私の履歴書/鳩山一郎

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一、幼いころ[編集]

私が生まれたのは東京江戸川べりの東五軒町というところである。そのころは、まだ水がきれいで、江戸川でアユがとれたことは幼年のころのかすかな記憶に残っている。また家の食堂の前にぶどうの木があって、それにはいあがって、ぶどうをとったのも、淡い思い出である。そのほかは、この東五軒町の家については、あまり覚えていない。ただ、父(和夫)が当時の川田日銀総裁などと相談して、江戸川べりに桜の植樹をやり、それを手伝ったことだけは、なにかしら、いいことをしているという気分で胸がふくらんでいたのを覚えている。

私が現在の音羽の家に住むようになったのは明治二十五年である。私は明治十六年一月一日生まれだから、数え年十歳のときだったわけである。この年は父が選挙に負けたときだ。おやじは「こういうときこそ積極的になんでも建設に向かわねば……」といって、音羽にきたわけである。当時の家は大きな木造家屋で三十畳の間があるかと思えば、玉突場もあるという、だだっぴろいものであったが、これはその後、大正十二年に建直している。

音羽にきてからのことは、私の記憶もかなりはっきりしたものになっている。私と弟の秀夫は一年三ヶ月しか違わぬ仲のよい兄弟だったが、家庭での遊びは、いつもこの二人のほかに父が加わってくれた。当時としてはハイカラな遊戯だったのだがクロッケイとかテニスなどを家庭で楽しんだ。また音羽の家は、いまでもそうだが、小さい丘の突端にあるのでタコ揚げには非常に都合がよかった。父もタコ揚げが好きだったらしく、よくいっしょにやった。四枚張とか五枚張とかいうのを買ってきてくれて、それにカンギリという糸を切る器具をつけて、双方で切り合って飛ばしてしまうような遊びをよくした。このように、父はなんでもよくこどもと遊んでくれた。遊戯をしている間に人格をつくるというのが主義だったのだ。

囲碁は母(春子)が教えてくれた。謹厳をもって聞えた母が、こういう遊びを知っていたというのは、ひとには意外らしい。母は祖母からこれを習い、元来、負けぬ気の推理に長じた性格も手伝ってか、私たちにはなかなか強い師匠であった。習いはじめたのは十歳くらいであったろうか、母の碁の作法には一つ特徴があった。それは絶対に待ったを許さないことだ。下手をさして敗れれば、また考え直して挑戦するがいいという考え方のようであった。これが、こどもに決断力を養わせるのに役立つのであった。

日曜日や祝祭日には、私たちこどもの極楽であった。かならず「本日不在」の木札を戸口にかけて、一家そろって外出した。動物園や博物館や郊外の散歩にでる。私たちには母から鉛筆と手帳が当てがわれた。実地について観察したことがらを書きつけ帰宅してからは、さらに日記に書いた。また父の提唱だったが、私たちはずいぶん小さいときから兄弟共同作業の花壇の持ち主であった。いろいろな園芸用具も買いととのえ、花や木々を愛する趣味を植えつけられた。いまでも庭が好きで、少し盛りは過ぎたが、天気のいい日は庭一面のバラをながめて歩くのが一日のうちでもっとも楽しい時間である。

二、両親のしつけ[編集]

私と弟の二人の教育は、まったく両親の共同作業だった。しかし、なにしろ父は多忙で外出専門だから、時間的には母が大部分教育を受持ってくれたということになる。そしてきびしい母の教育の背後に、いつも父の大きな目が光っているというわけである。しかも、その父の目は、つねにやさしかったのだ。

小学校はお茶の水の付属であった。東五軒町からお茶の水までは、途中かなりの坂もあり、車馬の往来もひんぱんなので、私たちと同じくらいの家庭の子供たちは、たいがい人力車で往復するのが普通だった。しかし母は絶対そうさせなかった。いつも一人の女中をつけて歩いて通わされた。私は生来、活発なスポーツが好きだから平気だが、弟の方は体も小さいし、壮健とはいえなかったから、これは相当こたえたに違いないと思う。しかし、母はもちろん人力車賃を惜しんで私たちを歩かせたわけではない。運動のためもあったろう。しかし、いちばんの母の心は、事に処して敢為な精神を養わせたかったのであろう。歩いて通えぬような弱虫では物にならぬと考えたのである。そのかわり、車代だといって、毎日、私たちに二銭ずつくれた。それを私たちは貯金箱に入れてためた。

小学校のころは、母が学科はすべて二年くらい先のことをみんな教えてくれていたから、すこぶるわかりのいい生徒だったと思う。世話の焼けぬ、しかしそのかわり張り合いのない生徒だったかもしれない。中学に入ってからもやはり二年くらい先のことをやっていた。付属中学では、試験のときは先生が黒板に問題を書く習慣だったが、先生が書き終ると、とたんに答案ができてしまうというほど学科は自家薬籠中のものだった。私はそのころ試験の答案を二番目に出したという記憶がない。

私たちは帰宅すると、母から日本外史や十八史略などをむやみに読ませられた。それも同じところを六回も七回も読ませられるので、わんぱくだったぼくは悲鳴をあげた。ある日、三回ぐらい読んだので「もう、たくさんだよ」といったが、母は許してくれない。私は立って逃げ出したのだが、廊下の行き止まりが便所で、その前でつかまってしまい「そこへおすわりなさい」といわれて、便所の前へかしこまって残りを読まされたことがある。

中学三年のときだったと思う。板垣さんと大隅さんのいわゆる隅板内閣ができて、それが六ヶ月くらいで倒れた。私は内容は忘れたが、とにかく政治を批判した論文を当時いちばん大きな雑誌だった「太陽」に投稿したことがあった。

中学時代に私は停学処分を食ったことがある。佐伯好郎という先生が、そのころ洋行帰りで、いつも背広にキチンとネクタイをして来られた。それがあるとき、ノーネクタイで首をあけっぱなしで登校した。私は親友の岡田信一郎と一緒に、そんな先生を見掛けて、何気なく「先生、きょうはクックのようですね」といった。すると、先生はカンカンに怒って、二人はあとで教員室へ呼ばれた。「お前たち、あんなことをいって悪いと思わないか」というのである、岡田はおとなしいので「悪いと思います」とあやまった。ところで私はというと「私は先生をほんとうにクックのように思ったからそういったので、別段、悪いと思いません。したがってあやまりません」といった。

それで佐伯先生は教授会で、鳩山を退校させろといったらしい。しかし退校はひどかろうというので、罪一等を減じて停学一週間ということになったものらしい。あやまった岡田には何の処分もなかった。

三、一高時代[編集]

一週間の停学を言い渡されて帰る道は、さすがに足が重かった。家へ帰っていろといわれて帰ったものの、どうしたらいいか何をしていたらいいのかわからない。小さくなって書生部屋に隠れていると、事務所へ出掛ける父がみつけて「一郎、どうして帰ってきたのか」と心配してきく。「きょうは学校で先生をクックのようだといったら、家へ帰っていろといわれた。停学処分なんでしょう」「そうか。それなら、うちで遊んでいればいいよ」父はいつもの明るい顔で、そういうと、さっさと事務所へ行ってしまった。

