼の余に用捨無きを咎むるさへありけり。独り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出さざるを誇れるなり。彼は己の今日あるを致せし辛抱と苦労とは、未だ如此くにして足るものならずとて、屡ばその例を挙げては貫一を𠹤し、飽くまで彼の意を強うせんと勉めき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然の理にて、己の為すところは都ての同業者の為すところにて、己一人の残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此く残刻ならざるべからずと念へるなり。故に彼は決して己の所業のみ独り怨を買ふべきにあらずと信じたり。
実に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛うじてその半を想ひ得る残刻と、終に学ぶ能はざる譎詐とを左右にして、始めて今日の富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐とを擅にして、なほ天に畏れず、人に憚らざる不敵の傲骨あるにあらず。彼は密に警めて多く夜出でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝まず、唯これ身の無事を祈るに汲々として、自ら安ずる計をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正にこの信心の致すところと仕へ奉る御神の冥護を辱なみて措かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐とに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一も曾て犯せる事のあらざりしに、天は却りて己を罰し人は却りて己を詐り、終生の失望と遺恨とは濫に断膓の斧を揮ひて、死苦の若かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼るべき無しと為るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自の心のみなりけり。
用談果つるを俟ちて貫一の魚膠無く暇乞するを、満枝は暫しと留置きて、用有りげに奥の間にぞ入りたる。その言の如く暫し待てども出で来ざれば、又巻莨を取出しけるに、手炉の炭は狼の糞のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座に毛糸の敷物したる石笠のラムプの燄を仮りて、貫一は為う事無しに煙を吹きつつ、この赤樫の客間を夜目ながら眗しつ。
袋棚なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬の一輪挿、蝋石の飾玉を水色縮緬の三重の褥に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入は松に隼の勧工場蒔絵金々として、花を見ず。鋳物の香炉の悪古びに玄ませたると、羽二重細工の花筐とを床に飾りて、雨中の富士をば引攪旋したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜は目貫を打つたるかとばかり雲間に耀ける横物の一幅。頭を回らせば、楣間に黄海大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅には二鉢の菊を据ゑたり。
やや有りて出来れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸けたる小袖に納戸小紋の縮緬の羽織着て、七糸と黒繻子との昼夜帯して、華美なるシオウルを携へ、髪など撫付けしと覚く、面も見違ふやうに軽く粧ひて、
「大変失礼を致しました。些と私も其処まで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」
無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼に貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
聴き飽きたりと謂はんやうに彼は取合はで、
「それぢや参りませう。貴方は何方までお出なのですか」
「私は大横町まで」
二人は打連れて四谷左門町なる赤樫の家を出でぬ。伝馬町通は両側の店に燈を列ねて、未だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚ければ、往来も稀に、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜いぢやございませんか。それではお話が達きませんわ」
彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄りて歩めり。
「これぢや私が歩き難いです」
「貴方お寒うございませう。私お鞄を持ちませう」
「いいや、どういたして」
「貴方恐入りますが、もう少し御緩りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸が切れて……」
已む無く彼は加減して歩めり。満枝は着重るシォウルを揺上げて、
「疾から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而のやうな事は再び申上げませんから。些といらしつて下さいましな」
「は、難有う」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
「御機嫌伺の」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
「では、恋い時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞をします」
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
唯見れば伝馬町三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為ずして立住りつ。
「それぢや私はここで失礼します」
その不意に出でて貫一の闇き横町に入るを、
「あれ、貴方、其方からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂い道をお出なさらなくても、此方の方が順ではございませんか」
満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方が余程近いのですから」
「幾多も違ひは致しませんのに、賑かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附の所までお送り申しますから」
「貴方に送つて戴いたつて為やうが無い。夜が更けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転を有仰らなくても宜うございます」
かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識其方に歩ませられし満枝は、やにはに立竦みて声を揚げつ。
「ああ! 間さん些と」
「どうしました」
「路悪へ入つて了つて、履物が取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へお出でなさらんが可いのに」
彼は渋々寄り来れり。
「憚様ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
シォウルの外に援を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は踽きつつ泥濘を出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて摚と貫一に靠れたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方の所為でございますよ」
「馬鹿なことを」
彼はこの時扶けし手を放たんとせしに、釘付などにしたらんやうに曳けども振れども得離れざるを、怪しと女の面を窺へるなり。満枝は打背けたる顔の半をシオウルの端に包みて、握れる手をば弥よ固く緊めたり。
「さあ、もう放して下さい」
益す緊めて袖の中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
女は一語も言はず、面も背けたるままに、その手は益放たで男の行く方に歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、後から人が来る」
「宜うございますよ」
独語つやうに言ひて、満枝は弥寄添ひつ。貫一は怺へかねて力任せに吽と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、痛! そんな酷い事をなさらなくても、其処の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
と暴かに引払ひて、寄らんとする隙もあらせず摩脱くるより足を疾めて津守坂を驀直に下りたり。
やうやう昇れる利鎌の月は乱雲を芟りて、逈き梢の頂に姑く掛れり。一抹の闇を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割とは、懶く寝覚めたるやうに覚束なき形を顕しぬ。坂上なる巡査派出所の燈は空く血紅の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終に見えず。
片側町なる坂町は軒並に鎖して、何処に隙洩る火影も見えず、旧砲兵営の外柵に生茂る群松は颯々の響を作して、その下道の小暗き空に五位鷺の魂切る声消えて、夜色愁ふるが如く、正に十一時に垂んとす。
忽ち兵営の門前に方りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者に囲れたるなり。一人は黒の中折帽の鐔を目深に引下し、鼠色の毛糸の衿巻に半面を裹み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿高々と尻褰して、黒足袋に木裏の雪踏を履き、六分強なる色木の弓の折を杖にしたり。他は盲縞の股引腹掛に、唐桟の半纏着て、茶ヅックの深靴を穿ち、衿巻の頬冠に鳥撃帽子を頂きて、六角に削成したる檳榔子の逞きステッキを引抱き、いづれも身材貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼どもなり。
「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に障へて、
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手にならう。物取ならば財はくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
