『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
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- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:16】甲陽軍鑑品第四晴信公丗一歳にて発心有て信玄と号する事
【一本ニ晴信法躰付会場並諸僧崇敬ノ事トアリ】
天文廿辛亥年に武田信濃守大膳太夫晴信発心なされ法性院機山信玄と申其意趣は第一に武田は新羅三郎公より信玄公迄廿七代にてしかも代々弓矢を取て其誉有をもつての故か公方御代官として御同座の折々両度に至て御陣所になをし置給ふに付て武田殿ゐぢう【ゐぢゆうは居住ナルベシ】の所は今に至て御所と申てもくるしからず然れば晴信公代に家を破ては跡廿六代へ対し晴信公面目なき次第なり倩せけんの体をみるに久敷家共皆やふれ漸はや武田の家なと破るゝ時刻に廻来るとおほしめして信玄公御諚にむかし平の清盛は其身命をおしみて発心也我は先代のためとて如件第二は晴信公の本卦豊也といふ豊の卦に日中の後みちかけ有といふことは是也人間は六十定命なれば日中の後は後の三十が昼ならんと被仰みちかけにはかしらをそりてみちかけとのこと也【一本昇進の奏聞云々トアリ伝解ニ信玄ノ下ひやうとく号ハ徳栄軒ト申トアリ】第三には我住所遠国にて禁中へ奉公可申様これなけれバ位をすゝむべき事奏聞申がたし出家になりては大僧正迄にも罷成へきこと訴訟申上能と三ケ条の御心中をもつて法体と成給ふ院号は法性院道号は機山諱は信玄三十一歳の春薙染にて法性院機山【 NDLJP:17】信玄と成給ふ右の三ケ条とは申せ共御父を追出なされ候間信虎公へ礼義と極意は聞へ候さて又信玄の玄の字は大唐にては臨済義玄の玄也日本にては開山恵玄の玄の字を付まいらせられ候是は都妙心寺派の岐秀和尚つけ給ふ則此和尚の下にて碧岩七の巻迄参禅なされ候岐秀御異見にはさんは必御無用たるべし悟道発明有て隠遁の心など出来候へはいかゝと被仰故はさんはなされず候又信玄公御諚に人は運つくれば何もいらす然れ共運つきたると見付候はゝ政を以て一二代は苦しくなき事も可㆑有㆑之子細は盲目が谷へ落たる事さのみなしこれは落べきとかくごいたすにより落す又目のあきたる者はしぜんおつることもどゝにおひてこれ有ぞ【どゝは度々ナルベシ
一本正月ノ下「大僧正の綸旨山門の明王院持参の以後七年の間ハ」云々トアリごまくハんぢやうハ護摩鑵頂けんみつは顕密ナリ
仙山ハ説山南花ハ南化ノ誤ナルベシ
ちそうは馳走】これは又落まじきとゆだんいたすによりおち候ぞと仰られ父の御罰めたりなばと後代迄名を大事に思召発心なり殊更永禄九年丙寅の正月元日より七年の間は一入清僧のごとくにごまくはんぢやうをなされて後は毘沙門堂を御立有大僧正に成給ふ故けんみつを専になされ天台宗には善海法印万蔵院西楽院妙音院正覚院真言にはかゞみの円性崇敬ありびしやもんだうにおいて常に行御座候其間に論義折々御聴聞也信玄公菩提の宗旨は禅宗妙心寺関山派にてまします故快川和尚春国和尚説山和尚速伝和尚若僧には鉄觜鉄山南化高山此衆よき長老也右之内鉄山は駿河臨済寺に住持也速伝和尚は信濃にて寺を被㆑遣鉄觜和尚も信州諏訪にて寺を被㆑遣候南化長老は恵林寺後住也右之通関山派にて御座候と雖も又曹洞宗をもちそう被㆑成て甲州にも大川寺にかうてん和尚住持也【大川寺ハ大泉寺又かうでんは甲天ナリ一本高伝トセシハ非ナルベシ】栄昌院に大益和尚其外洞家の寺すた有之時宗一蓮寺にては歌の会邪路と名付て連歌をも遊ばされ候一向宗も懇まし〳〵て長遠寺は既に御とぎ衆の内に罷成何宗とても悪しくはなされず候中にも快川和尚は大通智勝国師と申すさすがに信玄公臨済家の仏法御参得故か一切の様子臨済八境