私の履歴書/金森徳次郎

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一、誕生[編集]

しがない私の履歴のことをかれこれいってみても世に益することのないことはよく知っている。しかし人間は過去を顧みて自分の足あとを見なおしたい気分も少しはもっている。そして、また、少しは自分を美化して示したい気分もある。それは虚飾とか偽善とかいうほどのものすごいことではなくて、婦人が白粉をつけたり、口紅をぬったりするほどの無邪気な気もちで、世間にあまり不愉快を与えないための心がまえである。もし本当に正直にいえと厳格に迫られれば、それはブラジャーもバタフライも取除き去る覚悟でなくてはならぬが、遠慮気味である。

そこで自分の履歴をいわんとすれば勢い先祖に遡らねばならぬ。われこそは清和天皇九世の孫何の何某の子孫なりと名乗るべきだが、そんな言い草は一つも持たないで、先祖しらべに興味はない。ただフランスの文豪ゾラの小説のように人間には心理的、生理的の遺伝があって、それが全生涯を左右する所があるらしい。烏の子は黒い、うさぎの子は白いというふうにメンデルの法則があるので、われわれの業績をまるで自分の働きのように思ってもそれは無数の御先祖さまのたまものであり、またわざわいであるらしいのでこの点を特に考える。私の数代前までの先祖は世々百姓であり、直接の過去二代の先祖は職人と小商人であって自分の一挙一動を考えるときにこの人たちの恩恵をつねに考えている。私の先祖に士があったら私は今の私ではなかったろう。もしそれ私の祖先に大名的殿様でもあったら私はいまごろほんとにどうなっていたろうかとはだにアワを生ずる。飛騨の高山へ行くと昔の殿様で金森何某氏の立派なお墓があるそうで、ときどきほかの人がお世辞半分に御親類ですかといってくれるが、どうしてどうしてずぶの百姓町人でござると答えて天命の幸福をみずから慶賀している。

さて本論に入るが、私の祖父は岐阜県大垣の近在の「牧」という所のお百姓であった。多分明治維新の少し前だろうと思うが、農村を離れて名古屋の町へ出て来て皆戸町に住むことになった。そして相続によって父がそのあとを受けついだのである。このことは何のヘンテツもないことだが、いくぶん社会相を示しているから少しまわり道をしよう。大垣在の牧という所は一部落が全部金森姓の人で出来ている。なんでも昔は血統の続いているものが同一地域に居住し、したがって同姓の家がそこに集団生活を営み自然発生的に自治体のようなものを作っていたらしい。そういう部落を「まき」といったものらしい。

私の先祖の発祥地はその典型的なものであった。私の子供のときすなわち七歳のとき家の吉凶禍福の行事があると、紋付の羽織を着て二、三人典型的なお百姓が美濃の国から出てござる。これが牧村の親類の代表者であって、心の中で親類には素朴な好紳士がいると思った。ところで牧村のどの家から私の御祖父さんが分出して来たかを知りたいと思ったが、知る人が絶えてしまってよくわからぬ。お寺の過去帳をしらべてもらったがいずれも同姓だからしらべるのに骨が折れたが、今では明白にわかった。要するに正真正銘の美濃国のお百姓である。だから私の中には純朴な心が含まれている。そこで名古屋の皆戸町とはどんな所か。それは三百年前に織田信長が数里離れた所にあった清洲の城下町を名古屋の地に移した時に、都市計画制によって作った業務別の地名である。つまり寺町には寺を、鍛冶町には鍛冶屋を配列したと同じ意味で建具屋を居住せしめた区域である。明治二十五年ごろの私の記憶によってもこの職業者地区は厳然として存在していた。岐阜県や三河国からでも少し角ばった建具類を買いに来る時は皆戸町へ来ることが多かった。随分手広な製造の中心点であった。そこに私は生まれた。明治十九年である。三、四丁の間の店は全部建具屋であった。それは徒弟を置いて製造業をやると同時に製品を蓄積して利益を得る商人でもあった。私の生まれた直後大火事で家並が焼けてしまった。赤ん坊として私は焼け残りの土蔵の中に生きていた。母が蚊帳の釣手をはずしたら、そこから青大将が落ちて来た。これは名にしおう金の鯱(しゃち)のあった所から十五丁以内のことである。

二、小学校当時[編集]

生まれたままの赤ん坊が土蔵内で育っていく。祖母に両親に兄と姉二人と赤ん坊たる私との一家族であったらしい。いつまでも土蔵の中にも住めないので、焼けあとに家がつくられたらしい。そのことは、赤ん坊の時はもちろん気が付かないが、後になって小学生時代に郵便切手を集める道楽を起し母親に古い手紙をせびったところ仏壇の台の引出しの中に少しはあるかもしれぬとのことで、その辺をひっかきまわした。親たちの古い時代の手紙の中には恋文でもあるかもしれぬとの浅い期待もあったかもしれぬ。ところがそんなものがあるわけはなくて、かえって古い借金の証文類である。文体は弱気で借り倒された昔を語る無用の記念品に過ぎないが、一つだけこちらで金を借りた証文が出て来た。こちらで借りた金の証文が仏壇から出て来るのはちょっと変だが、それはつまり返済したあとで証文をとりもどしたのである。それを見ると火災後の再建資金に千五百円借りたことになっている。

当時の千五百円は相当大金で今なら百五十万円くらいに当たるのだろう。小学校で事務室へ遊びに入って先生がたの月給をしらべて見たら月十五円から三十円見当であった。またうどんやそばが一杯八厘であったから千五百円は大金である。誰が一体貸してくれたのかと名を見ると、それは平素父と往復しているある商家の主人であった。えらい人だなと思って尊敬するようになった。そして両親も貧乏で苦しんだことだと思うとその後少々親孝行はすべきものだと思った。もちろん、思っただけである。尋常小学時代は学校へ行くことが全くきらいであった。家から二町ほど歩けば七町小学校がある、これは学制実施の当初からできた学校である。玄関には三条実美筆の七町学校と書いた額があった。三条さんという人は知らないけれどもなんでもえらい人だろうと思って仰ぎ見たが、それより六十何年経って私が郷里の先輩から「あの額は戦争中もあるところに保存してあったため戦禍をまぬかれた。学校はなくなったが額は残ったから」とて特別に見せてもらった。本当の書だなと感心した。実際立派である。私もときどき頼まれて学校の額を書くことがあったが、大いにつつしまねばならぬと自制する。ところが私は当時小学校へ行って少しも楽しくなかった。先生たちは生きた親父の捨て所のように感じる。そしてお金もちの家の家庭教師を相つとめ、学校ではそのごきげんをとるというようなふうに感じた。邪推かもしれぬがそう思った。それで孤立がちであった。孤高を愛する性癖がそのときに養われた。

ところでかりに宇宙を見そなわす神さまがあるとして、この七、八歳の顔色のあまりよくない子供を見そなわして、一体この子供は将来何になるであろうかと御覧になったかしらんと思うとちょっとおもしろい。この当時ではあまり特色がなくて神さまも判断しにくかったであろうかと思うが、本人の子供の方ではいろいろ子供なりに考えることがあった。記述の権門に媚(こ)びるかと思われる先生を軽べつしたのはその一端であるが、そのほかにもある。

私が小学校の一年生のときすなわち明治二十四年十月二十四日には美濃の大地震があった。朝、ふとんの中に寝ていると、いきなり私をつかまえて引きずり出す怪力がある。ビックリして目を開くと、それはほかならぬ父親であった。日ごろ叱られることはあっても、こんな乱暴な扱いを受けたことはない。いきなりひっかかえて裏の空地へ持ち出された。この早暁に私たちにとっては有名な濃尾の大地震が活動していたのだ。戸外へ連れ出されるとすぐ二、三軒先きの家が半くずれになっている。遠い所に低い火事の煙が立つ。広小路という目抜きの大通りにある郵便局やその他の公署がくずれて死人やけが人がたくさん出たという。町筋を行くと道路に畳を持ち出し血だらけのけが人に応急処置をしている。全くあわただしい驚天動地の変化だ。要言すると赤れんがで美観を誇った儀容的公共建物がまず破壊したのだ、赤れんがの西洋模倣は殺人の任務を果たしたのだ。「バカナ!」とこの子供は叫んだ。なにを非難したのかアイマイではあるが官僚活動の弱点を感じ取ったような気がする。

三、粘液性放心児[編集]

小学校の時のことを思うとどうも子供らしい威勢のよい活気がなかったらしい。先生に何一つ質問するのでもなく、夢中になって遊戯をするのでもなく、義務的になれば動くが、放任されればただ隅っこに縮んでいる。意気地のないいもむしのような人間であった。当時、学校の先生が放心という語を使った。「いつも放心している」「放心していてはいけない」といって叱る類である。

この放心という語は大乗的に見れば大変貴い言葉らしいが、この場合はボンヤリしている、魂が入っていない等等の意味であって、先生のいうことにもはきはき受け答えしないで別のことを考えているような子供にあてはめられる。私は放心者として一般にみられていたようである。わかりやすくいえば「ヌケ作」と同意語である。先生が私を放心者ということはしばらく我慢するとしても、同じ悪童なかまが特に私を放心者とするに至ってははなはだ心外だが、私は決して放心者ではありませぬと弁明するほどの必要もないので、そのままに打ち捨てておいた。要するに目から鼻に抜けるような天才型とははるか放れた存在であったのだ。

