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通俗正教教話/信経/第十か條

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(十)第十か條

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『我(われ)認(みと)む、一(ひとつ)の洗礼(せんれい)を以(もつ)て罪(つみ)の赦(ゆるし)を得(う)るを』


問 信経(しんけい)に何故(なぜ)洗礼(せんれい)の事(こと)なぞを述(の)べて居(い)るので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は洗礼(せんれい)及(およ)び其(その)他(た)の機(き)密(みつ)は信仰(しんこう)を表(あらは)す一(ひとつ)の印(しるし)で御座(ござ)いますから信仰(しんこう)を述(の)ぶる時(とき)には是非(ぜひ)共(とも)必要(ひつよう)なものなので御座(ござ)います。


問 能(よ)く機(き)密(みつ)々々(〳〵)と仰有(おっしゃ)いますが、一体(いったい)機(き)密(みつ)と謂(い)ふのは何(なん)の事(こと)なので御座(ござ)いますか。

答 機(き)密(みつ)と申(もう)しまするのは教会(きょうかい)で行(おこな)ひまする一(ひと)つの儀(ぎ)式(しき)で御座(ござ)いまして、此(この)儀(ぎ)式(しき)によって私(わたくし)共(ども)は神様(かみさま)のお惠(めぐみ)を受(う)くる事(こと)が出来(でき)るので御座(ござ)います、其様(そん)な機(き)密(みつ)は皆(みんな)で七(なな)つ有(あ)ります茲(ここ)に数(かぞ)へて見(み)ませうなれば(一)洗礼(せんれい)機(き)密(みつ) (二)傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ) (三)聖体(せいたい)機(き)密(みつ) (四)痛悔(つうかい)機(き)密(みつ) (五)神品(しんぴん)機(き)密(みつ) (六)婚配(こんぱい)機(き)密(みつ) (七)聖(せい)傅(ふ)機(き)密(みつ)


問 此(これ)等(ら)の七(ななつ)の機(き)密(みつ)によって人々(ひとびと)に神様(かみさま)から賜(たま)はるお惠(めぐみ)はそれぞれ異(ことな)って居(い)るので御座(ござ)いますか。

答 異(ことな)って居(い)るので御座(ござ)います即(すなは)ち。
第一、洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)によって人々(ひとびと)に神様(かみさま)から賜(たま)はるお惠(めぐみ)は霊魂(たましい)の『生(うま)れ更(かわ)り』で御座(ござ)います。
第二、傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)によって賜(たま)はるお惠(めぐみ)は、霊魂(たましい)の堅固(かため)と成長(そだち)で御座(ござ)います。
第三、聖体(せいたい)機(き)密(みつ)によって賜(たま)はるお惠(めぐみ)は『霊魂(たましい)の培養(やしない)』で御座(ござ)います。
第四、痛悔(つうかい)機(き)密(みつ)によって人々に賜(たま)はるお惠(めぐみ)は『霊魂(たましい)の疾(やまい)の医(いやし)』他(た)の言(ことば)を以(もつ)て申(もう)しますれば罪(つみ)のお赦(ゆるし)で御座(ござ)います。
第五、神品(しんぴん)機(き)密(みつ)は主教(しゅきょう)とか司祭(しさい)とか輔祭(ほさい)とかになる人(ひと)が、其位(そのくらい)に就(つ)く時(とき)に受(う)けまする機(き)密(みつ)で御座(ござ)いますので普(ふ)通(つう)の信者(しんじゃ)には余(あま)り関係(かんけい)は御座(ござ)いませぬが、此(この)機(き)密(みつ)によって神様(かみさま)から受(う)くるお惠(めぐみ)は、『神様(かみさま)の道(みち)を人(ひと)に傳(つた)へ機(き)密(みつ)を人(ひと)に授(さづ)け、人(ひと)の霊(たましい)を生(うま)れ更(かわ)らしめ其(その)霊(たましい)を養(やしな)って行(ゆ)く力(ちから)』で御座(ござ)います。
第六、婚配(こんぱい)機(き)密(みつ)によって神様(かみさま)から賜(たまは)るお惠(めぐみ)は『夫(ふう)婦(ふ)の間(あいだ)が睦(むつま)じく、子(こ)供(ども)も多(おほ)く、其(その)子(こ)供(ども)を正(ただ)しく教育(きょういく)して行(ゆ)くことの力(ちから)』で御座(ござ)います。
第七、聖(せい)傅(ふ)機(き)密(みつ)によって神様(かみさま)から賜(たまは)るお惠(めぐみ)は『霊魂(たましい)の疾(やまい)の医(いやし)』及(およ)び『人(ひと)の肉体(にくたい)の疾(やまい)の医癒(いやし)』で御座(ござ)います。


