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美術閑話

提供:Wikisource

美 術󠄁 閑 話

(一)

藝術の意義と各派 藝術󠄁の哲學的基礎卽ち美學上に認むる藝術󠄁の意義に就ては隨分面倒だから

詳しい事は今我輩が起󠄁草して居る著述󠄁が上版してから見て貰ふ事として茲には極學簡に且つ廣汎

な意義に於ての藝術󠄁の話をしやうと思ふ、」

抑人間の精︀智情󠄁意の三者で以て成立して居るものとすれば其慾求對象たる眞美善が人生の目

的󠄁、本性の歸趣たるは言ふ迄もない、而して一切の學術󠄁が追ふ所󠄁のが知性であるが如く、宗敎、

法律等の一切の云爲うんゐするものが意性であるが如く、時間、空間一切の藝術󠄁は人間の情󠄁性の對

象たる義を調育するものである、而かして所󠄁謂高等藝術󠄁なるものは繪畫、彫刻、音樂、詩歌と數

へるのである、詩歌は人の觀念意識丈に訴ふる者、音樂は時間的󠄁の、餘ます繪畫彫刻のみ純

美術󠄁とする、又時には工作的󠄁分子を除いた建築をも加へる事がある、彫刻と云つても工藝彫刻を

除いたもので、日本で謂ふ床の置物や奈良人形の樣なものではない、純正彫刻である、繪畫と云

つても日本畫や支那畫の様なミ子ママアチユアー許りでは無い、今少し健全な繪畫だ、處で我輩を繪

畫の方でツマリ具象的󠄁方法として平󠄁面の上に分彩󠄁を使用して作るアーチストの位置に在るのであ

るから重に繪畫を中心として藝術󠄁百般の事を話して見やう、史的󠄁發達の上から云へば隨分永い間

の變遷が在るが、形而上の事卽ち抽象的󠄁意味と、形而下の事卽ち形式上の意味と此二つので成

立つて居るのでクラシツクとローマンチツクと此二者は重なる矛盾である、恰も哲學で云ふ唯心

と唯物の二元と同じに素より離る可からざる因緣で、近時謂ふ所󠄁のクラシツク及びローマンチツ

クは此矛盾の性質を具體的󠄁に現はしたもので、而かし今日では如斯狹偏でなくつて、是れを突破

したのは所󠄁謂ナチユラリズム(自然派󠄂)とリアリスム(寫實派󠄂)だ、夫れからローマンチツクに

數へ度いものではシムボリスト(象徵派󠄂)ミスチシズム(祕派󠄂)セツセツシヨニズム(比興派󠄂)

等があり、リアリズムとローマンチズムとの中間に在るものではアムブレツシヨニズム(印象派󠄂)

ヤポアンナリシズム(點綴派󠄂)デカダン(壞倒派󠄂)エフエトナシズム(感覺派󠄂)等である、又ク

ラシツク(古典派󠄂)の方にもニウクラシシズムといふのが在り是等の內に又殊に形式を換へたもの

で前󠄁陳の獨のセツセツシヨニズムの外英にプレ、ラフアユリズム、佛のサムンボリシズムがある、

細かく言へばシムボリシズムの中にもセガンチニー派󠄂(伊太利)リツツ派󠄂、ヒユビー、ド、シヤ

バンタ派󠄂、(佛)キユスターブ、モロー派󠄂等がある、如上の各派󠄂に分かれて、實にイズムの世と

成たのである。

けれども大體に於ては前󠄁に述べたクラツシズムトママローマンチシズムトママリアリズムが近󠄁世の三大派󠄂

と見て差閊へは無い、又尤も普通に言ふならば理想派󠄂と寫實派󠄂と律しても誤󠄁りは無いのである、

以下簡單に是等の各派󠄂に就て說明し我輩の所󠄁屬に就ても聊お話もしやふ。

(二)