粘液質という語を辞書で引くとカントの語として「感情が目立たぬが呆然(ぼうぜん)とはせず、人に対してなかなか怒らぬが温情も表面には表さぬ等の特徴」をあげ、また他の学者は「短気でなく刺激性でなく思慮分別があって根気がいい。心の持ちかたは寛容で確乎(かっこ)たるところがあるが情熱に乏しい」などといっている。私によくあてはまるようだ。善悪は別として体質だからしかたがない。これを善用するのみだ。セネカとかいう人がいったそうだが「怒りをいやす最善の方法は怒ることを延ばすことである」。その調子で、後日の話だが、進んで恋愛に成功することもなく、まあまあ無事に過ごすことができた。

ところがこのような放心者でも小学生の上級のころから、養子にもらいたいと申込んだ人があったことは愉快である。いずれも父の懇意な友人で、一人は地方一流の染物屋であり、一人はちょっと手びろに営業をしている材木屋さんであった。子供心に自分はよそへ養子にやられることかしらんと心配していた。それでもしそれが実現されていたら、染色工業に一新機軸を示したり、またはトビ口を手にした一団の人々を指揮して炎天に立ち回っている自分を見出すことはいささか愉快でもある。ただ不思議に思うことはどうしてこの放心粘液児に養子口が付いたのかという点である。これは拾う神あり捨てる神ありの伝で、私の物事に根気強いところがプラスであったらしい。遊びごとの知恵の輪を解くことだって、何時間でも解けるまでは手から放さない。

後年、私の男の子の一人が亀戸の天神様へ行って、あそこの太鼓橋を渡るのに五、六歳の子供としては橋の最高部を渡ることがなかなかむずかしく、何度も何度もやりなおして、ついに成功して笑顔になるのを見ていて、私自身も幼時はこんなであったかとほほえんだ。小野道風にながめられていた柳に飛びつくかえるのようである。そんなところが人の注目をひいたのであろう。十八史略かにあった「鈍刀骨を切る」との語を私は尊敬している。そして、戦時中有名であったある将軍が部下を叱って「安全剃刀の刃で松の木が伐れるか」といったそうだが、これにも共鳴する。

実際、私の少年時代と青年時代を追憶すると花やかな頭の動きかたはほとんど見えないが、他の面ではじりじり努力して行ったあとがある。思い起すことだが、高等小学校に入った時、入学の時はあまり芳しくなかったが卒業の時は首席だった。中学校入学のときもそんなふうで人に気づかれなかったダークホースが、卒業の時は首席だった。一高の時もそうだった。そして東大の英法科に入った時も全く同様の曲線を描いている。特に意図したわけでもなくて、いつもこんなふうであったことはいささか変である。私の前途には地獄の門が待っているだけだから同種の新事例を作ることのできないのは残念だ。

四、マラソン中学[編集]

小学校をはなれて中学に進むとわれわれの視野は非常に拡大される。当時の中学生は今日の中学生よりも活動の自由が多かった。それは教育制度の関係もある。ある程度自分のすきな読書や勉強ができた。

その実、私の中学校の校長はその当時、世上に名の聞えていた日比野マラソン王であった。当時にはちょっと珍しいスパルタ式の教育家であった。運動場で体操をしていると不意に校門から街路に導かれる、何事かと思うとそのまま、一時間ぐらい隊伍(たいご)を組んで町中を駆け足だ。つまり、その当時からランニングの強制は人間を作る一方法なりという信条を持っていたのであろう。私のような弱虫は心あまり平らかでなかった。何も配達夫になるために学校へ入ったわけでもあるまいにと不平をいった。事実、一時間近くも走らせられると心臓の鼓動ははげしくなり、顔色は蒼白(そうはく)となって今にも息がとまるかとさえ思った。しかし少し慣れると大した苦痛でもなくなった、妙なものである。そしてまた先生は家庭で新聞を読んではならぬ、これは無用有害のことであり、そんなひまがあるなら教科書を勉強せよと教えられた。

だが青びょうたんめいたこの小さな悪童は反抗意識をいだいて雑書を読み雑学にふけった。当時、名古屋に大惣という古い貸本屋があって徳川時代の文学物を一通りそろえていた。この店は坪内逍遥先生が長くヒイキされた店で、現在ではその当時の在庫本は東京の大学や上野の図書館などに保存されており、そこの蔵書印のあるものは古本屋でも値が高いそうだが、そんな店へ出入りして雑書を借りて読んだ。もちろん、十六、七歳の子供のことだから江戸文学の高級品に親しんだわけではないが、手当り次第に随筆ものや軽い国文学の書(多くは和紙木版刷)をむさぼり読んだ。鳥の子紙に草仮名で美しく書いた筆写本もあった。大部の随筆「塩じり」の筆写本もあった。堅いもの柔らかいものさまざまで、今から思うと早熟であったと思わざるを得ない。教科書勉強主義の日比野先生には相すまぬ次第であった。そしてこの雑読主義は高等学校から大学に至るまで長々とつづき、戦災で資料を烏有(うゆう)に帰せしめるまで続いた。あたら人生をつまらぬことしたものだと思わぬでもないが、物にはいろいろの考えかたもあって、後日議会でやった憲法の質疑応答にこの雑学が若干役に立っているといってくれた人もある。古事記、徒然草、土佐日記や万葉集、古今集と憲法との間に深い関係のないこともあるまい、法の本質に触れるところすらもあるであろう。横文字ばかりが法律と関係あるのではないのだ。

さて中学校を卒業すれば上級の学校へ入りたいのは自然の情だが、世情にうとい私はどんな方向を志したらよいであろうか。前にもいった通り士の子孫でも富人の裔(えい)でもない、方向を制約する何ものもない。第一には芸術家になりたいと思った、第二には理学者になりたいと思った、第三には裁判官になりたいと思った。第一の希望は自省してみればその考えたるや全くこっけいであることがすぐにわかる。第二の考えは日比野先生に相談したら「高等数学めいたことがあまりよくないらしいではないか」とやられたためおしまいである。第三の方途は正義を擁護せんとする潜在的熱情があったために考えついたのだが、徳次郎などとの百姓名を受けている人間は遠慮した方がよいよと友人からひやかされると思いあきらめた。しょせん、他力本願で、運命に任せろと思って受験願書に第一高等学校、第一部甲類と書いた。もっとも無精な定めかたである。爾来(じらい)ふらふらと人生にただよい出した。わが行く所は馬に聞けと言いながら奔馬の首にしばみついている人のようである。迷いだしたおかげで他力本願の人生いろいろの経験をつませてもらった。

私が入学願書を出すときのまどいは幾分は内面的理由があったよいうである。それは私の子供たちが自然に私の果たさなかった希望の一部分ずつを担当したからである。何のヒントをも与えなかったのに遺伝というものは不思議だと思う。法律家一人、物理学二人、図案家一人、雑一人と分岐したからである。これに音楽家一人と出てくると愉快だが音痴からそれが出たら奇跡だろう。

五、青春のまどい[編集]

一高東大法学部約七年の間は質実な勉強学生として比較的忠実に学問の勉強をした。そして若干の先生や同学の友人たちにいろいろと啓発された。啓発されたといっても、例の個性のしからしむるところから外観上はつねに超越派であった。進んで強く接近することもなく、いつも相当の距離を置いていた。だから格別親友というのもできなかった。心の中では多くの人を尊敬し自分の方へその滋味を吸収していたが、何事にも積極的ではない。そして高等学校の多分一年前の藤村操氏(人生不可解をとなえて日光の華厳の瀑へ飛びこんだ人)には非常に心をひかれた。一人黙々として散歩する私の心の中にはいつもこの人の心のもだえを分担しているような気がした。しかし何も不可解を悩むわけではなく、いわば少年期の精神のさまよいのようなものであった。

文豪谷崎潤一郎君は同窓であって氏の同窓たりし人々は、ときどきその美しい筆の中に再現されている。ただ私は親しみにくい人間であっただけに、老成人らしくてあまり親しまなかったという意味のことをその随筆の中に打出しているがこれはまさに的確である。

ところでこの火の消えたような孤立歩行者にも人生の微妙さはあるもので、ゆくりなくも感情のどれいになった。ある女性との交際が始まった。私はこれを秘密にする考えはなかったので、母が上京した時にこれを紹介して同意を求めたところ、もってのほかだとして反対された。その反対の理由にはいろいろ首肯すべきものはあったけれども胆汁性の私はこれに承服することはできなかった。悲劇の芽は萌(も)え出でたのである。

未練な私は決行もせず放棄もせず、それから約十四年、各自各別の道を歩いたのであるが、最後には相手方の病没によって問題が消滅した。その人の郷里からその人の許婚(いいなずけ)であった温良の人が出て来て遺骨を背負い去った。このようなことは全くの私事に過ぎないのでここにいう要のないことであるが、十四年の歳月は決して短い期間ではない。その間、朝となく夕となくこの問題が私の心を悩ましたことは事実である。そしてこの事情の詳細は二者の共通の友人たるある科学者と私の現在の妻とだけが知っていることである。

