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管窺武鑑/上之中第二巻

 
 

藤田能登守の事

 

 
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管窺武鑑上之中第二巻 舎諺集
 
 
 
藤田能登守の事
 

第一、平姓藤田氏、従四位下能登守信吉は、永禄元戊午年生る。家紋五ツ月、或は藤の丸なり。

桓武天皇第五皇子一品式部卿葛原親王より五代、陸奥守忠頼は、高望王嫡孫鎮守府将軍良文公の嫡男なり。忠頼の子武蔵権介将常、其〔男イ〕秩父別当武基より、畠山庄司次郎重忠まで六代、重忠嫡子重保は、父と共に鎌倉に於て誅せらる。二男小次郎重秀より相続して、武蔵国に於て、秩父六十六郷藤田十二郷を旧領するに依つて、秩父とも藤田とも、在名を以て氏を称す。重忠より十五代藤田右衛門佐重利、武州鉢形に住し、用土七郷を斬取り、同州八王子まで手に入れ、城を取立て是にも居、又天神山にも居城して、上杉の幕下に属す。藤田・太田は、上杉幕下にて、両人大身の士大将なり。享禄三庚寅山内の上杉義綱御逝去、御子憲政、扇が谷の上杉朝昌御子朝長、両家共に世易の、何れも若出頭人を用ひ、老人の旧功の者を遠ざけ給ひ、国法・軍法共に次第に妄に成る。中にも憲政、塩売の賤息馬屋別当の子を取立て、菅野大膳・上原兵庫と申し受領させ、諸事、両人の支配なり。此時、北条氏康十六歳の時、武州へ出で、両上杉と弓箭を取り相挑み給ふに、北条を侮り、小身にて乳臭の童といひ、武備もなく油断して、遂に氏康廿三歳の時、天文六酉年、扇ヶ谷の持、河越城を乗取られ、翌年戌七月十五日の夜、河越の夜軍に切負け、次第に衰へて、天文二十亥年、憲政公、越後へ窂浪なり。御曹司滝君殿をも捨置かれたり伝、之を氏康公へ差上ぐるを、氏康公、仰付けられ伊豆修善寺にて、小番衆神尾承りて之を害し、傅乳人をも、縄を免さずして、斬罪梟首して札を建てらる。菅野大膳は、太田三楽〔所イ〕へ逃げ行きたるを、搦め取りて頭を刎ね、上原兵庫は、藤田右衛門佐の所へ逃げ来りたるを、扶助して置きけるに、右衛門佐児小姓増毛左馬に、慮外をして喧嘩を致す。彼の増毛、十七歳なれども、堪忍せずして討果す砌、散々に切り捲られ、逃げ走りて古井へ飛入りたるを、追掛け控き殺し候。秩父鉢形にての事なり。此の増毛、後に但馬オープンアクセス NDLJP:42守と申して、藤田能登守に附きて越後まで来り、能登守に弓箭の指南仕りたる武功の士にて、越後家の衆、知らざる者なし。

第二、右の如く、上杉家の非義逆路なる故に、北条へ心を通ずる衆多し。藤田右衛門佐も、上杉幕下なり。実の被官にあらざる故に、氏康公より和を入れ給ひ、子息北条新太郎を、右衛門佐養子に給はるを以て、北条へ随順仕る。是れ河越夜軍以後の事なり。右衛門佐重利実子二人、兄は弥八郎重連、天文十一壬寅年の生なり。後に新左衛門と改む。次男は弥六郎信吉、永禄元午年の生なり。後に武田勝頼の命に依つて、能登守と号す。其後、家康大君へ召出され、其方宗領家絶え候間、重の字を附け候へとて、忝くも御自筆の御墨附を頂戴仕り、信吉を重信と改む。是は藤田の家、中古より嫡子は重を附け、次男より信を用ひ来る故なり。今一人、右衛門佐死去の年、生れたる落胤腹に、小林平次郎と申すあり。是は甲州信玄公の下にて、総武者奉行の士小林正琳斎が娘、藤田右衛門佐妾になりたる此腹に出生す。正琳斎、子なき故に藤田に乞て、養子に仕り、小林平次郎と号す。我が娘の子なるを以てなり。

藤田右衛門佐、初め子なかりし時、上杉家次第に作法悪しく、北条家切蔓り候て、上杉家滅亡せば、藤田の家も絶ゆべしと考へ、北条家へ緑を結び、志を通ずるは天文九年なり。養子北条新太郎氏邦を、安房守重氏と改め、藤田を名乗らせ、程経て後、右衛門佐は、用土に城を取立て居住して、氏邦を鉢形に置き候故、氏邦を藤田とも、秩父安房守とも申し候。然るに、氏康五番目の子息助五郎は、後に美濃守と申す。其次六番目の子息、天文十七年の冬、氏康公、藤田右衛門佐に武道真似あやかり候様にと、名と乞ひ給ひ、右衛門佐と改められ候故、其より藤田は、新左衛門と改め、用土に居城故、用土新左衛門とも申し候。

第三、永禄三庚申年八月十三日、用土新左衛門重利頓死す。此時、実子嫡男用土弥八郎重連十九歳、次男弥六郎信吉は三歳なり。氏康公より用土・藤田両郷は、勿論其外の領知、或は秩父の替地心に給はりたる相模の内の領地まで、少しも異議なく、弥八郎に給はり、父の名を継ぎ、用土新左衛門尉と申し候。弟弥六郎は、其時まで兄弥八郎領知、北武蔵の内千五百貫の所を給はり候なり。附、後の用土新左衛門も、数度武功之ありて、証文多く候由〔〈脱アルカ〉〕紛失仕る。残りてある計りを左に出す。本書は用土彦兵衛所持なり。愚父宮囲助も、前代の義なれば、然と聞覚えず候由に候。

オープンアクセス NDLJP:43武州高山知行の内、神田川よけの郷進之候。恐々謹言。恐々謹言。

  天文十九年三月十九日 氏康

            用土新左衛門殿

​横紙なり​​一、是は前新左衛門なり​。此左衛門佐重利、誉ある士大将故、証文多く之ある由、久しき儀ゆゑ紛失せるなり。

二、此末四通は、後の新左衛門重連方への御書なり。書様墨次迄本書の知し。三通は横紙、一通は堅紙なり。

河南郷并白石弥三郎跡は、年任落去旨、不相違者也。仍状如件。

  永禄四年九月九日 氏康

          用土新左衛門尉殿

上州金井村進之候。可御知行候。馳入事者留書糺明上、於主は可指添者也。依如

  六月九日      氏康

           用土新左衛門尉殿

  知行方

武州長浜郷・同保木野之村・同久長村。

 以上

右今度、其方旧領所之相違之由、当方面々雖同前儀候、其方、一乱以来忠信不浅間、彼三ヶ所、永進之申候。仍状如

  永禄六年癸亥二月廿六日 氏政氏康

             用土新左衛門尉殿

織田返候間、一筆進之候。此間者、御岳郷珍敷儀無之候哉、承度候。如何様とも、からくり可引付候。彼地之義、簡要に候。仍自先度御望候間、木部一跡遣之候。弥〻可走廻候。此方御出馬、一両日之中に而候間、其郡人衆、無油断申付、可相待候。尚以御岳之事、専一に候。吉田宮内事問答の儀、是非為申付、此方へ可越之由申オープンアクセス NDLJP:44候処、終無返事候。無曲次第に候。随而少地之事候得共、猪俣方へ一所進候。弥〻可走廻由専要候。恐々謹言。

  追而富永与六者、同尾へ越候間、有指南給候。久者之義に候。

   八月四日 乙千代

       用土新左衛門尉殿

 右証蹟明なる故、記し置き候者なり。

第四、上野沼田城は、上杉謙信公の御代、河田伯耆守に預置かれ候所に、病気にて訴訟申し、同国廏橋の脇、関根の寄居へ引籠り、終に彼の地にて病死なり。伯耆跡に沼田城主上野中務少輔を仰付け置かるゝ処、謙信公御逝去、越後の乱に、上野中務、三郎殿方を存入り、秩父の藤田安房守重氏へ便り、北条家へ随心仕る。沼田七人衆の内、残六人は、

新巻彦次郎、其頃は北条居近といふ。是は廏橋の北城安芸守の甥なり。

竹沢山城守、是は元来佐野天徳寺宗綱入道の衆にて、武功の士大将なり。

渡辺左近将監、

大石新蔵、

木ノ内八右衛門尉、

南詰左衛門尉定虎、是は宮囲助の父なり。但し天正四年子年に死去。其節は、宮囲助は、己巳歳の生にて、八歳に候へども、父の跡組共に相違なく、就中〔ナシイ〕六十騎の頭両人は、下沼田図書・〈下沼田豊前従弟なり、〉片品主水、〈深沢刑部父方〔ナシイ〕の伯父なり、〉定虎の時より斯くの如し。扨又宮囲助幼少の故に、介添とあつて、小中彦兵衛といふ老功の者を、謙信公の御代より附下さるゝ故に、越後乱の時は、宮囲助は十歳にて、十方なく候へば、小中・下沼田・片品三人にて差引仕るなり。右の外、沼田地付の士、岡野屋下野・恩田越前守・中山駿河・下沼田豊前・発地宮内抔と申して、寄合を一ツ宛構へ、七八騎・十四五騎・二十騎計り持ちたる衆之あり。斯様の衆中、沼田本丸上野中書を攻むる折節、膳の城主九郎三郎は、中書が為めに壻なるが、見廻に来て本城に居たるを、攻衆、物ともせず、既に乗破るべき体なる故、中書降を乞ひ、九郎三郎取扱つて城を渡し、命を助かり、両人共に膳の城へ窄む。廏橋北城安芸守も、三郎方を仕る故に、沼田衆、力を落す所、秩父新太郎、大兵を引率して倉内へ相働かる。沼田衆、涯分防ぎ戦ふと雖も、オープンアクセス NDLJP:45くじの便りに後攻をすべき城々は、大方三郎殿方になる故に、力なく沼田城代、右六人の士大将、藤田重氏へ随心して、沼田城を渡すなり。

右沼田前の城主河田伯耆守は、河田伊豆守の総領にて、廏橋前の城主長尾謙忠に、弓箭指南の為めに差添へられたる伊田山城守壻のなり。男子三人あり。皆死去す。三番目の子は、元亀二年辛未に生れ、稚名を法印と附けられ、天正二年甲戌の春死去す。夫より伯州、病者になり、訴訟して沼田城代を免されしなり。此伯州は、宮囲助の父南詰左衛門と相壻なり。然れば伊田山城は、宮囲助定吉の外祖父なり。

伯耆守差次の舎弟は、河田豊前守長親なり。是は永禄四年の夏、謙信公御上洛の時、清水にて、右の豊前守忰の時、御覧なされ、唯者にあらじと思召され、父の伊豆に御乞ひ、越後へ召連れらる。御眼力の如く、若年より数度の武功の誉を得、次第に御取立て、後には越中一国の総職を仰付けられ、松倉城に居り、四十万石を領知せり。父伊豆守は、江州守山の地士なり。豊前守、故に父も兄弟も、悉く越後へ御呼取りなされ候。豊前守は、天正十年、越中の大津にて、忠節を抽んで討死なり。弟筑前守は、越後安田城主、其弟対馬守は、同国下田城主、其弟采女正は、同国下条城主なり。後に景勝公、伊地峯城を采女に下され、対馬守の子は、河田軍兵衛、後、摂津守と申し候。何れも武功の働を以て、斯くの如く景勝公御代迄存生なり。

