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管窺武鑑/中之中第五巻

 
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管窺武鑑中之中第五巻 舎諺集
 
 
 
小笠原、川中島へ働入り、清野追払の事村上、海津城代を除かれ、畠山を置かるゝ事
 

第一、天正十一年癸未、景勝公、柴田へ御発向、川中島衆御供に付いて、信州松本深志の小笠原、三千余の兵を率し、九月初、川中島へ働入り、尾味城に抑勢を置き、猿ヶ馬場あなたの麓迄来りて、清野左衛門佐が龍王城を襲ふべきの由、之を聞く左衛門佐は、柴田出陣なり。父清就軒、隠居ながら留守にて在城、敵に峠を越えさせては、城中小勢にて防戦危しとて、城より出で山手を取りしき、人数を隠し、城兵四十騎許りなるを、城内共に三つに分つ。然れども五六千にも見ゆる如く、備立仕るは、信玄公の代より武功の士大将故なり。されども、小勢なれば懸つて一戦すべき様なく、敵を川中島へ入れざる手立許りなるを以て、程近ければ、海津の村上源五方へ、早打を以て、其辺の人数早々相催され、左なくば、手勢許りにてなりとも、急に加勢あるべし。小笠原をば、我等一手にて他へ働かせざる様抑へ居り候。加勢に於ては、同勢に用ひ、我等人数を以て、懸つて敵を切崩すべく候。又対陣に及び候とも、とかく敵引取るべし。其時、御下知を用ひ、山手より人数を廻し、尾味・青柳の方より斫懸らせ、後よりは喰留め候はゞ、小笠原共に討取るべしと申遣す。村上、頃日病気なる間、出勢なるまじと許りの返事なり。清就軒、重ねて申遣すは、人数計りにても差越さるべし。それも如何と存ぜらるゝに於ては、信州留守の衆へ触れ遣され、寄合武者なりとも、二三十騎差越さるべし。長沼組・海津組とて、分れたりと雖も、分らざる御定なれば、貴殿の御下知を違背の者、川中島四郡の内、一人もあるまじ。我等も長沼組にて候へども、貴殿へ義を得候事は、内内の御諚を相守つて斯くの如きなりと申すと雖も、村上二日迄遅々故、島津へ申遣す。島津早々出勢と雖も、馳著かざる内四日目、九月十一日の暁、小笠原退散す。三千の人数を九備に作り、三備に尻払を申付け、段々に合戦を持つて退く。清就軒、采配を取り、是迄働きたる敵を、難なく返す事無念なりと、懸つて歩者二三十・士五六騎之を討取りたるは、三十騎を一オープンアクセス NDLJP:147備に作り、残る十騎雑兵合せて四五十余の備を、山手へ付けて、半に備を下し懸る。其人数、見えつ見えざる様に、旗を多く飾り立て、二の合戦を持つて、河の此方に備ふ。又地下人を駈集め、六七百許り紙の小旗を作り持たせ儘き亙つて、犀川の上の山間を越え、猿ヶ馬場の山下へ、押廻さする武略をなす故、敵之を見て、中々返さずして引取る。清就軒自身、三十騎の人数を以て、敵少々討取り、敵の北ぐるを幸にして、手早に引返すなり。

第二、右の様子、景勝公御聞に相達し候所、信州衆の面々、地下人町人にも御尋ね、相違之なきに付いて、村上源五国清へ仰渡さるゝ趣は、其方儀、義清の子息なれば、臆して斯くの如くなるべしとは申難し。景勝を疎略に思ひ斯くの如きか。小笠原に心を通じて斯くの如きか。此二に洩るべからず。仔細は、海津組の支配を仕る上は、病気ならば手勢を分つて、早々、清就軒方へ加勢に差遣し、組中留守居の面々は、申すに及ばず、近辺の長沼組へも申遣し、兼々申定むる如く、加勢を遣し候はゞ、小笠原を討取るべき様子なるに、三日迄其沙汰なく、清就軒一人の采配に任せ置く事、沙汰の限なり。海津表は、敵地の境にて大事の所なれども、其方に申付け候儀は、義清、窂人して越後へ来り、謙信公を頼み、更級へ本意有りたしとの願故、謙信公、信玄と弓矢をとり、信州を争ひ給ふと雖も、諸方敵対一方ならざる内に、義清も死去、謙信公も御逝去、本意ならざる所、此度我が代に、其方を海津へ遣し、更級郡を附与せしむる事、前代の筋目、又は謙信公へ孝心を存して斯くの如きなり。然るに、其事を等閑に存じ、今度の様子は頼もしからず。ゆく、川中島を敵に取らるべき事眼前なり。申訳は直に承るべしとあつて、春日山へ召寄せられ、海津城代を止められ、其代として、畠山民部少輔を仰付けられ遣さるゝなり。

第三、清野清就軒へ御感状下さる。

今度小笠原、川中島へ相働之刻、海津の村上、疎意を不顧。其方以一身之覚悟于猿ケ馬場而令出張、兇徒悉追払少々討取之。其佳名莫大最至功無双之誉也。為此賞更級郡一所出置候。弥〻後〔働〕専一に候。委細息左衛門佐に申含也。仍状如件。

  天正十一年十月五日 景勝

           清野清就軒へ

是は、景勝公、柴田より御帰陣、清就軒の子左衛門佐御暇下され遣さるゝ時、清就軒へ御感オープンアクセス NDLJP:148状下され候なり。

 
尾味御成敗の事須田誉に付いての仰渡さるゝ様子の事
 

第一、天正十二年甲申、信州長沼組の尾味逆心の事は、去年景勝公、柴田御在陣の御留守に、小笠原働入ると雖も、清野に追払はれ、退散は川中島に与力の便なく、糧の運送も、不自由故と、小笠原分別し、尾味左兵衛督を語らひ、一味致すならば、尾味を根城にして働き、川中島を手に入るべしと計策す。尾味同心して逆心仕る由、景勝公聞召し、時日を移さず、三月十三日、御馬廻二千許りにて、春日山御出馬、其日は関の山に御陣、十四日は長沼御著城、彼の地へ信州衆を召集められ、仰渡さるゝは、尾味逆心征伐遅々せば、小笠原相加はるべし。早速、尾味が城を屠破るべし。先手へ藤田能登守に、旗本組を差加へて付くる間、信州の面々、其趣を存ぜらるべしと、直江山城守を以て、之を仰渡さる。信州衆、何れも申さる。御人数は、柴田御陣に疲る。我々は御留守に罷在り、其上、所の案内なれば、御先は川中島の者共に、仰付けらるべき義に候と申上ぐる。景勝公、重ねて仰せらるゝは、川中島衆、尾味と同国にて、尾味も各〻の弓箭の格を知つて、仕能き事もやあらんと思ふなり。藤田が風義は、尾味は知るまじ。尾味が格は、各〻に藤田聞きても知りやすし。武功のある藤田なれば、先を藤田に申付くるなりと、仰聞けらるゝ故、信州衆、何も〔〈脱アルカ〉〕いれて、此度、武功を励むべしと思ひ入る。就中福島城主須田左衛門尉抽んでて言上仕るは、我々をさしをかれ、是非藤田に、御先を仰付けられ候はゞ、余の人は存ぜず、某を先づ御成敗あつて、後、左之右之ともかくも仰付けらるべきなり。御成敗成さるまじと思召され候はゞ、御先は某に仰付けられ候へと、切に之を望む。景勝公、此段を底意に思召して、初の如く仰出さるゝ仔細は、越後勢は疲身も仕り、其場所不案内、其上、尾味程の者を、御旗本を以て仰付けらるゝは、事がましければ、信州衆に仰付けらるべき御内存なれども、右の仰出あるは、〈口伝、〉是に依つて、御先手須田左衛門尉に仰付けられ、二三の軍も、同国衆を組合せられ、其外の御人数は、松本筋の抑、或は尾味の山下、或は詰詰の道に備へて、尾味を討洩さヾる様に、備定あつて、其夜、諸軍人馬の食を調へ、一騎二人前、一人に四人前づゝ、拵へて持つ。〈口伝、組所によつて様子は替る。〉斯くの如くあつて、十五日、長沼を御立ち、オープンアクセス NDLJP:149尾味城より上道四里程此方、小市に御陣取、明日早旦御取詰なさるべしとて、越後勢を息休やすめ、長途を打つて取懸からるゝ事、御遠慮故なり。然れば須田左衛門尉思ふに、景勝公、昨日長沼にて御働の事、尾味定めて知るべし。小笠原を加勢に呼んで、一所に楯籠りなば、我等手際に、城を乗崩す事ならず。余人に乗取らせては、御先を望みたる甲斐なく、前方の詞にも違ひ、武道の越度なり。上へ義を得る事も遅々すべし。我許りの人数にて、仕難きにあらずと思定め、其夜丑三つに、手勢五十二騎にて押向ふ。程あつて、景勝公聞召し、法令を背き、抜懸仕りたりとて、甚だ怒り給ふは、須田一手にては、尾味を討洩す事あるべしと思召し、景勝公も、寅の下刻御出馬、猿ヶ馬場の峠を越え、尾味の山下迄、夜明けて押著けなされ候へば、早尾味城をば、須田乗取り、火を懸け、雑兵二百五十余討取り、首帳認め、剰へ、尾味左兵衛を生虜いけどつて縄を控へ、須田左衛門尉某、景勝公へ御目見仕り候。

右落城は、尾味左兵衛油断故なり。山中嶮難なれば、夜中に敵、働来るべしとは思寄らず、夜明けて後にと押詰めらるべし。城地堅固なれば、景勝向はるゝとも、容易く落城はなるまじ。其内に、小笠原後攻をも致すべしと存ずる事を、須田、考へ積り、前方透波の者に小者共を差添へ、山々へ人数を廻し、木の枝々に炬を結付け置き、鬨を揚ぐるを聞きなば、彼の炬、一度に火を付けよと申付け遣す。須田、案内は能く知りたり。潜に押詰めて、城を巻き鬨を揚ぐる。城中油断の事なれば騒動す。ましてや、山々の続松たいまつを見て、景勝公の御旗向ひたりと思ひ、恍惚うろたへ廻り候処へ、須田、采配を取つて一番に乗入り、終に夜明方に乗り済むなり。

