私の履歴書/五島慶太

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一、生い立ち[編集]

私の履歴書は七十四歳の今日まで、とにかく「強盗慶太」の異名を頂戴するくらいであったから、事業のための私であり、事業あってこその生涯で、いわゆる人間的な匂いを持った履歴書といえないかもしれないが、求めに応じて概略を書きつづって見よう。

私は明治十五年四月十八日、ちょうど釈迦(しゃか)降誕の日の十日後、信州上田から三里ほど山の中に入った、詳しくいうと長野県小県郡青木村という片田舎で、小林菊右衛門という水呑百姓の二男として生れた。兄は総領の甚六というか、非常におとなしい男で、家業の百姓を継ぎ、後に村長、県議会議員等をやり、平凡な一生を草深い片田舎で終わったが、私は世の二男坊の通例に違わず、負けん気の暴れん坊で、村の大事な鎮守の拝殿に大きな落書をしたり、同年輩の友人の頭に鍬(くわ)を打込んで大怪我をさせたりしたこともあった。

この青木村の小学校に入学したのが明治二十二年で、ここで四年の過程を終えた後、隣村の浦里小学校に転校し高等二年を卒業したのち上田中学校に入学した。浦里小学校時代に日清戦争が突発したが、この山奥の子供たちにもあわただしい空気はなまなましく伝えられて、子供なりに騒いだものだ。

前に述べたように、私の家は水呑百姓とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家であった。しかし農家の家計というのは、当時の村一番の資産家であっても、実際の現金収入はせいぜい四、五百円しかないので、その中から税金を納め、一家の衣食をまかなえば、残るところは四、五十円に過ぎなかった。それに父が製糸事業に手を出して失敗したりしたので、いっそう家計に余裕がなかった。従って私は普通なら小学校を出て、家業を手伝うか、丁稚(でっち)小僧にでも出されるところであったが、勉学の志やみ難く、父に特別に頼んで上田中学に入学させてもらったのである。

家から上田中学校まではまる三里の山道であったが、雨が降っても雪が降っても、その間を毎日歩いたのであるから、なかなか大変であった。しかし人に遅れをとるまいという気と、苦しい家計の中から特に入学させてもらったということを考えると、この三里の道のりも大した苦労ともならず、ただの一日も学校を休んだということはなかった。

当時、長野県には県立中学というのは松本中学校一つしかなく、そのかわり、長野、上田、諏訪、飯田の四ヶ所に支校があり、三年まではこの支校で勉強できたのである。そこで明治三十一年、十六歳のときだが上田中学の三年を終えると、松本の知人の家に下宿し、そこから本校である松本中学校に通い、四年、五年を終了したのである。

中学を終えると、さらに上級学校での修学がしたくなったが、家の経済状態を考えると、もうそれ以上のことは父にも頼むわけには行かず、ひとまず恩師小林直次郎氏の紹介で郷里の青木小学校で代用教員をつとめることにした。当時のいなかの百姓の息子などには先生になるというようなことが、唯一の目標だったのであるが、中学校を出て見ると、だんだん世の中への視野も広くなって、そんなことではいけないというので、どうしても上級学校へ進学の志を深くしたのである。そのため代用教員をして多少の金を貯めながら、機会あらばと、その準備をしようと思ったのである。

二、父母のこと[編集]

私の父は菊右衛門、母は寿ゑと言い、二人とも特別の教育はなく、とくに母は無学で読み書きもできなかったが、頭は非常によく、物を覚えることの早いことでは村一番といわれていた。そして躾(しつけ)の厳しいことも人一倍であった。だから父母の薫陶(くんとう)は私にとって終生忘れられないものであり、私の今日あるは一つに父母のお蔭であるといっても過言ではない。

とくに私の父は非常な法華経の信者で、いわば南無妙法蓮華経の凝りかたまりであった。朝起きたとき、夜寝る前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百辺から一千辺ほども唱えていた。当時、日蓮の曼荼羅(まんだら)の前に加藤清正公の木像がかざってあったことを記憶しているが、その前で朝夕唱えていた。

それが終わらなければ朝飯は食えないし、夜はそれが済まなければ寝られないのである。そういう中に育ったものであるから、両親の仏教に対する深い信仰の影響というものを、子供ながらに受け、またそういう両親の話なり、躾なりによって、南無妙法蓮華経と唱えることによって、いかなる苦痛でも、いかなり困難でもこれに打ちかつという確信を自然と植えつけられたものと思う。

