甲陽軍鑑/品第十六

 
オープンアクセス NDLJP:54甲陽軍鑑品第十六
さむらひ大将より武者奉行大切の心持の事 喧嘩の沙汰之事 

全集ニハ本条ヲ第十九公事ノ巻下ノ一ニ載セ布施兄弟与諏訪弥左衛門喧嘩付侍大将より武者奉行云々トアリ 永禄十一年戊辰歳信玄公御搆への丑寅の方に毘沙門堂を立て給ふ時爰に越後牢人布施与三兵衛同牛の助虎の介と云ふ兄弟三人の侍と諏訪弥左衛門と草履取りの口論に付て出入有之彼者ども少身たりといへども各御用に立つ侍どもなれば信玄公おしみ給ひ四郎勝頼公を御使になされ両方堪忍仕るべき旨仰せ出さる布施ふせ兄弟委細かしこまつて御請けをバ申せどもさすがに武き大将の弓矢の盛りにて諸国の諸牢人武士のあつまりなれば諸傍輩を恥ぢて其三日目についに喧嘩に仕り此時一人せばき所に取籠り討こと難儀なるを加藤駿河守が末子に加藤弥五郎とて初鹿野源五郎が跡目に成りし初鹿野伝右衛門其ころ廿五歳成けるが大強の者にて諸人にすぐれ材木のきれを取てさしかざし押込みむずと組で縄をかくる信玄公も手柄に思し召しけり惣じて此弥五郎を内々は取立てめしつかはるべきこと御本意たりといへども小山田備中が子今の備中六左衛門と申せし時の行義のごとく男の道に自慢してつらにて人をきるやうにして分別なし人のより子同心どうしんなどには聊かのゆるしも有るへし小山田備中は信虎公より我等まで侍大将ことに先手をいたす程の者の子がいかに武辺よきとても人ごとに言葉をあらくし悪言をこのめば諸侍もうとみはて此ごとくならば此家に堪忍も成りかたしと思ひ忠をもしかと心にかけねば晴信が為には大きなる損なり然る故にそれがし動もすれば六左衛門をおしこめ候と云へ共今は心もなをり信玄が為も其身の上も尤よし其ごとく大将にてこそなく共加藤駿河はわが旗本の武者奉行を申付れば侍大将よりも武道のくらゐはましなり其理は侍大将には様により様によりハ様子によりノ誤ナルへシ
一本ニハ武者奉行ノ下ニ旗奉行ノ三字アリ
若き者もあれども武者奉行には武と忠と功と年比と分別工案ありて信玄にも指引をいたし諫むるほどの者をゑらびて仕る故侍大将にも憶意の気味はましたりとはこゝをもつてなり箇様にゑらばれて旗本の武者奉行をいたす駿河守が子がいかに末子たりといふともおのれが武道に自慢して世間の者を目八分にみる様なる者と見および某彼伝右術門に常に懇もせず駿河守が子供多ければ末々心持ありて初鹿野に名字をなす伝右衛門行義こそあらくともケ様の義仕損ずる者にてはなしと宣まひ内々此時代の男に初鹿野伝右衛門など旗本にては三番とさがらぬわらんべなりとの御自慢なりさて又件の諏訪弥左衛門布施何れも最期よく仕るに付て一入信玄公おしませ給ふ殊に喧嘩の事は信玄公廿七歳天文十六年丁末の歳五十七ケ条の式目を定めて御仕置きをなさる第十七ケ条に書き給ひとかく喧嘩不仕様にと思召し長坂長閑跡部大炊助原隼人佐駒井右京進右四人をめして仰せ出さるゝは自今以後喧嘩の事理非によらず双方成敗なりと相ふれ候へと宣まふ長坂長閑畏て承はり如此なれども各家老寄り合さた仕つる批判のむね言上仕るべしと其日は内藤修理の正当番に付て先づ内藤