管窺武鑑/中之下第六巻
一、秀吉公越中御発向佐々御退治の事附景勝公新潟御巡見并秀吉公と和議の事 二、景勝公柴田表へ出馬の事田勤めの事附真田安房守重ねて降参加勢を遣さるゝ事 三、杉原城攻落す事 四、新潟乗足両城落つる事 五、景勝公上洛の事附河田軍兵衛御成敗の事 六、景勝公赤谷砦を攻落さるゝ事附夏目舎人助、赤谷左衛門佐を討取る事 七、景勝公赤谷より帰洛柴田へ取寄する、藤田能登守武略を以て今泉砦を乗破る事附帰陣の時敵と攻合の事 八、景勝公柴田表へ出馬会津加勢を追払はるゝ事附今泉池端にて攻合の事 九、井地峯城陥る事 十、夏目舎人助心緒仕候夜話の事
【 NDLJP:177】管窺武鑑中之下第六巻 舎諺集 秀吉公越中御発向、佐々御退治の事附景勝新潟御巡見御馬を向けらるゝ事并秀吉公と御無事の事
第一 秀吉公の御威風、日を逐うて強く、月を逐うて盛なり。天正十三年、関白に任じ給ふ。北国筋能登・加賀迄も御手に属しければ、越中の佐々内蔵助を、御退治あるべしと思召し、去年越後の景勝公へ申断り、今年乙酉四月、越中へ御進発あるべしとの御内談の趣は、佐々方の手分をすべし、加賀・能登・飛騨、尤も越後へ抑勢を分つべし。然れども加州久利加羅岳は、嶮難を頼んで、人数を多く向くる事なるまじくば、佐々分領兵の衆寡此の如くなるべし。味方大軍を以て、久利加羅岳より越中へ押入るならば、脇に手を分けたる人数、助け来るべき間、其助け来らざる前に、踏入るべしとの内談なりと洩聞ゆ。佐々我が家来の頼母しき者を、【 NDLJP:178】色々の体に作り立て、上方に上せ置き候故、右の趣を註進す。佐々此心待する処に、秀吉公、既に聚楽御出馬の由、佐々聞くと其儘、久利加羅岳に、城其外取出の丸并大木を切つて、逆茂木に引き、柵を振り、他方に構はず、此所を肝要と待ち備ふる。秀吉公、加賀迄著陣。先手計を、久利加羅へ差向け、旗本組或は後備二万余の人数は、加賀より能登へ移り、石動の出先より船に乗りて、越中の滑川へ押上げ、陣津川を右に当て、在々所々を焼払ひ、戸山城へ取詰めらる。佐々、我が総勢を以ても、秀吉公に一戦もなるまじきに、殊に久利加羅を大事と思ひ、能者を選び遣し、戸山城には、はか〴〵しからぬ者共、小勢にてはあり、油断の所へ、押詰められければ、忽ち二の曲輪迄攻破られ、本丸へ究む。其辺に居たる佐々方の者共も、秀吉公の太刀影に恐れて、頭を出さず。矧や後攻は思ひも寄らず。扠又久利加羅へ向ひたる先手の上方衆は、秀吉公滑川著船より、追々飛脚の左右を聞き、或は狼烟・家焼火の合図を示し、旗本大軍の旗を飾り、山野尺地なし。佐々方久利加羅を押へたる一万計の兵共も、気を奪はれ、後へも大軍取懸けたりと見えて、烟先づ夥し。
附佐々内蔵助成政、命を助かり、同朋になり、二年ありけるを、秀吉公思召すは、昔信長公召仕はれたる時は、我より手土の者なりしが、今此の如くなりたるは、我が弓矢の威光故なり。最早是迄なり。信長公の御眼力も、相違の様なりとて、九州平均の後、天正十五年六月、肥後一国を成政に賜はり、陸奥守と改めて、肥後熊本に在城なり。然るに佐々、国の政道悪しく、諸事逆路なる故、肥後国菊池郡の桑〔隈カ〕部・其嫡子有動〔働カ〕父子、一揆を催し、佐々を追払はんと欲す。佐々一分にて、之を諡むる能はず、秀吉公聞召し、柳川城主立花飛騨守宗茂、其時は左近将監と申すが、加勢仰遣はさるゝ故、押向つて勇功を顕はす。其後浅野弾正を遣され、一揆悉く退治あつて、肥後国を加藤虎之助に賜はり、佐々をば、摂州尼が崎迄呼上され、彼地に於て、切腹仰付けれ候なり。
第二、越後神〔蒲カ〕原郡新潟城は、柴田因幡守が伯父柴田刑部左衛門籠る。景勝公、唯今迄、御手【 NDLJP:179】遣さるゝ事なきは、此城、奥州会津より出づる阿雅〔賀〕川と、信州筑摩犀川の流の末、落合ひて海へ続く。其川中にある島を、白山ヶ島といふ。其島に城を取立て、新潟城と名付く。四方共に堅固なるに、剰へ白山権現を勧請したる川上の島崎を、掘切つて縮めて、猶以て堅固に仕る故、味方より攻め悪し。然れども其近辺に、居城の当方衆、油断さへなければ、城より出でて働く事もならず、籠城一通り計りなる城なる間、人数四五百差遣して、乗足の敵城を抑へ、新潟の湊の船路を止め、柴田城をば、神原郡に居る当方の城主、或は其近辺の衆、抑へて居り候へば、白山ヶ島に田畠はなし、其地の商人は多し、城の兵糧尽きて、長籠城ならず、自ら明け退くべしとの積にて、閣かれ候へども、景勝公御巡見あつて、御馬を寄せられ、御威風を知らせ置き給はゞ、重ねて御使一人遣されても、城を渡すべし。新潟其通りならば、乗足は、猶以て其通りたるべしとの事にて、秀吉公越中御発向の沙汰、御聞なされ候へども、其に御構なく、新潟御巡見として、四月初、七千余の人数にて御出馬なり。藤田能登守を先手として、垣崎屋彦〔柿崎・弥彦カ〕へ懸り、同十二日、新潟の湊に御著陣なり。然れども城攻の様子もなく、先づ四五日船路を上つて、敵に其様子を知らせて、其形勢を御覧候へども、敵出でざる故、藤田に仰付けられ、敵の掘切つて捨てたる白山社の島崎へ、人数を遣され、藤田、土俵を以て小山を築き、石火矢大筒を仕懸け、或は強弓を以て、打立て射立てけれども、新潟の町裏迄、屏を掛けて城に取入れ、筵薦を以て矢限をし、水弾・投玉・縁座箒を以て火矢を消し、中々
第三、景勝公仰せらるゝは、秀吉越後へ働き入る事もあるべし。越中表の抑、墜水の城に、須賀修理亮を差置くと雖も、人数寡し。墜水城の這辺厭川城に、丸田伊豆を差置きたりと雖も、心許なしと思召すとて、景勝公、八千六百の人数にて、名立浦本・鬼伏などといふ所へ懸り、上道二十里許を二日に押して、厭川城へ御著なり。秀吉公は、越中平均して、石田治部少輔・木村弥一右衛門唯二騎召連れられ、雑兵共に三十八人にて、越中戸山を立ち給ひ、親不知子不知・犬狼・駒還・市振・追立などといふ節所へ懸り、五月十三日辰刻、落水城下迄御著。〈附備押には、此節所をば押さす、山手へ廻り押道あり。〉
須賀修理方へ仰入れらるゝは、景勝公へ、秀吉より使に、木村弥一右衛門、是迄参りたり。誠に御入りあるべきや、是へ御出あるべきや、修理殿迄申談じたき事ありとの儀故、即ち修理町屋へ出兵候へば、座敷の奥へ呼入れ給ひ、我は羽柴筑前守秀吉なり、景勝へ直談したき仔細ありて、越中より、態と是迄来るなり。春日山へ通し給ひ候へと仰せらる。修理申すは、斯様の為め、某を此許に差置き候。私に委しく仰聞けられ候へ。景勝へ申届くべく候。春日山へ通し申す事は、罷成らず候と、堅く申切る。秀吉公、さあらば此趣を、景勝へ早打にて註進し、其返事次第に通し候へ。其迄此地に逗留すべし、其方へ申渡す事にてはなしと仰せらるゝ故、其儀に随ひ、秀吉公を城内へ請じ入れ奉り、馳走仕る。幸ひ景勝公、厭川に御座候故、右之通り申上げ、秀吉に切腹仕らせ候へと思召すに於ては、御人数下さる迄もなし、某手勢計にても、討泄らし申すまじと註進す。之に因つて越後衆評議の時、景勝公仰せらるゝは、あれまで秀吉、忍んで参らるゝも、一つの奥意あること炳焉たり。往昔はともあれ、当時天下に名のある秀吉、あれ迄登りなさるゝは、某を重んじ、去年誓詞にて申越さるゝ儀、相違なし。只今一戦にも及ばず、之を討つは、景勝律義に取り来る弓矢の名を、失ふものなり。秀【 NDLJP:181】吉自身来りて、真実を顕さるゝを、其儀を捨て、膩き様子しなば、天道に背くなり。景勝あれへ行きて参会し、其時宜に依つて、無事を作るか、無事調はずとも、秀吉は還し、以来一戦の雌雄は、互の運次第なりと仰せられ、各何れも、尤と申上ぐる。御供には、直江山城守・藤田能登守・泉沢河内守・安田筑前守、其外御手廻衆六七騎、以上十二騎、歩者共に六十四五人なり。残る人数は、厭川に置き給ひ、其日午刻に、落水城へ御著あつて、秀吉公へ御対面、色々御物語あつて後に、秀吉公の御方々は石田一人、景勝公の御方々は直江一人、其外の衆は、皆除け給ひて、二時計り御密談あり。其日西刻計に、秀吉公は落水を立ち、夜通しに戸山へ帰り給ふ。越中の仕置仰付けられて御上洛なり。佐々も供仕るなり。同年の暮、秀吉公より、御使木村弥一右衛門、越後へ参り、景勝公へ、十樽・十種・銀千枚・繻子級子合千巻・猩々皮百間、其外美しき御夜物・蒲団・御頭巾襟巻まで、念を入れたる筥に入れ、御簾中へは、綿千把・絹千端・綾羅百巻・銀五百枚・御肴・御樽等なり。其外御一家中、或は搔揚の小城持ちたる衆、並旗本の者、頭物・奉行迄、御音物夥しき様子なり。是にて、下々共に、御無事とは存知なり。〈附、藤田は、伴宮囲助参り候故、右の様子能く覚え候。〉
