私の履歴書/砂田重政

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一、弁護士開業の頃[編集]

過去を語るのは老人の仕事だというのが僕の人生観である。

したがって僕は思い出話などをあまり好まない。いま求めに応じて昔話をつづることは、決して僕が老人の部類に入ったことを認める意味ではない。温故知新のことわざのように、七十年にわたる生涯-そのうち政治生活は四十数年に及ぶ-のうちから、現在ならびに将来の人にとって何か参考にでもなることをくんでいただければ幸いである。

僕は郷里が愛媛県の今治市で、貧乏士族の家に生まれた。子供のころはほんとうに食うや食わずの生活で芋ばかりの日もあった。そういう環境で育った。おやじは軍人で西南戦争で負傷して退役になっていた。そんな家庭にありがちな子だくさんで兄弟が六人もあり僕が長男だ。つとに青雲の志をたてたが上京の旅費がないので、仕方なく月給二円七十銭という役所の給仕になってその金を貯めて十八歳の時東京へ出た。それから苦学して中大法科の専門部を卒業、弁護士、判検事試験に及第して二十一歳で司法官になった。司法官試補になると同時に日露戦争で補充兵として召集され撫順戦に参加した。

しかし、たいへん、ひよわな軍人で、三里も行軍するとひっくりかえってしまうので、隊では「一番ずるいやつ」で有名だった。そのころは規則で補充兵は一等兵以上にあがれなかったものである。

戦争が終って召集解除になってからまた司法官試補になった。しばらくしてから丹後の宮津で弁護士を開業した。この時分から生活もようやく安定し、同地で結婚した。僕は見合いをしないで結婚してしまった。それというのが、郷里から縁談はあっても写真も履歴書も送ってこぬ。何も見せないで、これに決めたから帰郷して結婚せよといってきたのである。そんなわけで結婚式のときまで家内の顔も知らなかった。考えればへんな結婚だった。その時分僕は丹後に好きな女があった。嫁にきてから家内もそれを知ったが別に家庭争議などは起こらなかった。念のために断っておくが、その女はとうに死んでしまった。三木武吉君のようにハデではないが、若いときは年相応に遊びもしたのである。

宮津で弁護士を開いたのは、そこの銀行の整理を頼まれたからで、整理が終る間、宮津にいた。それが終ってから三十二のとき初めて神戸に出て弁護士を続けた。僕が政治に関係したのは宮津で弁護士をしている自分に国民党がはじめてできたころからだ。僕は国民党員として宮津で同党支部をつくり支部長になった。そこで代議士二人を当選させたが、なんでもない僕が支部長をやって二人出したときはうれしかった。それは大隅内閣のときである。僕が補欠選挙で国民党から立候補して当選したのは大正八年十月だった。僕の処女演説は翌年本会議でやった普通選挙の演説だ。その頃の鳩山君は前田米蔵らとともに政友会の幹事でいまの総務より下の副幹事長というところだった。鳩山君は大隅内閣のとき総理の足を引張ったとかで大変不評を買ったけれどもごく温厚な闘士のようだった。普選には反対していたが、とにかく政友会ではやはり若手の一人として将来を注目されていた。

二、かけ出し議員の頃[編集]

僕らは「かけ出し」だったが、三木君は憲政会におってヤジの名人としてかなり名を売っていた。奥繁三郎が議長で、奥議長のにが手が三木武吉だった。三木君のヤジがひどくなって議長が「三木君に退場を命じます」というと、三木君は守衛に外に挿出されながら、一声「議長」と叫ぶ。とたんに議長はつい「三木君なんですか」と返事をする。議長はいつも三木君にやりこめられているものだから、三木君の発言には返事をするのが習慣になっていたのだ。すかさず三木君は「おれは退場を命ぜられているが、発言を議長から許されているんだからもう一ぺんやらせい」というわけだ。これには守衛も手が出せない。