第五、北上野沼田城、氏政・氏直より本城には、用土新左衛門尉重連を差置かれ、同年六月より居城相備へさせ、紅林紀伊守・布施平左衛門・井上などゝいふ士大将添へられ、降参衆の内には、武功之ある渡辺左近、扨又南詰宮囲助、是は用土信連と旧縁ある故に、右両人は、罷在るなり。相残る曲輪は、秩父安房守氏邦の家来を差加へ候へと、北条家より差図にて、斯くの如く氏邦の所へ、呼ばるゝ衆もあり、小田原へ行くもあり。居館々々に居るもあり。然れば氏邦存念に、我れ藤田重利が養子にならずとても、是程の身上になり兼ぬべきにあらざる所に、重利が跡さへ、とうと給はず。剰此度、沼田をば、我が才覚にて取り候へば、本城共に、我に預けらるべき所、斯くの如くなる事、新左衛門重連が在世の故なりとて、事を巧み、新左衛門台所人を、能く誰し入れて、新左衛門に毒害させらるゝ故、其年の暮、重連死去なり。氏政・氏直此義を知り給はざる事なれば、重連が跡沼田城をば、重連が弟弥六郎信吉に仰付けられ入オープンアクセス NDLJP:46城なり。是に依つて、氏邦弥〻憤りて、信吉の事を、氏政・氏直へ、様々讒を構へらるゝ故に、信吉への御会釈、前に相違して、沼田をも召上げらるべきか。又は誅を蒙るべき様子に相聞ゆる。此節、兄の重連を、氏国毒殺の事をも聞く故に、氏邦へ恨深し。されども、我が妻は、氏康より氏邦へ付置かるゝ武功の士大将紅林紀伊守の娘、是は去年死去なり。老母藤田右衛門の後室存生にて、小田原にあり。故に其年は、猶予して過しつるに、翌年正月、老母死去せる故に、家老の伊古田十右衛門・増毛甚右衛門と内談して、増毛を飛脚に仕立て、真田安房守方へ、我等事、北条へ斯くの如きの意恨あり。沼田を、勝頼公へ差上ぐべき間、御出勢候へと申入るゝ事、天正七己卯年二月初なり。真田、即ち増毛に使者を添へて、甲州へ遣す。勝頼公悦び給ひ、御出勢の内談相図迄究め給ひ、藤田弥六郎方へ、所領の御朱印に、大左文字の太刀を添へて給ひ、増毛には、金熨斗付の大小両腰下されて帰す故、勝頼公の御出勢を相待つなり。勝頼公、一万八千の兵にて、二月中旬甲府を立ち、東上野へ御出馬あつて、中山へ取付き、爰にて備の手分を定め、上河田城へ押掛け、一時攻になされ、城主牛木三河守討死落城なり。下河田山野越前は、城を明けて早々沼田へ逃入る。勝頼公、名来美の方に押を置き、上河田の上の、名来美の下の瀬利〔本ノマヽ〕川を渡り、鹿摩川を後に当て、白根川を沼田に向つて、備を立てらる。沼田の城門々を堅め、矢狭間を配りて相守る。藤田信吉は、内通の事なる故、わざと地勢少々に手勢僅に差加へ、臼根河原迄押出させ、城内の様子を見合せ相図の首尾を合すべき為めなり。扨武田勢と沼田衆と攻合ひ、城内の衆追々に加勢を出す。其の塩合を見積り、藤田・星名、曲輪より白四方の旗を以て相図をす。武田勢、此符を合せ、時刻よしとて勇み懸る。且又、藤田内塚本舎人・久屋太郎兵衛両人に申付け、城内よりの加勢の備、未だ全からざる内に、早々味方を引取らせ候へと有る故、両人乗付けて、味方の兵を引纒めて退く。加勢の兵、之を見て味方の後れと心得、入替らんと進むと雖も、混乱する其間に、はや武田家の跡部大炊頭が備を、臼根曲輪より水曲輪まで引入る。城内の氏邦衆は、之を見て敵附入ると思ひ騒ぐは尤なり。武田の兵と城より出でたる加勢の兵と攻合ひ、武田の兵、勝利を得追討つて城へ詰寄する時、藤田は、本城より弓鉄炮を放させて、自ら鑓を取つて真先に進み、跡辺衆を引連れ、門を聞き突いて出づるに、氏邦衆内外より取囲まれ、緊しく攻められ、敗走して自害をするもあり、渡辺左近などを初めて、各〻討死なり。右の内、紅林紀伊守は、信吉が舅オープンアクセス NDLJP:47なる故、兼ねて勝頼公へ申上げ、命を擁へて里川通を鉢形へ送られ候。紅林が武名、勝頼内々聞及び給ふ故、甲州家に罷在り候へと仰せられ候へども、紅林申すは、某、北条家の太刀影を以て武名を得候。全く一分が力にあらず候。譜代の家を捨てゝ他家〔脱アルカ〕望御座なく候。之を如何と思召し候はゞ、自害を仕るべしと申し候。故に其義心を感じ給ひて、送り返さるゝなり。此度信吉が才覚を以て、勝頼公、沼田を御手に入れられ、之を根城にして、方々御手遣あつて、北条持の城々、尻高・名来美・猿ケ京・上河田・下河田・新城・岩櫃・中ノ城・応期・山神・膳・廏橋迄、其年より天正九巳年迄、三年の間に攻取らる。藤田信吉、当国案内なれば御先手を仕り、忠勤を致し候。就中天正八年、勝頼公、膳城を御巡見の時、城主九郎三郎、自身采配を取つて突いて出で、同国の小幡・安中・和田・倉加野衆と攻合を初め候。勝頼公御下知を以て、総人数大返にして、膳城へ付入り、各〻一入励み抃ぎ候儀は、徒膚すはだにての城攻は珍しき事なり。爰を生温く仕り、突退けられ候はゞ徒膚にて巡見し、敵に突退けられ、俄にうろたへて逃げたりと、世上の嘲あらば、勝頼公の耻辱なりとて、終に膳城を乗り破る。此時、信吉、我が備を以て、一番に本丸へ乗り、九郎三郎が壻上野中務少輔を、自身鑓付け抑へて首を取らる。二番に続いて、本丸へ乗入りたるは、甘利藤蔵の備なり。城主九郎三郎を討取りたるは、一条衆三河窂人浅見清太夫といふ士なり。藤田方へ使に来て、本城にて斯くの如し。右に記す如く、沼田城をば、真田を頼み、勝頼公を引入れ候に依つて、真田に御預け、真田より城代として、矢沢薩摩守を〈□頃の但馬守父なり〉入置き、用土弥六郎信吉をば、本名藤田に返り、能登守に成されしなり。沼田城の廻り三千石は、城付なり。此外、沼田三庄残らず、脇々の旧領まで相添へられ、都合五千七百貫の所知を、藤田に下され、本領に千貫の御加恩なり。然れば上沼津金剛院の寺地を替へて、其跡に居館を堅固に構へ居住す。右の外、伊古田十右衛門をば、秩父下野守と改め、五十貫は増毛左馬助、其頃は甚右衛門と申し候。是をも但馬守と改め、五十貫は越後境信州の内阿部小玉にて下され、又塚本舎人・伊沢若狭・久屋太郎兵衛に三十貫づゝ西上野の内にて下さる。右は藤田能登守廿二歳の時なり。

元来、沼田代々の嫡家沼田平八郎といふ人あり。零落して居られたるを、謙信公御介抱あつて、尾奈淵の城主に成置かるゝ所〈非なり。謙信在世の時に、沼田は上野介景康主たり、〔ナシイ〕謙信公御逝去、上野表不穏の節、家老後藤新六入道逆心して、主の平八を追出して、〔脱アルカ〕として尾奈淵をふまゆる故、又平八郎窂浪オープンアクセス NDLJP:48なり。然るに此度、沼田騒乱の時を見て、沼田譜代衆相談しけるは、城代矢沢薩摩守を殺して、古主を本意させ申すべし。二ノ丸中山駿河が所へ、平八を迎入れて、矢沢を、外曲輪へ誑し出して殺すか。左もならずば、矢沢小人数にて、本城に居るなれば、押懸けて打ちしくべし。真田、我々を頼にして、此矢沢を差越置くなり。何に付けても、其行仕りよしと、久屋与兵衛・同左馬允・同太郎左衛門・中山駿河・塩原越後等を初として、沼田地付の士、彼是一味する所、中山駿河返忠して、矢沢に告知らせ、平八を水曲輪より迎入れ、駿河先立ちて伴ひけり。兼ねて其道に奸を伏せ置きて、平八を駿河斬殺す。其時、其場へ来る者をば、奸となりたる矢沢衆打留むる。居館に居たる者共の方へは、猶予なく押寄せて、残らず攻め殺すなり。是れ天正八年の暮の事なり。〈後藤・中山が大悪、いふも口穢しく、聞くも耳穢しと雖も、義士の憎に、之を記すなり。〉

信玄公二番目の御息、龍宝とて盲目にて御座候を、信州海野跡を仰付けられ、陣代奥野若狭守仕るなり。此龍宝の息女、勝頼公の姪なるを、藤田能登守に下され、勝頼公の壻分になさるべしとの仰出されあり。是れ膳城の様子にて斯の如し。然るに延引の内、勝頼公御滅亡なり。

第六、武田勝頼公、剛強に過ぎ、信玄公の中道御弓矢〔本ノマヽ〕を取失ひ給ふのみならず、佞奸の長坂釣閑・跡部大炊助を用ひ給ひ、国法・軍法共に、此両人の申すを用ひ給ふ。此両人佞奸故に、勝頼公を、信玄公より優り給ふと褒め奉り、非義の強を勧め申し、天正三年乙亥五月廿一日、参州長篠に於て、勝頼公一万五千の内、千八百余は武田兵庫を大将とし、三枝勤解由左衛門を差添へられて、鴟が巣に差置かれ、又二千を高坂源五郎・小山田備中守・〔我イ〕家・小泉・相木是等を以て、長篠城奥平九八郎家正を抑へ、残り一万二千に足らざるの備にて、敵弓矢盛の信長公・家康公御父子五大将、都合十万の人数にて、柵三重又は所により四重にもふりて、切所を構へ待居給ふ所へ、老功の家老の諫を用ひず、懸りて御合戦、歴々の家老物頭討死して、勝頼公、備を引揚げられ、長篠押の兵も、城を巻解して退く所を、奥平喰留むる故、高坂源五郎を

初め大〔将イ〕討死仕る。〈此源五郎討死、弟二男弾正を源五郎といふ。天正八年より駿州沼津に差置かる。甲州滅して天正十年、信州海津にて、景勝公より御成敗なり。〉鴟巣城は、家康公より酒井左衛門尉、信長公より金森五郎八を差添へられ攻め敗り、武田兵庫を初め討死なり。

右之通、武田家、備違ひ、国法も妄なるを以て、信長公御出馬、御一家の武田方、大方逆心し、オープンアクセス NDLJP:49勝頼公防戦に及ばず、郡内小山田兵衛尉を御頼み、岩殿に入り給ふ所、小山田、兄こじうと〔如イ〕の武田左衛門佐と申合せて、寄せ奉らず。田野の奥天目山へ入り給ふ所、山県同心、辻弥兵衛郷人五六千相催し、後山より打懸け射かけ仕り、前よりは、滝川伊予守・河尻与兵衛攻め懸る。年来の出頭人長坂・跡部・秋山摂津守八人、先に逐電して、相残る者四十四人なり。勝頼公・信勝公討死なされ、甲州滅亡す。天正十年壬午三月十一日なり。

附武田家の国々、信長公配分あり。上野に信州佐久・小県二郡を添へて、滝川左近将監一益に給ひ、廏橋に居城する故、甲州家の衆、大方滝川に属す。又時節を考ふる者もあり。信州上田尼ケ淵の真田安房守も、滝川に属する故に、沼田城を渡す。信長公より、一益が甥滝川義太夫を差置かるゝなり。然る所、同年六月二日、信長公御父子、惟任日向守光秀逆心して、之を弑し奉る。滝川、此の告を聞きて、信長公の弔合戦を志して、上洛の時、沼田義太夫にも、其表引払ひ候へと申越すに依つて、真田へ返し渡すべしとある時、藤田能登守申すは、沼田城、元来某が所持なり。某は近辺にあり。真田は程遠く候へば、某に預置かれ候へと申す。義太夫返荅に、元来は如何にもあれ。武田滅亡の時、此城を信長公〈[#「信長公」は底本では「長信公」]〉へ、真田より差上げたれば、真田へ返し候と申す。藤田思案するは、信長生害なれば、北条、上野へ発向必定ならん。然れば、北条より憎を得たる我なれば、手初の一戦は我なり。武田滅亡なれば、一旦の戦に利を得るとも、後道危しとの義を積りて、越後家長尾伊賀守方へ通じて、景勝公へ幕下の首尾を申しつくろふ。其使は増尾但馬なり。右の様子相究むる故、藤田五千余の兵を以て、沼田へ取懸け攻む。義太夫、人数四千計りあれば、中々攻むるとも、城内之を何とも、思ふべからざる事なれども、藤田、案内は能く知りたり。内々の心懸にて行をよくし、水曲輪一ツを乗取る。義太夫、兼ねて藤田と争論の事を、伯父の一益方へ申遣し置きたる事なれば、一益、廏橋の城より後攻をする。同国新田の滝川豊前、其頃は彦四郎と申す。扨は小幡・安中・和田・倉賀野淡路守・新田前城主由良信濃守・館林の長尾新五郎・箕輪の内藤大和守、彼此相催して二万計り、廏橋より新巻へ出で〔来イ〕野の台へ押上げ、長井坂を越え、新原森下へ移り、片品川の瀬を渡り、下沼田へ懸り、六月十三日、未刻打立ち、沼田まで上道七里余を、其夜に片品川に著き、川を前に当てゝ備ふ。藤田、此後攻の手当あるべき事なれども、五千余の兵を以て、四千の敵の城を、攻むるさへ危きに、五増倍に及ぶ大軍の後攻、殊更、真田・蘆田・小笠原を初め、隣オープンアクセス NDLJP:50国近辺悉く追々加勢の様子なれば、必定味方、勝利あるまじと思案し、行を仕り、十三日の夜に至つて、片品川敵の渡るべき所を見積り、塵芥を搔集め、人の形の如くに竹を三尺余に切りて、其先へ火縄を結付けて押し立つる。折節、雨頻に降り候へども、火滅えざる火縄なり。扨又、下沼淵にては、森を片取り紙拵へ旗を作り立て、大軍の備と見せ、篝を焚かせ候。短夜にて然も雨降り候。大軍の押前なれば、曙ならでは馳著くまじと思へども、自然一騎駈の如く仕り、早押著く事もあるべしと、積りしに違はず、其夜、八つ半寅の上刻、滝川、真先に進みて馳著く。同国の先方衆も、滝川に越されじと進み来る。然る所、藤田方、静まりて川端に弓鉄炮を掛並べ、後には篝火多く見ゆる。夜中にてはあり、川は隔てたり。夜明けて、得と敵の備を見定めて、一戦然るべしとて、夜の明くるを待ち、遅々遠慮仕るは尤なり。さる故、藤田、雨の降るを幸として、城を巻解して、其夜戌刻計りに引取るなり。其様子は、五千の兵を三備に分ち一備は右へ付きて一町程引揚げ、一備は左方へ付きて、一町程静かに繰引き、残る一備は藤田旗本なり。城〔衆イ〕今日藤田、一曲輪乗取る程手強き故、引取る事はあるまじと存じ、其上雨降り、物音聞兼ね、二備の引揚ぐるを知らずして、中備藤田が旗本の引揚ぐるを見て、城中より我先にと突いて出づる。藤田、懸引にして会釈ひ、思ふ図に偽り引寄せて一戦を待ち、相図の鉄炮を打たする時、左右へ引揚げたる備、凱を作つて城へ取懸る。出でたる敵、城を取られじと、引退くを追討に、二百計り討取る。敵引退きて城へ帰入り、矢狭間を配る儀、漸々成る間、藤田、隊伍を定め又繰引にして退き、白根川を前に当て、爰にて又一戦を待つと雖も、敵の出づべき気色見えざる故、夫より鹿摩川を渡り、〔廃イ〕地の谷へ懸り候時、総人数へ藤田申すは、積年の旧縁を忘れず、是迄の忠勤謝すべき様も之なく候。某越後へ浪人にて参り、面々を扶助する体になる事も、之あるべく候間、伴ひたくも存じ候へども、忍んで越し候へば、多勢も如何に候。殊に当時戦国最中なれば、義を専にする面々を同道して、一所に死を期せんも残多し。某、世に出でば再会もし給ふべし。碍ありて遅々せんも測り難く、其内大勢を孚む事もならざれば、某迷惑なり。面々、親兄弟妻子を捨てゝ、某に随ひ給ふも、其憂は某が罪、天道にも背くべし。疾々何方へも忍び給ふべしとて、青黄色金襴の具足羽織を、寸々に切裂きて、一人々々に手づから与ふ。面々、泪を流し申しけるは、斯様の時、見届け申す義、主従の道なり。兄弟妻子も、武士なれば兼ねての覚悟なり。目出度きオープンアクセス NDLJP:51事にて、御越山候はゞ、時宜に依りて、残り候事も仕るべく候へども、御行先も覚束なく候に、見放して帰るべき様なし。見捨てゝ帰り候はゞ、譜代の主にさへ、見届もせぬ臆病者なりとて、後指さゝるべし。御供申し候はんと頻に申しければ、藤田、手を合せ全く其道にあらず、面々より見捨てゝ帰り給ふにあらず、我が為めに能き道なり。滝川、此道筋へ人数を押向くべし。一戦の雌雄を決せん程ならば、沼田を取巻きたる時社尤なれ。爰にして一戦に及び、背著おしつけを見せば、後来の嘲、其本意にあらず。然れば爰にて切腹仕るべしとて、既に刀に手を懸けられば、面々、縋付き之を押留む。然る上は兎も角もとて暇を申し、忍々に古郷へ帰る。案内よく知る故なり。されども八十三騎、雑人をば皆帰して供仕る。南詰宮囲助、其時十四歳なれども、旧縁といひ今の親といひ、殊に長尾家は、譜代の手筋なれば、供して越後へ参り候。藤田能州、戸根川の河上・北上野の内、伊濃飛そへ懸り、直越の峠を越えて、越後の志水谷へ下り、長尾伊賀守持の志水城へ入る。景勝公は、此境節、信州へ御発向故、長尾伊州より使者を添へられ、信州長沼景勝公へ、藤田能登守御礼申上ぐる。其当座の賞として米千俵・黄金百両・上馬三匹・衣服其外、品々拝領、藤田に附き参りたる者八十三騎の者共も、御合力米等、色々下さるゝなり。

