『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
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- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:15】甲陽軍鑑品第三【一本ニ晴信任官付海野口城責並信虎追出ノ事トアリ】
信虎公を追出の事
【符君ハ府君ノ誤ナルベシ】
一甲州の源符君、武田信虎公、秘蔵の鹿毛の馬、たけ八寸八分にして、其かんかたちたとへば、むかし頼朝公の、生食摺墨にも、さのみをとるまじき馬と、近国まで申ならはす名馬なれば、鬼鹿毛と名付、【勝千代ハ信玄ノ幼名
大永元年信虎今川氏ノ将福島正成ト飯田河原ニ戦ヒ勝ツ時ニ一子ヲ挙グ故ニ勝千代ト名ヅク】嫡子勝千世殿、所望なされ候所に、信虎公事之外の、悪大将にてましませば、子息とても、秘蔵の馬なとを、無㆓相違㆒進ぜらるべき、御覚悟にて更になし、但又嫡子所望を、いやと御申被㆑成候事もならず、先始の御返事には、勝千世殿にて、彼馬は似あはす候、来年十四歳にて、元服あるべく候間、其時武田重代の義広の、御太刀、左文字の刀脇指、二十七代までの、御旗楯なし共に、奉るべきよし、御返事に候、勝千世殿、又重而の御訴訟には、楯なしはそのかみ、新羅三郎の御具足、御旗は、猶以、八幡太郎義家の幡也、太刀刀脇指は、御重代なれバ、【解伝ニ勝千代ノ下未ダ若年ノ四字アリ】それは、御家督共下さるゝ、時分にこそ頂戴仕べきに、来年元服とても、傍に部屋住の躰にては、いかで請取申べきや、馬の儀只今より、乗習て、一両年の間にいづ方へも、御出陣におひては、御跡備を、くろめ申べき覚悟にて、所望申処に、右の通の御意共、更に相心得申さず候と、被㆑仰越候へば、信虎公た〻大方ならぬ、狂気人にて、ましませば、大に怒つて、大声上げて被㆑仰候は、家督をゆずらんも、それがしの存分を、たれ存候べき【案ニ「それかし乃存分を、誰かぞんじ候べき」ナラン】代々の家に、伝はる物ども譲候はんと申に、いやならば次郎を、我等の惣頭に仕り、父の下知につかさる人をバ、追出してくれ候べし、其の時諸国を流浪いたし、我等へ手をさぐる共、中々承引申まじきとて、備前兼光の、三尺三寸をぬきはづし、御使の衆を御主殿さして、切はしらかし給ふ、然れ共禅宗曹洞宗のちしき春巴と申和尚、御中なをし玉ふにより大事は少もなかりけり、其後互に御心ほどけず、や〻もすれば、勝千世殿に信虎公、こめみせまいらせられ候故、家中の衆、大小共に、皆勝千世殿あなづりがぼにぞみへにける、【「あなづりかほ」ハ侮顔ナリ】勝千代殿、此色を見付玉ひ猶以うつけたるふりをして、馬をのりては落て、背かにつちを付け、よごれながら、信虎公の御前に御座候、物をかけ共、悪くかき、水をあびてもふかき所に入て、人に取あげられ、石材木の大物を引共、舎弟次郎殿は二度引玉へば、勝千世殿には、一度なりなにもかも、弟におとりたる人にて候とて、信虎公の、御そしり候によつて、上下皆勝千世殿を、譏り申と聞へけり、され共駿河今川義元公、御肝入にて勝千世殿十六歳の三月吉日に、御元服ありて、信濃守大膳太夫晴信と、忝も禁中より勅使として、転法輪三条殿、甲府え下向し玉ふ、即勅命をもつて、三条殿姫君を晴信へとて、其年の七月御こし入なり、又同年の霜月晴信公、初陣にて候、其敵は海野口とて、信濃の内に城あり、【一本ニ人数多ク其上佐久、小県二郡ノ主平賀ノ云々】是へ信虎公、発向なされ、取つめられ候所に、城の内に人数多、又平賀の源心法師が加勢に来て、こもりゐ候、就中大雪ふりて、中々城の落べきやうさらになし、甲州の衆、打寄談合申され候は、城の内に、三千程人数候由申候へば、がぜめには如何にて候、又御味方の人数も、七八千にはよも過候まじ、けふは、はや極月廿六日なれば、年もつまり候、【又城内ノ人数三千程ト聞ユル味方七八千ヲ以我攻ニハ如何ナリ今日ハ早極月云々トアリ】先御国へ御帰陣被㆑成来春の事に可㆑被㆑成候、敵も大雪と申、節季と申、跡をしたふ事、ゆめ〳〵思もよらす候と、申上候へば、信虎公御合点にて、さらば明日早々引とるへきと相定らる〻所に、晴信公御出有て、さらばしんがりを被㆓仰付㆒候へと御望候、信虎公聞召、大きにわらひ、武田の家のなをりを被申物哉、【「なをり」は名折ナルベシ】敵のつくましきと功者共申候に、縦某しんがりと申付候共、二郎に