景勝公、柴田表へ御出馬、刈田働の事附真田安房守重ねて降参御許容、御加勢を遣さるゝ事'第一、同年六月、景勝公、六千五百の人数を将ゐ、神原郡へ御出馬。柴田の城を中に当て、井池峯池の端城を左右に受けて御陣取なされ、敵地を焚する働仰付けられ、一組づゝ番手にして、植田を混ぜ散らし、放火をし、乱暴をして、敵の糧を奪ふ。御陣所右の手先は、例の如く藤田なり。能登守陣場七八町近く迄、柴田城より秣働に出づる。六月廿四日の曙、歩者百四五十人・警固の士十四五人出で、此方を窺ひ、限の上、土手の陰、其辺に折敷居て、歩者には秣を刈らせ、畠物を薙取するを、斎藤源太左衛門と、南詰宮囲助物見に廻り、念入れ見課せて帰り、藤田へ申すは、敵近々と忍び寄り働き候を、其儘に差置く事口惜しく候。馳せ向ひ叩き散らし、敵の芟集めたる秣畠物を、奪ひ取り候べし。御手廻衆に、事を致したがる者共を十四五騎、召連れ申すべしと断つて出づる。藤田申さる、手明の者をも、残らず連れ候へとの儀なり。藤田は少し病気故、出でられず。斎藤・南詰両人にて、十五騎を下知し、手明の衆皆【 NDLJP:182】は多しとて、五十人に、柄の短き槍を持たせて、脇道より廻らする時、急ぎ押廻し、乱れ懸つて追散らせ。必ず首を取るべからず、切捨にすべし。秣を多く奪ふべし。奪ひたる秣の験は、様子を替へて紙を切り、或は鳥の毛を用ひ、紛れざる如くにして持たせて、数を以て、手柄の品を賞すべしと申付く。尤其内に、目付・横目を定むる故、験を取替など仕る事なく、心にて心を吟味仕る国風故、下々も蓬き仕形なし。士は自自馬を牽きて、鞍の上には草を刈掛け、槍をも馬に添へて、農人の如く出立ち、人の見付くる迄は忍び歩みて、間二町にもならば、各馬に乗つて押詰むべし。敵は歩立、味方は馬上なれば、二町の内にては、容易く追付くべしと、士衆にも之を申渡す。又敵、自然二の見を拵へて、守返す事もやとて、鈴木四郎兵衛組の足軽三十五人を、五町ほど此方に備へさせ置きて、働き出づるなり。其日、朝霧深くして、敵遠くよりは、然と見付かず候故、二町程に詰寄つて、何れも馬に
附右の小山三蔵・縄惣助事、小山、元は藤田能登守馬の口取なり。去年藤田佐州、河原田表にて一戦の時、藤田馬突殺され候節、此三蔵と三右衛門といふ口取二人、少しも噪がず、
一、白き三𬏈、四方に金の五つ月つりものにして、麾にしたる小馬験。之を持つ者、平野源右衛門。
二、大馬験は、白き四𬏈四方黒く、五つ目竿頭には、赤地に白く、上り藤の丸を付けて出とす。之を持つ者縄惣助、
三、白嫩は、指物田村弥次右衛門。之は物前働の時、藤田自身の腰指なり。
【 NDLJP:184】此総奉行二人あり。首尾宜しきを以て取立て、縄惣助・田村弥次右衛門、手明衆の小頭になり、弥〻誉の働仕に付きて、後は、知行廿四五貫充取り申候。平野源右衛門も、柴田落城以後、十五貫賜はり、騎馬の衆に申付けらるゝなり。
第二、信州尼ヶ淵の真田安房守、重ねて景勝公へ降参仕る事。天正十年、信州の真田・小笠原・蘆田・上杉へ降すと雖も、北条へ随心し、真田、又北条を背きて、家康公へ属す。之に因つて其年極月より翌年迄、上州沼田を始め、八ヶ所の城を乗取り、剰へ北条家と数度の攻合に、真田勝利、大なる誉なり。其翌年天正十二年、家康公と秀吉公、御弓箭を取り給ふ時、家康公より加勢を乞ひ給ふと雖も、北条氏政・氏直、表裏の大将故遅達なり。其年の御取合、毎度家康公御勝利。秀吉公御退散なり。之に因つて今年天正十三年酉春、北条より、家康公へ仰入れらるゝは、羽柴と重ねて御取合に於ては、加勢致すべく候。先年和睦の節、上州は、北条家へ賜ふ筈の処、真田、沼田を取つて持ち候。此方へ渡し候様に、仰付けられ下さるべしとの儀なり。之に因つて家康公より、沼田を北条へ渡し候へと、仰遣さると雖も、替の地を、真田に下されざるに付きて、沼田を渡さず。是に於て景勝公へ、須田相模守・島津淡路守両人を頼んで、訴へ申上ぐれば、先年志を翻し、北条へ便り候事、愚意の仕る処、之を演ぶるに及ばず候。御赦免に於ては、当年十八歳に罷成る愚見源次郎に、百騎差添へ、永代御被官に仕り、春日山へ差上げ置き申すべく候。是々の仔細を以て、家康へ野心を挿み候間、家康より植田へ手遣あるべく候。此節貴国より、御加勢を請け、御助成を得たく候。然るに於ては、向後御屋形に対し、悪意を存ずまじき旨、牛王誓詞を添へ、柴田表御陣所へ申越す。景勝公聞召し仰せらるゝは、真田事、先年上杉へ叛きて、北条に随ひ、北条を非に見て、家康へ降し、此度家康に不足をいひ、家康より討手到来の時節、当時近辺頼方なきに依つて、又此方へ申越すは、為方尽きての儀と覚ゆるなり。士は、大小共に頼み頼まれて、其家の絶えざる分別仕る儀なり。此度我等同心なきは、十方に敵を受け、殊に名将の家康に、楯衝き候はゞ、真田滅亡疑なし。夫を見捨つる事、且つは不便、且は景勝弓矢の規模なく、其上加勢を遣さず候はゞ、小身の真田を見捨て、大身老功の家康へ遠慮したりと批判あるべしと仰せらる。真田御詫言を御許容あつて、御加勢なさるべしとの御堅諾、仰遣さるゝなり。之に依つて柴田表より、御帰陣なり。【 NDLJP:185】第三、真田之を聞き、悦ぶ事限りなし。家康公、真田叛すと聞召し、先づ以て蘆田千五百の兵を率して、小室より、上田領の矢沢へ働く。矢沢組馬、八百の人数を以て出張し、一戦を遂げ勝利を得、小室衆を追払ふ。真田へ、越後より御加勢、河田摂津守・安田上総介・本城豊後守・信州衆栗田永寿・板屋修理・縄島豊後守・寺尾伝左衛門・小田切安芸・市川対馬を組合せ、軍差引談合相手に、宮島将監を指添へらるゝは、武者横目なり。総勢六千五百人の著到。七月十七日、信州上田城尼ヶ淵へ参陣す。扨又河中島衆、多く真田へ加勢に参る間、其虚を見て、小笠原、河中島に働く事もあるべきかと、其抑の為め、藤田能登守、相備には松本左馬助・斎藤三郎右衛門・垣崎弥二郎・地板太郎左衛門・新津丹波。検使は、荻田主馬・佐々伝兵衛両人なり。人数合千三百人、猿ヶ馬場の此方の麓、小市に陣取るなり。家康公よりは、平岩七之助・鳥井彦右衛門・柴田七九郎・大久保七郎右衛門・菅沼小大膳・岡部弥次郎・大須賀五郎左衛門・松本周防守・牧野右馬允・菅沼藤蔵・井伊兵部衆、彼此都合二万五千許。七月末、甲州著、御子の台迄取詰めて、夫より上田表へ押向ふ。真田上田城には、越後衆を頼んで残し、安房守、九千余の人数にて、二里出張して、小野山へ陣取る。其外丸子・熱子・矢沢・戸石・浦野・伊勢山へ人数を配り、毎度の戦に勝利を得。上野沼田へは、北条家より、人数を向け候へども、是も真田方勝利なり。悉皆安房守一心の武略、宜しき故なり。実に士大小上下、心定になるべき物語多し。家康公の御勢、閏八月末、上田表を引払ふ故、越後よりの加勢衆も、九月十九日、尼ヶ淵を立て罷帰る。此衆河中島へ打入つて後に、藤田能登守も、同廿五日、小市を立ちて帰る。右の通に付きて、真田安房守より、二男源次郎を、越後へ差上ぐる。之に依つて河中島屋代三千貫の内を千貫、源次郎に下さる。後に左衛門佐と改む。源次郎若輩故、矢沢但馬軍代にて、海野・望月・浦野・丸子など合備にて、人数百騎宛、春日山に相詰むるなり。〈附宮国助も、藤田に従ひ小市へ参り候。全く疑なきなり。〉
杉原城を攻落す事越後杉原城に、柴田因幡守より、劒持市兵衛・海〔梅〕津宗三とて、柴田下にて、武功の者籠る。景勝公、柴田が家来籠城なる故、御馬は向けらるゝまじ。柴田滅却せば、杉原は自ら落つべき間、雅意を致させぬ様に、近辺の佐々岡・下条・安田の城の面々、又は雷の丸田周防守等に仰付けらる。然る故右の者、此小城一つを目の前に差置きて、為す事なくて日を過すは、我の武【 NDLJP:186】術の薄きに相似たりとて、杉原城を取囲む。七月六日より攻むると雖も、八月廿七日迄、城内少しも弱気を見せずして、能く持堅む。然るに此城、外曲輪西の虎口を持ちたる梅津宗三が内梅津伝兵衛が甥谷沢篠兵衛といふ者、寄手の酒井新左衛門内にあり。之に依つて酒井智略を以て、谷津方より、伝兵衛方へ申遣す故、伝兵衛忽に逆心して、酒井を城中へ引入るべしと内通す。酒井方より伝兵衛方へ、矢文を以て、弥〻内通相違なき様に申遣す。然るに城内持口の番替り、柴田より来る足軽大将久留川隼人、西の虎口を請取り居る故、此矢文を取つて見る。柴田も、越後風にて、一手に慥なる検使を付くる。久留川手にも、森田左吉といふ者、検使にて罷在る故、彼矢文を、両人の城代に見する。之に依つて梅津伝兵衛を、成敗すべしと相談す。伝兵衛が与力同心共、寄親を成敗致されたらば、中間攻合になるべし。