第七、沼田の後攻滝川、十四日黎明、河を渡りけれども、藤田引取り、塵芥の形作り旗の行の残りたるを見て、本意なく思ふは理なり。然る所、沼田城をば真田に渡し、義太夫を同道して厩橋に帰る。滝川思ふは、早々上洛して、惟任と一戦せんと思ふとも、此節、上洛を急かば、北条家よりよわみを見て、障碍をなすべし。此方より懸つて一戦し、勝利を得ば幸なり。縦ひ利なくとも、此方より仕懸けたる威に恐れ、以来の為めに能からんと考へ、漸く七千余の小勢にて、武蔵の国へ出づるは、松枝城に同名彦次郎を人質とし、三九郎・八丸といふ二子をも、入置き、又廏橋城、其外の城々にも、少々つヾ人数を加ふる心持あつて、斯くの如し。是に依つて、滝川、自分の勢は少し。然れども、関東衆箕輪の内藤・新田の由良・廏橋の北条・松山の上田安徳斎・志の成田下総・小幡の上総・或は倉賀野・館林・深谷の左兵衛督等を初めとして、一万五千計りを先手とし、二の備を上方人数に定め、六月十八日、和田〈今の高崎〉に陣す。北条氏政・氏直も滝川を滅すべき為めに出張して、同日甲山に著陣。先手は鉢形の安房守氏邦・松田大道寺・芳賀伊予守等なり。滝川、関東衆に滝川義太夫・堀田武助を差添へて、同月十九日払暁より、オープンアクセス NDLJP:52武州酒塚原に於て一戦を始じめ、北条家の鉢形衆・芳賀衆等に打勝ちて追討するを、一益見て、自身の武勇を輝さん為めにや、この備を以て脇へ廻り懸る所に、神名河筋にて、松田大道寺味方の崩るゝを瞪目に見なし、鉾矢に備を作り、太鼓を静かに打つて行き備へ、滝川、無二無三に競ひ進むを、敵、円月に備を変じて、左右より囲立て、挟みて之を討つ。二の手は北条陸奥守・甘縄の上総衆、滝川が備の後へ廻りて、討つて入るを以て、滝川敗軍す。滝川、既に討死あるべきを、篠岡平右衛門・津田次右衛門といふ士大将、乱れたる人数を纒め、百騎計りにて敵味方の間へ乗り入れ、敵と戦ひ、両士大将討死する故、其内に、滝川、遁れて倉賀野まで引取るなり。滝川一味の関東衆は、打勝ちて敵を追撃ちけれども、二の手の滝川敗軍故に引揚ぐるなり。

関東衆、斯様に粉骨を尽す事は、滝川が智より出でたり。信長公御生害の事、密状到来の時、滝川家老共、先づ隠密し給へと諫むる所、一益曰く、悪事千里を走る習なれば、隠して軈て顕るべし。某を関東管領職に仰付けらるべき間、手柄次第に斬取るべしとの御朱印を頂戴す。士は義を立つる者なれば、弔合戦に上る某へ、加勢こそ本意なれ。背く士はあるまじ。若し斯くしたらば、滝川、主君に離れ、東国に堪忍ならずして、逃上るなりとて、追懸けて討留め給ふべしと、申合せんは必定なり。顕して申聞かせば、義を守る士は、御つて見届くべし。猶若し敵対せば、信長公の追腹と思へば、本望なりといひて関東衆を呼集め、信長御生害の様子を申聞け、某を上せ給はんも、上せ給ふまじきも、各〻の心次第なりと申す故、関東衆、是に感じて右の如く、武州の一戦にも、滝川が先をして涯分精を出しゝなり。滝川、倉賀野より箕輪城へ入り一宿す。爰にての様子よき故、関東衆、弥〻心を変ぜず、夫より松枝へ移り、碓氷峠を越えて、追分へ出で、信州小室へ懸り、諏訪へ行き、中山道を経て、七月朔日、勢州長島の城に著くなり。関東信州路次の士大将衆、何れも一益に人質を出して見届くる。関東律義の風にて、斯くの如し。

第八、藤田能登守信吉、越後にて景勝公に仕へ、数度の働武功あり。其の後仔細ありて上杉家を出で、慶長五庚子年、関ヶ原御陣以後、御当家へ召出されたる様子、此の末巻に委しく之を記す。

関ヶ原御勝利以後、景勝公と御和睦調ひ、御内談藤田申上ぐるは、越後家代々の風儀正しく、オープンアクセス NDLJP:53縦ひ滅亡に及ぶと雖も、弱げを見せて、降参抔仕る事にあらず候。天下一統の御威光なれば、終には滅亡仕るべく候へども、御精を出されず候はゞ、早速滅し申すまじと申上げ候により、家康公より御手を入れられ御和談、尤も景勝公、小身になり給ふと雖も、家絶えずして子孫長久、是れ上杉家に対しても、忠と申す可きなり。

景勝公と御和潤の後、佐竹義宣公、秋田城之助〈今の阿波守の父なり〉と所替あつて、義宣は常陸国を召上げられて、羽州秋田へ二十万石、秋田氏は、常州宍戸へ五万石にて遣はさる。是は佐竹殿と石田三成と粗〻内通の由、上聞に達し、其各に依つて、斯くの如く佐竹殿の跡水戸城をば、藤田能登守に在番仰付けらる。此時、佐竹武功の士大将佐竹和泉守は、佐竹殿の古城、太田の在家に罷在り、車丹波守は市花といふ所に罷在り、両人申合せ、常陸にて一揆を起すべき相談仕るは、譜代の主、永代の領知に離れ、剰へ小身になりて、遠国へ御越は、流罪同前無念の至なり。然れば、水戸の一番手に居る者を攻め殺し、義宣に本意をさせ、天下を引請け、一戦を致すべしとの企なり。丹波守が二男は、相州小田原大久保相模守に、奉公仕り居たるが、大御所様、御煩の様子、御他界必定なれども、世間へ御隠密なりと聞き誤つて、佐竹へ馳来りて告知らする故、一入、右の企を急ぐの由、藤田、何としてか、之を聞出して、丹波守所へ、家来伊沢若狭守を使として、申遣しけるは、其方、当辺に忍び居、謀反の企之ある由、慥に訴人あり。然れども誠と存ぜず候。先づ沙汰なしに、其者を捕置き候。其方儀、一年佐竹家を肯き、上杉家へ出でられ、瀬の上合戦の時、柳川の須田大炊が手へ加勢に行き、正宗衆を追崩し、手柄の働其隠なく候。然れども、景勝公、小身になり給ふ故、又浪人して佐竹家へ帰参の志仕られ候へども、首尾調はざるを以て、世を捨て引籠り居らると承り及び候へば、敵、佐竹殿へ忠勤の為め計にても之あるまじく候。訴人の申すを実に仕り、縦ひ其方、当国にて存分相叶ひ候とても、行程遥の秋田より、佐竹殿の本意、思も寄らざる事なり。佐竹殿帰国なくば、常州の諸士地下まで、其方に親み附くべからず。頓て心を放すべし。江戸よりは程近し。三日の存命あるべからず。昔、関東にても出会ひ、心根を知りたる故、是程の分別あるまじと、は存せざる故申入るゝなり。然らば此方へ御出で、彼の訴人と対決あるべし。虚説ならば、其方の為めに、江戸へ披露を遂ぐべし。神八幡偽にあらず候。若し又、訴人の申す通実ならば、勿論此方へ参らるまじき間、返答次第、討手を申付くべき間、未練なき様に、死期を嗜まオープンアクセス NDLJP:54るべく候。古の好を以て、心底を残さず申遣し候と、口上は此通なり。若狭守自分心得にて、丹波事、藤田疎意なき段、誓言にて申すべく同道して来るべし。丹波参るまじき様子に究まり候はゞ、随分搦取るべし。取られず候はゞ、殺しも仕り候へと申付け、捕手の為めに士十騎、其加勢に足軽三十人添遣し候。件の丹波、大力にて五六十人にも持ち難き木石を、一人にて持歩き候と、申しふらし候。定めて五人力もありたるか。数度武功ありて、隠なき勇士なる故、斯くの如く申付け遣し候。伊沢同道の士に申すは。大方は召連れ参るべし。自然出づまじと申すとも、即座に事を仕るは、宜しからず候。此方の〔体イ〕子を、丹波見候はゞ出づまじく候。君にへ過名のののの野野に低り居。又は世の劣に、往道の体にて居万一事あらば、某召連れ参り候内の者に、声の相図を以て知らせて申遣すべく候。其左右を待ち給へとて、伊沢は小者二三人召連れ参り、丹波に対面し、何とかいひけん、事故もなく同道して罷出づる。伊沢智術弁舌よき故なり。藤田、前方より対面所を、籠屋の如く丈夫に、角木を打廻し、内外より襖障子を以て、見えざる様に拵置き、呼入れて対面し、頓て勝手へ立つと、其一々、角柱の替に〔戸イ〕を引寄せて閉付くる。丹波へ藤田申すは、彼の訴人、江戸に罷在り候間、江戸へ参られ対決あるべく候。此上は公義への憚に候間、刀・脇差を渡され候へ。左もなく候ては、日来の儀、実事の様に相聞え候へば、我等に於て笑止に候。江戸へは某方より宜しく申上ぐべく候。十が九、別条あるまじと存じ候と申す。水戸まで出でたる程の丹波なれば、異議なく大小を渡す故、丹波を江戸へ差上げ候。謀反の重罪人なりとて、又水戸へ遣され、磔に懸け候へと仰下され、佐竹和泉をも容易に捕へ差上げ申候。然れば車丹波守父子三人・佐竹和泉守父子、以上五人、藤村の上台宿の原に磔に懸け候。是に依つて、常州静謐仕り、権現様御褒美なされ、藤田能登守へ、上使として水野右監物を以て、毛利鴾毛の御馬・ 〈毛利殿より上り候名馬、〉御小袖三十下さるゝなり。

第九、慶長十八癸丑年、大久保相模守逆心ある由を以て、井伊兵部直政へ御預け、佐和山へ遣さるゝに依つて、藤田能登守、水戸城を笠間城主松平周防守に渡し、相州小田原城を請取る。秋元但馬守を相添へられ、御目付は稲垣平右衛門〈今の摂津守父なり〉を遣さるゝなり。

翌年寅九月九日、房州里見直義御改易、是は大久保相模守壻にて、反逆一味の由風説あつて、藤堂和泉守内渡辺勘兵衛・志内主水等、房州勝山迄、来石を所望に准へて、国の体を見る。御オープンアクセス NDLJP:55改易の御書付三箇条は、

一、相模守へ米・大豆、足軽合力、公儀を蔑に仕る事。

二、城普請、或は道を作り、川を掘り、要害を構ふる儀、公儀の掟軽しめ候事。

三、分限に過ぎ人を多く抱ふる儀、忠勤の志にあらず、私の宿意ある故歟の事。

右の咎を以て、房州を召上げられ、常陸鹿島領三万石の替地計りを、伯耆国倉吉にて、下さるとの仰渡されなり。里見の臣正木大膳印・藤田采女等、江戸に相詰め種々申分け仕り候へども、相叶はずして斯くの如し。後には松平新太郎光政に御預け、伯州の内、田中にて百人扶持下され、八年目元和七酉年死去なり。嗣なくして家断絶なり。

藤田能登守、小田原城を松下石見守に渡し、里見の居城房州館山を請取り在城仕るなり。

第十、慶長十九年甲寅年、秀頼公を御追討、十月十日、家康公駿府御進発、途中より藤田能登守を召さるゝに依つて、房州館山を立つて、我が領知西方に一日逗留仕り、大坂へ参り候。

西方には大淵喜右衛門といふ深志の者を残置き候。大坂にての様子を聞及び候趣、前後の差別なけれども、心覚として之を記す。左の如し。

第一、河内表は牧方に取出とりでを築き、銀河を切落し、淀川を堰入れて、前に当て堅固に用ひ、大坂迄取り続けて、通路自由にして持堅むべしとの内談にて斯くの如し。

第二、山城表は玉水か、或は夫より引入れ、木津川を前に請けて、天神の森か、其〔他カ〕を選みて、

爰に又取出を構へ、右両所を根城の如くに用ひ、諸方を丈夫に備ふべしとの内談にて斯くの如し。

右の様子を以て、大坂衆打出で候由を聞きて、勢州亀山の松平下総守・同桑名の本多美濃守・同神戸の一柳監物・同松坂の古田兵部を初として、斯くの如くなる故、近辺の衆は、猶以て馳著けて、宮田・高槻・芥川・洲那・若江・淀・橋本より牧方迄追々取続き、左右向より進懸る。故に大坂衆、牧方の普請成らずして、遥に引下りて、本道の大坂堤を掘切り候。此時、足軽攻合、少々之ありつる由承及び候。今田切と申す所、大坂より切れたる塘なり。是に依つて、河州茨田郡大久保仁和寺焼野の辺迄、悉く水押入り候故、権現様御備押、和州奈良へ御旗を向けられ、中一日御逗留、亀が瀬越をなされ、住吉に御陣取り、後に茶臼山に御床几を居ゑさせらるゝなり。台徳院様は、伏見より是も大和路へ、田尻越を押させられ、後に岡山に御旗を立てオープンアクセス NDLJP:56られ候。〈口伝。〉

山城表天神の森辺へは、藤堂和泉守、伊賀の植野より急に打立ち、和州へ出で奈良を堅固に蹈まへ、河内路迄手配仕る。大和衆何れも差続く故、大坂衆、其辺へ寄付く事ならず候を以て、右二箇条の内談相違仕るなり。

第三、摂津国表茨木は、片桐市正の城なれば、之を堅固に構へ、人数を加へて持つべし。扨又、茶湯の宗匠古田織部、大坂一味なり。其織部内の宗喜も、人の師をして、智音多き者なれば、徒党を語らひ京中を焼払ひ、其虚に乗じて、大坂衆、茨木より討つて上り、洛中を取敷き、伏見を攻め落して、堅固に之を守り、瀬田の橋を焼落して、爰にて東勢を相支ふるか。或は夫より関東へ討つて下つて仕懸るか。二の内、其の時の様子次第と、相談を究むる所に、片桐、逆心して東の御方となる故、京の所司代板倉伊賀守より、与力百騎の内を五十騎、足軽を添へて茨木へ遣置き、京中の仕置用心きびしき故、古田も時節を見合すに依つて、大坂の内談相違仕り候。