その後、約三十五年、私は南海に旅行して草深き丘の上の赤松数本の立っている所に展墓して往事を追想し、万感こもごも迫るものがあった。後年、憲法改正のとき家族制度是正の論議に私は深い感激をもって説明した。人にはわからなかったかもしれぬが、実感があったのである。そしてその後もこのようなことで感情のもつれに悩む人たちの縁談に幾分まとめ役をつとめたのは自分では理由があったのである。

とにもかくにも歳月人を待たず、卒業期が来た。明治天皇最後の行幸があった。御前へ出て単独に拝礼をする光栄に酔った。大蔵省へ入れてもらった。税務監督局属に任ぜられた。六級俸下賜という辞令もありがたく頂戴した。学生生活の間は自由平等などと口ぐせにいっていたが、下賜という言葉にちょっと抵抗を感じただけで従順にひき下がった。若干の課長にあいさつをせよとのことで黒田英雄秘書官に案内してもらって行った。何とか課長の前に出ると、課長の回転イスに座したままで、こちらの最敬礼を受けてニコリともせず、ウンと一言するだけで、官僚というものはこんなものかと思い知った。

それにしても誰もがこうばかりではない、いろいろ親切に心がけを教えてくれる人もある。人生修行は楽しくないこともない。私たちには特別な任務もないらしい。参事官室付ということでその室の一側に壁に向かって数脚のイスが置いてある。ここで壁に向かいながら書類を見て、同意のできるものには押印するのである。つまり短期間に大蔵省事務を了知させるために、次官へ回す書類の下見をするのである。これはたしかに賢い方法で二月もたつと一応事務を知るようになった。実務を知らないくせに文書について文句をいうことを覚えた。これはまことに非人情な議論をするのであるが、理屈をこねることに若干の興味はあった。

その中に同学の津島寿一君が介入して来た。しかし彼はこんな形式事務を命がけでやることには興味がなかったのであろう。理財局へ転勤した。たしかに所を得たものである。だが、無芸の私にはそんな実質的の役はできない。相変わらず形式理屈をやっていい気になっていると、給仕さんが来て、浜口次官がお呼びですという。官房にはいても大臣や次官は雲の上の人で、ただ仰ぎ見て天の高さを思うだけである。それだのにヒゲのいかめしい浜口次官に呼び付けられたのだ。ビクリとしたのは無理もない。そしてこれが運命の別れ道とは神ならぬ身の知るよしもなかった。

六、法制局に入る[編集]

当時でもすでに浜口雄幸さんは官界の有名人であった。土佐人としての雄雄(おお)しい風采(ふうさい)をそなえている。それに声が底響きのする男性調である。ほおひげがあったかどうかいま覚えていないが、とにかく男性のライオンを思わせる直感がした。これはなにも日本人ばかりの感覚ではない、外国人にもそう響いたらしい。その前に浜口さんは専売局長官であった。もちろん、塩も専売の範囲内にあるが、日本の塩の生産費は高いから外国からの塩の売込みがある。たしかドイツの船だと聞いたが、その国産の岩塩をうんと船に積んで売込みに来た。こういう場合に交渉をすることは面倒なことらしい。浜口さんはそのねばり強そうなドイツ船長に会って「塩は専売法により日本領内には持込めない、早くそのまま持帰ってもらいたい」とやってその顔付を最も有効に活用したら、勢いにのまれた外人は、政府の問題にもしないでさっさと帰ってしまったということである。

その浜口さんには後にはしばしば接近する機会を得たが、実は純情温雅でしかも小心緻密(ちみつ)なる理想的紳士であった。本当の名は「おさちさん」であり、これを雄幸(ゆうこう)と読むところに一種の気流が起ったのである。その雄幸氏が私を呼んで「内閣の法制局で君を採用したいと希望して来たが」と言いだして、重々しい口つきで私に転進を勧誘された。鈍重な口ぶりだが信実のこもった話し方だ。後年、浜口さんが総理大臣になられ、その会合が東洋軒で開かれ、私も出席したのだが、そのときシナ料理が出た。メニューには「田鶏……」とあったが、それはとのさまがえるの脚を用いたスープ様のものであった。ライオン浜口氏はそれを扱いかねておられるようで、私が聞いたら「かえるはどうもネ」といわれた。そんなやさしい心の浜口さんが私を勧誘されたのである。かえるはライオンの天敵であるという妙な気がした。これは後のことだが、その際はまことに人間味に富んだやさしい立場において浜口さんが勧誘して下さったので私は手もなく屈服した。かくて大蔵属は一年半の閲歴を残して法制局参事官に転進したのである。

大蔵省の経験は何かを私に教えてくれた。その一つの点は例の初任のあいさつのときに私に対して腰かけたままウンと受けて顔の筋肉一つ動かさなかった課長さんの態度である。極度に冷静なものが底に含まれているような気がした。私はこれに反感を持つわけではなくて、むしろ好感をすら抱くのである。お互いに公務員として初対面のあいさつをするのであり、私事として余計なあいそをする必要はない。大義私事を滅する考え方は内心賛成である。のちの岡田内閣において私の数年の先輩たる藤井真信氏が輸血だか注射だかを受けながら閣議で正論を発し、深夜の論議に精魂をつくし、運が悪いとこの席で息を引取るのではなかろうかと傍観者に心配させたあの態度と一脈相通ずるものがある。後年、某大蔵大臣が貧乏人は麦を食えと放言したとかで、いろいろ話の種になった。よいこととは思わぬが、一種の調子として思い当る節はある。

そこで、いよいよ法制局に入った。いまでこそ法制局というものは類似の機関がいくつも出来て鼎(かなえ)の軽重の計り方がかわったが、その当時ではたいへんやかましいところであった。官僚内閣時代の有力な機関であったのである。その昔、井上馨とか一木喜徳郎とかが長官でかまえていたことでもわかる。かつて寺内正毅さんが総理大臣であったときの茶話だったが「自分が陸軍省にいたとき、関係の参事官は江木であった(これは江木翼氏、当時羽ぶりのよかった参事官)。江木はなかなかいうことをいれてくれない。論議の末、今日の論はこれまでと言い切って書類を机の中にしまい込んでそっぽを向いてしまった」と笑っておられた。なかなか威力があったらしい。

だが時代は変化した。政党政治らしい空気が増してくると、大臣が責任をとっている各省の案を参事官なる若造などが抵抗するとはけしからぬという気持もわいて来た。だから季節的に法制局廃止論が新聞記事をにぎわせた。審査の論調はいくぶん低下せざるを得ぬ。概念法学的な形式法理論も斜陽気分にならざるを得ぬ。私には直感的にそんな気持がした。

七、局での居心地[編集]

私が法制局に入ったことは今までに述べたところでは非常に懇願されての結果らしくに見えるが、本当のところはさにあらずで、多分、馬のすりかえとでもいうべきであったらしい。当時局の首席的参事官柳田国男[1]さんが急に貴族院の書記長になられた。そのあとをねらう希望者がたくさんあって、しかも法制局長官が平素快しとしない人からの売込みを受けた。その時、とっさの答として大蔵省方面から採用することに話がきまっていると答えた。そして意中の人に相談をした。ところがその人はこれを希望せずと答えたらしい。そこで窮余の一策としてある程度条件が同じようにひびく私がとりあげられた。そんなことは知らないで感激して飛びついた次第である。それはそれでよいのだが、柳田[1]さんのあとを埋めたというのがすこぶる厄介だ。当時に聞いた法制局のルーマーでは、柳田[1]さんは頭が早い、判断が早い、したがって口が早い。何か一種の人造機械があっていろいろの問題点を詰め込んでハンドルをぐるりと回すと直ちに妥当な答が相当早い速度で自動的ともいうべき形でどんどん出てくる。だから柳田[1]さんと議論をするとこちらの提出する議論はまだ終わっていないうちに先生は結論を下してしまって討論終結を宣し、座を立ってしまうと聞かされていた。聞いて見るとこわくなる。

しかし、これは入れかわりのことだからタカの代りにスズメが座ったというくらいで、恥を我慢しておれば、それでよいのだが、あとの連中もそれに大体匹敵するくらいの明敏滑走型であるらしいので閉口した。放心居士であり、かつ粘液型である私は途方に暮れざるを得ない次第だ。

その時、私の精神を刺激したのは従来の法制局はいわば秀才の府であり、力を概念法学に没頭しこれは法理にかなうとかかなわないとかの議論形式をとって自己の独断を法理なりとして強いる傾きがある。私のような鈍重派は法理というものが、なかなかのみ込めなくって、法とは要するに人間の良識であみ出した行為の準則であるから、国民の良識にかない、国民の便利に合するものでなくてはならぬ。こんな立場をプラグマチズムとでもいうのかもしれぬが、論理は緻密(ちみつ)でなくても実効の多い方で行こうと思う。