三木君はそういうことにかけては名人だった。また高橋是清(当時、蔵相)が海軍の問題で誰かの質問に本会議で「海軍は八年」といった途端に三木君が「だるまは九年」とまぜっ返した。“だるま”の異名で有目だった高橋さんは腹をかかえてしゃべらず、そのまま引込んでしまい、答弁なしだった。面白かったのはある郵便局長が金を使い込んだ問題で時の逓相の野田卯太郎が登壇「……まことに恐縮にたえません」といった。三木君すかさず「なぜ辞職しないか」とヤジった。すると九州人の逓相「恐縮と辞職とは違うタイ」と引込んだが、そのまま大笑いで片づいてしまった。そういう調子で三木君のヤジは非常にユーモアに富んでいた。しかし三木君は政務官になったころから翻然悟ったのか、ヤジをやめてしまった。浜口内閣の前からヤジは一さいやめ、東京市会を牛耳(ぎゅうじ)って、鳩山君などとは党派は違っていたが、東京市政の上では常に連絡してやっていた。

三木君は鳩山君の父和夫さんや鈴木喜三郎(元政友会総裁)らとは切っても切れない関係にあった。

大正十年十一月四日原敬が暗殺されたとき僕は東京にいたがあの人は議会での答弁ぶりからみても、どこからみてもするど過ぎるくらいするどかった。だから僕は犬養毅(木堂)を崇拝していたが、原敬が生きている間は犬飼さんは総理にはなれぬと思っていたくらいである。原敬暗殺の原因は普選に反対したためだったが、僕は前から原敬という人は畳の上では死ぬまいと思っていたが、やはりそうだった。国会の答弁を聞いていてもそうだが、中野正剛が一時間半にわたり質問演説をしたのをきいたことがある。その時、原敬なんというかと思ったら「中野君は演説がしたくてやったのだから答弁はいるまい」と、そういうカミソリで斬るような言いかたをする人だった。

そのころから犬養毅と尾崎咢堂は憲政の二本柱といわれたが、二人の仲は終始悪かった。革新倶楽部をつくったが、約二年か三年続いたその間終始一口もものをいわなかった。性格的に相容れないところがあったようだ。咢堂は演説に立つと人身攻撃までやる人だったが、木堂はふだんは皮肉をいったり、人の悪口をいうが、一たん演壇に立ったら絶対に人身攻撃はしない人だった。そういうところが二人の性格を現わしている。

三、昭和の初頭[編集]

大正十二年の大震災のときは私は東京にいた。大地震の後四日間ばかりいて九月四日に東京をたって神戸へ帰った。ちょうど山本権兵衛内閣ができるときで、そのとき犬養さんが入閣して私も初めて与党というものになった。しかし与党といっても半与党みたいなもので犬養さん一人が入閣しただけだった。そのころの僕は陣笠だったが終始犬養さんと一緒で、犬養さんの最後までみている。

犬養という人は軍部とは全く相容れない、どこまでも軍部とは対立抗争を続けなければならないという主張だった。一例としてそのころ東拓総裁を決めるのに軍部は朝鮮総督をしていた山梨半造を採用しろといろいろいってきた。犬養さんはそういうものではない。政友会のために尽した高山という立派な人物がいる。党のために身命を投げうって尽した人をさきに採用すべきで軍人の古手などを入れてはいけないと頑張った。荒木貞夫さん(当時陸軍中将)は「そんなことをいうとあなたを殺すやつが出てきますよ」といった。犬養さんは「よろしい。おれは殺されてもおれの信念は貫く」といって山梨半造を退けて高山を東拓の総裁にした。そうして青年将校にねらわれて五・一五事件で殺された。

浜口雄幸は五・一五の前だったが、狙撃されて入院中、むりやりにいまの鳩山さんが浜口さんを議会に引張り出したから、浜口さんの死期を早めたという人があったが、決して鳩山君が引張ってきたわけではない。一応、鳩山さんのためにここで釈明しておく。そのときは鳩山さんは院内総務くらいして閣僚級だったけれども、もっとえらい人がたくさんおり、その人たちの意向が党の方針を左右していた。僕はその時分はもっぱら勉強もしており、井上(準之助)蔵相をきりきり舞させたこともある。幹事長はそれからのちだった。