尾味左兵衛督をば、見懲の為め、尾味山下に磔に懸けられ候。

同十六日の暁、小笠原、四千余の人数にて、鳥井峠まで働来り候へども、尾味落城を聞きて、早々逃入り候由、透波共来つて註進仕るなり。

第二、尾味落城以後、須田左衛門尉へ、直江・藤田に、甘〔糟〕備後・大石播磨を差添へられ、仰渡さるゝ趣は、今度の働、最も誉なりと雖も、御掟を背き候へば、真実の忠義にあらず。若し仕損じなば、景勝公御旗を向けられ、尾味程の者を討洩したりと、其方の事をばいはずして、景勝公の温手てぬるきと、他国の批判あるべし。生捕に仕りたる程の儀なれば、定めて、敵の虚を察得しての上なるべし。さあらば、何とて御内証に申上げず候や。然れば、一両手も差加へらるべし。御加勢遅々と存じ候はゞ、打出で候時、直江か藤田方へ、密かに申置かば、諸備も早オープンアクセス NDLJP:150早押付くべきなれば、仕損じたりとも、尾味が勝利には仕らせまじ。危からざる分別こそ、尤もなるべき事なれ。跡にも構はず、手早に取懸るは、城内に反忠の者あり。遅々ならざる時、味方にても取沙汰あり。敵へ洩れ聞えなば、其てだて、無にならんと思ふ時、自然ある事なり。それさへ、法を背けば誉とは仕らざる事なるに、此度の儀は、夜中に取懸る所唯一なり。夜明けて押寄する内、小笠原加勢か、後詰仕りたりとも、景勝公御出馬なれば、少しも手間取らるゝ事にてなし。左様に候ては、須田一手の働、抽んでらるまじと思ふは、一箇の働計りを思ひ、景勝公への忠を、深く存ぜざる所なり。十分に勝つべき事をも、万一負けなば如何仕るべきと、重ねての工夫を仕るこそ、武道の吟味なれ。景勝公、此度計りの成功を思召すにあらず。須田一人の不覚悟を以て、以来迄の御軍法を破らるゝ事、御腹立なる間、領知三分の二召放され、三分一下置かるゝは有難く存ずべきなり。尾味を打漏すか。利を失ふか。二つの内、一つあらば、法を背くの咎と、二重の罪にて、御成敗なさるべきなれども、勝利の働に御愛おんめでなされて、斯くの如くなりと仰渡さるゝなり。

第三、右の四人を以て、信州衆を召出だされ、御直に仰渡さるゝは、定め置く所の法令を、背くの族は、如何様の大功ありとも、諸人、景勝を軽く存じ候ては、味方勝利を失ひ、国の仕置も逆になり、滅亡の本なる間、逆心同前の罪科に申付け、妻子ともに成敗すべしと、御誓言を以て仰渡さるゝなり。

尾味城をば掃棄てられ、青柳の春日源太左衛門・同兵庫兄弟に、尾味半領を御加増に下され、与力同心を附けられ、青柳の居館を、堅固に城普請仰付けられ、小笠原筋の抑になされ、御馬人なり。

 
須田、野心に付いて御成敗の事畠山、海津城代を止められ、隅田相模守を置かる畠山出合の事
 

第一、同年五月中、福島の須田左衛門尉、城普請を仕る。海津組なる間、畠山より其断あるべき事なれども、其義なき故に、長沼の島津淡路守より、畠山へ相尋ぬる所、一向取合はずして、日数を経るに依つて、島津より須田方へ、両使を以て申遣すは、御持国諸境目ともに、上へ義を得ずして、城普請は堅き御法度なり。此四郡は、畠山と某と両職の御定の上は、我々見オープンアクセス NDLJP:151分致し、善悪の吟味を遂げ指図仕る事に候所、其様子申されざる儀、存外に候。但し上より御直に仰付けられ候や。左候はゞ、御証文一覧仕るべく候。さなくば、城普請急度相止めらるべしと申遣す。須田、野心故返答に及ばず、両使を捕へて成敗し、謀叛の色を立つる。島津、両使を遣す時、別に又使を差副へ、追々の透波を用ふる故、右の様子を聞くと其儘備を出す。予瀬・寺尾・保科左近・大宝春日左衛門を初め、福島近辺の大身・小身共に、福島城へ遠寄して、須田を逃げざる様に仕り、海津在番衆、其外、西条・東条を先として、其近隣衆は、畠山に心を付けらるべく、油断あるべからずと申遣して、島津淡路守は、手前の人数並に長沼在番衆を率ゐて、福島へ押出し、備を定め采配を取つて、無二無三に懸つて、城を乗破り、左衛門尉を初め、悉く討取り候。城半造作なる所へ、不意に迅速に寄せける故、斯くの如く、手間取らず落城なり。左衛門尉も、武勇の士なる故、本城に籠りたる時、櫓に上つて寄手に向つて申しけるは、某、野心を存じ斯くの如くなれども、不運故自滅仕り、奇麗に討死すべし。何れも歴々なる間、手合し給ふべしと申して、櫓より下り、木戸を開いて斫つて出で、四度の攻合に、左衛門尉、手に懸け四人突伏せ、五人目に島津足軽大将武藤団兵衛といふ勇士と、互に刀にて切結び、相討に討つて、両人ともに、其場にて即時に死にたり。須田附属の士、思ひ思ひに働いて、過半切死仕る。生残りたる者共は、捕はるゝの所、以後景勝公其時の首尾を御僉議あつて、命を助けられ、夫々に預けらるゝもあり。或は御成敗、又は坂を越えらるゝもあり。味方も百五十人余、雑兵ともに討死す。

第二、右の段々、島津方より春日山へ言上仕る。景勝公、御褒美斜ならず。扨又、畠山振合、島津不審に存じ候通り、少しも違はず逆意の事、春日山へ、結句早く相聞え候に付いて、島津方へ、畠山を迎へ取り、春日山へ差越し候へと仰遣はさるゝ故、島津、人数を召連れ、海津へ参る、兼ねて島津海津近辺の衆加番衆と、畠山家来衆と入交ぜ、本丸二三廓迄、取詰め居り候様にと申候て差置き候故、畠山、異議に及ばず、同道にて長沼へ帰る。夫より相備の内、小備衆二三手に、弓鉄砲の足軽を差添へて、春日山へ送届くる。鉄上野介請取つて之を預る。宇野民部少輔と、大石源之允と両使に、鉄上野介を差添へられて、御尋なさるゝ所に、畠山申さるゝは、須田左衛門尉、当春尾味へ相働き、忠勤を抽んづるの所、存じの外なる御擬作の憤に存じ、種々某に語り申さるゝは、蘆田・真田方へ縁の之ある間、川中島へ引入れ、須田、裏切をオープンアクセス NDLJP:152致し候はゞ、四郡斬随へ申すべし。左候はゞ、四郡を我等に与へ、主君に仰ぐべしと、誓紙を以て申候に付いて、御代々の厚恩を擲ち、邪欲に引かれ候て、密々に逆意を企て候事、天罰遁るべき様之なく候。某、己れ命は、左之右之ともかくも天を怨みず人を尤めざる所なり。然れども、某子供は、景勝公の甥にて候へば、命を助けられ候様に、頼み入り候と、少しも隠さず、臆したる体もなく、有様に白状なり。此故に、鉄上野介に仰付けられ、畠山夫婦子供迄、屋敷一つ之を渡され、番人を付置かれ、逆意の儀を、深く御隠密、他所へ聞えざる様になされ、上杉家にても、多分は存ぜず候。御底意深し。〈口伝。〉御内証は、殊の外御腹立にて仰せらるゝは、須田が掟を背き、抜懸の御仕置を、尤も至極と存ぜらるべき儀正道なるに、卻つて宜しからず存ぜらるゝは、武士道不吟味なり。景勝公、諸人の戒に、斯くの如く仰付けられ候。御内心には、其行武勇の程、感じ給ふ間、頓て本領相違なく返し下され、何ぞ事に寄せて、御加恩なさるべき程に悦び給ふ所、須田、不遠慮に邪義を構ふるに同心し、両代の厚恩を忘るゝは、須田よりは畠山悪人なり。殊に景勝公の姉婿なれば、景勝公の悪しきと存ぜられば、諫をこそ申すべきに、後暗き心入、言語道断なりと御腹立なり。

第三、海津城代隅田相模守を差置かるゝ作法、前に同じ。〔払〕捨てられ、須田領知の内、今度の賞として、島津淡路守に下され、相残る分は、五七人に御加恩として之を下さる。

右隅田相模守は、謙信公御代より、武名老功の士大将なり。一頃ひところは、越中松倉城にも、差置かれたる由なり。嫡子隅田右衛門を、樋口与三右衛門壻に仰付けられ、直江山城守は、樋口実子なるを、直江大和守壻名跡になさる。然れば隅田右衛門妻は、山城守妹なり。樋口其後、農峯城代に仰付けらるゝなり。

太閤秀吉公、山州伏見木幡山城普請の時、隅田右衛門近習石黒小太夫を成敗の事は、妻の儀に付いて、様子あつてなり。其時、右衛門、上杉家を立退き、京へ引籠り候。右衛門舎弟隅田大炊頭は、後迄景勝公召使はれ、奥州柳川城御預り、爰にても誉あり。大坂御陣の時も、成功あつて、両御所様より、御感状頂戴仕る冥加の士なり。

翌天正十三年乙酉の春、畠山家老二階堂主計、主人畠山を盗み出す事は、景勝公御内意にて鉄上野介心得なりといへり。畠山、斯様になされたる故、二階堂主計等、本国なれば、能登へ行き忍び居り、伊勢の御師に頼母しき士を、一人仕立て、互に志を通じて相図をし、能登よオープンアクセス NDLJP:153り船を用意し、越後直江ノ津の上小田明神迄乗著け、春日山城下蟹津へ、夜中に忍来る。相図の如く、畠山は女乗物にて、女房二三人召連れて、出でらるゝを、内室なりと見て、敢て咎めざる者なれば、畠山殿の奥御屋形様へ入らせられ、声高に申すななどとて、難なく出でられたりとなり。畠山の内室、畠山へ申され、男子をば残置きて、娘を一人同道あつて、秀吉へ奉公に出され候はゞ、其内縁を以て、御運を開かるゝ事もあるべし。其上にては男子も出づる事安かるべしと差図に就いて、息女一人同道し、能登へ無事に著きて蟄居なり。程経て後、石田治部少輔を頼み、彼の息女を秀吉公へ進めらるゝ故、程なく太閤へ、畠山出仕なり。其後、太閤、景勝と御和睦あり。息女の内縁を以て、太閤聞召され、景勝へ御乞請け故、子息達を畠山へ返さるゝなり。内室も一所に引越され候へど、景勝公、たつて仰せられ候へども、参るまじと申さるゝは、夫の畠山、主恩を忘れ、逆心不義是に過ぎず。されども、我が意得を以て、一命を助かり候は、夫への志なり。然るに今又、夫の方へ帰り候へば、公へ対し且つ兄弟の義を失ふ。兄弟は手足の如し。手足を断たば再びぎ難し。夫に別れ子を捨てゝ、景勝公へ対し、義を立つべしと、返答あつて相残られ、尼になつて、後まで越後に居住なり。