これはなかなか実例をもって説明することはできないが、一、二を思い出して見る。寺内内閣の時であったが、国に公益上の寄付金をしたものには金額の多少に応じて勲章類を出そうとの議があった。これはなんでも前に済生会を作るために実業家から寄付金を取って置きながら、その褒賞が出てなかったために苦情が出たから、これに応ずるためである。理屈からは公益のために寄付金をしたのだから勲章または類似のものを与えるのは当然だという説だ。そして海防献金などについてその例があるというのである。私からいうとこれは昔、官職を売って国家が金を取ったいわゆる売官の制と同様だ。われわれはそんな気持になりたくはない。どうしても表彰したければ、金貨をそのまま胸にぶらさげる制を作るがよいと極論した。つまり私の心には行政の清潔性が強く胸にこびりついたのである。時の有松長官は不快そうな顔でこれを聞いておられた。終局は私たちの論は敗れたが、折衷して紺綬褒章の制が生まれた。あいつは社会主義だという変な批評を誰かに受けた。社会主義というのは当時の言葉では過激派ということである。そして今でもこの褒章の制を見ると私は不満足である。公生活面に不潔な考えが、なお底力をもって残存しているからである。その後若干年にして田中内閣のときに、売勲事件が起って人を驚かせたが、一つの勲章を売るのと、一括しての制度を売るのと、その精神には連絡がありそうだ。ずっと後の話だが戦争末期、私が流浪しているとき、ある財団法人の役員に推薦されたとき、あいつは赤いからとて取りやめになったとかのうわさを人から聞いたが、糸のようにつらなるものがあるかもしれん。

八、へ烏の弁[編集]

法制局に入りたいという気持は卒業前には持っていたので、当時の岡野敬次郎長官に御意見を聞きに行ったことはあるが、さて法制局へ入って見ると情勢は相当かわっていて、行政中心の政治力はだんだんおとろえていた。だからどんなにやかましく正義をとなえても現実にはひびかない。たかだか立法技術に関する刀筆の吏の役割しかはたせない。もちろん、それが無意義というのではないが男一人のやるべき使命かいささか疑わしいのである。それで法令の形式の改善ということを主張してみた。

ある同僚と議論してみると、当時ドイツの民法はずいぶんたくさんの条文で出来ていたが、日本の民法はその半分に過ぎない。条文の数が少なくても内容が充実しているのだからすこぶる立派なものだ。比類なき精巧な立法技術であると自慢した。私は不服であった。法三章でも役には立つかもしれぬが、しかし論争点が無限に発生して、法律家の仕事はふえるかもしれぬが国民は不便を感ずる。法律を守るべきものは一般人民だから、一般人民が読んだらすぐにわかるように法文を書いたらよいではないか、概念法学の発達には賛成できないというのが私の主張であった。誰もすなおには賛成してくれなかったが、それでも時代の勢もあったかだんだんわかりやすい法文が行われるようになったと思う。

ところで、ある時、かかりの人たちが法文の校正をしているのをなんの気もなく、そばで聞いていると「へ烏、へ烏……」と連呼しているように聞える。鳥屋の店開きでもあるまいし「からす」の勘定をしているのは変だと思うと、それは禁止規定を書いている法文の「何々すべからず」の読みあわせをしているのである。つまり仮名にはニゴリをつけないという古典的な原理が守られていたのであり、立法技術家はさほどまでに保守的であったのだ。ほかにも、これに類似することが多かった。大正の末年ごろにか閣令を出してもらってこのへ烏流の考え方を補正することにした。だがこんなことばかりやっていては月給の手前も申しわけないと思っていた。しかし比較的小さいことでも少しは実質的な善事ができぬわけでもない。

まだ樺太が日本の治下にあったころ、その地域の権利義務は勅令で規定することが普通であったが、いま野球界の運営で名をあげている品川主計君が当時拓殖局の書記官であった。勅令案を持って来た。それは樺太の沿岸のニシンなどの漁業を制限するもので、なんでも沿岸にたくさん漁場を設けそれ以外でニシンなどを漁獲したものは厳罰に処するという規定の効力に関するものである。私は前からこの規定を知っていたが、こんなふうに漁業を制限しないとニシンの漁利がなくなってしまう。魚を取りきってしまう。これは水産物保護のためきわめて大切な規定だと先輩たちから教えられていて本当にそうだと思い込んでいた。だから漁場を開放してしまうなどはもってのほかだと思い込んでいた。

しかるに品川君の話によると真実は全く異なっている。これは領有当時のボスたちが沿岸のニシンの利益を独占せんとしたくわだてで、そのために住民は眼前を往来している魚族をながめているだけで、これをとると罰せられ、生活も不安になっているのだとのことである。つまり漁利存続を口実にして実はボスの利益独占を図っている不当規定だというのである。私は聞いて目がくらむほど驚いた。家へ帰ってとくと考えてみたがどうもそれに違いない。先輩の伝統的判断はあざむかれているのに違いない。道をもってすれば君子はあざむくべしであるが、自分はあざむかれる君子にはなるまいと決意し善処した。

実はこんなことはすっかり忘れていたのだが、終戦後十年、たまたまある外人をたずねたら、その家の所有者たる老人(日本人)が座に出て来て私の名を知って丁寧に私に感謝した。驚いて礼を返したら、その人は樺太にいて、当時この問題について地方人心が爆発せんとする時に際会したが、私の処置によって事なきを得たとし爾来(じらい)二十年間、私の名を記憶し私に感謝していたという。私の知らぬところにこんな人もいたのであり、ちょっといい気持になった。空想すると生活難で親子離散するとか、娘の出かせぎを相談するとかの最中に慈雨のような法令が出たことになる。品川君の活眼にも感心したが、思わぬ人から感謝されたことをも喜んだ。しかし当時おもむろに私に迫っていたものは全く思わぬところからののろいであり、それは天皇機関説問題であった。

九、小魚に護衛[編集]

犬も歩けば棒に当るという言葉がある。その棒にはいい棒もあるかもしれぬが悪い棒もあるかもしれぬ。いや悪い棒が普通だろう、目から火の出るほどひどくぶんなぐられる棒を予想する方が自然だ。私も大正から昭和にかけて大体平静な生活をして来た。なんとか生活のできる程度の月給をもらって役人生活をやり、都下の私立大学数ヶ所に憲法の講義をして大体は興味を持って聞いてくれているらしい。碁も初段に二三目ではあるが平素の相手は相当打ちまかせる、古本屋道楽もなかなか集まるようになった。マージャンも強くなった。これで身辺に美人の御客さんでも集まって来ると大分よいのだが、なんとした風の吹きまわしか思わぬ険悪なことの予感が出てくる。

昭和九年かに私が岡田内閣の法制局長官になったが、その地位は当時、派手なものの一つであった。ところでここに岡田内閣を待ち受けていた問題があった。それは関東庁と満州国との行政連絡の問題で、該地域の憲兵と警察官を一元化することを含んでおり、つまり憲兵が実質上警察官を支配することになる問題だ。各独特の命令系統をなし、事実、力として武力を持つきかん気の強い連中である。そしてこれを併合すると上部組織、下部組織にも大き変化が起る厄介な問題だ。警察関係者は血書のお陳情書を上司に出すような騒ぎだ。それでもなんとかない知恵をしぼって一応整備ができそうになった。やれ安心と思うと飛報があって、関東州の警察官が御手のものの武器を携帯し数人東京に赴き、一人一殺の心構えをしているとのことだ。はじめはうそだと思っていると、そのうちに気の早い当局者は私の茅屋(ぼうおく)に護衛のための警察官を配置してくれる。うわさによれば内閣書記官長の河田烈氏と法制局長官の私とが意中の人であるらしい。人騒がせの事もあるもので、メダカかタナゴのような小魚のところに武装いかめしき護衛のつくことは前代未聞である。少年にして高官に登るの感でくすぐったい。それでも大事に及ばず、護衛も解けたのでヤレヤレと足を伸ばし得た。ところがこれは一種の前兆であったとみえ、翌年の議会期節に本格的の護衛を受けることになった。これは念入りの護衛で前途不明でいつまで続く護衛かなとつぶやいた。

事の起りは、朝出勤前の朝食に愛用のみそ汁を飲んでいると知らぬ人から電話がかかる。出て見ると「閣下、閣下に忠告します。閣下は即時辞職さるべきです……」という。未知の人から辞職勧告をされているのだ。何事かと聞きかえすと今朝の「人類愛善新聞を見たか、閣下は全く乱臣賊子である。速やかに処決さるべきだ」という。その新聞は読んでいないというと「早く読んで真面目に処決しなさい」という。さっそく出勤してその新聞を見ると何段抜きの大見出しで私のことを乱臣賊子と言い、著書の中の文句を勝手につなぎ合わせていかにも乱臣賊子らしく見えるようになっている。私は一躍して有名人になってしまった。庭で草むしりをしていると道路を通行する人が門札を指さして、ここの家の人は天皇機関説だそうだと大口で話しあって行く。まるで悪魔のうわさをして行くようだ。そのかわり護衛付であるため寄付金や押売りの災を免れ得たことは不幸中の幸だ。

