浮世の有様/4/分冊1
【大坂城守護の準備】一、御城守護の儀は他へ洩らすべきにあらず候へ共、京橋は未だ米倉殿在府に付、明き申さず。追手玉造は桝形内へ大筒三挺出し土俵に居ゑ、外へは柵を結ひ、甲冑へ火事装束を著け、御城代家来与力・同心相固め、其余は尼ヶ崎の松平遠江守手勢・岸和田岡部内膳正手勢能越し、左右陣列。郡山松平甲斐守手勢闇峠迄勢を出し、御下知を相待ち申候。高槻永井飛騨守も近く口上の使を以て、御下知を相待ち申候。
【諸士役宅を固む】一、跡部山城守云ふに任せ、玉造御定番遠藤但馬守・御目附中川半左衛門指図にて、玉造与力は坂本源之助・本多為助・柴田勘兵衛・蒲生熊次郎・脇勝太郎・石川彦兵衛・米倉伊次郎七人、同心三十二人、但馬守殿用人畑佐秋之助陣代として出勢致候。京橋与力広瀬次左衛門・沖鉄之承・清水理兵衛・武蔵八十之助、同心召され御役宅の固め致候。
一、山城守に附添ふ与力七人・同心三十二人平野町辺にて、西奉行伊賀守に出会ふに付、伊賀守手へ脇勝太郎・石川彦兵衛・米倉伊次郎の三人同心召連れ、先へ陣列渡し候節瓦町へ押行き、西方より立狭申すべき段、勝太郎申聞候へ共、伊賀守先づ見合候様指図之有る内、源之助打留散乱と相成申候。
一、十九日夜八つ時に至り、俄に指図、賊集り候はん事気遣はしく、御鉄炮奉行御手【 NDLJP:11】洗伊右衛門組下召連れ、大坂より二里余在方保科□□預り所長興寺村御焰硝蔵固め罷越す。
一、筋鉄御門其外玉造固め与力・同心、隠居・次男・三男都て十五以上男子等罷出で候。筋鉄の手にて落行き候賊両三人召捕り申候。
一、玉造丸御蔵新御塩噌奉行堀田甚兵衛・仁科次郎太郎以差遣手玉造へ篝焚き申候。
一、御本丸は御番衆十六人張御城代御上り、度々西番頭北条遠江守殿与力・同心相詰め、東番頭菅沼織部殿組与力・同心玉造を固め申候。
一、場所外固めの外、甲冑著用に跡部山城守は勿論御城内にては、東番頭〈玉造方守候殿なり〉遠藤但馬守殿計り、余は火事装束計り。
一、御蔵奉行を以て、玉造御蔵より五百俵差出し、雑人兵糧御春屋に於て焚出し候は、御塩噌奉行相詰め指図致し候。
大坂大変に付姫路より人数
壱番手【姫路より出勢】
武具小笠原助之進、組三十人小頭一人・具足。同久松辰吉、〈右同断〉。大目附根岸源太兵衛。使番鈴木善之介、上下二十人・具足。旗奉行深津補之助、〈右同断〉。中目附小林権太左衛門・中野啓次・川端戸右衛門。硝方小幡孫次郎、上下五人。鈴木弥三郎、上下五人。高橋岩蔵、上下五人。
弐番手
武具永井弥市、上下廿人。大筒三挺、人数不㆑知。旗奉行福島市郎兵衛、具足上下三十人。武具谷九郎兵衛、組卅人・小頭一人・具足。右同断高須与右衛門、〈右同断〉。長柄・奉行蘆谷卯兵衛、組三十人・小頭一人・具足。騎馬吉田孫右衛門、上下廿人・具足。同内海宗次郎、〈同断〉。同間原覚右衛門、〈同断〉。同岡田出来蔵、〈同断〉。同西松五太郎、 〈同断〉。同丹羽新助、〈同断〉。同赤堀左源太、〈同断〉。同重田三十郎、〈同断〉。同井上理左衛門、〈同断〉。同山口長左衛門、〈同断〉。番頭河合孫一郎、上下八十人・具足・淵田伊三郎。大目附黒田権左衛門、組三十人・小頭一人・具足。中目附岡部順蔵、上下五人。中目附荻原兵蔵、上下五人。同田島藤馬、上下五人。太鼓方大沢善七、上下五人。【 NDLJP:12】貝方大山伴平、上下五人。