太閤薨じ給ひし後、権現様、畠山を召出さる。上条入庵是なり。入庵の子畠山長門守は、景勝公の甥疑なし。

 
藤田能登守、佐渡へ渡海の事
 

第一、柴田因幡守一个を以て、始終危しと思ひ、佐渡へ頼み計策す。北佐渡の河原田城主本間佐渡守同心する故、新保・片山・五十里・沢根・吉井などを初め、北佐渡加毛郡衆、皆柴田と一味し、其差図次第に、越国へ渡海して、柴田に戮力すべしとの儀なり。南佐渡羽持城主本間三河守は、同心せずして申すは、佐渡は三郡の小国なれども、古より弓箭を能く取り、越国の謙信、二度渡海あれども、随はずして二年迄は、持こらへけれども、謙信、剛強の名将なれば、終には叶ふまじと、佐渡中各〻申合せ、三度目謙信の出陣に、馬を繋ぐなり。謙信逝去、景勝・景虎騒乱以後、音絶なれども、内心は景勝へ、託言を申すべしと思ひながら、免角して日数を送ると雖も、逆臣の柴田に一味せし事、天理に背き、先祖の名を汚し、当時の武名を失はん事必定なり。景勝より加勢を受け、往くは、北佐渡迄も、景勝の手に入るべき事、分別の外他事なオープンアクセス NDLJP:154しと、申すに因つて、渋手・吉岡・沢田・大野・羽黒・太田を初め、南佐渡羽持・沢田南部衆は、景勝公へ随心なり。鴻の川を隔てゝ、北佐渡・南佐渡と申す。北は河原田・加毛郡支配なり。南は羽持・沢田両郡、羽持支配なり。北一郡よりは、南両郡は狭し。元来兄弟筋にて、河原田は宗領家、羽持は庶子筋故に、河原田は旗本の如し。何れも本間一党なり。右の通、南佐渡衆、景勝公へ随心して註進し、七枚づゝの誓紙を差越す。就中、本間三河守、越後執権中へ申越すは、近々御人数を差越され、当地の御仕置等仰付けられ、以来河原田へ御働の為めに、敵地の様子をも、御見せなさるべく候。其上、南佐渡御手に属したりと、河原田聞き候はゞ、取懸るべく候。御仕置之れなく候はゞ、一味の者共、其時に至りて、心の転変必定に候へば、当方先づ勝つべき間、御威光を借り、南佐渡中、堅固に持ち候はゞ、其上にては御加勢なく候とも、苦しかるまじく候。是非先づ、御加勢を望み候と申越すなり。景勝公の家老衆寄合ひ、各〻申すは、御人数を遣され、別義なきは尤もなり。若し籌策にて、味方、おくれを取りなば、御家の瑕瑾なり。此方より取懸る儀は、勝つべき所を見定めて働き、それも後を取る事あるべけれども、取懸に強みなれば、一旦負けても、敵の行に乗りたるにあらず。誤なれども、夫さへ大将の遠慮ある事なり。唯今、佐渡渡海の思召もなきは、越後国中さへ、未だ治らず、川中島も端々、御仕置に背く者あつて、御隙を明けられざる故なり。然るに、南佐渡より申越す儀、方便ならば、渡海の味方、船より上ると、一戦を初めらるゝは、危き事なり。転達てだてに乗らるゝ事、早や一つの負なるに、自然、敗軍に及はゞ、御家の恥辱なれば、御加勢遠慮あるべき事なり。然れども、裏心なく真実に申越すに、御加勢を遣されず候はゞ、南佐渡の者共、御家を浅く思ふべし。他国へ聞伝へても、臆病遠慮と批判あるべし。然れば、南佐渡より人質を取堅めて、渡海せば慥なる儀なりと雖も、程延びて、北佐渡へ泄れ聞えば、其内、南佐渡へ取懸るべし。北は嫡家なれば、心を通ずる者多くなつて、南佐渡、勝利を失ふべし。御家に一味の南佐渡に、勝利を失はせん事、無念の次第なり。内々御隙を明けられ、一両年の内外に、佐渡へ御渡海あつて、御手に入れらるべしと、御内評定も候間、御人数を差遣され、勝負の所は、其備大将、其時に当つての武略、其器を選んで、遣さるゝより外は、之れあるまじと、各〻評議一決して、景勝公へ申上げければ、景勝公も、尤もなりと御了承あつて、御人数遣さるゝに相極まり、其備大将を、藤田能登守に仰付けられ、朱御采配を貸し預けらるゝなり。此御采配は、オープンアクセス NDLJP:155公方義輝公より、謙信へ下されたる御采配なり。藤田相備には、善光寺の〔栗イ〕田永寿・同上野平次兵衛・跡部甚内・佐藤一甫斎、越後衆には、荻の城主松本左馬助・志田の斎藤三郎右衛門人数の陣代斎藤兵部、御旗本組より総軍の武者横目に、村松六左衛門父応閑斎・後藤新六入道両検使なり。此外、一備へ一騎づゝの武者を、近習衆の内より附けられ、藤田備は三騎なり。但し合せて十二騎、藤田夫々に見積り、之を附くべしと仰付けらる。〈口伝。〉右の後藤新六入道は、沼田平八郎譜代の家老武名の人故、平八郎死後にも、上野尾奈淵城を能く持堅むる。然れども、上野衆、大方北条に随ふ故、是非なく城を開いて、越後へ帰参は、志を変せずして斯くの如し。村松応閑斎は、謙信公御代、総武者奉行御繚衆八人の内にては、抽んでたる誉あるに依つて、御逝去少し前より、御近習組の内、五十騎の士大将仰付けらるゝなり。渡海の人数雑兵共に、都合三千八百余、此内、一騎合の備の騎馬数三百四十余騎、組役者の騎馬を引きて斯くの如し。

今年は、謙信公七回忌故、五智の如来堂にて、七万部の読経、正日より七日迄、一箇月に一万部御執行、其内、種々の作善を尽さるゝ故、何地へも御手遣なく、諸方へ抑計り、之れを差遣さるゝなり。佐渡へ御人数遣さるゝに付きて。

、藤田能登守を御前へ召出され、仰渡さるゝ趣は、今度、某軍代として、其方を佐州へ遣さるゝ上は、万端、存分に任せ執行ふ所専一なり。自然当方の面々、北国の行に乗せらるべき事、口惜しき間、自身も渡海ありたしと雖も、謙信公の御追善もあり。是に因つて、其方へ申付け、某が手に採麾を預け遣すなり。某に代り分別尤もなりと、品々有難き御詞、御直に仰聞けらる。

、藤田相備の面々も、即座に召出され、仰付けらるは、此度、佐渡への手遣、遠慮多しと雖も、人を選み之を遣す上は、必定其本意を遂ぐべしと覚え候間、能く示し合せ、勝利を得候所大忠の至なり。然れば、某が手に取る所の采配を、藤田に貸し預け、軍代を申付け遺す間、某同前に藤田を崇め、彼の下知を相守るべきなり。謀は広く洩らさずとあれば、其内意は、藤田一人に之を申渡す間、何れも彼の下知に背き、我が意地々々にて、衆議なき一味は、敵の為めに擒るゝ事疑なし。一統の令を背く者は、其本を正し、逆心同前の大科と、謙信公の掟なれば、各〻其旨を存じ、相稼ぐべき事肝要なりと仰聞けられ、御盃を下さるゝなり。

オープンアクセス NDLJP:156 右天正十二年四月廿八日の儀なり。

第二、同日藤田能登守、春日山三の丸我が屋敷へ、相備の面々を呼集めて、申渡さるゝ趣は、今日上意の通、此度、佐州への御軍代を仰付けられ、仮に御采拝迄預け下さるゝ事、有難き仕合に候。去り乍ら、心得難く存ずる仔細は、御当家の御先手七手組の備大将仰付けらるゝ儀、唯今の儀に候。御供の御先にては、御威光を借り候故、相備衆、某の下知に違背なり難く、夫さへ某、新参といふ物おかしく存じ候へども、仰付けられ候故、是非なく候。剰へ今度、佐州にて某一人采拝、誰とても事可笑しく存ぜらるべき儀尤もなり。各〻左様に存ぜられ候はゞ、其下の者は、上を真似て、某を軽く思ふべし。軽く存じなば、某が申す儀、一つも役に立つまじ。其時は、憖に斯様に仰付けられたる事なれば、少しは腹立の気出づべし。然らば弥〻首尾調はずして、味方の勝利を失ふ事眼前なり。御軍代の御請を申して、却つて悪事を仕出さんよりは、誰ぞ重々しき方を遣され、首尾調ひ候様に、御断を申上ぐる事、誠の忠義にて候へば、左様に仕るべく候。今度某を、佐渡へ遣さるべきも、遣さるまじきも、各〻分別次第に候間、唯今直々に、面々の存分を承り、御屋形へ訴訟申上ぐべく候。右の存念之あるに付いて、御采拝をば、先づ直江殿に預け置き、御前を罷立ち候。各〻の覚悟を承り、勝利の所を胃に落し候はゞ、重ねて御采拝を頂戴預り申すべしと申さる。相備衆申さるゝは、其趣仰せ迄も之なく、御差図毫頭違背申すまじく、藤田殿の下知は、御屋形の御下知なれば、それを相守らず候へば、逆心同前の御掟、面々得心尤も至極と存定め罷在り候へば、能く示合せ、一統仕るべしとの返答なり。藤田聞きて、満悦至極仕り候。左候はゞ、各〻一手切に連判になりとも、別紙になりとも、血判の誓紙を申付けられ給ひ候へとて、前方認め置かれたる案文を渡さる。相備衆、尤もと同じて、熊野の牛王に、誓紙一手々々より、藤田方へ相渡し、此旨、藤田言上して、御采拝を直江より請取り、同五月二日丑刻、春日山より出陣し、其日上道七里、柿崎に陣取るなり。此初日の押前に、春日山より一里押し、府中の東を北へ流るゝ川を、喜多川といひ、信濃より出づる川なり。それに懸りたる応解の橋を越えて、黒井川の船渡迄、一里程あり。其間を臥間屋の原といひて、大なる原あり。爰にて前方より定めたる一二三段、前後の手分手組手配の備を立設け藤田旗本にて、貝・鐘・太鼓の儀式を以て、備を転変し、衆議一致の作法を見届くる。然れば、赤田衆六十騎を、三十騎宛二手にし、外合内離の備、合へばオープンアクセス NDLJP:157離れ、離るれば合ふなり。手組手分して、三十騎は、陣代の斎藤兵部下知、三十騎は饗庭主殿に預くる。之れ一備一騎宛の目附武者十二騎の内なり。藤田下知を以て、各〻斯くの如し。之れ衆心一括相和して、百戦百勝の利なり。然るに、饗庭が三十騎の一手、隊伍完からず、進退動静起坐結解、敢て金鼓の法を守らず、嘗て旌旗の令を用ひず、其度を失ひ其節を乱る。是に因り、藤田大に怒り、急に使を遣し、饗庭主殿並に斎藤兵部・小頭武者塩井玄蕃をも呼寄せ、相備の士大将衆後藤・村松を初め、各〻を招集めて、饗庭が様子、僉議を致し吟味を遂げて、即座に放討に成敗申付くる。此故に、志田備の目附、響庭があとへ、藤田備目附三騎の内、五十嵐兵庫を遣し、前の如く三十騎の一手の法令を申渡し、又最初の如く、分合聚散の法を定めて教戦し、左右前後起居向背、藤田一麾の令に随つて、衆意一結せり。藤田、勝敗得失の理を、下々迄胃に落す様に申教へて、備を押出し、其日、柿崎に陣取りたり。翌日柿崎を立つて、上道二里行き八崎なり。夫より与根山へかゝり、亀割坂を通り、東道三十里の山路を打越え、山の彼方の下□鯢浪といふ所は、能州知行所なる故、爰に陣屋を設け、相備組中の下々に至る迄饗応し、四日には出雲崎より三十町許り、這島石地といふ所迄、上道六里余押し、爰に風待の体にて、六月下旬迄滞留なり。此儀は、景勝公よりは、急ぎ加勢を遣され、能登守此所迄著陣の儀、佐州へも余国へも、隠れあるまじければ、景勝公御心入は明白なり。爰に滞留渡海延引は、能州一个の分別なれば、景勝公善悪の批判はなし。渡海遠慮の心は、今度の儀、常と違ひ、種々遠慮の上、諸人の目利にて、能州総将となつて働き、自然、敵の行に乗せられて、事を仕損じなば、弓を切折り槍を抛つて、武道を止むるより外は他なし。是にて能く見合せ聞届け、虚実二つを考へ、敵の行ならば、其心得にて渡海して、時に応ずる謀をなすべし。南佐渡、越国へ降参偽なくば、北佐渡より取懸り、一戦する事ありとも、一両日には落著あるまじければと見積り、越後勢を二手に分ち、一手は船を押廻して、後の北佐渡加毛郡へ懸けられて、一手は直に南佐渡へ加勢せば、一戦仕りよからん。但し能州、是迄出張の様子、北佐渡の者聞き候はゞ、南佐渡へ二懸る事も仕るまじ。又柴田へ加勢に、越国へ渡海も、後を気遣ひて思寄るまじ。其内には、南佐渡の降参虚実、分明に知るべしとて、斯くの如きなり。然るに、南佐渡より藤田方へ、急度渡海あつて、仕置をも仰付けられ、御幕下になり候体、彰に知れ候様になされ候へと、再三申越す。藤田返事に、海上の様子見届け、早速出船仕るべき間、オープンアクセス NDLJP:158気遣あるまじと申遣す。其内、何かの様子聞〔給カ〕ひ候所、柴田より北佐渡へ加勢として、梅津宗三五十騎の備にて、新潟の湊より船に取乗り行くと聞き、藤田遅々に及び、南佐渡へ取懸かられなば如何なり。能く念を入れ候はゞ、人質を取るべき事なれども、左様に仕らば、臆したりとの批判あるべし。それにも及ばざる事なりとて、南佐渡へ案内も通ぜずして、六月廿三日払暁に出船す。其作法は、合備一手毎に相験をし、其一手の内も、侍の船と足軽・長柄の別験をして、まぎれなき様に定め、又歩卒・雑人・小荷駄の船を定め、船組船分船隊の作法、尤も頭頭の船には、大小二本の旗を立て、一手限に船を分ち、前後左右を定め、藤田能州の船は、諸船の後に出帆なり。折節風能くして、同日申刻許りに、南佐渡荻野間へ、東道八十里の所を、難なく著船なり。陸より六七町遠干潟に、船を掛けて待揃ひ行儀を定め、游艇を以て、村松応閑斎、藤田より田中日向守を差副へ、両人陸へ上り、羽持三河守方へ申遣す趣は、是迄著岸せしめ候間、早々、陸へ上り申すべく候へども、今よりとかう致さば、夜に入るべく候。夜中、羽持城へ入り候事、軽々しく候。明日押上り申すべく候。人数大勢に候へば、城を御取り候ても、人数余るべき程に候。左候へば、迚もの儀に、此者差図次第、陣取を申付けられ給はるべく候と申入る。南佐渡衆、待兼ねたる砌なれば、渡海を悦ぶなり。三河守返事に、羽持なりとと沢沢なりとも、両城の内を明け渡し、我々は町屋になりとも、外の城へなりとも、窄み申すべく候へども、とかう申さば、御断を背くに似申候間、何地にても見立てられ、普請仰付けられ候へと申すに付いて、村松・田中、内々絵図を以て考へ置きたれども、陣所を見分して、荻野間と沢田との間に陣場を定め、其旨を藤田能州へ申越す故、越後方諸手より、奉行一両人宛遣す。藤田よりは長谷川修理・伊古田主計両人行きて、普請を申付くる。人夫は佐渡より仕る。佐渡衆二心なき故、夜中懈らず、自身普請仕る様に、精を出し候故、丈夫に出来、夜中に掃除迄仕り、廿四日に之を相渡す。越後船漕ぎ寄せ、一手陸へ上りて、備を立設くると、次の手、又上つて斯くの如くなれば、初の備は助鋪へ打入れ、段々に陣取る様子は始計なり。其夜、内用心外不用心の様子。〈口伝。〉翌廿五日、羽持へ申し入るゝは、普請頼入れ候事は、各〻是へ入り、我々は其城へ移るべき為めなりと申遣す。三河守、其意を得、出城をば、松本左馬助を遣し、之を請取り、総軍羽持城へ入る。右陣〔所カ〕を出づる砌、内堀・助鋪・内柵其外の様子仕様。〈口伝。〉羽持は、藤田陣屋を請取り居るなり。廿七日城に於て、南佐渡衆へ能登守対面、オープンアクセス NDLJP:159其後、佐渡衆より人質を選取つて、出雲崎迄遣し、能登守知行所石地へ遣し、固く番人を付け置くなり。越後衆上下の賂、佐渡衆より夥しく馳走、七種の珍物飾物等迄持出し、祝儀の饗応、結構に之を営む。能登守諸事仕置申付け、七月二日に、沢田城へ陣換して移らるゝなり。