どんなにしかられるかと思っていた私は、このときくらい、父を偉いと思ったことはなかった。また、日ごろ、きびしい母も何もいわない。両親の寛容さに私はまったく感動した。

さて、母は中学三年までは、前に述べたように二年先のことまで教えてくれたが、それも無方針で教えていたわけではないようである。つまり、中学四年になると一高の入学試験をひかえて、自分から勉強したいという気分が起る、それまでは欲がないから指導するが、あとは手綱を放して、自分で歩かせようと、そういうふうに初めから決めていたようである。母のこの洞察(どうさつ)力もまたすばらしいもので、実はまったくその通りになったのであった。

そして、英語などは父や母のおかげで学校で教わる以上に力がついているし、歴史や数学は、当時はどういうものが出るか、おおよそ推測がついたものなので、一高を受けても、初めからパスすると十分自信があり、なにも心配はいらなかった。

こういうわけで、私も弟も一高の入学試験には全然苦しまなかった。しかし、試験はいまより学校が少なく、全国でも高校は三つくらいしかない時代だったのでむずかしかったと思う。

一高に願書を出すとき、若い受験番号をもらうため夜の明けないうちに出かけて、一高の門を乗越えて入ったことを記憶している。それから発表を見に行って、トップだと思っていたのがトップでなかったのでびっくりした。ここで私は、自分もよくできるつもりなのに、世間にはもっとできるやつがいるんだなアと改めて見直す思いだった。

そのころは英法が最も多くて五十人通ったが、そのうち私は十何番でもあったろうか。一高に入ってから試験があって、その成績発表の張出しを見に行ってまた驚いた。というのは、私は試験は全部できたから一番だと思ったのが、一番にも三番にも名前が出ていない。どうしたんだろうと思ってよく見ると、次の列に出ているのだ。こりゃあ、偉いやつがたくさんいるものだと、またしても、私は感心させられたのであった。その時代の同級生には、後に駐独大使になった武者小路公共がいる。

一高時代、母は教育は家庭でするのがいちばんいい、一高の全寮制度は自分の子供のナイーブな感性をきずつけるから寮には入れないと言い出した。当然、このことは全校に大騒動をまき起した。一高の先輩連中は、寮に入るのがいやなら一高に入るのをやめたらいいじゃないかといってきかない。結局、私に鉄拳制裁を加えた方がいいということに衆議一決したらしいが、黒田英雄という三年の学生が「本人が入りたくないというわけじゃないから、それは行過ぎだろう」と分けて入り、結局、一ヶ月とか二ヶ月とか、期間を切って入寮することで妥協ができた。そんな経緯もあり、私は寮生活というもののダイゴ味を味わっていないのかもしれないが、ほかの人がよくいうように、寮生活をありがたいものとは考えなかった。

四、賢弟秀夫[編集]

寮生活はなじめなかったが、一高特有の学風には私もすぐ親しんだ。乱暴ででたらめなようでいて、かりにも学業をなまけるような気の起らぬ不思議なふん囲気がそこにはあった。入学のとき二十何番だった私は、学年試験の結果は十二番に上がっていた。別に点取虫だったわけではなく、大いに遊びおおいに学んでいるうちにそれだけになったので、多少は満足であった。ところが、弟はというとその翌年、周囲の期待を裏切らず一番で一高に入学した。

この弟は元来、むやみにできる男で、勉強というのも、大してやらないでできるのだからかなわなかった。背丈が小さくていつも級長だったので「豆級」というアダ名がついていたのだが、みんなから尊敬されていた。弟とは一年違いだから、私が落第すれば同級になる。私は小さいときから、なんとなく秀才の弟に追われどうしで、これには閉口したものだ。机をならべて勉強していて、母が同じ問題を出す。弟はすぐ出来てしまうが、私はよほど考えないと出来ない。そんなことが珍しくなかったのである。まことに申し分のない愚兄賢弟ぶりだが、私だって普通よりいい成績なのに弟の方がむやみにできすぎたのだといっても言い過ぎではあるまい。

彼が大学に入るころはすでに英、仏、独語を自由に駆使するようになっていた。国際法の答案などで、ドイツ人の学説を引用するときは、ドイツ語で書き、英人のは英語でというようにしたので、点のつけようがなく、百四十何点とかをくれたこともあるそうだ。いま東京芸大の学長をしている上野直昭氏は高等学校は弟と同級で、大学では哲学科に入ったが、哲学の本がドイツ語で書いてあるので、試験の問題になると、いつも弟のところへ教わりにきていた。なにしろ、一高を卒業するときの平均点が九十何点という開校以来の記録だったのである。

その弟が、大学に入って最初の試験のころ肺炎になって、医者に試験をうけると死ぬといわれたことがある。父も母も非常に心配して、こんなときは試験をうけなくてもいいではないかといって弟をとめた。ところが弟のいわく「ぼくが試験をうけたい気持は兄貴がいちばんよく知っている。兄貴が試験をうけちゃいけないというんならあきらめるが、兄貴はきっと受けろというよ」。その通り、私は「受けた方がいいよ」といってやった。

弟は病床から、ひょろひょろと立ち上がって試験場にのぞんだのだが、そのときの全科目の平均点がやはり九十何点だったと記憶する。病気で何も勉強していないでそうなのだから、これには私も改めて舌をまいたものである。

私自身はどうかというと、あまり自慢にはならないが、とにかく年を追って成績はシリ上りに上がった。弟とはだいぶへだたりがあるが、これは、こどものときからのことで、別にくやしくも思わなかったのである。

弟はそういう秀才で、後年、私が政界に出てからも、ずいぶん助けになった。しかし、あまり鋭すぎる頭脳を持っていたせいか、大変な深酒をするたちであった。胃かいようを三べんもやっていながら、ウイスキーを一晩で一びんあけるような乱暴な飲み方をしたのがもとで、終戦の翌年、脳出血で死んでしまった。頭はよくてもやさしい男で、私にはつねに一歩を譲って、頼むことはなんでも引受けてやってくれた。

五、東大→弁護士へ[編集]

東大入学に当って、私が英法を選んだのは父のあとをつぐのが長男として当然と思ったからに過ぎない。英法に入って私は非常に得をしたと思っている。父は商売柄、被告の名前からも原告の名前からも引ける英国の判例集をもっていたのでこれがたいへん重宝だった。

私は自分でいうのもおかしいが、大学では終始、順良な学生であったと思う。そのためというのでもないが、学生生活を通じて特待生の待遇を得ていた。特待生というのは授業料を免除してくれて、そのうえ、年間七十五円の学費を支給される。とにかく気分のいいものであった。