答は無くて揮下したる弓の折は貫一が高頬を発矢と打つ。眩きつつも迯行くを、猛然と追迫れる檳榔子は、件の杖もて片手突に肩の辺を曳と突いたり。踏み耐へんとせし貫一は水道工事の鉄道に跌きて仆るるを、得たりと附入る曲者は、余に躁りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方に反跳を打ちて投飛されぬ。入替りて一番手の弓の折は貫一の背を袈裟掛に打据ゑければ、起きも得せで、崩折るるを、畳みかけんとする隙に、手元に脱捨てたりし駒下駄を取るより早く、彼の面を望みて投げたるが、丁と中りて痿むその時、貫一は蹶起きて三歩ばかりも逭れしを打転けし檳榔子の躍り蒐りて、拝打に下せる杖は小鬢を掠り、肩を辷りて、鞄持つ手を断れんとすばかりに撲ちけるを、辛くも忍びてつと退きながら身構しが、目潰吃ひし一番手の怒を作して奮進し来るを見るより今は危しと鞄の中なる小刀撈りつつ馳出づるを、輙く肉薄せる二人が笞は雨の如く、所嫌はぬ滅多打に、彼は敢無くも昏倒せるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴おれの鼻面へ下駄を打着けよつた、ああ、痛」
衿巻掻除けて彼の撫でたる鼻は朱に染みて、西洋蕃椒の熟えたるに異らず。
檳「おお、大変な衂ですぜ」
貫一は息も絶々ながら緊と鞄を掻抱き、右の逆手に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉に及ばば為んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体を装ひ、直呻きにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分撲つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
かくて曲者は間近の横町に入りぬ。辛うじて面を擡げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通に、精神漸く乱れて、屡ば前後を覚えざらんとす。
〈[#改ページ]〉
後編
翌々日の諸新聞は坂町に於ける高利貸遭難の一件を報道せり。中に間貫一を誤りて鰐淵直行と為るもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識らざる読者は湯屋の喧嘩も同じく、三ノ面記事の常套として看過すべく、何の遑かその敵手の誰々なるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利かずなるまで撃踣されざりしを本意無く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為せる業ならんとは、諸新聞の記せる如く、人も皆思ふところなりけり。
直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協せて貫一の災難を悲み、何程の費をも吝まず手宛の限を加へて、少小の瘢をも遺さざらんと祈るなりき。
股肱と恃み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見の為に、彼が入院中を目覚くも厚く賄ひて、再び手出しもならざらんやう、陰ながら卑怯者の息の根を遏めんと、気も狂く力を竭せり。
彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出で来るべきを思過して、若しさるべからんには如何にか為べき、この悲しさ、この口惜しさ、この心細さにては止まじと思ふに就けて、空可恐く胸の打騒ぐを禁め得ず。奉公大事ゆゑに怨を結びて、憂き目に遭ひし貫一は、夫の禍を転じて身の仇とせし可憫さを、日頃の手柄に増して浸々難有く、かれを念ひ、これを思ひて、絶に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧づること、懼るること、疚きことなどの常に抑へたるが、忽ち涌立ち、跳出でて、その身を責むる痛苦に堪へざるなりき。
年久く飼るる老猫の凡そ子狗ほどなるが、棄てたる雪の塊のやうに長火鉢の猫板の上に蹲りて、前足の隻落して爪頭の灰に埋るるをも知らず、齁をさへ掻きて熟睡したり。妻はその夜の騒擾、次の日の気労に、血の道を悩める心地にて、懵々となりては驚かされつつありける耳元に、格子の鐸の轟きければ、はや夫の帰来かと疑ひも果てぬに、紙門を開きて顕せる姿は、年紀二十六七と見えて、身材は高からず、色やや蒼き痩顔の険しげに口髭逞く、髪の生ひ乱れたるに深々と紺ネルトンの二重外套の襟を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁の眼鏡を挿みて、稜ある眼色は見る物毎に恨あるが如し。
妻は思設けぬ面色の中に喜を漾へて、
「まあ直道かい、好くお出だね」
片隅に外套を脱捨つれば、彼は黒綾のモオニングの新からぬに、濃納戸地に黒縞の穿袴の寛なるを着けて、清ならぬ護謨のカラ、カフ、鼠色の紋繻子の頸飾したり。妻は得々起ちて、その外套を柱の折釘に懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父さんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕いて飛んで来たのです。容体はどうです」
彼は時儀を叙ぶるに迨ばずして忙しげにかく問出でぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作りはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我を為つて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれは間さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭だね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然とさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来だらう。まあ寛々してお在な」
かくと聞ける直道は余の不意に拍子抜して、喜びも得為ず唖然たるのみ。
「ああ、さうですか、間が遣られたのですか」
「ああ、間が可哀さうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」
「どんなです、新聞には余程劇いやうに出てゐましたが」
「新聞に在る通だけれど、不具になるやうな事も無いさうだが、全然快くなるには三月ぐらゐはどんな事をしても要るといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父さんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛は十分にしてあるのだから、決して気遣は無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少し摧けたとかで、手が緩縦になつて了つたの、その外紫色の痣だの、蚯蚓腫だの、打切れたり、擦毀したやうな負傷は、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部を撲れたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つてお在ださうだけれど、今のところではそんな塩梅も無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込んだ時は半死半生で、些の虫の息が通つてゐるばかり、私は一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね」
「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました」
「何ととは?」
「間が闇打にされた事を」
「いづれ敵手は貸金の事から遺趣を持つて、その悔し紛に無法な真似をしたのだらうつて、大相腹を立ててお在なのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人い人だから、つまらない喧嘩なぞを為る気遣はなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更気の毒で、何とも謂ひやうが無い」
「間は若いから、それでも助るのです、阿父さんであつたら命は有りませんよ、阿母さん」
「まあ可厭なことをお言ひでないな!」
浸々思入りたりし直道は徐にその恨き目を挙げて、
「阿母さん、阿父さんは未だこの家業をお廃めなさる様子は無いのですかね」
母は苦しげに鈍り鈍りて、
「さうねえ……別に何とも……私には能く解らないね……」
「もう今に応報は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭つたのは、決して人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
「それは言ふも可いけれど、従来も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些もお聴きではないぢやないか。とても他の言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑つてお在よ、よ」
「私だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑つてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没して了ひたいと熟く思ふのです。噫、こんな事なら未だ親子で乞食をした方が夐に可い」
彼は涙を浮べて倆きぬ。母はその身も倶に責めらるる想して、或は可慚く、或は可忌く、この苦き位置に在るに堪へかねつつ、言解かん術さへ無けれど、とにもかくにも言はで已むべき折ならねば、辛じて打出しつ。
「それはもうお前の言ふのは尤だけれど、お前と阿父さんとは全で気合が違ふのだから、万事考量が別々で、お前の言ふ事は阿父さんの肚には入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂ふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応にお財も出来たのだから、かう云ふ家業は廃めて、楽隠居になつて、お前に嫁を貰つて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなに慍られるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然した事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀さうではあり、さうかと云つて何方をどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、憖ひ言合つてお互に心持を悪くするのが果だから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便だか知れやしないのだから、究竟はお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又阿父さんの方にも其処には了簡があつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと却つて善くないから、今日は窃として措いておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」