クラシック派卽ち古典派󠄂とは何を言ふかといふと此クラシツクは大體に於て古今東西に最も

形式を重ずる而かも通例一班の嚴肅な派󠄂である、此クラシシズムと銘を印したのは此十八世紀未

からで佛のダビツト及びアングル抔は此派󠄂の大將である、實に賢こい方法で且眞面目である、日

本で言ふならば阿佐太子、鳥佛師、銅白、巨勢金岡等で近くは狩野元信常信土佐派󠄂等である。所󠄁

が一長有れば一短ありで流石此嚴肅なクラシシズムも全く形式に泥む所から、漸々尤も必要な精︀

即ち情態の流露を失ふ所󠄁から是に反對して起󠄁つたのがローマンチツクできのアングルに抗し

てドラクロア(佛)抔が主張した畫派󠄂で、實是れは一世を動かした文藝の趨勢である、日本には

是といふ比數が無いが、强いて言ふたら探幽や曾我肅白やであらうか、此二つは永い間對峙して

居たが遂に此二大派󠄂も各其弱點を示した、夫れはアンナチユラル卽ち不自然な點で是れが爲めに

起つたのがリアリズム郎ち寫實派󠄂で、眞を寫さうとするのである、是は最近時に起つた派󠄂で餘程

有力な所がある、此派󠄂に屬する數多の大家があるが、日本で言へば丸山應擧抔四條派󠄂は是である、

又デコラチーブの意義に於ては光琳宗達抔も加へてよいと思ふ、

扨此三大派󠄂は近世幾百年間の各オーソリチーで、且又自然界の三大矛盾を律綜した眞相である様

に見えるが、而かし是れにも人の藝術的向上心は滿足する事が出來なくて前に述べた様に最近󠄁に

は種々の主張ある流派󠄂を生じた譯である、こんな具合であるが我輩の考を以てすれば是等の脈離

萋々たる各派󠄂も大體に於て理想派󠄂と形相派󠄂との二つとする事が出來ると思ふ、

形相派󠄂として數ふる者では先きのクラシシズム、シムボリズムの形様的󠄁一部、典型的󠄁樣式形態兼

(チシアン、コレツデオ、等ベンス派󠄂に多し)等で理想派󠄂に數ふ可きものではローマンチシズム

の一部、シムボリスト、ミスチシズム等である、所󠄁で我等は如何な風に此複雜極まる各派󠄂を綜縫

して硏究しやうと思つて居るかといふに、我輩は飽く󠄁迄虚心平󠄁氣に其長所󠄁を探らん事を心懸けて

見た、大體に於てテクニツク卽ち技術的󠄁には飽く迄寫實及自然派󠄂の態度で鍛練し、形相に於ては

出來丈けクラシシズムの嚴肅な所󠄁を學ばうとし、思想に於ては頗自由な淸新な□ママ達な意味に於て

寧ろ獨逸につとめて見たのである。夫れも昔で今は一個聊自ら信ずる所󠄁も持して居る積りである、

當今の所󠄁では色彩󠄁はアムブレツシヨニシズム若くはボアンチリシズムの方法で形相は飽󠄁迄クラ

シシズムで思想に於てはシムボリシズム及ミスチシズム若くはセツセツシヨニズムといふ様の傾

向を帶びて居る所󠄁から、人人には極理想派󠄂であると思はれて居る、而かし我輩は必らずしも理想

派󠄂を以て自ら標榜しては居らぬのである、且又其必要を認めて居ない、唯近時我洋畫界が餘まり

形相にのみ傾むいて居たので我輩丈が特に理想派󠄂の樣の觀が在つたに過ぎぬものと自ら信じて居

る、

(三)

專門がかった話はやめて措いて、極普通の話しをしやう、洋畫では通例一、人物畫、一、風景畫、一、

動物畫、一、靜物書、と單純に分ける、又其製作的󠄁性質の上からは一、純思想畫、話畫一、宗

敎畫一、歷史畫一、風俗畫一、様飾󠄁畫、と類︀する、又其物質的󠄁樣式からは墨︀畫(ドローウヰング)

