管窺武鑑/中之上第四巻

 
 
 

 
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管窺武鑑中之上第四巻 舎諺集
 
 
 
軍配の事
 

愚父舎人助定吉、ある時、某にいふ軍配必ず用ふべからず。亦用ひずんばあるべからず。軍配を廃すれば利を得、軍配を用ふれば利を得。異朝・本朝古今名将皆然り。謙信公旗本の武者奉行二人の内、宇野民部少輔兼晴入道鴻松軒といふ勇功の士、軍配者なり。世に流布の軍配とは、違つて実なり。実といふに口伝あり。藤田能登守信吉、之を伝へられたるを、能州より某伝へたり。今、汝に授くべしとて、某定房に、一巻の書を授けられたり。奥儀秘書なる故、此〔五イ〕巻未書天人地三品の書に之を記す。図に書して、口伝するものなり。

右宇野民部少輔兼晴は、壮年より婬肉を断じて、鴻松軒になり候故、子もなきに付き、家老益田新右衛門に、軍配を残らず伝へて、景勝公へ出す。景勝公仰せらるゝは、年寄り魚鳥喰はず、津液枯渇気力労衰しては如何なり。一日も存命なれば、我が家の為めなり。最早、軍配をも伝授仕りたる間、精進を落せよと仰せらる。鴻松軒、堅く辞し申しけれども、たつて仰せらるゝ故、精進を落さるゝなり。頃年迄、上杉家の益田民部は、益田新右衛門壻名跡なり。新右衛門より軍配を伝授せり。右の伝、天は子に開け、地は丑に闢け、人は寅に生ずるに基いて、子より生じ巳に終るを陽とし、午より亥に終るを陰とす。丑は二陽の地にて午を含み、方角の吉凶を見るに子寅の維にて、土なり山なり地の象なり。未は二陰にて子を含み月の善悪を占ふ。寅は陰陽相対未に通ずるの二陰、申は陽陰相対丑に達するの二陽、兼ねて日時と方角との吉凶を考ふるなり。是を以て乾坤陰陽の旺年生月を考ふる者は天なり。月日時を育する者は地なり。日時事物者人なり。能く知りて疑はざれば利ならざるなきなり。

 
柴田因幡守逆心の事
 

第一、井地峯勘五郎とて、謙信公御座を直したる者あり。三条城主山吉玄蕃死して、跡断えたる故、三条城代に、植田坂戸山城主甘〔糟〕近江守を差置かる。然るに、謙信公御逝去の時、御オープンアクセス NDLJP:118遺言に、山吉が一跡を勘五郎に下さる。謙信公御逝去なされて、其儘勘五郎薙髪して、道寿斎と改むるなり。

第二、三条城附六十二騎の与力あり。謙信公御逝去頓てより御館乱出来騒動故に、井地峯勘五郎に、山吉が一跡仰付けらるゝ儀、遅々の内、彼の勘五郎に、柴口因幡守恋慕ひ密通す。景勝公聞召され、両人共に不義に思召しけれども、国のさたちならんとて、御怒を抑へ仰出でられず、山吉が跡職も弥〻御延引なり。然る所、天正九年の冬、柴田因幡守、彼の道寿斎に申すは、山吉跡職程の所は、我等手柄を以て、其方に取らすべしと語らひて、因幡守、人質に置きたる我が母を盗み出づべき様之なき故、母を捨てゝ、夜中に春日山を立退き、我が領知蒲原郡柴田城に楯籠る。道寿斎をば井地峯城に籠め、池の端には因幡被官池端鴨之助を入置き、新潟・乗足〔沼垂〕にも城を取立て、新潟には伯父の柴田刑部左衛門、乗足には武者善兵衛を籠め、謀反の色を立つる。

景勝公、柴田か母を御成敗なされざる所、翌天正十年の秋、信州より御帰陣の節、直に柴田御発向なさるべき為め、越府御逗留の時、柴田が母、舌を喰切つて死に候は、幾程もなき命を永らへ、如何様の憂目にかあはん。又は子の因幡も、母の苦を見ば、猛心も弱みて、勇気の障にもなるべしとて、斯くの如し。鉄上野守、窃に景勝公へを得て、死したるを隠し、諸人見懲の為めに、生首を取り挽くとの義なりとて、越府の往還の岐に於て斯くの如し。〈口伝。〉

第三、柴田より半道余東に梶城あり。城主梶右京進は、春日山に居て、留守居許り少々之あり。井地峯道寿斎押寄せ、同年極月十九日の夜、忍入りて之を乗取る。常々案内は能く知り、其上、柴田逆心の事、梶の留守居未だ知らず、不意に寄せられたる故斯くの如し。道寿、其辺の地下人の人質を取り、百姓の内にて能き者を選み、一両人仮の将に申付け、城に百姓共を籠置きて、耕作をさせ、寄居の取出と名付置くなり。〈越後家武者詞なり〉

第四、柴田、我が持の今泉といふ所にも、取出を搔揚げて、是も寄居の取出に仕置くなり。

第五、其年は月迫、殊に例に勝れ深雪故、御手遣なく、近辺の士に抑の儀を仰付けられ、明春、雪消早々、御出馬ありて、柴田・伊地峯御成敗なさるべしと相究められ候所、翌年の春、信長衆働く故に、柴田・井地峯への御手遣御延引なり。
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景勝公、越中国魚津城後攻の事
 

第一、天正十年壬午、三月十一日、織田信長公、甲州武田勝頼公を攻め亡して、勝頼公の郡国を裂割けらる。是より先天正六年、謙信公逝去を聞いて、信長早国分は、越前は柴田修理勝家、加賀は佐久間玄蕃、能登は前田又左衛門利家、越中は佐々内蔵助成政、此外にも多し。手柄次第に切取るべしとあり。右の通故、武田滅却の砌、柴田修理、越後へ望をかけ、信長の侍大将、関東に留りたる面々相談は、甲州家の譜代新参の者共、定めて上杉景勝か、北条氏政へ頼附くべし。上杉は、隣国にて殊に景勝強将なれば、大方越後へ随ふべし。景勝をさへ攻め亡さば、余国は、手間取るまじと存じ候。然る間、佐々と柴田とは、越中より働入り、森勝蔵は、信濃より太田切口へ働き、滝川は甥の義太夫、沼田より三国峠へ懸り働入るべし。然れば、景勝、此口々へ手配すべしと雖も、被官の柴田因幡守逆心し、阿雅・北二郡の内、蒲原郡は、過半因幡領地にて取りしくなれば、瀬波の者も、大方景勝を見放つべし。一方勝利を得るならば、二二方共に利を得べく、景勝減せば、信濃・上野はいふに及ばず、能登・加賀・越中迄も、治るべしと相談して、諸方より近々働入るとの註進ある故、景勝公、柴田への御働を、先づ閣かれ、信長衆へ向ふ手組半分を仰付けらる。

、越中板倉城主河田豊前・同奥津城主吉江織部、其外、戸山・末盛、此四城へ加勢として、越後築地の中条越前守・同長島城主吉江喜四郎、並に寺島六蔵・吉江常陸入道・竹股三河守・三本寺貞次郎等、彼此大小の物頭十三人之を遣さる。〈附、貞次は、頃年伊達政宗の所に罷在る中条帯刀が事なり〉

、滝川義太夫抑、志水城主長尾伊賀守・樺津城主栗林肥前守に、萩の松本左馬助・高橋修理等差加へて、三国峠にて相支ふ。〈三国峠といふは、上信越の堺なり。〉

、森勝蔵長可抑、苅瀬城主安田総八郎・〈附総八郎死後、其跡を舎弟の弥九郎に給はり、上総守になされ、七手組の頭を仰付けられ、後迄斯くの如し、〉黒滝の山岸右衛門・菅野升坂刑部・垣崎弥次郎・〈附、是は謙信公御先を仕りたる士大将垣崎和泉守の子なり、〉安田筑前守を初め、各〻斯くの如し。右の検使として、旗本より新津丹波守を差副へられ、此衆、信越の堺太田切・小田切口に待ち是に備ふ。

、越国、柴田・井地峯・池端・新潟・乗足の抑、

阿雅・北二郡の内、蒲原郡衆には、篠岡の酒井新左衛門・下条采女助・杉原の左近・安田の城衆・オープンアクセス NDLJP:120同瀬波衆には、村上の本条越前・色部の修理・相州の治部少輔・黒川の左馬助・竹俣の三河守留守居、或は築地・薩摩等差副へて斯くの如し。

扨又、古志郡にて、護摩堂の宮島三河・天神山の佐藤平左衛門尉・頸城郡にては、雷の丸田周防守、斯様の衆は、蒲原郡近辺故、各〻居城々々に之を差置かるゝか。又は留守を丈夫に残して、御供に出づるも之あり。彼此の人数を引いて、景勝公旗本は、漸く四千に足らず。三条城代甘数近江守は老人、殊に謙信公の御先を仕り、数度の武功名誉の士大将故、総大将代仰付けられ、御供を御免、御跡を堅固に仕置く故の役なり。春日山御留守居は、鉄上野介なり。 〈附、此上野介子なき故、此後島倉吉蔵といふ若者を、景勝公御見立て、上野名跡に仰付けらる。後鉄孫左衛門と改むる是なり。〉

第二、越中表柴田修理亮を大将として、佐々内蔵助・前田又左衛門・佐久間玄蕃・徳山五兵衛・柴田伊賀守等牒じ合せ四万八千の人数、越中へ討入ると聞えければ、越後衆評議は、敵は大軍、味方は小勢、四の城へ籠りては、一城の人数雑兵共に、千五百の内外なれば、防戦なり難く、景勝公の後攻も、旗本小勢なれば、四城へはなるまじ。然れば、戸山・末盛両城は捨て、魚津一城を堅く守りて、敵を越後へ入れざる様に然るべし。松倉城をば抱へ見るべし。敵に人数を分けさせては、景勝公、魚津後攻の便にもなるべし。それもならずば、松倉城をも捨て、河田豊前守も、魚津へ籠るべし。敵は他国勢、味方は所の案内能く知る事なれば、日数を送る程、敵は人馬疲れ、味方は後攻を請けて、両方より切つて懸らば、勝利を得べしと談合決定す。