問 其(それ)では何為(なぜ)信経(しんけい)に前(まえ)に仰有(おっしゃ)った様(よう)な七(ななつ)の機(き)密(みつ)を皆(みな)残(のこ)らず申(もう)しませず只(ただ)洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)ばかりを申(もう)したので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は信経(しんけい)を作(つく)りまする當(とう)時(じ)、洗礼(せんれい)の事(こと)に就(つ)きまして種々(いろいろ)な議(ぎ)論(ろん)が出来(でき)まして、或者(あるもの)が切(しき)りに教(おしへ)に背(そむ)いた者(もの)を再(ふたた)び教会(きょうかい)に受(う)くる時(とき)には今一(いまいち)度(ど)洗礼(せんれい)をしなほさなければならぬなどと説(と)きまして信者(しんじゃ)を騒(さわ)がせましたので、洗礼(せんれい)は一(いち)度(ど)より外(ほか)なすべきものでないと謂(い)ふ事(こと)を説(と)く為(ため)に特(とく)に信経(しんけい)の内(うち)に洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)を載(の)せたので御座(ござ)います。


(一)洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)

問 洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)と謂(い)ふ機(き)密(みつ)は何(ど)う謂(い)う機(き)密(みつ)で御座(ござ)いますか。

答 洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)はハリストスの信者(しんじゃ)となりまする時(とき)に受(う)けまする一番(いちばん)初(はじめ)の機(き)密(みつ)で御座(ござ)いまして、聖(せい)にした水(みづ)の内(うち)に私(わたくし)共(ども)の身体(からだ)を父(ちち)と子(こ)と聖神(せいしん)の名(な)によって三(み)度(たび)沈(しづ)めるので御座(ござ)います、此時(このとき)洗礼(せんれい)を受(う)けた人(ひと)の霊(たましい)は凡(すべ)て今迄(いままで)持(も)って居(い)た罪(つみ)を贖(あがな)はれて、全(まった)く生(うま)れ更(かわ)り、ハリストスの門(もん)徒(と)たる資(し)格(かく)を得(う)るので御座(ござ)います、実(じつ)に私(わたくし)共(ども)は此(この)機(き)密(みつ)を受(う)けて生(うま)れ更(かわ)らなかったならば神様(かみさま)の子(こ)となることが出来(でき)ないので御座(ござ)います、聖書(せいしょ)に申(もう)して御座(ござ)いますには『人(ひと)若(も)し水(みづ)及(およ)び神(しん)より生(うま)れ更(かわ)れずば神(かみ)の国(くに)に入(い)るを得(え)ず』〔イオアン三の五〕


問 洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)は何時(いつ)頃(ごろ)何(どう)して出来(でき)たので御座(ござ)いますか。

答 此(この)機(き)密(みつ)の起因(おこり)は先(せん)駆(く)イオアンが悔改(くいあらため)の洗礼(せんれい)を人々(ひとびと)に授(さづ)けたのが抑(そもそも)の初(はじめ)で御座(ござ)いまして、其後(そののち)先(せん)駆(く)イオアンから主(しゅ)イイススは躬(みづか)ら洗礼(せんれい)をお受(う)けになって人々(ひとびと)に其(その)模範(てほん)をお残(のこ)しになり、而(そ)して遂(つい)に自(みづか)ら天(てん)にお昇(のぼ)りになる前(まえ)に門(もん)徒(と)に『爾(なんぢ)等(ら)往(ゆ)いて萬民(ばんみん)に教(おしへ)を傳(つた)へて、彼(かれ)等(ら)に父(ちち)と子(こ)と聖神(せいしん)との名(な)に因(よ)りて洗(せん)を授(さづ)けよ』〔馬太二八の一九〕と仰(おほ)せられ、公然(こうぜん)と洗礼(せんれい)機(き)密(みつ)を行(おこな)ふことをお命(めい)じになったので御座(ござ)います。


