巻第十九
天平勝宝二年三月の一日の暮に、春の苑の桃李の花を眺矚て作める歌二首
4139 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ美人
4140 吾が園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも
翻び翔る鴫を見てよめる歌一首
4141 春設けて物悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか食む
二日、柳黛を攀ぢて京師を思ふ歌一首
4142 春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ
堅香子草の花を攀折る歌一首
4143 もののふの八十乙女らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花
帰る雁を見る歌二首
4144 燕来る時になりぬと雁がねは本郷偲ひつつ雲隠り鳴く
4145 春設けてかく帰るとも秋風に黄葉む山を越え来ざらめや 一ニ云ク、春されば帰るこの雁
夜裏千鳥の鳴くを聞く歌二首
4146 夜降ちに寝覚めて居れば川瀬尋め心もしぬに鳴く千鳥かも
4147 夜降ちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ
暁に鳴く雉を聞く歌二首
4148 杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも
4149 あしひきの八峯の雉鳴きとよむ朝明の霞見れば悲しも
江を泝る船人の唄を遥聞く歌一首
4150 朝床に聞けば遥けし射水川朝榜ぎしつつ唄ふ船人
三日、守大伴宿禰家持が館にて宴する歌三首
4151 今日のためと思ひて標しあしひきの峯上の桜かく咲きにけり
4152 奥山の八峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の輩
4153 漢人も船を浮かべて遊ぶちふ今日そ我が背子花縵せな
八日、白大鷹を詠める歌一首、また短歌
4154 あしひきの 山坂越えて 往きかはる 年の緒長く
しなざかる 越にし住めば 大王の 敷きます国は
都をも ここも同じと 心には 思ふものから
語り放け 見放くる人眼 乏しみと 思ひし繁し
そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ
石瀬野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て
白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ
いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら
枕付く 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据えてそ吾が飼ふ
真白斑の鷹
反し歌
4155 矢形尾の真白の鷹を屋戸に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも
鵜潜ふ歌一首、また短歌
4156 あら玉の 年ゆきかはり 春されば 花咲きにほふ
あしひきの 山下響み 落ち激ち 流る辟田の
川の瀬に 鮎子さ走り 島つ鳥 鵜養伴なへ
篝さし なづさひ行けば 吾妹子が 形見がてらと
紅の 八入に染めて おこせたる 衣の裾も 徹りて濡れぬ
反し歌
4157 紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく吾等かへり見む
4158 毎年に鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ
季春三月の九日、出挙の政に擬りて舊江の村に行き、道の上に目を物花に属くる詠、また興の中によめる歌
澁谿の埼を過ぎて、巌の上の樹を見る歌一首 樹名つまま
4159 磯の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
世間の常無きを悲しむ歌一首、また短歌
4160 天地の 遠き初めよ 世の中は 常無きものと
語り継ぎ 流らへ来たれ 天の原 振り放け見れば
照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も
春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて
風交り もみち散りけり うつせみも かくのみならし
紅の 色もうつろひ ぬば玉の 黒髪変り
朝の笑み 夕へ変らひ 吹く風の 見えぬがごとく
行く水の 止まらぬごとく 常も無く うつろふ見れば
にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも
反し歌
4161 言問はぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常を無みこそ 一ニ云ク、常なけむとそ