大学を出ると、すぐ父の事務所に入って、文句なく弁護士になった。もうそれは、自分の将来の方針がどうのこうのというようなものではなく、あらかじめ定められたレールを走るがごとく、もっとも素直に進んだ道なのである。事務所にはたくさんの弁護士がいたが、父のアドバイスは裁判所に初めて行くときも、人に引張ってもらって行ったのでは、ろくな弁護士になれない。一人で行ってみろということだった。わたしは裁判所へでも、どこへでも勝手にずかずか入りこんで、何もかも一人で覚えてしまった。こうして、結局、人に引回わされたより早く、また深く仕事を自分のものとすることができたのである。

弁護士として私は刑事事件にはさっぱり手を染めず、もっぱら民事の方に身を入れた。あるとき大阪で父の畏友(いゆう)江木哀さんを向うに回して、父と私が組んで弁論をやったことがある。その裁判を終えて、同じ列車で東京に戻ったのだが、父と江木さんは一等、私一人が二等に乗っていた。そのとき江木さんが、一等車からわざわざ私のところまで足を運んでこられた。「君にひとこと注意しておきたい。きょうの君の弁論をきいていると、どうも、君にはオレが、一番の学者で、おやじよりもよく知っているんだというようなところがみえる。君は若いからだが、おやじは君なんかのように表面のことよりも、大きな筋道をつかんで法律を研究しているんだからね。おやじを軽べつするようでは大成しないぞ。なんといっても、おやじは君よりも法律家なのだからな」といわれた。私は「わかっていますよ」といった。しかし、いい忠告だった。私は自分でいっぱしの法律家だと考えていたわけではないのだが、その弁論では遺産の問題か何かで少し生意気をいったらしい。実際はそれほど生意気な青年でもなかったのだが、ひとからそう見えるのではいけないと反省したのである。

大学を卒業した翌年の明治四十一年に私は薫子と結婚した。薫子とは従兄妹同士で、子供のころからの知り合いであった。母も薫子に少女のころから英語を覚えさせたり、英米のマナーを習わせたりしていたから、将来、結婚ということを考えていたのだろう。

結婚して四年目、そして父の膝下にあって弁護士修行をすることまる四年の明治四十四年、父は五十六歳の若さでガンのために世を去った。病中、看病に尽せたのが私の父に現せた唯一の孝行だったといえよう。私たちは、母も子も若い嫁たちも、死なれてみて本当に父の偉さ、大きさがわかった。

父は明治十五年二月東京府会議員に最高点で当選、十七年四月再選、そして二十五年二月に衆議院議員になってから前後九回の当選歴を持っていた。この間衆議院議長もつとめている。晩年に近い四十一年には東京市会議員も兼ねた。私が初めて議員生活に第一歩を印したのが、父の死去によるその補欠選挙だったのも思い出深い。私はそのとき数え年二十八歳、衆議院議員の資格三十歳には、まだ年齢が足りなかったのである。

六、東京市会議員[編集]

市会議員に立候補した私は、まだ父を亡くした悲しみのなかにあった。いや、その悲しみをぬぐうためにも、父のあとをついで、その補欠選挙に出ることを政界入門の初陣にしようと考えたわけである。地下の父も定めしこれに同意してくれるに違いない。母ももとより賛成だ。活動的な性格からして、座しておれば故人のおもかげばかりが浮かび出て、かえって思い出が悲しいであろう。

決心をつけると母は猛然と立上がってくれた。当の私よりも熱心なくらいであった。こうして私は、政界入門の第一歩につまずくことなく確実な歩みを運んだのであった。

市会の思い出は三木武吉につながる。三木は当時、市会における憲政会の実力ある代表者だった。私はというと、政友会から出ているものの、これは実力のない代表者であった。だから、三木の方では約束することに実行力があったが、私は三木と話合っても、さて、その約束を実行する段になると、なかなかいった通りにならない。たとえば、蔵相をやった勝田主計を市長にして、東京市の財政を勇断をもって決定してもらおうと約束したときも、憲政会の側はよくまとまった。ところが私の方は、皆が「三木のような悪党と約束してだまされるようでは、先生はだめじゃないですか」といって、なかには泣くやつも出る始末だった。それで、市長選挙のときに三木に「君と約束したが、その通りにはいかんよ」といってやった。三木はあとになって「鳩山はひどいやつだ。約束しておいて、選挙の当日になってから、アレはだめになったのひとことですましているんだからな」といっては私をからかったものである。そんなわけで、行動のうえではなかなかうまくいかなかったが、とにかく、ウマがあったというのか、二人の間はお互いにいいことは助け合おうということでつき合ってきた。個人的にけんかをしたことは一度もないほどである。

市会議員時代、議長選挙があって、政友会では私を候補に立て、憲政会では小島七郎というのが候補に立って、私と三木の党は対立したわけだが、そんなことはそのときだけで私も忘れるし、三木の方もすぐ忘れてしまう。大体、その議長選挙では、私は議長になる気などなく、桐島正一を議長に推して欠席した。それで桐島と二票の差で私は負けたのである。結局、桐島が議長で私は副議長になったのだが、私はまだ三十歳前の理想家だったし、議長などという形式的なもので名をとることをしたくなかったのである。

とにかく、三木は昔からおもしろいやつだったが、それだけでなく、私をして心服させるだけの何物かを持った男であった。戦後、私と党を同じくするようになってからは「兵に将たるものは、いくらもいるが、真に将に将たる器は鳩山である。だからオレは鳩山をかつぐのだ」といっていたらしいが、何かにつけて、ほんとうによく私を助けてくれた。私はいまでも彼に対する感謝の気持を忘れてはならないと思っている。

七、国会議員一年生[編集]

私が最初の衆議院銀選挙に出馬したのは三十二歳のときであった。二十八歳で市会に出てから五年目である。その間に一度選挙があったが、そのときはまだ三十歳になっていなかったのだった。

私が衆議院に出るのは、かねて原敬さんも賛成してくれていた。父が亡くなったとき、母が原敬さんや渋沢栄一さんに、こどもたちをどうしたらいいだろうかと相談したところ、おやじのようにしたらいいじゃないかといわれた経緯もあって、そういう人たちが支持者だったのである。そのころ東京市の定員は十一人だったが、当時、政友会のために働いた磯部という人の子息が候補になったが、原さんはその方をさしおいて、政友会としては私だけを公認してくれた。そして私を呼んで三千円くれたのだ。選挙にそんなに金のかかるはずもなく半分くらい残ったのではなかろうか。

とにかく原さんはそういうように人情に厚い人で、父と懇意だったというだけで、磯部さんの方を何もみないで、私の方だけ公認してくれたというのは、やはり政党の総裁として非常な強さがあったのだと思う。

このときの選挙では大阪で知っている連中とか弟の友だちのところを歩いたのだが、全部歩ききれないうちに投票になったのだから金がかかるわけがない。二千何票かで当選したのだから昔の選挙は楽なものだった。

さて、代議士として最初の演説をやることになり、どんな演説をしたらいいかわからない。そこで、父がとっておいてくれたナインティーン・センチュリー・アンド・アフターワーズ(十九世紀その後)という雑誌にいい論説があったのを思い出した。たが、たくさんあるので訳すのがめんどうくさい、弟に頼んでいいところだけを訳してもらった。こういうことになると弟は実に仕事がはやかった。私はさっそくそれをもとにして演説をやったのだった。