敵柴田・佐々、三月下旬、越中に討入り、戸山には佐々人数を残置く。是れは景勝後攻の時の為めなり。扨四月八日より、魚津・松倉両城へ取寄せて之を攻むと雖も、事ともせず、十日の夜、吉江喜四郎突いて出で、敵二百余之を討取る。中に柴田が従弟の柴田右近を、喜四郎内の長島宮内、之を討つ。斯くの如き故、柴田・佐々河〔曲イ〕を攻め、遠く引退いて、大軍の猛威を示す。味方是に恐れず出戦ひ、又退き夜込などして、敵に塩を付くる。然れども、敵大軍なる故、少しも弱る気なく、城兵を屈伏させ、其後、攻め破るべしとの工夫なりと見ゆる。此由、景勝公知召さると雖も、諸方御手遣に隙なくして、後攻遅々に及び、魚津城漸く難儀なりと聞き給ひ、先づ手合として、能登の畠山、〈其頃は上条五郎といふ〉同国朝倉、或は遊佐家中の両三宅・温井等、越後衆には赤田の斎藤三郎右衛門、〈其時は下野守河田軍兵衛、〉扨又越後・越中の堺宮崎城主不動山城守等をオープンアクセス NDLJP:121差遣はさる。其前、越中表へ御飛脚を以て、魚津加勢に遣されたる衆へ、景勝公より御状賜はる。其写、

其表、敵、今に長陣の由、辛労心尽、中々痛入り候。各〻心中程思やり、心も心ならず候。随心の衆たてこもられ候故、城中無恙之由、勿論左様に可之と察し候。織部父子三人・喜四郎事は、既に謙信御芳志御眼力を、跡にけがさず候間、此度の儀不珍候。長与次も、謙信公介抱の者に候間、尤も其恥を可思候若林蓼沼事は、旗本のさ手に候間、是非無申事候。石田事、何れも兄弟共に及聞候といひ、此度、旗本に召使候上は、其しるし可之と思詰め候。安部事は不沙汰候。藤丸事は、於加州覚の者に候間、是又無是非候。亀田事は、若者之事に候間、定而一かど可稼候。三河守先年の一乱にも、無二に候き。其上、年頃といひ無申事候。三本寺事、名字といひ其身若きといひ、代々弓箭之家に候間、此時、定而是非と可思候。旁かゝるおもひもなき事は有間敷候。将又、信州へ仕置隙明候間、此節令出馬、北国弓矢之手附、是非々々依之為先勢、能州朝倉、遊佐家中両三宅・温井 に上条五郎・斎藤下野守・河田軍兵衛・不動山城・堺之城主、何れも差越候間、能州衆打立候を、彼の飛脚見届候間、可才覚候。出馬は三日可跡候。出馬なき以前、まつくら其他重而差越人数と合口□□□肝要に候。目出度於其表申候。謹言。

 天正十年卯月十三日   景勝

中条越前守殿
寺島六蔵殿
吉江喜四郎殿
亀田小三郎殿
藤九新介殿
安部右衛門殿
小本寺松蔵殿
竹俣三河守殿
桑沼掃部殿
若林九郎左衛門殿
石田采女正殿
長与次殿
吉江常陸入道殿
、此十三人は、敵、越中へ入ると聞召し、越後より魚津城へ、加勢に遣置かれたる衆なり。
、御書面能州衆・越後衆へ、此飛脚より跡に打立つ。是魚津後攻として、或は旗本先勢として差遣すなり。
、此御状の時迄は、河田豊前守父子同心被官共に、松倉籠城、後に敵を追散し、魚津へ被籠らるゝ也。以上。

オープンアクセス NDLJP:122魚津籠城衆は、此様子を聞きて各〻競ひ、敵は之を聞きて恐る。然れども、今更、引取るべきにあらざれば、楯・竹束を以て繰寄せ、城の虎口前寄衆の陣場手薄き所には、蒺藜を蒔き柵を振り、城より働出づる事、ならざる様に仕る故、尤も攻め懸くる事もならず、食攻の様子は、越後家弓箭の手柄なり。味方は魚津・松倉の人数、三千余四千足らず。敵は四万八千、信長家随一の士大将各〻取囲む。総じて城攻は、一人を五人に当つる大法なるに、是は三倍して、一人に十二人に当る。雅攻がぜめにもなるべく、小城を攻めかね、柵・虎落を附くる事、越後家を恐怖する故なり。然る所、景勝公の先勢は、向ひたる能州衆、四月十六日、宮崎迄著いて、後攻の手首尾の為めに、上方の敵と一戦を遂げ、首級三百六十余、之を討取りて、春日山に之を註進す。扨又、河田豊前守は、敵、松倉城へは取懸らずして、五千許り抑を置いて、直に魚津へ取懸る。是は魚津をさへ攻め落しなば、何時迄も、松倉には抑を置き、又は戸山にも人数を残す。然れば、河田を働かせずして、越後へ討入るべしとの事なり河田存ずるは、敵大軍なれば、少しの人数を抑として、此方へ向ひたりとて、敵勢さのみに弱りにもならず、味方の強みにもならず、憖に、我れ此城を守りて詮なし。後攻の越後衆に加はり、一戦を遂げ、若し勝利を得ずば、討死すべしと思究め、城を払つて突いて出で、抑の敵と攻合を初め、勝を得敵を追散らし、山続を通りて宮崎に至り、上条五郎と一つになる。河田無類の働なり。扨又、越後衆、河田豊前と相談して、同廿一日、上方衆の陣場へ相懸る。敵討つて出で戦ふ。味方、八備に作り武略能く仕る故、是又勝利にて、敵の陣馬涯ぢんばぎは迄追撃つと雖も、小勢なれば制止して、備を立堅むる。河田は、前方より味方右の方の敵を請取り、一戦して敵を追立て、敵、味方を脇に見捨て逃ぐる敵に追並び、前田又左衛門陣場へ指して追入れ、其陣場をも討破つて、南方の虎口より、魚津城へ難なく入るなり。上方衆、越後家の弓矢斯くの如きの様子を見て、景勝自身出馬ならば、一入手強なるべしとて、陣取の外に、土居を築き、堀を掘り、柵をつけ櫓を構へ井楼を組揚げ、悉皆籠城の如く仕る。是れ柴田修理、分別を以て斯くの如きなりといへり。

第三、景勝公、伊田城主直江山城守を一の先とし、旗本を二の見と定め、漸く三千許りの人オープンアクセス NDLJP:123数にて、魚津後攻として、四月廿日、春日山御発駕、名達・浦本・〔鬼イ〕伏へ懸り、親不知子不知を右に見て、宮崎の上の山に伝ひ、越中の天神山迄、飛脚道二日の所、難所故、四日に押して、廿三日に御著陣、天神山より大岩寺野迄取続けて陣取り、成願寺川を前に当てゝ、備へ給ふ。然れども、佐々・柴田、陣場に堅く籠り居る故、懸つて戦はんとすれば、城攻の如く、殊に景勝公、小勢なる故控へ給ひ、五十騎余・足軽五十許り、足手健なるをすぐり召連れられて、大斥候に出で給ひ、敵陣近く押寄せ、鉄炮を打懸けさせ給へども、敵一円に出でざる故、若き者共、堀水を吸み馬を洗ひ引返す。四月廿九日の事なり。五月十三日、景勝公より倉田佐五允・長尾加賀守を、敵方へ使に遣はさるゝは、景勝、後攻に来り候へども、各〻籠城の如く堅固の陣取、せがれの景勝を気遣ひての儀にては、全くあるまじ。討出で一戦を遂げらるべきや但し城を攻めらるべきや、返答次第景勝も、相応の働仕るべしと仰遣はさる。両使、敵の陣場近く行きて、矢文を以ていひ入る。敵、城より返事に、此方よりは出でて一戦も仕るまじ。城をも攻むまじ。御てだては、其元御勝手次第なりと、取合はざる返事なり。両使、弥〻堀近く乗寄せ、敵の様子を見分する時、景勝公より差副へられたる若手士廿五人も、同様に乗寄する。敵より弓鉄炮を打立て候へども、少しも騒がず、心静かに見定め候所に、佐五允、馬を打たれ落馬仕る。敵より之を討取らんと、三十騎許り突いて出づる。佐五允、起直つて真先に進んで槍を合する。残る衆、馬を以て敵十四五人乗倒し、六七人切捨つる。敵方より又味方を助けて、廿人許り突いて出づる。追入れ追出し三度攻合之あり。先手の足軽大将丸田伊豆、五十の足軽を二手に分け、敵の右へ詰寄する下条采女に、佐口伝兵衛差副へ、二の見として備を立堅むる。扨又、本松外記之〔助イ〕敵門の内へ一番に押込み、佐々内、覚の者井筒隼人を討取る。井筒が弟刑部といふ忰、兄を助けて外記を討つ。越後衆の名山太郎兵衛押込みて、其場は去らせずして、刑部を討つて、本松が首と矯り持隠して帰る。越後衆も、本松共に三人討死仕ると雖も、何れも首を矯て帰るに、敵より跡を慕はずして、此方の退くを幸と、喜んで門を閉づるなり。