第三、藤田、南佐渡衆各〻へ評議し、北佐渡へ相働く其所の様子を見積り、以来景勝公、御旗を向けらるゝ時、全く御勝利の為めといひ、又は敵地放火、或は植田を混ね、敵を費し味方を競はせ然るべしとあつて、先づ敵の弓矢の行を引見るべしと、毎日敵地へ乱入す。松本左馬助・跡部甚内・後藤新六入道、藤田旗本より増毛但馬を差添へ、七月五日の暁鴻の川を渡り、河原田城近迄相働き、其辺植田を混散らし、或は在々放火すと雖も、敵出でざる故、引返して鴻の川へ臨む折節、敵、少々出で喰留めんと仕るを、越後衆備を立直し、一戦を待つ様子之を見て、敵、早々退く所を、味方追懸けて、歩者等を踏倒し、勝色を見せて引き入るなり。

右の様子を聞きて、藤田能登守曰く、敵本間佐渡守儀、老功なる間、越後勢何程あらんと、積らざる事あるべからず。然も柴田より加勢もあり、戦を挑み待つ所へ、味方僅二三百の小勢にて、植田混ね働き、在々放火仕るに、出合はざるは不思議なり。小勢を恐れて出でざれば、某自身働き候はゞ、降参致すべし。又切腹と一筋に思定めば、此小勢に押掠められたりとの批判は、一入無念に存じ、討つて出で、心操をも仕らずして、叶はざる儀なり。然るに、一向に取合はず、味方退き、川を越ゆる時、漸く人数を出すと雖も、味方立直り候へば逃げ散り候。

河原田佐渡守、前代より中間取合にも、おくれを取らず、当河原田も老巧にて、謙信公に対してさへ、暫く楯を衝きたる程なれば、唯今斯くの如くあらん〔〈は脱カ〉〕全く不案内にても、弱きにても之なく、謀略あつて斯くの如くなるべし。藤田重ねて、総軍を以て働くべき間、此度の勝利を残し、我が味方に本意なきと思はせ、重ねて一戦に、其憤を含ませ候事一つ、又は藤田、北佐渡へ働くまじく存ずるとも、此弱を見せば、藤田、年は若し。此小勢にさへ恐るゝ敵なればとて、重ねては速成を思ひ、総軍を帥ゐ働来るべし。其所を引請け、藤田共に打取るべき武略、此二つならん。然れば此方より働く時、驕らずして備を固く立て、植田を混ねさせ、敵の様子に依つて、城際迄も放火し、弥〻敵の様を計り、地の利を考へ、以後景勝公渡海一戦の内に、平均の軍議あるべしとて、備定左の如し。

一、先手三手の内、右は松本左馬助三十五騎。

オープンアクセス NDLJP:160二、中の先は、藤田百騎の内を分けて五十騎、此頭藤田乳弟の田中日向守。

三、左の先は、赤田六十騎陣代斎藤兵部、検使五十嵐兵庫両人支配。

一、二の先三手の内、右は佐藤一甫斎三十騎。

二、中は藤田能登守五十騎、此小頭両人小林安芸守・水越将監なり。 田中日向守備、小頭両人小島清兵衛・三神三右衛門なり。此時、三神組廿五騎を、藤田旗本に備へ、旗本廿五騎水越組を先へ遣し入替ふる。一戦一度に入替へ、先と跡と共頭共に、鬮取にて兼々相定むる。作法。〈口伝。〉

三、左は上野平二兵衛三十騎。

一、栗田永寿手前三十騎に、赤田衆六十騎の内十騎加へ、合せて四十騎、必勝の備として立置く。〈口伝。〉

二、村松応閑斎手前十騎に、跡部甚内組三十騎の内十五騎加へ、合せて廿五騎、藤田旗本に附く。一手にして別手なり。

三、藤田自身の備百騎の内より、十五騎分つて、一手の小隊とす。〈口伝。〉 越後家七手七備を定むる内にて、九手の数をば棄てず。九は老陽終つて又始まる理、越後流備の奥義なり。

四、後藤新六入道、手前十騎連れて、佐渡備の検使に行く。村松・後藤両人の小隊衆は、総軍の武者横目なり。

附小隊衆といふは、越国の武者詞なり。手前の騎馬五騎・十騎乃至廿騎迄持ちたる衆をば、士大将とはいはず、小隊衆といふ。手前の騎馬廿五騎より上、持ちたる衆をば士大将といふ。但し上より、馬乗同心五十騎より上、預けらるゝをば士大将といひ、それより、下四十騎許り預けらるゝをも、足軽大将といふなり。

五、跡部甚内をば、沢田城留守に残し、佐渡衆物立ちたる面々より、重ねて人質を取り之を預る。佐渡衆少しも〔〈脱アルカ〉〕振ノ致を致し候はゞ、藤田差図次第に、其人質を焼殺し候へとの儀なり。又は越後衆小荷駄を残置くなり。

右に付きて、跡部甚内へ、藤田申渡す趣は、敵合に味方勝利の本あり。敵国へ押入るには、後にて騒がざる仕置尤もなり。城を攻むるには、敵守の堅からざるを見んよりは、攻むる味オープンアクセス NDLJP:161方の備定を幾重にも能く定めて後に、敵城の虚を察知すべし。大合戦・小攻合の時も、敵に勝つべしと計り思はずして、味方の備に虚出来て、負くべきかと分別し、負けざる様に、能く試み定めて後、敵の様子を考ふれば、勝つ事は負けざる内に籠るなり。右に付きて、三つの分別あり。三つの分別なくては勝利なし。其三は、初中後なり。

初といふは、出陣前、敵と味方の和不和、彼我の善悪を能く測つて、備押・陣取・備配をし、戦場の地、味方に善きか悪しきか。扨又時なり。時とは、天利の盛衰を測り知る。其天利は人の和に基づく。人の和は、天理の誠に帰す。是大極意にて明智の正見あり。此三つの調へるか調はざるかを初として、万事の試をして、出陣するを初とす。そこにて後の騒がざる仕置仕らず候へば、先にて如何程勝利を得ても益なく候。

