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甲陽軍鑑/品第四十一

 
オープンアクセス NDLJP:186甲陽軍鑑第十五巻目録
源法性院大僧正信玄公軍法之巻也 

    他国為隠謀伝受ニ不知様書軍艦全集ハ本書巻十三、十四ヲ十五、十六トシ此二巻ヲ石水寺物語上下トス而シテ毎巻末ニ左ノ如ク書戦セタリ
右石水寺物語一巻ニ九十六ケ条上下合百九十二ケ条なたる(私云末書ト号拾書アル故カ)残所を尾畑勘兵衛尉尚縄(後敗景憲)謹而記之畢

品第四十一   一軍法序一ケ条   一法度の元五ツの事、付同五ケ条の理、並三ケ条

品第四十二   一三ケ条之合戦備定之事   一大将三ツのさいはい付御旗奉行武者奉行之事

一御大将其下、侍大将足軽大将近寄頭迄不存して不叶事   一敵数人隠す儀御大将に諸役者内通の事   一備之事   一山本勘介前原筑前日取破る事   一法度入不入事   一押太皷の事   一侍大将足軽大将詞のさいはい二ツの事   一陣取の事   一戦場にて備立同賦   一敵を引懸合戦の事   一足軽付あひことば   一味方討なきやうの事   一多勢無勢出立之事   一味方夜軍分別   一初め逢敵に武略之事   一こぜりあひの事   一城取事並すみ馬だし付よこぐるわの事

品第四十三   一信玄公軍法の御挨拶人之事 付足軽大将侍大将御使武者奉行旗奉行鑓奉行

一信玄公十六歳より、五十三迄之間に軍法工夫仕る衆  一信玄公御旗之事   一勘定奉行三人形儀之事並信虎公御代の事付鉄炮之事  一五敵之事   一於陣所制札之事  一雑人陣にて煩ひの時薬   一対陣の時いやなる人三対  一陣之時大将崇敬なさるゝ人一対づゝ十人

一信玄公於御陣手柄をなす者に褒美の色々  一国持三代家弓矢無穿鑿の事   一信玄公家老軍法工夫侍大将に八人足軽大将八人

甲陽軍鑑品第四十一 四十一品四十三品軍法の巻也

一軍法序   一法度の元五ツの事付同五ケ条の理并三ケ条

夫軍法は兵法也其いはれは陣なき時武士かけむかひの勝負をばきりあひ、或はしあひと申、此勝負にうたがひなく勝ことをよく習ひ畢りて是をよく手に熟して而して後勝負を决して度々の勝利を得て我名をとつて人にも是をおしゆるを能兵法仁と名付、就中国持給ふ大将の自国他国をあらそひせりあひ合戦又は城せめなどゝいふ勝負をば、これ軍陣と申す其軍陣において、よは敵少敵大敵強敵破敵随敵もろの敵うちあわせ武略智略計策をよくして、定めて能勝利をうる事を能軍法と云ふ然るに武略のもとは自国諸々の城取をよくかまへ陣取をよく取しき備をよく立設くる事、大形は先づ是武略のもとなり、さて智略はよき大将有てみだるゝ敵を、真にあてがひ大将なくてみだるゝ敵を、味方も乱れてあてがひ、大将ありて真なる敵は味方みだれて臆意真にあてがひ大将なくて真なるをば位をもつてこれをつめ敵をそゝりたてはたらく敵を見合、はんとをうちかまりをもつて殺し随へ或は敵の内に帰伏の侍をまねき或はみかたに謀ある勇士を近付敵国へさしつかひ、其行を能くきゝとりて、其敵を全く亡す事是れ先大形智略のもとなり、又計策は出家町人百姓などの、才覚あるものを常に恩をあたへて後敵国へオープンアクセス NDLJP:187つかひ敵の大将才智なくしてこのむ事を過し万民までもうとむ所を聞つくろひ、敵国をさだゝせ其国をせめ又は敵の内に邪欲の者をきゝきはめ引物色々をもつて其敵をしたがふる事、大形是計策の元也右の武略智略計策三ツの作法其すべを知て是を謀りて勝利をうることわざを指て能き軍法と申す、如此よき軍法と云ふ此元を尋るに大将のさいはいを能とり給ふ事肝要なり、よきさいはいの其もとはよき法度なりよき法度の其元は五ツあり