善良穏健をもって自任する私がどうして疫病神扱いを受けるようになったか。これには順序がある。面倒でも聞いてもらおう。数ヶ月前から機関説排撃論がどこからともなく起って政界および一般社会をにぎわせている。それは近ごろの学会で天皇を国の機関なりというものがあるが怪しからん、これをやっつけねばならぬという論で、貴族院で美濃部達吉博士を非難して総理に悪意の質問をする者があり、私が呼び出されて答弁し、学問のことは政治の舞台で論じないのがよいといったことが因をなして、こんどは私を機関説論者なりとしてこれを排除しはじめたのである。このおかげで私は一躍して美濃部、一木、その他の一流学者と同格に非難されることになり、光栄ではあったが同僚友人こもごも災禍を受け死屍(しし)ルイルイという情勢の中で、一人も立ちあがって抵抗するものなく、無法な言葉を放置するインテリのふがいなさに共鳴することになった。いくじがないと自嘲(じちょう)した。

十、百鬼昼行[編集]

はじめは奥山の木の葉の下から水がチョロチョロと流れ出るような形の機関説問題であったが、そのうちに攻撃の勢力は恐るべき強さになった。どうしてこんなに強くなったろうと考えてもよくはわからなかった。法律的な問題について意見を述べねばならぬ立場の人間が、総攻撃の十字火の中心点になるということでは是非は別として行政の邪魔になる。辞職あるのみと決意した。辞表はどんなふうに書く、病気のためうんぬんと書くのも好かぬので結局は都合によりと書いた。ただその辞表は当分見合わせて時期を待ってくれとの上司の意見だったから、その紙を八つ折にしてしまの財布のような大きな財布に入れていつもポケットに入れていた。

だが私だってお金を払わねばならぬ機会はある。だから財布を広げねばならぬ。そのためこのたたんだ辞表の折目が次第にすれてぼやけて使いものにならなくなった。また書換えた。こんなことは人にあかさで万事自分一人でやる。変な立場になったものだと苦笑した。私が辞表を出してはならぬわけはよくは知らぬが、自分ではこんな解釈をしていた。私が非難されているのは実ははけついでというもので、本当は時の内大臣や枢密院の議長やその他の一種の自由主義者(それは決して普通の意味の自由主義者ではないいわばじみちな思想家である)を動かそうというのである。だから私一人が自分の小満足を求めて辞職すると一つのアリの穴がくずれると堅牢(けんろう)な堤に影響を生ずるかもしれぬという遠い考えによるものであったろう。私の一生でこの時代の雌伏がいちばんつらかった。個人としては所見をもって争いたいのだが、先輩たちの苦心をむだにさせないためにがまんせねばならぬのだ。当時国体明徴審議会というのが内閣に出来た。私をその委員にしないという論もあったらしいが、とにかく出してもらって、そこで上山満之進さんなどが学問と政治との関係を論じ機関説が必ずしも有害とは思えぬといわれ、正義未だ地に堕(お)ちずとの喜びを感じた。しかし大勢は全く私にとって非である。私の接する閣僚などもいろいろである。歳寒くして松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後るるを知るとの語があるがそれにあわせて考えると、町田忠治さんなどは「機関説がどこがいけないのですかね。私も若い時はあたりまえと思っていましたがね」と遠慮深い言葉で間接声援をして下さった。いちばん印象に残っているのは時の大蔵大臣高橋是清さんであった。

ふと席に立って学説と政治を混同すべからずとの所感をしめし、一木さんや美濃部さんのことを述べ、さらに「ここにいる金森君の意見なども」と触れて日本の社会の各方面でも棟梁(とうりょう)とか親方とかいう思想はあるではないかといわれた。私はえらいと思っている。なお私は思うのだが、前述のように一木さんも美濃部さんも、それに鯨の腹の下にいる目高のような私もひとしく機関説とのレッテルをはられたが実はことごとく違っている。同一なりと推定されたことがむしろおかしい。そんなに簡単にわかるものではない。

ところでここにおかしいのは若干の憲法学者が著書を改刪(かいさん)して機関説の部分を他のものに書換えたことである。ほかの世界では賢いとほめられたであろうが、学問の世界ではあまりほめられないと思った。能狂言と一緒にいわれる狂言の一つに「くさびら」と題するものがある。くさびらとはきのこのことである。家がふるびて各種の菌類が生ずるので、山伏を頼んで祈りをしてもらうと、山伏はおごそかな服装で出て来てボロンボロンと菌類克服の祈りをする。だがいろいろと化けたような菌類が発生して、しまいには山伏が負けて逃出す。あとから化けきのこがヤルマイゾヤルマイゾと追っかける筋であるが、昭和十年の学説界はこんな姿であった。この中でも、憲法学者仲間で、勢いに乗じて新たに機関説排撃に打って出たのもある。某甲大学某乙大学の専任教授が記憶に残っている。「ブルータス、お前もか」といきどおったのは勢いを知らぬ私であった。

が、ケリはついた。昭和十一年一月十日という数字の一貫するときに(偶然だが)辞任した。心がのびのびした。警護のための設備も取去られた。内閣の記者会が私のために特に送別の宴を開いてくれた。前代未聞とのことだ。そして私のめいが「叔父(おじ)さん、くやしいでしょう」といったせつなに真珠のような涙を二粒ばかり出してくれた。ほどなく二・二六事件が起った。私は無被害ではあったが郷里に消えた。長そでであるなと自嘲(じちょう)した。

十一、浪人時代[編集]

私に関するかぎり、学説問題はさらりと通り過ぎてしまったから、心のくったくはなくなった。一切の公職を離れ、また一切の公職につく機会もなくなってしまうと、人間の手足は急に伸びたような気がするものだ。天を仰ぐと、ああ天は、晴明なコバルト色である、と感ずるようになった。生きた人間の喜びというものである。なにしろ、昨日までは築地あたりの料亭で、人のご馳走になるときでも、フロックコートを着用におよび、山高帽をかぶって出かけるような窮屈さであったが、腰の大小さらりと捨ててしまうと、二十年間経験しなかった自由を回復したわけである。破れ衣(ごろも)にちびた下駄をひっかけて古本屋まわりをする心安さであった。

当時たぶん拓務大臣であったと思う児玉さんが、家に慰問に来て下さって、家族のものに「二三ヶ月経つと、本人がクシャクシャし出して、ノイローゼ症状をあらわすかもしれぬからお気をつけなさい」と注意されたそうだが、事実はさにあらず、晴耕雨読あるいは晴読雨読で朗らかであった。ただ、世の中の基調にいかにも暗いもののあることは疑わないが、微力急にいかんともしがたく、悪盛んなるときは天に勝つ、と多少はあきらめた気もちでもあった。厳格に自省するときは、はなはだはずかしいとは思ったが、多年の疲労をいたわる気もちもあっていくじなくしていた。

ところが二月二十六日の朝、雪の降るとき、いぎたなく朝寝をしていると、トラックにいっぱいの警察官が乗り込んで来て「事件が起ったようです!」と目の色を変えている。相手方の面々も立派な良識のある人々だから、すでに亡者になった私までも追い回すこともあるまいと思い、人さまにご迷惑をかけないようにと思って、東京駅から汽車で西下した。

宮城前は多少の警戒はあったようだが、そんな大事が起った様子を人々は知らぬようであった。汽車の中には青年将校らしいのが、数人か十数人か乗っていたが、豊橋あたりまでで降りてしまった。どうも様子はただごとではない。が、私は全然不知である。つまり完全につんぼさじきの人間であったのだ。しかも客観的には、岡田総理は容易に起り得ざるふしぎな立場におかれていた。高橋是清さんはお気の毒なことになっていた。斎藤実さんも同様の運命であった。そのほかにもいろいろである。が、私自身はほとんどなにも知らないで去ったのであった。世界の中に住んでいながら、世界となんの関係もない一微生物として……。

二月ほど経って、私は東京の古巣に立ち帰った。だが、することも、すべきことも、なに一つあるわけではない。小人閑居すれば、善をなすことも不善をなすことも、どっちも出来ないものだとつくづく思った。その前後、偶然美濃部達吉先生に出会って、近況をうかがった。もちろん先生は好学の士で、行政法の大著をグングンと書いておられたし「変わったことはないが、毎夕の酒の量が少し増したね」と静かに語られた。

だが、私は酒を愛するような基礎能力がないし、法律を研究する気もちもわかなかったから、大いに自然法に親しみ、造物者になろうと志した。話はぎょうぎょうしいが、実は朝から晩まで土に親しんで、高山植物や、そのほかの野草を育てて楽しむのである。友人が同情して俳句の会に出席しろという。そこで、虚子先生臨席の会に出て、二十何年ぶりに俳句を作った。雅号を作れというから「一年生」という号を選んだ。席上の題詠に「それ朝寝に作法あり教えんか」と書いて、だれもとってはくれないだろうとタカをくくっていたら、運よく(あるいは悪く)虚子先生がこれをとって下さったから、大いに鼻を高くした。まさに実感であったのである。新人生がこの好調では将来どうなることかと心配したら、よくしたもので、その後は南風競わず、遂に二年生の号にとりかえるのを待たないで落伍した。だが、この間に天下の形勢は日に日に悪化し、ゴマメといえども歯ぎしりしたくなってきたが、このゴマメには歯がなかったのである。