4162 うつせみの常無き見れば世の中に心つけずて思ふ日そ多き 一ニ云ク、嘆く日そ多き
予めよめる七夕の歌一首
4163 妹が袖われ枕かむ川の瀬に霧立ちわたれさ夜更けぬとに
勇士の名を振ふを慕ふ歌一首、また短歌
4164 ちちの実の 父のみこと ははそ葉の 母のみこと
おほろかに 心尽して 思ふらむ その子なれやも
大夫や 空しくあるべき 梓弓 末振り起し
投ぐ矢持ち 千尋射わたし 剣大刀 腰に取り佩き
あしひきの 八峯踏み越え 差し任る 心障らず
後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも
反し歌
4165 大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね
右の二首は、山上憶良臣が作める歌に追ひて和ふ。
霍公鳥また時の花を詠める歌一首、また短歌
4166 時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き
鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに
打ち嘆き 萎えうらぶれ 偲ひつつ 有り来るはしに
木晩の 四月し立てば 夜隠りに 鳴く霍公鳥
古よ 語り継ぎつる 鴬の 現し真子かも
あやめ草 花橘を をとめらが 玉貫くまでに
あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八峯飛び越え
ぬば玉の 夜はすがらに 暁の 月に向ひて
往き還り 鳴き響むれど 如何で飽き足らむ
反し歌二首
4167 時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも
4168 毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み 毎年、としのはト謂フ
右、二十日、未だ時及ばずと雖も、興に依けて
預めよめる。
家婦が京に在す尊母に贈らむ為に、誂へらえてよめる歌一首、また短歌
4169 霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の
かぐはしき 親の御言 朝宵に 聞かぬ日まねく
天ざかる 夷にし居れば あしひきの 山のたをりに
立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに
思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取るちふ
真珠の 見がほし御面 ただ向ひ 見む時までは
松柏の 栄えいまさね 貴き吾が君 御面、みおもわト謂フ
反し歌一首
4170 白玉の見がほし君を見ず久に夷にし居れば生けるともなし
二十四日、立夏四月節に応れり。此に因りて二十三日の暮、忽ち霍公鳥の暁に喧かむ声を思ひてよめる歌二首
4171 常人も起きつつ聞くそ霍公鳥この暁に来鳴く初声
4172 ほととぎす来鳴き響まば草取らむ花橘を屋戸には植ゑずて
京の丹比が家に贈れる歌一首
4173 妹を見ず越の国辺に年経れば吾が心神の慰ぐる日も無し
筑紫の太宰の時の春の苑の梅を追ひてよめる歌一首
4174 春のうちの楽しき竟へば梅の花手折り持ちつつ遊ぶにあるべし
右の一首は、二十七日、興に依けてよめる。
霍公鳥を詠める二首
4175 ほととぎす今来鳴きそむ菖蒲草かづらくまでに離るる日あらめや ものは三箇ノ辞闕ク
4176 我が門よ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず ものはてにを六箇ノ辞闕ク
四月の三日、越前の判官大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌、感旧の意に勝へずて懐を述ぶる一首、また短歌
4177 我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ
夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に
八峯には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き
うら悲し 春の過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ
独りのみ 聞けば寂しも 君と吾 隔てて恋ふる
礪波山 飛び越えゆきて 明け立たば 松のさ枝に
夕さらば 月に向ひて あやめ草 玉貫くまでに
鳴き響め 安眠し寝さず 君を悩ませ
4178 吾のみし聞けば寂しも霍公鳥丹生の山辺にい行き鳴けやも
4179 ほととぎす夜鳴きをしつつ我が背子を安宿な寝せそゆめ心あれ
霍公鳥を感づる心に飽かず、懐を述べてよめる歌一首、また短歌
4180 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め
さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし
あやめ草 花橘を ぬきまじへ 縵くまでに
里響め 鳴き渡れども なほし偲はゆ
反し歌三首
4181 さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし
4182 霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけな離れず鳴くがね
4183 霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向かふ夏はまづ鳴きなむを
京師より贈来せる歌一首
4184 山吹の花取り持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも
右、四月の五日、郷に留れる女郎より送せたるなり。
山振の花を詠める歌一首、また短歌
4185 現身は 恋を繁みと 春設けて 思ひ繁けば
引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと
繁山の 谷辺に生ふる 山吹を 屋戸に引き植ゑて
朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず
恋し繁しも
4186 山吹を屋戸に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ
六日、布勢の水海に遊覧びてよめる歌一首、また短歌
4187 思ふどち 大夫の 木の晩の 繁き思ひを
見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小船連なめ
真櫂かけ い榜ぎ巡れば 乎布の浦に 霞たなびき
垂姫に 藤波咲きて 浜清く 白波騒き
しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも
かくしこそ いや年のはに 春花の 繁き盛りに
秋の葉の にほへる時に あり通ひ 見つつ偲はめ
この布勢の海を
反し歌
4188 藤波の花の盛りにかくしこそ浦榜ぎ廻みつつ年に偲はめ
水烏を越前判官大伴宿禰池主に贈れる歌一首、また短歌
4189 天ざかる 夷としあれは そこここも 同じ心そ
家離り 年の経ぬれば うつせみは 物思ひ繁し
そこゆゑに 心なぐさに 霍公鳥 鳴く初声を
橘の 玉にあへ貫き かづらきて 遊ばくよしも
ますらをを 伴なへ立ちて 叔羅川 なづさひ上り
平瀬には 小網さし渡し 早瀬には 鵜を潜けつつ
月に日に しかし遊ばね 愛しき我が背子
反し歌二首
4190 叔羅川瀬を尋ねつつ我が背子は鵜川立たさね心なぐさに
4191 鵜川立て取らさむ鮎のしが鰭は吾等にかき向け思ひし思はば
右、九日、使に附けて贈れる。
霍公鳥また藤の花を詠める歌一首、また短歌
4192 桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに
青柳の 細し眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ
をとめらが 手に取り持たる 真澄鏡 二上山に
木の晩の 茂き谷辺を 呼び響め 朝飛び渡り
夕月夜 かそけき野辺に 遙々に 鳴く霍公鳥
立ち潜くと 羽触に散らす 藤波の 花なつかしみ
引き攀ぢて 袖に扱入れつ 染まば染むとも
反し歌
4193 霍公鳥鳴く羽触にも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花 一ニ云ク、散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花
同じ九日よめる。
また霍公鳥の喧くこと晩きを怨む歌三首
4194 霍公鳥鳴き渡りぬと告げれども吾聞き継がず花は過ぎつつ
4195 吾がここだ偲はく知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ
4196 月立ちし日より招きつつ打ち慕ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも
京人に贈れる歌二首
4197 妹に似る草と見しより吾が標し野辺の山吹誰か手折りし
4198 つれもなく離れにしものと人は言へど逢はぬ日まねみ思ひそ吾がする
右、郷に留れる女郎の為に、家婦に誂へらえてよめる。
女郎は、即ち大伴家持が妹なり。
十二日、布勢の水海に遊覧び、多古の湾に船泊め、藤の花を望見て、各懐を述べてよめる歌四首
4199 藤波の影なる海の底清み沈く石をも玉とそ吾が見る
守大伴宿禰家持。
4200 多古の浦の底さへにほふ藤波を挿頭して行かむ見ぬ人のため
次官内藏忌寸繩麻呂。
4201 いささかに思ひて来しを多古の浦に咲ける藤見て一夜経ぬべし
判官久米朝臣廣繩。
4202 藤波を借廬に作り浦廻する人とは知らに海人とか見らむ
久米朝臣繼麻呂。
霍公鳥の喧かぬを恨む歌一首
4203 家に行きて何を語らむあしひきの山霍公鳥一声も鳴け