大筒四挺、人数不㆑知。騎馬〈高須隼人内〉、宇野左馬蔵、下人廿人。同〈同内〉三間定蔵、下人廿人。家老高須隼人、家来百五十人・下部七十人・鉄炮廿挺・弓廿張・槍廿筋・〈高須隼人内書役〉高頭蜂人永井梶五郎・〈同〉根淵貴八。内書役一足一本、細井市太夫・深瀬精左衛門・佐治幾蔵・本田辰蔵・福田軍十郎・長谷川郡治・本間益五郎・大塚秀三郎・戸田惣左衛門・牛込十左衛門・戸倉左源太・岩松鋪三郎・福島信次・高橋伊三郎・境野源助・柴田九郎助・鈴木小市郎・八森伝五右衛門・村角権十郎・矢野又兵衛、右二十人槍一本。使番河合宗兵衛、下人廿人・具足。医師中根善堂、家来十五人。鉄炮方下田五郎太夫・三保宗之進・熊谷来之助・高須伝内・松原善蔵・豊田粧蔵。武具布川丈太夫、組三十人・小頭一人・具足。乗方下境惣左衛門・田中銀介・三原友七。旗奉行治田半十郎、組廿人・小頭一人・具足。硝方砂川金次・小林伊三郎・池谷周五郎。他事方高橋善右衛門、添人五十人・大工五十人。中目附三石友右衛門、上下五人。秋間磐八、上下五人。金井小左衛門、上下五人。米沢半之丞、上下五人。宿割中村辰蔵・関口万助。
総人数二千五百人余、馬百五十疋余、長持五十棹。
右天保八丙二月十九日大坂在天満与力町より出火乱妨一件に付、三月三日申の刻江戸表より早打使を姫路へ御入、即夕戌の刻より寅の刻迄三番手迄御出立有㆑之、一番手は西の宮迄二番手は兵庫迄乗出し候処、大坂より悪党乱妨相治り候に付、入込に不㆑及候旨被㆓仰上㆒候故引取有㆑之候。
長浜屋八之助が見聞の記
【大塩叛乱勃発の状況】一、天保八年丁酉二月十九日朝辰の刻、天満町与力大塩平八郎・同格之助・瀬田済之助徒党の者共、放火・狼藉市中乱妨致し候。先づ最初与力町大塩向に朝岡助之丞宅へ一番に四方より大筒を打込み放火致し、東照権現宮を焼き、其外与力町残らず放火。夫より西与力町へ廻り、方々火を放ち、寺町より天神宮・仏正寺・興正寺等へ火矢・鉄炮を打込み、十丁目を南へ渡り、方々大筒を打込み候て、天神橋を南へ渡懸り候に付、討手の衆中橋を切落し懸り候故、直に難波橋へ廻り船場へ渡り、一番に今橋通り鴻池善右衛門宅井に土蔵等へ大筒を打込み、天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛・山本三次郎等を始め方々打廻り、高麗橋筋にて三井・岩城等を始め所々へ打込み、上町【 NDLJP:13】へ渡り方々打込廻り、米屋平右衛門を始め処々へ放火致し、又候船場へ渡り米屋喜助・炭屋善五郎・同彦五郎・茨木屋万太郎・鉄屋庄右衛門等を始め、其外豪富の大家を目掛け、数十ヶ所大筒を打込み廻り申候。誠に其有様恰も軍の如く、右張本人大塩平八郎の出立は、【大塩の軍装】鍬形付の兜を著し、黒き陣羽織下に鎧を著し槍を携へ、其外徒党の者共銘々下に著込を著し、陣羽織・野袴或は立付・火事頭巾等著用致し、雑兵共は茶色の
【 NDLJP:15】【大坂放火の惨状】一、右類焼人の内極難渋にて、親類方へも可㆑便処無㆑之者は、道頓堀中の芝居・角の芝居・其外若太夫・大西の小屋々々へ御救有㆑之候て、皆々入込申候。凡二千余人日々罷越居候様承り申候。尤朝夕は白粥、昼は握飯三つ宛御与へ被㆑成候由。其外町人よりも米或は炭薪・香の物・味噌・塩・茶等に至る迄施行差出し申候。然る処三月四日より別に御救小屋御修造にて、天満組支配天満橋北詰・同組支配南詰並に南組支配・天王寺御蔵跡、已上三ヶ所へ小屋出来に付、右の処へ御救置被㆓成下㆒候。誠に御仁恵の程難㆑有事に候。