水彩󠄁畫類︀彩󠄁書油彩󠄁書(以上はベンチユール)と分類︀する、所で一番六ケ敷いのは油畫で人物を描

く事だ、肖󠄁像の如きも實は中々困難である、唯單に似せる位は何でも無いが、本當に人物畫とし

て眞の價値ある肖󠄁像畫は決して容易なものでは無いのである、素人などは寫眞の少し上等なもの

位心得て居るので肖󠄁て居る一寸綺麗に出來て居れば夫で可い樣に思って居るが決して夫ではまつた

ものでは無いのである、少くとも十年二十年の後には一片の繪草紙と何等撰む所は無い樣にかは

て仕舞だらふ、

洋畫を正しく研究するには木炭を用ゐて墨︀繪から始めるのである、日本畫見た樣に模寫のみや

らせる樣な事はない、平󠄁面の物を平󠄁面の上に模する事が出來れば直ぐに立體的󠄁の空間物質を對

象として嚴正に平󠄁面の上に具象する事を學ぶ、ロで云へば優しい事の樣だが是は中々三年五年

の稽古で出來得るものでない、夫で此對象たる物質も複雜で且間違の分からぬ樣なものは最初避

けて重に希臘羅馬の古大理石像や其石膏型像を手本として寫す、一は純白の物質であるから墨︀畫

とするのに都合好いのと一は古彫の尊󠄁嚴を味ふ爲で最適󠄁當な方法だと思ふ、これで輪廓や光線と

對象凹凸モデレーとの關係から出來複雜な濃淡等が非常な正確なものと成るに及んで、今度は對象卽ち手

本として生きた人體を用ゆる事とする、男女の人體を裸として一定の姿勢を保たしめ、これを木

炭で以て嚴格に寫生するのであるが此モデルとても生きて居る以上中々動く、少しの動きが形態

の上には非常な變化を及ぼす、夫から單に一本の木炭で以て一葉のアンクル紙の上に擦拭するに

過ぎぬのではあるが、骨格も嚴正に出來ねばならず筋肉も動靜を示さねばならず、皮膚の滑鬆こうせい

面貌の表情󠄁エキスプレス大體の姿勢が示めす力の運󠄁行総べて嚴正に描寫せねばならぬ、一枚を寫すに一週間

として每週間其人物や姿勢を取り替へて幾年幾百枚と無くやつて居る中是れも自由に出来る樣に

爲つた所󠄁で始めて色彩󠄁を用ゐる事とする、色彩󠄁も種々經程󠄁があるが最後に用ゐる物は油繪具󠄁で、

油繪具󠄁で曩きの樣に裸體モデルを硏究する、これが上達󠄁すれば先づ一通󠄁りは出來る人と云へるの

である、又茲が才能の依つて分かるゝ處で永くやつて隨分勉强しても一向出來ぬ人もあり、人の

四五年懸かつて尙且つ出來ぬ處も一年位で苦も無く進󠄁んで行く人もある、風景や動靜物は譯もな

く出來る樣になるのだ、

(四)