右の攻合に付いて、御感状両通之写、

今度至越中表、信長方陣取の外構土手際へ押詰、迫合の時、於虎口前一番に合槍、剰、其仕様宣之故、終に得勝利を事、悉皆其方在于武功。名誉之働難勝計候。仍感状如件。

オープンアクセス NDLJP:124  天正十年   五月十五日 景勝

 倉田佐五允殿

今度至越中表、信長方陣取之外構土手際へ押詰、迫合の刻、不于本松外記之助、門内へ押込令高名、殊矯本松首而、敵に不取之。其武勇、最以神妙之至也。依之御感状如件。

  天正十年   五月十五日奉 直江山城守

 是は御旗本維也

 ​是は御旗本維也​​名山太郎兵衛とのへ​

長尾加賀守も、御感状頂戴、其外にも之ありと承及び候へども、写し求めず候。

第四、敵方今迄の構を、外に又二重取出し、堀を掘り土手を築き、屏を掛け人数を配り、用心を堅固に仕る。信長方は四万八千余の大軍、味方は城兵と後攻と共に、九千に足らぬ小勢、殊に当春、武田を押潰し、武威甚しくして、北条家も頭を傾け、奥州迄も一遍なるべき。上方西国は、元来天下支配の信長なり。景勝は、越後一国なり。剰、家来の柴田因幡逆心にて、未だ治まらぬ内といひ、廿八歳の若大将なるに、斯くの如く敵の恐るゝ事は、謙信公の威風残りて斯くの如し。扨景勝公は、五月廿五日の朝、天神山に甘〔糟〕備後〈後に期仙城主〉に、人数百余差添へ残置かれ、山々に旗の様子、〈口伝、〉直江を先鋒とし、旗本を二の見として、敵の構へ取懸らる。柴田修理は、各〻の出づる事無用と制止めたるに、佐々・前田・佐久間・徳山・柴田・伊賀、堀際へ出張するを、直江に切捲られ、流石の佐々なども、菅笠三蓋の小纒をぬきて、逃入りて門を閉づ。直江、采配を采つて、猶予なく追懸けて、敵の陣取る一の構乗敗る。此堀涯一戦の時、一番槍本多弥兵衛なり。二番槍は之なき様子、〈口伝〉魚津籠城の衆も、味方の相図を受けて、突いて出で候へども、敵方陳場土居・堀・屏・虎口前には、蒺藜・逆茂木ある故、味方働不自由の所、景勝公、直江備をば同勢に控へさせ、旗本を以て、敵方の二の構を難なく乗崩し給ふ。此時、敵方端々小荷駄を附けて、逃支度仕たりと、翌年柴田伊賀が被官外地甚五左衛門といふ者、直江山城守所へ奉公に罷出で、後々使番仕り居り候。此者の物語を、愚父も承りたる由申し候。扨斯くの如くなれども、味方小軍にて、二の構迄乗移る程の働故、手負死人も多く、諸勢草臥れ、城兵は出で候へども、敵陣場城攻の如くにて、首尾合はする事ならざるに付いて、二の構の敵小屋に、火を懸けさせて引揚げられ候。討取る首級七百五十三、堀涯に懸並べさせ、勝オープンアクセス NDLJP:125鬨を揚げられて、天神山へ御馬を入れらる。味方にも討死三百余、其内武功の士大将斎藤下野守・足軽大将本郷金七討死なり。敵佐々内、三十騎の組頭蒲田主税を、旗本組の夏目宮内之を討取る。其外宇野・中村・笠岡・倉本・伊丹右京などとて、名ある者多く味方へ討取るなり。然れども、敵を追払はず、残念に思召す。是れ柴田修理工夫にて、堀構堅固の故なり。

 此時、直江内にて一番乗原田監内、二の構の一番乗、旗本生駒右馬助なり。

右の働に付いて御感状の写

今度於越中表、抱之城為後攻馬之刻、数万之信長勢、味方雖小勢景勝威風、陣所の外、三重四重構土手堀・屏・矢倉而悉皆又籠城之為体也。然る所へ押詰、欲後攻一戦之本意之砌、やさしくも、佐々、備を繰出し、至土手涯防戦覚悟の時、其方、対于彼等武略宜無類之働故、悉く踏敷き、即取懸而一構乗崩し、敵徒数多討取之、因其余猛、以旗本二構迄無難乗移得勝利事、偏に其方在于采拝。武運名誉之至、難勝計_之矣。表時之吉例太刀一腰・〈長光〉馬一足黒〈会津黒〉贈進候。弥〻相備面々に加相談、至下下賞罰尤無私、以後忠義肝要に候。猶帰陣之節、一廉恩禄可報謝者也。仍状如件。

  天正十壬午   五月廿六日 景勝

 直江山城守殿へ

今度至越中表馬数万合遣之信長勢、陣取之場所へ押詰、踏破之時、敵少出土手際防戦刻、其方一番槍勝諸軍働、甚以勇健之至也。仍感状如件。

  天正十年   五月廿七日 景勝

 本多弥兵衛とのへ〈是は直江相備梶衆なり〉

今度至越中表、令向数万之信長勢陣取之場所へ押詰、踏崩之砌、其方於二之構一番乗、其誉無隠、尤神妙之至也。依之感状如件。

  天正十年   五月廿七日 景勝

 生駒右馬助とのへ〈是は旗本衆なり〉

今度至越中表、令馬数万之信長勢、陣取之場所へ押懸、踏崩之砌、其方外構之一番乗、勝諸手働甚以神妙之至也。依之感状如件。

  天正十年   五月廿七日 景勝

オープンアクセス NDLJP:126 石田監内とのへ〈是は直江衆なり〉

今度至越中表、被御出馬数万之信長勢陣取の場所へ押懸け、踏破之刻、其方於二之構之内、蒲田主税討取之、莫大之働、因感被思召之状如件。

  天正十年   五月廿七日奉 大石播磨守友直

    夏目宮内とのへ〈是は旗本衆なり〉

此外、御感状頂戴の衆之ある由、承り候へども、之を写し求めず。

第五、大田切・小田切口へ向ふ敵森勝蔵、信州の高坂源五郎・六田・蘆田・小笠原を初め、彼此相催して、二万三千許りにて働来り、五月廿八日、大田切の彼方に著陣し、廿九日巳刻取懸る。敵八千、味方二千五百、大田切を隔てゝ相戦ふ。味方の右は明高山、左は喜佗川、敵六七千宛、二手に分れて廻り来る。味方も千五百宛手分して向戦ふ。三方の敵味方、未刻迄二時許りの戦に、味方討死二百六十許り、敵を討取る数は、四百有余なり。大切所の地にて、敵味方共に、働自由ならざる故に、其日は互に引取るなり。此時、越後衆評議に、敵、明日も今日の如く働くべきは必定なり。さあらば、敵は大軍にて新手入替るべし。味方は小軍、今日残らず働いて疲れ、援兵もなければ一戦危し。今夜、関の山迄引取りて、加勢を乞ひ、以後の勝利の工夫然るべしとて、其夜、関の山迄引退く。然る所に、三条城代甘〔糟〕近江守、諸方を気遣ひ、味方の弱き方へ加勢をすべしとて、春日山へ来り居て、大田切の様子を聞き、八百の兵を率し、春日山より押向ふ所に、味方早大田切を引き、関の山に陣取る故、甘〔糟〕、大田切表の一戦の様子を聞き、明日、敵取懸るべきは必定なり。今日の戦に各〻罷りぬらん間、明日の軍初は、某仕るべし。各〻は二の見を仕るべし。其に付いて一武略仕るべしとて、敵方へ申送る。

、景勝、越中表に於て勝利を得、今夜関の山迄著陣せしめ候。然れば家来の者共、大田切に引取る事、無念に候。今日の一戦、自他共に草臥れ候と雖も、其方は大軍なれば、新手の人数多かるべく候。当方越中出陣の者は、身倦ましめ候故、当所へ召連れず残置き候。春日山留守の兵共、又甘〔糟〕近江守等を召連れ候。此者共、諸方の手に合はず無念に存じ候所、此度の儀、本望是非一戦と希ひ候。殊に景勝自身、是迄罷出で候上は、必ず明日一戦を遂ぐべく候と、高札に書いて、関川の町に立てさせ、押来る敵の先手功者にて、此札を取捨つる事もあるべし。頼もしき士三人に申付け、敵森勝蔵が旗本、或は二の手の士大将各〻へ、使となり自オープンアクセス NDLJP:127身持行くべしと申付け、一両通書付渡し、敵軍行の辺へ隠し置き候。〈口伝。〉

、甘〔糟〕近江守、半途迄人数を出し、旗を伏せ隠れ居て待備ふる。

、味方、続の山々に紙旗、其手々々の紋を画き、雑人に持たせ、十五人に一人宛の小頭を付け隠置き、相図次第に押立て候へと申付くる。

、敵の寄来る道筋山々へ、目付を遣し、段々に隠置き、敵の様子、註進をせよとて遣し置く。右の通、内談備定して相待つ所、案の如く翌六月朔日早旦、上方衆進来り、越後方の引取りたるを悦んで押来る処、関川の町に立てたる高札を見て、驚き相談す。景勝自身の加勢といひ、留守に残したる者共を召連れられ、今度の騒乱に、諸方へ手遣あれば、手に合はざる者はあるまじけれは、留守に残りたる者は、此筋へ向ふを幸なりと、戦功を一入励むべき義なり。昨日働きたる者共、力を得て、加勢と働を争ふべし。景勝、越中にて勝利を得、味方はおくれの由なれば、彼我の強弱各別なり。然れば、昨日の一戦にて、敵引きたるを、此方の勝利にして、大田切・小田切へ引取り、切所せつしよを構へて、備へ然るべしと一決して、備を繰引き候へども、大軍なれば備騒立つ。甘〔糟〕、此様子を見て相図の旗を押立て太鼓を打つて押向ふ。敵弥〻騒ぐ所に、山々の旗を一度に押立て、貝太鼓を合せ鬨を作懸け、弓鉄炮を放つて、勇壮なる体を、勝蔵先手見崩みくづれして、二の手へ崩れ懸る故、総軍も乱立つて、跡をも見ず引く所を、上道一里半許り、大田切迄追討ち、首級雑兵共に、二千六百余之を討取る。或は関川に押流され、或は谷涯へ倒落ちて、死にたるもの数を知らず。味方は〈[#「は」は底本では「ほ」]〉手早に関川迄引取る。悉皆甘〔糟〕近江守武術故なり。景勝公、御褒美限なく、御感状御加恩多く給はる。御感状写し求めず候。