一、右類焼に付、其外難渋の者へ、御城代様より玄米二千石為㆓御救㆒被㆑出候。其外町人より銭百貫文・十貫文・二百貫或三五千貫宛追々差出し候。加島屋作兵衛は銭一万貫文差出し申候。
一、三月五日暁寅の刻、東照宮神輿天満川崎社仮宮造営に付、還御有㆑之候。御城代・両御奉行・和田寿八別当其外諸役人御供にて、厳重の事に候。但し右大火に付神輿生玉北向八幡社へ御立退有㆑之候。
【張本人召捕らる】一、右奸賊の者の内重立ち候張本人御召捕に相成り、不㆑申残党・余類の面々は追々御召捕に相成候。瀬田済之助河内恩地と申す所にて縊死と云ふ。庄司儀左衛門は此頃紀州にて被㆓生捕㆒、当所へ御引立日々厳敷拷問に相懸り居候由、色々浮説申触らし候。瀬田藤四郎且済之助の妻子召遣し、下女三人共に和州にて被召捕候由、但二月廿八日の事に候由、南都同心松田七九郎召捕り候由承り申候。【大塩跡を眩ます】
一、大塩平八郎当時行衛不㆑知候故、或は渡海致候と云ひ、又は甲山に楯籠と云ひ、或は切腹致し候共云ひ、或は吉利支丹の邪法を学び、妖法を遣候て形を隠し居候共云ひ、浮説区々に候。右此度の乱妨致候趣意相分不㆑申候へば、世人かく落首致しけり。
我為か人の為かは知らねども切支丹やら何したんやら
一、右乱妨大変後も東御奉行昼夜甲冑を脱がず、厳しき御要害之あり候。
【松平主計頭来坂】一、御上使松平主計頭殿三月十六日当地御著。平野町総会所に御逗留。同十六日御帰府、但し右は今般の一件に付、御上使御出坂と云ひ、又御定番御引渡の御役共云ひけり、【 NDLJP:16】【綾川豊吉吟味を受く】一、相撲取綾川豊吉といふ者、兼て大塩氏と心易く出入致候故、右発起騒動の節、直様駈付候処、「味方に附けよ」と申し、無㆑拠承知致し、折を見合逃出し候処、一旦参り合候事故、御番所へ召され御吟味有㆑之候由承り申候。其外右等の事共数多有㆑之候。
【大塩父子自害す】一、大塩平八郎父子大坂市中勿論、近国・近在・山々谷草を分けての御穿鑿有㆑之候処、何処へ隠れ居候哉頓と行衛相知不㆑申候。然る処天罰難㆑遁、三月廿七日当地靱油掛町美吉屋五郎兵衛と申者の方に忍居候風聞有㆑之候に付、同朝五つ時御奉行所より召捕の為め、内山藤三郎其外組の衆数十人被㆓差向㆒候処、内より焰硝にて火を放ち、黒煙の中にて忰格之助の首を討ち、自分も共に自殺致罷在候。直様火を防ぎ死骸相改め候処、大塩父子相違無㆑之由にて、御奉行所へ右死骸駕籠に打込被㆓相運㆒候〈但し右駕籠は近辺の医者方にて御借被㆑成候由長棒乗駕籠に候事〉、先づ右大塩父子召捕られ候故市中穏に相成り、諸人安心致し申候。其節三郷町中御触の写左に、
口達
去月十九日市中放火乱妨に及び候、大塩平八郎并同人忰大塩格之介儀、油掛町美吉屋五郎兵衛方に忍居候風聞有㆑之為、【大塩召捕に付いての口達】召捕組の者差向候処、両人共自殺致し相果候。其外徒党の者共追々召捕又は自殺致し候間、其段令㆓承知㆒。無㆓掛念㆒普請等致し、諸人共無㆓
右の趣三郷町中不㆑洩可㆓申聞㆒候事、三月
右の通被㆓仰出㆒候間町々末々迄入念可㆑被㆓相触㆒候已上。
三月廿七日酉上刻 北組総年寄