南無妙法蓮華経という言葉は法華経の言葉である。法華経というものは二十八巻あって、釈迦の最後の説法である。大乗教の最後の説法は法華経だ。法華経の第二十五巻目がいわゆる観音普門品といって、この観音経ははじめは散文である。大体お経というものは普通は経文がはじめにあって、最後に偈といって、五言絶句、七言絶句というような韻文(いんぶん)によって同一趣旨が繰返されているのである。この観音経の前文はあまり読まなかったが、お題目を唱えて最後の韻文のところを始終父が繰返し読んでいたことを今でも覚えている。

このように信仰深い両親であったから、後に私が東京に修行に出て一ヶ月に一度くらい手紙を出すと、父母は決してそれをすぐには封切らない。日吉神社というのが村の鎮守だが、私の手紙を持ってそこの社殿に上げ、私の健康と出世と、私の無事息災を祈って、神に感謝して初めて封を切って見るのである。また私がたまたま郷里に父母のご機嫌を伺いに帰省したときも、父母は私にすぐには物をいわない。私の顔を見てから、手を合わせて、よく無事でここまで過ごさせていただいて有難い、どうかこの子供がこれからも健康でえらくなるようにと拝んで南無妙法蓮華経と祈ってからはじめて口を開いて私と話をしたものである。

さきにいったように私の家は上田の在で、汽車に乗るまで三里余ある。人力車に乗って上田の駅まで来て汽車に乗るのであるが、その時にも父母は門を出て、私の車が見えなくなるまで私を見て拝んでいてくれた。

私は、こういう父母の下で、心の白紙の時代に感化を受けたために、南無妙法蓮華経というお題目を唱えることによって、いかなる苦痛にも打ちかつことができるという確信を心の底に持ち、「空」という宗教的信念を持つに至ったのである。孔子の仁でも、釈迦の慈悲、耶蘇愛でも、皆この「空」-自己を空しくして他人のために尽くすということである。私はこの「空」をもってこの七十年間を過ごして来たが、父母が私に与えた感化というものは実に偉大なものだと、今日私は父母に対して非常に感謝している。

三、帝大入学まで[編集]

私は松本中学を卒業して、さてこれからどこに進むべきかと考えた。当時東京の学生生活は下宿料を十円出せば上等の方だったころなので月二十円あれば学問していくことができた。しかし家計はこの二十円すら許されない事情であったので、やむを得ず前述の通り、一まず村の小学校の代用教員になり、そしてその年の暑中休暇を利用して-たしか明治三十四年の七月二十一日と記憶しているが、笈(きゅう)を負うて上京し、本郷は湯島天神町の下宿に落付いた。これは前松江高等学校校長菰田君の世話であった。ちょうどその日下宿に着いた途端「ゴーガイ|ゴーガイ」という呼び声が聞えるが、いなか出の私には一体なんのことかさっぱり分からない。が、その号外というものを手に取って見ると、それは星亨が伊庭想太郎[1]のために市会議事堂において暗殺された事件を知らせるものであった。とにかく上京最初の日のことであったので非常に深い感動を受けた。

それから一週間ほどして、今の一橋大学の前身である一ツ橋高等商業学校の入学試験を受けたところ、英語で失敗して落ちてしまった。そこで当時、九段の上に池があったが、そこのベンチに腰をかけて一日中考えた挙句、しょうがないので再び青木村へ帰り代用教員を続けていた矢先、翌年に東京高等師範学校の制と募集が真っ先にあった。官費支給であったから学費の点でも助かると思って早速これに応じたところ、幸いにも入学できた。そこで先生がもしいやになったら、また他の仕事をしてもいいじゃないかというので代用教員を辞して高等師範の英文科に入った。校長は嘉納治五郎先生で、一週間一回嘉納先生から倫理の講義を聞いたが、先生は柔道の格好で太い腕節を出して「なあに」という精神が一番必要だ、どんなことにぶつかっても「なあに、このくらいのこと」というように始終考えろということをいわれたが、先生の「なあに」精神は今でもハッキリ頭に残っている。