第六、太田切廿九日一戦、味方関山迄引退き候様子、六月朔日の夜註進を、景勝公、越中に於て聞召され、同二日、越中表を閣き御馬を納れられ候。是は味方、関山へ引退きたれば、敵競進み、関山までも味方勝利を失ふべし。然れば、勝蔵、春日山まで働入るべしとの御気遣にて、斯くの如し。是に因つて、魚津の寄手佐々・柴田悦び、城中へ申入るゝは、景勝、今朝当表御引払ひ候儀、森勝蔵、太田切口を破り、春日山へ取懸り候故と、推察せしめ候。各〻も、是に詮なき籠城仕らるべきよりは、城を渡され、旗本へ加勢尤もたるべく候と申越す。城中衆談合に、此城を抱へ持ちても、春日山落城に及び候はゞ益なし。勝蔵、信州或は甲斐・上野迄も、語らひ集めて働くと聞ゆ。御旗本許りの後攻危ければ、我々も差加はり、然るべき儀なれどオープンアクセス NDLJP:128も、敵に方便たばかられ出てゝ命を失ひなば、此志も水になり、此城を枕として死すべき所に、命を惜んで、城を渡したりとある批判にあはゞ、一身はさて置き、主君迄、疵になるとて、同心もせざりしを、又柴田・佐々方より、各〻命の儀は、下々迄全く構ふまじく候。望に任せ、人質を渡し申すべく候。それを召連れらるべしと、再三申越すに就いて其評議候へども、春日山の儀、心元なく加勢の志、深切なるを以て、六月三日、佐々方よりは、甥の佐々新右衛門、柴田方より、柴田専斎は修理従弟にて、武者奉行を申付くる剛士なり。右両人を質に取り、城兵皆、三の回輪へ窄みて、本丸を佐々に渡す。佐々、本丸を受取ると、其儘弓鉄炮を放ちて、内外より取包みて、越後衆を攻むる。城主吉江織部・松倉の河田豊前・戸山・未盛両城代、此城の加勢各〻十三人、此上は力に及ばずとて、右両人の人質を刺殺し、三の丸へ攻め入る所の敵中へ突いて入り、散々に相戦ひ、敵を追退けて引入り、切腹仕る。同心被官は、思々の分別に仕れと申置く故、何れもいひ合せ敵中へ入り、切死に仕るもあり。切りぬけて越後へ帰るもありき。魚津終に落城なり。敵に方便られて斯くの如し。本意なき仕合なり。

扨景勝公は、同四日に、春日山御帰城、関川にて甘〔糟〕武略を以て、敵切崩され候へども、今に太田切を塞いで、在陣の由を聞召され、五日には御出馬あるべしとの所、信長父子・舎弟信房共に、六月二日、惟任日向守光秀逆心して弑され給ふ由、四日の夜中聞ゆると、其儘、森勝蔵、太田切を捨てゝ信州海津へ引入れ、其れより上方へ上る。越中の佐々内蔵助も、魚津を捨てて戸山へ退く。柴田修理も越前へ引いて入るなり。

第七、三国峠の事、滝川義太夫、上野・武蔵の兵を催し、一万余にて五月廿三日、三国峠へ押上らんとするを、抑の長尾伊賀守・栗林肥前守、各〻峠の此方に待備へたるに、義太夫、一の先を致し、坂を半登りける時分、味方、両方の山に弓鉄炮を立双べ、打懸け仕る中より、長尾、先を致し、栗林二の見にて、士何れも諸道具を追取り、長柄を押退け、真下に切懸る故、敵は自ら退き、味方は自ら進み、其上敵の二の見の兵は、坂故助くる事ならざる故、悉く追立てられ、上道一里半程引いて、猿ケ京城へ逃入り候。味方は小勢なる故、十七八町追討して、引揚げ候へども、敵は我が味方を敵と思うて、永引仕るなり。敵を討取る数二百許り、

凱歌を執行ふ。三国峠の攻合と申伝ふるは是なり。〈父舎人助、某に教ふる。山手を取りしく敵を受け、或は敵、山の手を取りしき備ふるに、味方、是に向つて〉

一戦、自国他国の差別を以て、敵味方の強弱・人数の多寡に因つて、勝利ありとて、図して口伝するなり。

オープンアクセス NDLJP:129右の攻合に、栗林は、二の手なる故、働かざる間、首尾を合せんとて、討つて出でける時、敵、多勢なれば、自然三国峠へ働くべきかと、跡を気遣ひ長指を頼み、残し置く加勢の衆をば、我が備に組合せて、同勢として廿五日の暁、敵地焼働に出づる。敵如何思ひけん。少しも妨げざる故、猿ヶ京の在家悉く放火し、城際迄焼詰めて、手軽く引取るなり。敵恐れたるか。其後、三国峠へ働き出でず候。是又、信玄公の事を聞き、沼田迄早々引退くなり。

 
景勝公、信州発向の事
 

第一、信長の事に付き、森勝蔵は退散、越州魚津は落城、景勝公機嫌宜しからず、信州へ働かるべしとあるを、家老衆各〻当月中は人馬を休め給ふべし。頃日の疲身に、又信州へ御働候ては、敵合如何なりと、達て留むる故、今迄の働御吟味、賞罰の仕置あつて、家中の面々、在所へ暇を給はり帰つて、休息仕るなり。

第二、右の通に候所、信州河中島四郡の衆、佐久郡植田の庄尼ヶ淵の真田安房守・小県郡小室の蘆田源志の内、松本の小笠原を初め、悉く景勝の幕下に属し、誓詞を以て歎き、出張を待ち候由、申来るに付いて、幸と思召し、村上源五郎・岩井備中を、信州長沼城へ先立てゝ遣され、其様子を聞召届けられ、同月十六日、景勝公四千三百余の人数にて、信州へ御発向、其日は関の山迄東道五十里押し、十七日には、野尻と小室の間の原迄、四十五六里押し、十八日には長沼城迄廿六七里、未の上刻に御著。〈越後流備押斯の如し。遠江は人数の多少に因る。〉長沼城には、岩井備中残居て、村上源五郎、小室迄御迎に出で御供仕る。信州衆各〻は、御迎に出でず、海津城に罷在り、長沼より一左右次第に参る筈に、村上と岩井とへ申定めて、右の通なり。同廿二日の朝、信州衆御礼申上ぐる。是に付いて、景勝公御遠慮奥意之あり。

此節、藤田能登守、始めて景勝公へ御礼申し上げらる。〈前の書にあり。〉

第三、同廿三日、海津へ御移りあるべき為め、姉壻の畠山を、前廿二日に御先へ差遣されて、本城を請取らせて、今日、彼の城へ御著陣、御仕置等仰付けられ、真田・蘆田・小笠原に案内させ、御手遣の御催の所に、北条氏直、武州酒塚原にて、滝川に打勝ち、其威勢盛にして、信州へ出軍なり。氏直公の母儀は、信玄公の御息女なれば、勝頼こそ北条家と敵なりと雖も、信玄公の孫なり。信州衆、北条家へ随順仕るべし。若し異儀に及ぶ族は踏潰すべしとて、五万五オープンアクセス NDLJP:130千の大軍にて、働来らるゝ由相聞えける故、高坂・真田・蘆田・小笠原四人別心して、氏直へ随順なり。景勝小勢なり。我々案内して北条家に属し、先立て忠義を尽さば、信州の総職を得べし。然れば、高坂は海津に留り、残三人は、北条と一つになり、先手を致し、川中島・屋代表善光寺迄も働き候時、景勝出で差向はれ、一戦の節、其塩合を見て、高坂城に火を懸け、後より切懸るべし。相図の火を見ば、三人の者共突いて懸り、上杉衆を前後より挟撃つべしと、内談評議して、同廿五日、右三人の士大将総て陣を引払ふ。景勝公、兼ねて斯くの如きの御遠慮にて、信州衆一手々々へ、横目目附の者三人宛、隠して附置かるゝ故、右の様子告げ申して御存知なさると雖も、其夜は、御存知なき体になされ、翌日、其手々々に附置かれ候目附・横目を、密々召寄せられ、信州衆の様子御吟味なされ、右三将の外、残の衆には疑はしき事御座なく候。高坂源五郎は、頃日、真田・蘆田・小笠原と折々出会ひ候。若し右の談合申すも、存ぜず候と、高坂に附置かれ候三人衆申上ぐるに付いて、高坂を本丸へ召寄せられ、番を附置かるゝなり。扨尼ヶ淵より諸方道筋詰りに、忍の者を遣隠し置かれ、疑はしき者あらば捕へ候へとて、参り、同日の夜、故胡乱の者通り候を捕へ、真田・蘆田・小笠原方より、高坂への状あるを取つて之を差上ぐ。氏直公弥〻廿八日に、其表へ御働きなさるべき間、内々の通り相替らず分別尤もとの文体なり。是に因つて、景勝公、高坂源五郎夫婦並に三ツなる男子、以上三人を、海津の本城に磔に懸けられ候。扨味方御備定、

、越後衆各に信州衆三頭は、小田切安芸・市川対馬・芋川越前、之を組合せ、直江を先手になさる。

、景勝公旗本は、越後衆計り二備になされ、直江が二の見になされ、岩鼻へ押向ひ、筑摩川園平川を前に当てゝ、二千五百許りなり。

、海津城より筑摩川の下を越えて、右方のうしろは犀川・煤花川とも申し候。左は筑摩を負うて、一騎も逃れじと相備ふるは、信州衆なり。是も二備に手分して、此士大将は、垣崎弥次郎・村上源五郎、此二の見は士大将泉沢河内守、人数合せし四千なり。

、海津城には、畠山に岩井備中を差副へられ、人敷三百余残置かれ、信州衆の人質を取つて、本城に籠置かるゝなり。信州衆の一戦をば、海津の天守より、景勝公御牀机の場丸山へ相図をし、岩鼻表の一戦は、旗本より海津城内へ相図をなさるべく、一戦の様子、味方互に知オープンアクセス NDLJP:131り、氏直の旗本へ、無二無三に懸つて、一戦を遂げらるべく、其弱き所を見届け、海津には岩井を残し、信州衆の働次第に、人質の差引を仕り、畠山は城より出でゝ敵を切崩すべしと仰付けらるゝなり。〈附此畠山は、今の畠山長門守の父、上条入庵なり。〉