一、玉造与力大井伝次兵衛久離忰大井庄一郎右徒党の一味にて候処、三月三十日京【 NDLJP:17】都にて被㆓召捕㆒候由。【大井庄一郎捕らはる】右庄一郎儀今般の乱妨一味の風聞有㆑之候故、玉造御定番遠藤但馬守殿御計らひを以て、「庄一郎親を召寄せ勘当致し候者なる哉」と御尋有㆑之。親并親類共へ早々捜出る首討取可㆓差出㆒候様」可㆓申聞㆒候由、直様親類共方々相尋申候処、一向に不㆓相知㆒、終に京都にて生捕に相成申候。遠藤殿の智略可㆑賞。
一、去甲年諸国違作に付、米穀至て高直の処、右乱妨火災後、搗米屋に仕込有㆑之候米穀并町家自分一己飯料に貯置候米穀等、【米価騰貴し非人乞食をする者多し】焼失致し候事夥しく有㆑之候故歟、又は当春已来兎角雨繁く降続気候不順に候故歟、当時米穀其外何品不㆑寄、食料の品物は格別に直段高価に相成候て、小前の者共は勿論、一統に令㆓難渋㆒候。末々・小前の者は大困難に及び、或は渡世糊口の致方無㆑之者共、非人・乞食に相成候者夥しく、又は子を川に投入れ、夫婦諸共水中へ飛入り溺死致候者も有㆑之、又は縊死候者数多有㆑之、皆飢渇に逼り世を無㆑果思ひ候ての事にて候。実に哀なる事共にて候。別て非人・乞食等食物を囉候事も不㆓相成㆒、青腫となり、道路巷街に行倒れ、餓死致し候者日々数多有㆑之。
【世澆季に及び天災地妖愈多し】一、此節疫癘流行致し、病死致候者夥しく有㆑之候。世も澆季に及び、天変・地妖・飢饉・疫癘・乱妨・火災と相成、此上如何相成可㆑申哉と色々申触れし浮説に雷同致し、諸人危踏恐居候事に候。乍㆑併日月未だ地に不㆑墜、神徳尚炳然と有㆑之候へば、太平の治世何事も有㆑之間敷とも云、種々浮〔〈説脱カ〉〕有㆑之候。
一、此節悪党者方々所々致㆓徘徊㆒、強盗・追剥又は口過難㆓出来㆒候破落戸共、豪家へ大勢踏込み酒飯等を乞ひ、否と云はゞ致㆓狼藉㆒可㆑申と押乞致し、或は搗米屋其外諸商売の家々に猥に踏込、押買等致し、価等不㆓相渡㆒掠取逃行、或は夜陰追剥・押入其外小盗人(以下脱)
広瀬重兵衛が見聞記【広瀬重兵衛見聞記】
二月十九日致㆓乱妨㆒候者、名前并取上候武器類書上之写
先手
一、木筒壱挺一、大筒弐挺、大塩格之助・大井庄一郎・庄司儀左衛門〈但右三人共外に十匁筒一挺宛携へ罷在候由。〉
中備
【 NDLJP:18】一、木筒弐挺、大塩平八郎〈総大将〉、渡辺良左衛門・近藤梶五郎・白井幸右衛門・橋本忠兵衛・茨田軍次・深尾次平・安田図書・上田孝太郎、〈但良左衛門始、外七人之者儀は、大将分の由〉杉山三平・西村利三郎・高橋九右衛門・柏岡源右衛門・同伝七・志村周次・堀井儀三郎・阿部長助・曽我岩助。但中備之内より立代り、後陣よりも相加り候由。尤槍・長刀携罷在候由。
後陣
一、木筒弐挺、瀬田済之助・竹上万太郎・平八郎中間〈喜八・忠五郎・七助・金助・十四才松本麟太夫〉 右之外駈集候人足百七八十人計御座候。尤此分右侍・百姓共にて、召捕当時入牢。但松本麟太夫儀は、高麗橋通松本寛吾と申す医師の忰にて、七年以前より平八郎方へ寄宿、学文等致し罷在候由。此度の一揆に加はり、淡路町堺筋にて御先手人数に打乱され逃去候、後召捕に相成候。
武器類
一、拾匁筒拾挺、〈此分取上げ有之。尤多分与力屋敷にて集取候品に付、追々主相分り候分はもどし遣さる。〉一、三匁筒七挺・槍長刀廿筋余・大小十四五腰・具足八領・救民之四半幟壱本・旗三梳・帆木綿幟壱本・半鐘一・螺貝二・〆太鼓一・葛籠二・長持一、