問 洗礼(せんれい)を行(おこな)ふ時(とき)に尤(もっと)も大切(たいせつ)なことは何(なん)で御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は父(ちち)と子(こ)と聖神(せいしん)の名(な)に由(よつ)て洗礼(せんれい)を受(う)ける人(ひと)の身(み)を三(さん)度(ど)水(みづ)の内(うち)に沈(しづ)めることで御座(ござ)います。


問 私(わたくし)共(ども)が洗礼(せんれい)を受(う)けまする時(とき)に何(ど)ふ謂(い)ふ覚(かく)悟(ご)をなさねばなりませぬか。

答 其(それ)は第一(だいいち)に己(おのれ)が犯(おか)した罪(つみ)を深(ふか)く悔(く)ひ改(あらた)め、第(だい)二(に)にはイイスス ハリストスを深(ふか)く信(しん)ずることで御座(ござ)います、聖書(せいしょ)に申(もう)して御座(ござ)いますには『信(しん)じて洗(せん)を受(う)くる者(もの)は救(すく)はれん』〔馬可一六の一六〕又(また)『悔改(かいかい)せよ、而(しか)して各(おのおの)罪(つみ)の赦(ゆるし)の為(ため)にイイスス ハリストスの名(な)に因(よ)って洗(せん)を受(う)くべし然(しか)らば聖神(せいしん)の賜(たまもの)を受(う)けん』〔行実二の三八〕


問 洗礼(せんれい)には悔改(かいかい)と信仰(しんこう)が必要(ひつよう)だと仰有(おっしゃ)いますが其(それ)では悔改(かいかい)も信仰(しんこう)も分(わか)らぬ小児(こども)には何(ど)うするので御座(ござ)いますか。

答 其(そ)う謂(い)ふ小児(こども)に洗礼(せんれい)を授(さづ)けますには其(その)小児(こども)の父母(ちちはは)若(もし)くは其(その)代(だい)父母(ふぼ)〔之は教会で洗礼の時に必ず立てる洗礼を受くる人を信仰に導く名(な)親(おや)で御座います〕の信仰(しんこう)に依(い)頼(らい)しますので、其(その)父母(ちちはは)たり代(だい)父母(ふぼ)たる人(ひと)は其(それ)で御座(ござ)いますから其(その)小児(こども)の成人(せいじん)したる時(とき)其者(そのもの)を信仰(しんこう)に導(みちび)く義務(ぎむ)が有(あ)るので御座(ござ)います。


問 小児(こども)に洗礼(せんれい)を授(さづ)くることは何(なに)かに基(もとづ)く所(ところ)があるので御座(ござ)いますか。

答 基(もとづ)く所(ところ)があるので御座(ござ)います、未(ま)だイイスス ハリストスのお生(うま)れにならぬ前(まえ)の旧約(きゅうやく)時(じ)代(だい)に於(お)きましてはエウレイ民(みん)は小児(こども)が生(うま)れますと八(よう)日目(かめ)に必(かなら)ず割礼(かつれい)と申(もう)しまする儀(ぎ)式(しき)を行(おこな)って其(その)小児(こども)を神様(かみさま)のお選(えら)びになった人民(たみ)の数(かず)に加(くわ)へたもので御座(ござ)います、所(ところ)が其(その)旧約(きゅうやく)教会(きょうかい)の割礼(かつれい)は丁度(ちょうど)新約(しんやく)教会(きょうかい)の洗礼(せんれい)に當(あた)りまするので御座(ござ)いますから、教会(きょうかい)で小児(こども)に洗礼(せんれい)を授(さづ)けますることは全(まった)く昔(むかし)からの習慣(ならはし)に基(もとづ)いたもので御座(ござ)います。
新約(しんやく)教会(きょうかい)の洗礼(せんれい)が旧約(きゅうやく)教会(きょうかい)の割礼(かつれい)と同(おな)じものであると謂(い)ふことに就(つ)きましては聖(せい)使徒(しと)パエルも其書(そのしょ)の内(うち)に記(しる)して居(お)ります『爾(なんぢ)等(ら)は手(て)を以(もつ)てせざる割礼(かつれい)を受(う)けたり、即(すなは)ち肉身(にくしん)の罪(つみ)の体(たい)を脱(ぬ)ぐ所(ところ)のハリストスの割礼(かつれい)なり、洗礼(せんれい)を以(もつ)て爾(なんぢ)等(ら)は彼(かれ)と偕(とも)に葬(ほうむ)られて亦(また)彼(かれ)を死(し)より復活(ふくかつ)せしめし神(かみ)の力(ちから)を信(しん)ずるを以(もつ)て彼(かれ)と偕(とも)に復活(ふくかつ)せり。〔コロサイ二の一一、一二〕