一大将の人を能目利して、其奉公人得物を見知て諸役を被仰付

一侍の事は申に及ばず大小上下ともに武士たらん者の手柄上中下をよくわけて又無手柄をも上中下をよく分て鏡にて物のみゆる様に大将の私しなくなさるゝ事

一右の兵手柄のうへ恩をあたへ給ふ事、手柄上中下のごとく被下同言葉の情も其手柄に随て大将のなさるべく候事

一大将慈悲をなさるべき儀肝要なり

一大将のいかり給ふ事余になければ奉公人油断ある物なり油断あれば自然に分別ある人も背き、上下共に費なり又其いかりにも奉公人とがの上中下によつてあそばし又ゆるす事もあるべき事是法度のもと也

   右五ケ条の理

第一に人の目きゝあしき事を申すに、国持或は二郡三郡とも人数を引廻す大将はひろくめぐみ給ふにより家老の内にも其品々有、是をくだ物にたとふるに、梅桃などゝ云ふ物は先花さきてのち実なるなり又ざくろ瓜などゝいふ物は、先みなりて後花さくものなり扨て又蓮花と云ふ物は、花も実も一度にめぐむなり、此三様がいづれもすつるにあらず如此に国持大将の人をつかひ給ふ事、国土の草木をやしなひ置ごとし又水中に有てかるゝ草木あれば又岡にありてかれ水中にてしげる草もあり其ごとく大将のあしくめきゝなされ、清心にてなき人に、蔵ばかりをば賂はせずして、国の仕置武士までの事にいろはせ給へば、其家老必らず賄賂にふけり、礼物をもつて諸役者に諸奉公人共なるにより、彼役者どもの存分我立身したることわざをば死するまでもよきことと存ずるに付、いはんや存生さかんの時、我に音信つかふ人をば、善悪の弁もなく、これはよき人と存じ御大将へ出頭よく取成て礼物つかふ人ばかり立身して、本のよき者はおし付られ、心いさむ事なくさながら其大将へ無沙汰申し、ゆく用にも立まじきと思ふなり、もとより礼儀をつかふて、身を立る人々は心むさければ、いたつて大将の御ためも存ぜず当座々々のよろこびを専らまほり民のつまりもしらず詔ひ取て蔵につめ或は女人を引付て気に入是を忠節といたして慇懃なる様にて出頭衆計にかゞみ廻り、諸人には殊の外慮外仕る体のかたましき者共は只の時計り大将をしつし奉り、大事の時少も用にたつ、走迴りなうして、法度をきかず候也

第二に諸奉公人の忠節忠功の手柄大忠をもおしかすめ、大功をすこしく、せんさくありて善悪のさた大将のみだりなれば家中の奉公人衆善も知らす悪をも存ぜす贔負々々に物をいひ忠節なき者共或は功もなきよわき人々、善悪同事のせんさくをよろこび忠節忠功の奉公人をそねみ、よくはいはずして、結句そしる作法なれば如件の心ばせにてはよき法度をあしきと存ずるに付、聞べきやう更になくして、法度をそむけ共、右の賄賂にて事相頼むにより法度を破る奉公人共おほき事

第三に兵共手柄の儀に付て、贔負々々のさたを、大将のせんさくなしに聞入、上の手柄を下にし、下を上にし、或は中を上にしてみだりに、所領を下され、同し言葉の情も右の如く漫りなればよき者曲なく存知、忠功もうすくなる、此作法のうへは未練の人々は、迯ても苦しからずとてぶせんさくなるを、悦ぶ侍仕合よき故万事ぶあんないにて、適々人をほむれ共、辻切辻相撲にて、血もつかざる、す喧嘩したる者共を、むだとほめて覚の者の様に申たて、馳走してほむる事、武士のはたらき善悪無案内故也、左様の者は本の事にてなき故、合戦せり合に人なみよりうちにする奉公人多ければ、法度聞べき様もなき事