実に母は自ら言へりし如く、板挾の難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道を諭すなりき。彼は涙の催すに堪へずして、鼻目鏡を取捨てて目を推拭ひつつ猶咽びゐたりしが、
「阿母さんにさう言れるから、私は不断は怺へてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭つたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
母はその一念に脅されけんやうにて漫寒きを覚えたり。洟打去みて直道は語を継ぎぬ。
「然し私の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚れた家業を為るのを見てゐるのが可厭だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在でせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処に居たらさぞ好からうとは……」
「それは、私は猶の事です。こんな内に居るのは可厭だ、別居して独で遣る、と我儘を言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのは誰のお陰かと謂へば、皆親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父さんを踏付にしたやうな行を為るのは、阿母さん能々の事だと思つて下さい。私は親に悖ふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを嫌ふのぢやないが、私は金貸などと云ふ賤い家業が大嫌なのです。人を悩めて己を肥す――浅ましい家業です!」
身を顫はして彼は涙に掻昏れたり。母は居久らぬまでに惑へるなり。
「親を過すほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目も無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに乾い思はきつと為せませんから、破屋でも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を差れず、罪も作らず、怨も受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は貨が有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして拵へた貨、そんな貨が何の頼になるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上は一代持たずに滅びます。因果の報う例は恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業は廃めるに越した事はありません。噫、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」
積悪の応報覿面の末を憂ひて措かざる直道が心の眼は、無残にも怨の刃に劈れて、路上に横死の恥を暴せる父が死顔の、犬に蹋られ、泥に塗れて、古蓆の陰に枕せるを、怪くも歴々と見て、恐くは我が至誠の鑑は父が未然を宛然映し出して謬らざるにあらざるかと、事の目前の真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつと迸る哭声は、咬緊むる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏れたる折しも、門に俥の駐りて、格子の鐸の鳴るは夫の帰来か、次手悪しと胸を轟かして、直道の肩を揺り動しつつ、声を潜めて口早に、
「直道、阿父さんのお帰来だから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方へ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
はや足音は次の間に来りぬ。母は慌てて出迎に起てば、一足遅れに紙門は外より開れて主直行の高く幅たき躯は岸然とお峯の肩越に顕れぬ。
「おお、直道か珍いの。何時来たのか」
かく言ひつつ彼は艶々と赭みたる鉢割の広き額の陰に小く点せる金壺眼を心快げに瞪きて、妻が例の如く外套を脱するままに立てり。お峯は直道が言に稜あらんことを慮りて、さり気無く自ら代りて答へつ。
「もう少し先でした。貴君は大相お早かつたぢやありませんか、丁度好ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」
「いや、仕合と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
黒一楽の三紋付けたる綿入羽織の衣紋を直して、彼は機嫌好く火鉢の傍に歩み寄る時、直道は漸く面を抗げて礼を作せり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
梭櫚の毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭を掻拈りて、太短なる眉を顰むれば、聞ゐる妻は呀とばかり、刃を踏める心地も為めり。直道は屹と振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高になりけるが、父の面を見し目を伏せて、さて徐に口を開きぬ。
「今朝新聞を見ましたところが、阿父さんが、大怪我を為つたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」
白髪を交へたる茶褐色の髪の頭に置余るばかりなるを撫でて、直行は、
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。俺ならそんな場合に出会うたて、唯々打れちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手にしてくれるが」
直道の隣に居たる母は密に彼のコオトの裾を引きて、言を返させじと心着るなり。これが為に彼は少しく遅ひぬ。
「本にお前どうした、顔色が良うないが」
「さうですか。余り貴方の事が心配になるからです」
「何じや?」
「阿父さん、度々言ふ事ですが、もう金貸は廃めて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
「廃めなければならんやうになつて廃めるのは見ともない。今朝貴方が半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、私はどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうに為せなかつたのを熟く後悔したのです。幸に貴方は無事であつた、から猶更今日は私の意見を用ゐて貰はなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐いから廃めると謂ふのぢやありません、正い事で争つて殞す命ならば、決して辞することは無いけれど、金銭づくの事で怨を受けて、それ故に無法な目に遭ふのは、如何にも恥曝しではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具にも為れなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。
こんな家業を為んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾をされて、無理な財を拵へんければならんのですか。何でそんなに金が要るのですか。誰にしても自身に足りる以外の財は、子孫に遺さうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日無用の財を貯へる為に、人の怨を受けたり、世に誚られたり、さうして現在の親子が讐のやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為つてゐるのではないでせう。
私のやうなものでも可愛いと思つて下さるなら、財産を遺して下さる代に私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」
父が前に頭を低れて、輙く抗げぬ彼の面は熱き涙に蔽るるなりき。
些も動ずる色無き直行は却つて微笑を帯びて、語をさへ和げつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉いけど、お前のはそれは杞憂と謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳で実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚のと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍まるるじや。何家業に限らず、財を拵へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財の有る奴で評判の好えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自ら心持も違うて、財などをさう貴いものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可えか。実業家の精神は唯財じや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲がる財じや、何ぞ好えところが無くてはならんぢやらう。何処が好えのか、何でそんなに好えのかは学者には解らん。
お前は自身に供給するに足るほどの財があつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可えと満足して了うてからに手を退くやうな了簡であつたら、国は忽ち亡るじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
俺にそんなに財を拵へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟財を拵へるが極めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好え加減に為い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
お前は能うこの家業を不正ぢやの、汚いのと言ふけど、財を儲くるに君子の道を行うてゆく商売が何処に在るか。我々が高利の金を貸す、如何にも高利じや、何為高利か、可えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯はにや措れんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則ち営業の魂なんじや。
財といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念うとる、獲たら離すまいと為とる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲する者は皆不正な事をしとるんじや」
太くもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡ば直道の顔を偸視て、あはれ彼が理窟もこれが為に挫けて、気遣ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私に懽べり。
直道は先づ厳に頭を掉りて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入つて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! 譬へば間が災難に遭つた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返の為方とお思ひなさるか。卑劣極る奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」
彼は声を昂げて逼れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮めて、
「どうですか」
「勿論」
「勿論? 勿論ですとも! 何奴か知らんけれど、実に陋い根性、劣な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設ひその手段は如何にあらうとも」
父は騒がず、笑を含みて赤き髭を弄りたり。
「卑劣と言れやうが、陋いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺しても遣りたいほど悔いのは此方ばかり。
阿父さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」
又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言をもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理の覿面当然なるに口を開かんやうも無きにと、心慌てつつ夫の気色を密に窺ひたり。彼は自若として、却つてその子の善く論ずるを心に愛づらんやうの面色にて、転た微笑を弄するのみ。されども妻は能く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡するを。彼は今それか非ぬかを疑へるなり。
蒼く羸れたる直道が顔は可忌くも白き色に変じ、声は甲高に細りて、膝に置ける手頭は連りに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来も度々言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在は無からうけれど、考出すと勉強するのも何も可厭になつて、吁、いつそ山の中へでも引籠んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤んで、附合ふのも耻にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終には容れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺に餓死するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」
眼は痛恨の涙を湧して、彼は覚えず父の面を睨みたり。直行は例の嘯けり。
直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言を止めず。
「今度の事を見ても、如何に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎はどんなであるか言ふに忍びない」
父は忽ち遮りて、
「善し、解つた。能う解つた」
「では私の言を用ゐて下さるか」
「まあ可え。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。然し、爾は爾たり、吾は吾たりじや」
直道は怺へかねて犇と拳を握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更劇い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりや辱いが、ま、当分俺の躯は俺に委して置いてくれ」
彼は徐に立上りて、
「些とこれから行て来にやならん処があるで、寛りして行くが可え」
忽忙と二重外套を打被ぎて出づる後より、帽子を持ちて送れる妻は密に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺めて、
「俺が居ると面倒ぢやから、些と出て来る。可えやうに言うての、還してくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方、私だつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
「可くはありません、私は困りますよ」
お峯は足摩して迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
さすがに争ひかねてお峯の渋々佇めるを、見も返らで夫は驀地に門を出でぬ。母は直道の勢に怖れて先にも増してさぞや苛まるるならんと想へば、虎の尾をも履むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯見れば、直道は手を拱き、頭を低れて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食だが、お前何をお上りだ」
彼は身転も為ざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束なげに顔を挙げて、
「阿母さん!」
その術無き声は謂知らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
異くも遽に名残の惜れて、今は得も放たじと心牽るるなり。
「もうお中食だから、久しぶりで御膳を食べて……」
「御膳も吭へは通りませんから……」
主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外、身辺に事あらざる暇に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択びて富山の家に輿入したりき。その場より貫一の失踪せしは、鴫沢一家の為に物化の邪魔払たりしには疑無かりけれど、家内は挙りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺あらぬ貫一が身の安否を慮りて措く能はざりしなり。
気強くは別れにけれど、やがて帰り来んと頼めし心待も、終に空なるを暁りし後、さりとも今一度は仮初にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方は知られずして、その身の家を出づべき日は潮の如く迫れるに、遣方も無く漫惑ひては、常に鈍う思ひ下せる卜者にも問ひて、後には廻合ふべきも、今はなかなか文に便もあらじと教へられしを、筆持つは篤なる人なれば、長き長き怨言などは告来さんと、それのみは掌を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言は不幸にも過たで、宮は彼の怨言をだに聞くを得ざりしなり。
とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念ひ、それは愜はずなりてより、せめて一筆の便聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾て違ひて、さしも願はぬ一事のみは玉を転ずらんやうに何等の障も無く捗取りて、彼が空く貫一の便を望みし一日にも似ず、三月三日は忽ち頭の上に跳り来れるなりき。彼は終に心を許し肌身を許せし初恋を擲ちて、絶痛絶苦の悶々の中に一生最も楽かるべき大礼を挙げ畢んぬ。
宮は実に貫一に別れてより、始めて己の如何ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
彼の出でて帰らざる恋しさに堪へかねたる夕、宮はその机に倚りて思ひ、その衣の人香を嗅ぎて悶え、その写真に頬摩して憧れ、彼若し己を容れて、ここに優き便をだに聞せなば、親をも家をも振捨てて、直に彼に奔るべきものをと念へり。結納の交されし日も宮は富山唯継を夫と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終にその家に適くべき身たるを忘れざりしなり。
ほとほと自らその緒を索むる能はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過を改め、操を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真に彼の胸に恃める覚悟とてはあらざりき。恋佗びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強ひて今更否まんとするにもあらず、彼方の恋きを思ひ、こなたの富めるを愛み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空き迷に弄ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来るに会へるなり。
この日よ、この夕よ、更けて床盃のその期に迨びても、怪むべし、宮は決して富山唯継を夫と定めたる心は起らざるにぞありける、止この人を夫と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委すなり。故に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免る能はざる約束なるべきを信じて、寧ろ深く怪むにもあらざりき。如此にして宮は唯継の妻となりぬ。
花聟君は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝るままに、いよいよ意中の人と私すべき陰無くなりゆくを見て、愈よ楽まざる心は、夫の愛を承くるに慵くて、唯機械の如く事ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言ふ花の姿、温き玉の容を一向に愛で悦ぶ余に、冷かに空き器を抱くに異らざる妻を擁して、殆ど憎むべきまでに得意の頤を撫づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊りて、翌年の春美き男子を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒ゆる日を竣たで、初子はいと弱くて肺炎の為に歿りにけり。
子を生みし後も宮が色香はつゆ移はずして、自ら可悩き風情の添りたるに、夫が愛護の念は益深く、寵は人目の見苦きばかり弥よ加るのみ。彼はその妻の常に楽まざる故を毫も暁らず、始より唯その色を見て、打沈みたる生得と独合点して多く問はざるなりけり。