大坂より瀬田橋を焼落し候はゞ、是へは御人数を差向けられて、之を抑へ、権現様は草津より上れば、左に付いて押廻し、宇治淀辺へ出づる道あり。是より御備を押させられ、跡を是より御備を押させられ、跡を御取切なさるべしとの御備定、微妙の御事なり。

第四〈[#「第四」は底本では「東四」]〉、同国尼ヶ崎を、大坂より取つて之を守る。播州表諸方手遣整の為めと、心当しけれども、是又、東方より手早に取敷き候。此尼ヶ崎には、建部三十郎父内匠時より、其辺の御代官を仕りて、爰に居るなり。三十郎、若年にて小身なる故、池田武蔵守・同左衛門督より人数を多く差越し、堅固に普請を仕り之を守る。其相図の左右次第に、播磨・備前・淡路より追々加勢すべし。或は様子に依つて、後攻すべしと相定むる。然るに、片桐内多羅尾といふ者に、士四五騎・従者五六十差添へて、堺の町へ、用事の為めに差越し候を、大坂衆聞いて逆心の片桐者なり。討取れとて、人数を遣す。多羅尾聞いて、急に船に取乗り逃ぐる。大坂衆、尼ヶ崎・神崎表へ人数を廻す。是に依つて、多羅尾、尼ヶ崎城衆へ城内へ入られ、此難を救ひ給へと申越すと雖も、承知せざる故、陸へ上りて逃行く所を、大坂衆追詰めて、一人も漏さず討取るなり。尼ヶ崎には、武蔵守内老功の隊長土肥飛駅守・左衛門督内武名の酋頭ものがしら南部越後、若手には居刄秡の田宮対馬、〈後常円と改め、紀州に罷在り〉之等を初として、大勢籠居ながら、眼前に味方を討たせ、オープンアクセス NDLJP:57殊に何の障もなく、大坂衆引取らせ候事、世を挙つて批判せり。

右の批判に付いていふ。此時、南部・土肥等申すは、片桐は大閤旧恩の者なり。今味方になると聞けども、真実は知り難し。大坂と申合せ、当城内へ入り、或は火を付け、其虚に依つて、大坂の兵、城を乗取るべしとの行も計らひ難し。万一城を乗取らば、越度是に過ぎずとて、片桐が者を入れず。大坂衆、片桐が者を討取りたるにて、我が味方疑無しと、知る事なれば引取り、敵を討つべき処に、其節を失ひけるは、智の及ばざるか。又は勇の鋭からざるかといへば、大坂方の兵、神崎・中島辺に充満す。西浦には福島・蘆島の陰まで、大坂より取続いて、兵船何艘隠置かれたるも知れず候へば、尼ヶ崎より卒爾に人数を出し、自然後より城を乗取られては如何かと、遠慮して図をはづしたりとなり。然るに其節、荒木藤内といふ者、武蔵守の者にて城内にあり。一騎武者なれども、武名の場を重ねたる勇士なる故、申しけるは、縦ひ、敵なりとも頼むというて降参するに、頼まれずば武の道にあらず。況んや一味の片桐者なれば、造に城に入れて助け給へ。若し疑はしくば、其武略に乗らざる様に仕る様あるべし。姫路・茨木程近し。実否を聞究むる間、五七日には過ぐべからず。其内昼夜寐ねず用心するとも仕り能き事なりと、再三いひけれども、之を用ひず。扨大坂衆、片桐者を討つて帰る時、荒木又〔本ノマヽ〕城より人数を出して之を討ち給へ。櫓に上り見るに、海手には敵船一艘もなし。陸路の敵、歩者足軽等に、其頭に付いて騎馬六七十騎の内外なりと雖も、同心なければ荒木立腹し、我れ一騎駈入り討死して志を達せんとて、冑の忍緒を強く縮め、落星馬ほしまだらうまの間よきに乗り、既に打出でけるを、何れも制し止め、鐙・轡・総鞦に取付いて放さゞりければ、程過ぎて藤内本意を遂げず、無念と申しゝなり。

附此事、程なく上聴に達し、武蔵守逆意の様に沙汰あるは、池田三左衛門前腹の嫡子なり。二男左衛門督より末五人は、権現様御孫なる故、武州の事を讒者ある故か。然れども御僉議の上、武州は姫路にあつて、尼ヶ崎の様子を知らず。土肥・南部が指引にて、斯くの如しと聞召されて、何事も之なく、是亦微妙の御奥意ありとぞ。

池田勝入嫡子庄九郎、長久手に於て父子共に討死故に、二男三左衛門尉家督に、北条氏直公の後室を、権現様より嫁かせらるゝ故、御壻なり。備前・播磨・淡路三箇国を領し、大坂御陣一両年前に卒去なり。其跡嫡子武蔵守、前腹、播磨一国、二男左衛門督備前一国、三男宮内淡オープンアクセス NDLJP:58路、四番目松平石見守、播州の内宍粟郡、其次右京、播州の内赤穂郡、末子右近、播州の内佐用郡、斯くの如く分下され、残播州四十八万石、武蔵守領知なり。二男左衛門督は、大坂冬の御陣勤め、夏御陣前に卒去故、其跡備前一国を、舎弟宮内へ遣され、淡路の国をば、蜂須賀阿波守に下さる。武蔵守は、大坂両度の御陣を勤め、翌年卒去。此時、息男新太郎、因幡・伯耆を拝領して、播州より移られ、播州姫路は、本多美濃守に下さる。其後、宮内少輔卒去。其子息相模守光仲、因幡伯耆へ、新太郎光政は、備前へ国替仰付けらる。石見守・右京・右近は、三人共に追々乱心して跡断ゆ。

第五、大坂の評議に、和泉表は岸和田に小出大和守、東方にて在城なれども、六万石の領知にて小身なれば人数少し。東より加勢ありとも屑からず。紀州浅野但馬守、東方なれば後攻する事あるべけれども、是も熊野の新宮刑部を、大坂方に引入れ候。是に一揆を催させて、但馬守出勢ならざる様に仕り、岸和田を乗取りて、繋の城とし、紀州へ働入り、但馬守を討取り候はゞ、紀泉の両国手に入るべし。然らば、根を強くし蒂を固くするの行なり。其内には、太閤厚恩の衆、東方にも多ければ、内通もあるべし。是れ一統の道なるべしと評議なり。然るに、浅野但馬守紀州の仕置郡郷村里に奉行代官を置き、地下の人質を取つて入置き、其家の廻りに焼草を積み、遽かに焼殺すべき様に見せ、又は人夫に用ふる者、親子兄弟を引分けて、夫々に配り預け、熊野山家辺土幽谷の地は、一入念を入れ候故、新宮一揆の行もなり難く延引して、新宮刑部、大坂へ籠城仕るなり。

第六、大坂方の評議一つも首尾仕らざるを以て、漸く天王寺口の方、真田出丸を構へ、或は仙波表博労ヶ淵に、海川両手の抑のために、取手を構へて、鈴木田隼人、其地を守るなり。


〈其砦の地を覚じ、当世異見多し。実に今天満の天神御旅所の辺なり。〉、此繋の為めにとて、大野道賢三百騎にて、今の思案橋の西北の方に天満川の流を片取つて構をなすなり。但し是は、前方よりある屋敷に構を取出し、堀を掘り屏をかけて、堅固に設くるなり。森豊前守も、河原町辺迄出張りて、屯をなすなり。然るに、陸地よりは、両御所様御馬を向けられし故、関東衆、東南を包みて相動く。西北は海河なり。西国勢、船を浮べて押寄する中にも、蜂須賀河波守、今の小口御番所、寺島の南の崎三間


屋の小島へ取付く所に、穢多が城あり。〈是は信長公の時、本願寺門跡籠城の時、渡辺の穢多共、門跡方を仕り楯籠る所なり。今に穢多共住居して、右の渡辺をば、穢多が崎といふなり。其并び道頓堀の北の方に、博労町あり。其事類せるを以て鈴木田が持博労が淵の城は、渡辺穢多が崎と覚違ひ候に付いて委しく之れを記す。〉

オープンアクセス NDLJP:59古の寺島・夷島・穢多ヶ城・穢多ヶ崎、其辺所々に張番を置き、或は少々人数を差添へ、警固に用ひて置きけるを、蜂須賀衆、夜に紛れて乗寄せ、大坂衆を追散し、或は討取つて其所を取りしくなり。其後、鈴木田退散、博労→淵落城の時も、又蜂須賀衆励み働く。是に依つて、阿波守へ、両御所様より御感状に、今度大坂表に於て、穢多ヶ崎并に博労ヶ淵両所、軍の忠を抽んづとの御文言なり。〈穢多ヶ崎・博労ヶ淵両所なり一所にあらざる事、是にても知るべきなり。〉

池田武蔵守は、播州姫路より尼ヶ崎へ取付き、神崎川を渡り、中津川を越さんと欲する時、御検使城和泉守、之を抑へ、池田家老と武論之あり、抑ふるを用ひずして、舟橋・投筏を以て之を越し、天満表より仕寄るなり。後に和泉守御改易は是なり。池田左衛門督は、備前より軍を発し、是も神崎・中島筋より取寄せ、自身の采配にて、大和田の渡を越して、大坂より出でたる敵を、多く討取り、悉く追崩して、野田・福島を取りしき、後には仙波へ廻り、蜂須賀と陣を列し、諸軍に勝たるゝ働に依つて、両御所様より御感状を下さる。十六歳なり。

右の外、有馬玄蕃を初め、四国・九州の兵船相続き、敵悉く逃散つて大坂城へ入る。大野道賢足軽大将一人に、士五六騎・足軽廿四五人、船一艘に乗り、註進舟を漕添へ、海手の敵の働を見積り、味方の様子をも見て、註進せよと申付けて差越し候所、両三夜の内に、早や労れ倦みて、船の〔錨カ〕を下し、高鼾をかいて寐たる所を、九州衆の忍の船、此様子を見て告ぐる故に、即ち〔錨カ〕の縄を切つて、舟を引いて、川下の味方の中へ引入れ一人も残らず斬殺すなり。

第七、志州鳥羽の城主九鬼長門守、伊勢衆各〻を相催し、熊野浦へ押廻して、四国衆と手首尾を合せ、或は小浜民部等を差加へて、境の浦より取寄るなり。

藤堂和泉守は、大和口より天王寺住吉表へ押寄する。此節、大坂より境の町を焼くべしとて、大野道賢・新宮左馬助百騎計りにて打出づる。道賢、前方諸方の手合を仕損じたる故、此度望んで出でたるに、藤堂が備先を見て、後勢の続きたるに、気を奪はれ引返すを、藤堂の先手渡辺勘兵衛、藤堂へ使を以て之を討つべきといひ送る。其返事を待つ内に、敵、早遥に引取るなり。泉州存念には、幸なり。遁さぬ敵なりと、思はると雖も、其使の帰る内には、敵早引取るべし。左あれば討つ事なるまじ。我が先手を申付くる渡辺、世の嘲ならんと積りて、討つ事無用なりとの返答なり。〈渡辺程の者、先手の将をするとて、君命受けざる所ありといふ事を知らざるか。泉州へ対し、述懐ありとても、渡辺が悪名なり。昨日は勇者、今日は怯者なり。〉

第八、藤田能登守、右に記す如く、途中より召さるゝに依つて、御跡より急ぎ馳せ上り、両御オープンアクセス NDLJP:60所様御前へ召出され、御懇の上意、殊に権現様御前備は、御旗本の御先手なるに御三備の内、御右備を藤田能登守に仰付けられ、御左は本多佐渡守、中は立花近将監。〈後飛騨守と改む。〉

藤田は、小身故、相備大身衆を多く組合さる。其衆は、小笠原信濃守・松下石見守・新城駿河守・浅野采女正・前田大和守、此外小身衆も之あり、都合五百三十騎、雑兵其に六千七百余なり。

但小荷荷駄忰者は、御旗本後備の裏、小荷駄に加置くなり。

然るに、上意に藤田は、武功ありて鍛錬なりとて、諸方の見分仰付けらるゝに依つて、見積り申上ぐるは、淀川を切違へ、神崎川・中津川へ水を落し、其川下に乱杭を振り、棚を搔き、土俵或は石、材木を沈めて、水を堰塞ぎ候はゞ、天満川浅くなりて、味方の仕寄自由なるべしと申上げ候に付いて、伊奈筑後守仰付けられて、右の如く在る故、攻むるに便よし。扨又、家康公微妙の御工夫を以て、大工大和を酒に酔はせ、天満川を河原となされたる事は、淀川を廻したるにはあらず。右伊奈に申付けて、淀川を切落してより、天満川浅くなり候へども、大和川の流、少々落入つて絶えざる故、是を廻させ給ひてより、天満川陸地の如し。