判官久米朝臣廣繩。
攀折れる保宝葉を見る歌二首
4204 我が背子が捧げて持たる厚朴あたかも似るか青き蓋
講師僧恵行。
4205 皇祖神の遠御代御代はい敷き折り酒飲むといふそこの厚朴
守大伴宿禰家持。
還る時に、浜の上にて月光を仰見る歌一首
4206 澁谿をさして吾が行くこの浜に月夜飽きてむ馬しまし止め
守大伴宿禰家持。
二十二日、判官久米朝臣廣繩に贈れる、霍公鳥の怨恨の歌一首、また短歌
4207 ここにして 背向に見ゆる 我が背子が 垣内の谷に
明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに
遙々に 鳴く霍公鳥 我が屋戸の 植木橘
花に散る 時をまたしみ 来鳴かなく そこは恨みず
然れども 谷片付きて 家居れる 君が聞きつつ
告げなくも憂し
反し歌
4208 吾がここだ待てど来鳴かぬ霍公鳥独り聞きつつ告げぬ君かも
霍公鳥を詠める歌一首、また短歌
4209 谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども
霍公鳥 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲りと
朝には 門に出で立ち 夕へには 谷を見渡し
恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず
反し歌
4210 藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ
右、二十三日、掾久米朝臣廣繩が和ふ。
処女墓の歌に追ひて和ふる一首、また短歌
4211 いにしへに ありけるわざの くすはしき 事と言ひ継ぐ
血沼壮子 菟原壮子の うつせみの 名を争ふと
玉きはる 命も捨てて 相共に 妻問ひしける
処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて
秋の葉の にほひに照れる 惜身の 盛りをすらに
大夫の 語労しみ 父母に 申し別れて
家離り 海辺に出で立ち 朝宵に 満ち来る潮の
八重波に 靡く玉藻の 節の間も 惜しき命を
露霜の 過ぎましにけれ 奥つ城を ここと定めて
後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと
黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひて靡けり
反し歌
4212 処女らが後の表と黄楊小櫛生ひ代り生ひて靡きけらしも
右、五月の六日、興に依けて大伴宿禰家持がよめる。
4213 東風をいたみ奈呉の浦廻に寄する波いや千重しきに恋ひ渡るかも
右の一首は、京の丹比が家に贈る。
挽歌一首、また短歌
4214 天地の 初めの時よ うつそみの 八十伴男は
大王に まつろふものと 定めたる 官にしあれば
天皇の 命畏み 夷ざかる 国を治むと
あしひきの 山川隔り 風雲に 言は通へど
直に逢はぬ 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに
玉ほこの 道来る人の 伝言に 吾に語らく
愛しきよし 君はこの頃 うらさびて 嘆かひいます
世間の 憂けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ
うつせみも 常無くありけり たらちねの 母の命
何しかも 時しはあらむを 真澄鏡 見れども飽かず
玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく
置く露の 消ぬるがごとく 玉藻なす 靡き臥い伏し
行く水の 留めかねきと 狂言や 人し言ひつる
逆言か 人の告げつる 梓弓 爪引く夜音の
遠音にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙
留めかねつも
反し歌二首
4215 遠音にも君が嘆くと聞きつれば哭のみし泣かゆ相思ふ吾は
4216 世間の常無きことは知るらむを心尽くすな大夫にして
右、大伴宿禰家持が、聟南の右大臣の家
藤原の二郎の喪慈母患弔へる。五月二十七日。
霖雨晴るる日、よめる歌一首
4217 卯の花を腐す長雨の始水に寄る木糞なす寄らむ子もがも
漁夫の火光を見る歌一首
4218 鮪突くと海人の灯せる漁火の秀にか出ださむ吾が下思ひを
右の二首は、五月。
4219 我が屋戸の萩咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも
右の一首は、六月十五日、芽子早花を見てよめる。
京師より来贈せる歌一首、また短歌
4220 海の 神の命の み櫛笥に 貯ひ置きて
斎くとふ 玉にまさりて 思へりし 吾が子にはあれど
うつせみの 世の理と 大夫の 引きのまにまに
しなざかる 越道をさして 延ふ蔦の 別れにしより
沖つ波 撓む眉引 大船の ゆくらゆくらに
面影に もとな見えつつ かく恋ひば 老いづく吾が身
けだし堪へむかも
反し歌一首