高等師範を卒業すると、私は四日市の市立商業学校に英語教師として赴任した。元来、私は教育事業そのものには十分興味をもっていたのであるが、一度学校に赴任して見ると、校長はじめ同僚がいかにも低調で、バカに見えて、とうていともに仕事をして行くに足りない者ばかりだった。そこで、これではいかん、一つ最高学府の大学を出て、世の中と勝負してみてやろう、こう決心してその翌年の四月か五月だったと思うが、四日市の商業学校をやめて上京しその年の九月に帝大の政治学科の専科に入学し、十月に第一高等学校の卒業試験を受けた。この試験はなかなか大変で、機械体操で大いに苦しんだことをいまだに覚えている。しかし幸いにパスしたので、直ちに法科大学の本科に転じた。しかしたちまち学費に窮してしまった。仕方なく嘉納先生にお願いしたところ、冨井政章男爵の息子さんの周氏の家庭教師の口を捜してくれた。ところがそれも束の間で周氏が第二高等学校に入学すると同時に、冨井氏方に居候するわけにも行かず、冨井氏に話していただいて加藤高明氏の息子の厚太郎氏の家庭教師として加藤邸に同居することを得、ようやく糊口の心配だけはなくなった。このころ、精力のハケ口を求めて、吉原とか根岸の菊坂の下の女郎屋とか、浅草の六区-十二階下の女郎屋などに、ときどき出入りした。そのころはたしか一円くらいだったと思う。書生の分際ながら、これだけはどうしようもなかったのである。

四、鉄道院時代[編集]

冨井政章、加藤高明の二人のお陰で、私はようやく明治四十四年、東大法科を卒業した。途中で道草を食ったので、普通の人より四年遅れて、満二十九歳であった。同期には重光葵、青田均、石坂泰三、正力松太郎、小笠原三九郎、松本学、木村篤太郎、三宅正太郎、河上弘一、牧野良三、田辺加多丸、塚本虎二、篠原三千郎などがいた。

大学を卒業した年に文官試験に合格し、加藤高明の斡旋(あっせん)で農商務省に入った。工場法というものが施行されるから、工場監督官に採用してくれるという。ところが山本権兵衛内閣になると、すべてが緊縮政策に変わってしまい、行政整理のために、私どもが期待していた工場法の施行は三年間延期ということになった。これでは今から三年間本官にもなれない、属官でいてもしょうがないから、鉄道院に変れといわれた。大正二年のことである。初代鉄道大臣床次竹二郎氏に加藤氏が電話をかけてくれ、その時分の人事課長中川正左氏に会って、鉄道院に入った。それから九年間鉄道院にいたので、その前の農商務省の一年を加えて、都合十年間役人をやったわけだ。

この鉄道院に変る前年、明治四十五年二月二十四日、工学博士古市公威の仲人で、同じく工学博士であった久米民之助の長女五島万千代と結婚し、小林から五島に改姓した。私が三十歳の時のことである。五島というのは久米民之助の母方の姓で、万千代は私と結婚して五島という廃絶していた家を再興したのである。そういう条件つきの結婚であったのである。

鉄道院では中西清一という人が文書課長で、その下に一月ばかりおったが、同氏が監督局長になったので私も一緒に監督局に移り、やがて総務課の副参事になって、はじめて高等官となった。監督局では佐竹三吾が総務課長、村井次郎吉が業務課長、その下に後に次官をした喜安健次郎がおった。その後、原内閣が成立して野田大塊氏が逓信大臣になった時のことであるが、このようにいつまでも局長、課長達が居すわっていては、後進者の道が開けようがないというので、喜安と私とが相談し、岡野敬次郎氏、古市公威らをわずらわし、遂に中西氏を逓信次官に、佐竹氏が監督局長、喜安が業務課長、私が総務課長にそれぞれ就任するということに成功した。ところが、私は当時高等官七等であったので、課長心得ということになった。私はこの心得がどうも気に食わない。そこで、今でも監督局の古い人々は知っていると思うが、稟議書に「課長心得」とあるのを、私はいちいち認印をおして「心得」の二字を消して上に回した。こうすれば「心得」が気に入らないということが、次官あたりに分るであろうと思ってやったことであるがはたして石丸重美次官が気がついて、それではというので「心得」を消してくれたので本当の課長になれた。