その後、党を代表して普選反対の演説もやった。これがたいへんな評判で、鵜沢総明さんとか岡崎邦輔さんなどは涙を流してきいてくれたそうだ。

その時分は私は市会にも関係していたが、市会が砂利を食ったとかなんとか攻撃の矢おもてに立っていたときなので、私が壇上に上ると「ドロボウ」とか、「サギ」とかの野次が飛んで大さわぎだった。私は平気で「フランス革命はあまりあせったので失敗に終ったではないか。いま中野正剛君は非常にヤジっているが、君もほんとうは僕と同じ意見なのだ。なぜかといえば君の書いたものがここにあるが、それによれば……」というように、中野の論文を引用して反論した。「とにかく普選はいいことには違いないが、あまり急いでは事を仕損じるおそれがある」という意味のことを演説した。大したものではなかったが、みな途中から黙ってしまったのだから、相当の感銘を与えたものなのだろう。

私は演説というものは政治家にとって大切なものだとは思っているが、雄弁術については、さほど重要なものだとも考えていない。だから学生時代にも弁論部に入らなかった。同級生の岡君によく「君は一高では弁論部で始終しゃべっていたが政治家にはならなかった。いっぺんもそんなことをしたことのない僕が政治家になった。おかしな話じゃないか」と話すのである。私は前から弁論というものはその内容いかんによるものであって、しゃべり方のうまいまずいは問題ではないという考えを持っていたのである。

八、文部大臣就任[編集]

私が文部大臣になったのは昭和六年の十二月で犬養内閣のときだった。これは五ヶ月で翌七年の五月には斎藤(実)内閣と代り、私はそれにも留任して二年間ほど内閣に列していた。

昭和六年といえば、いまから二十七年も昔のことだが、しかしふりかえってみて大変な時代に運命の神は私を大臣のイスに座らせたものと思う。当時置かれた日本の位置を思い返してみよう。まず昭和四年七月に成立した内閣の首班浜口雄幸氏は、翌五年の十一月、東京駅頭で一青年の凶弾の下に重傷を負い、外相幣原喜重郎氏が臨時首相代理となった。その年、米は六千六百石もとれるという空前の豊作のゆえに、かえって米価は暴落して、空前の農村恐慌がきた。六年一月には血盟団が生まれ、九月には満州事変が勃発(ぼっぱつ)した。

七年二月には井上蔵相が、同じく三月には三井理事長団琢磨氏が相ついで血盟団のためにたおれ、五月十五日には老首相犬養さんまで難に去った。十月の赤色ギャング事件、つづく八年三月にはドイツではヒトラーが独裁権掌握、さらに日本の国際連盟の脱退など、こうした事件が走馬灯のように展開して、世界の耳目を驚かせたのである。五月十五日は日曜日であった。その日曜日、海軍四、陸軍五の制服軍人が「待て、話せばわかる!」という老首相にピストルを乱射したのであった。

日本という国の心棒が狂ったとしか思えぬのである。憲法(旧)が布かれてざっと五十年、わが国の真の政党政治はこの日(五・一五事件当日)をもって、あえなくも終止符が打たれたのであった。こういう時代にあって犬養内閣の後継は斎藤内閣となり、前述のように私も当分閣僚として居残った。

ここらで当時、有名になった「明鏡止水」について述べておこう。斎藤内閣のとき帝人事件というのがあって内閣はこのために総辞職した。昭和九年七月のことである。そのとき大塚という貴族院議員が、何か私が帝人事件に関係のあるようなことをいって、私がこれに答弁に立った。そして最後に私は「明鏡止水の心境において善処します」といったものである。私は別に文部大臣をやめるつもりでそういったのではなかった。もともと、このときは斎藤首相が法相の小山松吉君などと相談して「鳩山は何を言い出すかわからんから貴族院では答弁させない方がいい」ということを決めて、閣議でそういうように告げられていた。それを私は、自分に答弁を要求されて、自分が立たないというのはかえっておかしい。自分のことは自分がいちばんよく知っているから、釈明させてくれといって出たものである。斎藤首相には「それでは答弁に立ってもいいが、辞任するということは絶対にいわないでくれ」と念を押された。

一方では私はハラを立てていた。私としては自分を犠牲にして大臣になっているのに、やめてくれというやつがいるとは僭越(せんえつ)なやつだと思ったのである。そこで「明鏡止水の心境で善処するのだから心配は無用だ」という意味でいったのだが、それが新聞社では「鳩山は辞職する気なのだ」ととってしまったのであろう。それで翌日の新聞には、私が辞意をもらしたように出てしまったので、私は「えいッ」と気合をかけるようなつもりで辞表を出した。そうしたら斎藤さんはわざわざ音羽の家の玄関まできて「君が辞表を出したのは残念だ。思いとどまってくれということもできないが、私は自分の感謝の気持を表したくでやってきたのだ」といわれた。総理の権勢というものが、現在とくらべものにならぬほど強いとき、そうまでされて、私は斎藤さんを見直すような気持だった。

九、欧米旅行前後[編集]

「明鏡止水」は名文句のようにいわれているが、別に私は前もって考えていった言葉ではない。壇に登ってから偶然、口をついて出た言葉である。出典がどこかにあって、それを思い出したものか、また自分自身の造語なのか、とにかく、ふっと口をついて出た言葉である。人から聞いたり、読んだりした記憶もなし、やはり神様がいわせたのだと思っている。どこかにありそうな言葉でもあるが、いまだに出典はこれこれと、私に教えてくれた人はだれもいない。

あのときは、ずいぶんと世間の人の同情を買ったとみえて「なぜやめたのか」「明鏡止水とはどんなことをいうのか」というような手紙が、未知の人から七百通余りもきた。

今回の選挙でもこの「明鏡止水」は、たいそう役に立った。というのは同志の連中を応援するために、色紙を書いて贈ったのだが、その文句が「明鏡止水」、あとは「友愛」で、だいたい半分々々くらいに書いた。

さて、時代は進み昭和十二年、三年、近衛内閣のころ私と中島知久平の意見が対立して政友会が真二つに割れたことがあった。形の上では政友会の分裂だが、これが開戦と非戦の別れ道だったと私は考えているのだ。

中島は私に、日本はこのままではジリ貧になってしまう、どうしてもシンガポールをとってイタリアに上陸し、欧州に攻め入らればならぬ、そういう計画を立てなければ日本はつぶれてしまうというのだ。私はそのとき中島は気違いじゃないかと思った。ところが、そう思ったのは、私と一部の友人だけで、中島をえらい人だと思うやつがたくさんいたのだから驚くほかはない。それがもとで政友会は分裂した。

私たちの方は最初は中島派の倍以上もあったのだが、だんだん買収されて少なくなってしまったのである。

分裂の少し前、私は欧米に旅したが、帰る段になって、安藤正純氏などから、軍部は私を上陸させないような手はずをしているから当分帰って来ない方がいいだろうという手紙が来た。つまり私がイギリスで話した平和主義的な演説が故国にひびいてそれで右翼や軍部が神経をとがらしているというのだった。