問 何(ど)う謂(い)う訳(わけ)で洗礼(せんれい)の時(とき)に代(だい)父母(ふぼ)が必要(ひつよう)なので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は前(まえ)にも申(もう)しました通(とほ)り、洗礼(せんれい)を受(う)くる人(ひと)に代(かわ)って其(その)信仰(しんこう)を教会(きょうかい)の前(まえ)に保證(ほしょう)し其(それ)から洗礼(せんれい)の後(のち)に其(その)若(わか)き信者(しんじゃ)の信仰(しんこう)を固(かた)むる為(ため)なので御座(ござ)います。


問 其(それ)では洗礼(せんれい)の時(とき)に、洗礼(せんれい)を受(う)くる人(ひと)が詛(のろい)をなすのは誰(だれ)を詛(のろ)ふので御座(ござ)いますか。

答 悪(あく)魔(ま)と申(もう)しまして一番(いちばん)初(はじめ)の人(ひと)アダムが罪(つみ)を犯(おか)しました以来(このかた)人間(にんげん)に常(つね)に近(ちか)づいて居(い)て人々(ひとびと)を自分(じぶん)の奴隷(どれい)の様(よう)に使(つか)って居(い)る悪(わる)い霊(れい)を詛(のろ)ふので御座(ござ)います、私(わたくし)共(ども)は信者(しんじゃ)になって洗礼(せんれい)を受(う)けまする前迄(まえまで)は実(じつ)に其様(そん)な悪(わる)い者(もの)の自由(じゆう)になって居(い)たので御座(ござ)います、聖書(せいしょ)に申(もう)して御座(ござ)いますには『爾(なんぢ)等(ら)曩(さき)に(未(ま)だ主の門徒とならざる前には)斯(こ)の世(よ)の風習(ならはし)に従(したが)ひ空気(くうき)中(ちゅう)の権(けん)ある君(きみ)、今(いま)悖(はい)逆(ぎゃく)の子(こ)の中(うち)に行為(ぎょうい)する神(しん)の旨(むね)に従(したが)へり』〔エフェス二の二〕


問 悪(あく)魔(ま)を詛(のろ)ふと申(もう)しますると、何(ど)うするので御座(ござ)います。

答 信仰(しんこう)と祈(き)祷(とう)を以(もつ)てイイスス ハリストスの名(な)を呼(よ)んで悪(あく)魔(ま)を自分(じぶん)より追(お)ひ佛(はら)ふことで御座(ござ)います、悪魔(あく)は実(じつ)にイイスス ハリストスを無上(むじょう)に恐(おそ)れて居(い)る者(もの)で御座(ござ)いますから、彼(かれ)の名(な)を以(もつ)てすれば、直(ただち)に追(お)ひ佛(はら)ひ得(う)るもので御座(ござ)います、此事(このこと)に就(つ)いてはイイスス ハリストスも信者(しんじゃ)の間(あいだ)に確(たしか)なるお約束(やくそく)を御(おん)與(あた)へになったので御座(ござ)います。『信(しん)ずる者(もの)には斯(こ)の休徴(きゅうちょう)は従(したが)はん、我(わ)が名(な)に因(よ)りて魔(あく)鬼(き)を逐(お)ひ出(いだ)し新(あらた)なる方言(ほうげん)を謂(い)ひ得(え)ん』〔マルコ一六の一七〕と。

