詩学/第三章


 これらの芸術に於ける第三の差別は、対象の各が模倣される形式から生まれる。模倣の同じ媒材と同じ対象とが与へられても、詩人は、ある時は、叙述体に、ある時は、その人物になり切つて物語ることが出来る。ホメロスの如きはそれである。或は、詩人は、態度を一貫して、変へないでゐることも可能である。或は、模倣者達[俳優]は全物語を戯曲的に、あだかも、彼等がそこに描かれたることを実行してゐるかの如く、模倣することも出来る。それ故吾吾が、巻頭に於いて述べた如く、これらの芸術の模倣は、三通りに区別される。即ち、如何なる素材で、さうして、如何なる対象を、さうして、如何なる形式に依て模倣されるかの三通りである。

 されば、模倣者として、ソフオクレスは、一面に於いて、ホメロスと共通する。それは、彼等二人共より善き人物を描くからである。また、同じソフオクレスは、他の一面に於いてアリストフアネスと共通する。それは、彼等二人共、描く所の人物を[舞台に立たせ]彼等が実際に行為し動作してゐる如く、模倣するからである。玆〔ここ〕に、戯曲が drama と呼ばれる所以があると、ある人は言ふ。何とならば、 drama に於いては、人物が物語を dran (実行)するからである。この故に、また、ドリア人は、悲劇喜劇共に、彼等の創見であると主張してゐる。希臘〔ギリシャ〕本土のメガラ人*1は、メガラが民主政体になつた当時に、喜劇が彼等から興つたと主張し、シシリイ島に於けるメガラ人は詩人*2エピカルモスは彼等から生まれ、キオニデス*3やマグネスから、ずつと、古いと言ふ理由で、同様な主張をしてゐる。また、ペロポネソスのドリア人のある者は、悲劇さへも、彼等から興つたと主張するのである。彼等はみな kōmōidia (喜劇)や drama (戯曲)といふ名を楯にとつて主張する。彼等に言はすれば、市外の村落は、彼等の言葉にては kōmai と言ふに反して、アテナイの人人は、それを dēmoi と言ふ。さうして kōmōidos (喜劇役者)といふ文字は kōmazein (飲み騒ぐ)から来たのでなくして、喜劇役者が、未だ、世人の賞玩を得ずして、都市から追ひ払われた結果、村落から村落へと(kata kōmas)旅廻りをしてゐたことから、因て生じたものだと仮定する。また、彼等は*4曰〔いは〕く、アテナイの人人は「行動する」という意味に対し prattein と言ふに反して、彼等は dran と言ふと。

 芸術の模倣が幾通のさうして、如何なる見地から差別され得るかに就いては、以上で、一先づ、閣筆する。

■訳注

■編注

旧字体→新字体へ変換。[]は訳注、《》は訳者によるルビ、〔〕はWikisource入力者による補注(主として常用+人名用の範囲に含まれない漢字等へのルビ振り)。