中といふは、敵対なり。そこにて、時と地と敵と応ずる転変なければ、勝利を得難し。備の立所・手組・手分・手配宜しからざれば、勝つて芝居を蹈ゆる事ならず候。

後といふは、味方勝利を得てもとの分別なければ、必ず驕つて、備違、逆になり妄になり、国法ともに乱れて滅亡す。誠なるかな事起乎所忽、禍生乎無妄。右三つ肝要は、唯後道の分別なり。縦ひ、勝つても益なしといふは之なり。さるに依つて、今度其方を後に残し、人質を預け置き候は、初中後を兼ねての工夫なり。佐渡衆、自然下知を背き、或は逆意もあるべきかと念を入れ、重ねて人質を取り、若し左様の変出来ば、一々焼殺し、其方切腹仕られて、忠節を顕はさるべし。其により、志を知らざる者には、申付け難し。志を知り留守を頼み、気遣なくしてこそ、先にて強く弓矢は取らるゝ儀なれ。某、残りたき程なれども、軍代なれば、さもならず。それ故、貴所を頼み入るゝ間、跡に留まり給へ。夫を如何と存ぜられ候はゞ、北佐渡への働を相止むべし。手強く懸らせ、敵に怖気を付け置き候間、某帰陣以後も、南佐渡へ取懸る事は、あるまじく候へども、此度此方より廻して斯くの如しと、越後備を軽く見て、南佐渡衆も頼なく存ずべく候。然れば、某、勲を止め候事、貴所一人の覚悟に因るなれば、至つては屋形へ対せられ、大不忠なりとの儀、能く分別して、返答仕られ候へと申さる。跡部異議なく領掌仕る。是に依つて、与力三十騎の内十五騎、手前五騎合せて二十騎、信濃足軽と号して、二百人は役者割。〈口伝。〉跡部留守役を請取る故、右の通備定め、藤田軍代の威勢強し。

オープンアクセス NDLJP:162六、越後備の右五六町隔てゝ、先手より二町程引下つて、羽持三河守大将にて、百四十騎千二百の備を、五備に立つる。此検使後藤新六入道十騎連れて差加はる。是は越後備一戦に及ぶとも、必ず此方より懸らず、敵若し懸らば、静に敵を引受けて、勝利を握る見せ備なりと定むる。〈口伝。〉

第四、右備定して、七月七日未明に、藤田信吉、沢田城より北佐渡へ働く。鴻の川迄は一里に近き道なる故に、夜明け方に備を押付く。此川、さのみ険難ならねども、其法を乱さず。佐渡衆は、所の案内なればとて、先へ越させ、川向に備を立て固めさせ、越後勢は川の這辺こなたに備を立設け、前後分散せず、蜘蛛の口伝を以て、段々に打渡り、一備切に備を立て、各〻打上りて定の声。口伝。川辺奥義多し。

敵地、植田を混ね散らし、畠物を薙ぎ捨つる事、佐渡の地下人足軽、又は越後の人歩等を以て仕り。諸備は、此奉行の如き備を設けて斯くの如し。夫れより又、河原田道筋を働き、其辺の在家を放火し、城際廿町許りに押詰むる時、河原田の本間佐渡守、五千余の人数を率ゐ、十一手に備を配り、城より七八町出張して待備ふる。味方の備との間十二三町許りあり。能登守より物見に、伊沢若狭守・鈴木四郎兵衛両人に、藤田旗本より夏目舎人助、其時は新七郎と申候を差添へ、斥候に遣し候。以来功の為めに、見習ひ候へとて斯くの如し。其外、手毎より物見を遣す場所、敵の様子を積り、各〻帰つて藤田へ告ぐる。其時、藤田へ舎人助望み申すは、頓て一戦と相見え候。某をば先手田中日向守備へ、遣され下され候へ。御側に居候ては、敵先手許りにて敗北仕り候はゞ、手に合ひたる分にて追首なり。去年、杉原に於て初陣に心緒仕り候へども、小攻合殊に柴田が被官なれば、数にもあらず候。此度は他国といひ、敵は武功の佐渡守、晴なる野合の戦場、之を某初陣と存じ候間、是非先へ遣され下され候へと望む。能州申さるゝは、其方一人を先へ遣し候はゞ、自余の者恨み、下知に背き申すべく候とて、田中備へ使に申付け、漸く一戦と見定め、矢初致さるべく候。伺はるゝ事之あり候はゞ、夏目新七郎に申越さるべしと申遣す。是に依つて、巳の下刻許りに、田中日向守備より、敵方へ鏑矢三筋射入れ、軍初の儀式とす。其敵は、五十里・吉井両手合せて百三十騎、雑兵共に七百余を二段に立てたり。敵味方、互に詰寄せ、足軽攻合も終る時節、味方の内、死人あるを敵走出で、首を取らんとする。其死人を、此方足軽寄騎よりき田中伝助引懸り退く。干明の村本斎宮、オープンアクセス NDLJP:163其出でたる敵と渡合ひて、場中にて之を討取る。夫より敵味方、互に攻合ふ内、敵方の手負ひ候を、味方松田勘九郎出でて、一刀切る所に、弓にて射殺さるゝなり。斯様に場中の働にて、敵味方弥〻進み寄る時、夏目舎人助走り出で、高声に名乗つて一番槍を合はする。其槍相手は、敵の内赤根羽織を著たる本間孫太郎といふ中老覚の者なり。〈後河原田降参枚、此者に舎人参会仕るなり。〉

舎人は十六歳の若輩故、田中日向守組の中老の荒木主税助と若輩なれども、悪沢助十郎とて、一両度も誉あり。其外、放打の成敗者、二三度も仕りたる者と、此両人に、今日は互に槍先の手前を見物仕るべしと相断り、両人に目を付け、先へ進み居り候所、此者共、汐合を考へて懸らんとする様子を、舎人見ると、其儘走抜いて、一番槍を合はするなり。

敵本間孫太郎に続いて、釣批杷の指物差したる武者一人、是は福原武辺之助とて、西国士なり。武者修行に来り居たるが、孫太郎に越さるとて、荒木主税助、舎人に劣らず進出でたるが、敵の射る矢に膝節を射抜かれ倒る。舎人がうしろ故、見付からず候を、根岸与右衛門引懸けて退く。悪沢助十郎、舎人に差続いて、左の方にて二番槍を合せて、槍付け候を、房州窂人舎人寄子佐久間左近、其敵を槍下にて討取るなり。悪沢助十郎も、其場にて鉄砲手を負ひ伏居たるを、敵、此首を取らんと出づる所を、舎人が脇詰大塚主膳、刀にて之を〔抑ハイ〕る間、悪沢を舎人引懸け退きて、悪沢が内の者に渡して、取つて返し候時、早や味方の総勢突いて懸り、敵、吉井・梅津〈宗三、〉一二の手共に崩るゝ時、井筒三十郎、敵を討取り候。夫より後の働、二町余は追首なり。味方右の先松本左馬助備は、濁つて足定まらず。其敵は片上なり。是は旒乱れて備清し。松本二の見佐藤一甫斎は、位を見合せ扣へて待つ。味方左の先赤田備は、備色悪し。敵は〔新、下同ジ〕保なり。然れども、赤田備の軍代斎藤兵部、検使の五十嵐兵庫両人、一手分合に離の利を能くして、采拝を取つて、勝色に立直し候へば、敵神保、備色悪しくなるなり。赤田備の二の見上野平二兵衛、是は先衆の交刃に構はずして、敵の二の手へ、横合より切蒐かゝらんと進むなり。

南佐渡衆は、越後備の勝色を見て、勇進んで懸らんとするを、後藤新六、采拝を取つて之を制すと雖も、用ひずして備、むらと白くなる事は、越後衆計り勝利を得、我々勢を出して、手に合はざるは、面目なしと思ひて、半は進み半は前方の定と相違し、後藤も強ひて制する故、猶予する故、半表半裏の備色正しからず。敵本間佐渡守之を見て、我が旗本と沢根とのオープンアクセス NDLJP:164二備を以て、敵味方をば右に見捨て、脇へ廻り、羽持三河守が備へ、懸り来つて切崩す。羽持備乱れて、藤田旗本へ、右の方より横道違よこすぢかひに崩れ懸がる。無制の兵なり。此故に、藤田旗本迄混乱す。栗田水寿備にて、横を討つ事ならざるも、其備間へ、南佐渡衆紛乱する故なり。河原田之を見て、一人突いて懸る故、味方手負死人多し。藤田も、馬上にて敵二騎突伏せ、自身手を砕き稼ぐ所に、敵十騎許り、大将と見て取廻し、突いて蒐る故、能州馬を突かれ、歩立になり、既に危く見ゆる刻、斎藤源太左衛門といふ使番の武者、松本備へ使に行きて帰る時、此様子を見て、逸足に駈付け、馬より飛んで下り、能州を我が馬に抱き乗せて、其身は歩立にて敵を抑ふる折節、先手の田中日州、当る敵をば押崩すと雖も、先より旗本の様子を見積つて、両人の小頭水越将監・小島清兵衛に、我が備を能く申含め、手前の騎馬二騎と、足軽長柄何か合せて、歩者三十四五人連れて、旗本へ助け来り、敵中へ乗入れ、三十人余討取る故、敵、足を立て兼ぬる。此内に、能州は栗田永寿備へ乗入れ、采拝を取つて下知して、河原田備へ突いて懸る。田中日州も、佐渡守旗本へ無滞に切入り、佐渡守が甥本間図書を、佐渡守と見誤り、馬上にて組んで落ちで、首を取り起上る所を、図書が郎党駈付けて、日向守を槍付くると、其儘、大勢折重つて之を討取る。日州被官二騎・歩者十四人、其場にて切死す。能登守は、栗田備を弥〻下知して、河原田備へ三合力者を以て、静に進んで入立つる。旗本近習組と定めたる十五騎の小備を、武者奉行伊古田阿波能く押定め、貝・太鼓を合せ、突いて蒐る。扨又、最前崩れたる旗本の人数も、小林安芸守・三神三右衛門両人の小頭、押繚め取つて返して一戦を待つ故、敵、河原田衆の備、弥〻騒動仕る所を、味方、左右より切崩す故、敵敗北して山野にかゞみ引退く。河原田をば討留めず、沢根城主小次郎が軍代本間右近を、栗田被官の向寺尾三右衛門之を討取る。

味方の先手衆、各〻当る敵を押落すと雖も、藤田旗本の様子を気遣ひ、長追せずして、引纒めて返す。藤田旗本へ懸りし敵も、後先を気遣ひ敗軍の所に、先衆に最前押崩されたる敵、又取つて返し、五手の味方を喰留めて慕ひ来るを、田中日州は討死なれども、小頭水越将監・小島清兵衛、備を少しも乱さずして、殿を仕り、小殿は夏目舎人仕る。大塚主膳は、旗本を気遣ひ、其場を捨てゝ駈付くる時、せはしき場所故、差物を落したるを覚えず、悪沢助十郎も、最前手負候場に、金の扇の前立を落し候。右二色共に、舎人拾ひ持来り候。扨四五町引取る内オープンアクセス NDLJP:165に、近く慕ひ付き候を、二度迄小反をして、敵を追退け候。河原田敗北故、慕ひたる敵も、終に八方へ逃散り候を、追詰め之を討取る。味方の総手、所々に於て敵を討取る首数、都合八百五十九の内、百十一一田中日向守備へ之を取る。味方も雑兵ともに合せて、五百余討死す。就中武功の田中日向守討死なり。敵には、本間右近・本間図書・同九郎次郎、是は新保衆横田・久野・見田・本間剛左衛門などいふ物頭物奉行仕る士の首十三之を討取り、芝居を蹈へ、競の凱を作り、備を立替へ引取つて、鴻ノ川を此方へ越し、首帳を認め実検して、凱歌の儀式を執行うて、藤田能登守、沢田城へ入るなり。〈彼の場にて、首塚を築く。定めて今に之あるべきなり。〉

第五、著岸已来の働、今度一戦の儀、上中下厚薄の品、委しく穿鑿、其上に応じ、藤田褒美をなす。藤田書付を以て、具に景勝公へ之を註進す。御直の武頭衆中よりも、各別に一通宛註進状之を差上ぐ。是に因つて、御返書到来、其外の面々には、帰陣の時、急度御褒美なさるべき間、其地在陣中は、藤田吟味致し、頭々より賞罰私曲なく申付くべきの旨、之を仰遣さるゝに付きて、諸卒一入勇み候なり。