4221 かくばかり恋しくしあらば真澄鏡見ぬ日時なくあらましものを
右の二首は、大伴氏坂上郎女が、女子の大嬢に賜ふ。
九月の三日、宴の歌二首
4222 この時雨いたくな降りそ我妹子に見せむがために黄葉採りてむ
右の一首は、掾久米朝臣廣繩がよめる。
4223 青丹よし奈良人見むと我が背子が標めけむ黄葉土に落ちめやも
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
4224 朝霧の棚引く田に鳴く雁を留め得めやも我が屋戸の萩
右の一首歌は、吉野の宮に幸ましし時、藤原の皇后の
御作るなり。但し年月審詳ならず。十月の五日、河邊
朝臣東人(あそみ あづまひと)が伝へ誦めり。
4225 あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく
右の一首は、同じ月の十六日、朝集使少目
秦忌寸石竹を餞する時、守大伴宿禰家持がよめる。
雪ふる日、よめる歌一首
4226 この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む
右の一首は、十二月、大伴宿禰家持がよめる。
雪の歌一首、また短歌
4227 大殿の この廻りの 雪な踏みそね しばしばも
降らざる雪そ 山のみに 降りし雪そ ゆめ寄るな
人や な踏みそね雪は
反し歌一首
4228 ありつつも見したまはむそ大殿のこの廻りの雪な踏みそね
右の二首歌は、三形沙彌が、贈左大臣
藤原の北の卿の語を承けて、作誦めり。聞き伝
ふるは、笠朝臣子君なり。また後に伝へ読む者は、
越中国の掾久米朝臣廣繩なり。
天平勝宝三年
4229 新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが
右の一首歌は、正月の二日、守の館にて集宴せり。
その時零雪殊多、積尺有四寸なりき。即ち主人
大伴宿禰家持此の歌を作める。
4230 降る雪を腰になづみて参ゐり来し験もあるか年の初めに
右の一首は、三日、介内藏忌寸繩麻呂が館に会集ひ
て宴楽せる時、大伴宿禰家持が作める。
その時、積もれる雪重なる巌の趣を彫り成し、奇巧に草樹の花を綵り発く。此に属きて掾久米朝臣廣繩がよめる歌一首
4231 撫子は秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも
遊行女婦蒲生娘子が歌一首
4232 雪の島巌に殖てる撫子は千世に咲かぬか君が挿頭に
ここに、諸人酒酣にして、更深鶏鳴く。此に因りて主人内藏伊美吉繩麻呂がよめる歌一首
4233 打ち羽振き鶏は鳴くともかくばかり降り敷く雪に君いまさめやも
守大伴宿禰家持が和ふる歌一首
4234 鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ吾が立ちかてね
太政大臣藤原の家の縣犬養の命婦が、天皇に奉れる歌一首
4235 天雲を散に踏みあたし鳴神も今日にまさりて畏けめやも
右の一首、伝へ誦めるは掾久米朝臣廣繩。
死れる妻を悲傷む歌一首、また短歌 作主未詳
4236 天地の 神は無かれや 愛しき 吾が妻離る
光る神 鳴り波多娘子 手携ひ 共にあらむと
思ひしに 心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに
木綿襷 肩に取り掛け 倭文幣を 手に取り持ちて
な離けそと 我は祈めれど 枕きて寝し 妹が手本は 雲に棚引く
反し歌一首
4237 うつつにと思ひてしかも夢のみに手本巻き寝と見ればすべなし
右の二首、伝へ誦めるは遊行女婦蒲生なり。
二月の三日、守の館に会集ひて宴して、よめる歌一首
4238 君が旅行もし久ならば梅柳誰と共にか吾が蘰かむ
右、判官久米朝臣廣繩、正税帳を以ちて、
京師に入らむとす。仍守大伴宿禰家持、此の
歌を作めり。但越中の風土、梅花柳絮、
三月咲き初む。
霍公鳥を詠める歌一首
4239 二上の峯の上の繁に籠りにし霍公鳥待てど未だ来鳴かず
右、四月の十六日、大伴宿禰家持がよめる。
春日にて祭神之日、藤原の太后のよみませる御歌一首。即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ
4240 大船に真楫しじ貫きこの吾子を唐国へ遣る斎へ神たち
大使藤原朝臣清河が歌一首
4241 春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て還り来むまで
大納言藤原の卿の家にて、入唐使等を餞する宴日の歌一首 即チ主人卿ヨメリ
4242 天雲の往き還りなむものゆゑに思ひそ吾がする別れ悲しみ
民部少輔丹治比真人土作がよめる歌一首
4243 住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ
大使藤原朝臣清河が歌一首
4244 あら玉の年の緒長く吾が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ
天平五年、入唐使に贈れる歌一首、また短歌 作主未詳