城外へ相聞えなば、忽に城を攻むべし。且又伝兵衛を、本城へ呼び候とも、身の誤あれば来るまじ。来らずば又取合になると、区々内談し、さすがの両城代、密に伝兵衛方へ使を以て申遣す趣は、頃日持口々々の人数、二日三日或は四日五日に入替ふる儀、我等両人、底意あつての儀なり。今日其方人数と、追手の八〔矢カ〕木原伊豆手と、入替へたく候。然るに矢木原、敵と内通の由、潜に訴人あり。然れども大事の大手を堅めさせ置き候へば、疎忽に成敗申付け難し。其方人数を以て、大手を請取致す時、矢木原、別儀なく渡し候はゞ、其方手を以て、大手を請取らるべし。其引足を、二の丸にて成敗すべし。若し渡すまじと、異儀に及び候はゞ、其方人数を以て、大手に於て、矢木原に切腹致さすべし。此分別頼入候。貴殿儀頼もしく、殊に日頃の武勇も候に付きて、内談申したく候。早々本城へ参らるべしと、申遣しければ、伝兵衛、其使と連れて来る。来ると其儘、伝兵衛が刀脇指を奪ひ取りて、之を押籠む。此時伝兵衛申す、敵より付つて、某を誅し、城に弱みを付くる計策を、実になさるゝは拙事なり。某は代々宗三の厚恩を受け、今以て其通りなり。何の不足あつて、逆心仕るべきやと、涙を流し之を陳ず。扨又伝兵衛預りたる二十騎の小頭一人、三十人の足軽大将二人、彼此頭立ちたる者四五人を呼び、伝兵衛を大手に遣すに付きて、其達にも申渡す事あり、参り候へと申遣す。伝兵衛参りたる事なれば、四五人の者も、何心なく本城へ参るを、道にて刀脇指を奪ひ取りて、其々に預くる。又浮武者廿五騎の頭諸賀右馬助を、伝兵衛が持堅めたる北の埋み虎口へ遣し、其所を請取らせ、伝兵衛は、追手の持口を申付けられ候間、何れも組の者共は、其持口【 NDLJP:187】を引渡し、先づ本城へ参れと申遣す。残らず参る処を、二の丸に人を差置きて、犇々と組留め、刀脇指を奪ひ取りて、助鋪々々引入れ申渡すは、伝兵衛逆意を、企つるに依り成敗申付くべきなり。伝兵衛は各時の頭なり。本主は梅津宗三なり。是を捨て、伝兵衛を見継ぐべしとの不義ならば、成敗申付くべし。宗三為めを存ずる覚悟ならば、小頭或は足軽大将を初め、之を取捕へ置き、四五人を撃つて出して、それを申訳に仕り候へと、銘々に之を申渡す。何れも〳〵其理を肯ひて、尤と申す。然るに城内諸口旗は、其儘飾り置きて、人数許替へ候。西の虎口人数替りたる事は、寄手知らず、伝兵衛より、矢文の返書遅々なれば、さては逆意現はれたるかと、寄手の各積り候中にも、下条采女、兼ねて念を入れ、城内虎口を持ちたる者、頭物奉行を初め、其々の名を聞伝へ、知りたる故、文章を引替へて、此方へ内通の状、或は褒美を書加へなどして、三通認めて、城内へ射入る。右の穿鑿半の処へ、此の如くなれば、其矢文を、手より持ち来り、我人気遣ひ騒動す。然れば梅津伝兵衛申す敵よりの計策に仕りたるとの儀、真なるべしと、用捨の分別出づる。伝兵衛は、今以て相変らず、達つて陳ずるに依つて、伝兵衛を成敗せば、後の矢文を得たる三人の者頭も、その如くなるべし。然れば大に人を損ひ、籠城の人数なしと談合して、伝兵衛を免じ、一一の丸土橋口を申付け、守らする。然れば九月二日夜半に、伝兵衛、我内の頼母しき者五三人、忍びて外郭へ出し、相図の如く、助鋪々々に火を掛けさせ、伝兵衛、二の内の虎口を開き、三の丸へ突いて出で、伝兵衛逆心すと呼びて、四方八方へ切つて廻る。寄手衆、城内の火を見て、城中に攻入る。城兵、内外の敵に斬立てられ、周章て騒ぐ故、二の郭迄忽ち乗取られ、梅津宗三・劒持市兵衛、之を防ぐ能はず、本城を捨て、裏口より出で、柴田城へ逃げ行く故、終に落城す。
附籠城人数配旗の武略、曲輪の口伝当変持口入換。是に付き五三日或は一二三遊兵の武術、塩噌薪糧の積、馬の食物、水の考あり。
右の梅津伝兵衛、身に疵もなくして死す。譜代の主に、逆心の天罰ならんと、越後にて普く沙汰す。
右寄手の衆へ、景勝公より御褒美あり。杉原城は、近辺の城々より、暫く番手に仰付けらる。翌年春、大関弥七を、城代に仰付けられ、名をも水原常陸介となさるゝなり。 【 NDLJP:188】新潟・乗足両城落つる事同年霜月廿日の夜、新潟・乗足両城落ちし事は、藤田能登守武略に依つてなり。其様子は、新潟・乗足其所の両司を、玉木屋・若狭屋といひ、有得なる者にて、町人なれども、代々弓矢を取り、能士二十騎衆召連れ出づる故、為景公御代より、所の代官職仰付けらる。景勝公御代の司は、玉木屋大隅・若狭屋常安といふ。然るに両人、共に藤田能登守と旧緑あるに依つて、土井丹波に、鈴木四郎兵衛を差添へ、魚買商人に仕立て、両司の許へ遣し、密に申遣すは、頓て柴田落城すべしと思ふ。柴田内士大将一両人心を通じ、御人数を差向けられ候はゞ、城を取つて差上ぐべしと申越す。杉原城を初めて御手に入れ、当暮は雪も深し、明春は追付け御馬を出さるべし。さあらば柴田落城、踵を廻らすべからず。柴田落城せば、新潟・乗足は、自ら餓死に及び、残らず御成敗は眼前なり。然れば落城以前、其方両人才覚を以て、両城御手に入るゝ計策仕り、忠節を励み候はゞ、両司相違なく仰付けられ候様に取繕ひ、其外御恩賞は望み次第、我等恩禄に替へても、宜しき様にすべし。某唯の新参者なれども、古参老功の輩と同前に、七手組の頭になされ、諸手の先手迄仰付けられ候へども、さしたる忠義も仕らず候へば、両司の働を借りて、某の奉公にも仕りたく候。同心なく候はゞ、柴田落城以後には、某何と申候とも、数代の御厚恩を抛ち、逆臣に与みし候御悪みを以て、両人大科に沈まん事疑なし。唯今忠を顕はし候はゞ、旧悪を御捨て、当忠を御褒美なき事はあるまじければ、其身の為なり、我等が為にも候と、理を悉し、道を正しくして、両使申しける故、内々両司も冀ふ所なれば、早速同心し、若狭屋は弟、玉木屋は甥を人質に、藤田方へ差越し、御人数を下され候はゞ、引入仕り、謀略を廻らすべしと申越す。藤田、則ち景勝公へ之を伺ひ。三条・黒滝・天神山より、人数を出させ、藤田持の長島よりは、吉岡式部をば後に残し、土井丹波、人数を連れて出づるなり。護摩堂の宮島将監、其時は三河守といひ、手勢を将ゐて、右の人数差引の大将分なり。総合千五百、賀久随浜へ懸り、湊へ押行くなり。海には内通の舟数百艘、掛並べ置きたれば、各鎧を俵に入れて、商船の如く仕なし、新潟の湊へ、其夜亥刻計りに押寄せ、物の具犇々と堅め、相図の告を待つ所、玉木屋・若狭屋・新潟城主柴田刑部左衛門を討取り、首を提げ持ち来りて中すは、刑部左衛門が内の者共過半逆心故、此の如くに候と申す。それよ【 NDLJP:189】り乗足へ押移り、城を取巻き、鬨を作る。同夜の暁なり。城主武者善兵衛、周章て騒ぎて、人数を配り、矢狭間を塞ぐ様子なり。兼て両司、善兵衛が郎党共を、誑し入れ候故、善兵衛が従弟武者半平を初め逆心故、城内より、善兵衛を撃て出すに依り、此方より参りたる士は、手を口ずして、一夜の内に、両城共に乗取る事、偏に玉木屋・若狭屋両人の才覚故なり。此両人、新潟・乗足代々の司にて、地下も町人も狎れ親しむ故、柴田因幡を初め、此両司に違うては、両城を持つ事ならず。殊に武達の者にて、長尾家より、一代に、感状二三通宛頂戴。其時の両司は、謙信公御感状二通宛所持申す故、刑部左衛門も善兵衛も、両司の機嫌を取る故、其下の者共は、猶以て崇敬致候。殊に景勝公、御武勇盛なる故、哀れ便もあれかしと、下々は冀ふ折節に、両司計策を以て、下々に合点致させ候によつて、何の手間も取らず落城なり。右の段々、景勝公聞召され、常安・大隅、前の如くに両所の司、相違なく仰付けられ、百貫宛御加恩下され候。扨又両城は、番手城に仰付けらるゝなり。
景勝公御上洛の事附河田軍兵衛御成敗の事第一、秀吉公、去年越中より、落水迄御越し、景勝公御出会。其後も秀吉公より、浅からず御心入、御和平の御事なれば、景勝公御上洛然るべしと、宿老衆申上ぐるに付きて、尤と思召され、御上洛あるべき旨、先達つて仰入れられ、秀吉公悦び給ふ。天正十四年丙戌四月下旬、御礼の為め、又木村弥市右衛門差越す。此時も品々御音物あり。同五月十一日、景勝公春日山御発駕なり。御供の人数、僅五千足らず召連れらる。御底意あり。木村弥市右衛門も御供なり。秀吉公より、路次中御馳走は、
一、越中は木村請取りて、越後衆上下賄仕。観世太夫・金春太夫両役者を連れ、御宿り毎々、隔日に能を仕る。〈附加仙山にては、城主中川武蔵守設饗。〉
二、加賀迄、石田治部少輔御使に来る。〈附尾山にては、城主に前田又左衛門饗応〉
三、越前迄は、増田右衛門尉御使に来る。
附北庄にては、堀久太郎饗応、府中は木村常陸介、〈弥一右衛門兄、〉敦賀は大谷刑部少輔饗応。