こうして官吏生活を送ること九年間、その間課長を一年半ばかりやって、後に述べるように武蔵電気鉄道の常務に就任するため、大正九年五月十一日鉄道院を辞めたのであるが、そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった。

五、目蒲電鉄創立のころ[編集]

そのころ郷誠之助男爵が、のちの東横電鉄の前身である武蔵電気鉄道の経営に奔走しておられた。この会社は明治四十三年に創立された東京日比谷から横浜平沼橋に至る免許をもっていたが、資金が集まらないので建設ができず、悩みに悩んでおった。それを大正九年に郷氏が引受けて社長になったのであるが、建設のためにどうしても専門の常務が欲しいというので、石丸鉄道次官のところへ頼みに行ったところ、石丸次官は今監督局の総務課長に五島慶太という男がいる。おもしろい奴で、課長心得が気に入らないで、いつも心得という字を消しては判を押してくる。それはおもしろい、その人を欲しいということになり、ちょうど私も役人生活にいや気がさしていたときでもあり、渡りに舟と、武蔵電鉄の常務取締役に就任した。

たまたまそのころ渋沢栄一翁が欧米視察から帰朝後、健康的な田園都市住宅をつくろうと、田園調布と洗足に四十五万坪の土地を買って、そこへ鉄道を敷こうということになり、目黒から多摩川のふちまでの間に鉄道敷設の免許を得て荏原電気鉄道を創立されたが、素人ばかりでさっぱりうまくいかない。

そこで渋沢翁は大株主である第一生命の矢野恒太氏に相談したところ、矢野さんも素人のことなので困っていると、同じ第一生命の和田豊治氏が「小林一三がよいだろう」と言い出し、矢野さんはわざわざ下阪して小林一三氏に面会した。小林氏は「私は今忙しいから」ということで私を推薦し、その一両日後小林氏の紹介で私は初めて日本橋クラブで矢野さんに面会し、荏原電鉄の専務に就任した。このとき小林氏は「君はいま郷さんと武蔵電鉄をやろうとしているが、これはなかなか小さな金ではできないぞ。それよりも荏原電鉄をさきに建設し、田園都市計画を実施して四十五万坪の土地を売ってしまえばみんな金になるのだから、まずこれをさきにやれ。そして成功したらその金で武蔵電鉄をやればよいではないか」というので、私もなるほどと思い、決心したのである。そして名前を目黒鎌田電鉄と改めて建設に着手した。この目蒲電鉄がのちに昭和十四年東横電鉄を合併して、今の東京急行の母体となった会社である。

この目蒲電鉄は大正十二年十一月に目黒、蒲田間全線を開通したが、時たまたま関東大震災で都心を焼け出された人が続々と沿線に移住して来たため、たちまちにして業績は挙がり、その金で私は武蔵電鉄の株式過半数を買収して傘下(さんか)に収めるとともに、名称を東京横浜電鉄と改めて建設に着手し、昭和七年三月ついに渋谷、桜木町間を開通せしめたのである。

しかしこの間、昭和初期の財界不況に遭遇し、私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。時には社員の給与にも困窮し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、皆断られて小雨の降る日比谷公園を渋沢秀雄君とションボリ歩いたこともあった。松の枝が皆首つり用に見えて仕方がなかった。しかし今にして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった。そのときに私は「予算即決算主義」というものを確立して、これをキップ切りにまで徹底させた。私は今でもこれを事業経営の哲学としているが、東横電鉄などもこの間を苦心惨胆して持ちこたえて来たればこそ、今日の盛大をみることができたのである。

六、富井、加藤の二恩人[編集]

さて前述のように、私は富井政章、加藤高明両氏のお陰で大学を卒業することができたのであるが、私がこの二人からうけたものは物質的にはもちろんのこと、精神的にも実は大きいものがあった。

富井という人はフランス育ちの民法学者で、富井さんに会ったらどんな人でも頭が下がるというくらいの人格者であった。男爵、法学博士、樞密顧問官と、人臣としては相当の地位にあったが財産としては文字通り一銭の余裕もなかった。官吏が国家からもらう俸給で生活しておれば当然のことだが、これ全く同氏の人格高潔の現れであった。この人から受けた感化は、非常に用意周到、懇切丁寧ということであった。富井男爵は昭和十年九月に亡くなったが、その病床にある四十余日間、私は一日も欠かさず病床を見舞い、遺族が政府から三万円の扶助料をもらった時、私はこれを銀行預金などにしておくのは金利が安く不利益であるから、当時一割配当をしていた目蒲電鉄の株に投資することをすすめた。その代り配当が一割を割るようなことがあれば、差額だけは私が負担して必ず一割に回して差上げるという一札を入れて、遺族に目蒲電鉄の株を世話したことがある。