4245 そらみつ 大和の国 青丹よし 奈良の都ゆ
押し照る 難波に下り 住吉の 御津に船乗り
直渡り 日の入る国に 遣はさる 我が兄の君を
懸けまくの 忌々し畏き 住吉の 吾が大御神
船の舳に 領きいまし 船艫に み立たしまして
さし寄らむ 磯の崎々 榜ぎ泊てむ 泊々に
荒き風 波に遇はせず 平けく 率て還りませ もとの国家に
反し歌一首
4246 沖つ波辺波な立ちそ君が船榜ぎ還り来て津に泊つるまで
阿倍朝臣老人が、唐に遣はさるる時、母に奉れる悲別の歌一首
4247 天雲のそきへの極み吾が思へる君に別れむ日近くなりぬ
右の件の八首歌は、伝へ誦める人、越中の大目
高安倉人種麻呂なり。但し年月の次は、聞ける時の
随、載げたり。
七月の十七日、少納言に遷任されて、悲別の歌を作みて、朝集使掾久米朝臣廣繩が館に贈貽れる二首
既に六載の期に満ち、忽ち遷替の運に値ふ。是に旧に別るる悽しみ、心中に欝結れ、涕の袖を拭ふ。いかにか能く旱かむ。因悲しみの歌二首を作みて、莫忘の志を遺せり。其の詞に曰く
4248 あら玉の年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも
4249 石瀬野に秋萩凌ぎ馬並めて初鷹猟だにせずや別れむ
右、八月の四日贈れりき。
便ち大帳使を附け、八月の五日に、京師に入らむとす。此に因りて四日、国の厨の饌を介内藏伊美吉繩麻呂が館に設けて、餞す。その時大伴宿禰家持がよめる歌一首
4250 しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも
五日、平旦上道す。仍国司次官より、諸の僚まで、皆共視送りす。その時射水の郡の大領安努君廣島が門の前の林の中に、預め饌餞の宴を設す。時に大帳使大伴宿禰家持が、内藏伊美吉繩麻呂が盞を捧ぐる歌に和ふる一首
4251 玉ほこの道に出で立ち行く吾は君が事跡を負ひてし行かむ
正税帳使掾久米朝臣廣繩、事畢りて退任れり。越前国の掾大伴宿禰池主が館に適き遇ひて、共に飲楽す。その時久米朝臣廣繩が、芽子の花を矚てよめる歌一首
4252 君が家に植ゑたる萩の初花を折りて挿頭さな旅別るどち
大伴宿禰家持が和ふる歌一首
4253 立ちて居て待てど待ちかね出でて来て君にここに逢ひ挿頭しつる萩
京に向る路にて、興に依け預め作める、宴に侍りて詔を応はる歌一首、また短歌
4254 蜻蛉島 大和の国を 天雲に 磐船浮べ
艫に舳に 真櫂しじ貫き い榜ぎつつ 国見しせして
天降りまし 掃ひ平らげ 千代重ね いや嗣ぎ継ぎに
領らし来る 天の日継と 神ながら 我が大皇の
天の下 治め賜へば もののふの 八十伴男を
撫で賜ひ 整へ賜ひ 食す国の 四方の人をも
あぶさはず 恵み賜へば 古よ 無かりし瑞
度まねく 奏し賜ひぬ 手拱きて 事無き御代と
天地 日月と共に 万代に 記し継がむそ
やすみしし 我が大皇 秋の花 しが色々に
見し賜ひ 明らめ賜ひ 酒漬き 栄ゆる今日の 奇に貴さ
反し歌一首
4255 秋の花種々なれど色ことに見し明らむる今日の貴さ
左大臣橘の卿を寿かむと、預めよめる歌一首
4256 古に君が三代経て仕へけり我が王は七代奏さね
十月の二十二日、左大弁紀飯麻呂の朝臣が家にて宴する歌三首
4257 手束弓手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬ棚倉の野に
右の一首は、治部卿船王の伝へ誦める、
久邇の京都の時の歌なり。作主しらず。
4258 明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ
右の一首は、左中弁中臣朝臣清麻呂が伝へ
誦める、古き京の時の歌なり。
4259 十月時雨の降れば我が背子が屋戸のもみち葉散りぬべく見ゆ
右の一首は、少納言大伴宿禰家持が、当時梨の黄葉を
矚て、此の歌を作めり。
〔天平勝宝〕四年
壬申の年の乱、平定らぎし以後の歌二首
4260 皇は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
右の一首は、大将軍贈右大臣
大伴の卿の作みたまふ。
4261 大王は神にしませば水鳥の多集く水沼を都と成しつ 作者未詳
右の件の二首は、〔天平勝宝四年〕二月の二日に聞きて、
茲に載ぐ。
閏三月、衛門督大伴古慈悲の宿禰が家にて、入唐副使同じ胡麿の宿禰等を餞する歌二首
4262 唐国に行き足らはして還り来むますら健男に御酒奉る
右の一首は、多治比真人鷹主が、副使大伴胡麻呂
の宿禰を寿く。
4263 櫛も見じ屋中も掃かじ草枕旅ゆく君を斎ふと思ひて 作主未詳
右の件の二首歌伝へ誦めるは、大伴宿禰村上、
同じ清繼等なり。
従四位上高麗朝臣福信に勅して、難波に遣はし、酒肴を入唐使藤原朝臣清河等に賜へる御歌一首、また短歌
4264 そらみつ 大和の国は 水の上は 地ゆくごとく
船の上は 床に居るごと 大神の 鎮へる国そ
四つの船 船の舳並べ 平らけく 早渡り来て
返り言 奏さむ日に 相飲まむ酒そ この豊御酒は
反し歌一首
4265 四つの船早帰り来と白紙付け朕が裳の裾に鎮ひて待たむ
右、勅使ヲ発遣シ、マタ酒ヲ賜フ楽宴ノ日月、
