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続古事談/第一

 
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続古事談 第一
 
 
王道后宮
 
帝王は人を憐れみ、民を育む心おはしますべきなり。然れば一条院は、極寒の夜は御衣をおしのけておはしましければ、上東門院、などかくはせさせ給ふぞと問ひたてまつり給ひければ、日本国の人民寒からむに、我れあたゝかにて寝たる事無慙の事なりとぞ仰せられける。延喜御門も、さむくさゆる夜は、御衣をぬぎて、夜御殿よりなげ出し給ひけるといひ伝へたり。

神璽宝劔、神の代より伝はりて、御門の御守にて、更にあけぬく事なし。冷泉院、うつし心なくおはしましければにや、しるしの筥のからげ緒を解きて、あけむとし給ひければ、筥より白雲立上りけり。恐れてすて給ひたりければ、紀氏の内侍、元のオープンアクセス NDLJP:108如くからげけり。宝劔をも抜かむとし給ひければ、夜の御殿ひらと光りければ、をぢて抜き給はざりけり。かゝるめでたきおほやけの御たから物、目の前に失せにき。

東宮の御まもりに、つぼきりといふ太刀は、昭宣公の太刀なり。延喜の御門、儲君におはしましけるに、奉られたりけるより、伝はりて、代々の御まもりとなるなり。後三条院、東宮に立ち給ふ時、後冷泉院より渡されざりけり。後冷泉院失せ給ひて後、求めいでて、大二条殿関白の時、後三条院に奉られにけり。立坊の後廿余年、渡されてやみにき。今位につきて後、とゞめられずともありなむと、世の人申しけり。後三条院仰せられける、神重実劔、えうなりしかども、廿余年過ぎにき。何か苦しからんとて、とゞまりにけり。其後程なく二条内裏の火事にやけて、身計り残りたりけるに、束鞘を作りてぐせられたるなり。

造酒司の大刀自といふつぼは、卅石入なり。土に深く掘居ゑて、僅に二尺計りいでたるに、一条院の御時、故なく地より抜出で、傍にふしたりけり。人驚き怪しみける程に、御門うせ給ひにけり。三条院御時、大風吹きて、かのつかさ倒れにけるに、大刀目・小刀自・次刀自、みなうちわりてけり。

後冷泉院御時、主殿寮焚けゝる時、あまくだりたる油漏器焚けにけり。賀陽親王、之をうつし作りたりけれども、功用施す事なし。夫も同じく焼けにけり。大嘗会御火おけ、元三の御薬あたゝむるたゝらなんど、世の始りの物皆焼けにけり。くすり殿の御てうしは、やぶれ損じたりけるを、雅忠典薬頭の時、あたらしき銀を、ふるきにまぜて、うちかへて供御に具へけり。

典薬寮明堂図は霊物なり。雅康寮御時、本寮破れて、すて置きて、よろづの人見けり。かやうの累代の宝物、今は一も残る物なし。

堀川院、皇子遅くいでき給ひければ、白川院歎き給ひて、鳥羽院の御母后は入内ありけり。孕み給ひて後、かの御母坊門尼上、賀茂に籠りて男子を祈りける。夢に、大明神きぬの袖に居させ給ひて、もの仰せられけり。又男子をうむべし。又其まきなる物を取れと見て、驚きてまきをさぐりたるに、作りたる籠ありけり。それを取りオープンアクセス NDLJP:109て伝はりて、鳥羽院に奉られにけり。かの大明神居給ひたりけるきぬをば、御正体として、四条坊門の別宮をば、かの尼上作れるなり。女御孕み給ひける時、女一人参りて、女房に申していはく、この孕み給へるは王子なり。めでたくおはしますべし。右の御尻に、あざおはしますべしといひければ、女房、東宮大夫公実に告げ申したりければ、出合はんとせられける程に、いづちともなく失せにけり。生れ給ひて、誠に右の御尻にあざおはしましけり。

一条院の御時、大地震のありける日、冷泉院仰せられけるは、池の中島に、幄をたてよ、おはしますべき事ありと仰せられければ、人心得ず思ひ乍ら、たてゝ御簾かけ、莚しきたるに、午時計に渡り給ひにけり。其後未時計りに、大地震ありて、遅く出づる人は打泣かれけり。人々この事を問ひ奉りければ、去夜の夢に、九条大臣来りて、明日の未時に地震あるべし。中島におはしませと告げつるなりとぞ仰せられける。聞く人涙を流しけり。彼大臣の霊附添ひて、守り奉るなるべし。