かく怜まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有き人の情に負きて、ここに嫁ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過は如何にすべきと、躬らその容し難きを慙ぢて、悲むこと太甚かりしが、実に親の所憎にや堪へざりけん。その子の失せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年の後、三年の後、四年の後まで異くも宮はこの誓を全うせり。
次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに苦めるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる効も思出もあらで、空く籠鳥の雲を望める身には、それのみの願なりし裕なる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、却りてこの四年が間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方知れざりし人の姿を田鶴見の邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰をも聞かざりしなり。生家なる鴫沢にては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無き事を告ぐるが如き愚なる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便は絶れたりしなり。
計らずもその夢寐に忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計なりけんよ。饑ゑたる者の貪り食ふらんやうに、彼はその一目にして四年の求むるところを求めんとしたり。饜かず、饜かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已まん、と深くも念じたり。
五番町なる鰐淵といふ方に住める由は、静緒より聞きつれど、むざとは文も通はせ難く、道は遠からねど、独り出でて彷徨ふべき身にもあらぬなど、克はぬ事のみなるに苦かりけれど、安否を分かざりし幾年の思に較ぶれば、はや嚢の物を捜るに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然を憂きに堪へざる余、我心を遺る方無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、止だかくも儚き身の上と切なき胸の内とを独自ら愬へんとてなり。
宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる能はざるなり。更に見よ。歳々廻来る一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に烙して、彼の悔を新にするにあらずや。
「十年後の今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
掩へども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかを試しに、曾てその人の余所に泣ける徴もあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共に今は我をも思はでや、さては何処に如何にしてなど、更に打歎かるるなりき。
例のその日は四たび廻りて今日しも来りぬ。晴れたりし空は午後より曇りて少く吹出でたる風のいと寒く、凡ならず冷ゆる日なり。宮は毎よりも心煩きこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為たりしが、余に思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
益す寒威の募るに堪へざりければ、遽に煖炉を調ぜしめて、彼は西洋間に徙りぬ。尽く窓帷を引きたる十畳の間は寸隙もあらず裹まれて、火気の漸く春を蒸すところに、宮は体を胖に友禅縮緬の長襦袢の褄を蹈披きて、緋の紋緞子張の楽椅子に凭りて、心の影の其処に映るを眺むらんやうに、その美き目をば唯白く坦なる天井に注ぎたり。
夫の留守にはこの家の主として、彼は事ふべき舅姑を戴かず、気兼すべき小姑を抱へず、足手絡の幼きも未だ有らずして、一箇の仲働と両箇の下婢とに万般の煩きを委せ、一日何の為すべき事も無くて、出づるに車あり、膳には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆悦ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正に己のこの身の上なる哉、と宮は不覚胸に浮べたるなり。
嗟乎、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余に、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮めし楽も、五年の昔なりける今日の日に窮めし悲に易ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息したり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶に同じき楽を享けんと願ひしに外ならざるを。若し身の楽と心の楽とを併享くべき幸無くて、必ずその一つを択ぶべきものならば、孰を取るべきかを知ることの晩かりしを、遣方も無く悔ゆるなりけり。
この寒き日をこの煖き室に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何に、と思到れる時、宮は殆ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜しさを悶えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面を何心無く打見遣れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇く動きて、宮は降頻る雪に或言を聴くが如く佇めり。折から唯継は還来りぬ。静に啓けたる闥の響は絶に物思へる宮の耳には入らざりき。氷の如く冷徹りたる手をわりなく懐に差入れらるるに驚き、咄嗟と見向かんとすれば、後より緊と抱へられたれど、夫の常に飭める香水の薫は隠るべくもあらず。
「おや、お帰来でございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
宮は楽椅子を夫に勧めて、躬は煖炉の薪を焌べたり。今の今まで貫一が事を思窮めたりし心には、夫なる唯継にかく事ふるも、なかなか道ならぬやうにて屑からず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、梢に宿れる雪、庭に布く雪、見ゆる限の白妙は、我身に積める人の怨の丈かとも思ふに、かくてあることの疚しさ、切なさは、脂を搾らるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その脚を八文字に踏展け、漸く煖まれる頤を突反して、
「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋で飲むんだね。寄鍋を取つて貰はう、寄鍋が好い。それから珈琲を一つ拵へてくれ、コニャックを些と余計に入れて」
宮の行かんとするを、
「お前、行かんでも可いぢやないか、要る物を取寄せてここで拵へなさい」
彼の電鈴を鳴して、火の傍に寄来ると斉く、唯継はその手を取りて小脇に挾みつ。宮は懌べる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
「おまへどうした、何を鬱いでゐるのかね」
引寄せられし宮はほとほと仆れんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩るばかりにその顔を差覗きて余念も無く見入りつつ、
「顔の色が甚だ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い? どうしたんだな。それぢや、もつと爽然してくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合が薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」
忽ち闥の啓くと見れば、仲働の命ぜし物を持来れるなり。人目を憚らずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその傍を退かんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ風しつつ、器具と壜とをテエブルに置きて、直に退り出でぬ。かく執念く愛せらるるを、宮はなかなか憂くも浅ましくも思ふなりけり。
雪は風を添へて掻乱し掻乱し降頻りつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜の漸く来れるが最辱き唯継の目尻なり。
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、俺にはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠んでをるのが宜くないよ。この頃は些とも出掛けんぢやないか。さう因循してをるから、益す陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴の奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為近頃は奥さんは些ともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しは衆にも見せてお遣んなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積が当選したらう。俺も大いに与つて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中を招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行かれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好いけれど、然し、近頃のやうに籠つてばかり居るのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年ばかり経つてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分彼地此地出たぢやないかね。
善し、珈琲出来たか。うう熱い、旨い。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋は未か。うむ、彼方に支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢の相対に限るんさ。
可いかね、福積の招待には吃驚させるほど美くして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速拵へやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装で、隆として推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装にかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍けたのばかりは恐れるね。何為あの被風を着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