人物が何故なぜ至難︀むつかかしいかといふと、人物は吾人が始終󠄁親交して居る自然界に於て最能く通󠄁識して

居るもので間違󠄁ふ事を許さないからだ、松の樹一本描くならば其枝が少し高い處から出ても枝が

1本多く出ても先づ其松たる事を失はないが、人體では中々そうは行かぬ、腕が背の方から出て

も惡ければ六本指も感心せぬ、否々もつと隱微零碎な間違󠄁でも專門家から見ると直ぐに其誤󠄁が解

つて仕舞ふ、かおかたちで云へば例へば眼の如き最も微妙な表情󠄁機關だから眸瞳ー點󠄁彈丸黑子の如きだ

が能く人生に於ける有らゆる希望、苦痛、哀怨、光明を物語るではないか是を發揮して永久に致

すのが藝術である、其處で又知らずに濟まぬのは解剖學で醫者が用ゐるのは生理解剖フヰシヨロジカルアナトミーだが、

我輩の方で硏究するのは藝術󠄁解剖アーチスチツクアナトミーである、內臟の事に就ては一通󠄁り識つて居れば餘まり不便は

感じない、つまり消󠄁化器︀や生殖器︀の事を非常に悉しく調べる必要は無いが、形態上の時間的󠄁運󠄁動

及空間的󠄁變化に對しては飽󠄁く迄專門上の硏究しなければならぬ、何れかと云へば外科的󠄁で、先づ

骨論から始めて筋肉組織經組織其運󠄁動、夫から肉體が及ぼす顏面表情󠄁の關係から漸々科學的󠄁物

質を離れて哲學心理學的󠄁狀態の硏究に這入る、夫から又知らねばならぬのは色彩󠄁原論考古學

美術史夫から順序を逐󠄁ふて博物化學天 文地文話學比較宗敎歷史社會學等百般

科學の廣汎にして且蓲深の硏究の末一般時代精︀の思潮を解し得て始めて一箇主張ある製作時期

に入る、中々一代の至難︀なる事業と言はねばならぬ、硏究すればする程徒らに洪茫として極め難︀

い我輩は今ラテンからアリアン語系、夫から東洋語系サンスクリツト、巴利語系と聊言語學の硏

究を數年間懸かつて居るのであるが寔に無間洪荒轉た人生と自然の久遠落莫に驚異するのみであ

る。前途󠄁の事を思ふと實に遼󠄁遠󠄁で今の樣に身邊の事情󠄁や何かで愚頭々々して居るのは耻かしい次

第である

半生の回顧 我輩は貧窮の家に生まれて人と爲つたのであるが而かし是迄別に乏しい淋しいと考

へた事はない、僕の此十數年間といふものは亡父の深い同情󠄁が在つた爲めで實に其最後に寄せた

手紙迄身邊の左右に云爲うんゐするなし、寒󠄁奉自ら守つて潔ふせよと云ふ意味で、明日の糧の空しいのを

敬ふて我輩を励まして吳れた身は家兄に生れ乍ら寸尺の報恩する事なくして遽爾として過日此

內緣の最親、信仰の最敬を失ふて仕舞つた、如何に藝術の爲めとは言乍ら誠に是不忠不孝の事今

更ら彼渡邊畢山が自撰の碑銘が必らずしも奇矯ならぬ蓲深の痛懐で、其人格を想見するに難から

ぬ事を念ひ坐ろに敬慕の情󠄁を起󠄁すのである、亡父は前󠄁生維新前󠄁後所󠄁謂勤王の黨士で所󠄁々國事に奔

走したが風雲漸く静󠄁まつて世は匆更そうこう遽革實利實質に去就する樣になつて家系の藩錄を欠なひ具󠄁つぶ

に辛酸を甞めたが遂󠄂に失意の半󠄁生を送る可く餘儀なくされた、自分の抱負を棄て家を治めて吳た

丈け夫丈我輩に對する其孤負も注文も多く只重かつたらふと思ふ、しりそいて除ろに自己の事考へて

見ると蕪能菲才遂󠄂に何物の自ら恃むに足る可きなきを識つては、此如何にして父祖︀の志を辱めざ

る可きかを解くに由なく、懺愧痛恨罪方に死を以てすら償ひ得ぬと思ふ、今茲に來たのも回顧󠄁す

れば十數年前󠄁未だ壯かりし父に連󠄁れられて宰府に當時尙稚かりし餘が幸を祈︀りし歸路數日間を湯

養した事を今尙覺えて居るが、流轉一再哀む可きものは遂󠄂に至つて十數年の間東都の客旅︀に屢夢

驚した其影は實に眞と化つて、報にせて破れて懐かしき故家に着いた頃は旣に業に我が人の柩

は閾を越えて野邊に送󠄁られんとして居る際であつたのだ、此湯町に來て見れば舊物依依として地

より湧く泉の水流れて盡きず天拜山頭の老幹亦變る事なしと雖も易り更りしは人の身の上で、

秋風慘々として骨を穿ち、蟲聲哀々として肉を刺すもの夫脫れ得ざる人の運命であらふか哀んで

傷まずと謂ふが、昔から詩人畫客の其愛人を失ふてメランコリーに陷つた者︀多い、我輩の如き多

感の側は自らまもる事に力めねば不孝の上に不孝を重ぬるでは無いかと、夫のみ今は考ふるのであ

る。

(五)