一方、加藤高明氏から受けた感化というものは倣岸(ごうがん)不屈ということである。加藤氏は英国大使としてロンドンに行ったが、間もなく引戻されて西園寺内閣の外務大臣になった。そして鉄道国有に反対して大臣をやめたくらいだから、実に倣岸不屈なワンマンで、そしてみずから「剛堂」という号をもって、人の意見等は少しも聞かないようであった。農商務大臣の大浦兼武も、警視総監であった伊沢多喜男でさえも、彼の前に出ては巡査が警視総監の前に出たようなものであった。だからそれから受けた感化というものは非常に大きい。

思うに加藤氏は外国教育をかなり大きく受けているから、非常に倣岸不屈で個人主義だ。親分ハダの所はちっともない。彼が本当にキリスト教的な宗教心を持っていたら、もっと心の中に温か味とか親切心が生れたであろう。だから政党総裁としては成功しなかった。苦節十年という言葉は彼のために出来たようなものだ。民政党の総裁になって十年間元老にお辞儀一つしたことがない。大隈候もかなり支持していたが、元老が彼に尻を向けているので、政権が彼の所へ転がって来ない。党員はだんだん減ってくる。若槻礼次郎、下岡忠治も逃げた。最後までくっついていたのが浜口雄幸だ。それでも彼は平然としていた。そこは偉い人だと思う。自分の主義を徹頭徹尾通したのだから、考えようによっては偉い人だった。

大正十五年一月加藤氏は亡くなった。その時、ちょうど、東横線随一の難工事であった高島山トンネルの一部が陥没(かんぼつ)して非常な騒動の真っただ中であったが、加藤氏が危篤だから直ぐ来いという使いがあり、私は取るものも取りあえず麹町下二番町の加藤邸に駆けつけたが、すでにこと切れていて、死顔にあっただけだった。

考えて見ると、本当に私に親切に、人間はかくあるべきだと教えてくれたのは富井さんだけで、私に感化を与えた日蓮宗も強い教えだし、嘉納治五郎、加藤高明、豊川良平、みんな強い一方の人たちだった。こういう人たちの教えを受けたものだから、五島は実に傲慢だとか、人のいうことを聞かないとか、強いとか、まるで上野毛天皇だとか、いろいろなことを世間から評判されることになったのだと思う。

七、市ヶ谷未決ぐらし[編集]

話は飛躍するが、昭和九年十月、私が五十二歳のときだが東京市長の選挙があり、牛塚虎太郎が市長に選ばれた。ところがその秋になって東京府会の粛正が行われ、府会の朝倉虎次郎、大神田軍次、多摩川水力社長の中島守利らがそろって市ヶ谷刑務所に繋がれることになり、約三年間にわたる大疑獄事件となったのであるが、そのうち牛塚虎太郎の選挙資金を目蒲電鉄が出したという投書があって、会社の家宅捜索があり、帳簿一切を警視庁に押収された。たまたま、当時、池上電鉄を買収する際、川崎財閥の代表川崎肇に手付金として小切手で十万円出したのだが、これが市長選挙に使われたという嫌疑で、私と支配人の松浦田太郎が市ヶ谷に引致された。結局、第一審では有罪の判決を受けたが、逆に第二審では無罪となり、それに対して検事控訴をうけ大審院に上告されたが、上告棄却となって無罪が証明されたのである。

しかしこの六ヶ月間の獄中生活の苦悩は、おそらく経験者でなければその心境を推察することは不可能であろう。私はこのときが人間としての最低生活であった。

だが、こういうときこそ人間の日ごろの訓練とか修養とかがハッキリ出てくるものである。胆力もあり、肝もすわった人間でなかったら、あるいは悶死(もんし)するようになるかもしれない。その点では私は宗教的信念をもっていた。抜くべからざる自信である。それが物をいってくると、私はむしろ健康もよくなり、ふとったくらいである。