博労が淵の様子、藤田行向ひて、考へ見仕れとの上意を承り、心静かに考へ見、帰りて申上ぐるは、此城、方三町に足らず、郭十町余有無あるなむにて御座候。之を以て考へ候へば、籠る人数丈積り、内を取て二千八百八十、外を取つて三千六百ならではあるまじく候。日経の此人数、何れも心撓み見え候へば、士大将鈴木田隼人は、早大坂へ入り候か。縦ひ居候とも、退支度の様に見なし候。攻めずとも、五七日の内には、城を明退くべき体に候。唯今にても攻め候はゞ、一倍の人数七千余に候へども、某相備、合せて六千余、小荷駄をのけ五千程御座候。全く乗破るべく候間、某に仰付けられ下さるべく候。攻めずとも、明退くべき模様に見え候へども、取しき候はゞ、敵味方の競、各別に御座候と、申して望みければ、権現様上意に、其方事は、数度武功の働仕れば珍しからず。誰にても若き者に望ませよとの上意なり。藤田申上ぐるは、私似合の心緒仕りたるは、皆他家にての事にて御座候へば、是非ともと申上ぐる。上意に、他家にて事を仕りたる其方、当家にて事をすまじきにあらず。只我れ次第にせよと仰せらるゝ故、藤田黙す。扨又、上意に、鈴木田早速退散か。縦ひ居るとも、逃支度と積る蹈所ふまへどころは、如何と御尋ねなさる。藤田申上ぐるは、太閤家より以来、或は私浪人の内にも、少し所緑御座候て、切々せつ咄し候て、其行跡心根を存じ候。其身健者にて、誉も仕り候へども、勝負の仕オープンアクセス NDLJP:61様賤しく、譬へば刀の柄糸はきたなく候とも、目釘さへ強く、鞘は所々禿げても、身さへ切ればと申りに、棒にて敲殺すも刀にて切殺すも、勝つ所は同じ事なりと、下臈の勝負合の様に、賤しく御座候て、旗竿は曲りても、鑓は揃はずとも、弓断さへせねば能しといふ。立派にて御座候。今度上意なき以前にも、二三度出でゝ考へ見仕り候に、風儀を引替へて城を飾り、外より見分を専ら取繕ひ候は、角此城、持こらふる事なるまじきと存ずるなり是に付いて、味方の備・勝利の法は、是々と三段に申上ぐる。口伝。権現様御褒美なされ、弓矢は幾重にも念を入るゝ事、尤もなればとて、永井右近大夫直勝を、藤田に差添へられ、重ねて考見仰付けられ、直勝見積り帰りて、藤田同意に言上仕る。さあらば、仕損ずまじき若者に、両人、申付けよと仰せられ候故、水野日向守に、永井直勝語つて望み給へといふ。日向守、何とか思はれけん。〔鬼イ〕の抛飼に似たる御異見、尤もと存ぜずとの返答なれば、其方の為めを思うて申したるに、臆病の上は、是非に及ばずとて立たる。博労が淵落ちて以後、日向守申さるゝは、悪く心得、実仁の右近申されたる義を用ひず、一功を空しするのみならず、臆病者と右近存じ定むべし。心底恥かしと伝を以て、申訳を仕らるとなり。是に依つて、石川主殿頭忠綱は、大久保相模守実子にて、石川長門守養子なり。大久保改易故、主殿頭閉門、忍んで大坂へ参られ候に付いて、永井と藤田と両人、主殿へ望まれよと申しければ、主殿悦びて申さるゝは、某養父長門守、不義に依つて御改易の時は、実子にあらざるを以て、同罪を御免なさるゝ所、実父相模守、今度御咎を蒙ると雖も、他の名跡なりとて御宥免、誠に御厚恩、何を以て謝し奉るべきか。是に依つて、今度逼塞の身たりと雖も、忍んで御供仕る事、一忠の志を以て、身命を軽んずべしと、存じ定め候へども、不功若輩の某、其期弁じ難き所に、心を添へらるゝ事浅からず。閉門の身なれば、某、言上は憚なり。迚もの事に、御前の儀、宜しき様に頼むと申捨て、早其座を起ちて、博労が淵へ押寄せて鬨を揚ぐる。西国衆、我れ劣らじと進懸り、南北西三方より、雲霞の如く取り寄する。藤田見積の如く、鈴木田隼人は、其前宵所労の由にて、大坂城の我が居小屋へ忍んで帰り、平古主膳といふ者に、城を預くる所、平古討死と心を定め、同志の輩は、我と共に討死せよ。如何と存ずる輩は、何方へも退き候へと、門々を開き、心々に突いて出づる。大坂の方、東一方を闕きたる故、大半は是より逃げたり。石川主殿頭、自身槍を以て敵を突伏せ、手強き働手の者共にも多く高名させ、敵を追入れ、其虎口より一手屏オープンアクセス NDLJP:62へ附いて、一手二の味を持つて、一手以上三段にして攻め戦ふ。一番に外郭を乗取る事は、自身の士又は備を借りたる牢人、或は悃者・類家の大名より二三人充付け置きたる士、何かに合せて百騎計りを以て、斯くの如き手柄に依つて、即ち御勘気御免、御前へ召出されて、御感に預り後来立身なり。

西国衆の内にては、蜂須賀阿波守抽んで取詰むる。城内より突出で、如乱火疾いらひとき攻合之あり、阿波守衆、勝利其手柄多し。平古主膳は乗廻し下知し、其働比類なく、後には入乱れ戦ひ疲れて、父子共に討死す。主膳を討取りたるは、池田左衛門督内の船奉行横川次太夫なり。則ち御感状下され、今に松平相模守家に罷在る事は、左衛門督、夏の御陣前病死故に、舎弟甚内、其跡を拝領、左衛門督衆、皆甚内に属して、夏の御陣を勤むるを以て件の如し。

博労が淵の後攻旁、差置かせ候大野道賢、我が要害を攻められぬ先にと分別し、後攻の事は思ひも寄らず、早々其構を捨てゝ、大坂城内へ逃入る。後藤又兵衛・森豊前も、仙波表を悉く自焼して、大坂城へ引入る。十一月〔〈脱アルカ〉〕日の事なり。是に依つて、仙波表一遍に味方の陣となりて、西国衆、河原町の川を前にあて取詰むるなり。

第九、右の通、大坂方より取りしきたる地を奪はれ、取出の搔場を乗破らるゝに依つて、片原町今の備前島・雨島ともいふ。此島の東方を掘切り、柵を振り虎落を結び、部を付けて城内の要害にせんとて、大野主馬下知を以て、斯の如くなり。此表の寄手佐竹右京太夫、森河内といふ所に、我が旗本を備へ、先手を以て蒲生堤へ取寄せけるが、右敵の様子を見て、此所を敵城へ取入れられては、寄口の便なし。殊に我が寄口の手先を、敵に取りしかせては、弓矢の本意にあらずとて、先手の渋江内膳に申付け、霜月廿五日夜懸して、大坂衆を追散らし、或は少少討取つて、還つて其所を此方へ取りしくなり。然るに、大坂七手衆中にも、大野主馬申すは、諸方皆、敵の為めに利を得られ、無念に思ふ所に、今又、手もなく此地をも奪はるゝ事、味方の諸軍力を失ふ儀なり。事を延々のびにせば、敵、柵を振り虎落を給ひなば、攻合ひ仕にくからん。今夜中に取懸けたらば、敵の備、未だ落付くまじ。是一つ。又敵、利を得て当方を見慢り、今夜出づる事有るまじと思ふ所を、不意に出づる二なりとて、秀頼公へ申上げければ、御前へ召して、一の手後藤又兵衛、二の手は木村長門守、同勢の如くたるべしと仰付けられ、両人、御前を罷り出で後藤へ木村申しけるは、其方は年老ひ、数度の武名もあれば珍しからず。某オープンアクセス NDLJP:63は若輩、此の御陣初めなれば、此度の一の手を給はり候へ、仕損じ候はゞ、其方二の手より勝利疑なし。其方一の手にて打勝ち給ふべければ、某は手に合ふまじ。万一後れ給はゞ、不功の某、二の手より勝危く候へば、是非入替りて給はれと、手を合せて申す。後藤如何とありけれども、木村再三望み、一生の内は申すに及ばず、若し神あらば冥途黄泉迄も、此厚恩忘るべからずと詑言仕り、大野兄弟各〻も、扱を入れて申しければ、此上は兎も角もとて、木村に一の手を譲り、後藤は二の味同勢となりて出で、其夜の黎明廿六日なり。佐竹先手の足軽大将、矢玉も尽きければ、新手を跡より入替ふる。其期に臨んで、備色少しく実ならず。木村長門守、采配を取つて下知して突懸る。高松内匠一番に進み、佐竹衆を一騎鑓付けて首を取る。是に劣らじと、大坂衆競ひて突いて懸る。佐竹、先手の足軽を入替へんと仕り、引色なる所なれば、其法正しからずして崩るゝ所を、木村自身、槍を取り諸共に抽んで、透間もなく懸る故、佐竹衆、備を立直す事ならずして、蒲生・今福・花知田を過ぎて、今津の辺迄敗れぬ。佐竹義宣も、森河内より旗本を押出し、今津の近くに牀几を居ゑられけるが、既に旗本迄乱立つを、木村自身、今福の在家涯にて、敵を二騎突いて落して首を取る。後藤も二の手より入立ち、蒲生堤の右の方を廻りて、佐竹旗本を切崩さんと仕る所に、蒲生堤の向の方、大和川を隔てゝ、南の方に鳴野堤あり。此表の寄手上杉景勝、佐竹衆敗軍の体を川向より見て、直江山城守を呼び、先手の者三備計り遣り、横を討たせよと申付けらる。直江承り、先手の士大将杉原常陸介・須田大炊・銕孫左衛門を差越すなり。上杉衆、大和川の浅瀬を渡り、河中の蘆島へ取付け、是に足軽を立配りて、蒲生堤を東へ追行き、大坂衆を近々と横合より差渡して、的に懸けて打つて落すに依つて、大坂衆、足本を定兼ねて、猶予して見え候所を、上杉衆百七八十騎を三備にして、何れも馬上にて、歩物を雑へず、三所より乗渡して突いて懸る。爰にて木村・後藤敗軍するを、追詰め備前島・片原町迄追討して、其所を取りしくなり。佐竹衆も備を立直して、跡より詰め寄る故、其地を佐竹衆に渡して、上杉衆は、本の陣所へ帰る。

佐竹衆、其法正しからざるを以て、おくれを取り、殊に弓矢柱の渋江大膳討死、其外雑兵二百余討取られ、大坂方も、矢野和泉を初として、能き兵五六十騎計り、雑兵合せて百二十余討死なり。

上杉衆、右の働に依つて、須田・水原・鉄三人、両御所様御前へ召出され、御感状并に銀子・呉オープンアクセス NDLJP:64服等を下し置かれ、直江山城守に、三人を召連れ罷出で候へとあつて、斯くの如く直江見積りて、三人を差遣し、其身は我が請取りたる備の内を引分け、僅に三十四五騎を率ゐて、河中の蘆島に両様を心当て、控へて見物の如くにて罷在りたるを、現権様、殊の外御褒美、直江武功故、争ふ意地なく動ぜぬ心にて、斯くの如く陰の備を設けたりとて、取分け墨黒なる御感状に、長光の御腰の物を添へ下され、秀忠公よりは、御感状に御馬・黄金を添へ下さる。扨又、権現様、水原常陸に年はいくつになると御尋あり。天文十二年の生れにて、権現様に二つ年劣りにて候ひつる。何卒心有りけるが、七十七歳なるを七十五歳と申上ぐる。権現様聞召し、我に二年増なるが、此度の如く剛強なる働を仕れば、我も未だ二三年は頼もしとて、御機嫌よし。其上にて御諚に、常陸六十には遥に余り、鬢髪白き老武者、萠黄威の鎧に、金作の太刀佩いて、赤地の錦の直垂に似たる金衛の羽織を著て、出でたる装は、昔の実盛も斯くこそありつらめと覚ゆるなり。今度の働は、実盛には遥に勝りたりと、御笑なされ、すゐはらとは、何と書くぞと御尋なされ、水原と書くと申上げければ、老人の水原は、時しも極寒如何なり。杉原と書き候へと、御感状に遊ばされ下され候故、杉原と書き改むるなり。冬の御陣過ぎて、明くる元和九乙卯年初春、景勝御暇にて帰国の時、常陸も供して下りけるに、白河にて病死す。若年より弓矢の巷に遊び、数度の誉を得て長命を保ち、今度天下の御弓矢迄相勤め、両御所様の御感状を頂戴して、名を耀し天年を終りける事、誠に冥加の勇士なり。武に志あらん者は、是に過ぎたる望みなしとて、皆羨しく思はれしとなり。

第十、上杉中納言景勝、河内路より押廻し、高畠に陣取り、夫より打立ち鳴野堤を押して、鴨野中麻邑を取りしき、大坂黒門鴫野口を抑ふるなり。今の御城良の方、煙硝蔵のある所、其辺まで大坂方より人数を出し、土俵を以て鱗形に積み並べ、仕寄道の如くに、城より道をつけ、入替り鉄炮を打懸け、或は城より二重塀を仕り、上下に弓鉄炮を配りて防ぎ守る。上杉方よりは数筒十匁玉の鉄炮、折々大筒へ加へ、是も入替り放つ。其鉄炮を打たする様、又軍術を以て敵の場を奪ひ、竹束を付け、両三日の内には、城際二三十間に取寄する事、諸方の寄手に抽んで、斯くの如きは、武備全き奇変の妙用なり。

此表森豊前・後藤又兵衛等、自焼して引入る時、諸方の橋を残らず焼きたりけるが、河原町川の農人、橋一つを焼残したり。此表小松口の寄手は、蜂須賀阿波守なり。敵恍惚けて、此オープンアクセス NDLJP:65橋一つ、焼残したるこそ幸なれ。味方取寄するに、其便ありと悦ぶ。然るに、阿波守陣所にて、何とかしたりけん。事もなきに、下々騒ぐ事三五夜なり。其仕置にやありけん。稲田修理・中村右近両人、阿波守前へ出でゝ、内談して帰る時、稲田の所へ中村立寄り、焼火に当つて、弥〻内談す。稲田は甲を卸し、中村は甲を卸さずして居たり。十二月十六日丑の刻計りの事なるに、又陣中、少々騒ぐ。例の事と思へば、さはなくして鯨波の聞えければ、驚破すはや敵なりとて、右近は其の座を立つて、持たせ置きたる手鑓を提げて走り出づる。敵、早や乱入るを、右近真先に進んで、十騎計りの敵を抑へて、突入り追退くる所、敵勢重り懸つて、右近は其の場を去らず討死す。其の間に、稲田修理も、甲の緒を縮め差続く。是に劣らず子の九郎兵衛、彼此懸合せて、右近が頸は敵に取られず。然れば敵・味方入乱れ、討ちつ討たれつ攻め合ふ。大坂方引揚ぐるを、橋詰迄慕ひ討つ。阿波守衆の内にて勝れたる働は、稲田父子・岩田七郎左衛門・同七左衛門なり。大坂衆にては、上条〔又イ〕八郎・山形三郎左衛門・津田半三郎・石村六太夫・柘植十太夫・内海一郎兵衛・太奈九左衛門・松井次郎左衛門・森島清右衛門・東加兵衛・岡本十左衛門・松田理兵衛・小高佐太右衛門・鈴木半左衛門・梶田兵部・二宮作右衛門・〔平イ〕田次郎左衛門・成田弥太夫・荒川源五郎・中島勘之丞・池西左近右衛門・都築茂左衛門・池田源左衛門廿三人は、首を取つて手を塞ぐ。其の働の甲乙は承り届けず候。表の虎口より一番に押入りたるは、木村喜右衛門、左の方土蔵の口にて、一番に阿波守内長谷川小右衛門と鑓組みたるは、二宮与三右衛門、二宮に差続きて、稲田修理の内井上九郎右衛門と、詞を交して突合ひたるは、吉田七左衛門なり。或は多屋右馬助・畑覚太夫・牧牛抱・伴彦太夫、或は長岡監物、其時は米田といふ者、頭を仕り出でゝ働く。扨又、田村林蔵院は、稲田修理と築垣越にて空合ひ、槍を互に奪合ひ、取替して後の証拠に仕り、今以て手柄の様に申触れ候は、不案内ならんか。右此夜討、蜂須賀阿波守寄口、其の持口は大野主馬なり。主馬下知して塙の団右衛門之を計りて斯の如し。右に筆〔〈脱アルカ〉〕する如く、中村右近、一番に出でゝ敵を防ぐ。其働剛強にて討死す。右近の子十三歳、〈後若狭と号す、〉物具取つて著け、甲の緒を縮めながら出でけるを、稲田修理早く見付け、其御親父は討死なれども、首は敵に取らせぬぞといひければ、若狭申すは、其の儘首を敵に渡して遣し候はゞ、右近の働、敵方に早く知る可きを、入らぬ其方の贔負達なりとて、敵中に切り入らんと仕るを、稲田父子制し止むるなり。武者振勝ぐれて見えけるとなり。