英国でネビル・チェンバレンと会ったとき、彼から「東京では日比谷公会堂で英米打倒の大演説会を開いているというが、あなたはどう思うか」と聞かれた。そこで「演説会はやっているかもしれないが、そんなバカな世界戦争を引起すような愚人は多数はいますまい」と答えた。チェンバレンは途中で議会へ呼ばれて席をはずしたが、こんどはイーデンが出てきて「あなたはそういうけれども、いまきた電報では山本悌二郎が演説しているではないか」という。山本は政友会の幹部であったから、いくら私がそんなことをいっても信用できないということらしかった。「山本はわが党の首脳者ではない。首脳者は代行委員以外にはない。私はその筆頭である。とにかく代行委員以外の人のいうことはとんちゃくすることはいらないではないか」と私は言い切った。それが日本に伝わって、不都合なことをいうやつはたたきのめしてしまえ、殺してしまえということになったらしい。

しかし、私は殺すなら殺したらいいじゃないか、そんな狂った世の中なら犠牲になって眼を覚ましてやろうというような気持で帰ってきたのだった。横浜に上陸すると、たいへんな人出で私を守ってくれるためにみんなが私の回りを取囲んでくれた。横浜では何事もなかったが、東京駅では右翼の暴力団が私に手紙を突きつけるという場面があった。

十、好漢、森恪[編集]

話は少し前後するが、昭和二年、私が書記官長をつとめた田中内閣は、幣原外交の若槻内閣が銀行恐慌で倒れた跡始末のために立上がったものである。この年の六月、憲政会と政友本党とが合同して民政党となったばなりの総選挙には、なんと政友会と民政党の議席の差わずかに二という空前の接近記録であった。そんなところから仕事は非常にやりにくかった。内閣の外相は田中首相の兼任だったが、その下の政務次官として、こういう情勢の下で思うさま持ち前の快腕をふるい始めたのが亡友の森恪氏である。

森氏は実に無類の政治家であった。彼がもし現在、生きていたら、はたしてどんな仕事をするであろうか。好漢惜しむべし。彼はあまりにも働き過ぎ、あまりにもあばれ過ぎ、性根をすりへらして昭和七年、五十歳の多彩な生涯を閉じたのであった。

彼についての思い出はいくつもある。大正九年二月の解散、普選法案のために原首相の打った手、その総選挙で森氏は忽然(こつぜん)として旧日比谷議政場に浮かび出た人物だが、小柄ながら人を人とも思わぬ度胸と押しの強さで、四、五年を出ないでたちまち他の陣笠連を圧倒して行った。満身これ闘志、炎のような男であった。前に立ちふさがる壁に向かってまっすぐに突進し、相手を屈服させるか、みずからが倒れるかである。その間に妥協は断じてない。こういう男は早死するよりほかなかったのかもしれない。

私と森との結付きは、彼の経営していた塔連炭砿を彼が不当に高く満鉄に売ったとかいうのが憲政会側から攻撃された事件に始まる。政友会はこの問題に困りぬいて、森を除名して危機を脱しようと図った。そのときに森の除名に卒先反対したのが誰あろう、私であった。そのことがあって以来、森と私の結付きは深くなったのだが、しかし性格的にも、彼は温室育ちの私にない激しいものがあり、互いにウマがあったものである。私が文相となった年(昭和六年十二月)に、彼も犬養内閣の書記官長となった。

義兄、鈴木喜三郎についても、ぜひ一言触れておきたい。私には義姉に当るかず子があって、ある時期、私の家で育てられた。そして私の家から神奈川県人川島富右エ門氏の三男坊のところへお嫁にいった。義兄喜三郎もその川島家から鈴木慈孝という人のところへ養子にいった人である。私より十六歳上の兄である。

喜三郎は兄というより、おやじと呼んで親しみ、かつ教えを乞い、指針を受けるにふさわしい謹厳、寡黙な長者であった。私の父が東大の法科部長だったころ、喜三郎は東大の門をくぐって、二十四年かに卒業した。すぐ司法官補から判事となり、東京控訴院、東京地方裁判所の部長など、一筋に法官の道を直進して、私が東大を出た明治四十年には、たしか司法制度研究のために欧米に差しつかわされて、しばらく本国を留守にした。

欧米視察から帰るとすぐ大審院判事、それから東京地裁所長、司法次官というコースを踏んで、大正十三年一月に成立した清浦内閣の法相となった。つづいて田中内閣の内相、犬養内閣の法相を歴任、昭和七年には政友会総裁に推されている。私のためには陰になり日なたになって加勢し、激励してくれたまことにありがたい兄であった。

彼には天性の侠骨(きょうこつ)があり、人の面倒をみるのが好きであった。だから自然と子分のようなものが出来た。このことをもって、世間では一部に鈴木閥と評するものがあったが、それは当らないと私は思う。

十一、自由主義擁護[編集]

昭和十一年一月号の「中央公論」誌上に、私は「自由主義者の手帳」という一文を寄せた。前年の一月には貴族院で美濃部達吉博士(博士夫人多美さんは、私の弟の妻の姉)の天皇機関説事件がやかましい問題となり、四月には文部省が全国学校に国体明徴を訓示、八月には永田鉄山事件、十二月には内大臣牧野伸顕伯が辞任という事件が重なったころである。

十一年もまた大変な年だったのだ。二月の二・二六事件を皮切りに、三月四日近衛公に大命降下、公はこれをうけず九日広田弘樹内閣成立に先だって、六日、寺内寿一後任陸相が、いちはやく自由主義排撃声明発表、十一月は日独防共協定調印とつづくのだから、私がにらまれるのもまったく無理はない。それに三、四年前までは、かりにも文教の府の長(おさ)をつとめた身分であったのだ。

「私はちかごろ、実際政治とかけ離れた気持でいる。政治家として今が反省時代ではないかと思う。私は今日を昼寝の時とも考えて、背伸びをしようと思う。……私の信念である議会主義のために、もう一つ伸びんとするものが、まず縮んでいるのだ」という書き出しである。

つづいて「今日の社会情勢、政治的傾向では、自由主義とか議会主義とかいう風潮が、統制主義や独裁政治の力に圧迫されて、はなはだ影が薄いようである。……自己の定めた規律で自己完成をはかり、それには他の干渉を許すまいという主張は、いかなる時代においても人間性の根底をなし、血管を流れて生きる抜き難い信念である。」

さらに「かかる独裁的傾向が強い時、この勢力に便乗して政治的地位奪還を志すようなものがあるとすれば、それは卑怯極まる陰謀といわねばならぬ。憲法を停止すれば格別、議会政治の様式を捨てない以上、政党の存在を否定し去ることはできない」と追求して、一編の骨子である次のくだりに及んでいる。

「政党の存在が否定できぬならば選挙を経て民意を代表する者、代議士が政治の中心となるべきは当然である。官僚でも軍人でも、いやしくも政治をやろうとするほどのものは、よろしく選挙の洗礼をうけて苦難を味わい、民衆と結びついた、精神的資格をまず獲得すべきである。……政治は政治家の手に、事務は官僚に国防は軍人の手に整然たる本来の分業制度が確立されなくてはならない……」