四、近江も、大谷諸事御馳走。就中大溝は、其城主響応なり。
五月廿七日、洛陽本国寺御著なり。其夜秀吉公、忍んで御出あつて、御礼御盃出す。秀吉公【 NDLJP:190】頻に御辞退にて、景勝公の御盃を御戴き、直江に御蓋を下され、其盃を無理に取りて召上らる。其外の衆をも召出され、御盃を下さる。明日聚楽へ、景勝公御出の御約束なさる。今夜御旅館へ、秀吉公御出の儀、沙汰なき様にと仰合せられ、御帰の時、御次の庇門に、梅津宗賢伺候仕たるを御覧。是は河中島合戦の時、武田典廏を討ちたりと聞く梅津宗賢なるべしとて、銚子を乞ひ、御觴下さる。諸人是を不思議なり。此者譜代士にて、他国へ行きたる事もなければ、秀吉公見覚え給ふべき事なしと、様々沙汰するを、藤田能登守・南詰宮囲に申聞けらるゝは、秀吉公、越後衆入洛の押前御見物に、栗田口の町へ御出ありたりと聞ゆる。上方に、関東・北国の者多く之あるべし。此方面々を見知りたる者あるを、御側に置きて、尋問ひ見置き給ひたるなるべし。某が推量違ふまじ、奇妙不思議はなき者なり。理の本吟味し、我心に落して、他の事を計るべし。秀吉公の此事を、名誉とは申されず。左様の御志あるを感じ、御大将の器に応じたりと誉むる事、正道なりと申さるゝなり。景勝公在京中、秀吉公より御賄木村弥市右衛門を附置かれ、御馳走なり。秀吉公御差図にて、景勝公宰相に任ぜられ、直江四品に叙し、藤田・安田を初め七人、五位に叙し、七月御帰国なり。
第二、景勝公御上洛の時、御供の士大将衆、手前の騎馬の外には、与力二三騎四五騎宛召連れ候様に、人数少き様にと、仰付けらるゝ内に、河田軍兵衛計は、其時摂津守といふ。手前の騎馬四五騎与力残らず召連るべしと仰出さる。河田、元来近江士なり。錦を著て故郷に帰る。其幅の江州の者共に輝かさんと、軍兵衛悦ぶなり。此底意は、秀吉公、此軍兵衛、去々年景勝公、越中宮崎城攻落し給ふ時、類なき武功を抽んで候様子なり。木村弥市右衛門、見て帰り、秀吉公に申上候によつて、之を感ぜらる。河田元来近江士なれば、北国に居るよりは、上方に望みあるべし。上杉家よりは大身にして、召仕へらるべしと仰遣され候はゞ、必定心を変ずべし。義を思ひて、心を翻さずとも、仰越され候はゞ、脇より疑あるべしと秀吉公より、内問の心にて、近江半国を給はるべし、越後を引払ひ、上り候へと仰越さる。河田同心して、秀吉公へ志を通ずる由を、横目目附密に言上す。然れども忠功の士大将、殊に秀吉公の和平にて、御上洛の事なれば、態と右の通り仰出さる故、河田、我が威勢を、羽柴家へ見せんと思ひ、春日山より、二三日は御供仕り、夫より煩の由を申上げ、其身は、鬼葦毛といふ矢疵斬疵十二箇所ある名馬に乗り、与力三十五騎・手前の騎士五人、合四十騎の備、華麗に出立ち、諸備よ【 NDLJP:191】り二三里宛引下りて、法外の様子蔑如し、上は我の強き故なりと、諸人に思はせ、上方への余勢なり。景勝公、越後に於て、御成敗成さるべしと、御心定めの上に、此の如くなれば、弥〻御憤。右の通り逆義故に、越前敦賀禅寺に御宿陣の時、観世太夫能を御覧なされ、客殿の前中庭に小屋を掛け、士大将衆、何れも相詰むる。河田も其通りなり。河田を放打に、仰付けらるべしとの御心にて、直江山城・藤田能登を、先づ御前へ召され、其次に、鵜杖九右衛門といふ御右筆を以て、河田を召さる九右衛門、客殿の縁に跪きて、摂津守召させられ候と呼ぶ。摂津守、何心もなく、小脇指計りにて、白州に下りて参る処を、向より五人、後より十人にて取包み、諚意なりと詞を懸け、望月九郎左衛門といふ手明衆、一番に進みて、河田が弓手の髃を、深々と斬付くる。河田截られながら飛び懸りて、望月が真額を、頤迄二に斬割る。残衆、透間もなく懸りて、終に討留むといへども、望月即時に死す。其外手負三人、内一人は深手にて、翌日死す。外に又一人は、河田十三ヶ所手負ひて、労れたれば、是迄とや思ひけん、踏込んで一人と無手と組み、差抑へて刺殺し、其軀を踏へて、討たれ死したり。無類剛強の働なり。扨又河田寄騎三十騎は、河田出仕の後にて、申渡す儀之ありとて、直江が陣所へ呼寄せ、番を付け置く。其外は河田が被官共、河田御成敗前に、仰付け置かれ候故、藤田能登守は、御前に相詰め罷在候定故、藤田士廿五騎、此頃秩父下野守、検使は伊古田彦右衛門・南詰宮囲両人に、近習の心緒仕たがる若者十人相副へられ、外に足軽百人、此頭四人、小頭八人、手明者六十人、此頭三人、藤田七人の相備衆、其主人は御本陣に御能見物に罷出づる故、人数少し宛出す。以上合三百八十余人申付け置き、河田御成敗の節、河田被官共罷在る所へ行向ひ、河田摂津守、不義あるを以て、唯今御成敗なり。下々の者は、是より国へ罷帰るべし。それを如何と存ずる者は、其分別仕れと之を申渡す。河田被官共申す、主を誅せられ、生きて本国へ帰るべきや。諸共に御成敗なされ候へと申して、一所に集まる。是に於て藤田衆押寄せ、敵味方合四百余人立別れ、就中河田衆は、死身になつて働く故、一入強く、大形の小攻合ほどの様子なり。河田内五騎の士は、いふに及ばず、歩・若党・小者・中間迄、少しも未練之なく、切死仕り、宮囲も、佐治十之衛といふ覚の士一人と、歩者一人とを斬殺し、一人を生捕る。神保五左衛門も、三人斬留め、伊古田彦右衛門も、二人斬殺し、一人生捕る。河田被官上下百四十三人を、一人も残らず斬留め、或は生捕り候。藤田方にも、死人三十余人・手負四五十人之あり候。【 NDLJP:192】上方衆の聞耳を慙ぢ、国の名を思ひ、一入精を出し候。是程の事に候へども、御本陣は申すに及ばず、討手の外は、下々迄少しも課がず候は、謙信公御仕置よき越後の風にて、此の如し。御能過ぎて、右の様子言上仕候へば、河田が葬礼結構に仰付けられ、景勝公も御出、焼香なされ候て、仰さるゝは、天道は、一人の為めに曲げずとあれば、斯様に申付くる事、大将の法、是非なき所なり。然りと雖も、年来の軍功に依つて、礼儀の為め、景勝是迄来れりと、有生者に宣ふ如し。河田が被官共は、一に斬死仕り、一筋に主の供を望んで、此の如くなる事神妙なり。又与力の者共は直江が陣所に居て、一人も言を出さず候は、屋形の御恩を受け候へば、其場へ出づるは不義なりと穿鑿、理非を仕る事尤なりとて、御感なさるゝに依りて、河田寄騎の者共涙を流し、忝がり候。上方家の衆伝へ聞きて、弥〻上杉家を向上に、奥深く存ずる様になさる事、景勝公御底意深し。
附藤田衆討死の者共、其被官迄も、景勝公より、弔を仰付けられ候。
附越後に於て、河田摂津守子共並家老三人、甘数近江守・鉄上野守申付けて切腹なり。
景勝公赤谷岩を攻落さる事附南詰宮囲助、赤谷左衛門佐を討取る事柴田因幡守、一味の城共を攻落され、頼少なく思ひ、後楯の為め、奥州会津盛高の幕下に成る。玆に因り盛高、行々越後へ働入るべき為め、会津の堺赤谷岳に砦を築き、先代よりの赤谷左衛門佐といふ五百騎の士大将を籠め置く由、景勝公聞きて、仰せらるゝは、柴田一人の働なるまじと思ひて、会津へ従ふは、尤の工夫なり。是を閣きて、柴田を攻めば、他国の一味を気遣ひて、斯の如しといはるゝも如何なり。我持の国端に指さしをする者を、そのまゝ閣く事遺憾なり。左衛門佐といふ忰を踏殺し、会津へ塩を付け置き候はゞ、以来の為にもよし。然れば柴田は、籠中の鳥の如し。自滅仕るべしとて、赤谷御発向と御密談を定め、表向は、柴田へ御出勢なさるべしとの御触なり。御手組手合御備定は、
一、右の御先藤田能登守合備は島津左京亮、〈父淡路守は河中島に残る〉其衆は、栗田永寿・清野左衛門・小田切安芸・市川対馬守・岩井備中・真田安房守人数、軍代矢沢但馬守、右の衆何れも長沼組な【 NDLJP:193】り。御旗本より信濃足軽大将上野平次兵衛、検使は佐々伝兵衛、人数合三千六百。
二、藤田二の備、隅田左衛門尉、信州海津組を持つ。
三、左の先、安田上総。
四、此二の備、本城豊後守。
五、御前備は御旗本組の内にて、長尾伊賀守・長尾加賀。
六、右の御脇備、直江山城。
七、左の御脇備、小倉伊勢守。
八、御後備は泉沢河内守。
附小荷駄は、河内守相備の内にて、二手を申付くる。
九、一つの口伝。