申す伝解ニハ批判乃旨を書付にて言上仕へしと上意なれは馬場所にて宿老衆寄合あり信玄公乃御時分は何事をも評議をは各の中にて始に言出す事を番にかはり候故其日は内藤云々トアリ尤も喧嘩なき様にとの義理非を不論両方御成敗に付ては相違有るまじく候さりながら御用に可立者は老若によらずたがひの義をば堪忍仕るべし但し不足をあたへられてもおめと堪忍仕るほどの者はさのみ御用にも立つまじく候左候て諸人まろくなり何をも堪忍いたせと上意においてはいかにもぶじにはみへ申すべ候雖然それは大なる上の御損なり其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならバ諸侍男道のきつかけをはづしみな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん又男のきつかけをばはづすまじきとて男を立て候はゞ其身の疵になる儀をあらため候べし其改むるをばはやかどがちなりとて法度をそむくに罷り成りさだめて御成敗か不然は国をおはるゝかにて候べし然らば則ちよき侍一人もなうして信玄公の御ほこさきは悉くよはかるべき義眼前に候就中侍大将も武道きつかけの意旨をはづしなば武士の道すたり上の御ためあしう候其いわれは当屋形信玄公廿歳の御時信州海尻の城にて是にまします四人の御検使の内長坂長閑は座敷などにては尤能き人なれ共右海尻の城にて男道のきつかけをちがへ城をあけて甲州へ帰らるゝに小山田備中が男道を専らまもる故城をもち詰め候てこそ後つめありて信玄公勝利を得給ふ事偏に備中が武道の嗜み勝れたる故なり又他国にても遠からぬ九年以前の庚申の年の五月今川義元公討死の刻今川家の家老岡部丹波守尾州星崎の城にて古今まれなる手柄をいたす故義元公は討死なれども信長公今川家を奥深く思ひ給ひ氏真公無分別微弱にておはしませど今に駿河長久ちやうきうなるは偏へに岡部丹波守が武道の心ばせちがへさるをもつてなりオープンアクセス NDLJP:56又三州家康公も右義元公御討死の節尾州大高の城にて武道の御心ばせあさからざるをもつて近国遠国までも其名かくれなし其武道たがはせ給はぬ故右庚申の年より丁卯まで八ケ年の間に我生国をおさめ今卅より内廿七歳にて三河一国の諸侍悉く家康公の被官となる、しかも大高にての時分は家康公十九歳の時なり其年に当て三州の内一の宮の城に家康内の者本田百介と云ふ者籠りたるを氏真公出馬し給ひ信虎公も御出有り其時氏真公の人数駿河遠江東三河を始め悉く引具し一万八千にてせめ給へども百介こらへて城をあけず其後家康公三千ばかりにて後詰うしろづめをし給ひ駿河勢をおひはらい家康堅固にしてしばらく城を持ち給ふ雖然此城不入城なりとて其日本田百介を召し具し家康公城をあけて岡崎へ帰陣し給ふ是家康公廿一歳の時なり是れとても三年前大高に於て家康公城をあけず味方の一左右を聞き届け大高を立ち退きたる大強の其下の本田百介にて一の宮の城を持ちこらへあけずして今川家の人々に深くおもはるゝ事若手なれども家康男道のきつかけをはづし給はぬ故ぞかしケ様に他国にても弓矢のたしなみ専らなる所に武