オープンアクセス NDLJP:66舎人助批判に、大坂衆農人、橋一つを焼残したるを阿波守衆、敵恍惚けて斯の如しと嘲る事、弓矢の不吟味なり。前方穢多崎・博労が淵勝利ある故、心驕りて斯くの如くなるが。焼残りたる橋ありて、敵の出づべきと積り、我が備を正しくせば、夜討には逢ふまじ。正しく備へば、敵より夜討はならぬ者なり。縦ひ夜討に入りたりとも、備正しくば、天の与ふる幸なれば、悉く討取つて勝利を得べきものなり。正しからざる故を以て、陣中打続きて騒ぐ。其の処を、敵、見て夜討するなり。敵も能く手を定めて討つならば、蜂須賀一陣を破るのみならず、陣屋に火を懸け、四角八方へ乱入り、分合変化せば、仙波表の敵を追散らして、其の地を取りしくべし。夜軍の備には、繋て分るゝ二備、乱れて集まる二備、働きて静まる二備の外、又勝利の一備は、譬へば扇の要の如く、開けば則風を発し、畳めば則手裏に歛む。越後に於て之を要の備といふ。合するに七備を以てするは、一徳六害北方の水の数、天地万物の根元なり。之を知らずして、大坂衆、唯二手に作り、二所より討入り、其の虚を伺うての事なれば、能く討入りたれども、譬へば童の翫を風に任する揚凧の、糸の切れたる如くなりといへり。

第十一、天王寺住吉表の寄〔衆イ〕陣替あり。極月二日に、陣場を受取り、同三日に、小屋を懸けて移る事、越前少将一伯衆、或は加賀衆を初めて、各〻斯の如し。夫より諸手共に仕寄を繰寄せ取詰むる時、大坂城内より鉄炮を続並べて、一時計り打送る。越前の陣場、城より十八九町も之あり候へども、事馴れざる若者共は、城より敵出で、手近く押寄せて、斯くの如きかと聞驚きするは尤もなり。老功の面々は、少しも騒がずして申しけるは、取寄する時、斯様の儀は、鉄炮様とてあるものなり。殊に太閤家の弓矢風、一入斯くの如しといひて、若者を押し定むる。他家にても大方斯くの如しと聞ゆる。大に騒動して、備色、見苦しくもありしとなり。扨又、四日の朝、加賀・越前両家、或は松倉豊後守等、其外彼此、此の表の寄衆、備を進めて取寄する時、加賀・越前両家押して相勤むる故、手負・死人多しと雖も、諸手に勝れて見ゆる故、各〻寄衆劣らじと、其夜より竹束を付出し、繰寄せ城際近く取詰むる。此の時なり。小幡勘兵衛景憲、加賀の備を借り・相勤めらるゝは、先年御当家を立退き、牢人にて罷在る、故斯くの如し。加賀の先手三備の内、富田越後守、先手の足軽大将斎野伊豆なり。景憲、此伊豆と同陣なり。富田は、真田持口丸馬出へ寄する時、斎野伊豆、真田出丸の矢倉下より一町近くオープンアクセス NDLJP:67詰め、備を立て、伊豆、城の体を考見の為めに乗出して、静かに見積る。景憲は、遥か伊豆に先立ち、城際七八間に詰めて、こたふるを見て、伊豆も馬より下り、其場へ来る。然るに、出丸の内に火の手見ゆる。是は如何と伊豆申す。勘兵衛、大野狼煙といふ者なり。武田家にて用ひ来る。親安房守に、左衛門習ひて斯くの如しと覚ゆるなりと申す。然るに伊豆、手を負ひければ、勘兵衛引懸け退いて、伊豆が被官に渡し、又立帰りて、其日の未の刻迄、曙より斯くの如く四時の間なり。鉄炮にて薄手二箇所負ふ。其時の働武者振比類無きなり。

四方の寄手、城際迄取寄せ、竹束を付け栖楼を組上げ、或は小山を築支へ、石火矢大筒を仕懸け、或は城内を見通す釣斥候、其外、種々の攻具を拵へ、御下知を相待つなり。然るに権現様総攻めの御出語に付き、金堀の御僉議微妙なり。扨又、埋草を集めて、堀を埋め候はじ、此方の石垣を刎側し、其地形を見積り水を引き、又金堀或は風に依つて城を焼く。其焼様に、城内より何と防ぐとも、消す事なるべからず。一此外斯くの如き類に攻むれば全く勝利あり。其御工夫銘々様々、〈口博多し、〉此上にて御和睦の御手入に二位の局を以てす。此は御発明大微妙なり。之を以て極月廿日御無事、廿三日には、城の総堀を埋むると之あり、転達の様子、扱の手首尾悉く調ひ、御人数を引揚げられ、同廿五日、権現様御馬を納れられ、将軍様は、大坂表御仕置仰付けられ、弥〻様子御見定なされ、御跡より御馬を納れらるゝなり。右御和睦の節、秀頼公より御使として、木村長門守来る。権現様御誓詞、人伝を以て請取らず、之を返上仕り、御筆本御血判を直に見定め奉る。年若き者なれども、念人りたる勇士なりと、今に申伝ふるなり。是を以て、権現様微妙なり。

両御所様、京都に御越年、翌正月三日、権現様、花洛を御立ち駿府に御帰陣、大樹秀忠公は、同廿九日御立ち、江戸へ御帰陣なり。

秀頼公御母堂淀殿、御歎に付いて、御手入の儀、是亦微妙なり。

右、冬御陣の様子、荒増は、藤田能登守儀に付いての事なり。

第一、翌慶長二十乙卯年、〈元和と改む、〉内大臣秀頼公、御契約に背き諸窂人を抱へ、再び逆意の企ある故を以て、両御所様、大坂へ御発向は、権現様未然の御工夫微妙なり。権現様、四月四日、駿府御発駕、十八日都二条御城著。将軍様、同月十日、江戸御発駕、同廿二日伏見御城著なり。将軍様、御先を望み給ふ。五月三日伏見御出旗、大和路へ御懸り、去年の御備押の道筋なり。オープンアクセス NDLJP:68夫より河州国分へ取付き、道明寺表の一戦御勝利、夫より住吉表へ押出され、後に岡山の内勝山に御旗立て、〈是に口伝あり、〉二条御城には、松平隠岐守、〈各御陣には伏見、〉伏見には同嫡子河内守、〈後隠岐守と号す、〉右留守居に定められ、権現様、同五日、都御出馬、八幡山の脇洞ケ峠・荒坂越をなされ、高野海道へ御懸り、其日は河内星田に御陣、翌六日、若江の御一戦、御先二備を以て、敵を切崩す。故に洲那へ御陣を移され、人馬の労を休め、七日には天王寺表の大合戦、全く御勝利故に、茶臼山に御牀凡を居ゑらる。〈此味に之を記す〉右の通、御備を押さるゝ事は、旧冬本道の大坂堤を切つて、仁和寺大久保辺の水、未だ引かざる故なり。此水を引落すべき積を、藤田申上げけれども、権現様、夫迄もなしと御意なされて斯くの如し。

小幡勘兵衛景憲、旧冬加賀備の手先、武勇の体、智謀の士なるを見聞きて、大野主馬亮方より招く。景憲、其証状を松平隠岐守・板倉伊賀守に見せ、間者となつて二月廿四日に大坂に入り、大坂の様子を、両人方へ註進す。後、露顕に及ぶ処を、弁舌を以て遁れ、三月廿六日京に帰る。権現様、御上洛あつて召出され、七日御合戦の武功ある故、台徳院様へ召返さる。 〈別書に之あり。之を略す。〉

第二、大坂より古田織部を語らひ、両御所京・伏見御逗留の内、洛中を焼き候へとある故、織部、我が内の茶道頭宗喜に申含め、調議を廻らす所に、板倉伊賀守、兼ねて此事を心に懸け、法度を厳しく申付くる。尾張宰相義直卿の内、甲斐庄三平〔本ノマヽ〕今井伊兵衛両人にて、火付を二人搦取り、成瀬隼人を以て言上す。伊賀守之を請取り、糺明して同類四十三人之を捕へ、七日の内に、三百余人僉議し出す。此棟梁は、古田織部なりければ、磔に懸けられ、彼の徒党の者共、悉く罪科に行はれ、洛中安静なり。

此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城内へ告げたるを、権現様御存知なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。

第三、御備定常陸介頼宣卿の御検使は、城和泉守、〈織部の事〉五郎太郎義直卿の御検使は、藤田能登守と、初に仰付けられ候へども、御先井伊掃部頭直孝の二の味、榊原遠江守若輩なりとて、能登守を差添へらる。然れども、冬の御陣に、能登守相備の内、浅野采女正は、此度本多出雲守手に加へ給ひ、其外は冬の如し。但し小笠原〔信イ〕濃守、冬は藤田相備なり。此度は父兵部大輔オープンアクセス NDLJP:69御供故、藤田相備なり。誰彼都合して、榊原の後備とあつて、内々二の別手なり。去る間、権現様御先二備は、御右の御先井伊掃部頭、洲那筋を若江へ出で、八尾〔休イ〕宝寺より大坂へ討入る御定。此二の手榊原遠江守、〈館林城主〉此跡に藤田能登守差引介副なり。御在の御先藤堂和泉守和州龍田へ出で、亀瀬越を経て、河内青谷へ取付き、若江表へ出で、爰にて御旗を待請く可しとの御定なり。此二の手、本多美濃守并に大和衆彼此なり。

大坂にて軍評定の時、真田左衛門申しけるは、旧冬の御和議、残念至極なり。旧冬までは、御方へ心を通ずる大名もありつるに、御和議になり、総堀まで埋め、悉皆降参の如し。大御所は、名将にて衆心を撃り、旧冬の働、軽き功を重くし、小きを大に感じ給ふ故、上下共に弥〻親み附き候。扨又、京・伏見へ発向し、膳所・大津へ手遣し、瀬田の橋を焼落し、京・伏見を取りしきなば、其内、味方へ通ずる衆も之あるべき所、味方の密談、敵へ洩れて、此儀もならず、野合の合戦は、味方小勢にて寄合武者なり。中々勝利を得難し。御籠城なさるゝ外に手立なし。然れば如何にも怯弱の体を示し、臆して働き出でざるなりとて、此方を見抜なば、敵に驕る心出来るは必定ならん。驕出来らば陣法乱るべし。其節を見て、秀頼様、大広閒へ御出で、面々に御杯を下され、御詞に預からば、衆心一統し、一戦を望まんは勇士の本意なり。其時、真田次第との御諚を承り候はゞ、両御所様の御陣場を見定め、其不意に出で、又は夜軍の奇変、某が一身の采配にて御座あるべしと申しければ、譜代衆其外、我もと思ふ族多ければ、真田只今のせがれ、我々を閣き総人数の采配は推参至極なり。耳の穢なりとて毀る故、内輪の破となり、互の権争にて評定不調なり。

第四、大野修理弟の道賢斎は、和泉の堺へ討つて出で、町中はいふに及ばず、堂社迄焼払ふ。是は、去冬東軍、此地にて用事を調へ、富胆の所にて、手寄たより能き故、之を妨ぐべしとて斯の如し。今度は運の極の勝負なれば、旧冬残りたるこそ幸なれ。其儘置いて武術になる事あるべし。浅智の故なり。太平記評判抄に、爪生判官保等、脇屋義治を取立て、杣山に旗をあぐる。足利高経より討手を遣す。延元元年十一月廿三日の事なり。杣山にて之を積り、〔葉イ〕原新道・宅良・三尾を初として、四五里四方悉く自焼して、湯の尾といふ在家一箇所をば、態と残して焼かず、敵を山路八里吹雪に、蓑笠も著ずして、此在家あるを悦び入込みたる所を、其夜、爪生方より夜討して、敵を追散らし勝利を得るとあり。敵になり味方になり、幾重にオープンアクセス NDLJP:70も工夫あるをよしとすべし。此弁なき道賢なれば、大坂落城の時、死を遁れ搦捕られ、境の町へ下され、土民の手に渡し、磔に懸けらるゝなり。屍の上迄の恥辱なり。