未ダ詳審ラカニスルコトヲ得ズ。
詔を応らむが為に、儲めよめる歌一首、また短歌
4266 あしひきの 八峯の上の 樛の木の いや継ぎ継ぎに
松が根の 絶ゆることなく 青丹よし 奈良の都に
万代に 国知らさむと やすみしし 我が大王の
神ながら 思ほしめして 豊宴 見す今日の日は
もののふの 八十伴の雄の 島山に 赤る橘
髻華に挿し 紐解き放けて 千年寿き ほさき響もし
ゑらゑらに 仕へまつるを 見るが貴さ
反し歌一首
4267 すめろきの御代万代にかくしこそ見し明らめめ立つ年の端に
右の二首は、大伴宿禰家持がよめる。
天皇と太后と、共に大納言藤原の家に幸しし日、黄葉せる沢蘭一株を抜き取りて、内侍佐佐貴山君に持たしめ、大納言藤原の卿また陪従の大夫等に遣賜へる御歌一首
命婦が誦へて曰へらく
4268 この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草は黄葉ちたりけり
十一月の八日、太上天皇、左大臣橘朝臣の宅に在して、肆宴きこしめす歌四首
4269 よそのみに見つつありしを今日見れば年に忘れず思ほえむかも
右の一首は、太上天皇の御製。
4270 葎はふ賎しき屋戸も大王の座さむと知らば玉敷かましを
右の一首は、左大臣橘卿。
4271 松陰の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に
右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。
4272 天地に足らはし照りて我が大王敷きませばかも楽しき小里
右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 未奏。
二十五日、新嘗会の肆宴に、詔を応はる歌六首
4273 天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき
右の一首は、大納言巨勢朝臣。
4274 天にはも五百つ綱延ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ
右の一首は、式部卿石川年足朝臣。
4275 天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を
右の一首は、従三位文屋智努麻呂真人
4276 島山に照れる橘髻華に挿し仕へ奉らな卿大夫たち
右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。
4277 袖垂れていざ我が苑に鴬の木伝ひ散らす梅の花見に
右の一首は、大和国守藤原永手朝臣。
4278 あしひきの山下日蔭かづらける上にやさらに梅を賞はむ
右の一首は、少納言大伴宿禰家持。
二十七日、林王の宅にて、但馬按察使橘奈良麻呂の朝臣を餞せる宴歌三首
4279 能登川の後は逢はめど暫しくも別るといへば悲しくもあるか
右の一首は、治部卿船王。
4280 立ち別れ君がいまさば磯城島の人は我じく斎ひて待たむ
右の一首は、右京少進大伴宿禰黒麻呂。
4281 白雪の降り敷く山を越え行かむ君をそもとな息の緒に思ふ 左大臣尾ヲ換ヘテ云ク、いきのをにする。然レドモ猶喩シテ曰ク、前ノ如ク誦メト。
右の一首は、少納言大伴宿禰家持。
五年正月の四日、治部少輔石上朝臣宅嗣が家にて、宴する歌三首
4282 言繁み相問はなくに梅の花雪にしをれて移ろはむかも
右の一首は、主人石上朝臣宅嗣。
4283 梅の花咲けるが中に含めるは恋や隠れる雪を待つとか
右の一首は、中務大輔茨田王。
4284 新しき年の初めに思ふ共い群れて居れば嬉しくもあるか
右の一首は、大膳大夫道祖王。
十一日、大雪落積もれること、尺有二寸。因拙懐を述ぶる歌三首
4285 大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し
4286 御苑生の竹の林に鴬はしば鳴きにしを雪は降りつつ
4287 鴬の鳴きし垣内ににほへりし梅この雪にうつろふらむか
十二日、内裏に侍ひて、千鳥を聞きてよめる歌一首
4288 河渚にも雪は降れれや宮の内に千鳥鳴くらし居むところ無み
二月の十九日、左大臣橘の家の宴に、攀ぢ折れる柳の條を見る歌一首
4289 青柳の上枝攀ぢ取りかづらくは君が屋戸にし千年寿くとそ
二十三日、興に依けてよめる歌二首
4290 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも
4291 我が屋戸の五十笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも
二十五日、よめる歌一首
4292 うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも独りし思へば
春ノ日遅々トシテ、ヒバリ正ニ啼ク。悽惆ノ意、
歌ニアラザレバ撥ヒ難シ。仍此ノ歌ヲ作ミ、式テ
締緒ヲ展ク。但此ノ巻中、作者ノ名字ヲ称ハズ、
徒年月所処縁起ヲノミ録セルハ、皆大伴宿禰家持
ガ裁作セル歌詞ナリ。