田家斗りには喧嘩さすまじき為までに男道を失ひ給はんこと勿体なき義也各諸侍はいかんもましませ、いやしくも内藤修理においては某子どもに男道のきつかけをはづしても堪忍いたせとあることは聊も申し付けまじ何をも堪忍とばかり有之は臆病なる侍の跡先きわきまへずふり所体にて世をわたる者どもおのれが心のむさきを人にあてがひ家中には何をいひかけても堪忍すると心得てむざとことばをあらしはをぬくべし言にかつはさしておぼへにもならすまけたる人きはめて不足なる事なければぞうごんの義はまづかんにんもならんが又彼よは者が存ずるは言ばにてもまくる程にあたまをはりても大事あるまじとがさつにかゝつてたゝきはり仕るならばたとい一類をくしにさゝれ申すとも所のきらいあるまじそこにてうちはたすより外の儀有るべからずそれを両方御成敗に付きては親兄弟の身になりては無穿鑿なる御法度にてとかもなき子或は弟を御成敗かなと存候じたゞ何と御用にたゝんと存じても各いかんもあれ内藤修理などはあまり御用にたゝんとも存ずまじ又子共不行義にて或は色好のわる狂い或は辻切罪科の義そうじて諸人に慮外ならばさぞかはゆき子にて候間取つめ五度も十度も異見をなし、げにきかずんは日本国中の諸神も照覧し給へ我等上意を得奉り腹をきらするか猶も不便ふびんに候はゞ髪をそり他国へ払い候べし所詮おそれなる申事にて候へども修理がくふうには人に慮外いたしそうじて諸人の腹立つやうに仕りかゝる者を喧嘩ずきとおぼしめしてこれを法度に仰付らるゝならば諸人の作法もよくまかりなり人のはらたつこと有まじ腹をたてねば喧嘩の有るべき子細も無之幸い武田の御殿は公方家の作法也公方の御屋形作りは第一諸人のつきあひに慮外なきこと肝要に候故諸侍伺候いたすには椽ばかりあるき申やうに造り給は中興ちうこう鎌倉にて頼朝公よりはじまりぬ其後尊氏たかうじ公右の図をもつて都にて作り給ふやかたづくりの様子人々慮外なき様をむねとするは公方家の屋形作りなり依之いつぞや原隼人はやと小田原へ御使者にさしこさるゝ時信玄公御意をもつて帰りに鎌倉見物仕り候に鎌倉絶て久しければ何の跡もみへわかずさは有ながら町人百姓共に侍とみれば笠をぬぎ馬よりをりいかにも慇懃なる民百姓のさほうに候と言上すれば信玄公仰らるゝはいにしへ頼朝公のまつりごと万事よろしく以来西明寺時頼の仕置今にのこりてさやうなりこれらを見て来るは心の付たる儀也とて其方隼人殿を不斜御感有しを某よく覚へ候間此以後は目付に横目をそへられても人に慮外仕る者を御成敗候歟改易と仰付られ尤かと先つ内藤修理は存し奉ると申せば馬場美濃守山県をはじめ武田代々の各家老或は降参の大身悉く同じて是より別のさた有まじとて紙面にあらはし右四人に相渡す長坂長閑跡部大炊助駒井右京原隼人此書面を請取て則ちこれを披露す尤此儀可然と有て新式条十七ケ条目に悉く喧嘩の御法度定めおかる是内藤修理正工夫の故なり右毘沙門堂にて喧嘩の時節は我等は信州長沼の要害御普請に付甲府に不罷在某甥の春日宗二郎を甲府にさし置候へば彼者方より委細書付をこし候其書面を以つてしるし置候間我等不見事にてくはしき儀不之候者なり