第四、六月廿八日、氏直公、人数五万五千を引率し、真田・蘆田・小笠原、先手を仕り、尼ケ淵より出で筑摩川を渡り、岩鼻表へ押して、屋代へ懸り、川中島へ相働き、其日の巳の下刻、善光寺表へ取続いて備を立設くる。景勝公も、海津を出で、丸山に御旗本を立てられ、岩鼻の此方へ、直江山城守一の先、其二の見は景勝公旗本、筑摩川・園平川を前に当てゝ備へられ、此方信州衆も、備定の如く、静に備を立設くる。敵味方三十町隔る。敵上より懸来らざるは、高坂が相図を待つてなり。然るに、景勝公より河田軍兵衛・大関弥七両使を以て、高坂父子夫婦三人の首を、北条氏直へ持たせ、仰せ遣さるゝ様は、高坂源五郎儀、真田・蘆田・小笠原と御相談せしめ、北条を当表へ引出し、逆心の不義露顕に付き、成敗せしめ候。北条に対し忠勤の者の首に付いて、持たせ遣し候。宜しく御弔尤もに候。景勝小勢、北条大軍の所、裏切を作り、一戦勝利を得らるゝと雖も、北条弓箭の恥辱、末代に至り隠れあるまじく候。最早、裏切り便なく候上は、互に潔き一戦の信州両方手柄次第たるべく候。此方より戦を初むべきや。其方より初めらるべきや。返事に応ずべく候と、高札に書いて立て、首を添置きて帰り候へども、其日未刻迄、返事之なきの所、北条方の備動く。此方へ懸り来るかと見れば、左はなくして、透波二人罷帰り、北条は、尼ヶ淵へ引取る様子なりと申来ると、早備を繰下げ、先手を殿備に用ひて退散の色に相見ゆる故に、景勝公、筑摩川を越え、又大関・河田を両使とし、直江に組合せられたる信州先方の合備衆の内より三十騎、越後士二十騎、合せて五十騎、能き者をすぐつて差添へられ、両使に仰遣さるゝは、景勝と一戦あるまじき体に候。是迄の働は、高坂裏切の行一つを頼みての事と相見え候。小勢の景勝に、裏切なくては合戦なるまじとて、引取らるゝ事、世間の翻と存じ候。景勝、早筑摩川を越え備へ居り候間、是非、一戦を遂げらるゝ尤もに候と仰遣さる。両使馳向ひ、二町程此方に備を二段に立て、河田・大関唯二騎、北条氏邦の備へ乗入れて、右の口上を申す。氏邦の返事に、氏直に申聞かすに及ばず候。景勝事、存外の小勢にて出陣、大軍に向つていたまず、弓箭を取られ候。其を尤もとは感ぜずして、一戦は武道の本意にあらずと存じ引取り候。是より北条は、甲州へ働き候。景勝は、オープンアクセス NDLJP:132当地の入手分別尤もに候と、中捨て足次あしなみ早く引取り候。両使、此返事を聞き、其場を少しは退き候が、両人談合して申すは、我々に五十騎の人数差添へられ候は、御旗本迄註進遅かるべきに因つて、敵の返事次第、心操の働をも致し候へとの、御奥意なるべしと申談じ、備を能く立設け、敵の様子を窺ふ所に、真田・蘆田・小笠原三人に、松田衆差加はり、殿して退く。河田・大関、五十騎を二手に分け、河田采拝を取つて、真先に乗懸り、敵の歩卒を踏倒させ、十一人之を討取る。蘆田内の富永といふ者、小反するを、小田切安芸内森本半之を討取る。敵七十騎許り盛反す。二の手の大関、横合に懸つて切崩し、敵引く所を慕うて首九つ之を討取り衆を下知して引揚ぐるを、真田衆と松田衆と入交つて、大関を喰留むる。河田又入替つて、敵を請取り追散らす。此様子を旗本へ早く知らする〈口伝〉を以て、直江見て、我が備を下知し、貝・太鼓を合せ後より続くを以て、敵崩るゝなり。就中足軽大将長尾藤八郎、足軽一組五十差続いて、河田・大関が働に構はず、敵を矢長に引受けて、然も矢玉を放たずして静に備ふる。〈此作法口伝〉 河田・大関、敵囲の間を二遍乗切り、味方を手早に引揚げさする。両人無類の働なり。河田手へ首十二、大関手へ九つ、其外雑人共二三十踏殺させて罷帰り、右の旨委しく言上す。故に敵方へ目附の透波を差遣され、其日申の下刻、海津へ御馬を入る。

右の様子に因つて、前方申し通ぜざる衆も、悉く味方に属し候故、川中島御手に入るなり。 藤田能登守、長沼にて御礼申され、直に御供、丸山の御旗本に居られ候。北条家の儀、御聞きなさるべき為に、一入斯くの如し。然る故、舎人助も丸山に罷在り、見届け聞及ぶ各〻の咄も、数度承覚え候。

扨北条、其日は尼ヶ淵へ帰り、軽井沢に陣取り、甲州を望み平沢迄押行く。是より以前、家康公、甲国へ御討入故、御先衆長沢迄討つて出づる。尤も北条衆大軍なれば、諸口より討入らんと仕るを、御当家の衆、之を防ぎて同七月より霜月の末迄、御対陣の内、七十度余の小攻合に、北条方、一度も勝ちたりといふ沙汰之なし。然る故、北条方より種々手を下し、扱に致し、信・甲・駿三ヶ国は家康公、上野は北条と約し、其上、氏直は家康公の御壻にとあつて、御無事相談懸に御馬を納れ、翌年天正十一未七月、家康公の御息女、小田原へ御輿入なり。家康公、北条家と御無事の時、真田安房守、北条を非見て、家康公へ随心仕るなり。

第五、上杉四千三百の小勢を以て、北条五万五子余の大敵を追払ひ、信州川中島・埴科・高井・オープンアクセス NDLJP:133更級・水内此四郡、景勝公御手に入る事、無類の名将かなと、自他共に褒むる。其節、何者か作り候ひけん。

   浮名をもながして恥をさらしなの月かげかつの色にまされる

其頃、所々に於て人の口号、又は扇に書いて言慰む狂歌是れなり。扨景勝公は、海津城に御逗留、信州表仕置仰付けらる。

、海津城に村上源五国清を差置かれ、更級郡を下され、高坂被官同心共に附けらるゝ事は、村上殿本意の儀を思召されてなり。筑摩川を限り、西は海津組とあつて、村上合備なり。

高坂介副の小幡山城をば、下野守になされ、春日山へ召寄せられ、御旗本組に仰付けられ候。

、福島城、前々の如く隅田左衛門尉に預下す。

、市川城、前々の如く市川対馬。

、綱島城、前々の如く綱島豊後。

、寺尾、前々の如く寺尾伝左衛門。

、予摩瀬、前々の如く予摩瀬。

、西条、前々の如く西条治部少輔。

、東条、前々の如く東条。

、大室、前々の如く大室源次郎。

、坂屋、前々の如く坂屋修理亮、或は保科左近允。

斯様の衆、大方海津組なり。

、長沼城、越後家、島津淡路守を差置かれ、筑摩川の東は、長沼組に仰付けられ、島津相備なり。然れば、川中島四郡を二備に分て斯くの如し。〈口伝〉


、猿が馬場の麓龍王城、前々の如く清野左衛門尉に預け下さる。〈附清寿軒は、其頃隠居なり。〉

、牧の島城、芋川越前守、此子彦三郎共に、其頃武田家を窂人仕り、越後へ頼来り忠功ある故、此度、本意仰付けられ候。

、善光寺別当、栗田永寿前代の如く仰付けらる。

、屋代、前代の如く、屋代左衛門に預け下さる。

オープンアクセス NDLJP:134、尾味城、前々の如く尾味左兵衛。

、青柳、前々の如く春日源太左衛門。

、春日、前々の如く春日右衛門尉。

'、小田切、前々の如く小田切安芸守。

、飯山をば、越後家岩井備中守に之を下さる。

右の外、小き搔揚を持ち、城を持たずして、五百貫・千貫許の侍多し。又は夫より小身の士に至る迄、御仕置正道に仰付けらるゝなり。扨又、信州衆上野平二兵衛・跡部甚内・甲州旗本組の佐藤一甫斎を、春日山へ召連れられ、御旗本足軽二百人宛御預け、信濃足軽大将と名づけ、其召使はるゝ様、〈口伝〉、其外、信濃衆を御旗本に召置かれ、或は士大将衆へ、与力被官に下されたるも多し。

 
景勝公、越後蒲原郡へ信州より御馬を寄せらるゝ事
 

第一、景勝公、今度の一乱に就いて、柴田への御手遣御延引、八月四日、信州海津城より直に御出馬、野尻迄御著、五日には、春日山城下の町を押通し、東道七里行き、府中に御著、こゝにて、御供衆の内、柴田近辺の面々には、御暇を下され、日限を仰定められ、御先へ之を差遣し、景勝公は、府中に六日御逗留、十一日に発崎に御宿陣、其より柏崎・出雲崎・三条・菅野に御宿陣、十六日杉原城へ入らせられ、十七日寅刻城主杉原左近将監案内として、柴田・井地峯・池之端三の敵城の間に、堅固に御陣取なされ、敵城御巡見なり。扨又、敵疲労の御手遣として、二組宛番代に、毎日刈田・放火働仰付けらるゝと雖も、敵、一度も出でず、味方も小勢故、城は御攻めさせなされず候。

