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諸原理について/II/第2章

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第2巻

第2章

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肉体の性質の永続性について

この問題に関して、父が創造されていない子を生み出し、聖霊を生み出すのと同じように、父が以前に存在していなかったわけではなく、父が子または聖霊の起源であり源泉であるため、それらの中に先後性が存在するとは理解できないのと同じように、理性的な性質と物質の間にも同様の結合または関係が存在すると理解できるかどうか、と尋ねる人がいます。そして、この点をより十分に徹底的に検討するために、議論の始まりは、生命を帯び、霊的および理性的な精神の動きを含むこの物質的な性質が、それらと同様に永遠であるか、または完全に滅びて破壊されるかという質問に向けられるのが一般的です。そして、この問題をより正確に決定するためには、まず第一に、理性的な性質が神聖さと幸福の頂点に達した後も完全に無形のままでいられるかどうか(これは私にとっては最も困難でほとんど不可能な達成に思える)それとも、理性的な性質は常に必然的に肉体と結びついていなければならないかどうかを調べる必要がある。では、理性的な性質が肉体を完全になくすことが可能である理由を誰かが示すことができれば、それは、時間の経過後に無から創造された肉体的な性質が存在しなかったときに生成されたのと同じように、それが果たしていた目的がなくなったときにも存在しなくなるということにつながると思われる。


しかし、この点、すなわち、父、子、聖霊以外のいかなる性質も肉体なしに生きることができるという主張がまったく不可能であるならば、論理的推論の必然性から、理性的な性質は確かに初めに創造されたが、物質的実体は思考と理解においてのみそれらから分離され、それらのために、またはそれらの後に形成されたようであり、それらはそれなしに生きたことはなく、今も生きていないことを理解せざるを得ない。なぜなら、無形の生命は三位一体のみの特権であると正しく考えられるからである。したがって、上で述べたように、この世界の物質的実体は、あらゆる変形を許容する性質を有し、より低い階級の存在に引きずり下ろされると、より粗野でより堅固な肉体の状態に成形され、世界の目に見えるさまざまな形態を区別する。しかし、それがより完全でより祝福された存在の召使となるとき、それは天体の輝きで輝き、神の天使たちか復活の子らを霊的体の衣で飾り、そのすべてから、一つの世界の多様で変化する状態が満たされるのであろう。しかし、これらの事柄についてより十分に議論したいと望む人がいるならば、神へのすべての敬意と畏れをもって、より大きな注意と勤勉さで聖書を調べ、それらの中の秘密で隠された意味がこれらの事柄に関して何かを明らかにするかどうかを確かめることが必要です。そして、まさにこの点に関して多くの証言が集められた後、ふさわしい人々への聖霊の示現を通して、難解で神秘的な言葉の中に何かが発見されるかもしれません。


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脚注

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原文:

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翻訳文:

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