被㆓仰付㆒候へなどゝ申てこそ、惣領共云べきに、次郎ならは中々斯様のことは、望申まじきとて、御しかり被成候へは、【「候へは」ハ候ヘ共ナルベシ】晴信公荐に御望、しんがりを申請られ候、其儀ならば跡に引候へとて、信虎公二十七日の暁うち立御馬を被㆑入候、晴信公は、東道三十里ほど跡に残り、いかにも用心したる躰にて、漸々三百ばかりの人数を下知し、其夜は食を一人にて、三人前計こしらへ早々打たゝん支度をし、たびはゞき、【「たびはゞき」ハ単皮行縢ナリ】物具をも、其儘きこみにし、馬に物をよくかふて、くらをも置づめにし、寒天なれば、明日打立時分は、上戸下戸によらず酒をすごし、夜の七ツ時分にならば、罷出へき分別仕候へと自身ふれられ候、内衆も晴信公の深き御分別をば不㆑存まことに、父信虎公の御そしりなさる〻も御尤も也、此寒天に何として敵、跡をしたひつき申べきやとて、下々にて皆つぶやき申、さて七ツの時分に打立て、甲府へは不行跡へ帰り、もとの帰りきたる城へ取懸、廿八日の暁其勢三百計にて、何の造作もなく、城を乗取玉ふ、城の内には、平賀の源心計巳が内の者もはや、廿七日に返し、源心は一日心をのべ寒天なれば、廿八日の、ひる立にいたすへきとて、ゆる〳〵としてゐる、地の侍共年取用意に、皆さとへ【 NDLJP:16】下りて城にはかち武者七八十あり、さて源心をはじめ番の者共五六十討ころし高名も無用平賀の源心【伝解ニ七八十人又五六十人】
が首ばかり是へもちてまいれとて晴信公の御前に御置、ねごやを焼はらひこゝかしこにゆだんしたる侍共一所にて廿三十づゝ討てすつるよそよりの加勢の者は在郷にゐて此程の休息一日いたし帰らんと申て罷在候此者共は猶以取あはずにげて行、敵の中に剛の者ともゝすたありといへ共はや城をとられ候其上晴信公一頭とはしらず信虎公の返して働給ふと存知一万に及ぶ人数がをしこみたらんに何の働きも成まじきとで女子をつれてにぐるを本にせよと云て山のほら谷に落てしぬる中々晴信公の御手柄古今まれに有べしとよその家中迄も申ならはしたりさし又此平賀源心法師は大剛強の兵者にて既に力も七十人力と申ならはし候定めて十人力も之有べし四尺三寸斗りの刀を常に取持仕る大人にて数度のあらけなきはたらきの兵にて候是を晴信公初陣に手柄にて討取給ふ是信玄公の十六の御年也それをも信虎公御申は其城に其まゝゐて使を越候はで捨て来るは臆病なりとそしり給ふ故内衆十人の内八人はほめずして時の仕合也其上加勢の者も皆ちり他の侍共も年とり用意に在所へ下り城はあき城なりといふも有浅からさる御はたらきと感するものは少し信虎公への軽薄に舎弟の次郎殿をほむるとて心によしと思へ共口にてそしる者ばかり也弟の次郎殿後には典厩信繁と申人也さても晴信公奇特なる名人にてまします左様の事をなされ候へ共おごる色もなく猶以うつけたる体をして時〻駿河の義元公へたよりまいらせられ次郎殿を惣領に立て我等をそしに仕べしと【そしハ庶子ナルベシ】信虎公の御申此段は偏に義元公の御前に御座候とて様々頼被成候により義元公も又欲をおこし信虎公はしうとゝいひ我等よりさきからの剛の人なれば甲州一国にても我手下に成人にて更に無あの晴信を取立候はゝまさしく我等旗下にきはまり候間左様候はゝ子息氏真の代迄も全旗下に仕べしとおぼしめし晴信公と御組ありて信虎公を駿河へよび御申なされ跡にて晴信公おほしめすまゝにむほんをなされすまし給ふ偏に今川義元公の分別故如件是とても又信玄公の御工夫不㆑浅候【全集ニ是信玄公十八歳の御時なり信虎公云々トアリ】信虎公次郎殿を惣領に可㆑被㆑成との儀千万の御手違にて候故そのかみ新羅三郎公の御にくみをうけ給ひてあのことくに御牢人かと奉存候前車のくつがへすをみて後車のいましめと申ならはし候へば必勝頼公へあしき御分別なされざる様に御申上尤に候扨又信玄公初陣の御覚なる故に平賀の源心をば石地蔵にいはひ今に至迄大門峠に彼ぢぞう立をかれ候刀は常に御弓の番所に源心が太刀とて御座候ぶしは只剛強なる計にても勝はなきものにて候勝がなければ名はとられぬ物にて候信玄公のなされ置候事共を手本に遊はし候はでたゞ勝たがり御名をとりたがり候により今度長篠にても勝利を失家老の衆皆御うたせなさるゝこと勝頼公は若御座候方々の分別の違故也我等相果候はゝ此書物を御披見候へかし右御父子のこと信虎公四十五歳にて御牢人也信玄公十八歳の御時なり如件【一本右御父子以下末文ナシ】
天正三乙亥年六月吉日 高坂弾正
長坂長閑老
跡部大炊介殿
参