世間から完全に孤立していても、他動的に世間に通ずる細い道はあった。それはときどき、警察の人が二人連れぐらいで、なんとはなしに「御高説」拝聴にくるのである。時事問題について意見をいえというのである。そこで退屈しのぎによく雑談し、かえってこちらも知識を得た。たぶん要視察人になっていたらしい。そのうちに憲兵もまれには来るようになった。いくぶんはこちらに有益であったことももちろんである。だが私のような孤立人のところへ来るなんて、おおよそ無意義で、浪費だなと思ってはいた。

十二、憲法改正[編集]

浪人は楽しいものだと捨てぜりふをいっていた、それに一面の道理はあるが、ときどきは警察官や憲兵さんのご来訪を受けるのは多少不愉快な面もある。そしてこんな目にあると小人の悲しさ法律とかなんとかいう形式理屈には全く興味がなくなってしまう。在官中私がある右傾学者のような人から告発されたことがあった。不届な学説を唱え刑法第何条に反するということであろう。この問題を検事局の方面でいかに扱われたかは全くしらないが、新聞記者のある者がひそかに教えてくれたところによると、裸体画は取締まらなければならぬが私の学説はボヤケていてアブナ画の程度だ、だから起訴にはならぬだろうとのことだった。それはとんだ錯覚であると思い、ほんの二枚ばかりのものだが趣旨をつまんで弁明した。そしたらこれに対するある方面の批判として、この説明のしかたは一応通用するように思えるし、またこの説明が適切なものであるかもしれないといわれたが、要するに力の前には理屈は大した影響はないものと思った。

それはともかく、高山植物をいじって世間を白眼視していた。せめてこの間に碁が半目も強くなればよいがと努力をしたが奏功しなかった。ただ犬も歩けば棒に当るのことわざ通り、雑学や高山植物いじりからも多少は得たところがある。それは時の要素が物の変化に必要であるとのことだ。苗が伸びないからとて稲の幼苗を一本ずつ引っぱりあげて見ても、奏功はしないということだ。そのうちに歴史は転回した。敗戦の破局となった。私もあるときお堀端のあるビルデングに呼出されて戦争末期の経歴や日本の憲法論につき問いただされた。浪人中のこととてなんらの実情を知らず、おそらくは要領を得た答はなかった。ただ機関説問題については図形をとって機関関係ということを概説した。そのうち内大臣の秘書官のところから憲法を改正するについて意見あらば申出でられたいとの手紙をもらったが、全く見当もつかないので返書も出さなかった。これは昭和二十年の秋冬のころのことである。

ところが昭和二十一年の三月十七日ごろ、この日は私の誕生日であり、家を焼かれて逃げて世田谷に小屋を得、家族十人に近いのが正味は一室に雑居しており、食物も十分に得られず、タバコのかわりにトウモロコシの毛を乾かしてすっていたのだが、六十一歳になり、家族も無事に生きていることを喜んで、心祝いをといっても酒がのめるわけでもないが、少し心をゆるめ、何かよいことでもありそうに予感した。多分その前後と思うが、私は突然、貴族院議員に勅任された。慣例によれば旧時代には法制局長官をやったものは退職の際貴族院議員にされるのが例であるが、私は機関説問題で首をさし出したのだから、現実の首が生理的につながっているだけでも果報なヤツだと人はうわさしていたことだろう。それが十年の後、還暦の日にいよいよ、うごき出す機会を得たのである。国敗れてやっと機会を得たというのは変な気持のことである。そのあと急速に機会が動いて私が憲法改正案をになって議会で答弁することになった。無謀を自制する気持は強かった。しかし天命よからざるなし、やって見ようという覚悟はできた。寸毫(すんごう)の政治力があるわけではない。憲法教師の経験、行政の経験、それに同僚友人の援助が心頼みであるが、そのうち特に役に立ったのは学説問題でひっぱたかれ、これに対する対抗意識に燃えていた心意の経験であった。

案が無事に衆議院を通って友人諸君の祝言に受け答えるとき私ののどはつまった。そして目の中に涙の卵のようなものがわき出した。貴族院の最後の本会議のときは小波乱が起った。興奮して反対意見を述べるときに、例になくテーブルをたたいたのである。これは成否とともに今日が最後と思った心のゆるみであったろう。毎日の一問一答には心配が多い。時は秋も終りである。仮の家で松の木から老かぼちゃがぶらさがっている。それを見つつも「ヘボ南瓜(かぼちゃ)今日もまだもがれずにあり」と述懐した。これが新聞のゴシップに出た。安倍能成さんに、新傾向だねとからかわれた。大先輩の古島一雄さんが「君、今日のボケかぼちゃの句はよかったよ」と批評された。ヘボかぼちゃがいつの間にかボケかぼちゃに変じたのだが、それもよい、物事は次第に完成に近づいたのだ。

十三、感心した二人[編集]

少し行文が前後するが、この辺で公務員の中で感心した二、三の記憶を書きはさんで置きたい。某書店が新名将言行録を発行した。読んで行くと感心することもあり然らざるもあり、時代と個性の差か、そんなにも傾倒することができない。よく見るとそれは名将言行録であって私に縁遠いが、名相言行録というものはないか、いな、さらに一歩踏み込んで名庶民言行録というものはないかと考えて見た。

そこで一つ思い出すのは岡田内閣の当時、二・二六事件の時岡田総理大臣と間違えられてピストルで打たれて死没された秘書官の松尾伝蔵さんである。松尾さんは岡田さんの妹むこであり、正式にいえば予備の陸軍大佐であり岡田さんが総理になられた時、その秘書官的の仕事をされた。有竹氏の書いた岡田大将伝によると「松尾は義兄の岡田が大命を拝した日から、この義兄のために死のうと覚悟して福井から上京し、総理の身辺に起居した。岡田が死ぬ前にオレが死ぬ、という悲壮な覚悟で頭髪、髯(ひげ)などできるだけ岡田に似るように心がけた」と書いてある。私は初対面であったが松尾さんが好きであった。軍人くさくなく村の名望家というふうに見えた。それでもまれに軍服を着用すると、打ってかわった立派な軍人に見えた。

昭和八年の十一月に臨時議会が開かれると、はじめての臨時議会のことだから一応打ちあわせしようとして総理と書記官長と私とが総理官邸の小さい私室で相談した。人まぜをしない集まりで、松尾さんが一人で酒のことを世話し、台所から海苔(のり)やするめなどを持ち出して、長官はよく食うから種切れになったなどといって家庭的なくつろぎであった。ところが昭和十一年の二月二十六日の午前に総理官邸は襲撃された。当時のことを後に岡田さんの語ったところによると「将校のひきいる一隊十六名ほど右方廊下を炊事場近くにやって来る……松尾が中庭の一隅の壁に寄りかかっているのを発見し下士官は兵に射撃を命じ……大広間にかかげてある自分の写真をとりはずし、これを松尾と見くらべ“これだ、これだ”と松尾を自分と思いこみ、みなどこかへ立ち去った」。私が特に松尾さんに感心することは黙々として平素から覚悟をしておられたことである。松尾さんのお墓は福井県にある。私は一度参拝したいと思うことしきりだが志を達しない。

この当時、今一人私の感心したのはそのときの大蔵大臣藤井真信氏である。これは実は大臣の典型として書くのではない。清貧を楽しむ硬骨の士として描き出そうとするのである。社会的の価値は私にはわからぬので遠慮する。

さて藤井さんはたしか私より三年の先輩であって言葉通りの新進であった。当時、健全財政を守り通すことは難事であったらしい。大先輩高橋是清さんのあと押しにより、若年にして大蔵大臣になった。彼は青年に近い熱情で健全財政を守り通そうとし、湊川へ赴く楠正成の心境をもって入閣したといわれている。そんなむずかしいことは私にはわからないが、書記官的潔癖をもって事をつらぬこうとしたことは事実である。大臣になると当時大きな生きた鯛(たい)をあちこちから贈られるのが常である。藤井さんも財界各方面から贈られた。こんなお祝はもらって腹の立つものではないが、藤井さんは潔癖に全部つき返した。贈った人々はなるほど藤井大臣は潔癖だと感心したかといえば、その反対にかえって怒った。せっかくの敬意表明をつき返すとは何事か、こんな常識のない大蔵大臣では前途が心配だとて不評判になり早速株の値がウンと下がった。これがケチのつき初めだ。昭和十年度の予算の概算を決めるとき、大蔵側は強く反対したから軍部がおさまらない。夜を徹しても閣議は決まらない。他の大臣たちも調節になやんだ。豪放なある大臣は「オレを印刷局長官にしろ、お札なんかどんどん作ってやる」などとふざけておこり出した。休息の間の真夜中ごろ、別室でケンカのような怒号が聞えた。「もうオレは聞かないぞ」それは総理の声であり相手は藤井さんである。あかつきに話はついた。その間、ひん死のようなウメキが聞えた。藤井さんの思わず発したウメキである。私は心配した。彼は輸血をしながら徹夜の会議をがんばったのだと有竹氏は書いている。辞職した、入院した、早く退院した、退院したら逝去(せいきょ)した。逝去したらお葬式の費用がないことが明白であった。早期退院も経費関係らしい。清廉はよいことだ、剛毅(ごうき)はよいことだ。だが悲しい結果であった。世の中はむずかしい。しかし部分的ではあるが拍手を捧げたい。