この生活を通じて得た私の最大の教訓は、人間は知と行だけではダメである。そこには必ずだれにも負けないという信念が必要だということである。それには信仰で人間の意志というものを絶えず鍛錬していく必要がある。事業で成功するにしても、利殖するにも、不可欠なものは信念である。

とにかく一日三度の食事以外にはすることもないので、読書三昧(さんまい)で過ごした。菜根譚(さいこんたん)のようなしちむずかしい本も何回も繰返して熟読しているうちに、大体理解できるようになり、これは後に実業之日本社から「ポケット菜根譚」として注釈付で発刊した。

私の弁護士は今村力三郎、牧野良三の二人であったが私が無罪放免となるや、先輩、友人および会社の連中が、私のために上野精養軒で盛大な雪冤(せつえん)会を開いてくれた。会場につくとすでに三百人近くが集まり、だれよりも発起人総代として真先きに根津嘉一郎(先代)が現れて手を取るように迎えてくれた。利光鶴松、今村力三郎、大河内正敏らの顔も見えた。私は、昇、進の二人の子供も後学のためと同伴したが、演壇に立った私の声はふるえ、眼鏡も曇りがちであった。

ところがこれと前後して東横電鉄では、私のために慰謝金として株主総会の決議により五万円を贈呈してくれたのであるが私としてはこの金をもらうわけにはいかず、ひとつこれを教育事業に使って見ようと思い、この五万円に私財十二万円を加えて十七万円の金で東横女子商業学校を設立した。前述のように私は元来教育事業というものには情熱をもっていたのであるがこの女子商業学校が、後に財団法人東横学園となり、現在の学校法人五島育英会として幼稚園から大学までの総合教育機関にまで発展して来たことを思うと、何かの因縁があるような気がして感慨ひとしおである。

八、三越の乗取り失敗[編集]

私は昭和九年に、沿線の人達に「良品を廉価に」提供する目的で東横百貨店を渋谷につくり、また最近は老舗(しにせ)「白木屋」を傘下(さんか)に収めるに至ったが、昭和十三年の春、「三越」を乗取ろうとして、だいぶ世間から騒がれたことがある。そのいきさつはこうである。

もと三井銀行に前山久吉という人がいた。この人は玉川電鉄の株を私にはじめて譲ってくれた男だが、その前山は死ぬ前に持っていた電鉄株をみんな譲ってくれた。それで私は玉川電鉄をとり、京浜電鉄をとったのである。それだけで時分は電車以外に手を出すまいと思っていたところが、前山が死んだ後に鈴木威という男が、前山の持っていた三越の株は要らないかと言って来た。前山は三越の取締役でもあった。私は三越の株なんか買ってもしようがないと思ったが、幸い東横百貨店を経営しているから、それでは三越と東横とを合併して、東横を三越の渋谷支店にしてみたらどうだろう。こう考えて株を買った。十万株であった。

ところが三越というのは慶応閥の牙城で、慶応閥の先輩がまず三井銀行の今井喜三郎氏に泣きついた。そうすると三井銀行は私に融資しなくなった。また慶応閥の親方の加藤武男氏-今度の白木屋問題でも大分お世話になったが-にも泣きついていたので、三菱銀行も私に融資しなくなった。私に融資すれば三越を結局とられてしまう。「慶応の唯一の牙城たる三越を五島にとられたのは、オレ達が金を貸したためだ、ということになっては申しわけがないから、君には金を貸せない」と、正直に言うのである。

その上、時の蔵相兼商相の池田成彬氏に呼ばれて「三越を合併するのは止め給え、株を半分三越の従業員の共済組合に譲ってくれ」と頼まれ、また、小林一三氏も池田に頼まれて出てきて「よせ、渋谷のような片田舎の百貨店がそんなことをするのは、カエルがヘビをのむよりムリだ」というので、私もそんな大先輩を相手にしてケンカしてもつまらないと思い「僕は鉄道なら君に負けないが、映画や百貨店のことなら君のいう通りになろう」といって、とうとう株を譲ってしまった。これは惜しいことをした。一株九十円で買ったものを百五十円で売ってしまったのだが、今考えると全く残念だった。