あのような時代に、こういう文章を一流の総合雑誌に発表した私は、たしかに向う見ずで要領の悪い人間であった。黙ってひとり昼寝していればよいものを、好んでこういうことをいわずにいられないところに、七十歳を超えた今日も、私には「お坊ちゃん」などという名がつきまとうのだろう。

はたして、私への風当たりは強くなった。もちろん私ばかりでなく、議会政治を守りぬくために、私以上の手きずを負うたものも出た。浜田国松氏、斎藤隆夫氏などの例もそうである。

陸軍切っての有能な政治家と目された宇垣一成氏が、せっかく待望久しかった大命の降下に会いながら、軍が陸軍大臣を送らぬために流産したのが昭和十二年一月である。私が中央公論誌上に小文を発表してから一年であった。私はもう現状は自分の力では如何ともしがたいところまで来ていることを観念して、かねての念願だった欧米行脚を思いたったのであった。しかし帰るとすぐ、母を、ついで義兄鈴木喜三郎をうしなうという悲劇に出会ったのであった。

十二、暗黒時代[編集]

外遊から帰ってその後はまったくの暗黒時代だった。一年七ヶ月つづいた第一次近衛内閣の次は十四年一月に生まれた平沼騏一郎内閣、さらに同年八月阿部信行内閣、つづいて十五年一月の米内光政内閣、同年七月の近衛第二次内閣となる。この年に最後の元老だった西園寺公望公が死んだ。

それからあとの政局は乱脈で、十六年七月の第三次近衛内閣はわずか三ヶ月で東条英機内閣の出現となった。かくて昭和十七年二月二十三日、翼賛政治体制協議会が設置され、四月三十日、前代未聞のいわゆる翼賛選挙が行われた。これによって公認推薦候補者の約八割が当選した。いわゆる利口者はこういう選挙に出馬するのを見合わせるだろう。だが、私をめぐる三十余名の同志は落選を覚悟しながらも、やはりシカをおうのをやめようとしなかったのである。

むろん私たちは非推薦である。当時の総選挙を記憶していられる方はご存知のように、ああいう世情で非推薦のものは到底勝味はなかった。しかし、世の人は盲千人と言い目あき千人という。ありがたいことに私たち三十余人のうち、私をはじめ九人が当選して、まさに蘇生(そせい)の思いをしたのであった。このときの選挙では林譲治氏、益谷秀次氏、大野伴睦氏らも落選組であった。もっとも落ちても少しも恥になるような事態ではなかった。

そして、あのいまわしき戦争、私は間もなく家族とともに軽井沢の山荘にこもるようになった。晴耕雨読というが、そんななまやさしいものではなく、まったく死にものぐるいで食糧増産につとめたのである。

友人から、君は百姓をやるというが、百姓というのは自分で牛の草を刈り、朝食前には、まず牛にそれをやり、自分のメシはそれをすましてからする。それができなければ、百姓をやるなんて威張れないよといわれた。そういわれて、私も大いに感ずるところあり、翌日から奮起した。毎朝、背負カゴを背負って草を刈りにいく。ほかに鶏も飼っているし豚も飼っているから、これらの面倒もみなければならないというわけで、“ほんとうの百姓”の生活はなかなか大変なものだった。

しかし、タバコもそのとき思い切ってやめてしまったし、いい空気を吸って昼は畑で寝ころんでムスビを食っていたのだから、これは愉快だった。軽井沢は気候が北海道と似ているので、じゃが芋とか豆がよく出来た。

畑は家から離れていたので、毎日、地下足袋をはいて自転車で通ったものだ。妻は自転車に乗れないので、めったには来なかったが、キャベツの虫取りなどのときは動員した。別に百姓の指導者がいたわけではなくほとんど我流でやったものである。ただ、近所のそれこそ、本物の百姓が同情して、よく相談にのってくれたが、実際にクワを持って耕したのは私と書生二人だけであった。当時、中学一年生だった孫の洽一が感心なやつで、毎朝五時からどんな雨が降っても、ぼくについてきたものだ。ある朝大人用の背負カゴにあまりたくさん草を刈り込んで重さに堪え切れず庭先きのベランダで倒れて一時間くらいも泣いていたが、とうとうガン張って畑の牛小屋まで運んでいったこともあった。息子や娘むこは皆出征していなかった。女の子達は豚に食べさせるために近所の家々を戸別訪問して残飯をもらって歩き、小さい孫達は往来に落ちている馬ふんを拾う競走をした。畑で使う肥料のためである。

十三、終戦・新党結成[編集]

二十年八月十五日正午、重大放送があるというので、軽井沢の石橋正二郎別邸に私たち近隣のものが集まった。玉音の放送である。終戦の御詔勅を謹聴して声をのんで泣くものが多かった。もっとも、終戦のことは七月の初旬、芦田均氏がたずねて来て、近く戦争も終るらしいからその際は直ちに上京して、新党の結成に着手すべきであるとの話があった。そして私も大体それに同意していたものであった。

これより先、私は中島知久平氏と政友会の総裁を争って以来、日本には利益や権力を主眼とする政党は存在するけれども、主義主張に立脚する政党は育たないのではないかと考えていた。翼賛会の登場が私のこの考えをいよいよ深めて行ったのである。まして苛烈(かれつ)な戦災にあって、大都市の多くがほとんど灰燼(かいじん)に帰しているし、この復興が第一容易な業ではない。ようやく高原山荘の生活にも慣れていたし、私のおシリが重かったのも無理はないと察してくれる人も多かったと思う。しかし安藤正純氏などから、しきりと上京をうながす電話もかかるので、ついに終戦の御詔勅から一週間目、八月二十二日に山を下りて、ひとまず麻布永坂町の石橋正二郎邸に落着いた。音羽の自宅は戦災をうけて居住できなかったのである。

翌二十三日、交詢社に集まった者は、安藤正純(故人)、植原悦二郎、大野伴睦、平野力三、西尾末広、水谷長三郎の諸氏である。暴風雨のために、逗子居住の芦田均氏は不参だったが、ともかく新党創立の議が進められた。斎藤隆夫氏、川崎克氏などの不参加、はじめは同調した社会党諸氏の脱落など、いくたびか齟齬(そご)を来たしたことはあったが、とにかく、旧来の政党の弊を除き、清新発らつの新党をつくるのに力をつくした。

「十月七日、秋晴。十一時半事務所に行く。一時半準備懇談会開催、安藤氏主催者側あいさつ、自分が新党につき意見を発表。党名、宣言、政綱、政策等につき懇談をとぐ。芦田氏の衆議院解散の動議を決し、創立委員を座長の松野氏と自分とに指名一任、四時頃散会。集まるもの、秋田、山形、福島、滋賀、その他遠隔の地より参会、あるいは医博、法博、経博、文化人(菊池寛氏など)その他二百数十名に達し、人々その盛会をよろこぶ」というのが、当日の私の日記であり、超えて十一月九日、日比谷公会堂の日本自由党結成大会もまた非常に盛大なものであった。