河内前司重通といふ者、童にて西宮にありけるに、道あしかりける所に、あゆみの板を三四枚計り、しき渡したりけるに、朱雀院の方より、白髯なる翁の髻放ちたるすそをとりて、此板を渡らんとしけるを、此重通が幼くて、板の端を踏みて動したりければ、此翁ひれふしにけり。朱雀院の方より、蔵人二人走り来て、手を引きて帰りにけり。後にきけば、冷泉院のおはしましけるなり。いと怪しき事なり。

堀川院は、末代の賢王なり。中にも天下の雑務を、殊に御意に入れさせ給ひたりけり。職事の奏したる申文を、皆めしとりて、御夜居に又細かに御覧じて、所々にはさみ紙をして、この事尋ぬべし、この事重ねて問ふべしなど、御手づから書付けて、次日職事の参りたるに賜はせけり。一返細かに聞召す事だに有がたきに、重ねてすべて御覧じて、さまでの御沙汰ありけむ、いとやむ事なき事なり。すべて人の公事勤むる程などをも、御意に入りて、御覧じ定めけるにや、追儺の出仕に、故障申したる公卿、元三の小朝拝に参りたるをば、悉く追入れられけり。去夜まで所労あらむ者の、いかでか一夜の内に直るべき。偽れる事なりと被仰けり。白川院は此を聞食して、きくともきかじとぞ仰せられける。余りの事なりと思召しけるにや。オープンアクセス NDLJP:110堀川院在位の御時、坊門左大弁為隆、職事にて、太神宮の訴を申入れけるに、御笛を吹かせ給ひて、御返事もなかりければ、為隆、白川院に参りて、内裡には、御物気起らせおはしましたり。御祈始まるべしと申しけり。院驚かせ給ひて、内侍に問はせ給ひければ、さる事、夢にも侍らずと申しけり。怪しみて為隆に御尋ありければ、その事に侍り、一日太神宮の訴を奏聞し侍りしに、御笛を遊ばして、勅答なかりき。是御物気などにあらずば、あるべき事にあらずと思ひて、申侍りしなりと申しければ、院より内へ、其由申させ給ひけり。御返事には、さる事侍りき。たゞの事にはあらず。笛に秘曲を伝へて、其曲を千遍吹きし時、為隆参りて事を奏しき。今二三度になりたれば、吹き果てゝいはむと思ひし程に、尋ねしかば罷り出でにき。それをさ申しける。いと恥かしき事なりとぞ、申させ給ひける。

又此御時、或人内裡へ柑子の木を参らせたりけるを、なにがしのつぼにうゑて、愛せさせ給ひければ、蔵人滝口など集りて、木を枯らさじとて、家を作りおほへりけるを、為隆参りて、此を見て、あはれ何事ぞ。さる事やはあるべきとて、御くらの小舎人を召して、散々にこぼたせてければ、木程なく枯れにけれども、人力も及ばず、君も仰せらるゝ事なし。

白川院の御前にて、為隆、事を奏しけるに、題目、事の外に重なりて、うるさげに思食したりけるを、此次に、申文のある限り奏し果てむと思ひて、しらず顔にて申し居たりけるに、申文、今五通計りになりて、院立たせおはしまさむとしけるを、為隆みず顔にて、祭主大中臣某謹申、請天裁事と読み聞かせ参らせたりければ、太神宮の訴よなとて、かへり居させ給ひにけり。それを力にて、残をも申果てゝぞ出でにける。凡て斯様におしがらありて、ゆゝしかりける人なり。

白川院、法勝寺作らせ給ひて、禅林寺の永観律師に、いか程の功徳ならんと御尋ありければとばかり、物も申さで、罪にはよも候はじとぞ申されたりける。

後一条院、幼くおはしましける時、伝大納言参りて、御前に候ひて、金百両投散らしたるや、御覧じたる、いみじく興ある物なりと申されければ、未だ見ず、いかなるぞと被仰ければ、大納言、誠に面白き物なり。御覧ずべしとて、男子共召して、をさめオープンアクセス NDLJP:111殿の砂金百両奉れとありければ、蔵人とりて参りたるを、引上げて、御前に投散らされたるを御覧じて、何れ面白きと被仰ければ、大納言、さらばすて候ひなんとて、引包みて懐に入れていでられにけるとぞ。