ところでこの問題がごたごたしていた当時は、後に社長になった北田内蔵司が三越の専務だったが、私が会いたいと言ってもどうしても会わない。百貨店の会議やなにかに行っていろいろのことをいうと、向こうは立ち往生してどうしても会議が進まない。こっちはまるで株ゴロだ。すると仲裁が入って「この次にまた会議を開くから、きょうはこのくらいでやめてくれ」というようなことになる。

ところがこの問題が一まず解決して間もなく、ある土曜日のこと、電話で北田君に「いろいろお目にかかって相談したい。どうしても当方と提携できないにしても、ひとつお話してみたい」と申込んだところが「承知しました。しかし親の病気で郷里である千葉県の勝山に帰って来るから、その後でお目にかかる」という返事だった。そして北田君は日曜日に郷里に帰ってその日に東京へもどって来たが、どうした拍子か、日比谷の四つ角で公衆電話をかけた。自動車を呼ぶために自宅へ電話をかけようとしたらしい。そこで脳溢血か真相麻痺(まひ)で死んでしまった。朝になって人が死んでいるというので大騒ぎになってみたところが三越社長北田内蔵司だ。さあそこで池田とか三井系の人は「北田を殺したのは五島だ」というわけで、えらく分の悪いことになった。小林一三なんかも「北田を殺したのはお前だ。会議の席上で五時間も六時間も立往生させていじめたからだ」というので、私にえらく怒っていた。この北田君のあと朝吹常吉君がしばらく社長をやっていたが、その後岩瀬英一郎君が社長になった。

九、地下鉄争奪戦[編集]

私は東横電鉄-やがて東京急行電鉄となったが-の発展のために、昭和九年の池上電鉄の買収をはじめとして玉川電鉄、京浜電鉄、京王電鉄その他多くの会社を、あたかも札束をもって白昼強盗を働くような仕儀で買収したり、新会社を設立したりして、多い時には百三十数社を傘下(さんか)に擁していたこともあった。時にはやむを得ず株買占めという強硬手段を採らざるを得ないこともあったが、これは世間でいうように単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活までを考え、併せて会社の総計費を分割して経費を下げるということからやったことである。

こうしたなかで、「強盗慶太」の声価を一段と高からしめ、決定的にしたものは、三越の乗取りと、地下鉄争奪戦とである。この時は私も真実、骨身をけずる思いをしたものであった。

昭和九年三月に東京高速鉄道という会社が設立された。これはかつて武蔵電鉄が東京市内の都心連絡を行うため渋谷-有楽町間四マイル強の地下線敷設免許を得ながら、実現せずに免許失効となったものを、その後、東京市が出願して免許をとったが、東京市も資金難でそのまま放置されておった-これを東京地下鉄道会社(浅草-新橋間)の土木工事を請負って地下鉄建設に経験をもった大倉組と、東横電鉄と東京地下鉄とが中心となって渋谷-新橋間の地下鉄道を建設するために設立した会社で、門野重九郎氏が社長、脇道誉が専務、私が常務であった。この会社を創る時にも、私はさんざん苦労したが、ようやく会社を創って測量設計に着手し、渋谷-新橋間の工事施工の認可申請を鉄道省に提出した。ところが東京地下鉄の創立者で社長であった早川徳次は「新橋-虎ノ門間は自分の東京地下鉄道において建設すべきものである。東京高速鉄道は虎ノ門から左折して日比谷公園を対角線に横断して東京駅に至るべきものである」と主張して、猛烈な阻止運動を起こしてきた。そのため私と技師長の黒河内四郎とは時の鉄道監督局長前田穣に呼びつけられて、設計変更せよという談示を受けたことすらあった。

しかも東京高速鉄道としては渋谷-虎ノ門間の工事をして、これが新橋駅で東京地下鉄道と連絡して相互乗入れしなければ頭のない竜に等しく、巨費を投じて地下鉄を建設する価値は全くなくなり、またそうすることが市民のためにも最もよいと私は信じていたので、いろいろ条理を尽して早川を説得し、あるいは東京高速鉄道の社員が東京地下鉄にお百度を踏んで交渉したのであるが、早川はガンとして自説を曲げないのみならず、かえってあらゆる手を使って阻止運動を激化してくるのであった。