肖󠄁像の話 此頃能く聞かれるから肖󠄁像の話をして置かう、一體肖󠄁像といふものは人の生きてる中

の貌姿を永遠に止め、家系其他後世の人をして追󠄁想せしむるといふ主意にある、夫は繪畫と彫刻

の二方法がある、彫刻では大理石像マーブル靑銅像ブロンズのニつあるが色彩󠄁を用ゆる譯にゆかぬ、底で繪畫を

多く用ゆるのだが油繪が巌適󠄁當なものと思ふ、油繪は隨分古くからあるもので彼の伊太利ポムペ

イの廢市から發見されたものが今日で最古るい、尤も今日の樣な完全なものとなつたのは伊太利

の復興期以前󠄁で和蘭のヴァンエークが創始上大成した、是は旣に六百年前󠄁だが全く今書いた樣に

して居る、今日の硏究した材料で出來たものであれば先づニ千年位は少しも變化せずに遺󠄁存する

事が出來る、而かし如何に完全な材料を使用しても未熟では繪具󠄁の中に化學的󠄁變化を起󠄁して數年

の後は褪色若しくは變色する事がある、又材料が惡るければ有毒瓦斯や遊離原素の爲めに犯され

て變化を來す事は勿論である、而して此完全な材料程󠄁使用するのに六ケ敷く中々短日月では本當

には出來難い、けれ共斯うして出來たものは幾百年經ても少しの變りは無く、汚れても煤けても

揮發油で拭へば何時でも新らしく爲る

西洋では箇人的な處世制度であるが、己れの財產なり事績なりを子孫後系に譲る場合に其肖󠄁像に

添えて其遺產を傳える樣になつて居る、夫で代々其家系の一族の肖󠄁像が在つて距世の後系に咫尺しせき

する樣になつて居る日本の如き家系的󠄁處世制度では 猶 更必要な事と思はれる。累代の肖󠄁像が連︀な

つて居る中、例へば是れは何代前󠄁の誰某で、自分の家系の中に何程󠄁の功勞が在つて如何程󠄁の財產

を殖した人だ、是は誰某で幾歳󠄂で失くなつたが此土地に何々の功勞があつた、イヤ是は誰某で何

の事業をやつて名を知られた人と云ふ樣に其面影が後系者の自家噂信の爲め間接に如何程󠄁の敎訓

勵戒を與ふるか決して僅少でないと思ふ、又後系者の方でも不幸な者であれば父母の顏さへ知ら

ぬ者︀がある、父祖︀の慈影を朝夕拜して居て自ら相戒むるよすがとする上精︀的󠄁に如何程󠄁力を得る

か分からぬ、僕の親戚の家に父祖︀代々の肖󠄁像が在るが餘等の稚少な折から少からぬ訓戒を受けた、

夫れが能く出來て居るので生人に對するのと少しも變らぬ、否生人に對するよりは寧ろ其面影を

眉間に拜する時には一種森嚴な氣に打たれて先づ敬虔襟を正ふせずに居られぬ、又此祖︀父の系累

の上に何か親族會議が生じた時には此肖󠄁像を何處へでも持って行って先づ床問に掛けて一同禮拜

して夫から其家長者︀若くは年長者︀が床前に座を取り近󠄁遠󠄁に應じて環座して其問題を議決し、終󠄁つ

て再敬拜して其肖󠄁像を收めるといふ次第になつて居る、實に良い風習󠄁と思つて居る

(六)

一體肖󠄁像畫と言へば寫眞からでも描けると思つて居る、無論寫眞が存して居れば描けぬ事はない、

而かし能く肖󠄁像畫の性質を知る者︀は決して寫眞から描いて貰ふものでない、何故かと言ふと元來

寫眞器械的󠄁に出來たもので總て其形而下の物象しか寫らぬ、此點に於て如何に其器械が爾後精󠄀巧

を極めても到底其範疇を脫する事は出來ない、又其形而下の事でも人間の兩眼を透して腦裡に印

象したものと、此器械の單レンズを透󠄁して映じた物象とは大に違󠄁って居るのである、此事に就て

は高尙な理論もあるが茲には省いて置く、夫れから人間には形而上の精︀を備へて居るので抽象

的󠄁觀念なるものが存在して居る、つまり人の顏貌を知るのに、人は特殊の場合の外は此人は顏面

の鉛直線が何寸何分何厘でしわが大小何本、兩頰〇骨の間が何れ丈けといふ樣に形而下の正確な

理的󠄁記憶も無いが能く一二回見た人ですら五年も十年も見忘るゝ事が無いといふのは人間の觀念

の力で顏貌の形而下記憶よりは此形而に聨る其性格キヤラクターである、

箇性卽ち箇人の特殊な人格性情󠄁を發揮して布幀に躍󠄁如たらしむるのが肖󠄁像畫の眞意である、此見

地から云へば彼の童話ではあるがクロムウルの黑子は除いて置いたとて必らずしも肖󠄁像畫として

の價値を謬たぬのである、我輩は敢て肖󠄁像のみを專門といふ樣にして居らぬが、西洋の大家で、

殆專門にやつて居る人は少くない、古來からの有名な大家では和蘭派󠄂ではホルバイン(十六世紀)