僕は田中内閣で農林参与官、犬養内閣のときは農林政務次官だった。たしか浜口内閣のときと思うがいまの河野一郎君(農相)はそのころ新聞記者だった。ぼくが河野君をよく知るようになったのは予算委員会で六時間半ぶっ続けで質問をやったときだ。質問を終ったときは足が棒のようになってイスに腰掛けられなかった。すると河野君がきて「お疲れだったでしょう」と言いながら僕の足をもみほぐしてくれた。彼はマラソンの選手だったのでこういうときの心得があったそうだ。それから犬養内閣ができたときに河野君は農相秘書官になったが、初陣の衆院選は胎中楠右衛門がいたため、非公認で出た。そこで僕が選挙区を全部遊説して回った。幸い河野君は当選した。いまでもあの通りだが、新聞記者時代はもっと鼻っ柱が強かった。組閣のときなどでも犬養邸なんかで一人で暴れ回り、他社の連中もびっくりするほどだった。そんな関係でとてもいい男だと思っていた。またときにはあんまり勝手なことをいうから若干ブレーキをかけて僕がいろいろいうと「そんなにしからないでもいいじゃないか」という。とにかく新聞記者の時代から非常に迫力をもっていた。

四、幹事長のころ[編集]

僕が幹事長になったのは鈴木喜三郎さんが総裁のときで、もうそのころは政党勢力の一番ふるわないときだった。財界人で僕が幹事長在職中金をくれたのは王子製紙の高島と、山下太郎の二人でお困りだろうからといわれて一万円ずつもらっただけだった。どうしても一ヶ月に六万円から十万円くらいかかる。それを僕と中島知久平とで半分ずつ出し合った。そのほか前田君と島田君、それから鳩山君とが二千円ずつ毎月出した。その金で党を運営していた。そのとき僕は高周波の株を売って少しは金があった財界人も金は出してくれないときだし苦労をした。三井、三菱は選挙のときだけで、ふだんは全然寄付などはしなかった。

戦後はそういうことはないが、その時分は政党の威力が弱まっているときで金を出して政党を育てていこうということがみんなの頭になかった。政友会の分裂は僕が幹事長のときで僕は鳩山派だったが、そのときに「代行」というものができた。鈴木喜三郎総裁は病気で動けない。そこで中島知久平、前田米蔵、島田俊雄、鳩山一郎の四人が代行になった。しかし鈴木総裁はおれは病気だから後任総裁を決めてくれというので、総裁を決めることになった。代行委員は四人できたが、中島は前田を推す、前田は中島を推すというわけで鳩山をおすものが誰もいない。そんなわけにはいかないと僕は独立した鳩山をかついで一人で立向かったわけだ。結果は負けたわけではないが両方とも辞めて久原(房之助)さんが党を預ることになった。

「漁夫の利」でもなかったけれどもとにかく一応預った。久原総裁が決まったときは僕も在職一ヵ年の幹事長を辞めて岡田忠彦が後任幹事長になってからだ。このときの総裁争いは大騒動だったが、そのときに僕についた院外団というのが死んだ中助松、大野伴睦らだった。林、益谷、大野らは似たようなものだったが、その自分の益谷は中島派で、鳩山派ではなかった。とくに印象に残ったのは中島知久平という人だ。この人はいい人なんだが金だけで議員が使えるものだという観念が抜けなかった。政治というものは金だけでやれるものではないというので、僕らは純理派を糾合(きゅうごう)して立った。僕は昔から自分の子分をこしらえることはしないが、純理派の人々を糾合して鳩山派をつくった。そのときは三木君などは民政党の方にいってしまっていなかった。だから相談相手はいくらもなかった。陰ながら援助してくれたのが松野鶴平、安藤正純、この人たちがいくらか謀議に乗ってくれた。そのほかいま生きている人では星島二郎、植原悦二郎らが僕らと同じ行動だった。代行委員というようなものは鳩山さんはこんどで二度目だ。だから僕は邪道だと主張している。そんなものが長く続いたらまたてこずるところだった。岡田幹事長になってからいわゆる新体制というか大政翼賛会ができた。いよいよ政党を解消する時期になったが、僕は絶対反対だった。しかしこれも時の勢いで仕方がなく大政翼賛会ができてしまった。さすがに政党を解消するときは感無量だった。

