詩学/第二章


 模倣者[芸術家]は、行動する人間を模倣するのであつて見れば、当然、これらの行動する人間は、善き人人か、乃至は、悪しき人人でなければならない。何んとならば、人間の多様なる性格は、殆んど、常に、この善悪二つの何れかに由来するからである。それは、人類すべてが、性格に於いて、結局、悪と善に分れるからである。即ち、彼等は、吾吾一般よりも、より善き人間であるか、或は、より悪しき人間であるか、もしくは吾吾と同じ人間であるかでなければならない。画家を例に引けば、ポリュグノトス*1が描いた人物は、吾吾よりも、より善き人間であり、パウソン*2の描いた人物は、吾吾よりも悪しき人間であり、ディオニュシオス*3の描いた人物は、吾吾と同じ人間であつた。上に述べられたもろもろの模倣[芸術]は、その何れもが、かくの如き三様の差別を容れるといふこと、並びに、対象を、かくの如く違へて模倣することに依て、別個の芸術が出来上がるといふことは明かである。舞踏、竪笛楽、竪琴楽に於いてさへも、同様の差別を現はすことが出来る。また、その事は、かの、散文や、諧音なき韻文の如き、言葉を以てする一切の芸術に於いても可能である。例へば、ホメロスの描いた人物は、吾吾よりも善き人間である。クレオフオン*4の描いた人物は、吾吾と同じ人間である。もぢり詩《パロオディア》を初めて書いたタソスの人、ヘゲモン*5及び『Deilas《デイリアス》』の作者ニコカレス*6の描いた人物は、吾吾よりも悪しき人間である。また、酒神頌歌、及び、頌歌に就いても同じことが言へる。吾吾は、それらに於いても、丁度***[人名]並びにアルガスが書いた***[作品の名]または、ティモテオス並びにフィロクセノスが書いた『一つ目入道《キユクロオプス》*7』に描かれてあると同じやうに、性格を違へて描くことが出来よう。悲劇と喜劇との区別が、また、かくの如き差別の下に生れる。喜劇は人間を、現前の人人よりも、より悪しく描き、悲劇は、より善き人間を描かうとする。

■訳注

■編注

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