第二、御馬を寄せらるゝ次手ついでなれば、敵城御攻めなさるべしとの御触れあるを、宿老衆、此度は打続く長陣にて、諸勢、殊の外労倦み仕り候間、先々御旗を納れられ然るべく候。いつ迄捨置かれ候ても、柴田事に候へば、差したる事仕出すべきにあらず候と御諫申上ぐる。〈口伝〉。景勝公仰付けられ、十月廿七日の暁、刈集めたる稲穂・陣屋等に火を懸け、陣払の節、風あつて様子能く、其烟下を引揚ぐる。殿備、所の案内者なれば、達て望によつて、杉原左近に仰付けられ、其日卯の刻許り、小荷駄を先へ繰り、一里半許り押行く時、俄に天気変り、雨雪夥しく、風オープンアクセス NDLJP:135烈しく吹いて東西分らず、諸備の火縄の火も消え、御持筒七十五挺、百騎の笠著たる衆許り、火を消さずして持ちたり。〈口伝。〉此時、柴田忍来り、山手へ付いて能く見切り、山手へは歩卒を用ひ、本道へは柴田が兵何れ三千許り、園を作り突懸つて喰留むる。杉原、備を立設けて能く切払ひ、繰引に依つて、春日山衆、放生橋を越ゆる。杉原、一入精を出し、敵を防ぐ所に、敵、山手の兵と一つになつて、無二無三に斫懸る。杉原内の小原雅楽、小返して敵一騎之を討取る。是に続いて、廿六七騎返して防戦ふと雖も、敵猛勢にて追立てらるゝ故、柴田勝に乗りて競ひ来る。杉原自身取つて返し、六七町程押返し数多討取る所、柴田・井地峯両人、我が旗本を以て両手に分け、後を取切る故、杉原一足も引かず討死す。直江は、殿備の二の手なれども、二の見を入るゝ事ならず。其処返せば、味方の右は山、左は水田深し。放生川は狭けれども、谷川にて岸高く底深く、岩石多く働自由ならず。柴田方は、弥〻競ひて喰留むる。直江、請取つて防ぐと雖も、右の通、節所にて、風雨は味方へ吹懸る。敵は案内を能く知り、殊に杉原を討取つて競ひ進む。景勝公、御旗本を以て、敵を追払はるべしとて、持たせ給ふ片鎌の御持槍を取つて、既に乗出で給ふ時、沼田窂人藤田能登守走り寄りて、御馬の口に縋り附き、唯今、柴田をば追払ひ申すべき所に、軽々しき御事勿体なし。某参り、見積申すべく候。我々討死仕りての以後は、兔も角も、御分別次第なりと申して、御馬の口放つなと、手明衆に堅く申付け、藤田、采配を取つて、上野より附来たる士八十三騎、外に手明の者廿五人には、長柄を持たせ、足軽或は長柄槍持等をば、御旗本の役者衆に預けて残置き、手明の長柄に騎馬十人許り交へて先兵とし、残る士を我が旗本と定めて、山手へ押立て、山手の敵を乗割り、本道の敵へ横合より鬨を作り、一度に乗入れ、一度に居りしき、敵少し猶予するを以て、藤田手先へ敵を請取る。是れは敵、直江衆を追立て、直江も敵を偽引おびいて、広みにて盛反さんと仕る所なれば、斯くの如し。又畠山も、山手へ付いて、藤田が如く、鬨をどつと作り、太鼓を早め懸るを以て、敵弥〻足次あしなみ乱るゝ。其度を逃さず藤田自身、槍を取り真先に進み、敵を一騎突落して、魚津賀門右衛門に首を取らせ、味方を下知して切立つる。後より畠山差続く。直江も備を立堅め、入替らんとする故、敵敗北す。放生橋を追留として、八町余追討して討取る首数三百有余の内、八十六藤田手へ之を討取る。其外、放生川谷路へ倒落ちて死する者多し。又藤田、山手へ働くを見て、安田・泉沢を初めて、山手へ切懸り追崩して、首数百六十オープンアクセス NDLJP:136之を討取る頃迄、松平越後守殿所に罷在る荻田主馬も、此山手にて一人を討ちたり。其他所所にて取りたる追首共に、諸手の首数雑兵共に、合せて五百七十余、味方討死四百余、就中老功の士大将杉原左近討死なり。〈附敵は、放生川を追留り候を、幸と悦び、早々城々へ退くなり。〉

第三、右藤田攻合の少前より、天晴れ候故、此競を以て、敵城へ取蒐らるべしと仰出さるゝ御奥意あり。宿老衆、達て制止申す。〈口伝〉。然る故、御馬を納れられ、山手へ備を分けて押す。本道は小荷駄を押す。小荷駄の殿は藤田能登守之を承る。小荷駄奉行両人は、丸田周防・山岸右衛門なり。山手の後備は、泉沢河内なり。霜月二日、春日山へ御帰陣、五日より七日御能仰付けられ、御機嫌よし。〈附、愚父舎人助も、藤田と連れ、其場へ参り委しく見覚え候。十四歳の幼時故、軍功はなし。〉

第四、藤田、忠勤を抽んで御感状を給はる。〈本書写し留めず候。〉初の極月、吉江喜四郎後室を、藤田妻に縁組仰付けられ、吉江一跡長島城共に、之を下さる。閏極月朔日、婚礼相済み、喜四郎役儀の通り七手組の頭、剰、先手を藤田に仰付けらる。藤田手前二百五十騎・与力五十騎、合せて三百騎の士大将なり。

吉江喜四郎は、謙信公代より武功の士大将、当春越中魚津城加勢の大将に参り、討死仕り、男子一人四歳、其姉一人あり。四歳の男十五になり候はゞ、別に吉江の跡を下さるべき間、其内、藤田護立て候へと仰付けられ、名は長満といふ。十四歳天正二十年、越後頸城郡にて領知給はり、喜四郎になり、十九歳にて卒す。〈前書に之を記す。此書の末にも之を記す。〉

第五、杉原左近将監討死故、杉原城、其近辺の衆、番手に居る。然るに、左近親類にて、家老仕る細越将監と申す者に、杉原衆を預けられ、直に杉原城に差置かれ候。此細越方へ、柴田因幡より、当方へ随心候はゞ、杉原城は勿論、其外に立身させ、運を開き候はゞ、其望に応ずべき旨、誓詞を認め、柴田の地下人才覚ある者に持たせ越し候。細越領掌し、初の極月中頃、柴田衆を引入れ、番手衆を過半討つて、杉原城を渡す。柴田、即ち細越に城を取らせ、劒持市兵衛・梅津宗山両人を差加へて、杉原城を柴田より持固むるなり。

 
景勝公、柴田発向の事
 

第一、天正十一年癸未三月下旬、信州海津外曲輪に差置かれる衆の内、屋代左衛門、人質を捨て、海津を去つて居館の屋代へ引払ひ候。是は去年、真田・蘆田・小笠原逆心に一味仕りたオープンアクセス NDLJP:137れども、本意を失ひ候故、其色を隠し居り候所、屋代内堀江といふ家老、我子を少しの咎に成敗せられ、恨に存じ立退き、主の逆心の儀を、景勝公へ、訴へ申すべしといひ置いて出づる故、屋代堪忍ならずして、海津を立去るなり。

右の堀江をば、安田上総介に預けらる。此堀江太郎兵衛後迄罷在り、心緒の働仕る。扨海津の註進より、堀江が言上早くして、四月二日、富永備中を御使として、海津加番衆へ御状を遣さる。左の如し。

急度以使者申届け候。仍今度、屋代左衛門、海津立除き候仕合、時宜如何覚の外に候。縦、私の宿意に候とも暇に及ばず引籠候間、可其仕置候。各〻別而累年忠信之条、一廉奉公肝要に候。猶富永備中守相街口上〔候脱カ〕謹言。

   四月二日 景勝

     清野左衛門佐殿

     寺尾伝左衛門殿

     西条治部少輔殿

     綱島豊後守殿

     大室源次郎殿

     保科左近尉殿

右の通なれども、屋代左衛門、屋代へ引入りてより、直に関東へ逐電故、計留めず候て、信州衆無念に存ずるなり。御使の富永よりを伺ひ、屋代の館を〔払〕捨て、屋代三千貫、即ち御料所になる。後に真田源次郎に過半下され候。〈末に之を記す。〉

右の儀、其外諸方の儀、御隙を明けられ、同年八月、柴田へ御発向、藤田能登守に、信州海津組を仰付けられ、先手になされ、村上源五は、海津に残らるゝなり。

、藤田合備衆を、組合七手に分け、藤田旗本共に八手と備定め、御先右の方を請取る。

'、左の御先は、島津左京亮父淡路守、長沼組相備を将ゐて、斯くの如し。

、藤田二の見は安田上総介。

、島津二の見は河田摂津守。〈附若名を軍兵衛といふ。御館以来数度の働、其忠功に依つて、今度仰付けられて斯くの如し。〉

、御旗本の前は、直江山城守。

オープンアクセス NDLJP:138、御後は泉沢河内守。

、須田右衛門尉は、所に依つて能き地形を見て備ふ。転変の備なり。〈口伝。〉 右を、越後家七手組といふ。一備八手と手分け仕り候。藤田の如きなり。然れば御旗本共に、八備と定む。八々六十四手なり。此外、勝利の一備とて、謙信公定め置かるゝは、秘して名をもいはず、旗本備と定めて、合せて又分る時は、九備となる。残る備も、各〻八手と雖も、此勝利の一備は、何れの備毎にもありて九手なり。然れば九々八十一手なり。但し作法は定めて、様子は定めず、人数の多少を以て、其敵・其時・其場に依つて臨機応変、大将一つの采配なり。

、小荷駄は泉沢合備衆の内、二手に申付く。是れも所による。〈口伝。〉

、御旗本組御脇備は長尾伊賀守・長尾加賀守左右各番なり。

右の通、備定あつて、総人数八千余、未の八月十五日前は、長尾家出陣を厭ふ作法なるを以て、十六日春日山御進発、其日垣崎城に御著、廿日には菅野迄押して陣し給ひ、廿一日、上道七里、杉原へ取詰めらるべしとの事にて、卯の上刻押出さるべしとの定故、夫より前、先衆段段備を出し、あが川の南迄、其日の五つ過に押付け候時、佐々岡の酒井新左衛門、我が城より人数を連出し、川の向に備を堅め、敵を抑ふる如くして、味方の諸軍を渡させて、旗本の供仕る。阿雅川より一里余押行き、杉原の敵城二里許り這方こなたにて、何とかしたりけん。味方の備、下々より磅出くづれでて囂しき故、武頭物奉行、乗廻して制すれども定まりかね候故、諸手共に騒動す。景勝公、采配を取つて、貝・鐘・太鼓を合せ、旗本より一度に咄と鬨を揚ぐる。諸備共に、悉く鬨をは合する。続けて三度鬨を作つて、即ち抑へて鬨を止むる。鬨の声止まると其儘定る。此時手毎の武頭物奉行、噪ぐ備を押〔定イ〕て前の如く法備を押す。是れ誠に微妙精発の大将、一心智術の余なり。〈口伝。其後、藤田に反目舎人、此書を感じて、藤田に問ふ。答に日頃常試思案工夫の分別より出づるさる故、老功といふは年によらず、武功に老いたるをいふ。右は即ち躍の時の音導の如し。謡納めては、必ず音導を待ち候内は静なり。之を以て斯くの如し。〉