九月二日、春日山御出馬。同七日、杉原より一里余那辺野御陣。二日御逗留。御能仰付けらる。〈御底意あり。〉九日夜半前より、先手出隊して押し、柴田より一里程這方、放生橋を渡る時、景勝公より御使を以て、柴田筋へは用なし。赤谷へ押し候へと、先手藤田へ仰遣さるゝ故、即ち東方へ備を繰出して、赤谷へ押向ひ、上道七里計なる故、十日巳刻、赤谷の麓へ押詰む。前広絵図を以て、御内評定相定むる故、藤田備は、赤谷砦居館曲輪を右に当て、本丸の方へ押廻す。斯様に急に、景勝公寄せらるべしとは、敵思寄らざれども、赤谷にも、武辺の家なれば、少しも騒がず。人数も多からずとも、大軍の様に示し、曲輪々々人数を早や配り、根助鋪の曲輪より、弓鉄炮を打懸けて本丸の方へ、越後勢を廻させじと仕る。藤田下知して、上野平次兵衛に、我旗本は、いふに及ばず、合備の足軽を差添へ、弓百五十張・鉄炮三百五十挺、右を三つに分け、繰替へ〳〵、透間なく放ち懸け、城内を打癱させて、其備裏を藤田人数押通して、東の方より、本丸を取巻く。次の備安田上総も、足軽を先へ出し、上野平次兵衛が備場を請取る。上野は、上総が足軽大将に渡して、藤田手に相加はる。安田も、藤田如くに仕り、備を押通し、藤田備の二の見を、安田請取りて備ふ。此城は、西と南と沼深く、池広く、水湛々として渉なく、壑聳え巌滑かに、山径峨々として攀ぢ難き故、寄手の備配斯くの如し。残の備は、御旗本の前にして備ふ。隅田右衛門尉備は、西の方根助鋪の曲輪を、北の方より手遣して攻むる。根助鋪に能き者、多く之なしと相見えて、本城より人数を下して、寝小屋を持堅むる【 NDLJP:194】様子、山城の縄張悪しくて、本丸より人数を下す事、景勝公御牀几の場、小高き所なる故、能く見ゆる。それに依つて、又小倉伊勢守を、隅田に差加へられ、強くなく弱くなく攻めて、攻取り候へと仰付けらるゝ間、城よりも突いて出で、小攻合之あり。扠又、藤田方へ御使を以て、御下知次第攻むべし。御下知なき内は、攻懸る事無用、御工夫ある故斯くの如しと仰せ下さる。其内、敵、本陣より重ねて根小屋へ人数を下す事、三度に七十騎余なり。之を以て、城内の人数積、赤谷が身上、盛高より加勢未だ多く来らざるの積を以て、重ねて、景勝公より御使を以て、本丸へ取懸り攻め候へど仰遣るゝ故、藤田采配を取つて、備大将と雖も、手前の人数を二段にし、其二の見を堅めて押寄せ、既に帯曲輸迄取付く。岩井・小田切此二手は、後に残して、備を堅く立てさせ、残る相備衆は、藤田に続いて城へ乗る、前方、鬮取を以て、前後左右の法を定めて斯くの如し。帯曲輪に墓々しき者なくて、皆逃散る。本丸より弓鉄炮を放ちけれども、事ともせず、即時に乗移ると、其儘同時に凱を作る。安田備も鬨を合せて、二の手より取寄する。其内に、早や南詰宮囲助、帯曲輪の仕切に致したる本丸よりの、下り屏の覆の上へ飛乗り、槍を杖に突きて、出丸へ取付く。之に続きて上りたるは、跡部〔路イ〕七右衛門・松崎歌之助・伊古田主計、其次五人目は、藤田能登守自身、白嫩の差物を取つて腰に差し、槍を以て乗らる。然る所、城主赤谷左衛門佐は、本九の屏裏盤木を、小屋柱に用ひ、其上を二階の如く仕り、之を二重防といふ。此上に上つて下り、屏より上る宮囲助を見下して、槍組む時、宮囲助が鎧の射向の袖の下、脇楯の外へ、左衛門佐槍を突込む。宮囲助は、左衛門佐を屹と向上げて、槍を裏兜へ突入れて頭を貫き、其槍を抜かずに乗込んで、屏裏へ突落し、飛下りて首を取り、采配を添へて高名仕る。此所へ御旗本より、鉄孫左衛門、御使に来つて之を見る。本城に居たる士五十騎余、歩者合せて百二三十之あるを討取る。就中栗田永寿衆夏目作左衛門二番乗を致し、能き敵を討取る。是に依つて、居館の曲輪も攻落されて、赤谷落城なり。敵を討取る首数千二百八十、雑兵ともに斯くの如し。其日暮れければ、競の凱歌を揚げて、翌十一日辰刻、首実検なされ、十二日、武功の面々御感状並に御褒美御詞の品、上中下の御吟味明なり。
【 NDLJP:195】 天正十四年九月十二日 景勝御判
南詰宮囲助殿
右の御本書、今に所持仕る。
直江山城よりも、褒美として上田鴾毛といふ馬を給はる。
藤田能登守よりは、景勝公御感状に添状仕り給ふ。是は先年の火事に焼失す。
右赤谷城破却仰付けられ、会津領の内少々御手に入る故、其辺の仕置等仰付けられ、同十三日、御立あつて直に柴田へ御馬を寄せらるゝなり。
景勝公、赤谷より帰路柴田へ御馬を寄せられ、藤田能登守、武略を以て今泉砦を乗破る事附帰帰陣の時敵と攻合の事第一、景勝公、赤谷より直に柴田へ御馬を寄せられ、井地峯城近に御陣取なされ、敵地方々、芟田・放火働番手に仰付けられ、廿七日の昼、安田上総・本城豊後両手、刈田・放火の番にて、柴田城際近く押詰め、弓鉄炮を放懸くる。敵若し油断ならば、乗取るべき様子に見ゆる。然るに、柴田城東の方十七八町程阻てゝ、寄居の砦あり。今泉といふ。此今泉より、柴田城へ加勢を遣す。之を藤田能登守、透波を以て見届け、景勝公へ之を伺ひ、右の加勢の帰る処を討取るべしとて、同日の夜、藤田相備の岩付・小田切両手を、道筋へ伏兵に遣し、能登守は残りて相備を将ゐ、如何にも潜に備を出し、今泉の近所に押寄せ、人数を匿し備ふ。景勝公より、荻田主馬を検使に遣され候。今泉より柴田へ加勢に行きたる者共、夜半に及ぶとも帰らず候。藤田、智略を以て、彼の伏兵共に申付けて、忍んで梶川を越させ、今泉城際八九町近くにて、同士軍を致さする。矢沢但馬、其時は三十郎といふ。清野左衛門、此両手の人数にて、同士軍仕る場所と、今泉城との間を取切つて備を立つる。今泉の城より之を見て、柴田へ加勢の兵帰るを、敵、妨ぐと意得て、城より人数を出す、清野・矢沢之を請取つて、攻合を初むる時、同士軍の岩井・小田切備を立直して清野・矢沢が二の見を持つて懸る。藤田、今泉城人数多かるまじと積り、采拝を取つて、下知して城へ乗る。案の如く防ぐ兵少き故、即時に乗移つて、火を懸け本丸迄焼崩す。此故に出でたる人数は、途方を失ひ逃散るを、少々追討して、手早に引揚げ、備を立堅むる。是は柴田城近ければ、柴田より討つて出でたらん時、味方備乱れ【 NDLJP:196】たる所へ懸られては危し。長追すべからずと、場所を定めて斯くの如くなれども、雑兵共百六十余人討取るなり。南詰も人並の印を取る。政〔本ノマヽ〕弱みの首なれば、誉といふにはあらず、案の如く柴田へ加勢に行きたる今泉の者に、柴田勢も少々加つて、備を出し候へども、早味方人数を繚め引揚げ、能登守旗本を以て殿り致候故、敵ひるみ候。なれども、敵も、流石の者共にて、両度迄蒐つて喰留むべきと仕る。南詰、小殿して両度ながら、一番に返して鑓組み候。此時、栗田衆の水科平内、能登守方へ使に来り、踏
附右の水科平内事は、元亀三年遠州三方ヶ原合戦の時、栗田永寿も、高坂弾正相備にて出陣、永寿先手にて、水科平内、三河衆と一番に鑓を合せ候に付きて、信玄公より御感状下され、殊に鑓平内と仰下され候故、夫より以来、鑓を差物に仕り、名を得たる冥加の士なり。
第二、右永き在陣故、諸卒の気を慰め給はん為めに、折々能仰付けられ、其見分油断にて、驕の様なり。さる故、甲州浪人小笠原刑部といふ誉の者、其時使番にてありけるが、潜に景勝公へ申上ぐるは、御陣中は油断の様に見え、自然敵働出で、夜軍など仕る儀、之あるべきかと申候。景勝公仰せらるゝは、尤もの諫言、さもあるべき事なり。然しながら、因幡も老功の者なれば、此方油断とは見るまじければ、働き出づまじ。若し働き来らば、却つて味方の吉事なり。軍番の者、左様の時、出会ふ人数、敵の人数に積り合する事は、其方も了簡たるべし。扠又、城を払つては出でざるものなり。此方より城近く、刈田放火に働き候故、一入跡を気遣ふべし。軍番の者計りにて、一戦を持つべし。明番の者、乱舞の内にも、行儀を定め置き候へば、其度に当つて出会ひ、二の見を持ち、又刈田放火に働く備も、相図を定め置き、何なりとも、近方より敵城へ押寄せ、籠る勢少きを幸にして、乗取れと申付くる事、昼夜ともに斯くの如し。夜は三々の九一、或は一三、此法を以て少しも危き事なし。敵、此方を油断と見る程、味方の吉事なりと、仰聞けらるゝなり。〈口伝。〉
第三、当年は一入寒気、諸卒草臥れ申すべき間、御帰陣然るべしと各〻上ぐる。景勝公、尤【 NDLJP:197】もと仰せられ、さあらば、新潟・乗足〔沼垂〕を、御帰陣の序御覧なさるべしとの儀にて、三条黒滝護摩室へかゝり、押狼へて廻れば、遥に四五日路ある間、直に柴田・池の端二つの敵城の間を通り、一里半先の佐々木川へ懸り、押し候へば、上道七里余なり。此道を押通らるべしとの儀なり。夫に就き、各〻評議に、本道一筋は危しとて、一人役に土俵を当て、沼池を埋めて、道三筋作らする。其道普請の時は、城の抑勢を差向けられ、此仕様宜しく、一日の内に普請出来ず。敵城二の間を通るなれば、必定、敵、後より慕ふべし。道一筋にては、手配なり難しとて、斯くの如くなり。十月廿八日辰刻、陣払の烟を揚ぐる。御先、右は須田右衛門尉、左は小倉伊勢守、中は総小荷駄雑人なる故、此中の先へ、泉沢河内守相備衆押して、中に小荷駄、其後を河内守自身の備を押し、是に差続いて、御旗本備押し、両脇の道は、諸備の騎馬衆、尤も合戦を待つ人数計りを以て、分合変化の法を正しく定めて押す。一跡の総殿は、藤田能登守仰付けらるゝを以て、能登守、備手分を定むるは、