弓箭之巻 目録
此弓矢ノ巻ハ全集伝解トモニ見エズ

一巻の名所 一矢の名所 一巻の矢かず 一一こし 一矢一把 一つる一ちやう 一弓三国にて名の替 一矢一手 一張弓に矢を添渡事 一馬上の三ツの道具 一出陣のゆがけ 一弓の弦音 一にぎり革 一同巻やう 一矢の羽 一同こしらへやう 一矢びらき 一矢印 一七張の弓の事 一家オープンアクセス NDLJP:57こしの蟇目 一産後の蟇目 一男女に足蹈 一矢かず 一同其畳  一歌 一すはうのひもかは 一まる桶の寸法 一ゑな刀 一にぎり 一重藤の事 一血をつなぐ名の事 一もとから 一弓鑓かけ 一しつひの長さ 一矢をくり 一矢印書やう 一矢筒の寸 一ぬり弓に白弦 一初弓 一弓初之事 一弓の名所 一鹿かのしゝ名所 一いのしゝ名所 以上四十三ケ条

一巻の矢数と申は 春は七上さしれうかい 夏は九上さしかりまた 秋は十一上さしとがりや 冬は廿一上さしけんじり 是は九曜七曜廿八宿をかたどる

一一腰とは矢数廿一の事なり 是れはうしろの骨をかたどる故なり其外は十六を一把と云ふ 一矢一把と申すは矢数五十一の事なり 一弦一ちやうと申すは七すじの事なり其外は一ツ二ツ又一本二本とことはるへし 一大唐にては上平と云ふ 一天竺にてはおんたらしと云ふ 一日本にては弓とかたどる 一矢を一手と申すは的矢の事なり其外はいくすぢと申す 一馬上にての三ツの道具と申すは弓傘文箱を云ふ 一ゆがけは一具と云ふ 一出陣のゆがけは前にかけ帰陣のゆがけは後にかけさすべし 一弓の弦をとは常には一ツ軍陣にては二ツと心得べし是はひとうちと申す名詮なり三うちを仕るべからず、かちたち如此也 一にぎり革ふすべ革 軍陣はごめん革常はしやうぶ革 一同じき巻やう弓のうちの左かどより巻初めてうちの右の方にて巻留るなり 一矢の羽外かけ羽はしり羽ゆづり羽やり羽と可云 一矢のこしらへやうせいを糸にてとりてそれを四ツにおり一分にかみ候てきをし三ツに折り一分にかみ候てきをし四ツに折て一分にのけ跡三ツ分にもとはきをし二ツに折てねたまきをし、みなのべてくつまきをし、ねたまきの糸は左糸なり 一矢ひらきにならざる物の事 猫庭鳥にて候其外の物をする物なり其鳥を上に作りおきて肴に主人被遣候時矢ごたへと申す物をしてくふなり 一矢印といふはかみにてきより右に申す糸を二ツに折て其分に書くなり外かけの羽のとをりなりそれは名乗ばかり書く本にてきには主人の名をかきみもとにてきも右の糸たけをき候て其名を書くべし


〈[#図は省略]〉 オープンアクセス NDLJP:59一七丁の弓と申すは、まんたうの弓、揚弓、じやたい弓、御たらし弓、ほうゑ弓、中弓、内弓、此内弓と申すは当世用ひて持弓の名なり其外は弓のなりたちと心得有るべし是は恙と云ふ蛇のかたちなり 一家こしの蟇目と申すはしめと申す物を以て重藤しげとうの弓にて夜二度昼三度家を射こすなり是は常はなき事なり家の主心乱るゝか家内不慮の儀出来して不審と人の申時、射手に七日精進をさせて二夜三日させ申なり 一産後の蟇目ひきめは白へい畳をうらとじ合二帖立て五寸の木をけづり夫にすへ絹一ひきをたゝみなげかけ其上を家の年寄射るなり出で立ちは男子は黒衣こくゑ女子は白衣はくゑと心得べしすはうには鶴亀を付るなり 一男につぼむ足 一女にひらく足是を蹈べし 一矢数は男に三ツ女に二ツ射る者なり此時の心得口伝 一其たゝみにかけたる絹をうぶぎに則ちする事なり此時の歌