アルブレヒト、ヂウレル(十六世紀)レムブラント(十八世紀)ヴァン、エーク(十七世紀)ヴァ

ン、ダイク(十八世紀)等があり、伊太利のフロンス派󠄂ではレオナルド、ケランジェロママ(十七世紀)

夫から同ベニス派󠄂ではチシアン(十七世紀)コレツヂオ(十七世紀)等皆肖󠄁像畫にも巧みて立派󠄂

な作を後世に國寶として遺して居る、夫から十七世紀の終󠄁の人だが西班牙派󠄂の大家でヴラスケス

といふ大家が在るが非常な名人で結構な作品を遺󠄁して居る、此人も皇室の技藝員で夫も注文の爲

めに忙殺され遂󠄂に肖󠄁像專門である樣の觀がある、此人の作で種々あるが中にも羅馬法皇ウヰリア

ム、ポープ二世の像があるが、彼の加持敎カトリツク(基督舊敎)の法皇で權威と親奠を集めた其時代の僧︀

侶として實に能く其性格を描いて將にロを動さんとして居る、又技巧(テクニツク)に最巧みで

快筆一揮實に歷々として細密の部分迄出來て居る、夫から近󠄁世では所󠄁々に上手な人があるが、佛

國のベンヂアミン、コンスタン抔は其中でも上手だ、先年物故し英國のヴヰクトリア女皇の像も

賴まれて描いたが其寫眞なんか見ると大分の大作だが如何にも彼女皇らしい、例へば彼エリザベ

ス女皇と支那の則大武后若くは西大后とを倂せた樣な人間の女性を能く現はした、是は先年物故

した人で彼の有名なウヰスラー〈英國)がカーライルの肖󠄁像を描いた、これも面白ろい作で彼英

雄崇拜論に見ゆる頭で市街を歩るいて其會的󠄁の頭腦種々な思想の混綜して居乍ら亡分の家に歸

つて來た所󠄁と云つた様な彼の力家のむづかし屋の頑固で而かも奇癖ある様な性情󠄁が遺憾なく現

はれて居る、夫からアンブレツシヨニズムのモネの作で小說家のゾラの肖󠄁像抔も面白ろい、ワツ

ラ作のロゼツチの肖󠄁像も寫眞で見る種々の面影よりも遙かに其全󠄁般の性情󠄁が發揮されて居て、彼

のプレ、ラフアエル、ブラザー、ラツドの畫家と詩人とを兼󠄁ねた才氣に充ちた人格が實に能く現

はれて居る、其外古大家の作で其實物の人は如何なる人で在つたのか其名さへ傳はらぬものでも

肖󠄁像として有名になつて寺院や博物館に國寶として珍藏されて居るのが何程󠄁在るか分からぬ

(七)