第二、藤田能登、一の先にて杉原近く迄押行く所、杉原城より細越将監、雑兵八百余の人数を以て、三手に備へ、城より八九町程出張つて勝負を待つ。藤田君命受けざる所是れなり。彼を追散らせとて、御旗本より差添へられたる佐藤一甫斎を会釈勢に用ひ、藤田は備大将と申しながら、当家の新参なればとて、一の先を請取つて備ふ。藤田左の方は、市川対馬・寺オープンアクセス NDLJP:139尾伝左衛門二手を組みて一手なり。藤田二の見は、綱島豊後なり。市川・寺尾が二の見は、隅田左衛門なり。一跡は大室一備なり。斯くの如く備配仕る。御旗本も此様子を見て、遥の跡に御牀几を居ゑる。扨又、向へば左敵の右脇に、大なるしげみの森あり。是に敵の伏奸あるべしと積り、西条・東条両手を押向け、伏好を討払つて後敵と取鎖るべしと首尾を定めける所、佐藤一甫斎の思慮もなく、我も当家の新参なれば、一手涯抽でんと、跡々も構はず突いて懸る。敵も太鼓を打つて静に懸る。一甫、真先に槍を取り、自身の一手を率ゐ、後の藤田備に、六七町も進んで杉原衆へ懸る。細越が一の手、弱々と応答へて引く。佐藤、弥〻競懸つて追ふ所に、茂の伏起つて、佐藤が備の正中へ切懸る事は、西条・東条森の伏を、討払はざる以前に、佐藤汐合を考へず、一ケの武勇を励まさんと、不遠慮の働故なり。細越将監は、自身二の見に声へけるが、驀馳に突懸る時佐藤を引懸けたる敵も、返して突懸る。されども、流石に甲州より出でたる一甫斎なれば、我が人数を能蹴繚らして、手早に引退けども、敵慕つて追懸る。藤田之を見て、思慮なき佐藤が働かな。我が備は道の右手へ著いて、佐藤が逃ぐるを通せと下知し、士衆、持道具を取つて折りしき、長柄と入交る如くにして待備へ、足軽をば、味方左の方へ雁行に立つる。藤田合備衆も、続いて備ふ。然れば、案の如く細越将監、采拝を取つて、佐藤が備を悉く追立て、逃ぐる一甫を討取らんと、敵味方入交るが如く勇進んで追懸る。其時、藤田、其町間を積つて下知して、鉄炮を連並べて放さする。 〈玉に口伝の習あり。合戦・攻合・城攻、何れにも用ふる越後流なり。鉄砲其裏其表敵を撃つて、味方に中らず。是れに依つて、味方は全く、杉原衆は打立てられて追留まる。〉敵追留つて、足次定らず妄なる所を見切つて、長柄と士衆権を争ひたゝき懸る。杉原衆、崩れて引取る所へ、藤田自身、敵中へ乗入り、広言して敵と攻合ふ。明黒の腰差は細越将監なり。之を討取れと毛付して、将監に言葉を替はし、互に馬上にて渡合ふ。藤田、細越に右の太股の裏を反して、突抜かるゝと雖も、終には細越を、馬上より突落して、滝本囚獄に首を取らする。此時、細越が与力の士助来つて、能登守が射向脇引の上外を突く。是は薄手なり。其槍を抑へて、槍組み突合ひたるは、夏目舎人助十五歳の時なり。其敵は、田中日向守といふ剛士、舎人を助来つて其敵を突伏する。日向守、舎人にいふ。我等はあとに仕置きたり。其方は、若年といひ、殊に敵と槍組み給ふ。我等は脇より手もなく突伏せたるなれば、助槍なり。此首を取つて、高名にせよといふ。舎人いふ。我等槍組み候へども、突殺したるは其方なり。それを我等が高名に致すは乞首なり。初働にオープンアクセス NDLJP:140忌々しとて、其場を立去り、敵中へ討つて入らんと致す所に、細越討死して、其一手堪兼ね、後に控へたる釼持市兵衛備へ崩懸る。藤田衆は、早追留つて備を立堅むるは、最前に茂へ向ひたる西条・東条二備と、藤田左備の市川・寺尾に、逃ぐる敵を渡して、斯くの如し。然る故、舎人重ねて手に合はず候。

杉原常陸、此時は大関弥七と申候。御旗本にて申断り、見物ながら藤田手へ来り、舎人が左の方にて、心操の働あり。然る間、舎人、大関がうしろへ廻り、綴を一大力切附けて、唯今の働、互の証拠なりと詞をかはす。之を証拠の取様、〈口伝〉其に因つて、其時の舎人が様子、旗本を初め諸手共に之を知る。扨又、藤田合備の衆も、逃ぐる敵を追懸けて、数多之を討取る。藤田手を負ひ候故、三方あらて力者を以て、敵を抑へ段々に引入れ、藤田手前の一備へ、首数五十七之を討取る。是は攻合の首なり。其外、百余は追首なり。合備衆へ懸りて、斯くの如く首帳を以て、凱歌を執行ふ。其日、景勝公は、杉原の原に陣取り給ひ、藤田には、深手負ひ候とて、養生の為め御暇にて、春日山へ遣され、藤田手前の人数は、酒井に預けて、佐々岡に差置かる合備の衆は、御旗本の武者奉行小倉将監に、仮の大将分にて御預け、藤田の如くに、左手仰付けらるゝなり。

一輸申送候。仍今般於水原之地追合之刻、貴所以一備悉切崩し得大利、某謀略健名莫大之処、剰、自身相稼、敵の備大将細越将監に対し、毛付而討取之、蒙手疵之段無双の誉併感入り、是非可申様もなく候。依其競柴田より出たる奴原をも、存分にまかせ□ちらし候。軈而可勝手候間、当表之儀無気遣、手疵之療治肝要、尤可忠信候。益田新右衛門・今川紅庵付置候上は、早速平癒せんと嬉しく候。為見舞梶源太左衛門差遣候 の委細口上に令演説候。謹言。

  天正十一年    八月廿七日    景勝

猶以用之事、於之者鉄方迄可申候。万喜期帰陣之時申候。

 藤田能登守殿へ

右是は、柴田御在陣の内、御見廻として、藤田方へ御使を遣されたる時の御状の写なり。

'第三、杉原城、細越討死、其力弱るべし。御勝利の競を以て、攻め落さるべしと各〻申すと雖も、景勝公御攻なされず候事は、当城は、柴田が被官共持ちたる小城なれば、攻められ候はオープンアクセス NDLJP:141ば、早速落つべけれども、根城の柴田城、堅固の地自由に攻め落す事ならずして、落よき小城被官共籠りたるを攻落し、手柄がましく仕るは、たぎらぬ弓箭なりと、批判を請けては、武名の越度なり。今度藤田攻合の時も、別の備に助けさせず、藤田一備許りにいひ付けたるも是なり。柴田が根城落ちなば、残る城共は枝葉なり。当城を攻め落すとも、柴田降参は仕るまじ。雅攻にして攻め落し、味方の人数少々損じ入らざる事なりとて、城の抑に、佐々〔篠〕岡の酒井・下条の采女両人を差置かれて、翌廿二日、杉原の原より柴田表へ御進発、其翌日辰刻前、先衆放生橋を打渡りて、柴田へ向ふ所、柴田因幡守、城より十四五町出張り、三千余の人数を十備に立て待備ふ。是より先遣されたる透波、此旨追々註進す。是に依つて、佐々伝兵衛・荻田主馬両使を以て、先手小倉将監方へ仰遣さるゝ様子は、柴田、人数を出したりと見えたり。然れば、此所に陣取つて、敵の様子を見合せ然るべきや。但し敵を追入るべきや。追入るに於ては、其方合備共、昨日杉原の攻合に、疲労すべき間、其方右の手先を、島津に渡し、左の手先へ安田を繰出ださせ、其方は島津二の見を致すべく候なり。此御返事、急度申上げ候へと、両使申聞かする。小倉返答に、是迄御働あつて、敵の出でたるを聞召され、此所に御陣取なさるる儀、敵に機を呑まれ、味方は疑惑出来申すべく候。其所を、敵、見切り候はゞ、味方敗軍の本たるべく候。出でたる敵を見て留るは、武士の本意にあらず候。御一戦なさるゝ外は御座なく候。御一戦必ず御勝利を得らるべき儀、多く御座候。一には、去冬御勢の後を慕ひ、後途は柴田敗軍仕ると、初めは雨雪故、御勢利を失ひ、杉原左近討死。其れより細越を誑し、杉原城を手に入れ、是を鼻にあてゝ、昨日細越、釼持等を御勢へ向け申し候。然りと雖も、藤田、武略を以て切崩し、剰、細越を藤田手にかけ之を討取り、其外数百人討取り候。其様子、柴田定めて聞届け申すべく候へども、さすがに、謙信公召仕はれたる老功の柴田に御座候に付き、今日自身出張仕るは、曽つて実の働にはあらず。昨日の様子を聞き、最前の競と違ひ、底心は恐怖、勿論下々は、猶以て斯くの如くなるべし。其恐気を以て、備を出さず候はゞ、下の諸人、柴田を浅く見こなすべしと積り、出張仕るにて之あるべく候。打合はせ候はゞ、一攻合にて、御勢、御勝利を得らるべく候。私合備衆、手毎に物見を出し見せ、敵三千足らずの小勢と見申し候。二には戦場能く御座候。三に敵の旗色悪しく御座候。〈此三ケ条見定めたると云々。口伝。〉扨又、某相備、昨日の攻合に草臥申すべき間、備を立替へ候へとの儀、御請申難く候。左様に思オープンアクセス NDLJP:142召し候はゞ、昨日御定めなさるべき所に候。只今は、早敵前にて御座候。昨日藤田も、此衆を以てこそ勝利を得候へ。敵も存ずべく候。唯今押向ふ者は、昨日杉原にての者なりと見候はゞ、怖気の敵、弥〻気を奪はれ、之を以て御勢勝利の瑞なり。杉原にて、藤田一備許り仰付けられ、今日も某一備許り仰付けらるゝ儀、諸人共に、必定勝利疑なく存じ、合備の者共も、一入勇進み候へば、備入替の儀は、仕るまじと返答申上ぐる。