右之品々は皆取揚有㆑之。此外に有㆑之候へ共、雑物故不㆑印。
一、板木師市田次郎兵衛・同河内屋喜兵衛・ ・同源内、此四人は黄袋入。触書を仕入れ候者、外一人喜兵衛雇人、江之子島東町船大工次助〈此者大筒の台火矢等拵候也。〉
右夫々召捕入牢又は手鎖等被㆓仰付㆒候事。【落し文】平八郎元妾尼ゆう・前書橋本忠兵衛娘当時妾ゆき。 今川弓太郎但平八郎実子。去十二月廿三日妻ゆき出産のよし。 下女五人但尼は下の者共摂州沢上村上田与右衛門方へ引取候よし。召捕。 〆十三 大尾。
落し文てふもの〈別紙欠げ書写有㆑之。〉
右の物大熨斗紙四枚半に、堅物板行するなり。尤五文字・七文字程宛、小刺にして板木彫刻せしものと相見え、板木の継目と覚えて、行々に纍□ありて無器用なる認方に見ゆる。譬へば鰥寡孤独に於て尤も哀みを加ふべくは是仁政之基と被㆓仰置㆒。右の □みぶりは前末同様也。そは彫刻師も何の書も不㆓心付㆒、請合候様の手段と思はる、【 NDLJP:19】夫れにて板木師三人計り御召捕に相成、厳しく手鎖被㆓仰付㆒候由。三月上旬の噂也。右紙面堅く巻物にして黄色薄絹の袋に入れて、裏に大神宮御祓、餬にて、堅く張附ある。〈但し連判の末に画図有㆑之候。〉
連判名前
【落し文連判の名前】一、三月廿七日油掛町美吉屋五郎兵衛宅にて自殺〆弐人共〈与力〉大塩平八郎・〈同〉同格之助。一、忍知村山中にて縊死、〈同〉瀬田済之助。一、二月十九日未明遠国方役所にて御公用人に被㆓打殺㆒、小泉淵次郎。一、召捕〈与力〉大西与五郎・〈同心〉吉見九郎右衛門。一、河州田井中村にて自殺〈同〉渡辺良左衛門。一、行方不㆑知〈同〉河合郷右衛門。一、三月八日自宅焼跡へ立戻り見事に切腹〈同〉近藤梶五郎。一、於㆓南部㆒召捕〈同〉庄司儀左衛門。一、返忠 〈同心〉平山助次郎。一、召捕〈伊勢御師〉安田図書・〈御弓組同心〉竹上万太郎。一、入水〈吹田神主〉宮脇志摩・〈玉造与力〉 大井岩三郎。一、召捕〈守口村〉白井幸右衛門。一、京にて召捕〈般若寺村〉橋本忠兵衛。一、召捕 〈般若寺村〉柏原源右衛門・同伝七・松田軍治・高橋九右衛門。一、行方不㆑知〈弓削村〉西村利三郎。一、召捕〈猪飼野村〉木村主馬助・深尾次平。一、南部にて召捕上田孝太郎。一、行方不㆑知志村周次。
右連判状は平八郎所持立退に付、此余不分明の由。右は生捕庄司儀左衛門白状の由に御座候。
落し文入の袋左の通【落し文入の袋】
御師曽禰二見太夫とあり
〈[#図は省略]〉
一、大塩平八郎・同格之助は剃髪致し逃去候。当日所々及㆓放火焼払㆒、歩行淡路町堺筋にて、先鋒の者三人鉄炮に当り打殺され、右に恐怖して皆々武器捨置き、石辺の井戸へ投込み逃去候由。其節麟太夫召捕り、大体当日の成行き相分り候。
一、取上候武器の外、棒火矢其余火術道具様々有㆑之候。
【木筒】一、木筒は松の木にて、丸さ差渡し一尺計り丈、半間余、穴の差渡し七寸許も有㆑之、【 NDLJP:20】外には竹の輪入有㆑之。尤雕ぬきに有㆑之候。
【大井庄一郎】一、庄一郎は玉造口御組与力大井伝兵衛忰にて、先立より久離に相成候。