明後日は日曜だ、何処かへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原の奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ度に聒く催促するんで克はんよ。明日は用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんと拙いて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日写しに行かう。直と若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。
善し、寄鍋が来た? さあ行かう」
夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに姑く窓の外面を窺ひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
「何を下らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」
宮は既に富むと裕なるとに饜きぬ。抑も彼がこの家に嫁ぎしは、惑深き娘気の一図に、栄耀栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、殆ど無用の物のやうに軽めたりき。今やその願足りて、しかも遂に饜きたる彼は弥よ夤らるる愛情の煩きに堪へずして、寧ろ影を追ふよりも儚き昔の恋を思ひて、私に楽むの味あるを覚ゆるなり。
かくなりてより彼は自ら唯継の面前を厭ひて、寂く垂籠めては、随意に物思ふを懌びたりしが、図らずも田鶴見の邸内に貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度は絶えし恋ながら、なほ冥々に行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容なるを、今もその独を守りて、時の到るを待つらんやうに思做さるるなりけり。
その時は果して到るべきものなるか。宮は躬の心の底を叩きて、答を得るに沮みつつも、さすがに又己にも知れざる秘密の潜める心地して、一面には覚束なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
便ち宮の夫の愛を受くるを難堪く苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面の前に悶絶せし日よりにて、その恋しさに取迫めては、いでや、この富めるに饜き、裕なるに倦める家を棄つべきか、棄てよとならば遅はじと思へるも屡々なりき。唯敢てこれを為ざるは、窃に望は繋けながらも、行くべき方の怨を解かざるを虞るる故のみ。
素より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂へらく、吾夫こそ当時恋と富との値を知らざりし己を欺き、空く輝ける富を示して、售るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他に被せて、彼は己を過りしをば、全く夫の罪と為せり。
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍ばるるに就けて転た悪人の夫を厭ふこと甚かり。無辜の唯継はかかる今宵の楽を授るこの美き妻を拝するばかりに、有程の誠を捧げて、蜜よりも甘き言の数々を咡きて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいと能く響きたる。
その雪は明方になりて歇みぬ。乾坤の白きに漂ひて華麗に差出でたる日影は、漲るばかりに暖き光を鋪きて終日輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来の妨碍もあらず、処々の泥濘は打続く快晴の天に曝されて、刻々に乾き行くなり。
この雪の為に外出を封ぜられし人は、この日和とこの道とを見て、皆怺へかねて昨日より出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の宜からぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折、或は捏返せし汁粉の海の、差掛りて難儀を極むるとは知らず、見渡す町通の乾々干に固れるに唆かされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来の常より頻なる午前十一時といふ頃、屈み勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣掛けたる車輪を可悩しげに転して、黒綾の吾妻コオト着て、鉄色縮緬の頭巾を領に巻きたる五十路に近き賤からぬ婦人を載せたるが、南の方より芝飯倉通に来かかりぬ。
唯有る横町を西に切れて、某の神社の石の玉垣に沿ひて、だらだらと上る道狭く、繁き木立に南を塞がれて、残れる雪の夥多きが泥交に踏散されたるを、件の車は曳々と挽上げて、取着に土塀を由々しく構へて、門には電燈を掲げたる方にぞ入りける。
こは富山唯継が住居にて、その女客は宮が母なり。主は疾に会社に出勤せし後にて、例刻に来れる髪結の今方帰行きて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重の肉色鹿子を掛けたる大円髷より水は滴るばかりに、玉の如き喉を白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気などにや、連に打咳きつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。その故とも覚えず余に著き面羸は、唯一目に母が心を驚せり。
閑ある身なれば、宮は月々生家なる両親を見舞ひ、母も同じほど訪ひ音づるるをば、此上無き隠居の保養と為るなり。信に女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎に大なる手柄をも成したらんやうに吾が識れるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合薄くて、有様は気の毒なる人達哉、と漫に己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山の門を入るは、正に人の母たる成功の凱旋門を過る心地もすなるべし。
可懐きと、嬉きと、猶今一つとにて、母は得々と奥に導れぬ。久く垂籠めて友欲き宮は、拯を得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は密に貫一の報を齎せるにはあらずやなど、枉げても念じつつ、せめては愁に閉ぢたる胸を姑くも寛うせんとするなり。
母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措きて、先づ宮が血色の気遣く衰へたる故を詰りぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の羸れたるを惧れつつも、
「さう? でも、何処も悪い所なんぞ有りはしません。余り体を動かさないから、その所為かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱いで鬱いで耐らない事があるの。あれは血の道と謂ふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診てもらふ方が可いよ、放つて措くから畢竟持病にもなるのさ」
宮は唯頷きぬ。
母は不図思起してや、さも慌忙しげに、
「後が出来たのぢやないかい」
宮は打笑みつ。されども例の可羞しとにはあらで傍痛き余を微見せしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日までも沙汰が無くちや困るぢやないか。本当に未だそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在だか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先の内は子供が所好だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専だよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診てもらふのも変だし……けれどもね、阿母さん、私は疾から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快くないの。その所為で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
母のその目は瞪り、その膝は前み、その胸は潰れたり。
「どうしたのさ!」
宮は俯きたりし顔を寂しげに起して、
「私ね、去年の秋、貫一さんに逢つてね……」
「さうかい!」
己だに聞くを憚る秘密の如く、母はその応ふる声をも潜めて、まして四辺には油断もあらぬ気勢なり。
「何処で」
「内の方へも全然爾来の様子は知れないの?」
「ああ」
「些も?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
かく纔に応ふるのみにて、母は自ら湧せる万感の渦の裏に陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父さんは内証で知つてお在ぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
宮はその梗概を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁れ得てし始末を詳かにするを俟ちて、始めて重荷を下したるやうに哱と息を咆きぬ。実に彼は熱海の梅園にて膩汗を搾られし次手悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍とも、惨しとも、今更に親心を傷むるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙の或は来るべきを案じて、母はなかなか心穏ならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采をして、何だか大変羸れて、私も極が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
彼は襦袢の袖の端に窃と眶を挲りて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
母の顔色も異き寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭な夢なんぞを度々見るの。阿父さんや、阿母さんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難いやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終苦になる所為で気を傷めるから体にも障るのぢやないかと、さう想ふのです」