十四、新憲法公布[編集]

憲法は出来た、公布された。それは昭和二十一年の十一月三日である。その日に私の護衛についていてくれた私服のHさんは、朝からなんとなく緊張していた。あとから聞くと、上司から「明治憲法発布のときは文部大臣森有礼氏が殺された。そんなこともあるからきょうは特別に注意するように」と言い渡されていたのである。時代は転回していた。そんなことに心配はない、まことに打晴れた気もちである。いよいよこれで自由にのびのびした気もちで生きて行けるのだということが主になっていた。外国からうるさい目付きをもって見られていたことも、そんなに気にせず、将来の国民生活の喜びが中心意識になっていたのだ。

憲法が実施されたころから、進駐軍の圧迫的態度は強く目立って来たように思われる。少なくとも私に対しては今まで相当の敬意を払ってくれたようだ。そのうちに足もとを見られたというか、物なれ過ぎたというか、万事露骨になったようだ。例の衆議院の解散は憲法第六十九条により衆議院の不信任決議案があった場合に限ると先方で主張し、日本で行う解散手続きの実行にまで実際的に干渉を加えかけて来たのは遺憾なことであった。だが、私の触れた範囲では、国体問題について二枚舌を使うとの語気を示したのが目立ったくらいである。ただここらで憲法についての軽いレマークをして置きたい。

私は機関説以来人間の錯覚という問題がいかに人の世に災するものであるかを知り過ぎていた。だから憲法案の説明についても、うるさがられてもよく得心してもらう方法を考えた。従来ならば議会の質問の機会を極度に少なくし、問訊されたことをわずかに答えて最小限の責任を果すことを巧妙なりとしたが、私の態度はその反対であった。だから衆議院の委員会で特に委員会の許容を求めて参考のために学説的説明をした。これは木で鼻をくくったような答弁よりも有効であったように自分では考えた。だが両院の委員長からは、しばしば簡単に答えよとの注意を受けた。これは私の作為であったのだ。どちらの態度が成功的であったかは神のみぞ知るのである。

また外国出版物等(たとえばハロルドクゥイグレー等の新生日本)に私の答が何か良心的でなく問題をまぎらす方向に持っていったかのような語気が見られる。これは心外であり、もしそんな気がしたとすれば、私の能力や知識の欠乏の結果であるかもしれぬが、私の良心のせいではない。私が他日地獄へ行ったときエンマの庁の心証を害すると困るから弁明しておきたい。ただその直前は機関説問題で生きるか死ぬるかの非難を受けたのに、機関説どころではない、思い切った説明をしたのに国民諸君が一応聞き入れてくれたことを思うと、世の長足の進歩に驚嘆せざるを得ない。万物は流転するの語を金科玉条の一つにしている私には味が深い。私は何も物の道理が自由自在に流転するというのではなく、刻々変遷の勢いと万古不変の理とが集まって道理を作っていると思っているのだが、そこの説明がむずかしいところだ。憲法説明の当時は、大正の初期に書いた私の憲法を持ち出して朗読して私の意見の変化をなじった人があったが、今でもときどきこんな目にあう。修練の結果による心境の変化であると、昔犬養木堂さんがいみじくもやってのけたが、そんな香がするのが良心的でないといわれるのかもしれぬ。

九月号の文芸春秋を見ていると、美濃部亮吉氏が父君達吉先生の学説遭難事件をいろいろ書いておられるが、その当時のいきさつには血がなるようだ。そのうち戸沢検事が詔勅の批判をしてもよいかを尋ね、イエスの答を得て「しかし勅語、ことに教育勅語は批判してはいけないという説がありますが、それについてはどう思いますか」と尋ね、それは単なる俗説にすぎませんと美濃部さんは言下に言い切った。しかし美濃部さんはその後すこぶる苦渋の色を浮かべながら顔面を紅潮されてこれを訂正されたとのことが一応書いてある。真実は不知だが、その気もちは私にわかる。理性時効と感情事項との差だ。美濃部先生にもこんなもつれはあったろう。蓑田胸喜氏がいつも攻撃軍のえらい軍師だった。私たちも小さいながら被害者だった。河合栄治郎氏などもいじめられて結局病死した。蓑田氏はなかなかえらかったが、終戦後熊本かどこかで自殺した。いつかお墓参りをしようと私はいっている。これだけいじめてくれた人は外にないから、こんな気を生ずるようになるのだろう。変なものだ。

十五、憲法施行[編集]

さて昭和二十二年の五月三日が来た。これは憲法施行の日である。過去三、四十年の間日本の社会を陰ウツにした軍国主義は成文の掟(おきて)によって明らかに消滅させられた。平和の国が外の力と内の力とによってできたのである。平和国家、文化国家の喜びは日本中の空気を満たしたのである。一面においては何人も異議を申立て得ざる理想の国である。国民は物に酔ったようにざわめいた。わずかばかりの配給の酒に顔も心をもほころばした。

この朝早く某新聞社の人が世田谷の陋屋(ろうおく)に来て「あなたはヘボ南瓜の句を前に作ったことがあるが、今日の感慨はどうか、一句書け」といって色紙をつきつけて来た。名句はそんなに手軽に出来るものではない。ちょっと待って下さいといって雑談にまぎらせて時間をのばしていると、その家の縁側の前に柿の木がある。その柿の木の下に見事なネギ坊主が二、三本生えている。思いもつかぬ所にこんなものがあるのをあやしんだが、それは配給の野菜の根を捨てて置いたのが、人に知られずに成長してネギ坊主の花を構成していたのであった。そこで想成って、さもひとかどの俳人らしく「葱(ねぎ)坊主麦の穂などがスクスクと」と書いた。民主政治により国民の自主性が高まってきたことを喜んだのである。句の芸術価値は皆無だが、真情にもとづくものであった。それで事はすんだ。ネギ坊主の形はおもしろいばかりでなく、筆をもって絵にするとき象徴的に描くと気楽に描ける。その後いたずらによくこれを描いた。古来悪作がかえって人に好まれるので、いい気になってたくさん描いた。

数年の後憲法の記念日に、それがテレビに出た。千葉県の学校の先生で未知の人だが、時々手紙をくれる人がある。私のファンだ。その人が手紙をくれて、テレビのネギ坊主はおもしろかった。ネギ坊主麦の畑にスクスクはおもしろいといってきた。私はギクリとした。読み違えではあるが、まさに天の声である。平和の世界を願望するが、現実は生存競争だ。光と空気を求めてネギ坊主が麦畑に進出し、どちらが生きるのかのはげしい戦いをしているのが実相だ。この学校の先生が読み違えたのは、心の中に先入主となっているものが無意識の発露をしたのかもしれない。つまりバカも休み休みにいえ、もっと真実を思えとの詰責(きっせき)であるかもしれないと思った。これは後日談だ。

さて、話はもとにかえる。この五月三日に私の公の職責はなくなった。重苦しい責任はとり払われた。今日から朝寝自由となった。経験者は誰でも理解してくれるだろうが、この意味の失業は楽しい面がある。例の松の木から下っていたヘボ南瓜は雨風でとり払われた。そのあたりに野生に近い小輪のバラがつつましやかに紅白に咲いている。早くも蜂(はち)が寄り来て静かにブーブーと羽を動かしている。「閑居先ずバラと在り蜂と在り」と題して色紙に絵を描いた。ここで実は秘密めいた注釈を加えておかねばならぬ。この蜂とは私の妻のことである。日当たりでのんびりしてわがままをいっているときに、時々チクリと刺すのは妻であるからである。そしてこちらが気楽になると、思いやりが減少して刺す機能を高める。本人にはわかるまいと思っていたら「この色紙私に下さい」と名乗り出たので正解を見破られたらしい。

憲法の中で字句や説明には不備の点があったが、実体にはあまり悪い所はないと思ったし、今もそれを確信している。だが、戦争放棄に関する部分には気がかりな所がある。ポツダム宣言受諾以来やむを得なかった点があったが、今はもっと広い立場で考えてよいだろう。五十年早かったとマック氏がいったのは賛成できる。私の憲法の説明でも、婉曲(えんきょく)ではあったが必要な所では気持を述べたつもりだ。春の花は美しくても、詩人以外は花でも相克(そうこく)することに気が付いている。虫の世界、鳥の世界の冷厳さもわかっている。人間は理想を持ち希望をもつから平和を願望するは当然だが、不用意にして一夜に理想を実現することは困難だ。人間は野菜を食い四つ足を食う。人間が遠慮なく牛肉を食うことは事実だが、牛肉だってもし口があるなら人間を食う希望を持つかもしれぬ。平和は尊いが、人間の改善には時間が必要だろう。公正な真理はもっともっと苦心しなければなるまい。幣原さんが無防備主義を主張されたのは事実だが、それは世界が無防備になったときに平和が達せられるというところに主眼がある。そして日本はその先頭に立つであろうというところに時期的なものがふくまれていた。世界の実情を無視された論ではなかったように思っている。準備は実行より前に必要である。