夫でどうしても是等の永遠󠄁の生命あらしむるのには、不完全な寫眞に加へて、下手な寫眞師の細

工したもので其實質を失つたものから作つては到底充分に出來ぬ、如何にしても生前󠄁に眼の當り

着實な寫生で成して置かねばならぬ、

而かし旣に故人と爲つて居て寫眞のみしか現存して居らぬのならば致方もないから其生前󠄁の種々

の性僻や事實から綜合して畧其性情󠄁を想像し寫眞を參考として製作する事とする、如何に寫眞の

不變色だと云つても決して數十年の以上を保ち得ぬ、思ひ出すが、先年某侯爵︀から依を受けた

ものゝ中面白ろい事が在つた、夫れは友人の紹介で是非共僕にと云ふ事であつたから能く調べて

見ると數枚の中一枚丈󠄁甚だ困なものがあつた、夫れは旣に故人と爲つた先代の主人で明治の始

年に藩地を去ると間も無く故人となつたが寫眞も何も殘つて居ないが多少似寄りの寫眞が一枚あ

るといふ事であつた、如何な寫眞かと聞いて見ると夫れは外人の寫眞だといふ、亞米利加の南北

戰爭の折南軍の勇士で其貌が酷似して居るが何とか出來ぬものかといふ、一見するとアリアン

人種の相貌で少しも日本人にすら似て居ない、僕も困つたが、段々聞いて見ると聊か手懸りを得

たから、其生前󠄁の性行を尋󠄁ね重ねて其遺󠄁族の總てを寄せて寫眞に採󠄁つて見たりなんかして見た、

生前󠄁に知つて居る人は或動機で當時を顧󠄁想するから時によつては多少似て居る樣にも思ふか知れ

ぬが實際其箇人を知らぬものが此貌に肖󠄁て居ると外人の寫眞を見せた所󠄁で密に其何れの部分

と其表情󠄁が如何な具󠄁合に肖󠄁て居るものであるかは決して推考し得ぬのである、而此侯爵︀家でも旣

に絕望して居るので出來ぬものと諦らめて居るけれ共如何かして工夫は無いものだらふかと云ふ

特殊の相賴であつたので、且は其依賴が甚だ興味もある事だから、僕もやつて見やうと云ふ氣に

なりその旨返󠄁事をして置いた、が扨自分でも實は甚だ當惑した、昔の日本畫のやうな形式的󠄁な略

畫なら兎も角實物大の眞に生人が感情󠄁の發露して居る樣な洋畫の事であつて見れば決して輕卒に

ゆかぬ、實に此爲めには殆ど四ヶ月餘の日子を費して畫稿の整理に取り懸かつた、其爲めに作つ

た稿貌が數十枚に上つた、如何いふ順序に爲たかといふと、一方は其外人の古い寫眞から凡そ肖󠄁

て居るといふ分子の各異つた三つの相貌を作って見て、夫から又種々と自己の想像と生前󠄁の性行

の善惡とも聞詰めて略其人格に對する槪念を得た、又一方には其直系の遺󠄁族の男女共十一名の人

を集めて其相貌を複描し其肉緣の遺󠄁傳から母方の相貌を棄て各共通して居る父方の容貌と思はれ

る分子を綜合歸納󠄁して數枚の骨格の正違󠄁と顏面表情󠄁の典型との草稿の稍々嚴密に正確なものを得

た、つまり一方は飽󠄁迄ダーヴヰニズム(進󠄁化論)の科學的󠄁若くはロンブロゾーや其外人類學上遺󠄁

傅の學說や其硏究の事實を參酌󠄁し、聊乍ら自分に多年問に得た顏面解剖や相貌硏究の經驗によつ

て作製し、一方は人の觀念に屬する心理的󠄁哲學的󠄁推叩と自己の直覺的󠄁印象とに俣つて作製した、

此二つの矛盾を淘汰究極して終󠄁に最後に一枚の當身大の油繪の肖󠄁像を構成した、無論數人のモデ

ルも使用した、是が出來上つた時に幸に大變能く肖󠄁て居る、寸分違󠄁はぬといふので、某末亡人始

め遺󠄁族は再生に會ふたといつて淚を流して歡こんで吳れた、其舊藩地の生存して居る老藩士抔も

上京して一目見て是れも大に泣いて歡こんだ。我輩の方で考へれば、藝術󠄁の聖󠄁の前󠄁には、夫れ

が帝王の像であらふとも、一野人であらふとも、若くは一󺄎の雀であらふとも其對象界の自然と

して全󠄁く無差別で、等しく親善と同情󠄁と尊󠄁敬とを拂ふたる事を自ら信じて、肖󠄁像畫の理想とし

ては强ち不可能の事で無いといふ事を試みたのに過󠄁ぎぬのであるが、而かも顧󠄁みると徒らに世に

負ふ所󠄁のみ多くして蕪能菲才遂󠄁に言ふに足らぬ微弱󠄁な自分が敢て職分を行つた一つが謬つて是等

の人々の感觀して吳るゝ所󠄁となつた事を思へば密かに自から嬉しいと思つたのであつた。

未だ文藝の事に就て新らしいお話をしやうと思つて居たが餘まり長くなるから又其中に致す事に

しませう。(了)

(『九州日報』明治四十年十一月一・二・五・七・九・十・十二日)

                                


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