一条院御時、台盤所にて、地火炉ついでといふ事ありけり。左大臣伝大納言なんど仕うまつられけり。大納言は、銀にて土鍋を作りて、ひさごを立てゝ、いもがゆを入れたりけり。中の渡殿に、上達部候ひて、清涼殿の広庇に、庖丁の人々高雅・明順など候ひけり。供御参らせ、人々の衝重すゑて、御酒頻りに参らす。管絃を奏す。酔に臨みて、伝大納言立ちて舞ふ程に、冠落ちにけり。人々笑ひあへるに、広幡のおとゞ、嘲られけるを聞きて、此大納言何事いふぞ。妻をば人にくなかれてといはれたりける。聞く人恥を知らず、うたてき事なりとぞいひあひける。さて中宮の御方に渡り給ひて、御遊ありけり。主上笛吹き給ひけり。通綱卿なでしこ折りて、御かざしに奉る。其後宮より御送り物、人々の禄などありけり。

堀川院御時の逍遥に、序代書くべき人なかりけり。大業蔵人国資、無才の者にて人許さず。五位蔵人時範書きてけり。其日主上殿上にて、人々に連句いはせ給ひけるに、国資に、末句いへと被仰ければ、今日私の衰日なり。憚ありと申しければ、主上殿上の暦を召して御覧ずるに、巳日也。巳日衰日未だなき事なり。君を欺き申し、連句いはぬ程のもの、いかでか博士になるべきと被仰ける。今も昔も、無才の博士はあるものなりけり。

円融院、大井川に御幸ありけるに、先づ少〔林イ〕寺の前に、借屋を立てゝおはします。大入道殿摂政の時、御膳まうけられけり。茶坑にてぞありける。其後御船に奉りて、となせにおはしましけり。詩歌管絃各船ごとなり。源中納言保光卿、題奉る。翫水辺紅葉とぞ、詩の序右中弁資忠、和歌の序、大膳大夫時文つかうまつれり。法皇御衣をぬぎて摂政に賜ふ。摂政又衣をぬぎて、大蔵卿時仲に給ひけり。管絃の人人、上達部衣をかづけられけり。内裏より頭中将誠信朝臣、御使に参れり。禄を給ひてかへり参る。摂政管絃の船に候。時仲の三位を召して、院の仰を伝へて参議になされけり。人々ひそかにいひける、主上の御前にあらず、忽に参議をなさるゝオープンアクセス NDLJP:112事、いかゞあるべきと傾きけり。今日の事、何事も興ありていみじかりけるに、此事に少し興さめにけり。

一条院、円融寺へ御幸ありけるに、御拝果てゝ御対面し給ふ時に、御くだ物いもがゆなど参らせて後、主上釣殿に出で給ひて、上達部を召してついかさね給ふ。仰ありて、母后の女房車廿輛、池の東にたてらる。船楽頻りに奏して、盃酌たびめぐる。主上御盃を左大臣に給ふ。庭に下りて拝せらる。院御盃は摂政給ひて、堂上にて拝せられけり。仁和寺別当済信を召して、かはらけ取らしめて、律師になされけり。御遊の時、主上御笛吹き給ふに、その音めでたく妙なりければ、院感じて、御笛の師左衛門督高遠朝臣を召して、三位を許されければ、高遠舞踏して、上達部の座に加はり付きけり。内裏より院の御送り物には、瑠璃の香筥、金の御硯箱、銀の紅梅の枝に、鶯の居たるに附けられたりけり。院よりのおくり物は、御手本御帯御笛也。

