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鎌倉丸の艶聞 (七)

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本文

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をつとおもひのとめはかくてもなほをつとうらむのこゝろはさらつまとしてのみちつくたるが其内そのうちかんらう郵船會社いうせんぐわいしや事務長じむちやう見習みならひとなり威海丸ゐかいまる乗組のりくみしをはじめとして次第しだいもちゐられて事務長じむちやう昇進しようしんするにいたり百圓餘えんよ月給げつきうるにいたしりが其金そのかねおほ)くはいへにはれずして自分じぶん一人ひとりにてつかいへくらしは依然いぜんとめ某小學校ぼうはうがくこう敎師けうしとなりて給料きうれうにてさゝ有樣ありさまなるがこれさへとめこゝろけずおつとをつといへいへ活計かつけい重荷おもにまでひてつく殊勝けなげなる心懸こゝろがけたいしてもかんらう充分じうぶんいたはりやらねばならぬ次第しだい今回こんくわいことごと所爲しよゐをなしてはばからぬかんらう冷血れいけつにくみてもあまりあれどまたその事情じゝやうつぶさつくしながらかんらう不義ふぎたのしみをつゞ佐々木さゝき信子のぶこ心情しんじやういやしむべしところれば信子のぶこには何人なんびとたねともれぬ一人ひとりありふか秘密ひみつして里子さとこれりといふことはまだかんらうらざるならんして廣氏ひろしゝをつととしてなほそのうへかんらうまよひてその妻子さいしくをもらぬかほ打過うちすご信子のぶこ品性ひんせい堕落だらくくさへもいまはしき心地こゝち信子のぶこはなほかつ鹿島かじま銀行員ぎんかうゐんとなりて勸誘員くわんいうゐんたりしどき盛装せいさうしてくるま八方ぽうはし女流ぢよりうにあるまじき蓮葉はすはなる真似まねこゝろあるひと指彈つまはぢきけたることありといふさて冷血れいけつなる松井まつゐママかんらう目下もくか博愛丸はくあいまるりて上海しやんはい渡航中とこうちうなりといふがその出發しゅつぱつのぞみてなほ此上このうへにもあはれなる妻子さいしくるしめんとてや自分じぶん保險金ほけんきん受取人うけとりにんがとめ子とのなかなる子供こども名義めいぎとなりるをにかけていかにもしてその名義めいぎをも書替かきかへさせんととめせまりしことありしがそのまゝ片付かたづかずして出帆しゅつぱんするにいたりしといへばかれとほからずして歸國きこくするうへふたたびこの鬼々おにしきこゝろもつていかに現在げんざい妻子さいしなげきをくることならんあはれむべきはとめ母子おやこといふべしなほところれば海外かいぐわい廣氏ひろしゝにはその親友しんゆう某々ぼう手紙てがみもつ信子のぶこ近狀きんじやうつぶさにほういまうち離緣りえんせひかたしかるべからんと忠告ちうこくせしが信子のぶこよりいかなる手紙てがみるにや容易よういとも忠告ちうこくしんぜず信子のぶこはは今際いまは遺言ゆゐごんまもりてあくまで信子のぶこつまおもれりといふがそれにつけても信子のぶこごときはいろ賤女せんぢよにもおとりしをんなといふべしなほこの後聞ごぶんくがまゝにふたたしることとしてしばら彼等かれら行爲こうゐうかゞはん(おはり

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。