景勝公、柴田必ず働出づべしと、昨日より御積り、小倉と内談、相図の往反なり。御使も之に同じ、是弓箭の術なり。某謂れは、合備の内大室源次郎に、一手足軽を差添へられ、昨夜中より先へ遣され、敵出づるに於ては、戦場爰なりと考積り、味方より向へば、右に敵の備ふれば、左の方に小山続の茂あり。此中へ遣置き候ふは、勝利の場所を敵に取られまじき為めなり。敵不〔幸〕にて其場所に心を注けずして、取しかずば、尤も味方吉事なり。功者にて其所を取りしくべしと存ずれども、山手なれば、早速敵の勝利は、思も寄らず。然も夜中なれば、此方の人数を見切る事なるまじければ、敵の勝利あるべからず。夜明けば又、此方より押懸る軍にこそ向ふべけれ。山手へ向つて人数を費すべからず。味方も夜明けなば、早々戦場へ押詰むべき間、それ迄山手の持ち忍ふる武略なる故、先立ちて早く取りしくべしと、仰付けられ遣され候。大室、其場を踏忍えられ候誉に依つて、勝利の首尾よし。

第四、前に録する如く、

一、右の手先一番合戦、 小倉将監

二、此二の見、     安田上総介

三、左の手先二番合戦、 島津左京亮

四、此二の見、     河田軍兵衛

但し是は、一戦に構はずして堅く備ふる定故、前の三備とも、一手を以て、柴田を討取り候へと之ある儀、御遠慮の仔細多し。

三備廿一手は、廿四手なり。廿四手と定めて、廿七手なり。

扨又、小倉は海津組信州先方衆、今度始めて御供故、半役御免半役にて罷出づるを以て、千八百許り、小倉我が旗本を合せて、七手の内、三手は先、三手は二の先、残る一手は、前夜より先へ遣置く一の先三手の内、中の備を請取つて、我が旗を押立て、采配を取つて、勝負の理を能オープンアクセス NDLJP:143く申含むる。信玄家の風を能く知る小倉を、背戻るほどの衆なれば、備濁つて旗色よし。左は島津左京、是も信州長沼組なれば、小倉に越えて働かんと思へる衆なり。島津も七手に作り、太鼓を打つて静に懸る。此両備の汐合を考へ勝利のとりを仕るべしと、二の見の安田上総介、人数を繚し、其勢を内に含め敵の変動作略を窺積り、旗旌動かず鐘鼓音なく、静に備待つと思へば懸り、懸ると思へば止み、懸待の度定まらず。然るに、味方の備十町許より、此方より正しく一戦を持つて取詰む。〈口伝。〉

敵間三四町になり、互に鉄砲を初め迫寄り、一町の内外にて、早弓を打違ふる。敵味方共に剛なる故、猶々詰寄る時、柴田方の足軽一人、抽んで能く己を射けるが、鉄砲の手を負うて倒れたるを、小倉足軽の小頭大竹無二といぶ者走り出で、一刀切る所へ、敵、釣鐘の差物さしたる武者出で、大竹が左の股を突通す。大竹其槍を手繰つて、敵の甲左の吹返しより、頬をさして、鋩外れに切割り、右の綿齧𩩲骬迄斬留むる。味方の足軽山田三吉といふ者出でゝ、大竹を引懸け退く。重沢隼人は、大竹に太刀付けられたる敵を討取る。

〈重沢が孫にて、上野沼田に罷在る。〉右の如く、敵味方取鎖る時、大俣鉄砲之助といふ者、〈後は藤田に奉公、此節は武者修行にて、小倉備を借り罷在り。〉 腰差の鉄砲を持つて進出で、此時なり。各〻槍仕れといひながら、懸つて鉄砲を放つ。萩山勘内、小倉備より出で一番槍を合はする。其槍相手は、金の釣団扇差したる柴田内の武功の者なり。大俣、脇を詰めて、其武者を鉄砲にて打倒す。脇に続いたる卜伝流の兵法使酒本宮内、其頃は新吉と申し、刀にて忍へけるが押入り、槍下にて之を討取る。萩山、大俣を証拠にして鼻を搔く。各〻酒本に越されたりとて、競ひ懸る中に、甲州窂人小倉同心土屋総内左衛門、二番槍を仕る。其槍相手は、黒き箕輪の差物さしたる者なり。〈此者、後に直江衆に罷成る。箕輪弥左衛門是なり。〉土屋に続いて忍へたるは、木村監物が従弟の木村十左衛門、弓を以て脇を詰むる。士衆何れも差続き長柄足軽を押除け懸つて、入乱れて戦ふ。小倉両脇の備も右の通なり。小倉一備の内の二の手衆三手、能き汐合を見て、二の見を入る。敵も功者にて、二の手を以て請取つて斬結ぶ。左の手先島津左京合備衆も懸つて、一戦を始むる様子を見て、一の先の二の見安田上総、是も七手の内、四手は跡に残し、先づ三手を以て、自身真先に進み、柴田が旗本へ斫懸り攻合の時、安田、右の臑を切られ、深手を負ふと雖も、少しも其場を立去らず、能く下知して備を乱さず、敵を多く討取る。此所を見及び、又相図を請けて、山手の大室、柴田よりの抑は小勢なオープンアクセス NDLJP:144れば、何の造作もなく打散らし、歩卒を後に引付け。土衆許り、得道具を取つて先へ進み、柴田が後備へ、無二無三に突いて懸り、切捲つて競懸る。前よりは各〻一人攻め懸る内、一備七手と雖も、八手なり。外に亦勝利の一手は、備毎の秘伝を以て、入替り切崩す。流石の柴田なれども、敗軍して柴田城へ逃入る。之を逃さじと、長沼組衆追懸る故、海津組の衆は、小倉、采配を取つて敵を長沼衆に渡し、人数を纏め、四町の内にて、本の如く備を立堅めて、島津が二の見を小倉持つ。安田も手を負ひ候故、備を引揚げて逃ぐる敵をば、我が合備の内、四手の新手に渡して備ふ。長沼組の衆・安田合備の四手の衆をば、甘数備後守、其軍隊を司り、敵を悉く追討つて、城々へ追入れ、討取る首数総手合せて五百七十余の内、海津組へ百廿余之を討取る。右三備の外、旗本共に五備は、少しも動かず、堂々として十六七町後に備へ給ふ。合戦を致したる三備の各〻は、又備を立設けて、敵を抑ふる所に、河田軍兵衛あとより早く押来る。それに続いて、次田右衛門尉も備を押付け、先衆に入替つて請取り、小倉・島津両備は、又次田・河田が二の見となつて備ふ。安田は深手故、備を引入る故、旗本より御下知、兼々の作法の如し。

右斯くの如きの時、倉田源次郎・山田喜右衛門に、大石播磨守差副ひ来り、場所を申渡せば、両陣屋の間数広狭を割付け、七手組士大将衆一備限に之を渡す。七手組の士大将衆、請取つて又我が合備衆へ一手限に割渡して、陣屋を懸くる。〈佐法品々口伝。鍛錬之あり。〉

右次田・河田・小倉・島津四備之衆は、敵を抑へて居る故、手前にて陣屋を懸くべき様、之なきに因つて、御旗本を初め、諸備より人数高に懸けて出人に仕り、御旗本より使番衆の如くなる功者の衆を、奉行に付けて、陣屋を懸けさせ候。斯様の時は、いつとても斯くの如し。此時は、小倉・島津両備は、二の手になり候故、其様子次第、少々普請の人を出し候。次田・河田両備は、人を出さず候へども、合戦に入らざる人をば出すなり。〈口伝。〉此外、御陣取の作法に付いて、信濃足軽六百人の頭三人といふは、佐藤一甫斎・上野平次兵衛・跡部甚内なり。一人にて二百人宛預けて、其人分不断の様子は、

、足軽七十五人には、弓二十五張・鉄炮五十挺。

、百人には、長柄を持たする。〈口伝。〉

、残の廿五人は手明に仕り、右二役の関代に用ふ。

オープンアクセス NDLJP:145、右足軽二百人の小頭と号して、信州先方小身の士卅七騎宛御預けなさるゝなり。其又人分の様子を以て、堅く三十騎の一備と仕る事、三人の信濃足軽大将衆の作法御定、斯くの如し。此三人の衆に、御旗本より功者の衆、一二騎宛差添へて、下知を加へ軍営を取りしく内、彼の足軽大将は、敵地用心の備と定めて差置かるゝ時、其隊伍は、足軽五十・長柄五十本を以て、三十騎を小備に仕る様子は替れども、法式は定めて斯くの如し。残の足軽百人は、御本陣御普請人歩に出す。尤も御旗本より、奉行衆歩足軽を召連れ来り、御普請申付け候に差加へて勤むるなり。敵地の様子に依つて、三人の内、一人或は二人、或は三人ながらも押向はしむる時もあり。扨、御陣取極つて、此三人は、何時も外張に陣取るなり。

越後家の定にて、一備毎に、長柄の者を多く召連れ候。其長柄槍は、陣屋の桂等に用ふ。尤も槍損すれば闕代に仕る。火消の道具にも、又は屏乗・堀越・川渡す等にも其用多し。其長柄一備に入る程用ひ、残りの者には、其遣様あつて申付くる。右の通に就いて、郷村役に当て人夫を出さする時、能き者を選び足軽長柄の関代にもなり候為めに、其外、手を明けさせず長柄をかつがせ候。人夫は弓矢の助、国法仕置の為めなり。

第五、右の様子を以て、景勝公御陣取、三つの城の間に定められ、刈田・放火等所々御手遣仰付けられ候。然る所、直江山城守、我が備働の勤番に相当る時、九月初、晴の夜、梶の寄居へ取寄する刻、西の方柴田の城間に、焼草を多く積み、雑人共を集め、夜半の頃、火を懸け鬨を作り、鉄砲を打懸くる事、西一方許りにて、斯くの如し。梶の寄居城内に、能き者は少し。驚騒ぎ西の方を肝要と固むれども、城内周章混乱す。其体を外より見積り、其汐合を考へ、東方に隠し置きたる軍兵を下知し、一度に城へ乗入れ、難なく本城迄乗取り、南北へはわざと向はざる故、城中の者共、逃出で落行くを追懸け、討取る首数三百余なり。景勝御感なされ、此城破卻仰付けらるゝなり。景勝公、少々御病気故、九月廿九日御帰陣、春日山へ御馬を納れらるゝなり。

 
管窺武鑑中之上第四巻 舎諺集
 
 

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