堀川院始めて朝覲行幸に、御院吹き給ひけるには、御院の師政長朝臣息男有賢、殿上許されけり。

大斎院と申すは、村上御門の御女也。其時小野宮右大臣、〔〈実資〉〕大納言にて、祭の上卿にて、本院に参りて、客殿に附かむとせられけるを、申すべき事あり、まづ是へと仰せられければ、御前へ参られたるに、御簾の内に菌しきて、女房伝へ仰せられける、中宮より色々の扇を賜はせたりつる、つかひ、少将雅通なり。女房止めつれども、ひき放ちてにげぬ。ねたき事なり。いかゞすべき。この事いひ合せんとてなむと仰せられければ、大将申されける、明日の形見下にて参りたらむ時、今日の禄を給ふべきなり。中宮よりの御ひ扇取出でて、見せさせ給ひけり。女房取伝ふとて、御簾に顔を隠して、身はあらはに出でてなむありける。其ふるまひたよりありて艶に見えけり。かへさの日、雅通物見んとて、知足院の辺にありける所へ、斎院のさふらひ、御ふみ禄を持ちて来て、車に投入れて、馬を馳せて帰りにけり。興ある事になん、時の人申しける。少将用意なき由、人々いひけり。

殿上の一種物は、つねの事なれども、久しく絶えたるに、崇徳院の末つ方、頭中将公オープンアクセス NDLJP:113能朝臣は、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興して、神無月のつごもり頃に、殿上の一種物ありけり。さるべき受領なかりけるにや、くらづかさに仰せて、殿上に物すゑさせて、小庭に打板をしきて火をおこす。人々酒肴を具して参りて、殿上につきぬ。頭中将の一種物は、はまぐりをこに入れて、うすやうをたてゝ、紅葉を結びてかざしたり。はまぐりの中に、たき物を入れたりけり。滝口之を取りて、殿上にまですすむ。主殿司伝へ取りて大盤に置く。頭中将取りて、人々にくばられけり。人々取りて興じあへり。こと人々、多くは雉を出せり。主殿司取りて立部に寄せ立つ。信濃守親隆大鯉を出せり。庖丁の座に置きて、御厨子所の頭久長を召して、取らせんとするに、其の事にたへずとてきらず。御鷹飼の府生敦忠、鳥を肩にかけて参れり。小庭に召して庖丁せさす。一二献、蔵人季時・信範すゝむ。少将資賢、竹の葉に置く露の色といふ今様を謡ふ。蔵人弁朝隆、三献のかはらけ取る。又頭中将のすすめにて、朗詠をいだす。佳辰令月の句なり。頭中将朝隆が紐をとく。人々皆かたぬぐ。色々の衣を着たり。用意あるなるべし。頭中将朗詠雖三百盃莫辞の句なり。やう酔に臨みて、資賢白うすやうの句をはやす。主殿司、あこ丸ことにたへたるによりて、くつぬぎに召してつけしむ。人々乱舞の後、三こゑ出して座を立ちて、御殿の広庇にて、なだいめん果てゝ、宮の御方に参りて、朗詠雑芸数返の後、罷出でけり。殿上には人々連歌ありけり。

鳥羽院宇治に御幸ありて、経蔵開きて御覧じけるに、此経蔵は、世の常の人いる事なきに、富家殿(〈忠実〉)御前に候し給ひて、播磨守家〔成イ〕時の花にてありければ、御気色に叶はむとやおぼしけん、召入れられけり。後白河院、御幸ありける時、此の事をや聞き及べりけん、右衛門督信頼めしあらむずらむと思ひけるに、法性寺殿、いとさやうの気おはせで、召す事なくて止みにければ、人知れずむつけ腹立ちけるなごりにや、範家の三位といひける人を軽慢して、にやくり三位・き三位・散三位・よく三位・むことり三位などはやしたりけるとぞ、世の人いひ笑ひし。まことにや。

後中書王、賀茂にて詠み給ひける。

   思ふ事もろや乍らに叶ひなばみたらし川のしるしと思はん

オープンアクセス NDLJP:114藤壺の中宮(〈威子〉)、后に立ち給ひける日、上達部穏座に移りて後、大殿(〈道長〉)、かはらけ取りて出で給ひければ、摂政座を去りて、右大臣(〈公季〉)に向つてゐ給ひけり。大殿たはぶれて、右大将(〈実資〉)に仰せられける、わが子に盃勧め給へ。大将かはらけ取りて、摂政に勧む。摂政取りて、左大臣(〈顕光〉)に伝へ給ふ。左府、大殿に奉る。大殿右府に伝へ給ひけり。又右大将に宣ふ。歌をよまむと思ふに、必ず返し給ふべし。大将、などか仕らざらむと申さる。大殿仰せらるゝやう、ほこりたる歌にてなむある、たゞし兼ての構にはあらずとて、