思凝せるやうに母は或方を見据ゑつつ、言は無くて頷きゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧鴫沢の跡は貫一さんに取して下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方が知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直に分るのだから、それを抛つて措いちや此方が悪いから、阿父さんにでも会つて貰つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃をして、何処までも生家の兄さんで、末始終力になつて欲いわ」
宮がこの言は決して内に自ら欺き、又敢て外に他を欺くにはあらざりき。影とも儚く隔の関の遠き恋人として余所に朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀へるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能くお言ひのさ、如何に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古にしたと云ふので、齢の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所を些と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵がましい仕打振をするつてが有るものかね。
それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独で勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望なら洋行も為せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰も当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低げないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方には少しも無理は無い筈だのに、貫一が余り身の程を知らな過るよ。
それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返なら、行処の無い躯を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
全く、お前、貫一の為方は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛くはないのだからね、今更此方から捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
その不見識とやらを嫌ふよりは、別に嫌ふべく、懼るべく、警むべき事あらずや、と母は私に慮れるなり。
「阿父さんや阿母さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅るのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
かく言出でし宮が胸は、ここに尽くその罪を懺悔したらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、還つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂つたら可いのだらう――私があんなに不仕合な身分にして了つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉からうと、そんな事ばかり考へては鬱いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
されども母は投首して、
「私の考量ぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は凴拠にはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
涙含みつつ宮が焦心になれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
「可かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
我にもあらで迸る泣声を、つと袖に抑へても、宮は急来る涙を止めかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母さんは私の心を知らないのだから、頼効が無い、と謂ふのよ」
「多度お言ひな」
「言ふわ」
真顔作れる母は火鉢の縁に丁と煙管を撃けば、他行持の暫く乾されて弛みし雁首はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。
頭部に受けし貫一が挫傷は、危くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体に数個所の傷部とともに、その免るべからざる若干の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復の歩を趁ひて、可艱しげにも自ら起居を扶け得る身となりければ、一日一夜を為す事も無く、ベッドの上に静養を勉めざるべからざる病院の無聊をば、殆ど生きながら葬られたらんやうに倦み困じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
主治医も、助手も、看護婦も、附添婆も、受附も、小使も、乃至患者の幾人も、皆目を側めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁病を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入するなれば、噂は自から院内に播りて、博士の某さへ終に唆されて、垣間見の歩をここに枉げられしとぞ伝へ侍る。始の程は何者の美形とも得知れざりしを、医員の中に例の困められしがありて、名著の美人クリイムと洩せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
さりとは彼の暁るべき由無けれど、何の廉もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂へ、こは情の掛※〈[#「(箆-竹-比)/民」、233-15]〉と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人を悪みて、その貌の美きを見ず、その思切なるを汲まんともせざるに、猶かつ主ある身の謬りて仇名もや立たばなど気遣はるるに就けて、貫一は彼の入来るに会へば、冷き汗の湧出づるとともに、創所の遽に疼き立ちて、唯異くも己なる者の全く痺らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤むれども効無かりけり。実に彼は日頃この煩を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横はれれば、宛然爼板に上れる魚の如く、空く他の為すに委するのみなる仕合を、掻挘らんとばかりに悶ゆるなり。
かかる苦き枕頭に彼は又驚くべき事実を見出しつつ、飜へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮べる迷惑は、その藁蒲団の内に針の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分を患ひて、内に却つて七分を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念せしが、果して鰐淵は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略推し得たるなり。
例の煩き人は今日も訪ひ来つ、しかも仇ならず意を籠めたりと覚き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付けじとやうに彼方を向きて、覚めながら目を塞ぎていと静に臥したり。附添婆の折から出行きしを候ひて、満枝は椅子を躙り寄せつつ、
「間さん、間さん。貴方、貴方」
と枕の端を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方へ廻り行きて、彼の寐顔を差覗きつ。
「間さん」
猶答へざりけるを、軽く肩の辺を撼せば、貫一はさるをも知らざる為はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐しげに差寄りたる態を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私貴方に些とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
彼の隔無く身近に狎るるを可忌しと思へば、貫一はわざと寐返りて、椅子を置きたる方に向直り、
「どうぞ此方へ」
この心を暁れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇はれながら、なほこの人を慕はでは已まぬ我身かと、効無くも余に軽く弄ばるるを可愧うて佇みたり。されども貫一は直に席を移さざる満枝の為に、再び言を費さんとも為ざりけり。
気嵩なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「唉、貴方には軽蔑されてゐる事を知りながら、何為私腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
満枝は彼の枕を捉へて顫ひしが、貫一の寂然として眼を閉ぢたるに益苛ちて、
「余り酷うございますよ。間さん、何とか有仰つて下さいましな」
彼は堪へざらんやうに苦りたる口元を引歪めて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有迷惑で……」
「何と有仰います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……‼」
満枝は眉を昂げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼を塞ぎぬ。
素より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己に対しては更に甚きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管は、今その外に顕せるやうに決して内に怺へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍ふも、また愜はざる恋の内に聊か楽む道なるを思へるなり。涙微紅めたる眶に耀きて、いつか宿せる暁の葩に露の津々なる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私も貴方に度々来て戴くのは甚だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶しがつて、如何に何でもそんなに作るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭なことを有仰つたのです。私些もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答だに為ざるなり。
