甲陽軍鑑/品第三

 
オープンアクセス NDLJP:15甲陽軍鑑品第三
一本ニ晴信任官付海野口城責並信虎追出ノ事トアリ
信虎公を追出の事 

符君ハ府君ノ誤ナルベシ 一甲州の源符君、武田信虎公、秘蔵ひぞう鹿毛かけの馬、たけ八寸八分にして、其かんかたちたとへば、むかし頼朝公の、生食摺墨いけずきずるすみにも、さのみをとるまじき馬と、近国まで申ならはす名馬なれば、鬼鹿毛と名付、勝千代ハ信玄ノ幼名
大永元年信虎今川氏ノ将福島正成ト飯田河原ニ戦ヒ勝ツ時ニ一子ヲ挙グ故ニ勝千代ト名ヅク
嫡子勝千世かつちよ殿、所望なされ候所に、信虎公事之外の、悪大将にてましませば、子息とても、秘蔵の馬なとを、無相違進ぜらるべき、御覚悟にて更になし、但又嫡子所望を、いやと御申被成候事もならず、先始の御返事には、勝千世殿にて、彼馬は似あはす候、来年十四歳にて、元服あるべく候間、其時武田重代の義広の、御太刀、左文字さもじの刀脇指、二十七代までの、御旗楯なし共に、奉るべきよし、御返事に候、勝千世殿、又重而の御訴訟には、楯なしはそのかみ、新羅三郎の御具足、御旗は、猶以、八幡太郎義家の幡也、太刀刀脇指は、御重代なれバ、解伝ニ勝千代ノ下未ダ若年ノ四字アリそれは、御家督共下さるゝ、時分にこそ頂戴仕べきに、来年元服とても、傍に部屋住の躰にては、いかで請取申べきや、馬の儀只今より、乗習て、一両年の間にいづ方へも、御出陣におひては、御跡備を、くろめ申べき覚悟にて、所望申処に、右の通の御意共、更に相心得申さず候と、被仰越候へば、信虎公た〻大方ならぬ、狂気人にて、ましませば、大に怒つて、大声上げて被仰候は、家督をゆずらんも、それがしの存分を、たれ存候べき案ニ「それかし乃存分を、誰かぞんじ候べき」ナラン代々の家に、伝はる物ども譲候はんと申に、いやならば次郎を、我等の惣頭に仕り、父の下知につかさる人をバ、追出してくれ候べし、其の時諸国を流浪るろういたし、我等へ手をさぐる共、中々承引しようゐん申まじきとて、備前びぜん兼光かねみつの、三尺三寸をぬきはづし、御使の衆を御主殿しゆでんさして、切はしらかし給ふ、然れ共禅宗ぜんしう曹洞宗そうとうしうのちしき春巴しゆんばと申和尚おしやう、御中なをし玉ふにより大事だいじは少もなかりけり、其後たがひに御心ほどけず、や〻もすれば、勝千世かつちよ殿に信虎公、こめみせまいらせられ候故、家中かちうの衆、大小共に、皆勝千世殿あなづりがぼにぞみへにける、「あなづりかほ」ハ侮顔あなどりがおナリ勝千代殿、此色を見付玉ひ猶以うつけたるふりをして、馬をのりてはおちて、せなかにつちを付け、よごれながら、信虎公の御前に御座候、物をかけ共、悪くかき、水をあびてもふかき所に入て、人に取あげられ、いし材木ざいもく大物たいもつひけ共、舎弟しやてい次郎殿は二引玉へば、勝千世殿には、一度なりなにもかも、弟におとりたる人にて候とて、信虎公の、御そしり候によつて、上下皆勝千世殿を、譏り申と聞へけり、され共駿河するが今川義元よしもと公、御きも入にて勝千世殿十六歳の三月吉日に、御元服げんぷくありて、信濃守しなのゝかみ大膳太夫だいぜんのたいふ晴信と、忝も禁中きんちうより勅使ちよくしとして、転法輪てんほうりん三条殿、甲府かうふ下向げかうし玉ふ、即勅めいをもつて、三条殿姫君ひめぎみを晴信へとて、其年の七月御こし入なり、又同年の霜月晴信はづのぶ公、初陣ういぢんにて候、其てき海野口うんのぐちとて、信濃しなのの内に城あり、一本ニ人数多ク其上佐久、小県二郡ノ主平賀ノ云々是へ信虎公、発向はつかうなされ、取つめられ候所に、城の内に人じゆおほ、又平賀ひらが源心げんしんが加勢に来て、こもりゐ候、就中大ゆきふりて、中々城のおつべきやうさらになし、甲州の衆、打寄うちより談合申され候は、城の内に、三千程人数候由申候へば、がぜめには如何にて候、又御味方みかたの人数も、七八千にはよも過候まじ、けふは、はや極月廿六日なれば、年もつまり候、又城内ノ人数三千程ト聞ユル味方七八千ヲ以我攻ガセメニハ如何ナリ今日ハ早極月云々トアリ先御国へ御帰陣被成来春の事に可成候、てきも大雪と申、節季と申、跡をしたふ事、ゆめ思もよらす候と、申上候へば、信虎のぶとら公御合点がつてんにて、さらば明日早々引とるへきと相定らる〻所に、晴信公御出有て、さらばしんがりを被仰付候へと御のぞみ候、信虎公聞召、大きにわらひ、武田の家のなをりを被申物哉、「なをり」は名折ナヲレナルベシてきのつくましきと功者こうしや共申候に、たとい某しんがりと申付候共、二郎に被仰付候へなどゝ申てこそ、惣領そうりやう共云べきに、次郎ならは中々斯様のことは、のぞみ申まじきとて、御しかり被成候へは、「候へは」ハ候ヘ共ナルベシ晴信公しきりに御望、しんがりを申うけられ候、其儀ならばあとに引候へとて、信虎公二十七日のあかつきうち立御馬を被入候、晴信公は、東道ひがしみち三十里ほど跡に残