一、右備は島津左京に、市川・栗田・小田切を組合す。
二、左は清野岩井・上野平二兵衛・真田軍八・矢沢三十郎、〈但馬の事、〉此四手の検使、御旗本より武者横目佐々伝兵衛。
三、中は藤田能登守手前の騎馬計り。
右、何れも斯様の時の備押、手毎の作法、其常変二つ理に至極す。〈口伝。〉
然れば、案の如く、柴田・池端・井地峯三城より、一人数を催し、三千許り出でゝ喰留めんとす。能登守。采拝を取つて下知して繰引く事、右備定の如く、中の道をば能州旗本之を請取り、寄騎同心手前の騎士を合せて両拒に作る。
附人数の多少を以て繰引く事、例へば大軍は三手二段、小軍は三手一段と覚えて、五手十手三段五段の備にも手配す。味方の多少は、敵の衆寡により、地の険易に応じ、一隊一部変化の〈口伝。〉越後流軍法なり。総じて味方一手にては必ず危し。別手を用ふべし。別手を用ふるは、大備の時なり。小備にては、三手一段の義を本として、工夫鍛練すべし。
敵大軍なれば、両拒の備をも厭はずして、向備へ切懸る。猶又、藤田備の様子を見て、敵二千計り増来り、以上五千計りにて、三方より箕手に取巻き、藤田が三手の備を押崩したがり候へども、何れも信濃・越後の強兵計りにて、柔兵雑らざる故、少しも散靡かず、足並を乱さず、【 NDLJP:198】取つて返して敵を追退け、二手忍んで一手を曳かせ、一手備を立つれば、二手引取り、繰換へ繰換へ仕り、十町程引揚ぐる。是に於て、能州思案は、敵大勢なりとも、我が一備を以て守返さば、一旦は追払ふべけれども、柴田も功者なれば、某が備に構はず、跡備を以て、御旗本へ切懸らせ候はゞ、某、殿をする甲斐なし。又斯くの如くにて、敵に利はさせまじけれども、道のはか行かず、御旗本を以て、大返し然るべしと積りて、馬にて言上は、備の譟になるべしとて、歩道無類の達者なる大須賀主膳を以て言上仕る。景勝公、即ち主膳を召連れられ、御馬廻五六騎、歩の手明衆十人計りにて、能登守備に乗付けなされ、敵の様子御覧あり。能登守申す如く、総返し然るべしと思召しければ、藤田に仰せらるゝは、我れ旗本へ乗帰る迄相待ち候へ。乗付けたる相図には、貝を吹かすべし。之を以て、敵の備を見繕ひ、攻合を初め、汝が備にて、貝太鼓を合はすべし。之を聞きて旗本より大返にすべしと、御直に仰聞けられ、御引返しなされて、頓て貝音聞ゆる。藤田、敵の色を校へ、自身の備を引く。敵又、前の如く繰引くと思うて、慕懸るを見定め、南詰宮囲、其時は軍八と申候。一番に進んで返す。各〻続けと名乗りかけて突いて懸る。然るに、敵白地に赤鎌付けたる武者と、黒地に白鎌付けたる旗差したる武者と、二騎手明の者と覚しき男一人、以上三人を相手に致し、軍八鑓を入れ初むる。矢沢但馬、左の方より取つて返し、我が組子を下知して、真先に進み、軍八鑓組みたる場へ乗懸け、軍八助くるぞと呼んで突懸る。軍八鑓組んで居ながら、武士道は面々各各の働、其方は稼を仕給ふべし。合刀は請け申すまいと咲ひながら挨拶す。二番に差続くは鈴木弥兵衛なり。右の方栗田手より、夏目作左衛門一番に取つて返す。此各〻に同勢続いて守返す。是に於て、御旗本より貝・鐘・太鼓の三を合せて、大返になさるゝ様子によつて、敵悉く敗軍し、四角八方へ逃散る。其内、井地峯へ多く退き候を、藤田衆、遁さじと捲り立て、井地峯迄追ふ。既に附入にせんとするを以て、敵、大手の門をば塞いで、裏門の方へ逃るゝを追懸る。城内より弓鉄炮を掛並べ、廻す所の屏際十四五間阻てゝ、横合に打立つる。それにも臆せず、三四十歩も逐ひ候故、味方手負死人四十人出来候を、時の検使井筒女之助、采拝を取つて追行く味方の先を四五返乗切り、打纒め下知して、早々引揚げさする事、武功の業なり。夫より又、備を繰り、根本の道へ懸つて、瀬伊路の森を右に見て、佐々木川を渡り押通り候。此後は、敵慕ふべしとも仕らざるなり。〈附右の女之助は、本国加賀士なり。謙信公御代より、御使番にて数度〉武功の誉あり。常に下げ髪にて、色ある小袖薄絵の表〔〈衣脱カ〉〕を著し、裲襠にて女出立に仕り、景勝公御前へも出仕、六具の時も、其通の装束なれば、諸人に変つて、武勇一入目立ち候。【 NDLJP:199】藤田一手へ討取る首数三百四十九、其外の手に討取る首は、六十余なり。景勝公、乗足へ御馬を寄せられ、爰にて首実験あつて、其々に御褒美の時、藤田を一番に召出され、時の御褒美として、御具足一領御馬一疋下され、其次に宮囲助を召出され、相模鉢の御甲に、黄金一枚添へ下され、諸人に勝れて斯くの如し。其時の仰に、軍八、井地峯城際矢鉄炮
次に矢沢三十郎を召出され、御太刀一腰下され候。此時、軍八事を矢沢称美して、其場の様子を申上げ候。此外、御前へ召出さるゝ衆、御褒美物上中下、御使にて下さるゝにも上中下、御感状並に奉書の御感状も、其文体上中下あり。此時、御前へ召出さるゝは、藤田手前の者を初め相備衆計りなり。諸手の内にも、首二三取り候と申すもありと雖も、本道を退かず、逃げこぼれたる首なりと批判あつて、御褒美なし。景勝公両地御覧、御仕置仰付けられ、三日御逗留、新潟よりかゝた浜へ懸り、藤田持長島城へ寄られ、御馬一日御休足、諸卒を御憩し、夫より春日山へ御旗納なり。之を井地峯帰陣と、越後家にて申すなり。 附同年十二日朔日、藤田能登守家騎五十騎の内、廿五騎の小頭を、南詰宮囲助に仰付けられ候。是は小林安芸守死跡の組なり。宮囲助十八歳なり。但し介副に弓矢功者本間治部少輔を能登守旗本より付けられ候。
景勝公、柴田表へ御出馬、会津より柴田への加勢を追払ふ事附今泉・池端両所にて攻合の事第一、天正十五年丁亥七月廿三日、景勝公一万の人数にて、柴田表へ取詰められ、刈田・放火働仰付けらる。然るに、八月廿九日、会津盛高より柴田へ加勢来る由、透波慥に聞きて告ぐる。是に依つて、藤田能登守・島津左京両士大将に行向つて、会津よりの加勢を討取り候へと、仰付けらる。藤田・島津、道筋案内は能く知りたり。廿九日の夜に入り、梶川端本道傍を見繕うて、両所に歩草を伏する。一所は南詰宮囲助に本間治部相添へ、足手五調なる若者を選み、百三十余人、一所は島津衆七十余人、林森右衛門・関右京進之を請取る。又赤谷より続【 NDLJP:200】きたる山手を、忍んで来る事もあるべしとて、本道より七八町南の山に、藤田・島津両備より選出して九十騎、手明の者五六十人、両手一手にて、別手に用ふる馬の舌を鑣承鞚に結付け、 �頭を短く詰め、䪂掛を縮め、銀鉤遊鉄を紙にて巻いて忍居る。之を越後家にて、馬上草といふ。物頭物奉行、馬上にて伏兵に出づるなり。伏兵に馬上はなき事なれども、是は山手にて隠れ所多し。其場による故なり。殊に敵によるなり。道の辺近敵合旁、其様子味方の武術、応格応時深理あり。扠又、遠見・取次・近見の三者を差遣す。其様子は、
一に、遠見は武道の術を知りて、頼母しき誉あつて、才覚らしき士一人。
二に、手明の内より足手強盛にて、弁口よく詐なき者五三人、右の遠見に差添へ、遣すを、取次の者といふ。赤谷の野辺の山迄、遠見の者に取次の者を差添へ、彼の遠見の者、敵の出でたる様子を見定め、或は其身も飛脚、或は商人の真似を致し、時に取つての様子に随ひ、敵の備へ打交り、敵の作法人数の多少迄、能く聞届け見究めて、追々註進するなり。
三、近見の者は、敵何方迄来たるといふ事を知らするなり。
他国は如何もあれ。越後家に於て、藤田三者の用様、此時此作法なり。然るに、其夜丑刻計りに、会津より加勢の者共、彼の山手を忍んで押通るを、三者の告を聞き、藤田能州、自身の備を出す様子を見て、島津人数の内にて申付け、歩草への相図の火を揚げ、太鼓を以て告知する。之を聞見て、藤田方の歩草一手起して、南詰宮囲に、本間治部相添へ、両人采拝を取つて、会津衆の後の方へ、続松を燃立て押揚る。島津旗本も入立ち候故、跡先を取切らるゝ中を突散らされ候故、敵、右の方へ翻落ち、此の方なる梶川さして逃散る所を、島津衆の歩草を、其頭の関井両人、能き汐合に起し立て敵を討つ。味方も総様乱るゝを以て、兼ねての定の如く、宮囲と治部と両人下知して、我が組一手の備を立堅め、二の見を持つなり。右の様子は、何れも相図を定め、本道へ来れば、又山手の衆、斯くの如きの作法と兼ねて申合せ、両道へ分つて備ふるなり。〈口伝。〉敵、悉く梶川へ打入り、逃げ候を追懸け討取り、或は生捕る。藤田能登守も、川中へ乗入つて、自身太刀打して二人斬伏せ、又一人は頸を捕へ、鞍の前輪に引付けて、陸へ乗上げ投頻し、根岸十兵衛といふ者に縛らせ給ふ。〈今、松平丹波守所にある根岸庄右衛門父なり。〉然れば総手へ討取る首数二百有余、生捕五十九人なり。残る者共は、赤谷の方会津へ逃帰ると相見え候、柴田の方へは、一人も落行かず候。討死したるは大半士なり。生捕られたるは、大方雑【 NDLJP:201】人、其内、士三人あり。景勝公、藤田・島津に御褒美なり。