十六、図書館人に[編集]

閑居約半年、腐ってとれた歯もだんだん修理ができた。はげた頭の毛は復活しなかったが、いくぶん芝草の芽のようなものは増加して来た。本を読む欲情はすばらしく増加して来た。ことに中国の書たとえば「易」のようなものに興味を持った。素朴な青年が来て「当りますか」という。売卜者の卵とでも見たかもしれぬ。私としては考え方の広範なことに興味を持ち、今さらながら処世訓の増築をしているだけである。

われわれは公平に歴史を見なければならぬ。自分の気に入った事実だけを採用して、その外のものは無視して議論を立てることのはかなさをだんだん深く意識するようになった。こんなことは誰だって気のついていることだが実際にはうまくいかない。一億一心で芋の蔓(つる)を食ってやせ我慢したことにも意味はある。平和万能で王道楽土を夢見ることもある時代には意味がある。八紘一宇の考えだってもっともらしい事実を基礎にして論述することはできる。リットン調査団が日本へ来たとき、リットンさんリットンさんと語調おもしろく歌を作ってこれを嘲笑したことも国民の有力なる声であった。ほんの二、三十年前われわれは勇ましく国際連盟を脱退し、各地の国民大会で脱退の決議文を決議したのも事実だ。東京駅頭で浜口首相を半ば暗殺し財界巨頭が防弾チョッキを必需品とするにいたったことも、犬養毅さんが話せばわかるといったのに「問答無用、撃て」の惨事を現出したのも事実である。日本主義労働戦線が成立したり、美濃部達吉氏が刑罰にさらされたり、陸軍大臣が国内革新要綱を内大臣に手渡ししたことも事実であり、永田鉄山が事務局長として陸軍省の中で某中佐に殺害されたことも世を驚かした。

これらは何も格別に違った時代ではない。まさにわれわれの生理的記憶の中にある。大政翼賛会が成立して一国一党の傾向が樹立しかけた。戦争が開始し戦捷の幻惑が国民を一方的に走らせ、静かに落ちついた判断は大多数の国民によって無視された。これは実情である。いったん戦局不利となり原爆二回の投下を経て国民の多数が反省したことも事実と思う。だが誰がどんな風に何を反省したか、これはたしかに不明瞭であり、私の尊敬する清水澄先生は八十歳の高齢をもって「我国の将来を想うときに実に憂慮の至りに堪えず」うんぬんの自決の辞を新憲法実施の日に認めて熱海の海に投身自殺された。そして他面銀座街頭を闊歩する新興娼婦は誇りかに紅紫の裾をひるがえした。

この走馬灯のような心の動揺はどこへ行って止まるだろうか。どうしたら秩序あり節度ある文化国家は生まれてくるであろうかは、心ある人々の憂うるところであったに違いない。しかし根本からゆるぎ出した心の混乱は何人の力によっても手軽に是正できるものではない。できると想うのはそこつであろう。しかしまた方法なしと捨てるのは無謀である。

この時因縁が熟して生まれ出たのが国立国会図書館であり私がその責任者になった。大きな動揺は大きな土台から静めて行かねばならない。人間の自発的な正しい心構えを育てて行かねばならぬ。要は学問の自由、知識などの自由の土台をかためて人為的な誘導を避けることである。そしてそれには図書館が根本面を分担するのである。つまり恒心を養うことについての機会を供するのである。

私はユネスコ憲章の前文を愛する。そのうちに戦争は人の心の中で生まれるものであるから人の心の中に平和のとりでを築かなければならないとあるがそればかりでなく人間の進み行くべき道の決定は結局心の中にあるべきだから心の基礎を養うべき資料を整備し万人に公平な利用をさせることが緊要である。国会図書館法の前文に真理がわれらを自由にするとの標語があるが、誰の考案かは知らぬがいつもこの語に心の中で最敬礼をする。まわり道のようだが知識愛と秩序愛を離れては正しい道には入れないと想う。憲法家から図書館人になった心境はこれであった。実績のあがらぬことは私の無能によるもので日常恥じ入っているが筋はかくべきである。

十七、エンマ様への願書[編集]

私の履歴書も書き進んだ。もうこのうえは地獄の庁への入庁願に添える履歴書ぐらいしか残っていない。おもしろくもなくなってしまった。さて私はこの間越後の良寛記念館発行の良寛箋をもらった。その表紙に安田靭彦さんの画かれた美しい日本画が載っている。良寛老僧の前に墨染の衣を着たきれいな尼さんが座っており、イロリと行灯が書き添えてある。品のいい絵でまた心ひかれる絵だ。これは有名な貞心尼との会見のところらしい。私は良寛さんの書や詩歌を愛すること人後に落ちないが、特にその貞心尼との贈答の歌について良寛をうらやましいと思いかつ尊敬する。くわしいことは忘れたが二人は相当年齢の違った仏道の師弟関係である。そして歌によって察するにその心の中には美しい愛情が通っていたらしい。良寛さんが死床にあるとき貞心尼さんがはるばると見舞に来た。そのとき良寛は来てくれることを待ちに待っていたがさて来てくれてしまえば別にいうこともないなどの意味の歌を作っている。この清潔なつつましやかな愛情交流の歌の奥を考えるとうらやましいと思う。

また近頃西川満氏が書いた小説を見ると佐渡へ流された日蓮聖人のところへ法華経の行者たる女人が出掛けていろいろと誠意をつくすところがある。日妙聖人である。詳細は知らぬが何か清い好意の通ずるところがあって心をひかれる。ところで私はというとどうも女性から敬遠されているらしい、座談会の相手に選ばれることがあっても窮屈だからとか、こわいからとか忌避されてしまう。どうも愉快でない。私は法律をやったがそれがこの一因かもしれぬ。六法全書から化けて出た平家ガニのようにむずかしい顔をしていると思われているのかもしれん。つまり徳望がないのであろう。私は昔有名だった金森通倫さんの子と間違えられるが、その通倫さんのお子さんに太郎と次郎とある。いつか次郎さんにお目にかかった時、私の名とくらべて、あなたは徳次郎、私は次郎、つまり徳がないところだけ違いますねと冗談をいわれたが、私の方が人徳がないのである。その点はよく自覚している。

昔穂積陳重の話をきいたとき、法律家はコールドヘッド、ウォームハートを持たねばならぬとのことであった。つまり冷静な頭と熱情的な心臓を持たねばならぬ。だが私にはそれができない。冷静であると公正になり、公正になると薄情になり、親しい者にも就職の世話をしないということになる。クールヘッド、コールドハート(冷静冷情)になってしまう。どうも生まれつきで私は公正だが薄情だと人に陳謝している。決してこれを好んでやってるのではなく、その正反対であるが運命的だとあきらめていて悲しい現実を承認している。

ところで図書館長となって数年のことだ。図書館は旧赤坂御所の一部である。立派な建物の中に座っているとよい心地どころか脚が曲ってしまうようで心細い。ある日訪客があった。引見すると四十五、六の奥さんで、田舎風ではあるが品位もある。ふろ敷包を一つ持って「山形の○○から来ました。まだ早いといわれているが考えあぐんで決心して来ました。子供は連れて来ましたが、まだ許しもないので玄関において来ました」という。地方語が多いしそれにインギン過ぎるからいろいろもどかしい話合いをしたが、要はこんな風だ。ある役人が山形地方へ行って、そこで良家のお嬢さんに子が出来た。身分違いで絶対秘密ということで、それは養女にやられた。さらに秘密性を高めるためにかさねて別の家に養女にやられた。その間のことは誰も知らない。ただ一人の人が中に立って事を知っている。そのかれんの女の子もだんだん成長した。父親をさがすのだが、中間の人は「それは絶対秘密だが、時が来たらお前をあわせてやる」という。いつあわせてもらえるかと問うと時期が来ない、待てという。歳月は走った、女の子には二人も子が出来た。だが面会の許しは来ない。その父親は今もとの赤坂御所の中にいるのだから、聞けばわかるとのことだ。そこで私がそのお父さんと推定されて、なつかしげにあいに来られたのである。ここまで話の筋がわかるのも容易なことではなかったが、とにかく聞いて見れば重大事だ。金森という心当りの人を考えてみても全く見当がつかぬ、ついにお別れしてしまった。二度も家をかえさせて秘密を保たんとしたことは用意周到であったが、まことに気に食わない、強く義憤を感じた。後で知ったところによると旧宮内省関係の人ではるか前に物故された人らしい。これが真に私と関係があったら、地獄へ行った時私はドライではなかったとエンマに威張れるのだがと思いつつ変に非人道的な刺激を感じた。だが私は正しくってよかったと思った。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 初出時は「桝田くにお」とあったが8月6日に訂正されているため、ここでは訂正後の記載とした

出典[編集]

日本経済新聞昭和33年(1958年)7月29日 - 8月14日

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