急度註進之旨聞届候。最前も申入通、其方一人之覚悟に而、其地、堅固に取敷、日々敵地へ令手遣、任存分之段、寔欣然不少候。剰去七日、自身出備悉踏込、於河原田表一戦、敵数多討取之、被大利之由、忠信之至難勝計。併武達之誉、可無双之手柄者也。弥〻対于合備之面々指図、至下々改戦功之是非、賞罰尤無私曲越度之様に、後勤専一に候。猶自跡以使者申送之条、令省略候。謹言。

  天正十二年七月十五日 景勝

 其地之様子、切々註進待入候。尤用之事、追々可申越候。万々奉行所ゟ可申越候。

           藤田能登守殿

右の御状は、藤田方より註進の飛脚に、下されたる御状なり。其後、津田弥左衛門といふ近習士を、御使として渡海、藤田に御褒美下され、御書到来候へども、之を写し求めず。御奉行衆より参り候状も、写し留めず候。以上。

註進旨其元著岸以来、日々敵地押詰相働之由、労身無是非候。就中去七日、於河原田表一戦、敵数多討取、得勝利之由喜悦候。弥〻一切有之様に可相稼事専一に候。謹言。

オープンアクセス NDLJP:166  七月十五日 景勝

       松本左馬之助殿

註進旨、其地著岸以降、毎日至敵地相働之由、労身無是非候。殊以、去七日於河原田表一戦、敵徒多討取之、得勝利之趣欣悦候。弥〻一功有之様、可相稼事肝要候。謹言。

  七月十五日 景勝

       栗田永寿老

此外の衆へも、御書到来候へども、不写候。以上。

前段に付きて、愚父舎人助定吉物語に曰く、合戦取くさる時、弓鉄炮攻合つて、場中の働あり。其働に、段々上中下の武功あり。之を能く胃に落さゞれば、備を取結ぶ事ならずして、勝利の時を失ふなり。故に一番槍の其度其節大事なり。一番槍あれば、差続いで二番槍あり。此一二の槍に、槍脇の働槍下の高名よりして、崩際の高名品々の定は、勝利の本なり。此法正しからざれば、全く武備は設けられず。常々の掟肝要なり。此所を聞損じ見誤る不功の士は、弓矢の汐合を知らず、其度を失ひ其節をはづし、敵味方の取鎖るに遅速、の物語も、首尾不合にて、武士道初心軍理不鍛練なり。扠此戦功段々の働は、必ず一備限にての穿鑿なり。例へば河原田表の一戦、田中日向守備より軍初を仕り、迫寄つて働ある様子を見て、味方の備に我れ劣らじと懸る。其汐合士大将面々の功不功に因つて、取鎖るに遅速、敵合善悪あるに因つて、一備宛にて初中後上中下の働、剛弱の様、其備毎の善悪は、総大将より検使目附の武者見定むる。的轢の作法正しく、吟味聊私なきなり。然れば軍初の備の外にも、先手にて一番槍は必定あり。二番槍は大方之なき事、他国は存ぜず、上杉家にては此定なり。其仔細は、諸備の内、一備軍初を仕るを見て、外の備、我も劣らじと思ふは、武士の常なり。さる故、一同に進んで突懸る備の内にて、剛強の勇士、一番に出でゝ槍を合せ、二番槍よりは、早や総勢の総懸になるなり。田中日向守、軍初して敵と取鎖り、某一番槍、二番槍悪沢助十郎なり。〔二イ〕番槍迄は延ばさずして総懸になる。之を見て、松本左馬助備、勝負を初め、其備にて同心佐五右衛門一番槍、二番槍之なく、其に続いて、齎藤備進懸ると雖も、少し遅れて軍代の斎藤兵部、自身一番に槍を入れ候故、猶以て二番槍之なく、総懸になつて各〻勝利なオープンアクセス NDLJP:167り。但し敵により味方により、地形に因つて口伝あり。

第六、藤田能州、今度夏目舎人働を感じ、免され候三は、

 一に紺地白鳥居の旗。

 二に軍八といふ名。

 三に吉といふ諱の字。

、旗の事、能登等馬験二本は、白き四𬏈よぬの、四方に黒く五つ月、竿さきには、赤地に白く上り藤の丸を付くる。是大馬験なり。小馬験は白き二𬏈、四方麾に金の五つ月、釣物にして斯くの如し。

又二𬏈の四つ半紺地に、白く鳥居を付けたる旗は、自身の腰差なり。之を此度舎人助に賜はり、白嫩の腰差に仕られ候。

能州申渡さるゝは、其方今迄の差物、黒地に白き堅割をば無用に仕り、此旗をさし、以来御屋形に対し、武功の忠義尤もなり。此旗は、某、先の舅紅林紀伊守小馬印なり。紀伊守は、北条家にて弓矢功者の士大将故、安房守氏邦へ弓矢の介添に付けられ、紀伊守、終に敵に退色を見せずとある申立にて、某に壻引出物に与へられ候へども、今度、其方働に依つて、之を遣し置く間、一入志を相嗜まるゝ事肝要なり。万一未熟の様子あらば、某が越度といひ、紀伊守名迄汚すなり。此所を能く得心あるべく候。心得なくて、武具を人に望むは、不案内の士なり。縦令、人より与ふるとも、其道具に瑾を付くべきかと分別して、少しも臆する所存あらば、受けざる事、正道勇士の本意なり。人見せのかざりに取総ふは勿体なしと、諸人の前にて、舎人に申聞けらるゝなり。

、軍八といふ名の事、藤田申聞けらるゝは、某縁の神保主殿幼稚の時、謙信公越中御発向の御備に召連れられ、十七歳の春、御使番役武功長尾甚左衛門討死の跡を、仰付けらるゝに因つて、相役衆一列にて申上ぐるは、御使番役、御吟味の上仰付けらるゝと存じ、忝く存じ、働罷在り候所、東西を知らざる童を、同役に仕る事、存じも寄らず候。恐らくば我々共、一人宛召出され、御穿鑿遊ばされ候へ。為景公より当御代に至り、場数十五度より内の者は御座なく、御感状八つ九つ十通に余り、頂戴仕るなり。然れば我々御成敗か、御追放あつての後には免も角も、彼の忰と同役は罷成らずと、御城へ詰めて、奉行衆を以て言上仕る。謙信公オープンアクセス NDLJP:168聞召され、何れもを召出され、御直に仰聞けらるゝは、内々此事を仰渡さるべしと思召す所に、先立て其方共より申上ぐる事、御家の弓矢盛なる故、吟味深しと御悦なさるとて、武頭物奉行何れもを召集められ、聞手になされ、重ねて仰出さるゝは、其方達申す如く、使番物見番の使者は、某が眼目片腕とも思ふ程の者ならでは、申付け難きを以て、随分吟味穿鑿する故、前廉より各〻を申付くる。此度甚左衛門跡役吟味をするに、武役を勤むる者の内に、ありもこそすらめ、各〻と同役にすべきと存ずる者覚えず。結句五度七度、首尾を合せたる若者を云付け候はゞ、各〻相役に不似合とて、腹立あるべしと思ひ、一向批判のなき世忰主殿を、某眼力にて申付くるなり。各〻取飼ひ候はゞ、後々は必ず仕損ずまじき者なりと思ひ、申付けたりと宣ふ。御使番何れも斯様の思召とは、中々存ぜず、忝く存じ候。随分取飼申すべしと、御請申したり。謙信公御眼力相違なく、其翌年永禄十一年四月廿日、加州御発向、尾山城攻め給はんとて、垣崎和泉・吉江喜四郎・本城越前・甘〔糟〕近江四頭を以て取寄せらる。城主少しも撓まず、日の内進入追出十一度、攻合十二度目に突いて出づる。謙信公旗本共に五備、此内、上田衆の頭にて、小城安芸守、長尾伊賀守二備は、後の虎口へ押廻す御旗本と、直江大和守・柴田因幡守三備は、先衆の後へ詰掛け、入替らんと静に懸る様子を、敵見て、群々になつて、城へ引く処を附入にして、外廓を乗破る。翌廿一日の昼、謙信公、備を引揚げ給ひて、城内へ和談の御口上は、謙信自身出馬を引請け、城を持こらふる心緒、大剛なり。まして日の中に十二度迄突いて出づる強儀、殊勝に候。因つて無事の繕を申入るゝなり。謙信を後楯に仕られ候はゞ、且は其方為と存するなり。謙信も当地の隙を早く明くる事、本意に候へども、一構も乗崩さず候はゞ、其方小賢しく弓箭を取らるゝに因つて、斯くの如しと批判を考へて、一塩付けての上に、和平申入るゝ事、弓矢の礼儀是迄なり。此上は降参然るべく候。左なくば、謙信旗本計りにて、即時に踏潰すべしとの御使なり。尾山城主忝く思ひ、兜を脱ぎ絃を弛べて降参す。是に因つて、人質を取つて、則ち尾山城を附与し、加州の大守として、一国の総職を預け置かる。頼純といふは此人なり。同二の廓に、鰺岡備中守を差副へらるゝは、此時の事なりと之を承る。右日の内、十二度の攻合に、彼の神保主殿十八歳、甘〔糟〕近江守手の検使に、大石播磨と両人行き、三度は一番に槍を入れ、五度は五度ながら、敵を討つて首を取る。其二度目組打つ時に、我が差物を敵に奪はれ候を、又押込みて、其敵を討つて差物を取返す。此〔節イ〕オープンアクセス NDLJP:169深手を負ひ、其後二度の攻合には、旗本へ帰つて手に合はず候。右落著以後、神保に御感状は、十度の攻合に十度合ひ、首尾三度は諸軍に抽んで槍を入れ、剰、高名八つ、其内二つは采拝首なり。超千強万剛之働、無類之誉也。謙信眼力無相違段、併以欣然莫大之至也との御文章、墨黒なるを頂戴致す。其時、主殿を改めて、神保軍八と書付け下され、之を仰渡さるゝは、大唐の武備に八陣あり。之を知つて用ふる則ば、国法・軍法共に、此理に泄るゝ事なし。即ち一心の神是なり。されども、其深理を得意して行ふ志なき故、弱人なり悪人なり。能く胃に落せば、心身明潔治乱常変の善悪を知る。陣は軍なれば、八陣を我が名に用ひ、常に忘れず懈らず、心を琢き身を修め、鍛錬の二字尤もなりと仰聞けらる。其以後、数度武勇を顕はし、天正五年、能州七尾の城にて、大剛の働討死して名を残す其軍八に、似られ候様にとの心なり。帰陣の節、景勝公へ呈上すべしと、舎人に申渡さるゝなり。

三好牛也といふ人は、三好京北義継の甥なり。義継の後、淪落して居られたるを、藤田能州呼んで客人分に仕置かれ候。此牛也、右の様子を聞かれ、即席に一詩を作り、舎人に賜はる。