り、いかにも用心したるていにて、漸々三百ばかりの人数を下知し、其夜はしよくを一人にて、三人前はかりこしらへ早々打たゝん支度をし、たびはゞき、「たびはゞき」ハ単皮行縢タビハヾキナリ物具をも、其まゝきこみにし、馬に物をよくかふて、くらをも置づめにし、寒天かんてんなれば、明日打立時分は、上下戸げこによらず酒をすごし、夜の七ツ時分にならば、罷出へき分別ふんべつ仕候へと自身ふれられ候、内衆も晴信公の深き御分別をば不存まことに、父信虎公の御そしりなさる〻も御尤も也、此寒天かんてんに何として敵、跡をしたひつき申べきやとて、下々にて皆つぶやき申、さて七ツの時分に打立て、甲府へは不行跡へ帰り、もとの帰りきたる城へ取懸、廿八日のあかつき其勢三百はかりにて、何の造作ざうさもなく、城をのり取玉ふ、城の内には、平賀ひらがの源心計巳が内の者もはや、廿七日に返し、源心げんしんは一日心をのべ寒天かんてんなれば、廿八日の、ひる立にいたすへきとて、ゆるとしてゐる、地の侍共年取としとり用意に、皆さとへオープンアクセス NDLJP:16下りて城にはかち武者七八十あり、さて源心をはじめ番の者共五六十討ころし高名も無用平賀の源心伝解ニ七八十又五六十 が首ばかり是へもちてまいれとて晴信公の御前に御置、ねごやを焼はらひこゝかしこにゆだんしたる侍共一所にて廿三十づゝ討てすつるよそよりの加勢の者は在郷にゐて此程の休息一日いたし帰らんと申て罷在候此者共は猶以取あはずにげて行、敵の中にかうの者ともゝすたありといへ共はや城をとられ候其上晴信公一頭とはしらず信虎公の返して働給ふと存知一万に及ぶ人数がをしこみたらんに何の働きも成まじきとで女子めこをつれてにぐるを本にせよと云て山のほら谷に落てしぬる中々晴信公の御手柄てがら古今まれに有べしとよその家中迄も申ならはしたりさし又此平賀源心法師は大剛強だいかうきやうの兵つはものにてすでに力も七十人力と申ならはし候定めて十人力も之有べし四尺三寸斗りの刀を常に取持仕る大人にて数度すどのあらけなきはたらきのつはものにて候是を晴信はるのぶ初陣ういじん手柄てがらにて討取給ふ是信玄公の十六の御年也それをも信虎公御申は其城そのしろに其まゝゐて使を越候はですてて来るは臆病おきひやうなりとそしり給ふ故内衆ないしゆ十人の内八人はほめずして時の仕合しあはせ也其上加勢の者も皆ちり他の侍共も年とり用意に在所ざいしよへ下り城はあきしろなりといふもありあさからさる御はたらきとかんするものはすくなし信虎公への軽薄けいはくに舎弟の次郎殿をほむるとて心によしと思へ共口にてそしる者ばかり也おとゝの次郎殿のちには典厩てんきう信繁のぶしげと申人也さても晴信はるのぶ奇特つくどくなる名人めいじんにてまします左様の事をなされ候へ共おごるいろもなくなほ以うつけたるていをして時〻駿河の義元よしもと公へたよりまいらせられ次郎殿を惣領そうりやうに立て我等をそしに仕べしとそしハ庶子ナルベシ信虎のぶとら公の御申此段はひとへに義元公の御前に御座候とて様々たのみ被成候により義元公も又よくをおこし信虎公はしうとゝいひ我等よりさきからのかうの人なれば甲州かうしう一国にても我手下になる人にてさらなしあの晴信はるのぶを取立候はゝまさしく我等旗下はたしたにきはまり候間左様候はゝ子息しそく氏真うぢさねの代迄もまつたく旗下はたしたに仕べしとおぼしめし晴信公と御くみありて信虎のぶとら公を駿河するがへよび御申なされあとにて晴信公おほしめすまゝにむほんをなされすまし給ふことひとへに今川義元公の分別故如件くだの是とても又信玄公の御工夫くふうあさからず全集ニ是信玄公十八歳の御時なり信虎公云々トアリ信虎公次郎殿を惣領そうりやうに可成との儀千万の御手違てちがひにて候故そのかみ新羅しんら三郎公の御にくみをうけ給ひてあのことくに御牢人ろうにんかと奉存候前車ぜんしやのくつがへすをみて後車こうしやのいましめと申ならはし候へばかならず勝頼かつより公へあしき御分別ふんべつなされざる様に御申上尤に候さて信玄しんげん初陣ういじん御覚おんおほへなる故に平賀ひらが源心げんしんをば石地蔵にいはひ今に至迄いたるまでもんとうけに彼ぢぞう立をかれ候刀は常に御ゆみの番所に源心が太刀たちとて御座候ぶしは只剛強かうきやうなる計にても勝はなきものにて候かちがなければ名はとられぬ物にて候信玄公のなされおき候事共を手本にあそはし候はでたゞかちたがり御名をとりたがり候により今度長篠にても勝利しようりうしなひ家老からうの衆皆御うたせなさるゝこと勝頼公はわかく御座候方々かたの分別のちがふ故也我等相果あいはて候はゝ此書物を御披見ひけん候へかし右御父子ふしのこと信虎公四十五さいにて御牢人也信玄公十八歳の御時なり如件一本右御父子以下末文ナシ

    天正三乙亥年六月吉日 高坂弾正

      長坂長閑老

      跡部大炊介殿

            参