白頭山定界碑
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原文
[編集]大清 | 烏喇總管穆克登奉 㫖查邊至此審視西爲鴨緑東 爲土門故於分水嶺上勒 石爲記 康熙五十一年五月十五日 筆帖式蘇爾昌通官二哥 朝鮮軍官李義復趙台相 差使官許樑朴道常 通官金應瀗金慶門 |
書き下し文
[編集]大清
烏拉総管の穆克登は、西は鴨緑と為し、東は土門と為すを、此に至りて審視し、査辺した旨を奉ず。故に記す為、分水嶺上に於て、石に勒す。
康煕五十一年五月十五日
筆帖式の蘇爾昌、通官の二哥
朝鮮軍官の李義復、趙台相
差使官の許樑、朴道常
通官の金応瀗、金慶門
現代語訳
[編集]大清[1]
烏拉総管[2]の穆克登[3]は、この地に来て、つまびらかに視察し、国境が、西は鴨緑[4]となり、東は土門[5]となることを確認したことを奉じる。このことを記録するため分水嶺上の石に刻んだ。
康煕51年5月15日[6]
差使官の許樑、朴道常
通官の金応瀗、金慶門
脚注
[編集]- ↑ 清の正式な国号。
- ↑ 2.0 2.1 清の官職。
- ↑ 3.0 3.1 清の人物。
- ↑ 鴨緑江のこと。
- ↑ 豆満江とする説、アムール川支流の土門江とする説がある。
- ↑ グレゴリオ暦1712年6月18日に相当する。
- ↑ 7.0 7.1 李氏朝鮮の人物。
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