【庄司儀左衛門】一、儀左衛門は全体平八郎槍の弟子にて、当日格別剛勢に相働、打節大筒火巡り兼候付、附木に火を附置き乍ら、火口を覗き候砌、過て火傷致し、片手不自由。且焰硝の煙眼中に入候哉、歩行少々不自由にて右人数逃去候節邪魔に相成候哉、於㆓途中に㆒まかれ候由。
【渡辺良左衛門】一、良左衛門も剃髪致し、右村にて自殺致し余人を頼候哉、首切有㆑之。
【近藤梶五郎】一、梶五郎も其砌は一緒に逃去候得共、致㆓如何㆒候哉、立前一人当月八日夜窃に立戻り、居宅焼跡に残候雪隠の前辺にて切腹致し候。殊の外見事に有㆑之候由、首も塩詰に致し有㆑之。
【白井幸右衛門】一、幸右衛門は質屋渡世にて、至つて身上柄宜敷候由。是も伏見表にて御召捕に相成候。
【橋本忠兵衛】一、忠兵衛逃去候折節、平八郎家内の者に出合ひ、一集に旅行。江州路にて京都の御役手に召捕られ候由。
【松田軍次】一、運次(軍カ)は御城代にて御召捕の由、其外は先の連判の上に書入候通り。
【瀬田済之助】一、済之助は一旦逃去候へ共、手当厳しく且は諸向御手配にて出張。御役方多く難㆓逃去㆒、是も剃髪致し甚だ見苦敷相成り、忍知村山中にて縊死致し、死骸は当時塩詰に相成候。
【竹上万太郎】一、万太郎、騒動の前夜平八郎方にて荷担人一統酒宴相催候砌立去、翌日右一条を承り、血判致しながら当日朝未練発心致し、家族の家へも申聞逃去候抔と申陳べ、其場より逃去候。所々・方々へ立退き、無㆓致方㆒、又々中山寺辺若□と申茶屋迄立戻り候。同人方にて御召捕に相成り候事。
【猟師金助】一、猟師金助は至て鉄炮の名人にて、平八郎より兼ねて被㆓相頼㆒候様にも相聞、既に当て連参に付、歩行にて召捕に相成候。
一、百姓共百七八十人の内には、随分剛気の者も有㆑之、是等は刀・脇指を貰ひ帯刀致し、且は槍など用ひ候由。
【 NDLJP:21】一、大工次助の外にも両三人有㆑之、召捕御調中に有㆑之候。
【平八郎は今川義元の裔なり】一、平八郎は今川義元の末孫の由にて、則ち実に今川弓太郎と名乗らせ、又平八郎所持の兜は、義元より相伝の由にも聞伝へ居候。是も取上げ有㆑之候。
一、連判巻は平八郎所持致居候哉不㆑見。当荷担人追々召捕り上げ申候て、先づ名前計り相分り申候。
一、済之助・淵次郎は連判に加り、企の次第助次郎返忠にて相顕れ候に付、十九日早天淵次郎一人奥向より呼びに参り、生捕に可㆑致と捕に懸かり候処逃去候に付、遠国方御役所に於て御手打に相成り、右の様子聞付け、済之助裏手土塀を飛越え逃帰り、平八郎方へ急に鉄炮を打出し候。
【大西与五郎】一、与五郎は連判に不㆓相加㆒と申候へ共難㆑聞、専御取調有㆑之。乍㆑併騒動を聞付け逃行候砌帯刀不㆑致、過□にて先其廉にて当時入牢、忰善之丞も入牢に相成有㆑之候。
【吉見九郎右衛門】一、九〔〈郎脱カ〉〕右衛門右企の次第平八郎折を見合せ、諫言も可㆑致と、最初より右の次第は変心致し、身を隠し心得に候哉、当日騒動を聞付け、五百羅漢・堂島迄逃行候処被㆓召捕㆒候。
【河合郷左衛門】一、郷左衛門も同様右企は不承知に候へ共、師弟の間柄故、断りの申様も無㆑之、且は剛勢に恐怖致し、一応断の上諫致し誠候処、殊の外平八郎に叱られ、少々手込に合候由、右騒動十日程前に出奔致し候。
【平山助次郎】一、助次郎は返忠にて、企の次第露顕致し、当時は江戸へ遣有㆑之候由。
【宮脇志摩】一、志摩は吹田村神主にて、平八郎伯父に有㆑之。当日人数に加り、其後居宅へ帰り、養母を及㆓殺害㆒、其身切腹可㆑致処死おくれ、其儘近辺川へ飛込候由。