第四に全集ニハ第四に大将は慈悲と云は賤しき者ほどよくあはれみ理非善悪を能く正し依怙贔負なく下々乃忠節の埋れぬ様にせんさくなさるれば非道なる事なきもの也トアリ大将慈悲にましまさわば有為無常うゐむじやうも知給はず、大身贔負の者ばかり、何事に付てもよくきこへ小身なる者の奉公いたすをば、取あげず不弁者忠節忠功仕るべきやうなくて総軍いさむ事なく、身を大事にして、とがにおつる事は、小身者ばかりなると相心得、万づをひかへ、小身のよき者の、仕出しいづべき様なしさて又むきひきのよき人々は、下の手柄を上にする意地なる故いたつて善悪の沙汰をしらねば、慈悲をするとても、罪科の悪きはたらきのせんさくもなく、主君へ逆心の侍をもあはれみ、道理非の二字にては非の方へ近く心むさくして、義理を不存其身仕合よければ主君の御かげ共思はず只をのれが仕り様にて立身する心得大将のため存ぜざる侍おほく口をきゝ迴る故、法度きく様にても後ぐらうして法オープンアクセス NDLJP:188度そむく事おほし

第五に大将のいかりぶせんさくにして、仝第五に大将のいかりは諸人の心に油断さすまじきため也五穀もいかげち乃れるおとにて実のいるよしに候将たる者天道を祈る心なければ法度たゝず一切の法度は信玄公書詞にてしたて給ふ上にり天道をやぶれば下にせいしを用ひざる事トアリ人によりて上の科を中にして下の科を上中にして成敗有ときんば自ら天道にて、其将法度きかざる者なり法度きかざれば、軍法あしければ合戦に勝利をうしなふ事うたがひなし、縦へば勝といふ共不慮にてあやうし、あやうきかちは定まる事なうして末代までも手本になる事少もなし一城をかまへ、少も人数を引まはり、侍大将までも、其工夫専ら有べき事肝要なり右五ケ条の理なり

信玄公右の趣善悪のさた、黒白のごとくわかり賞罰明らかなる事天のごとく地のごとくあそばし、よく法度をたてよくさいはいを取て、味方をいさめ、敵をおかし掠め給ふ事よろしき子細は先関東の敵馬上の戦ひよくして、馬を入乗きり足軽上手なれば此敵には信玄公家老内藤修理又は小山田弥三郎をさしむけらるゝ、越後の謙信には、高坂弾正に小幡山城入道をかいそへにさし添あてがひなさるゝ、三河武者家康衆はこがへしよくする侍どもなりとて、山県三郎兵衛をさしむけ給ふ、三郎兵衛こいくさをよくもつ仁なり岐阜の信長は未だ手あひしことみへざる子細は申の極月、信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の国、東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郎殿、典厩、穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人数にて大物見に出る、馬場美濃守八百の備へにて、かゝるを見て岩村の落城にもかまはず、信長早々引入て、岩村きりが城を、信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども、信長終に出あはず候事前の極月遠州味方が原において、家康へ加勢の信長衆に、村井、佐久間、平手、水野、沢田一本ニ林佐久間平手水野津田トアリなどゝ云ふ侍大将共きたつてひとはもあはす敗北する殊更滝川丹波にはト全などゝ云ふ侍大将は都合十三頭、来て今ぎれのわたりより引かへし悉くにげたりと聞それ故立むかふ事ならずといへども、信玄公は遠慮をふかくあそばし、信長大敵の故功者の馬場美濃守を指むけなさるゝ、但し岩村の城に秋山伯耆守をさし置給ふ故、先信長押は秋山伯耆守なり、信玄公敵によりて、家老衆に先を被仰付是をたとへば薬師の病ひをよくみつけてあれば楽きくまじきやうなし其病をみしらずして、薬をあたふる事は推量のあてがひなれば、病者平癒なりといへどもあやうしそのごとくに敵のてだて武篇の位をよく見すへて、我人数大将どものうちにて其はたらき得たるをみすへ是に合事大将の肝要に工夫する所なり

信玄公侍大将衆への御仕置に、せりあひ合戦二ツの戦に勝やうの色三ツあり、十の物六分七分の勝一ツ十の物八分九分の勝一ツ、十の物十ながらの勝一ツ、第一に十を六分七分の勝はこれ十分の勝なり、第二に十を八分九分の勝はこれあやうし、第三に十を十分の勝はかならずけが有て跡のほまれをにすべきとの御諚なり

信玄公宣ふはわかき大将の十分にかちてけが有ては、其後なにほとの勝利を得ても若き時まけたる事引いだされ、後までもけがにいはるゝなれバ、かならず大将たらん物は、十を十ながら勝たき思案あれば我心中より大敵強敵の数を作り出し、勝利をうしなはん悪事をまねくと相心得候へ由を、仰せをかるゝなり