     はなつ矢の産後の内の古畳三ツのまとぞと心得て射よ

一弓は陰弦は陽ぞと心得て悪魔をはらへあびるんけん此歌をよみ仕る者なり 一すはうのひもとめやうに口伝 一まる桶の寸法高さ六寸広さ一尺二寸に作りふたへがはにしてそこは柾目に上は板目に作るなり 一ゑなかたなと申して竹にて一尺二寸にしてふしを一ツこめ左右刀に作りて是にてゑなを納るなり納所おさむるところみ取る座敷の下に納め申なり他のりうには同方を取る事如ぬ事なり依之子そだゝぬといへり大方弓方一通如此 一にぎりをつかといふなり 一七五三といふはにぎりより上二十八にぎりより下三十六なり 一本がらをばにかはにて羽をつけぬ物なり其故は人を射ぬく時論有べし其時羽の下に血有べし 一血をつなぐ名の事 猪はぬかと云鹿は鹿じるしと云人のをは、はかりといふ木の鳥をばおちあひちといふなり 一弓かけ鑓かけをば亭主の上にはをかぬ物なり 一しつひ長三尺六寸広は一寸二分両方のはしをけんさきにつめ弓のとりうちをゆふべし革の色は白革中はごめん下は黒革と心得べし弓だいに立る時も又本ふくろに立る時も同前なり 一矢おくりと申して敵かたの矢を袖ずりのふしより折りかけはしり羽を一ツもぎ敵方へ返すなり敵方よりそれ程の返答する物也是は覚へを取りたる射手をほめんずるためなり常にはなき事なり 一矢印の書き様硯を洗ひかつきのかはにて硯水を入れ硯を洗ふ日は七月七日と矢印やしるしの時ばかりと云へり硯に耳のあかを入れ墨にすりまぜ書く物なり此子細は人の血にて矢印落ちぬ故なり是により耳攪き硯の道具に入るなり置き様は絵図にあらはすなり其時右筆はさやを軸へこきさげ其上にて書く物なり起請文も同前たるべし依之常には嫌ふ者なり筆の軸も白軸が本なり黒軸はうれいとるなり 一矢筒の長さ三尺六寸ふとさ八寸九寸の竹可然如何程も不苦其故は黒くぬる故也ふたのごしらへやうはずんぎりの蓋のごとくにこしらへ也くれなるのをつけ其上にゆがけを一ツに付る者也 一塗弓に自然白弦をかくる事有べし其時は、はつきぬを墨にて染べし白木の時染弦ならばしらがみにてすべし 一弓初は正月七日也 豹尾へうひ 黄幡わうはんけうなり 弓初の事 豹尾ひやうひの首をふんで黄幡わうはんを射るべし此時の足踏は一番とむるにはつほむ足をいるべし是を陰陽いんやうにかたどるなり


       のう次第しだい

一舞台の高さ 一舞台うしろ 一地うたひうしろ 一舞台をふく事 一同水引 一橋がゝりの長さ 一松たて候事 一脇のうしろ 一勧進能之時の事 一少人の御能 一楽屋の次第 一楽屋入の事 一正面の橋より出入の事 一舞台合之事 一桟敷の盃の事 一花扇出す事 一色袈裟出す事 一桟敷伺候之覚悟 一観世太夫能之事 一橋かゝり通礼 一太夫を呼出す次第 一能の時樽肴出す事 一猿楽に扇出す事 一猿楽に舞台太刀渡事 一同小袖遣す事 一御簾面之事 一同折紙を遣す事 一太夫御桟敷へ被召事 一太夫御桟敷へ被召事 一田楽猿楽に太刀可渡事

       まり次第しだい

一懸の樹の事 一同図二 一軒と樹間之事 一鞠を人に渡す事 一同請取事 一懸へ鞠ころばし入るゝ事 一鞠を庭に置事 一風吹時鞠置様の事 一枝鞠之事 一切立切差の事 以上三十九ケ条

       能之次第

オープンアクセス NDLJP:60一舞台の図 口伝くでん 一舞台の高さは御座敷によるべし 口伝  一舞台の後ろにいかやうの人有とも不苦 さり乍ら弓鑓など長道具をば置べからず是は正面要心のため也  一地うたいのうしろには屏風びやうぶを立べし又夜に入ば鉄籠てつらうをあかす橋かゝりにて同前 一舞台の上をふく事あらばむねよりふく同おほひと申が本也  一上の水引のあまるをば柱にまくへし  一橋がゝりの長さ三間広さ一間但所によつて今長とも  一松を立つる事しまひ柱の松 幕ぎはの松枝 らんかんの竹末とをゆひちがゆる也  一脇のうしろの柱に愛宕の札をおす  一勧進能の時は脇座の柱ぎわに蠟燭あり  一小人など御能の時は小太刀橋懸りまで参る物也