五、軍政顧問のころ[編集]

昭和十七年一月三十日に代議士を辞任して親任官待遇の軍政顧問という名目でシンガポールにいくことになり、結局シンガポールには三年三ヶ月もいた。最初のうちは僕が宇垣内閣の組閣本部に入っていたからあいつは宇垣の子分だ、軍縮をやろうという奴だというふうにみられていた。そういうわけで軍の幹部連中は反対した。けれども山下奉文とか寺内寿一らは僕を支持した。シンガポールに行ってから僕はスマトラでもマレーでも所得税は全部免除してやったり、いろいろ住民のために努力した。それが非常に効果があった。いまでもスマトラやマレーにいけば原住民は僕の行動に対して感激していると思う。

山下奉文とはほとんど毎日のように会っていた。そのため山下裁判のときは証人としてマニラに引張り出された。山下は気の毒な人だ。彼はマレーで戦線を打切れと主張してた。「ビルマにいくとか、インド攻略をやっておれば、結局蒋介石を追いかけ回して雲南に入ってしまったように何年たっても戦争は終らない。結局は敗戦を招くもとだ速やかに戦争の跡始末をしろ。早くやめてしまえ」という論者だったから東条英機とはどうしても意見が一致しない。その問題で僕は一ぺん帰京したことがある。陛下に申上げようとしたところが、それを東条が先に知って列立拝謁となった。なんにもものをいわさないでさがらせてしまったのだ。

ともかく山下は全く東条とは意見が一致しないからあれだけのマレー作戦をやってもとうとう陛下に奏上する機会がなかった。東条が内地に帰させなかったのだ。シンガポールから満州に直接行けという命令で満州に追いやってしまった。

僕は終戦の直前七月に帰ってきたが、そのときは阿南惟幾が陸相だった。阿南がシンガポールにきたとき僕はもう三年も勤めたのだからいいかげんに内地へ帰してくれといった。ところが阿南が「あなたがいまそういうことをいわれると司政官全部が帰してくれと言い出すに違いないからここにおってくれ」といって一向に受付けない。受付けないから参謀長に「ではいざというときに一発でおれをやってくれるか」といった。参謀長は引受けましたというからそれならおろうというわけでおった。

しかし阿南将軍は内地へ帰ってから陸相になったので、第一線の参謀連中の心持がききたかったのだろう。即時飛行機に乗って帰れという電報がきた。僕も前線には戦意なんかはありゃしないということを阿南陸相に話した。八月十三日に僕を主賓にして阿南が陸軍省の寮かなんかで参謀本部の幕僚たちも一緒でお別れの宴会を開いてくれた阿南はその晩、腹を切って死んだ。本当に阿南は日本的な侍だった。終戦とすべきときとなりとして死ぬ前にその準備を終ってから腹を切った。一説には陛下の袖をつかまえて、もっと戦争をやってくれといったという説もあるがそれはウソだ。八月十五日に聞いたラジオは全くなんともいえない悲壮な気持だった。

終戦になってから僕は軽井沢に住んだ。そこへマッカーサー司令部から呼び出しがきた。そのときは戦犯として引張られるものと思って防寒服を着て出てきた。十月の十五日だった。ところが「戦犯じゃありません、あなたはフィリピンに山下奉文の証人にいってもらいたい」ということであった。早速、夏服と着替えて出掛けた。マッカーサー司令部では「あなたは南方におられても独立運動の方の世話をなさっておったから、戦犯にはかかりはしません」といっていた。結局それっきりだった。

六、追放解除・政界復帰[編集]