「実は疾からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭な事を自分の口から吹聴らしく、却つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵様のかれこれ有仰るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮つてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁げてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁いらつしやるので、度々お目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了ひました」
「え!」と貫一は繃帯したる頭を擡げて、彼の有為顔を赦し難く打目戍れり。満枝はさすが過を悔いたる風情にて、やをら左の袂を膝に掻載せ、牡丹の莟の如く揃へる紅絹裏の振を弄りつつ、彼の咎を懼るる目遣してゐたり。
「実に怪しからん! 謊なことを有仰つたものです」
萎るる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
彼を喝せし怒に任せて、半起したりし体を投倒せば、腰部の創所を強く抵てて、得堪へず呻き苦むを、不意なりければ満枝は殊に惑ひて、
「どう遊ばして? 何処ぞお痛みですか」
手早く夜着を揚げんとすれば、払退けて、
「もうお還り下さい」
言放ちて貫一は例の背を差向けて、遽に打鎮りゐたり。
「私還りません! 貴方がさう酷く有仰れば、以上還りません。いつまでも居られる躯ではないのでございますから、順く還るやうにして還して下さいまし」
いとはしたなくて立てる満枝は闥の啓くに驚かされぬ。入来れるは、附添婆か、あらず。看護婦か、あらず。国手の回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
胡麻塩羅紗の地厚なる二重外套を絡へる魁肥の老紳士は悠然として入来りしが、内の光景を見ると斉く胸悪き色はつとその面に出でぬ。満枝は心に少く慌てたれど、さしも顕さで、雍かに小腰を屈めて、
「おや、お出あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
同く慇懃に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼は光を逞う女の横顔を瞥見せり。静に臥したる貫一は発作の来れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行を迎ふれば、
「どうぢやな。好え方がお見舞に来てをつて下さるで、可えの」
打付に過ぎし言を二人ともに快からず思へば、頓に答は無くて、その場の白けたるを、さこそと謂はんやうに直行の独り笑ふなりき。如何に答ふべきか。如何に言釈くべきか、如何に処すべきかを思煩へる貫一は艱しげなる顔を稍内向けたるに、今はなかなか悪怯れもせで満枝は椅子の前なる手炉に寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙いところを度々お見舞下されては痛入ります。それにこれの病気も最早快うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出で下さるのは何分お断り申しまする」
言黒めたる邪魔立を満枝は面憎がりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手がありますのでございますから、その御心配には及びません」
直行の眼は再び輝けり。貫一は憖に彼を窘めじと、傍より言を添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却つて私は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私差控へませう」
満枝は色を作して直行を打見遣りつつ、その面を引廻して、やがて非ぬ方を目戍りたり。
「いや、いや、な、決して、そんな訳ぢや……」
「余りな御挨拶で! 女だと思召して有仰るのかは存じませんが、それまでのお指図は受けませんで宜うございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚だ困る、畢竟貴方の為を思ひますじやに因つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私の不為になるのでございませう」
「それにお心着が無い?」
その能く用ゐる微笑を弄して、直行は巧に温顔を作れるなり。
満枝は稍急立ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子が度々出入したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易い、可えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様と云ふ者のある貴方の躯に疵が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
陰には己自ら更に甚き不為を強ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑し、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今慎みますでございます」
「これは太い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘にもかれこれ言るるんぢやから、どんなにも嬉いぢやらう、私のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為まいにな」
貫一は苦々しさに聞かざる為してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在つしやるのですから、余り頻繁上りますと……」
後は得言はで打笑める目元の媚、ハンカチイフを口蔽にしたる羞含しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出かな。私は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰つて下さいまし。私此方へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却つて私の伺ふのを懊悩く思召してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作らなくても宜いではございませんか。
然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅へお出になつた御帰途にこの御怪我なんでございませう。それに、未だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂へお出なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜が無いのでございませう」
彼はいと辛しとやうに、恨しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃に金壺眼の一角を溶しつつ眺入るにぞありける。
「さやうかな。如何さま、それで善う解りましたじや。太い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
赤髭を拈り拈りて、直行は女の気色を偸視つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太う嫌うたもんですな」
「尤も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方から好きましても、他で嫌はれましては、何の効もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方のやうな方が此方から好いたと言うたら、どんな者でも可厭言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰つて! 如何でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
椅子も傾くばかりに身を反して、彼はわざとらしく揺上げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何ですか、さう云ふ事は」
誰か烏の雌雄を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈はございませんわ。ほほほほほほほほ」
そのわざとらしさは彼にも遜らじとばかり、満枝は笑ひ囃せり。
直行が眼は誰を見るとしも無くて独り耀けり。
「それでは私もうお暇を致します」
「ほう、もう、お帰去かな。私もはや行かん成らんで、其所まで御一処に」
「いえ、私些と、あの、西黒門町へ寄りますでございますから、甚だ失礼でございますが……」
「まあ、宜い。其処まで」
「いえ、本当に今日は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座の株式一件な、あれがつい纏りさうぢやで、この際お打合をして置かんと、『琴吹』の収債が面白うない。お目に掛つたのが幸ぢやから、些とそのお話を」
「では、明日にでも又、今日は些と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
姑く推問答の末彼は終に満枝を拉し去れり。迹に貫一は悪夢の覚めたる如く連に太息呴いたりしが、やがて為ん方無げに枕に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方に、止だ果無く目を奪れゐたり。
檜葉、樅などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗なる日影のみぞ饒に置余して、そこらの梅の点々と咲初めたるも、自ら怠り勝に風情作らずと見ゆれど、春の色香に出でたるは憐むべく、打霞める空に来馴るる鵯のいとどしく鳴頻りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩う行くなり。
枕の上の徒然は、この時人を圧して殆ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛うじて夢を結びゐたり。彼は実に夢ならでは有得べからざる怪き夢に弄ばれて、躬も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡の中に囚れしを、端無く人の呼ぶに駭されて、漸く慵き枕を欹てつ。
愕然として彼は瞳