そこで私は、これは東京地下鉄の経営権を掌握して、早川を追出すより方法はないと考え、昭和十四年の夏、当時大日本電力と北電興業の二つの会社をやっていた穴水熊雄氏のところへ日参したあげく、ようやく同氏の持っていた東京地下鉄株を四十五万株譲り受け、ついに早川を追出して現在のような地下鉄をつくり上げたのである。この時、私に融資してくれたのが加藤武男氏と安田信託の戸沢芳樹氏である。早川は早稲田出身だから慶応閥の銀行は早川を擁護しなかった。

この時は、苦心惨憺して日本ではじめて地下鉄を作り上げた早川を容赦もなくたたき出して、粒々辛苦して作り上げた早川の事業を奪い取ったというわけで、世間は早川に同情するし、私はずいぶんたたかれたものである。

十、運通相のころ[編集]

昭和十八年十一月、私は内閣顧問に任ぜられ、木造船の行政査察使を仰せつけられ、全国の造船所を巡回してまわった。木造船がみんな南方へ徴発されて、内地の沿岸航行さえもできないほどの状況だったので、政府は木造船を年に五十万トン造るプランを立てたが、これを実行するのに誰がいいかということになり、私は船にはなんら経験がなかったが、鉄道のことなら知っているというので、目をつけたのは東条英機、推薦したのは藤原銀次郎だったと思う。

この査察で青森から関西を回り、箱根へ帰って来て強羅ホテルでレポートを仕上げているところへ、二男進の戦死の公報が入り、つい寂しい気持でいた時である。昭和十九年二月十九日、突然東条首相から召電があり、すぐ来てくれということであった。何事かと思ってすぐ首相官邸に行ったところ、いきなり東条自身が入って来て、素裸になってくれという。そしていま八田嘉明の辞表をとって来たから、君が運輸通信大臣をやってくれ、今晩九時に親任式をやる、ということであった。あまり突然のことなので私も暫時の猶予をもらい、自宅へ帰って東急の専務藤原三千郎や友人の唐沢俊樹などを呼んで相談した。そして今のこんな気持で大臣を引受けても責任を感ずるばかりで到底その任にたえられまいと話した。

しかし皆があまりすすめるので、私もやっと決心して、その晩、宮中へ伺候したところ石渡莊太郎と内田信也とが来ておって、三人そろって大臣の親任式が行われた。しかし大臣になったところが、あんな時代だから、何をするにも資材がない、人がいないということで、そう簡単には行かない、さんざん悩まされたものであるが、名古屋駅を中心とした交通緩和と、船員の待遇改善とはいまもって感謝されているし、自分でもよかったと思っている。

もっとも大臣になったお陰で戦後五年間ほど追放になってしまったが、その間は好きなお茶や古写経を見て暮して来た。追放中会社のことに口を出したというので、追放令違反として告訴されたがこれも追放解除とともに自然消滅し、再び東京急行へ復帰して采配をふるっている次第である。

最近よく人から、あなたにも昔はご婦人とのロマンスぐらいはあったでしょう、と聞かれるのだが、正真正銘私にはロマンスなどというものはない。もし私にロマンスがあったとしたら、女に惚れていたとしたら、今日の私はあり得なかったろうと思う。事業に対する野心がロマンスを征服してしまったというか、惚れたのはれたのということを考える余裕もなかったのである。

大体私などの相手にするのは玄人(くろうと)の女であるが、玄人の女に惚れられるのはロマンスグレーにならなければだめだ。なぜかというと、女の欲しいのは金だし、金に惚れるのだから、四十、五十くらいのロマンスグレーになって、女への支払能力が出て来なければ惚れられるものではない。

私など、もう年をとって最近は肉体的にもすっかり衰えてしまったので、惚れられても見てもはじまらないが、しかし若い女と馬鹿話をしていると、仕事の話や世間の苦労からまぬかれて頭の中が「空」になって来る。そうすると夜熟睡できるので、またあすへの活力が出て来るのである。これが私の健康法である。三昧(さんまい)ということがあるが、女でも、碁、将棋、スポーツ、なんでもよい。三昧になる-すなわち「空」になるということが必要である。(おわり)

脚注[編集]

  1. 初出時は「伊庭惣太郎」とあったが4月18日に訂正されているため、ここでは訂正後の記載とした

出典[編集]

日本経済新聞昭和31年(1956年)4月14日 - 4月23日

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