   此世をば我世とぞ思ふ望月のかけたる事もなしとおもへば

大将申さる、此御歌めでたくて、返歌に能はず。たゞ此歌を、満座詠ますべきなり。元稹が菊の詩、居易和せず。深く感じて、ひねもすに詠吟しけり。かの事を思ふべしと申さるれば、人々饗応して、たび詠ぜらるれば、大殿うちとけて、返歌の責はなかりけり。

五節に、上東門院へ、人々まゐりて遊びけるに、右大弁定頼朝臣、かはらけ取りて詠める、

   日影さす雲の上人こざりせば豊の明りをいかで知らまし

白川院、法勝寺におはしまして、花を御覧じて、常行堂の前にて、人々鞠仕うまつりけるに、殿より随身公種して、鞠を奉り給ひて、

   山桜たづぬと聞けどさそはれぬ老の心のあくがるゝかな

御返、

   山ふかくたづねにはこで桜花なにか心をあくがらすらん

昔平城天皇の御時迄は、此国にも朝まつり事し給ひけり。其儀式未だほのの程に、主上出でて、南面におはします。群臣百寮各座に摂す。四方の訴人、左右なく内裏へ参り集りて、高き机の上にうれへぶみの箱といふ物を置かれたりければ、あやしの民百姓まで、申文をもて参りて、此の箱に入る。史・外記・弁少納言など、次第に取上げて、之を読み申す。群臣各之を評定し、主上まのあたり勅定を下さる。憂若し左右にあれば、則ち召問はる。かたのもの、当時なければ、退きて問はオープンアクセス NDLJP:115るべき由を仰す。申文多くして、事の外に日たけぬれば、やがて其の座にて、供御を参らす。諸卿御膳をおろして、各是をくふ。其まつり事若し果てぬれば、其後ぞ舞楽御遊などもありける。君の御心には、民の憂を聞召して、御ことわりあるより、外の大事なかりけり。徽旦取衣領会者少といふ本文、是より起れる事なり。朝祭り事に出づる事は、未だ暗き程なれば、衣のくびを捜り、得る事難しといふなり。

嵯峨天皇よりこのかた、此の事廃れにけり。此の君殊の外に放逸にして、まつり事を御心に入れ給はず。されども其の儀式は猶ありけり。五位の蔵人二人をさして、御倚子の傍にすゑて、憂を聞かしめ、群議を聞かしめて、後に聞召して、成敗せさせ給ひけり。是れ今の職事の始めなり。嵯峨の別業などへ、常におはしましける故に、御暇なくして、自らあさまつりごとに、あはせ給はざりけるなり。

寛平法皇の御位の時、菅丞相、君を諫め奉り給ふこと、漢土の賢臣の、諫言を奉るに異ならず。或時殊に殺生禁断行はれたりける次の年、君自ら鷹狩をし給ひければ、丞相申し給ひけり。今年は鳥獣何の過あればか、忽ちに是を狩り給ふぞと申されければ、帝ことわりに詰りて、狩を止めさせ給ひにけり。凡て斯様の器量を御覧じ取りたりけるにや、首尾僅に九箇年の間に、讃岐守より、右大臣内覧の臣まで、なし奉り給ひたりける。さる程に醍醐の御門の御時、延喜元年に事は出で来にけり。

善宰相は、算道を以て是をおきて、明年必ず天下に事あるべし。君臣運の当る所、御身に事あるべしとおぼゆ。須らく顕名の官を遁れて、謹み給ふべしと申しけれども、菅丞相是を用ひ給はず、重ねて申して云く、雖離朱之眼睫上塵、雖仲尼之才箱中物とて、いかに申せども、御身の上の事をば知らせ給はじものをと申しけれども、猶用ひ給はずして、遂に事出で来にけり。今思へば、君臣の間の寵辱の、朝暮にある事を示さむとし給ひける権化の方便なれば、とかく申すに及ばず。寛平法皇は殊に倹約を好み給ひけり。御跡の事、葬礼の事など仰せられ置きけるには、莚にて棺を包みて、桂にてこれをからげよとぞ宣ひける。重明親王の李部王記に、書き給へるなり。

後三条院は、いか程の学生ぞと人の問ひければ、江中納言〔〈匡房〉〕思ひ儲けたる事のやオープンアクセス NDLJP:116うに、佐国程にやおはしけんといひけり。長方卿は之を聞きて泣きけり。国王のさほどの学生にておはしましけんことを感じてなり。