楽屋之次第 はやし手 太夫座敷 狂言太夫 面箱 鏡台 地うたひ 脇太夫 雑掌人 手水こゝに有るべし

一楽屋入之事 一番に道具二番に太夫其次脇座入者也  一正面の橋よりは太夫一人通ふ者なり又太夫に被下時太刀たちを此橋より持てあがるなり仕舞柱しまいはしらより出入をすべし舞台ぶたいの高さ御座と対様たいやう一舞台の高さ勧進能くわんゑのうはすこしかはる  一御座敷と舞台との間六間々中けんまなか其間には道具禁制但如此はあれどもたど三間がき也  一御さかづきのまいるは狂言きやうげんの間が式也  一花扇はなあふぎなどは左に持ち猿楽に下手したてにとらするごとくわたすものなり  一色袈裟いろけさと申て出家しゆつけ出世しゆつせの人のけさを出するあれば扇にすへて扇共に渡す者なりたゝみやうはいぎを上へなし、しほとたゝむなり是を取てあつかふはあかりたる人なり平僧へいそうのはいぎを下へなし候也  一御ぜん伺候しこうの人覚悟かくごの事  一あつきとて扇などつかはず又一方にては主人の方へ心得又方にては舞台を見るごとくに方をそばだてたるがよし  一観世太夫くわんぜだゆう一人のをは楽屋へ入能初のうはじめよと申べし其外は御桟敷さんしきより申べし是は常々の御座敷にてはなし 一橋かゝりかよふ時は右の手ばかりつくべし  一太夫をよび出し候時はあがりたる人の役也おもての端より上にて呼び出し申候其時は左の手をつくべし

のうの時たる肴出す事五番の時は二番の狂言はて七番ある時は三番すぎて必す仕手して仕舞しまいの間には不出 樽出す時の事さきへさかづき其つぎに折公卿おりくぎやう食籠其次にもちなどその跡御酒なり置所も舞台と又見物者の間置べからず各伺候しこうの時も面が功者こうしや其跡が若衆わかしう其跡が若党なり色々の物をおくも功者の前に食籠しきらう又はおりなどをおく盃は少人の前にをく餅樽は下座しもざたるべし

一猿楽に扇被遣時かなめの方を先へなし右の手にて渡し候也

一猿楽に舞台にて太刀渡す時は御桟敷より太刀を持つて出て脇座のむかふよ あがり候て太夫楽屋より出るを可待太夫出候て橋がゝりの入口に畏つて居候はゞ其時可立脇座の方へ参り皷打前にて中にて例式れいしきのごとく太刀を渡すなり其時一目御桟敷を見申候て渡すなりさて立候て帰りさまに御桟敷のかたをみて其はうの手をつきかしこまり一礼候て前の所へ舞台より出て帰るなり太夫一礼に庭へ下り候はゞ卒度そづと立帰しかとしも共手バかりつき出し一礼候て帰へるべし又御桟数にて太刀をつかはし候事もあり

一猿楽に小袖つかはし候やうあたらしき小袖ならば広盖ひろぶたに入れ三ツにおり右の袖を上へになしゑりのかた猿楽の方へなし両の手をさし出し中にてつかはす者なり又小袖きなれ候はゞゑりつぢをとり我左の肩にうちかけ右の袖の上になるやうにもち右の手にてゑりのはしを卒度かゝへ持て出で太夫来り候時右の手にてゑりつぢを取り左にてすそをとらへ太夫の右のかたへ打かけ渡すなり小袖べつにいだす人二人ともなく当座亭主の家かほに一人に小袖出され候はゞ古く共広蓋に入可出候総別道の者に不限人に小袖を給はると候はゞ袷そへ候はでは不出事にて候

一勧進能の時はみすのおもてに花桶有は庶子そしなり惣領のは鶯籠うぐひすかごなり何にても小鳥のかご也

一猿楽に折紙おりがみつかはし候時は誰より被下候誰々遣候と其時の人の少し聞召きこしめすやうにことばをつかひてつかはす者也きつとはなきやうに申也

一能の時太夫御桟敷へ被召候時は御桟数より一人庭へおり候て太夫参り候へと申す也椽より参り候へと申さぬものなり

田楽でんがく猿楽に太刀たちを可渡事 御座敷の内又は芝居しはゐなどならば足あひを右の手ばかりさし出すなり自然其者の高下により右の手をそへ候て出すべきなり

オープンアクセス NDLJP:61       毬之次第

懸之樹かゝりのき之事式の懸といふはさくらやなぎまつ也又四季の木不たらして同木二本うゆる事無子細また雑木ぞうきもうゆる也雑木にはゑのきむくかき是は常に植木也但ゆるしなき人をしませてうゆることなし木は安宅あんたくの術かゝり鎮屋ちんをくのかたなり南向の庭をもつはらとすしかれども東北のかゝり又つねのことなりいつれの方にても