附生捕の者共に、様子御尋ねさせなされ候へば、柴田表川田放火に逢ひ、城内糧匱しく柴田滅亡近く候間、矢玉兵糧鉄炮五十挺、人数百騎、御加勢合力頼来り候故、右の通盛高より合力に候。我々儀は、兵糧を脊負ひ参りたる者共にて候と申す。是に付いて、景勝公仰せらるゝは、柴田兵糧竭乏、彼の体の頭もなき奴原を殺し、兵糧を奪ひ、味方の強に致す事、相手にこそよれ。因幡に対し、景勝擬作には長気なり。兵糧を持たせ、城内へ送入れ候へ。城を攻落すは、敵の剛なるを、景勝、鋒先を以て踏崩してこそ、心地よけれと仰出され候に付きて、兵糧を持たせ、士三人をも助け遣さるゝ故、悦んで柴田へ行くもあり。池ノ端・井地峯へ、其々に行くもあり。之を却つて、敵、怪み城へ火を懸けよなどゝ、誑されて斯くの如くなるべしとて、一人も残らず召捕つて成敗し、首梟並べ候は、哀なる事なり。景勝公御工夫向上なり。然る間、会津家を初め、其成敗に逢ひたる者の親子・兄弟・類身の地下人、悉く柴田を疎み、景勝公を忝く慕ひ奉り候。他所へ聞えても、御威風強きなり。
第二、同九月三日、本城豊前守、同じ相備の宮崎修理・中条与次、軍代の築地薩摩・黒川左馬助・竹俣筑後・相川治部などを初めて、瀬奈美衆、放火・芟田の番に当り、九百余人の人数にて、今泉を越え、柴田城近く相働く。然る所、柴田・井地峯城より二千許り、人数を出し、梅津宗三大将にて之を妨ぐる。然りと雖も、越後御譜代武勇の面々なれば、両勢を
附景勝公、兼々士大将衆へ仰渡さるゝは、敵の人数、味方より大勢なりといふ事を、註進するを如何と思ひ、入らざる所に健気達をするは、弓矢不案内なり。景勝へ対して不忠なり。軍は人数の多少によらず、転変にあり。たとひ敵、小勢にて必定打勝つべしと思ふとも、跡備を引付け、全勝の利を得る分別こそ忠節なれ。士大将一個の手柄を致したがり、自然負くれば、士大将の負をば差措き、景勝が負といはれて、悪名を取る。悪名を得ては、威なくなりて、他国はいふに及ばず、自国の者も、景勝を浅く思うて、下知を軽んじ、衆心一統の備を設くることならずして、合戦攻合に負け、滅亡する外之なく、其本は、士大将の敵を軽んじ、敵【 NDLJP:202】の人数を隠し、一個の功を思ふより起れば、逆心同前の罪科に仰付けらるべしとの御掟なる故、此度も、柴田勢大勢出でたる事、遽に御本陣へ告ぐるなり。
景勝公、藤田能登守・安田上総守両備を、本城豊前加勢に仰付けられ、一の手藤田、二の見安田、井地峯を左に当て、梶川の上の瀬を越え、敵味方の攻合をば、右の方に見捨てゝ構はず、敵の二の見梅津宗三が備へ懸つて、斬崩して押廻はす。藤田・安田両備、分合聚散の法、其変其常。〈口伝。〉此備色を、敵見て先にて攻合ふ敵、見崩して後の備は逃懸る。之を立直したがり、伊藤左近、采拝を採つて下知仕る所を、瀬奈美衆、透間なく切懸つて、伊藤左近を始め、悉く討取るなり。然る故、梅津宗三も、備裏より崩れて、早々人数を打入れ、梶川の下の瀬を渡つて退散す。瀬奈美衆、梶川を追留に仕る。其迄十町余なり。首数百八十許りなり。
第三、池ノ端城内より出で、作塞働を仕り、城際に掛並べて之を
附右搦手口より、敵突いて出でたる時、宮囲助一番に槍を合せ、何れも劣らじと懸つて攻合ひ、敵を追ひ入る。宮囲助、廿五騎の組を手早く引揚げ、虎口前三十間余窕げ、蒐場を他へ譲り、味方左の傍へ打繚め寄せて居所備ふる。是は敵引入る様子、重ねて突出づべきを知り、又は味方の働く其軍形を見積る一得あり。案の如く、味方早く雄の若者共、我れ劣らじと、虎口前へ透間もなく詰め懸り、敵出でば槍を致さんと、寸地を諍ひ重りあひ、刀を一腰振廻すべき様もなき体、是軍道に所謂実々の備は、却つて虚々の禍ありといふ理なり。城中より此所を見て、城戸を開きて、一度に咄と突いて懸る。其勢勇猛、円石を千仭の山に転じ、積水を千仭の谿に決する如くなれば、味方、之を抑ふる事ならずして突崩さる。宮囲助、之を見て退き、味方を颯と通し、追来る敵の右の方より、采拝を取つて突いて懸る。相組衆廿五騎と、本間治部・南詰宮囲合せて廿七騎、其場に於て首廿六討取り、高名して何れも手を塞ぐ。糟谷源左衛門一人、敵を討たずと雖も、此時一番に槍を入れしは、右の源左衛門なり。宮囲若輩と雖も、見習数度の事、其汐合を積る故なり。此様子を見て、崩れたる味方も立直し、能登守旗本も押詰むる故、敵逃入り、四度目に勝利なり。味方追懸り候故、敵附入に遇ふべきかと、早く門を閉づ。九騎鎖出さる。其敵、烈しく働くを以て、味方も三人討死、七八人手負ふと雖、其門際にて、一人も余さず討取る。之を添へて三十五の首数なり。其内、宮囲も又一人之を討取る。糟谷源左衛門も、其場にて二騎敵を討留め、高名仕る。無類の働、始終の誉なり。 附右二度目に、敵突いて出でたる時、虎口前に詰めかけたる味方、追散らされ候を、藤田旗持平野源右衛門、味方敗軍と思ひ、小馬験を持ちながら、十間余逃げ候。藤田、陣所へ帰つて、平野を搦め、斯様の臆病見懲の為め、成敗致すとて、陣中を引廻し、之を相触れらる。各〻頭衆を初め、能州へ詫言には、以前より火急なる事に、数度逢ひ候へども、終に未練之なき者と聞及び候へば、此度の儀、強ひての臆病にあらず、時に取つての不手際なるべし。先づ一応は【 NDLJP:204】御赦免候へと、種々申さるゝに依つて、藤田是非なく、命を助けられ、相替らず旗を持たするなり。柴田落城の時、無類の強き働仕る。末に之を書す。
附南詰宮囲御感状頂戴す。此御感状之を紛失す。
井地峯城陥る事第一、景勝公、井地峯城を攻落さるべしとて、直江山城守に之を仰付けらる。城の西の方、山際より二町程隔てゝ、七八町余出居を築廻し、東の山下を流るゝ梶川を、南の方より堰入れて、此一方を手向はずして、其利を設くる事、景勝公御奥意深し。土居の土は総手へ配当て、一人一俵の出俵なり。直江は、井地峯の城を抑へ働せず、残る備大将衆は、代る〴〵柴田・池ノ端を抑へ候。一日の内に、土俵を以て土居を築きなし候。十月十三日、景勝公、井地峯の東の山へ御陣替なさる。右は直江山城守、左は泉沢河内守なり。南方追手口は、藤田能登守之を抑ふ。相備は信州衆栗田・清野・市川・岩井並に真田軍代矢沢、越後衆には色部・黒川等なり。島津左京助は、藤田二の見にて、又候池ノ端筋の抑なり。此の方搦手口は、安田上総守、二の見は小倉伊勢守なり。須田右衛門尉は、柴田より後攻の抑の為めに、土手の外へ押出し、又は池ノ端をも兼ねて両端の備なり。両端の備には必ず一角あり。越後家秘伝の武備なり。御陣所の山に、復山を築いて、城を見下し内を見罅し、火矢大筒を以て射懸け討懸け、一攻にて敵の策略を見給ふ所、城内法を失ふ様子なり。然れば、井地峯家老河瀬次太夫・近習の隊長羽黒権太夫・渋谷八郎右衛門・同彦助、以上四人申合せ、直江へ申入るゝは、我々命其外、某等不便に存ずる者共を、お助け下されば、道寿斎を討つて出し申すべく候。尤もと思召し候はゞ、擁の符を下され候へとて、偽なき趣、罰文を以て申越す。直江即ち之を伺ひ、相符遣され、廿三日に攻懸るべし。引入には、藤田能登守備を遣すべしと、堅く申合はすなり。 〈附擁の相符といふは、越後国風弓矢の詞なり。其相符を持ちたる者をば、討取らざる様に申定むる法なり。但し其時は、水か波と答ふる合詞を以て、擁の合符に致し候事。〉
第二、廿日の暁、景勝公より藤田能登守方へ、仕寄場遠き間、近く取詰め候へど、鉄孫左衛門を以て、之を仰遣はされ候。孫左衛門、則ち藤田手に付きて居るなり。然る故、藤田下知し、其夜、竹束を崩し、一束十人組と定め、其竹束を楯に用ひて押上り、山の半腹屏際三十間計取寄する。十人組の後に、五人三人宛、手を塞がずして附行く作法故、各〻一戦を持ち、自然敵【 NDLJP:205】出でばとある事なり。扨其後より、二俣或は籠などを押立て、最前の竹束を、其へ持たせて取堅め、遠ければ又練寄せ候。山城へ竹束付くるは、一入六かしく、平城の竹束にも、尤も口伝あり。扨南詰宮囲組の廿五騎をば、介添の本間治部に頼み、相小頭水越将監へ申断る。悪沢右近、其時は助十郎といふ。之を伴ひて、竹束の外へ出し、城の様子を考へ、敵出づるか出でざるかと闚ふに、城内の体を以て、敵の働き出づべきを積り、竹束際より七八間出張り、場所を見定め、伏居て之を待つ処、案の如く、其夜子の上刻計りに、敵七八十程、鍪を脱ぎ差物も差さず、鎧の筒計被つて、相験を袖に付け、草の中を静に匍ひ来る。是は竹束を引倒し、混乱する処へ打懸り、其場を突退くべきとの事なり。然るを、助十郎に、宮囲いふ。彼は敵なり。定めて