問 私(わたくし)共(ども)は洗礼(せんれい)を受(う)けて信者(しんじゃ)になりましてから後(のち)は、常(つね)に手(て)を以(もつ)て十字(じゅうじ)を胸(むね)に画(えが)きまするが、一体(いったい)彼(あれ)は何(ど)う謂(い)ふ訳(わけ)が有(あ)るので御座(ござ)いますか。

答 彼(あれ)は常(つね)に主(しゅ)の十字架(じゅうじか)の苦(くるしみ)を思(おも)ふ為(ため)で御座(ござ)います、イイスス ハリストスの名(な)を口(くち)で申(もう)しまするのと少(すこ)しも変(かわり)はない事(こと)なので御座(ござ)います。
イェルサリムのキリルは書(しょ)して居(お)りまするには『我(われ)等(ら)は耻(はぢ)ることなく、食(くら)ふにも飲(の)むにも、寝(いね)るにも、起(おく)るにも、出(いづ)るにも、息(やす)むにも、何事(なにごと)をなすにも必(かなら)ず十字架(じゅうじか)を画(えが)かん、是(こ)れ大(おほい)なる守護(まもり)にして又(また)神様(かみさま)の惠(めぐみ)、信者(しんじゃ)の為(ため)には軍(ぐん)旗(き)にして悪(あく)魔(ま)の恐(おそ)るる者(もの)なり云々』と。


問 十字架(じゅうじか)を画(えが)き始(はじ)めましたのは何時(いつ)頃(ごろ)からの事(こと)で御座(ござ)いますか。

答 聖(せい)使徒(しと)の時(とき)からで御座(ござ)います。


問 洗礼(せんれい)を受(う)けた後(のち)白(しろ)い衣(ころも)を信者(しんじゃ)が着(き)ますのは何(ど)う謂(い)ふ意味(いみ)があるので御座(ござ)いますか。

答 彼(あれ)は別(べつ)に深(ふか)い意味(いみ)の有(あ)る訳(わけ)では御座(ござ)いません、信者(クリステアニン)の霊(たましい)と行(おこない)の潔白(けっぱく)で有(あ)ると謂(い)ふことを示(しめ)す為(ため)なので御座(ござ)います。


問 其(それ)では首(くび)に十字架(じゅうじか)を懸(か)けるのは何(ど)う謂(い)う意味(いみ)なので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)はイイスス ハリストスが仰(おほ)せられた『人(ひと)若(も)し我(われ)に従(したが)はんと欲(ほつ)せば己(おのれ)を捨(す)てて其(その)十字架(じゅうじか)を負(お)ひて我(われ)に従(したが)へ』〔馬太一六の二四〕と謂(い)ふ言(ことば)を常(つね)に思(おも)ひ起(おこ)す為(ため)なので御座(ござ)います。


問 洗礼(せんれい)の時(とき)、新(あらた)に洗礼(せんれい)を受(う)けまする人(ひと)が、蝋燭(ろうそく)を手(て)にして水(みづ)の盛(も)ってある器(うつわ)の周囲(まわり)を廻(まわ)りまするのは何(ど)う謂(い)ふ意味(いみ)があるので御座(ござ)いますか。

答 彼(あれ)は心(こころ)の喜(よろこび)を顕(あらは)す為(ため)で御座(ござ)います。


問 信経(しんけい)の内(うち)に『一(ひと)つの洗礼(せんれい)』を認(みと)むる様(よう)に記(しる)して御座(ござ)いますが、して見(み)ますると洗礼(せんれい)は二度(にど)行(おこな)ふことの出来(でき)ないもので御座(ござ)いますか。