火ぶたはこうして切られ、あとは大目標に向かって直進した。十日ほど経て私は新党の使命を説くために全国遊説の旅に出た。当時の汽車旅行が、いかに、さんたんたるものであったかは、ご存じの方もあろう。仙台行きのときは、やむを得ず進駐軍列車内に入って二世軍人の好意に浴したこともあり、仙台から青森へ行った晩には、風雪の中を、外とうを頭からかぶって目をつむって我慢しているうちに、ようやく車掌室を提供してもらって移り、やっと約束の時間にたどりついたというようなこともあった。

帰途はまた郵便車のやっかいになり急行のないノロノロ列車にゆられたためか、帰京後急に発熱し、血タンまで吐いた。三週間は絶対安静というのを、わずか三日間寝ただけですぐ四国から九州方面へ長駆した。こうした努力のかいがあってか、二十一年四月の総選挙には多年の経験を生かした松野鶴平氏の名采配(さいはい)よろしきを得て、わが党はとうとう百四十一名の大量議席を獲得して、進歩、社会両党を五十名ほど引離したのであった。努力は正当にむくいられたのであった。

十四、追放でショック[編集]

昭和十二、三年の欧米行脚のことを書いた“世界の顔”という本が、戦後、パージの理由になろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。どうして、これがパージの理由になったかというと、私はその本のなかでヒトラーの労働政策をほめたのだが、それがケシカランというのであった。私の外遊当時、事実、ヒトラーの行政は非常に成功をおさめており、アウトバーンのような立派な道路ができていた。それで労働者も喜びをもって仕事に従事しているという意味のことを書いた。

GHQでは、この事実をもって、やはり鳩山は帝国主義者だというのだが、それはこの本の内容からいっても、とんでもない言いがかりであった。私はこの本の別の個所で、なんといっても政治は議会政治でなければだめだ、議会は政治の最後の形態であると説いており、また私が骨の髄からの議会主義者であることもわかりきっているのにパージになった。

そのパージの当日、私は閣僚の名簿を巻紙に書いて、陛下に呼ばれるのを待っていた。外務省の追放の使者がパージだといって持ってきたものを見ると英文である。読んでみると「議院に登院することをチェックする」という意味のことだけしか書いてない。また別に、マッカーサーのサインもない。しかし“そうか議院に出られないのか”そう思って、私は大きなショックをうけたものの、それ以外は公的にも制肘(せいちゅう)をうけるようなことがあろうとは考えなかった。

ところが熱海の家の前の巡査が四六時中、私の行動を監視しているのに気付いて驚いたのである。家に出入りするものは、代議士でも新聞記者でも、皆、名前をひかえて、その筋へ報告していたのだ。そして私は検事局に呼ばれ「パージの身で政治に口を出すのはケシカラン」というので長いこと調べられた。こんななさけない思いをしたことはない。検事というのは、普通に顔を合わせているときは友だちのようななんでもない顔をしていても、いったん被告の立場に立つと、お話にならぬひどい扱いをするものである。

また、これは軽井沢に住んでいたときのことだが、その時分、軽井沢でちょうど自分が耕して作った小豆がとれて、これをサヤごと屋内に持ちこんで、家族のものとそのサヤをむいては「今日は何升とれたね」といって楽しんでいた。そこへ検事が三人、警視庁から巡査が三人、合計六人で踏みこんできた。私が何か乱暴したら逮捕しようというハラだったらしい。しかし、家族そろって豆の皮むきをしている百姓一家の平和な風景に接してびっくりしたらしい。このときは結局、手紙を押収しただけで帰っていった。あとから聞いた話だが、ちょうど、小池という書生が東京へ行く用事があって、その連中と同じ列車に乗合わせたところ、くだんの検事たちが「鳩山というやつは、なかなかえらいやつだな」といってほめていたそうである。

そのとき検事が押収していった手紙というのは、古島一雄や安藤正純から来たもので、すべて、敗戦後の国家を憂うるものばかりであり、直接、政治に関係のあるものではなく、それについて当局からニラまれるということもなかった。

パージは精神的、肉体的に非常な苦痛だったが、あとからふりかえってみると、逆に生涯を通じていちばん楽しかった時代であるような気さえする。

パージの間中、軽井沢に住むことが多かったのだが、軽井沢のよさを味わったのは戦争中よりも、このパージのときであった。あのときくらい自分の生活というものをみつめ、真に人間らしい気持で過したことはないような気がする。鳥の声に耳をかしながら、いつか春が夏になり、そして秋から冬へと移っていく四季のおもしろさ、これこそ天界の生活だとすら考えたこともあったのだった。

十五、犬猿のはじまり[編集]

パージのころは、いろいろな思い出がある。熱海から軽井沢へ行き、また熱海へもどってきたりしたのだが、ある日、家内といっしょに軽井沢で苦心してつくった豆をフロシキに包んで熱海の駅まで持ってきた。降りるときになって、列車のとびらのハンドルにそのフロシキを引っかけて豆を線路上にバラまいてしまった。いま考えるとおかしいようだが、そのときは大あわてにあわてた。自分で作ったものだし、百姓の作物をこぼすのはもったいないという観念もある。しかし、それよりも“あした食べるものを”という胃袋に結びついた直接の欲の方がじかにこたえたようだ。

汽車が出るのを待って、駅からホウキを借り、妻や書生たちと大わらわで一粒残らず拾い集めたものだ。考えてみれば、線路上に落ちた食物を拾うなど、われながら汚ないことをしたものだと苦笑を禁じ得ない。

それにしても軽井沢から熱海までの汽車もまた辛いものだった。それに私は三十二歳のときから今日まで、代議士でなかったのは、そのときだけだったので、いつもバスで乗っていたのが、そのころは三等で、しかも汽車賃を払って乗っていたわけである。それもなかなか切符が買えなくて困ったのであった。

さて、パージになったとき、私は周知のように吉田茂君にバトンを渡した。これがあとになって俗っぽい表現でいうと、ひさしを貸して母屋をとられたということになってしまった。

そのときの状態をいうと、初め吉田君は牧野伸顕がそういう意見だったようで、自分は適任者ではないからといって引受けなかった。そこでほかのある人に任せようと思ったが、これは河野一郎、三木武吉、またその他の連中が皆反対するのでだめになり、こうなればどうしても吉田君以外にはないと思って、とうとう口説き落したわけだ。そのとき吉田君は自分はどうしても政党の総裁の座を長くあたためることはできないから、君のパージが解けさえすればすぐやめるということをいっていた。私としても、別に戦争に加担したわけでないから、パージなぞすぐ解けると思っていたのである。それが延引に延引を重ねた。

これはおかしいと思っていると、私のパージ解除については、吉田君が邪魔をしているということを岩淵辰雄君その他から詳細にきいた。信じられないことだが、ほんとうなら、まったくひどいことをするやつだと思った。しかし残念ながら、現実はその通りであったのである。このことはマッカーサーの幕僚も私のところを訪問して、妻と私を前にすえて証言したのだから間違いない。マッカーサーとしては、私を早々に解除するつもりなのだが、どうも吉田が賛成しないので仕方がないといっていた。それを聞かされたときは、さすがに私も激怒した。

