甲陽軍鑑/品第十五

 
オープンアクセス NDLJP:53甲陽軍鑑品第十五 巻第七
武士諸道具之事 

全集ニハ本条ヲ第十九公事ノ巻一上ノ二ニ載セ武具穿鑿ノ事トセリ

或年信玄公士屋右衛門尉、三枝善右衛門、武藤喜兵衛、曽根内匠、右四人をしてのたまふ様は侍のもたする道具に長刀はかたく無用仕れと申し付くるそのいはれは信虎の御代我十二歳の時江州の牢人野村源左衛門と云ふ者清水清二郎と云ふ年十八になるせかれにはたり合い二尺四五寸の刀をもつて手もとらずたゞ二太刀にうたる此野村は信虎公侍二百一一十騎の中より七十五人すぐりて在府させ給ふ近習これなり又其中より老若ともに三十三人ゑらひ出すかの野村も右卅三人の内なり其者ども大方信虎の御代に討死し又病死も有之右三十三人の内我代までは横田備中、多田淡路守、原美濃、小幡山城守この四人のみ残るなり彼野村源左衛門は横田備中などゝ同時代まで原美濃にも歳増し猶以て小幡山城には抜群時代さきなり其時野村四十九歳功のさかりにわづかの成敗もの致すとて大剛の兵の手もなくうたるゝはあしき道具のいはれかと我おさな心に思ひつるはあまりおしさの故かなり其後能き者ども度々長刀なぎなたにてけがをするうへはとかく我代にかならず長刀無用と思ひ今まで長刀法度にすれどもそれは手せばき時のこと信州の内も少々手に入るなればおをしと云とも諸牢人百人の内外なり次第に人も多ければ道具などにさりきらひの仕置してもいかゞと思ふが但し各家老どものせんさくいたすさたを書付けをもつて上よとの儀四人の御扈従をもつて先つ飯富兵部少輔所へ被仰下兵部少輔承り各寄り合ひに不及儀なれば先づ某申しあげん又他の口をも聞き給ひて某のせんさくより理に当つて候はゞ尤も其儀を言上可然とて飯富申さくさるほどに侍の諸道具の義勝負を决せんと存ずるは武士にめづらしからぬことなり然ば一切の諸道具は定まることなし其定まらぬと云ふは遠からんも近からんも不存たとへば男と男が出あひて膝組にて堪忍のなりがたき時はちいさき脇指それより遠くは二尺六七寸のかたなそれより遠くは三尺二三寸の刀なを遠くは長刀それより遠きはもち鎗それより遠きは長柄の持ち鎗なを遠きは弓鉄炮とむかしより武道具はさだまりて御座候さりながら人によつて用ゆと見へ候諸道具一方向きに能きとさた仕る人は細々諸勝負にあはぬ侍の申すわざと存るいはれはつめ座にて小脇指をもつて利を得たる者は小脇指をすき候立ならびても又ざしても手のとどくとゞかぬ程にて勝負を仕すましたる者は大脇指尤もと存候刀にて度々勝負に利を得たる者は太刀すくものにて候又た三尺二三寸の太刀をぬきあはせぬ間に手ばやなる男が二尺五六寸のかたなにて初太刀しよたちをうちて大がたなに手をひらかせねば其人はかならず二尺七寸より上のかたなをばきらふ物にて候又町屋などにて取りこみ者切て出したるには柄のふたうみじかき長身の鎗可然候さやうの場にて手柄を仕たる者は長き鎗をきらい申候又敵の少しも高き所に罷り在り候を鎌鎗にて手本へ引きおとし人を討ちたる者は鎌鎗を専らに仕候何をも不存して勝負仕つけぬ男が人の鎌鑓にすくを穿鑿なしにまねて持せ候て自然科人の籔などに罷り有るをつき損じてはかならず道具のとがに存知鎌鑓はあしき物と誹り候さて馬上にて細々勝負仕りたる者はいかにもちいさき馬にすく物にて候へども氏康公の家老北条左衛門太夫は下野の小山にて侍百人ばかりの中へたゞ一騎のりこみ能き敵廿人ほど悉くのりたをし其きほひにて雑兵ともに百四五十我したの者どもに頸をとらせ候事是れは大きなる馬にて如此ちいさきばかりによき馬とも申しがたしされども所によりはやり道具の利有之と相みへ候へは尾州より上方五畿内までは大畧刀ちいさく候関東はいづれも大刀と聞へ候他国は何とも候へ此御家は諸道具人々のすき次第と被仰付御尤もに存じ奉り候侍は大将ともに面々各々の気有之物にて候へば刀、脇指、大小も其身のこのみに馬も大小具足もあつう、うすう長刀も大小ともにそりたるもすぐなるもほそきも広きも刀脇指ともにそりたるもすぐなるもみな是れ人々の好みのごとく被仰付御尤もかと奉存候惣じて武士の道具は勝負仕らんとの事なれば面々が得ぬ道具にては武辺もいたしにくからんさりながらせんさくなしに人まね仕る者は何ほど仰出し重くとも用に立つ義はなるまじく候心がくる侍には持ちたき道具をもたせよと被仰下然候と飯富兵部少輔言上によつて此儀信玄公会得ゑとく大きに御感有りて他の家老の申分聞し召すに及ばずとて諸道具各面々すきに仕る者なり