答 左様(そう)で御座(ござ)います、洗礼(せんれい)は一(いつ)生涯(しょうがい)に一(いち)度(ど)より外(ほか)行(おこな)ふことの出来(でき)ない者(もの)で御座(ござ)います、前(まえ)にも申(もう)しました通(とほ)り、洗礼(せんれい)は霊(たましい)の生(うま)れ更(かわ)りで御座(ござ)います、で御座(ござ)いまするから人(ひと)の世(よ)に生(うま)るゝ事(こと)が一(いち)度(ど)で御座(ござ)いまする様(よう)に霊(たましい)の生(うま)れ更(かわ)りも一生(いつしょう)に一(いち)度(ど)より外(ほか)は無(な)いもので御座(ござ)います。


問 洗礼(せんれい)を受(う)けました後(のち)に人(ひと)が犯(おか)しました罪(つみ)は如何(いか)にしたならば其(その)赦(ゆるし)を受(う)くることが出来(でき)ませうか。

答 洗礼(せんれい)は低(ひく)き処(ところ)に迷(まよ)ふて居(い)た人(ひと)を高(たか)き位(くらい)に昇(のぼ)せ、神様(かみさま)の子(こ)とするもので御座(ござ)いますから、若(も)し人(ひと)が洗礼(せんれい)を受(う)けました後(のち)、罪(つみ)に陥(おちい)りましたならば、其(その)堕(だ)落(らく)は洗礼(せんれい)を受(う)けませぬ前(まえ)に数倍(すうばい)するもので御座(ござ)います、聖(せい)使徒(しと)ペトルは此事(このこと)に就(つ)いて申(もう)して居(お)りまするには、『若(も)し人(ひと)我(わ)が救主(きゅうしゅ)イイスス ハリストスを識(し)るに因(よ)りて世(よ)の汚(けがれ)を脱(のが)れ復(また)之(これ)に纏(まとは)れて勝(かた)るゝ時(とき)は彼(かれ)等(ら)の為(ため)に後(のち)の患(うれい)は先(さき)より更(さら)に甚(はなはだ)し』〔ペトル後書二の二○〕と、併(しか)し洗礼(せんれい)を受(う)けました後(のち)に信者(しんじゃ)が犯(おか)しました罪(つみ)に就(つ)いては教会(きょうかい)には別(べつ)に痛改(つうかい)機(き)密(みつ)と申(もう)しまする特別(とくべつ)の儀(ぎ)式(しき)が御座(ござ)いまして、其(その)機(き)密(みつ)によりて信者(しんじゃ)は洗礼(せんれい)後(ご)に犯(おか)した罪(つみ)の赦(ゆるし)を得(う)るので御座(ござ)います、(痛改(つうかい)機(き)密(みつ)のことは後に述べます)


(二)傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)

問 傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)と申(もう)しまするのは何(ど)う謂(い)ふ機(き)密(みつ)なので御座(ござ)いますか。

答 傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)と申(もう)しまするのは信者(しんじゃ)に聖神(せいしん)のお惠(めぐみ)の降(くだ)る様(よう)に、神(かみ)聖神(せいしん)の御名(みな)に由(よつ)て油(あぶら)を信者(しんじゃ)の身体(からだ)の様々(さまざま)な部(ぶ)分(ぶん)に塗(ぬ)るので御座(ござ)います。
此(この)機(き)密(みつ)に就(つい)ては聖書(せいしょ)に下(しも)の様(よう)に記(しる)して御座(ござ)います、『爾(なんぢ)等(ら)は聖(せい)なる者(もの)より傅(ふ)膏(こう)せられて知(し)らざる所(ところ)なし、爾(なんぢ)等(ら)が彼(かれ)より受(う)けし所(ところ)の傅(ふ)膏(こう)は爾(なんぢ)等(ら)に居(お)るなり、故(ゆえ)に爾(なんぢ)等(ら)は人(ひと)を教(おし)ふるを要(よう)せず、乃(すなはち)此(この)傅(ふ)膏(こう)は爾(なんぢ)等(ら)に凡(すべて)の事(こと)を教(おし)へ、且(かつ)眞(まこと)にして偽(いつわり)ならざるに因(よ)りて、其(その)爾(なんぢ)等(ら)に教(おし)へし如(ごと)く彼(かれ)に居(お)れ』〔イオアン一書二の二○、二七〕


問 傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)は何時(いつ)頃(ごろ)始(はじ)めて出来(でき)た機(き)密(みつ)で御座(ござ)いますか。