  題徳象 三好牛也

夏天不熱不 目美紅顔猶足 軍取名誉四海 八陣威奮唯如

、吉の諱の事、藤田能登守信吉の一字を賜ひ、夏目新七郎定包を改めて、夏目軍八定吉と号す。天正十二年七月七日。十六歳の時なり。

第七、今度南佐渡衆、武道越度故、敗北に付きて、羽持三河守へ、藤田能登守申さるゝは、敵味方勝負は、互の運によると計りいふは、一編の批判なり。何れぞ一方、誤あつて負くるなり。其誤は我が心身の未熟より出づ。今度佐渡衆、藤田備の競を見て、手前の善悪をも顧みず、心驕つて変動して負くるは、未練故なり。兼ねて、藤田申渡す儀を違背故、検使後藤下知をも挙用せざるは、藤田を軽んじ思ふ故なり。藤田儀、如何様に存ぜられても苦しからず候へども、畢竟は、景勝公へ大不忠より、各〻敗軍して、藤田旗本へ崩れ懸り、越後勢共、後を取るぺき所に、藤田天運にて敵を押散らし、勝利を得たるは、全く能登守手柄にあらず、景勝公の威光故なり。後を取つて、藤田が名を汚しなば、景勝公威勢迄も失ふべし。其本は、南佐渡衆、屋形の為めを大事と存ぜざる故に候間、急度言上仕り、切腹申付くべしと申さる。羽オープンアクセス NDLJP:170持三河守の返答、今度の儀、我々の所為にあらず候。右の先手、某甥の本間三郎九郎内の小菅弥八郎・香西鹿之助といふ若者二騎、越後備勝利の競を見及び、進み出で候故、大野大和守下の足軽大将荻津甚蔵、之を見て此様子は、懸る作法と見えたるにひかへ過ぎ、三郎九郎に後れば、首尾に合ふまじと存じ、足軽を蹴立てゝ蒐る。其により、両備の面々、我れ劣らじと走出づる。頭々之を制し、某も後藤殿存ぜらるゝ如く、先手へ乗入れ之を制止し、後藤殿も其通に候故、備繰り候。敵、之を見て突懸り候故、備を立堅むる儀なりかね、利を失ひ候事、是非なく候。静に打合ひ一戦仕り候はゞ、勝利を得べきに、右両三人の者故、我等弓箭に瑾を付け、口惜しく存じ候間、早速右の者共を、成敗致すべく候へども、定めて、此御僉議の如く之あるべく候。其時、本人存命仕り置き候て、申分け仕るべき為めと存じ、急度預け置き候。少しも偽なき段、後藤殿存ぜらるゝ事に候と申す。藤田又申さるゝは、然らば、其方甥の三郎九郎大野大和守下の者共、下知を背くは、其士大将両人の誤なり。其両人の誤は、総大将三河守一人の科に究まる儀なり。何方にても、大将自身、手を下さず候へども、勝負は大将一人の名を呼ぶ事は、大将一心の覚悟を以て、国法・軍法定まるなれば、其罪遁れ難しと雖も、貴殿此度、先づ御味方申さるゝ忠義、扠一戦の砌、貴殿疎意なき由、後藤入道能く見届け候間、其通なり。扠又、三郎九郎・大和守両人儀は、他国一組の頭にても候へば、景勝公へ義を窺ひての上の事に仕るべく候。其下三人の者共は、論ずるに及ばず、是非成敗仕らるべしとて、即ち検使を遣し、小菅・香西は放打の成敗、荻沢は切腹なり。

 
二度、河原田へ働く事
 

第一、今度南佐渡衆、敗軍の様子を以て、北佐渡より羽持を手軽く存ずべく候。藤田帰陣に及び候はゞ、競の抜けたるを見て、取懸るべし。さあらば、受太刀になりて怯み付くべし。弱みを付けては、藤田渡海の甲斐なし。景勝公へ味方仕る南佐渡なれば、後迄も敵、手出を仕らざる様に、南佐渡衆に働かせて、敵を押詰め、怖気を付置くべしと評議して、南佐渡衆は、吉井城へ取懸り攻めらるべきなり。左候はゞ、河原田より後攻仕るべき間、其抑には藤田向ふべしと申され候。是に因つて、羽持三河守備手配は、新保城をば、大野衆を以て之を抑へ、片上をば、羽黒衆に本間三郎九郎を差副へ、之を抑ふべしと定むる。是故、本間三郎九オープンアクセス NDLJP:171郎・大野大和守両人儀を、越後物頭衆へ、佐渡衆頼みて、藤田へ詫言仕らる。此時藤田、様々申渡され之ありしを、佐渡衆固く許諾、御仕置の障に全く罷成るまじとの儀なり。それ故、当座の勘忍分にて、三河守備定の如くに申付けらる。本人は勿論、佐渡衆悦んで又恐るゝなり。扠藤田手前の備定は、先手田中日向守、諸備は武者奉行増毛但馬守を、仮の士大将に申付けられ、或は佐渡先方衆、物立ちたる各〻の兄弟・子息・伯父・甥の類を集めて三十騎、後藤新六入道に預けて、左の手先に之を備へ、五十里・沢根の敵城より、河原田へ後攻道筋の抑には、栗田永寿に、藤田持旗奉行の伊沢若狭守を、検使に添へて之を差遣し、佐渡備の検使に、此度は村松応閑〔〈斎脱カ〉〕藤田旗本飯田二右衛門尉を加へ之を遣す。其外手組分手配を定め、同七月十二日備を出す。南佐渡衆羽持三河守大将にて、鴻ノ川上の瀬を越え、吉井城へ取懸る。藤田は下の瀬を越え、河原田表へ向ふ。然るに、河原田人数を出さゞる故、其外の敵城、何れも勢を出さず、藤田采拝を取つて下知し、河原田城際近く迄相働き、少々弓鉄炮を放ち、静めて相待つ所に、河原田宿城より二百余突いて出で、虎口前を抑へたる藤田先手へ切懸る。此度も、夏目軍八、一番に槍を合せ、二番に斎藤源太左衛門槍を合せて、其敵を討取る。是に続いて、遠藤八左衛門・豊野伝介・北山・飯田を初めて高名をする。伊古田主計頭も、馬上にて敵を突臥せ高名す。藤田、備を脇へ廻し、敵の後を取切らんとする様子を、敵見て引入る所を、増毛采拝を取つて附入に仕る。敵、城内にて又備を立直す時、夏目軍八一番に押入り、敵の小反黒母衣金の半月を出しにしたる武名を討取るは、唯一人なり。藤田旗本を以て、先手を越えて攻合を初むる。佐藤一甫・赤田衆此二備を跡に残し、其外越後備、藤田旗本の鐘の相図を聞くや否や、寄口々々より乗込む。此衆の内にて、宿城一番乗は、後藤組佐渡衆の沢田弟本間蔵人なり。佐渡衆に越され□□□まじと煎つて二番に乗るは、組頭後藤新六なり。是に因つて、外廓の敵は、引入る。藤田旗本を以て、同じく附入りて、二の構難なく乗取る。二の構を一番に押込みたるは、藤田手明衆の内、柳田是非之助といふ若者なり。夫に続き候は、旗本足軽大将伊古田彦右衛門、我が組を率ゐて斯くの如し。爰にて河原田内の武者奉行本間健男といふ名高き士、一騎乗つて出で、我が味方の人数を踏繚め手早に引入れて、刎橋を曳かせ候武者振見事なり。夫より門を閉ぢ、屏櫓より弓鉄炮を射懸け打懸け仕り、重屏よりも段々に弓鉄炮を放ち、寄手ひるまば、突いて出でんとの事なり。然れども、越後勢其心得あつて、オープンアクセス NDLJP:172小楯・大楯・綿車柳・鉄皮合せの持楯等衝立て、二構の屏家等を打破つて、杙竹柱を取集めて、竹束にし、束の縄の口伝を以て、跡より之を持寄せ楯にする。之を越後弓矢言葉にて、集楯といふ。此集楯を備表へ持出し、三段或は車屏風三角などゝいふ物を、楯陰より押出し、それに竹束を持遣し、段々に付出す故、少の間に集まる竹束を付け固むるなり。是に付いて口伝。

第二、吉井城の敵、南佐渡衆を防がん為に、城より出で、鴻ノ川を隔てゝ、三手に分れて待備ふる。味方も三手に三分して、一二三段を定めて、川へ打入る。其三手は、

一、中の手は、羽持三河守備なり。敵之を越させじと、向の河端を固め居たるが、態と二三町退いて窕まる。三河守、之を幸として采拝を取り、味方を勇めて進み、那辺岸へ打上る。其先陣は宍戸源兵衛なり。其時、敵思ふ図は爰なりと、穂先を揃へて突いて蒐る。三河守、武功の将なる故に、乱るゝと見えても勢散らず、動静変化する故、敵小勢、進退度を失する様子なれば、味方各〻馬を入れ、乗破つて味方二の見に与へて、敵を多く射取らせて、悉く追崩す。

二、右の備先は沢田備なり。中の羽持備、川へ打入るを見ると、其儘川へ乗入る。敵之を見て河上へ引上る。味方之を見て、中の羽持勝色なる故、敵見崩するぞとて、一入勇んで渡す。少々は向の陸へ上り、過半は河中につかへたる節、敵横合に控へ懸つて半途を撃つ故、沢田衆、暫く利を失ひ河中へ追返さる。然る所、中の手羽持衆、当る敵を追払ひ、沢田衆に向ひたる敵の後へ切懸る。此様子を見て、敵の足本定まらずして、其勢悪しくなる故、河中の沢田衆、又突いて上り競ひ懸りて、忽ち勝利を得、少々追打つなり。

三、下の瀬味方左の備、敵は河端、味方は河中にて相争つて、雌雄決せざる内、右と中との二備、押崩され候を見て、敵、其場を捨て吉井城へ引退く故、味方競ひ之を追撃つ。以上敵の首数九十余、味方も雑兵共に、討死五十人許りなり。羽持下知して、吉井の在家に火を懸けて、城際迄取詰む。城より人数を出し防ぐと雖も、出丸一つ之を乗取つて、藤田へ註進は、最早是迄仕詰め候へば、容易く乗取るべく候へども、夜に入り候。夜攻に仕るべきやと、渋江造酒允並に村松応閑より、発地といふ士、右両使なり。藤田、河原田に構を乗取りたる時節なり。藤田より返答に、其表引払はるべしとて、相図は白紙を二つに断ちたるを使に渡し此許こゝもとの様子は、両使見定め候通と申して、使を還さる。扠又、敵よりの後オープンアクセス NDLJP:173攻を抑へ居たる味方へは、火を以て相図とする。河原田城二構の内に残りたる家、或は其辺の在家に、火を懸けさせて、其烟下を藤田引取る。敵、之を慕ふ能はず、其場を少々引揚げて、競の鬨を作り、勝利を示し、其まゝ吉井の方へ押向ひ、五六町此方に備を立つる。是は敵出でゝ、南佐渡衆を喰留め候はゞ、越後勢を以て、城を乗取るべしとの為なり。されども、敵出でざる故、備を引揚げ、猶残りたる民屋に放火して相退き候なり。

右の働に就いて、藤田より夏目軍八に感状左の如し。今に愚之を所持す。

去る七日、於河原田表本間佐渡守、励一戦稼刻、其方事一番槍、勝諸軍働之故、終得勝令本懐之条、

一、紺地白鳥井之差物。

一、吉之字。

一、名。

時之褒美許之処、又今十一日、河原田宿城攻破砌、於虎口前抽而合槍、則押込至立直際高名、右三ケ之威光不穢。一入之心懸、不双之走廻也。誰准之。併依感覚之候。入膳弥六左衛門尉一路并阿弥陀瀬郷令附与畢。弥〻後高名肝要也。猶可待上聞之期。仍感状如件。