界のごとくなりと各禅宗知識衆申され候八境界と云は抑揚褒貶擒縦与奪是也まことに信玄公御一代なされ候事をあら〳〵書しるし候へは定つて定りなし定りなふして定御座候そある時信玄公宣ふは既に日本国におひて千人の学者を集めて会上といふこと今迄さのみ聞ず【一本会上ヲ会場トス】天下を支配仕る三善修理の大夫所にても其さたなきは我朝の名折なりそれがし母のため千人の江湖を置まいらせて会上の法の法堂の且那にいやしくも信玄が罷成べきとて小古内丹後守に仰付られ曹洞宗大益と云僧の江湖首にほつごう和尚と申【ふつこうハ法興】知識に信州岩村田にて千人の江湖ありて会上の執行凡日本国中にては例稀ならずといふことなし扨又甲州にて関山派の寺多と申せども先恵林寺長禅寺也信玄公御若き時分は都五山の惟高和尚恵林寺に御座候此恵林寺は夢窓国師の開山也山門の左右に桜を二本うへりやうしうと名付此桜の有間は恵林寺も長久ならんと夢窓国師の御申置也【りやうしうは両袖
さがハ嵯峨ナリ】上条法条寺には洛外さがの策諺和尚御座候此法城寺は甲州上古は湖なりと聞上条ぢぞうぼさつの御誓にて南の山をきりて一国の水悉とく富士川へ落つるにより甲州国中平地と成て今如㆑件なりさるに依て上条ぢぞうだうとは申せ共寺号をば法城寺と申す此文字は水去土成と云はり也法城寺破れば甲州はすいび也【伝解ニハ策彦トアリ】末代迄も甲州持将は此寺上条法城寺を建立有べし此寺に策彦和尚五年の間住み給ひ候其時分は信玄公未だ御宗旨定めなし或時信玄公惟高策諺両和尚へ尋給ふは我家そのかみ天台宗と聞二三代己前より禅宗曹洞宗なり我等は又存ずる子細候間済家の参徒に罷成べきと被㆑仰候へば両和尚答へて云それは尤然べく候併我等門派の五山は京鎌倉共に仏法はめつ故学問は門中にて仕未来のために参学をは大徳寺妙心寺へ立入申す由被仰候信玄公聞召大徳寺妙心寺仏法いづれ勝劣ぞと御尋あれば両和尚御返事には仏法に上下は無㆑之候へ共妙心寺は道学共に御座候殊更仏法少けはしく候但大徳寺は不立文字をたてゝ一入道がつよき故妙心寺の衆も我派中の参禅はたして後大徳寺の参禅五十ほど仕げに候いかにも大徳寺は参がこまかなるよし承る但入室説禅など仕たるていたらくはけはしき事妙心寺関山派の様子いさぎよく候間大守の御用には妙心寺派御尤たるべきと惟高策諺両和尚の訓まいらせられ候は甲州に長禅寺とて妙心寺派の寺あるにより是を幸とあるのことなり扨惟高策諺は上洛まします其後信玄公より美濃国遠山の妙覚山大円寺希庵和尚を甲州へ呼御申被成候へ共此和尚は短気なる長老にて御下無㆑之さるにつき快川和尚を呼下し給ひ恵林寺になをし参らせられ常法堂に学問僧七十人あまりあり学問僧を教家にては所化と申洞家にては江湖僧と云関山派にては衆寮衆と申申され候甲州の中に関山派の寺多く候間衆寮衆二百人計程御座候駿河信濃上野へかけては四百余もこれ有べし又快川の御下にては南化淳岩状元普天末宗同学也長禅寺にては高山鉄觜大綱睦庵玉堂領南【 NDLJP:18】信州天桂の御下にては鉄山大輝大岳などゝ申長老なり但し是は天桂の下にて学問なされ法は駿河臨済寺東谷和尚の御弟子也と承及候御出家のことにて無案内に候間違却なることも可㆑有㆑之あら〳〵承及かき申こさい湛堂物外などゝ申長老も甲州にて信玄公の御時学問なされすぐれたる衆也【こさいは虎哉ナリ】加様の僧達学者の時分昆沙門堂にて武田御先祖の忌日には鉢を行ひ其後入室説禅と申法問一日に両度つゝ御座候【速転ハ速伝ノ誤ナルベシ】師家は快川春国信州より速伝も御座候右の学者の中にて鉄觜鉄山南化高山と申て中にも四人勝れたる長老也又をし出して禅末宗と申僧も御座候太郎武王信勝へ物訓まいらせらるゝ鑑首座一段あらき法門を申されて智勝国師へも度々六ケ敷もんどう申被㆑遣候故将は気が逸物なりとて後には太郎信勝公へ鑑首座物を訓候へと信玄公御意をもつて鑑首座は御曹司の師匠なり此時にも信玄公御諚の通感し奉る幼なき者は物を習坊主又はもりなど肝要也子細は生れつきて利発なる事は余り有まじきそ幼少よりそふたる人のごとくに成候就中声のかはる時分が人の善悪なり【伝解ニハ善悪ノ下の境ノ二字アリ