答 其(その)根本(こんぽん)を尋(たづ)ねますれば矢(や)張(はり)主(しゅ)イイスス ハリストスの御立(おた)てになった機(き)密(みつ)で御座(ござ)いますので、彼(かれ)の時(とき)から出来(でき)たものと申(もう)さねばなりませぬが、併(しか)し今日(こんにち)の様(よう)に油(あぶら)を用(もち)ゐ出(だ)したのは使徒等(しとら)のお弟子(でし)の時代(とき)からで御座(ござ)います、聖書(せいしょ)に記(しる)されて御座(ござ)います通(とほ)り、聖(せい)使徒(しと)の未(いま)だ御(ご)存命(ぞんめい)中(ちゅう)は聖神(せいしん)のお惠(めぐみ)を信者(しんじゃ)に授(さづ)くるには使徒(しと)親(みづか)ら信者(しんじゃ)の頭(あたま)に手(て)を置(お)いて祈(き)祷(とう)をして、其(その)お惠(めぐみ)を信者(しんじゃ)に傳(つた)へたもので御座(ござ)いますが、〔行実八の一四‐一七〕其後(そののち)信者(しんじゃ)の多(おほ)くなると共(とも)に種々(さまざま)な不(ふ)便(べん)が出(で)て来(き)まして、一人(ひとり)一人(ひとり)信者(しんじゃ)に親(みづか)ら手(て)を置(お)く事(こと)が出来(でき)なくなりましたので、旧約(きゅうやく)時(じ)代(だい)の昔(むかし)王(おう)や豫(よ)言者(げんしゃ)を立(た)てた時(とき)に其人(そのひと)の首(かしら)に油(あぶら)を注(そそ)いだことが有(あ)りましたので、其(その)儀(ぎ)式(しき)を取(と)って手(しゅ)撫(ぶ)〔手を頭に置く〕儀(ぎ)式(しき)に代(かえ)たので御座(ござ)います、勿論(もちろん)傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)に用(もち)ゐる油(あぶら)は聖(せい)使徒(しと)親(みづか)ら祈(き)祷(とう)を以(もつ)て聖(せい)にしたので御座(ござ)います。


問 では今日(こんにち)では誰(だれ)が其(その)膏(あぶら)を聖(せい)にするので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は教会(きょうかい)の内(うち)で最(もっと)も上(うえ)の位(くらい)に居(い)る主教(しゅきょう)が聖(せい)にするので御座(ござ)いまして其(その)油(あぶら)を聖(せい)にする儀(ぎ)式(しき)は非常(ひじょう)に厳(おごそ)かな儀(ぎ)式(しき)で御座(ござ)います、日(に)本(ほん)では外国(がいこく)から其(その)膏(あぶら)を取(とり)寄(よ)せて居(い)ます、ですから別(べつ)に聖(せい)にする必要(ひつよう)がありませぬので今迄(いままで)其(それ)を行(おこな)ったことは御座(ござ)いませぬ。


問 傅(ふ)膏(こう)機(き)密(みつ)の時(とき)に額(ひたい)に膏(あぶら)を塗(ぬ)りますのは何(ど)う謂(い)ふ意味(いみ)があるので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は智慧(ちえ)又(また)は思想(おもい)を清(きよ)くする為(ため)で御座(ござ)います。


問 其(それ)では胸(むね)に膏(あぶら)しますのは?

答 彼(あれ)は心(こころ)と希望(のぞみ)を聖(せい)にする為(ため)で御座(ござ)います。


問 其(それ)では目(め)と耳(みみ)と口(くち)に膏(あぶら)しますのは何(なん)の意味(いみ)なので御座(ござ)いますか。

答 其(それ)は感情(かんじょう)を聖(せい)にする為(ため)で御座(ござ)います。


問 では手(て)足(あし)に膏(あぶら)しますのは?

答 其(それ)は基督信者(ハリステアニン)の為(な)すこと行(おこな)ふことを凡(すべ)て清(きよ)くする為(ため)なので御座(ござ)います。


(三)聖体(せいたい)機(き)密(みつ)

(以下は信経/第十か条 2に続く、未入力です)