戦後、安藤正純、芦田均らが政党を結成しようというとき、僕は追放を受けて軽井沢に引っ込んでいた。鳩山さんも元気で牛のエサを採りにいったりなんかしていたが、僕の方が大部老いこんでいた。

追放解除になったのは二十六年五月だった。追放中はずっと軽井沢にいたが、解除になると同時に外地で絞首刑になった人たちや南方で戦死した人たちの慰霊祭を築地の本願寺でやった。

ところがそのことでマ司令部から横ヤリが出た。そのとき僕はマッカーサー司令部へどなり込んだ。僕ら追放解除になった者はいいとして戦争で死んだ者のお祭りもできない、花輪をやることもできないというのはどういうわけなのだ。吉田総理はサンフランシスコに赴く途中、米人無名戦士の墓参りをしているではないか。米人の墓参りはよいが日本のはだめだという、へんぱなことをしていて日本の統治ができるつもりかといってどなりこんだ。そうしたらすぐに戦没者に花輪を献じても差支えないという命令が出た。そのころ吉田総理はサンフランシスコへいっており、益谷が代理をやっていたので益谷のところへいって花輪をくれといった。厚相は橋本竜伍だったが、橋本は喜んで花輪を出しますというわけで盛大な慰霊祭を行った。参列者六千何百人、終戦後初めての慰霊祭だった。

追放解除後代議士に当選してからステーション・ホテルに集まって反吉田、鳩山支持の旗を掲げたのは、いままでの関係が鳩山君とは深いからで、鳩山君を前の政友会の総裁にしようと思ったときの因縁もあるからだ。因縁があるといっても鳩山君から金一文もらったわけでなく、選挙の応援を受けたわけでもなんでもないのだが、僕は吉田という人はもとからきらいだったのだ。

僕が中国で彼と会ったとき、彼は中国人はあまり好きじゃあないといっていた。吉田は人と話をするのに葉巻をくわえて横を向いてこっちの顔をみないで話をするクセがある。それで私は、こんなやつとは話はできん、帰る、といって帰ってきたことがある。それ以来どうも虫が好かない。その後昭和二十七年の暮目黒の外相官舎へいって、林幹事長、益谷総務会長を辞めさせろとねじこんだことがある。あのときは僕はまだ議員になったものの長い間の空白があって、出たばかりだから林も益谷もまだ後輩のような気がしていた。だからあの人たちを別に悪い人たちではないと思っていたし、自分の弟たちがやっていることを辞めさすというよりも、当時除名されていた河野と石橋(通産相)の復党を認め、いままでのいきさつは一切水に流して元に戻そうというのが主たる目的だった。それを安藤と僕と三木とが民同派を代表し吉田に会いたいといってやったら会わんといってきた。それから総理官舎に飛込んでいって足腰の立たないようにひっぱたいてやろうと思って意気込んでいったところがおらぬ。そこから出てきて緒方に会ったから「おれはこんど廊下であろうと議場の中であろうと、出会い次第、なぐりつけてやる。当選九回の者が三人も寄って会いたいというのに、党人として、党の総裁として会わぬというやつは足腰立たないようにしてやる」といっておいた。そうしたらあくる日会うといってきた。三木のやつが悪いやつで僕を吉田の隣に座らせ、砂田君いってくれというわけだ。そこで僕は「河野と石橋は悪いことがあったでしょうが、この際、すべて水に流してきれいに復党を許してもらいたい」といった。すると吉田は「承知しました」と、あっけなくいうので、それですんだ。僕はそれで片がついたと思った。二人の除名を取消したら大半の目的を達したと思っていたが、それだけでは終らなかったのだ。林と益谷をやめさせて僕に総務会長になれという人があった。自分の弟のような人たちを辞めさせて、その後ガマに座り込むことなんて、おれにはそういうことはできないといって断ったのである。そういうことであの二人を辞めさせることには熱心でなかった。ところが三木は何かにとりつかれたように熱心だった。

出典[編集]

日本経済新聞昭和31年(1956年)5月30日 - 6月3日、6月5日

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