第三、廿三日、安田・小倉両備、搦手の町口より、入替へ〳〵攻寄する。道寿斎、搦手の外廓へ討つて出で、下知する所に、藤田、麾を採つて竹束を踏倒し、右手の虎口へ責上る時、内通の者共、城戸を開いて藤田備を引入る。道寿斎も之を聞きて、搦手より帰り入る故、搦手の町口をも押破り、火を懸けて攻入る。道寿斎、本城へ引取る所を、二の見橋の上にて、羽黒権太夫、情なくも馬上より引落せば、渋谷・河瀬、忽ち其首を取り、藤田前へ持来る。人の所為にあらず、畜類すら情あり。語るも口の汚なり。城兵も誉ある者共は、過半切死す。一番に抽んでて敵を討ちたるは、藤田衆の内にては中村無角なり。二番に早瀬川修理、三番に南詰宮囲助の組北村八左衛門、能き敵を討つ。右三人は約敷場所なり。宮囲助・斎藤源太左衛門も高名仕り、鉄孫左衛門も、其場へ来り、宮囲と詞を交へ高名仕る。扨又、三の丸より外迄は、小倉衆森寺新五郎一番に人を討ち、町口を火矢を以て焼立て、押入る時、一番に押入りたるは、安田内月谷九郎三郎なり。続いて総様我れ劣らじと、踏破り押入る故、敵、逃入り候を追討に仕る。此故に、其時戦功の穿鑿に、人を討つは、藤田衆剛なり。其仔細は、主の井地峯死に【 NDLJP:206】たるを見て、討死を志す者は、心を変ぜず一筋に意得て、其勇力の強を相手にしての働なり。安田・小倉衆、町を押入る時は、内に敵の有無多少の儀も知らずして、一番に押入る森寺・月谷は、最も誉なり。其所に敵なくして、手に逢はず、何事なく押入り、三の丸迄の間に、主の死したるも知らずして、本丸の方へ逃ぐるは、強みを忘れたる敵なれば、それを討つは追首なり。此を以て、藤田衆は劣るなりとの儀、正道の御批判なり。藤田衆も、此時の高名は仕易し。敵、死身になりたる者共なりと雖も、戦場に於て白刄を交ふる者、誰か生を忘れ、死に帰せずといふ事あらんや。是は沙汰に及ばず。此時、五人と一所に踏止らず、那辺這辺散乱して居る所に、味方多勢にて、取包んで討ち候へば、仕にくきにあらず。されども、其内、敵に剛士ある故、味方も手負死人多し。安田・小倉衆には、手負死人なし。手負あるも、皆弓鉄炮の遠疵なる故、藤田衆働上ぐるなりとの御吟味なり。〈附、擁の詞に外れたる者共、雑兵かけて百三十余討取つて、完く井地峯城落居なり。扨又、反忠の者共には、御褒美下され、春日山へ差遣され候御底意あり〉
夏目舎人助心緒仕り候夜話天正十三年三月二日、藤田能登守家来武笠藤兵衛といふ士、春日山下町にて、景勝公の御小人衆と、喧嘩を仕出す。武笠は、郎党と二人にて、相手三人斬殺し、五七人を追散らして、町屋の奥へ走入り、小座席口のある所へ取籠り、主従にて両口を堅め、罷在る由を、藤田衆聞きて、駈付け取囲む内、奉行衆の者共来り、舎人助も馳付け、様子を聞き候へば、然りといふ。舎人いはく、他所の者取籠りても、来かゝり候上は、様子にはよると雖も、見物はなるまじく候。況んや藤田者にて、面々爰迄来り、手遅して、奉行衆の者取られ候はゞ、名華はなしといひて、其近隣にて、木刀を一本追取り差翳し、表口より押入る。籠りたる者一人、待受けたりといひて、跳り懸りて打つ太刀を受止め、引組み押倒し、取りたるぞと詞を懸くる。今一人の取籠りたる者、助け懸る所に、荒川山三郎といふ者、裏口にありけるが、舎人が声を聞きて、先を越され口惜しといひ、裏口の板戸を踏破り飛入る。彼の男、舎人に組まれたる者を助けずして、荒川に向ふ。荒川も、刀をば抜かずして、二尺余の木刀を持ち、一つ二つ打合ふと引組む。其所へ是も裏口に、彦部勘左衛門といふ者ありたるが、荒川が跡に続いて押入る。荒川、早相手を取伏する故、舎人方へ助け寄り来りけるが、舎人は、初の者を踏伏せて、首に刀を【 NDLJP:207】当て縄を懸くる。此様子を見て、又荒川を助けて取堅むるは、荒川は、太刀大脇指にて、然も抜けず、科人の抜きたるは刀なり。腰に差したるは、是も二尺計りの大脇差なれば、組んでの役に立たざる故、運の勝負を極め兼ね、剰へ、上になり下になり、雌雄決し難く見えけるを以て、彦部、荒川を助けて、共々之を捕固む。右の科人、舎人が搦捕りたるは下人、荒川が捕へたるは、主の武笠なり。両人の大小を取り、二人の囚人をば、先へ遣し、舎人は、跡より春日山三の曲輪藤田屋敷へ帰る。然るに、其翌日兼約にて、藤田宅へ、直江山城守御近習の丸田周防・御横目の山上三郎左衛門、其外五七人招請饗応あり。彼の武笠が喧嘩の事を物語り、最も無道にて重科なれば、斬罪に相究められて後、夏目舎人・荒川山三郎・彦部勘左衛門三人と、藤田下の隊長武奉行迄呼集められ、右若衆の前にて、藤田能登守、彼の武笠主従二人を召捕りたる批判申さるゝは、今度三人の働、舎人助第一、荒川第二、彦部其次なり。大勢押寄せたる内、一番に抽んで押入りたる心根勝れたり。相手、下人なれども、それは外よりは知り難し。小座敷両口を、二人にて堅めたると計りにて、何方に武笠居たるを知らず。我が向ひたる所より、押入る事尤もなり。押入ると其まゝ、楯突く者を相手とするなれば、縦ひ二人の者共、一所に立並び斬向ふとも、少しも臆すべき者とは思はれず。生死は運に依る事なれば、縦ひ討たれ、斬死にたりとも、抽んでたる志は、無類の誉なり。荒川は、主の武笠と組みたれば、上とは申すべけれども、常の作法とは吟味違ひたり。常の法には、主従高下遥に隔り、内様の働なれば、主を討ちたるを上とし、下人を討ちたるを次とする、是戦場野合の様子、それにも、其場其時の緩急難易の段はあり。殊更此度、主従の居所知れざれば、押入りたる志の次第を吟味するに、荒川は、舎人が組みたるをといふ詞を聞きて、飛入りたり。尤も荒川、心の臆したるにはあらず、待構へて居る所へ、舎人踏入り、下人を取詰めたるを、武笠、之を助けんとする時、荒川に飛入られ、心転ずる所を、荒川引組んだり。舎人働程にはあらざれども、天晴人に劣るまじと、心に油断なき故に、舎人に差続ぎ、透間なく押入りたる故に、武笠も、下人に助け合はする事ならず。然れば第二の働なり。彦部勘左衛門は、荒川が組余さじとする所を助けて、取堅め候事、勝負の結果の働、尤の事なり。然れども、舎人・荒川両人にて、二人の者を組み、彦部に逢手なければ、□気なきなり。されども荒川に劣らず、急に押入りたる事なれば、見合の磐分別にて、遅き心根にては全くなし。今少し早くば、必定武笠と組【 NDLJP:208】むべけれども、荒川に越されたる計りなり。又遅くば、荒川過も知れず、旁なれば善き心操なり。扨又、舎人は、相手を一人にて取堅めたるに、荒川は取堅め難く見ゆるを以て、彦部之を助け、やう〳〵、両人にて取堅むる上に、大勢重りて、刀脇差を奪ひたりといひて、荒川に非太刀を打つは、武士道不穿鑿なり。舎人が相手は、舎人より力あらざる故、抑へて縛られたり。荒川は、武笠と力量同じ位歟なるを以て、取堅め兼ねたるなるべし。人の力量は、勇臆の詮議なし。其場其時の様子を以て、志の浅深を穿鑿して、勇の上中下を定むる事、尤もなりと某は存ずるなり。各〻は如何思召すと申されければ、一座の衆、尤もと感ぜらる。此儀、景勝公の御耳に達し、藤田を召出され、少しの義にも、諸人の勇む如く、善悪を能く批判して、勇怯を正しく穿鑿仕る事、偏に忠勤の志浅からずとて、呉服十重下さる。それを三重舎人助、二重は荒川、一つは彦部に配分なり。能州、武士道の吟味、諸人の勇義を励ます事、斯くの如き故なり。此前年天正十二年の暮、舎人助が親祖父動功の義を言上、舎人佐渡にての働、杉原にての心操をも、委細に披露あつて、景勝公より領地を下され、直江などへ能く知らせ置き候へば、猶以て、後来の為めなりと、舎人事を、別して不便に存ぜられ候て、斯くの如し。其恩心更に忘失し難しと語り、悶絶落涙の話を聞きて、予も袂を濡し候。〈附、右の意操は、舎人助十七歳、軍八と申したる時の事なり。〉
管窺武鑑中之下第六巻 舎諺集 終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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