後三条院、宸筆の宣命を書きて、太神宮へ奉らむとせさせ給ひける時、江中納言、御前に候ひけるに、読聞かせ給ふに、我れ位に即きて後に、一事として僻事せずといふ事を書かせ給へりければ、匡房卿、此の御詞いかゞ侍るべからむと申しければ、殊の外に逆鱗ありて、何事を思ひて、かくはいふぞと問はせ給ひければ、実政に、常陸の弁隆方を超えさせられたる事はいかにと、申したりける時、御気色少しなほりて、さる事ありと思食出でたるさまにて、読みも果てゞ、宣命は持ちて内へ入らせ給ひにけり。此事は、此君未だ春宮におはしける時、春日詣のありけるに、泉の木津にて、隆方・実政船遊をして、事を出してけり。今も昔も、勧修寺氏の腹の悪さは、隆方の実政をのる詞に、さ迄もなきまちさいはひの、同じやうかなといひてけり。実政は、多年の春宮の学士老者なりければ、いひけるなり。実政泣々、此事を訴へ申してけり。是を安からず思召し詰めて、御位に即かせ給ひて後、隆方を超されたりけるなり。君も此事を、深くおぼし知りけるにや、其御時迄は出居の御座にて、供御は参りけるに、御前に誰か候と問はせ給ひければ、隆方候と人の申しけるに、それに向つてえ物くはじと仰せられて、内にてぞ供御は参りける。其等よりやう此の儀は出で来にけり。

後三条院は、春宮にて、廿五年迄おはしまして、心静に御学問ありて、和漢の才智を極めさせ給ふのみにあらず、天下の政を、よく聞き置かせ給ひて、御即位の後、さまの善政を行はれける中に、諸国の重任の功といふ事、長く停止せられける時、興福寺の南円堂を作れりけるに、国の重任を、関白大二条殿まげて申させ給ひけるに、事難くして度々になりにければ、主上逆鱗に及びて、仰せられていはく、関白摂政の重く恐ろしき事は、帝の外祖などなるこそあれ。我は何と思はむぞとて、御ひげをいからかして、殊の外に御むつかりありければ、殿座を立ちて、出でさせ給ふとて、大声を放ちて宣はく、藤氏の上達部皆罷り立て。春日大明神の御威は、今日失せ果てぬるぞといひかけて、出で給ひければ、氏の公卿、誠にも一人も残らオープンアクセス NDLJP:117ず皆座を立ちて、殿の御供に出でければ、事柄夥しくぞありける。主上是を聞食して、関白殿并に藤氏の諸卿を召返して、南円堂の成功を許されにけり。殿の御威も、君の御心ばへもあらはれて、時にとりて、いみじき事にてなんありける。

一条院御時、大和国そふの上の郡に、楢山の峯に、三町計り未申に当りて、小山の高さ、八九尺計りなるに、おひたるうゑ木も働かずして、移し置きたりけり。其峯の上に蔵ありけり。蔵の中に仏像ありけり。五ヶ日を経て、風吹倒してけり。何の故と知らず。不思議の事なり。

皇嘉門院の御名は聖子なり。聖字の上の作は、はらむといふ読あり。王子を孕むと付け奉れりけるを、或人難じて云く、聖の下の作は、王にはあらず、壬といふ文字なり。壬には、むなしといふ読あり。むなしき子を、孕みたらむ。此御名、憚ありといひける程に、たゞならぬ御事にて、御産の月になりて、御祈何くれとひしめく程に、水をおほらかに生ませ給ひにけり。斯る事は、さのみこそは侍るに、果してむなしき子なりけり。いと不思議の事なりけり。

宜秋門院の御名の、定めありける時、兼光中納言、任子といふ御名を奉られたりけるを、静賢法印申して云、白氏の遺文に、任子行といふ文あり。而も彼は事ある文なり。此御名はいかゞあるべからんと申したりければ、九条殿用ひさせ給ひて、遍く御尋ありけれども、さる事ありと申す人もなかりけるに、敦綱計りこそ覚えて、さる事侍り、尤もさらるべき事なりと申したりけれ。大才の人も、自ら見及ばぬ事あり。力及ばざる事なり。

 
続古事談第一
 
 

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