九鬼長門守は、堺の浦へ船を漕寄せ、御所様御著陣を境に相待つ節なれば、此大坂勢の出張を見て、陸へ上り、少々攻合を仕り、其の身も薄手を負ひ候なり。

第五、大野主馬亮は、紀州表へ相働く。其の様子は、旧冬熊野新宮一揆の計略相違に付いて、今度新宮、種々武術を以て取繕ふ故なり。是に依つて、其申合は、主馬、樫井に働いて、新達・中村を取りしき、枇杷が嵋の切所を抑へて手遣せば、紀州の主浅野但馬守出でゝ対陣す可し。若し出でずして籠城せば、味方より働入つて攻むべし。新宮が一揆、蜂起の行も仕よし。但馬守出でゝ対陣せば、新宮が一揆、跡より起るべし。然らば、後先より挟み討つて勝利を得べし。紀国さへ取りしきなば、泉州岸和田は、朝駈にも取るべし。紀国を、主馬根城にせば、両御所様、大坂へ寄せらるとも、紀国より後攻をして、一勝を得べしと申し合せて、四月廿九日払暁に、大坂を押出し、岸和田の北、春木川を前に当て、春木・我久村には、弟の道賢を大将として二百騎残し、岸和田城を抑ふ。城主小出大和守六万石、御加勢あれども小勢なり。然りと雖も、城を出でゝ備を立つる。扨又紀州海道、岸和田へ懸る新道なり。古道は境より東へ分れ、山手へ附き、我久村・土生村などを左に当てゝ、佐野河村辺へ行くなり。之を主馬三百七十余騎・雑兵三千計りにて押し、大和守、若し是へ懸つて防ぎ候はゞ、抑勢の道賢に城を乗取らるべし。其上、古道へは二三十町も阻り候へば、大和守懸らずして、控へたるは尤もなり。夫を悪しく取沙汰するは、不吟味なり。但し、馬、樫井にておくれを取り、道賢共に退散の時、大和守働なきは、越度なるべし。道賢抑勢に来るとも、大和守形を匿して備を出さゞるは、其の通なり。何時にても、敵に討つべき模様あらば、出でゝ討つべし。備を出しても、何の術なきは、益なき事なれば、心の後れたるにはあらずとも、武道鍛錬なきなるべし。扨浅野但馬守は、両御所御発向の手合として、紀州若山を出で新達に陣す。領知高三十〔一イ〕万石なれども、内検地多くして、人数多し。是に依つて、留守にも多く残し、連れ出づる兵五百八十騎・雑兵共に七千余なり。先二備、右は浅野左衛門佐、左は浅野右近、二の先、右は寺西、左は浅野対馬守なり。此四備、但州に一日先立ちて、佐野・河村・鶴原村の辺を取りしき、左右分れて陣取り、二の手の二備は、先より二十町程隔てゝ、長滝・安松の辺に陣取るなり。但州は、翌オープンアクセス NDLJP:71日新達に著陣、明日境まで取付きて、御所の御馬を相待つべしとの定の時、紀伊国中に一揆蜂起の旨、追々註進あり。大坂へ参陣して、忠勤を励ましても、国を破られなば、末代迄の悪名なり。先づ一揆を退治すべしとて、馬を納れられ、山中迄引入れ、堅固に構へて斯くの如し。先手の衆申すは、紀州は如何にもあれ。御所様御馬の向ふ大坂を、捨てゝ後へ引くべき道なし。是非、大坂へと頻に諫めて陣を去らず、互の評議にて、事延引の内に、大野主馬、紀州へ相向ひ、但州、山中へ引入りたりといふ事を聞ひて、之を悦び勇み競ひて押来り、岸和田の南貝塚の卜半所へ、主馬立寄り、是にて人馬の食を調へ、少時休息して押出す。但馬守は、家老共の申す〔所イ〕尤もなりとて、又新達迄、勢を率ゐ出でらるゝ所に、幸なり主馬働来ると聞いて、新達の右山手に旗本を備へ、新家村の上の山へ、遠斥候を遣置き、旗本を三備に分け、新達に一手、樫井に一手、以上三段に手配して、備を立堅めらる。先手の佐野川表の場迄は、旗本より程遠く、殊更勝利の地にあらざる故、先手へ申合はさるゝは、敵を引懸け、樫井の川端迄偽り引寄せて、全く勝利を得べしとの備定なり。然るに、貝塚の卜半は、敵味方に心を通じければ、主馬が様子を、紀州の先手迄、追々註進する故に、其程を考へて待懸けたり。大坂方の者共思ふは、但馬守と家老共と権を争ひ、但馬守は山中迄、備を引入れども、先手の者共は引取らず。何れの手なり一勝負なりとて競ひ進む故、引請けて紀州衆、一攻合して、左衛門佐は、右の方蟻通明神の森陰へ引退き、右近は、左の方船岡山の林の内へ引取るを以て、大坂勢、弥〻競ひ進みて追詰むるを、引懸け樫井川南の端迄退く。敵は勝利此時なりと、備へ動不動の作法もなく、紛々として取懸る故、但馬守旗本組の足軽大将上田主水は、樫井在家の後より直道を出で、早や戦を始む。同足軽大将亀田大隅は、八町畷の本道より出合ふ故、少し遅しと雖も、主馬下にて、五十騎の士大将岡部大学と鑓組みて、其働仕る故、勝れたりといふ説あり。其外、紀州衆、身命を軽んじて働くと雖も、主馬自身、味方の諸手へ乗入れ、下知して奮戦する故、紀州衆、樫井表をも押崩されて、南の川端まで引退く。此時八町畷の道脇に、小宮の森の中に残留る紀州衆、八九人もありて、敵の後より鉄炮を打懸けて、心緒を仕りたる衆もありしとなり。但馬守、旗本を下知し、敵の後を取切る如く、樫井川を渡つて脇より押廻す。是に依つて、一二の先衆四手、守返して左右より懸る。大坂衆、但馬守旗先を見て、怪しむ心あり、戦少し手委せ〔又妻手イ〕になり、斑に見ゆるや否や、紀州方の旗色直り、も闇オープンアクセス NDLJP:72て進戦ひけるを以て、主馬の下随一の士大将〔塙イ〕団右衛門哥死。紀知の先手左衛門佐手前の足軽大将八木新左衛門之を討取る。扨又、淡輪六郎兵衛は、泉州淡輪の主にて、主馬先手を仕出でたるが、是も討死す。其外勇士多く討死する故、主馬敗軍す。但馬守先手の足軽大将長田次兵衛・松宮〔勝イ〕介・旗本組の足軽大将多湖助左衛門・安井喜内・岸九兵衛等を初として、誰彼勇功あり。尤も紀州衆にも、手負死人多しと雖も、大坂衆を追討し、芝居をふまへて勝鬨を行ふ。此時、大坂方上条又八等、殿を能く仕りたる誉あり。外にも働の振合能しとて、名を得る者多し。但馬守、紀州へ帰陣、一揆退治に付いて、大坂へ出陣なし。

浅野弾正少弼三子、一男紀伊守、次男但馬守、三男采女正なり。紀伊守・但馬守両人は、太閤家に奉公、但馬守は、政所の御守にて在京なり。遅鈍ぬるき者なりと太閤召思し、采女正は利発健者なりと仰せらる。家康公へ附けられ、奉公仕りたるに、嫡男紀伊守死後、其跡を権現様より、紀州を其儘、但馬守へ下され、采女正には、弾正隠居領真壁五万石を下され、兄弟共に骨髄に徹し、忝く存ぜられ、今度大坂一乱に、但馬守無二に味方仕り、樫井の忠勤を抽んでらるる者なり。

第六、大坂城軍評議調はず。殊更大野修理・主馬兄弟不和なり。さる故、平野表へ出張の内談を違へて、道明寺表へ出づるもあり、若江へ出づるもあつて、心々面々の意地次第に、備を設く。将軍秀忠公、五月五日の夜、河州国分の山手に御本陣なり。御先備は越後少将忠輝卿、御介副の備は伊達陸奥守政宗、是は忠輝卿の舅なるを以て、御備の差引仕りて斯くの如し。又水野日向守・松平下総守、其外遠・駿・三河の御譜代衆扨ては伊勢衆・大和衆相列りて、道明寺迄所々に陣取る。大坂方後藤又兵衛・明石掃部・大野兄弟・鈴木田隼人・真田左衛門・森豊前・渡辺内蔵助等を初として、五月六日の未明に、彼の表へ出で、我が意地々々にて、一二三段の差別もなく、左右前後の手分もなくて、東方の備へ撃つて懸る。水野日向守、敵を請けて一戦誉あり。其外、入立ち相戦ふ。伊達衆には、片倉小十郎計り少し首尾を合する。松下下総守は、山手へ附いて、味方を離れて備ある故、山陰なれば、大坂衆向ふ敵計りに相当りて、此一手を見付けざるに依つて、下総守殿、敵の後を取切り突崩す。大坂方先手の働も、切捲くられて敗軍なり。鈴木田隼人は、旧冬博労ヶ淵にての様子、諸人の嘲を口惜しく思ひ、味方崩るれども、我が人数を集めて蹈止まり、追来る敵の横合より切入り、自身手を砕き敵をオープンアクセス NDLJP:73突伏せ、首を討つて捨てさせたる敵三騎、或は馬を突いて、跳落させて、我が者に討たせ、或は槍を取延べて、摑倒し突落して、手を負はする者十人余、無類の強みを働いて終に討死し、水野日州内河村新八、之を討取る。明石掃部も討死、汀三右衛門鑓付けて首を取る。後藤又兵衛は、乱るゝ御方を抑定め、立直る際にて、鉄炮に当つて討死す。然れども、後藤が備の様子を見て、大坂衆、盛返して、重ねて一戦を持つて見せ、暫らく備へて、其辺の在家々々に火を放つて、炯下を如何にも静かに、大坂へ引入るゝ事、攻手の振合なり。東の御勢も、長追を制して追留まる。火急に追討候はゞ、大勝利あるべきを、上総介忠輝卿の備、働なき故、先衆跡を見合せ遅々仕る内に、大坂方、手早に引入るなり。

上総介殿、此手に合はざるを、無念と思ふ心もなく、若江表にて大坂衆敗軍し、討洩されたる敵共も、平筋にて眼前に逃退き候をも、見遁して何の働もなし。日頃は行跡異相にて物荒く、蛇の住む地を捜して見、鬼ある山を分入り、つよみの自慢をして、邪なる武勇達と相違なり。冬の御陣の時は、江戸の御留守居に残し置かれ候は、関東筋抑の為めなるに、作法妄にて之ある由、権現様の御六男、越後国大半、高田居城其外、信州河中島総高七十五万石なりしに、御陣以後召上げられ、金森出雲守に御預け、飛騨国へ流罪なり。台徳院様御代になり、九鬼長門守に預けられ、伊勢浅間へ遷され、今は諏訪出雲守に預けられ、存生のよし。

第七、若江表権現様御備へ、向出づる大坂の兵は、一の〔手イ〕長曽我部宮内少輔を大将とし、三宿越前仙石家なり。竹田・森島・片岡等なり。この手は木村長門守を大将とし、布施・武藤・結城権之〔介イ〕・佐久間蔵人・山口左馬など差加つて、静かに進み懸る。両手合せて五千余の人数を、只二備にし、三の備は必ずとて敵を引懸け、乱るゝ所を入替へて討取る間に、一二の手盛返して、切崩すべしと申定めたるに、此方を捨てゝ、道明寺へ働きたる故に、木村・長曽我部、無二の一戦と心懸け、宵より出でゝ一戦を持ち、明くれば、五月六日払暁より、長曽我部懸来りて、東の御先藤堂和泉守と、勝負を初むる。藤堂先手武功の士大将藤堂仁右衛門・同新七を初として、歴々の者共多く討死す。木村長門守は、井伊掃部頭備に懸つて戦ふ故に、長曽我部が二の味なりと雖も、藤堂備へ懸る事ならず。是に依つて、藤堂、新手を入替へて敵を討つ。其の法正しき故に、仁右衛門・新七討死すると雖も、其組子、列を乱さずして稼ぐ。長曽我部、二の味はなし。戦疲れ旗色悪くなり敗軍して、木村が備へ崩れ懸る。井伊家の兵は、木村オープンアクセス NDLJP:74と相戦ふ。戸渡太郎右衛門・成島彦左衛門・川島六兵衛・松井七左衛門等、槍を入れ初めて、強戦を以て木村が先を仕り、佐久門蔵人をば、柾木舎人之を討取り、山口左馬助をば、八田金十郎首を取る。両人の武頭討死故、木村が先勢崩る。掃部頭勇智の誉なり。殊に古兵部直政へ預け下さるゝ甲州士の内、其砌迄生残りたるは、孕石備前・脇五右衛門・三浦与右衛門・同十左衛門・庵原助右衛門・早川弥三左衛門・長野民部・海老江勝右衛門・長坂十左衛門、中老には岡本半〔助イ〕・広瀬左馬、其外に親祖父誉の名を得し其孫子、弓矢の作法を聞習ひ、先祖の名を汚さじと、武勇を励み候若者多き故、木村備の先を押崩し、勝利を得る所に、剰へ、長会我部備敗れて、木村が備へ入乱れ候故、長門備も混乱仕る。此期を遁さず、掃部頭、采配を取つて下知し、突いて懸らせ、我が旗本はとて、二の合戦を持ち、庵原助右衛門は、武者奉行なれば先手へ乗入れ、諸士に勝利を進むる故、透間もあらせず切崩す。長門守は、兼ねて討死と心定め仕る故、逃ぐる者に詞を懸けて、反して一所に討死をせよとて、牀几に居り呼ばはりけれども、聞もいれざる内に、十騎計りは蹈止まり、長門守と一所に討死仕る。長門守、牀几の場を一足も後へ引かず。井伊家の兵大勢取包み、庵原助右衛門を初め槍付くるを、安藤長三郎長門が首を取るなり。若江表御合戦御勝利、権現様御機嫌宜しく、藤堂和泉守・井伊掃部頭両将、比類なき忠功なりとて、後に五万石づゝ御加恩なり。

井伊掃部頭直孝は、古兵部少輔直政の二男なり。天正十八庚寅年生る。十三歳の時、父直政卒す。慶長七年なり。其年の暮より江戸に相詰め、御訴訟申上げ召出さる。奉公の様子は、父に劣るまじき若者なりとて、二十余歳にて大番頭仰付けられ、其組中への心入無頼なりし由、兄は空気なれども、直政の跡なる故、相違なく家督にて、佐和山に差置かれ、兵部少輔と申すと雖も、木俣土佐を初め、其外、家老共に仰せ含められ、病気に取成して、人にあはすなとて、此年月引籠り居る。是に依つて、大坂御陣に掃部頭に仰付けられ、佐和山の人数を引率し、冬御陣極月四日の首尾宜しく、又夏の御陣に、右大功の誉ある故に、即ち佐和山を掃部頭へ下され、兵部は上野安中にて三万石下さるゝなり。掃部頭、冬の御陣には廿五歳なり。然るに、其頃本多佐渡守は、老体にて、執権人の随一にて、威勢甚だ盛なる故、国主・高家も、膝を曲げ手を屈むる所に、二条御城にて大小名列座の時、掃部頭登城して、佐渡守の座上に居直り、其威儀具りたる様子を、大小名見て、掃部頭、若輩にて殊に昨今迄大番頭仕り、一オープンアクセス NDLJP:75万石足らずの人、俄に斯くの如きは、如何と思ふに相応し、佐渡守に対し、其応答、自然と威あつて猛からざるは、直政の再来の様に思はるゝとて、諸人御所様の御眼力を、感じ奉るなり。諸人退出の後、本多へ掃部頭、其底意を申して、一礼ありたりとなり。

