詩学/第四章
大体から言つて、ある二つの原因が詩を生み、その何れの原因も、人間の性情から流れてゐるやうである。[第一の原因は人間の模倣性である。*1]何とならば模倣するといふことは、人間にとりては、子供の時分から本然に備つてゐる。さうして、人間が他の動物と異なる点は、人間は、最も模倣的な動物であつて、人間の最初の知識は模倣を通してなされるといふ所にある。同時に、人間すべてが、模倣されたる者に悦びを感ずるといふことも、また、人間の本然である。[これが第二の原因である。]人間が模倣されたる物を悦ぶことは、経験に依て証明される。仮令、対象そのものは、吾吾の眼に苦痛を与へることがあらうとも、其の模倣(例へば、最も低級なる動物や人間の死体の描写)は、如何に写実的に表現されてあるとしても、吾吾はこれを見ることを悦ぶものである。それは、何ものかを知ることは、哲学者のみならず、すべての人(仮令、その人の、ものを知る能力が如何に小さくとも)にとつて、最も大なる悦びだからである。吾吾が絵を見て悦ぶといふことは、吾吾は絵を見ると同時に、何ものかを知る、即ち、例へば、この絵の人物は誰々であると言つたやうに、事物の意味を推知するからである。それ故、人が、描かれたものを、前以て見たことがない場合はその人の悦びは、その絵を、其のものの模倣として眺める悦びではなくして、その絵の描き方、彩り、その他、同様な原因に基く悦びである。それで、模倣は――調和《ハルモニア》並びに律《リユツモス》(韻律《メトロン》が律《リユツモス》の一種なることは明らかである)に対する吾吾の感覚がまた、さうであると同じく――吾吾人間に本然なものである。人人は、彼等のかやうな資性に基き、さうして、種種な改良(その大部分は漸次的であつた)を経て、初めて最初は即興であつたものから、今日の詩を創造したのである。
然し、詩は、間もなく、詩人各自の性格の差別に依て、二種に分かれて了つた。より厳粛なる詩人は、高貴なる行為と高貴なる人達の行為*2とを、これに反して、より軽卑なる詩人は、悪しき人達の行為を描いた。前者が、賛歌《ヒユムノス》*3や頌詞《エンコオミオン》を生んだ如くに、後者は、初め、譏誚〔きしょう〕詩《プソゴス》を生んだ。ホメロス以前の詩人の中に、かかる作家が、恐らく、沢山ゐたであらうけれども、吾吾は其の詩を知らない。然し、ホメロス以後に於いては幾多の例が見出される。例へば、ホメロスの作なる『マルギテス』或は、他の詩人の同様なる詩の如きがそれである。これらの譏誚〔きしょう〕詩に於いては、短長脚(iambeion)の韻律が、その自然の適合性に依り採用された。それ故、今日この韻律は、かように iambeion と名付けられる。それは、相互に iambizein (譏誚〔きしょう〕)する詩の韻律だつたからである。その結果、往古の詩人のある者は英雄詩作家となり、ある者は、譏誚〔きしょう〕詩作家となつた。ホメロスは、荘重なるものを取扱つた場合、作家として優秀なる技量を示したのみならず、その模倣の特質が戯曲的であつたがために、詩人中の詩人であつた。と同時に、彼は、笑ふべきもの(個人的譏誚〔きしょう〕でなく)を戯曲的に描写したことに依て、吾吾のために、喜劇の大体の輪郭を画して呉れた最初の詩人であつた。何んとならばホメロスの『マルギデス』は、喜劇に対して、丁度『イリアス』や『オデュセイア』が悲劇に対するやうな関係に立つからである。けれども、悲劇と喜劇が出現すると同時に、軽卑な題材の好きな詩人は、譏誚〔きしょう〕詩の代りに、喜劇の作家となり、荘重な題材の好きな詩人は、叙事詩の代りに、悲劇の作家となつた。これら新しき形式の芸術である所の悲劇と喜劇とは、叙事詩や譏誚〔きしょう〕詩よりも、より偉大な、より価値あるものだつたからである。
悲劇*4が、その構成諸要素に於いて、今や、実際、充分なる発達を遂げしや否やの問を考察し、そして、理論上並〔ならび〕に劇場に関連して、これを結論することは別個の問題である。 悲劇は、とにかく、即興詩に端を発した。喜劇もさうである。悲劇は酒神頌歌の作家を以て始まり、喜劇は、未だに、吾吾の多くの都市に於いて慣習として残つてゐる、陽物崇拝歌の作家を以て始まつたのである。而して、悲劇は、その後、相続く作家達が、以前のものを、一歩一歩改良して行つたことに依つて漸次、光輝あるものとなつた。実に、悲劇は、幾多の変遷を経て、初めて、その進展の足を停めた。その時、悲劇は、その本然の形式に到達したのである。俳優を一人から二人にしたのはアイスキュロスであつた。アイスキュロスは、また、コーラスを短縮し、対話を悲劇の首脳部とした。ソフオクレスに依て、俳優は三人となり、背景が工夫された。悲劇は、また、適当な長さを持たされた。短い物語や、巫山戯〔ふざけ〕た言ひ方が棄てられ、従来の羊人劇から脱け出て、やつと、品格あるものに進んだのである。さうして、悲劇の韻律も長短脚から短長脚に変じた。最初、長短脚四韻律*5が用ひられたのは、悲劇が、当時羊人劇であり、今よりも、ずつと、舞踊の勝つたものだつたからである。然し、対話が入つてくると共に、自然が、自ら、適当な韻律を発見した。なぜなら、短長脚は最も話しよい韻律だからである。その証拠に、吾吾が互に話し合ふ場合は、動もすれば、短長脚になり易く、六脚韻律*6になることは稀れであり、それは、談話の調子が外れた時のみに限られる。尚ほ、今一つの変化は挿曲《エペイソデイオン》*7の数が多くなつたことである。その他、戯曲の装飾的部分、及び、其の来歴に就いては、既に、説明がすんだこととして置かねばならぬ。これを、こまごま調べて行くことは、恐らくは、大仕事であらうから。
■訳注
■編注
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・劃して→画して