それでは、吉田君とけんかするより仕方がないと思っていた矢先、私は脳いっ血で倒れてしまったのである。怒るということは健康にはいちばん悪いことだと身にしみて感じたのだった。

いまでも私は吉田君は善良な人だとは思っていない。パージ問題以後は、私は彼とは友達ではないことにしているので、こっちからたずねる気はさらにないのである。この前の総選挙の直前、吉田君が音羽へ来たときは、ベランダでしばらく話をしたが、どうしても心のわだかまりは氷解しなかったのであった。

十六、日ソ復交説く[編集]

追放が解除になったのは二十六年八月だった。再び政界に返ったが、そのときは脳いっ血のため健康が思うに任せず、自由党内の主導権争いでごたごたがあったのは世間周知の通りだ。その後、二十九年末、民主党を結成して、選挙に大勝し、いわゆる民主党ブームを作ったのはついきのうのことのような気がする。あのときの人気は大したもので、あんなブームならもう一度味わってもいいような気がする。

政界にカムバックしてからいちばん苦心したのは日ソ交渉であった。党内に反対者が多く、私を共産主義者のようにいうものも出てきて、厄介なことの連続だった。顧問会議、長老会議などを四日間もぶっつづけにやったり、反対の人を一人ずつ呼んで、あるときは議論し、あるときは懇切丁寧に説明してやったりなど、やっと、あそこまでこぎつけたのであった。自分でも、病後の身でよくあれだけエネルギーがあったものだと、いま思い返してつくづく感心している。

芦田君なども非常に反対しているという話を聞いたので「君、反対するのなら、何かしかるべき理由があるのだろう。日ソ関係はどうすればいいのか、君の理想の方法があったら、それを聞かせてもらいたいね」といったことがある。芦田君は別にうまいテがあるわけでもないというのでそれでは私は自分の信ずる所を行いますと断言した。

堤康次郎君など「共産主義と関係があると思われるからやめたがいい」というので「そんなばかなことはない。共産国と国交を結べば共産主義だなんて議論はなりたたないよ。共産主義国とまた戦争でもはじめるつもりならいざ知らず、結局は仲よくしなければならないのならはやく交渉をまとめた方がいい」と反論したことがあった。

反対者を全部おさえて、私はソ連へ出かけたのだが、行ってからまた反対が多くなって困った。私が向うで約束しても、なかなか承認するといって来ない。それで一時は私がわざわざ出掛けたのもむだに終るのかと心配したのだが、このとき党内をまとめて私を支持してくれたのは当時幹事長であった岸信介君である。保守合同後の党内をまとめた功績は大きい。私は今でもその恩義を感じ、感謝の念を忘れ得ないのである。

それはともかく、私はソ連との国交の正常化はほんとうに必要なことだと思っていた。

二十七年九月に追放解除後の第一声として日比谷の公会堂で私は「米ソが角突き合う関係にあるとき、もし日本が国交をソ連と結ばないまま、米ソ開戦ともなれば、日本は戦場になってしまう。そうなれば、こんどは日本全体が広島の廃墟(はいきょ)と化すことになり、日本は再びつぶれてしまう。これを阻止するためにはどうしても日ソ国交の正常化を図らねばならない。」という演説をしたのだが、そのときある新聞記者が「先生は実にえらい演説をしましたね」というので、私は「何がえらいものか。これから戦争でもしようというやつの方がよっぽどえらいじゃないか。戦争をしないというのは、ごく当り前の話だよ」と笑ったことがある。まったく、四、五年前までは、日ソ交渉なんて、いつのことか予想もつかなかったのであった。

十七、恵まれた生涯[編集]

現在、私は健康がはかばかしくないので、第一線に立って政治をやる気は毛頭ない。こんどの選挙も立候補を思いとどまろうとしたのだが、周囲の人にすすめられて立ったような次第だ。それというのも、大野伴睦君や河野一郎君が「うしろからにらんでいてくれる人がなくなると困る」というからだ。そういう面では、なるほど、私もいくらか役に立つのだろうと思って、すすめられるままに出たわけである。

だから、選挙が終ったのち、議長の問題でも総理の問題でも、党の人がとにかく一応、私のところへ相談に来るという形をとっている。といって私が、これから内閣をつくるような気分にはどうしてもなれないのである。どうして私がそういう気持になったか、それにはいろいろわけがある。

私は三十一年の秋、日ソ交渉でソ連へ出掛ける前に、神に誓ったのである。この仕事こそ私が天から与えられた使命なのだ。だから無事に任務を終えて戻ってくるまでは、なんとしても倒れないようしなくてはならない。そして帰ってきたら、それでもう私の長い政治生活にも終止符を打つのだと約束した。この誓いは必ず守ろうと、周囲の人に話し、その通り実行したのであって、いまそれを変える意思はまったくない。

ソ連からの帰り、私はフランスへ寄った。そのとき、パリで西村大使にミレーが「晩鐘」やその他傑作のかずかずをものしたというフォンテンブローの森の中のアトリエへ案内してもらった。そのとき見た複製の「晩鐘」に私は思いがけなく深い感動をおぼえた。一日の平和な勤務ののち神に敬虔(けいけん)なる感謝の祈りを捧げる農夫の姿に、私はかつての軽井沢における百姓の自分を思い出したのかもしれない。あるいは、自分の生命をかけた任務を無事に終えて、いまや日が暮れようとしているとき、この絵の中に現在の自分の心境を象徴する何ものかを感じたのかもしれない。私がこの絵を欲しいというと、西村大使はさっそく、それを贈ってくれた。現在もあきないでこの絵にしばしばながめ入ることがある。長い政治生活ののちこのように静かな清らかな絵に再び感動を呼びさまされた私は、たいへん精神的に恵まれているといっていい。私も神に感謝を捧げたい気持である。

ひところ世間では私のことを“悲劇の政治家”というような言葉で同情してくれたことがある。昭和二十一年四月、日本自由党の総裁として選挙に大勝した途端に追放となったり、またその解除の直前に病気で倒れたりしたことに対してであろうと思う。だが、私自身はいままでの人生を通じ現在も含めて、そんなに悲劇的な生涯だとは思わない。それどころか、いままで語った経歴によってもわかる通り、割合に恵まれた環境に育ち、世間の人からも過分の友愛を寄せられてきたことに幸福を感じている。私は人間というものは結局、信頼をおけるものであると明るく肯定する。政界に身を置くかぎり、人に裏切られたり、煮え湯を飲まされたりの経験はかならずあるが、それにもかかわらず、最後は人間というものは相手を信頼してかからねば生きていけないものである。また、人を信ずることが最高の政策でありうるような、そういう世界が来ることを、切に祈ってやまないのである。

出典[編集]

日本経済新聞昭和33年(1958年)6月10日 - 6月26日

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