第八、同七日、弥〻大坂城へ御取詰なさる。城より大野修理・同主馬亮・森豊前・真田左衛門、其外の士大将、今日は堀際の一戦たるべしとて、天王寺表を一円に取りしき、真田は、茶臼山に旗を立て、我は二の味の勝利を蹈まへ、人数を分ちて、百騎余を先に用ひて備を立つる。御勢は、右の先加賀の備、左は越前の備なり。両備の間七手組の衆、備頭は本多出雲守なり。越前の備の左より下へ立配りて、幾備も之あり。中は井伊掃部頭・藤堂和泉守、此先備に押並びて、榊原遠江守・藤田差引なり。井伊備の二の手なれども、一の手と相並べば後勢大軍詰懸る故なり。何れも斯くの如く詰寄せて備ふれども、二三の備立余りて、四方四五里が間は、寸土もなし。扨御下知を持つて戦を初めず、遠く鉄炮抔放して見合ひ、手毎の斥候を用ふ。然れば、将軍秀忠公より御下知にて、越前少将忠直卿、軍始めを奉る故、藤田大学・山本清右衛門両人の縨武者を、物見に申付けられ、両人、勝利を見定め帰る故、一戦始まる。越前の備は、茶臼山へ押向ふ故に、真田が先勢と挑み戦ふ。忠直卿、采配を取つて無二無三に突懸け給ふ。早、真田が先勢旗色悪きを、真田見て、旗本を以て助蒐らんと思ひ、茶臼山表より人数を下しけるに、前に堀ありて、地形宜しからざる故、脇へ押廻さんとするを、真田が先手の内より見て、真田、城へ退散候と心得て、弥〻色めき、一人逃ると、其儘一手繰悉く敗軍して、真田が旗本へ崩懸る。越前衆、其節を遁さず、透間もなく入立ち突崩す故、真田、備を立直す事ならずして敗軍なり。越前衆、追討つて都合首数三千六百五十二討取る。真田左衛門佐首をば、西尾仁左衛門之を討取り、三宿越前をば、野本右近之を討取る。此者は、三宿勘兵衛とて越前衆なり。少将殿へ恨ありて立退き、大坂へ籠り、五十騎の士大将仕り、越前と号す。此度、剛なる働して討死仕るなり。右の戦の時、御方の御備の内端に繰つて見えたる事もあり。早治国になり、弓矢稀にて、武功の人は大方死し、事馴れぬ若者多く。殊に御譜代衆許りにてもなく、多勢入りまじりて、一括の軍令も、末々へは及ばずして紛乱しけるを、両御所様、御自身の御下知宜しきを以て、諸備定まる。本多出雲守、類なき剛強の働にて討死、小笠原兵部大輔・同信濃守討死なり。秀頼公、御出馬ありて御一戦と進むると雖も、遅々オープンアクセス NDLJP:76の内、大野修理御迎に参るとて、城内へ入るを、大坂衆、見て逃入ると思ひ、一入戦弱くなる色を見て、東の御勢は、弥〻勇懸つて切捲りける故、大坂勢、四角八方へ退散するを、追詰め追詰め之を討つ。大坂勢、落人となりて命を遁るゝもあり。義を存ずる者は、城へ入るもあり。味方附入る時、敵味方共に討死多し。軍の始りたるは未の刻、城を焼立てたるは、申の〔半イ〕なり。

秀頼公は、八日午の上刻、御本丸月見櫓の下糒矢倉、其下の段平櫓をば水櫓ともいふ。是にて御自害、御年廿四歳なり。御母公淀殿も御自害なり。是は将軍大御台の御連枝なれば、関東へ御下り候へと、御内通ありけれども、御許容なきは尤もなり。秀頼公の御台は、将軍の御息女なる故、奪取り給ひて、将軍の御陣所へ御入なされ、城兵御供せり。自害の人々は、饗場局・大蔵卿・右京大夫・宮内卿・古川上臈・御玉合せて六人、大野修理・同信濃守・速水甲斐守・同伝喜・津川左近・武田左吉・堀対馬・高橋山三郎・同勝三郎・土肥庄五郎・加藤弥平太・竹田永翁・森島長以・植原八蔵・同三十郎・寺尾庄左衛門・小室武兵衛、関ケ原以降の新参衆には、森豊前守・同長門・伊藤武蔵・氏家内膳・真田大〔助イ〕・片岡十右衛門・中高将監・同半兵衛都合廿五人、思々に腹掻切つて、櫓に火を懸け灰燼となりぬ。中にも郡主馬といふ御譜代、其日辰の刻計りに、殿主へ上り切腹し、鉄炮の薬に火を付け焼立て、自ら首を搔落して死にけるは、秀頼公に御自害をすゝめ、是非御殿主を御下りなされぬ様にと、再三諫め申す。大野修理、何卒計つて今一度、東と御無事を取り繕はんとて、水櫓迄下し申しける故、其所を見切つて斯の如し。

大野修理弟壱岐守は、冬の御陣御和談あつて、人質にて召連れられけるが、此度又、御発向に付き、本多佐渡守を以て、壱岐守に仰せらるゝは、大坂此度逆意の儀、内心には以前より之ありながら、壱岐を〔〈人脱カ〉〕質に差越す事、誠に鬼の投飼、捨殺といふ者なり。此義を、壱岐守存ずるならば、主君兄弟へも、恨あるべきか。然れば当方へ無二の志あらば、以来は御取立なさる可し。然れども、譜代の主君なれば、大坂へ帰りたく存ぜば、遣はさるべき間、御返事申上げよと仰せられける所に、東へ一味の御請申上ぐる。又上意に、御感悦に思召さるゝなり。此上は一忠の志を存じ、一通の書状を、修理・主馬両人方へ遣すべし。其状は、今度両御所発向に付いて、其許城衆、東へ内通之あり、秀頼様を討ち奉るべきなどゝの様子なれば、秀頼様、卒爾に御表へ出御御座なき様にと存じ奉り候。御側眠近の衆中迄も、能々御用心尤もオープンアクセス NDLJP:77に候。猶々委しく承届け註進仕るべしと御案文を以て、壱岐守自筆に認めさせ、本多佐渡請取つて、大坂へ差遣す故、城中不和の基となりて、就中秀頼公、御若将なれば、奥に計り御座ありて、御用心なされたるとなり。壱岐の事いふに足らざるなり。

第九、大坂落城、五月八日秀頼公御自害、同日大御所、早々大坂を御立ち御帰京、陸河様子次第と仰出されて後、陸地を御帰陣、御奥意深し。将軍家は、翌九日に至りて、伏見御城へ御馬を納れらる。

第十、右天王寺表、七日の御合戦、一手一備の戦功武頭物奉行一人の働に至るまで、甲乙の儀、両御所様、京・伏見御逗留中、御僉議あつて、賞罰正しく仰付けらるゝなり。七日の御合戦に、首数総合一万四千五百七十余の首帳を以て、凱歌の御儀式取行はる。此内、河内・山城・和泉・摂津所々にさまよふ落人の旗・具足を剥取り、刀・脇差を奪取られ、手も足もなき如くなるを摑殺し首を取る。斯様の首共をも、都合して件の如し。然れば大坂の武功の儀、其の証拠なきは、今に至つては吟味批判あるべき事なり。

七日天王寺表、榊原遠江守備、藤田能登守差引の事、藤田相備衆の内、各〻組合せ手配宜しくて、榊原備の二の見と定まる。此の手先へ、敵、速見甲斐守・森豊前守、身命を抛ち剛強の働き故、榊原備にても、手負死人多く、老功の臣伊藤忠兵衛討死、藤田能登守も、自身高名する故、薄手二箇所負ひ、相備の小笠原兵部父子討死、信濃守舎弟の大学も、十一二箇所手疵を蒙る。斯くの如き味方の働にて、敵の強を察すべし。然れども、藤田備の差引宜しきを以て、遂に敵を追崩し、榊原一備へ、敵の首数七十八、小身の藤田の手へ首廿三取る。脇へ逃ぐる溢者を討たずして、本道へ追行きて斯くの如し。正道の働なり。是に依つて、両御所様御前へ、榊原遠江守・藤田能登守両人を召出されて、大方ならず御感なされ候。前日六日、若江表合戦には、榊原備手に合はず、後備藤田相備の衆迄も、無念至極と申さる。其様子左に之を記す。

第十一、京・伏見両御所様御逗留中、榊原遠江守病死なり。子なしとの披露なれども、御取立の家なれば、後嗣を御立なさるべき由にて、家老共に尋ね、其ついでに若江表にて、榊原備、手に合はざる様子、両御所、江戸・駿河御帰以後、権現様御尋なり。館林の宿老、村上弥右衛門・中根善右衛門・原田権左衛門・伊藤忠兵衛を初として、各〻申上げ候は、木村長門と井伊掃部一戦、オープンアクセス NDLJP:78榊原二の見の塩合爰なりと見定め、進懸るべしと仕り候所に、御検使の藤田能登守と、遠江守と両人、堅く制止候て、懸らせず候て是非なく候。御検使殊に武功の藤田にて候へば、能き事御座あるべしと存候処、左も御座なく候。遠江守、年若く候へば、つよみの方へ進むべき所に、病者故か藤田と心を合せ、控過ぎ、兼々の心入と相違仕り候。私共に於ては、別事御座なく候。是に依つて、翌七日御合戦の時、伊藤忠兵衛、前日手に合はざるを無念に存じ、心を励まし討死仕る。我々も粉骨を竭し働き、藤田下知を強ひて用ひず候故、遠江備宜く相達し、御感に預り候。扨遠江守に、子は御座なく候と申上ぐる。

榊原遠江守は、加藤清正の壻なり。此腹に子なく、外戚の腹に男子一人あり。かくして知る人なければ押隠し、若江の働、御僉議を幸と思ひ、咎を藤田に申懸け、榊原の家絶えなば、我我は元来公儀の者にて、古式部大輔に附かせらるゝなれば、御旗本へ召返さるゝ儀、必定ならんとの内談にて、右御請申上ぐる〔斯くの如しイ〕

藤田に御僉議あり、藤田申上ぐるは、遠江守年若く候へば、若江にても武勇を励み、先祖の家名を揚げ候はんと存じ、衆に先ちて、頻に進み候所、某、馬を乗寄せ、今少し控へず候へば、後途の勝利得難しと、其理を申聞け、達て制止候故に、尤もと得心にて、備を下知して、蒐らせざる内に敵崩れ、井伊の備競ひ追討になり候。某、見積相違仕り、敵大崩仕る故、榊原備手に合ひ申さず候。遠江守は忠信の思入、切に御座候を、本意を失はせ、今此御僉議に合はせ候儀、是非なく候。此一段は、家老共申す所も、尤もに御座候。某、軍理未達の誤にて御座候。但し天王寺表七日の合戦の儀、家老共己々が働の様に申上げ候は、偽にて御座候。御使番・御目付衆、諸手へ廻り、替る見分して、言上仕らるゝを以て、遠江守と某と両人を、御前へ召出され、御褒美なされ、某下知の様子自身の働まで、委しく上に御存にて御座候。申上ぐるに及ばず候と御請申上げ候。此御使は、本多上野介・永井右近大夫両人なり。右の様子御耳に相達し、藤田と榊原家老共と公事なり。彼方此方とある内、御使にては事紛れて、早速埓明き兼ね候間、双方対決然るべしとて、御前公事に相定まる。其日限に至つて、藤田と榊原家老共御前へ出づる。両方申分け段々ありて、権現様、藤田へ上意は、藤田が申す如く、遠江守忠信武勇の志は、さぞありつらん。藤田老功なる故、差引を申付くる所に、控へて首尾を合せず、見積相違仕る。一人の誤と計り申す事、如何様の道理を、遠江守に申聞かせて、若者オープンアクセス NDLJP:79の勇気を制止めける事、如何と仰下さる。藤田御請に、御前に於て、対決仰付けらるべしとの儀故、其内申上げ候ては、展転仕る義如何と存じ、唯今までは申上げず候。若江表に於て、敵木村、味方井伊と一戦の刻、敵長曽我部、藤堂に押崩され、木村備逃交り混乱仕り、木村備共に敗北仕り候。其合戦場敵備の後に、誉田八幡の森続、森のしげり深し。伏奸あるべき地なり。天下の大軍を引請け、御威風にも恐れず、城より出でゝ備を立て、蹈忍へて引入れざる事は、武術あるべき儀なるに、敵の備唯一重なり。是は伏兵を秘し、東の大軍追来る時、其乱立ちたる中へ、伏を起し討入るべしと考へ申候。其時、館林の備を進め、横合に敵を討ち、勝利を得べしと存じ、此理を遠江守へ申談じ控へさせ候所、案に相違仕り、敵伏兵も無く、総崩れ仕り候。後に承り候へば、一二三と組みたる三の備は、異変して若江へは出でずして、道明寺筋へ働出づる中間の権争ひ、己々心々の出張になりて斯くの如しと相聞え候。右の通故、館林の備の手に合ひ申さず候。此儀、某見積、相違仕り候は、軍理未熟の罪にて御座候。遠江守毛頭誤御座なく候と、申上げ候へば、尤もとの上意、重ねて聞召さるべしとあつて、入御なされ、藤田も館林の家老共も退出仕るなり。

、榊原式部大輔は、遠州横須賀城主大須賀五郎左衛門壻なり。五郎左衛門子なき故、式部嫡子を乞ひ、家を相続す。大須賀出羽守是なり。遠江守は出羽守弟なり。酒井雅楽頭・ 〈今の河内守忠清の祖父なり、〉松平武蔵守〈後再び阿部修理大夫の父、〉両人は、式部大輔壻なり。榊原遠江守妻は、加藤主計頭の女、肥後守忠広の姉なり。〈後再び阿部修理大夫に嫁す。〉斯様に歴々多くして、家老の申分非義、藤田申分正道と聞召さる。古人の詞に、曲不直、偽不信と、遠江守、若江表の忠義立て候故、大須賀出羽守一子を、榊原の後嗣に仰付けらる。今の式部少輔長次是なり。其後、出羽守子なくして卒去、家断絶、夫故、今榊原の家に、横須賀衆多し。

、榊原遠江守落胤腹の子、平十郎といふ。之を家老共押隠して、子なしと申す故、御旗本へ出づる事もならず、又殺す事もならずして、辺土に押込めて、差置き候を、加藤忠広聞いて尋出し、之を扶助し、公義へ召出さるゝ様にと、之あり候へども、榊原遠江守に子なしと、家老共言上、夫を申立てられ候はゞ、家老共の不義顕れ、卻つて家の為め、如何との義にて延引の所、忠広流罪故、弥〻首尾調はず。然れども道か遠州の実子なりとて、一門の衆、取繕ひ談合あつて、遠江守別腹の妹の子、遠江守甥なりと披露あつて、公儀相調ひ、御扶持方千俵下置オープンアクセス NDLJP:80かれ候。両三年過ぎても、其の通なる故、不足に存じ落髪して、高野山へ入り、年久しくして松平新太郎光政より、種々申送られ、備前へ呼取り、榊原香〔庵イ〕と申すとかや。

、藤田能登守病気に依つて、信州諏訪へ湯治の志あり執権の方々へ暇を請ひ、江戸より信州善光寺へ行き越年し、春になりて諏訪へ入湯、三七日の後、腫気黄疽の萌出で煩悶怔忡の症加はり候故、京へ上り養生を加ふべしとて、中山道を経て上りけるが、同国贄川と屋護原の間、鳥居峠の麓奈良井にて、病悩頻に重り、医術応ぜず、元和二年丙辰七月十四日卒す。〈五十九歳。〉俗名藤田能登守従四位下平信吉、法名休昌院一叟源心居士、奈良井の禅寺に之を葬る。嗣子なき故、今の水戸頼房卿の下に、某軍八定房が兄に、吉江藤左衛門尉定景といふあり。内々、其者を養子にすべしと思ふ志なれども、未だ執権に相達せざる内に卒去故、能登守西方の領知召上げられ、家断絶なり。件の如し。

 
管窺武鑑上之中第二巻 舎諺集
 
 

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