又次ノ「こゑのかはる時分」ノ八字ナシ
仝我子のしをき如此有べく云々トアリ】此時よき者にそへたればよき者になりこゑのかはる時分あしき者にそへたれは悪しくなるぞ必町人職人などに十四五の時分そふたる者は一代欲徳の意地有て物をねぎる分別をいたすと信玄公の御諚にて候つる大小共に我子のをきめ有べく候扨又前にかき申惟高和尚策諺和尚両長老上洛の時御暇乞に御舘へ御座候て信玄公へ被㆑仰は宗旨の儀は妙心寺派に御究尤に候さ候はゞ長禅寺岐秀へ参学なるべし参禅なされ候とてもそれをば未来のく思召武士は愚に帰り現在の名利が本にて候出家は現世をば捨に仕是さへ名を取たがる者なりましてや俗家と申せ共中にも侍はほまれを本になさるゝが家にて有愚に帰り軍配を専御用候へ【まほうハ魔法】弓矢はみなまほうにて候故配軍配を御用なければ勝負のなされ様皆是愚痴成様に思召べく候間悟をば未来の事になされ愚痴にしても勝利を得国をとりひろげ給ひそこにてよき長老衆をめしあつめ仏法をおこし給へば御自分のぐちなることをばせけんには申さずして源の晴信公は仏法者かなと諸人より沙汰申べく候又仏法を御取立候はゞ諸宗をあしく不㆑被㆑成が大慈大悲の名大将也我宗旨ばかりとあるはかたはらなる分別にて候いづれも釈迦からこなたへ立来候さりながら仏心宗と申は禅宗のことなり【一本ニ門前ヲ門竿トス】迦葉拈花微笑の後阿難門前倒却より纔に言句にわたる文字にあらずんばもつて伝ることなしと血脉相伝の達磨大師教外別伝と申は此禅宗なり是より後のことは岐秀和尚へ御参得有べしとて両和尚御座敷を立給ひ御暇乞ありて帰洛なり晴信公も西郡原沢迄送り給ふそれより板垣信形が駿河興津迄送りまいらせて帰るなりさる程に信玄公右両和尚の申さるゝごとく長禅寺岐秀和尚へ御随身候て一則の結縁に預べきとの御事にて御出陣の間には日々夜々の参禅学道他事なし碧前の事申に及ばず後には碧岩七の巻まで参得なされ是非共参禅はたし可㆑被㆑成と無二に御執心候【一本ニハ「御執心なれ共悟道理発明有て隠遁の心も出来候はんは如何なりとてはさんは可為無用との御異見と前に云々」トアリ】岐秀和尚信玄公へ被㆑仰参禅は七の巻迄に然べく候と有御異見と前に惟高策諺の御異見と首尾あい候とて碧岩七の巻にて参禅はおはるさて又右両和尚御異見のごとく出陣前には易者に被仰付めどを三所にて取二所を本になされ或は八卦を考させ当卦の守本尊に参詣有て其後出陣被㆑成候事いつもなり或時八卦の本尊不動なりとて恵林寺の奥上求寺の不動へ御まいり候二月末にてこそありつらめ恵林寺の大通智勝国師より使僧をたて恵林寺へ御立寄被㆑成べく候由申さるゝ信玄公御返事に近日出陣にて候間帰陣の時分は是非共見舞致すべきとのにて候重て快川和尚仰こされけるは両袖の桜やう〳〵にて此花のもとに一所かまへ待奉る間御立より候へかしとかさね〳〵使僧なり信玄公きこしめし花と承るにまいらぬは野なりとて恵林寺へ立よりさて国師と一礼なされそれにれうしすゞり御座候土屋平八郎をめしてすゞりをよせすみをすり候へと被㆓仰付㆒其後筆と料紙をとつて則あそばしける
さそはずはくやしからましさくら花さねこんころはゆきのふるてら 源信玄
智勝国師此歌をとりて御覧じありてほめ給ひいたゝき其後短寮衆御覧しありほめて各僧達拝見ありこと〳〵く則座にて和韻なさるゝことなる儀故各の和韻を書き申さず候【ことなる儀故ハ事ながき故ノ誤ナルベシ】国師の御和韻ばかりかくの分かと承はり及候なり
太守愛㆑桜蘇玉堂 恵林亦是鶴林寺 快川大通智勝国師
天正三乙亥年六月吉日 高坂弾正記之
長坂長閑老
跡部大炊介殿