 天正十二年甲申七月十一日 藤田信吉

   夏目軍八殿

此外感状与へ候衆有之候へども、之を写さず候。

前の感状、鳥居の居の字、井に書き候へと申され候。軍八は八陣の変名なり。之を常にして、其名に応ずべしと、其理を深く物語に候。

第三、右の已後も、敵地方々へ働き、城際近く焼払ひ、刈田片上城へ両度、新保へ両度なれども、敵出合はず候。同九月十五日、吉井城へ押寄せ、火矢を以て、外廓を焼き取り詰る所、吉井降を乞ひ、藤田羽持へ申越し候は、某元来、羽持殿の厚恩を得候間一味仕るべき儀に候へども、母を人質に河原田へ取られ候故、其儀に能はず候所、一昨日母病死仕り候。是に因りて、河原田方より、某弟と伯父の本間頼母を、人質替に越し候へと、催促を請け候。内々羽持殿と申合せ、越後への志之あり候を以て、明後日差遣すべしと、色々申し成し置き候。今日、オープンアクセス NDLJP:174尚地〔当山カ〕へ向ひ御働の儀、幸に候間、右の両人を、其方へ之を進め、以来御味方仕るべしとの事なり。藤田尤もとあつて、其人質を取り、其上、吉井并に一門家老迄、誓紙を取り、人質を一人宛之を取る。扠藤田申さるゝは、吉井へ河原田寄来り候はゞ、落城仕るべしと思ふは、吉井北佐渡の内にて、唯一人此方へ一味なり。河原田へ間二里許りにて程近し。此方は、鴻ノ川を阻てゝ、遠く後攻早速なり難し。後攻を請る内、城を持恐ぶる様にとて、宿城二構拵へ、南佐渡の人数五十騎に、羽黒・渋手両人を加勢に残し置きて、同廿日、藤田は沢田へ帰城仕られ、城普請の節、敵を抑ふる為めに、栗田治部両将に、南佐渡衆を差加へて、浮長柄の者、或は合戦を持たざる志の人歩等を残置きて、普請申付くるなり。

一、越後より御飛脚到著、景勝公御直書並に直江山城守・鉄上野介奉書、来月中越中へ、御進発の御催之ある間、藤田其地の仕置等、堅固に申付け、罷帰るべきの旨申来る故、九月晦日、沢田を立つて帰帆す。是に因つて、南佐渡衆へ、藤田感状を出し置く。其文言に、吉井城入手候事、各〻武功の誉勝げて計り難く候とあり。〈奥意あり。〉

河原田へ柴田加勢の梅津宗三も、翌日立ちて、柴田へ罷越すなり。

 
羽柴秀吉公より景勝公へ御使の事景勝公、越中へ御働き宮崎城攻落さるゝ事
 

第一、羽柴秀吉公、越後柏崎妙楽寺の御坊を御頼み、木村弥一右衛門を差副へ、景勝公へ無事の御取扱仰越さる。此妙楽寺は、日蓮宗の智識故、景勝公御懇になされ、御出陣の時、具足を著し、日蓮上人自筆の曼荼羅を差物にして供仕り、武道も、形の如く功者にて、斥候の見積仕られたる事、二三度なり。殊更弁舌明なる僧故、他国への御使任らるゝを以て、秀吉公よりも斯くの如し。景勝公思召さるゝは、謙信公切随へらるゝ国々、未だ五分一も、景勝公御手に属せざる所に、当時天下に猛威を振ふ秀吉へ、無事になり、其以後、右の国々を切取るとも、世間の唱に、景勝鋒先といはず、秀吉の太刀影を以て、斯くの如しと批判之あるべしとて、前方再三仰越されたりと雖も、其儀に応じ給はざる所、今年九月上旬、又木村を以て仰越さるゝ趣は、

一、内々申入るゝ通り、是非御同意給はるべく候。疑はしく思召し候はゞ、秀吉自身、其オープンアクセス NDLJP:175元へ罷越し候てなりとも申すべく候。無二に申合せたき心中に候とて、熊野牛王に、誓詞を認めて、差越され候。

二、御無事之なく候へば、北国筋の働如何に候。越中佐々内蔵助儀、信長の厚恩を受けながら、弔合戦にも罷上らず候。某、君敵の明智を誅罰せしめ候間、某に対しても、一応の礼儀之あるべきの所、其儀も之なく候。信長滅亡を却つて悦び、柴田・滝川と言合せ、己々が居館に引籠り、某をさみし申す事、法外人倫の道にあらず候。然れば、去年正月、滝川を悉く仕詰め、長島一城へ追込の刻、柴田、江州へ討つて出で候故、志豆ヶ岳へ馬を向け、一戦を遂げ勝利を得、直に越前北ノ庄迄追詰め、成敗仕る事、是も去年四月なり。偏に上を軽んじ、我が身の邪欲に引かされ、逆心の不義、天刑遁れ難く候て、斯くの如く候。佐々も同罪に候間、成敗致し候。自然隣国を便り、御加勢を乞ひ候とも、御同心之なき様に、一向に頼入り候由。

右の二ヶ条申来り候に付きて、景勝公仰せらるゝは、越中へ加勢の儀は、秀吉公より申送られも之なく候。去々年午の夏、魚津に於て、某家来自害仕る様子は、秀吉も聞及ばるべく候。其弔合戦に、早々越中へ相働くべきの所、信州へ出馬、自国柴田への働、今年佐渡への手道旁に附きて、遅々に及び、心外の至に候。越中は、謙信切取りたる国に候へば、景勝手柄に切随へたき願に候へども、佐々不義の様子、委しく仰越され候へば、秀吉の働を抑へ申すも如何なり。然れども、景勝が働を止め給ひ候へば、終に越中へ手遣なく、秀吉へ渡したりとの儀も、無念に候間、所詮此度、越中へ出馬せしめ、越後家の弓矢を、木村に見物させ、上方へ土産の物語にすべしと、仰せ聞けらるゝなり。

第二、藤田能登守、佐渡より帰陣、越中御出馬の御供仰付けられ候。其陣、藤田相備は、越後組松本・中城・斎藤・垣崎・新津なり。検使にて大石播磨守なり。諸備ともに、越後組を以て御備定。〈口伝。〉総軍八千、天正十二年十月廿三日、越中へ御出馬、名達へ移り浦和へ取付き、堕水より左の山手へ沿ひ、往還の切所をば、右に見て押し、廿六日巳刻、越中宮崎城へ取詰め、旗本は十町許り北の方、境川を前に当て牀几を居ゑられ、藤田備は東の山手を抑へ、河田軍兵衛備は、藤田備の後を通りて、南部尾井ノ庄迄焼働すべし。敵、他国勢の深働、然も小勢なりとて、定めて見慢り、驕つて人数を出すべし。然らば、たふと偽り引き、手強く一戦すべオープンアクセス NDLJP:176し。さあらば、敵城より加勢をするか、引取るか。二つの内なるべし。引取らば付入るべし。加勢せば、藤田備を以て、城を乗取るべしと相定めらる。然るに、河田軍兵衛備の検使には、大石源之允を差副へられ、千二百余の人数にて、宮崎の東の山を越えて、南部尾井ノ庄へ相働く所、敵、益木中務を本丸に残し、三輪権平采拝を取つて、八百許りの人数にて、突いて出で、河田備へ懸る。河田、七百の人数を以て、三段に備を立て、五百余を山手へ附けて隠し置き、河田は越中勢と取結んで偽り引く故、越中勢勝に乗じ、入替り進み戦ふ所、山手に隠し置きたる越後勢、越中勢の後に廻つて、三輪権平が旗本へ切懸る。越中勢も物馴れたる者共なれば、両方へ人数を分けて、戦はんとすれども、聚散離合の処、思ふ様になり兼ねけるにや、備色群々に見ゆる。其節を外さじと、河田軍兵衛、采拝を取つて下知し、権平が備へ突いて懸り戦ふ内、河田軍兵衛と、三輪権平と互に馬上にて渡合ひ、一終に権平を突落して首を取らする。此故に、其備の下々敗北す。脇へ逃散るをば捨て、城へ引取る敵を追詰め、附入にして、二の曲輪迄乗移る。藤田抑へ居たる場と、一戦の場、或は搦手の虎口とは、間に山多くあつて、其様子見えざるを以て、城より人数を出すか。一戦の様子も如何と知るべき為めに、藤田相備の新津丹波を、南山へ上せて、太鼓を以て知らする。〈口伝。〉如然れば軍兵衛、敵城二の廓迄、乗入りたる様子を聞きて、藤田衆煎つて、本丸を乗〔〈取脱カ〉〕らんと相催す所に、河田備の検使大石源之允、本道を帰り候へば、二里余之ある故に、敵の囲の内、海涯を伝ひ、或は海へ乗入り、或は陸へ乗上げて、廿町許りの道を、すみやかに乗付けて、旗本へ帰り、此旨を言上す。河田人数、草臥れ手負も多く候間、御人数を入替へられ然るべしと、申上ぐる故、藤田人数にて入替はるべし。早黄昏に及ぶ。明朝、本丸をば乗取り候へと、仰付けらるゝを以て、藤田備衆弥〻悦び、抑の場を去れば、其跡を早や安田上総、之を請取る。藤田一手、二の丸へ入れば、河田一手を繰出し、斯くの如く段々に入れ替はる。今度の働、河田軍兵衛名誉なり。御帰陣以後、越後に於て、御感状御引出物、多く之を下さる。

此城代益木中務は、元来よりの越中士にて、一年謙信公へも、楯を衝きたる武功の士大将なり。越中衆、悉く謙信公の幕下に属すと雖も、此益木計り意地を立てゝ、高岡の城を持ち渡さず候。謙信公、却つて奇特に思召し候。益木娘を、同国立山の側に隠置きたるを尋ね出し給ひ、種々中務方へ御断を仰入れられ、吉江喜四郎が妻に、之を遣さる。之を以て、益木降参オープンアクセス NDLJP:177仕り、御幕下に属し候所、去る天正十年、越中騒乱に、老母を佐々内蔵助に奪はれて、是非なく佐々に随心仕りて斯くの如し。吉江喜四郎討死の後、其後室を、藤田能登守に下さる故、件の様子を、藤田申上げ一命を詫び申すに付きて、景勝公聞召し届けられ、益木命を御助けあつて、之を送り遣さる。其夜、城を請取り、景勝公、御陣を移され候。翌日藤田・安田・泉沢三備を以て、黒部四十八ヶ瀬を越えて、佐々内蔵助居城の戸山の此方、滑川迄焼働して、其燃跡に陣取り、翌廿九日、宮崎へ引返すと雖も、佐々身構許りにて、中々出づる事ならず候。其より景勝公、御馬を納れられ、秀吉公への御返事に、木村弥市右衛門見物の如く、越中表へ働き仕詰め候。何時佐々を踏潰し申すべきも、案の内にて候へども、御断御望に候間、秀吉御働あるべく候。無事の儀は、分別せしめ、追て返答申入るべく候と仰遣はされ、木村弥市右衛門帰られ候なり。

 右越中御働の時、夏目舎人も、藤田備の内に罷在り候故、委しく存知候。疑なき事共なり。

 
管窺武鑑中之中第五巻 舎諺集
 
 

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