〈[#図は 紅葉山文庫写本 に合わせて修正した]〉

 
かいて ひづしさる まつ いぬい
やなぎ たつみ むめ うしとら
 
楓   松
 
柳   桜
楓   松  

 
楓   松
柳   桜 柳   桜
楓   松
 
柳   桜

軒ととの間一丈四尺二三寸計母屋はかりもやの柱よりのこと也ひさしあらばゑんの広さをのぞきてはしのほうの辺より丈数を打べし木と木との間二丈ばかり二丈一尺にも植べし又庭せばからん所には一丈九尺八尺にも可然しからば軒と樹の間も五寸ばかりもつゝむべし所にしたがひ様によるべし木の高さ一丈五三尺但おもうやうに有りがたし一尺二尺三尺高くともひきくともくるしからすうへて後高くなる木もさのみ思ふやうにきる事なし

まりを人にわたすことづとつかはを右の大指と人さし指にてつまみてたけたか指くすし指小指にまりの肩をかゝへ候やうに持てまりのふくらを上へなして左の手をそへ直埀ひたゝれ或はすはうなんどのそでを取りそゆるやうにして持ちて出べきなりさし人のまへにて左のひざをつきてまりのこしを左の手のうちにすへて右の手をまりの右のふくらにそとそへてとるやうにさし出すべきなり

同鞠を請け取る事人のさし出たる取革を右の大ゆびと人さし指にてつまみてさて式の手をそへて先つ腰のまはりをみて其後左の手のはらにすへて卒度そつど二ツ三ツ打ちて又右の手の方にすへて左の手にて打ちてみて見事の御鞠と申すべきなり

懸りへまりをころばし入る事ゑんよりおりて椽のきわよりころばすこともあり又えんのうへよりころばすこともあり御すだれの内よりころばし出す事もあり此時はそとみすをまりのとをる程持ち上てころばかすなり木のもとからころばかす事もありまりを置くは四本がかりの中すみに置き候へどもころばす時は何方いつかたへ何ところぶとも其まゝにてあげ鞠するもの、まり上べきなり是は畧義なり

鞠を庭に置く時はかたなをもあふぎをもぬきて内の者以下にもたせてまりの持やうは人前などへ持て出るやうに持てかゝりの四本の木の座敷なんどあがらん向の方より軒の方へ向て出べし四本の木の下に可置候時は先づ左のひざつきてさて左の手をつき右の指にて取たるまりを能々つまみて手のこうを上へなして取革をも上へなして置て帰るべき也まりの人数の内にても内々の時は若輩の者も置く也但故実の人可然候枝に付たるをときてをくは随分ずいぶんの事也一風などふく時まりを可置やうの事持て出てひざをつき手をつく迄は事々しく右に同前ひざをつきてさてまりを置時も持て出たるまゝにふくらを上へなして取革を我前の方へなして沙へゆり入候様に可置也風など吹候にもころばずして能也

鞠の枝に溜りたる時は鞠竿にて落すべき也おとしやう竿さほをとりて式の手の中を上へなすやうに右の手の内を下へなす様にもちて右の手にてさほのもとをとらへ竿のさきの貴人の方へならぬ様に懸の内へまりの落るやうにそと落すべき也まりにはあたらずしてたまりたる枝をしづかにいろひておとすべき也竿をもちて出る時は竿のうらを前へなる様にもつべき也帰る時はもとをさきへもなすべきなりさほなどもちたる時は貴人の御前にても手などつくべからずさほの置き所は築地屏などの際円座敷たるうしろなどにおくべきなり

切立きつたてと云ふは竹の枝を五のふし上をきり竹のかはにてつゝむをいふ切差きつさしは竹の枝を其まゝをくをいふなり
オープンアクセス NDLJP:62  天正三年乙亥六月日 高坂弾正書