一、触書は所々・方々村方へ手を廻し投込、又は張置、百姓共を手に入候手段に有㆑之。態と御祓札張り有㆑之。
一、焰硝玉の鉛船など夥しく買込有㆑之。革葛籠に入れ、皆々取込み有㆑之。
江戸より到来状の写
於江戸 松平甲斐守家来へ
【大塩一件に付江戸より来状の写】大坂町奉行組与力大塩格之助父隠居平八郎頭取、与力・同心并百姓共徒党致し、火矢【 NDLJP:22】等相用、大坂町中所々へ火を懸け及㆓乱妨㆒候に付、早々人数差出し召捕可㆑申候。時宜次第打払ひ斬拾に致し、且著込も相用ひ候儀勝手次第可㆑致候。尤様子に依り候へば、出馬をも可㆑致候。酒井雅楽頭・松平遠江守・青山因幡守・岡部内膳正へも人数差出し候様相達候間、可㆑被㆑得㆓貴意㆒候。 二月
右同断
此度大坂町奉行組与力大塩格之助父隠居平八郎頭取、大坂町中及㆓乱妨㆒候に付、早速人数差出候様越前守殿より、御書附を以被㆓仰渡㆒候。依㆑是在所播州姫路早打差立申候に付、心得申上候。 於江戸 酒井雅楽頭
頭註此以下は熊見六竹が筆記なり
【熊見六竹が日記】一、天保八年丁酉春二月十九日〈丁卯好天気西南風〉五つ時、天満与力町の東四軒家敷与力宅より出火。【大坂出火】追々広くなり、東天満不㆑残類焼。尤此出火石火矢にて焼立候出火故、殊の外火早く、同日正九つ時頃難波橋より石火矢を引渡し、第一番に、鴻池善右衛門宅を石火矢にて三度打候処、忽ち焼上り、夫より三井・岩城等の呉服店又は鴻池屋庄兵衛・同善五郎・平野屋五兵衛・天王寺屋五兵衛杯段々打立て焼立候処、暫時に船場一面其火と相成候。船場西は北にて中橋筋迄、夫より東へ段々寄り、下にては難波橋筋辺にて、南の方安土町南側迄不㆑残類焼。夫より上町は八軒屋より段々、尤米平へ石火矢打込候由。天神橋焼落し、上町西は川端東へ東御番所迄、夫より下は谷町筋内本町迄、南は去年の焼場迄。誠に広大の大火なり。但し両御番所并思案橋東詰にて四五軒不思議に相残り候由。
一、抑〻当一件は天満与力大塩平八郎・同苗格之助〈平八子息〉・瀬田済之助父子・小泉并同心組近藤梶五郎・庄司儀左衛門・渡辺良左衛門等の逆謀にて、石火矢は炮烙火矢又は棒火矢の由。石火矢五挺共云ひ又は八挺共云ふ。第一番に与力町不㆑残右石火矢にて焼打、夫より段々市中に及候由。天満東照宮御霊屋天神社黄門御堂抔不㆑残類焼。
一、石火矢を難波橋引渡り候節、天満市の側東より引出候を見懸け候。人各〻遁候て見受候者有㆑之。又橋を渡懸け候処、向より石火矢引来候故、驚き皆々散々に逃げ候処、或人南詰にて遁路なく、西の欄干より飛下り岸岐にて見受候処、橋七八分位の【 NDLJP:23】処にて西欄干の間より一と放し致し、北浜の俵屋と申す宿屋の西隣酒屋へ打当、艮の刻火燃出る由、夫より鴻善の西横町へ引附け、鴻善横裏より一と放し、又表へ廻り二つ三つ打込候処、早速燃上り候由。尤裏より打候故に立退き可㆑申由、案内致し候と申す事なり。
【鴻池焼かる】一、鴻池大方丸焼け、土蔵三四ヶ所焼落ち候。鴻池善五郎は向ひ故、直様打込候由。扨鴻庄は其次に打込申候。尤其節未だ店の者多分残り居候処、立退可㆑申案内致し候由。土蔵目塗り致し候間もなき故に、土蔵不㆑残焼落候由。但し石火矢は土蔵一ヶ所より打込不㆑申候へ共、余は類焼の由に相聞申候。
一、鴻池本家鴻庄にて金銀沢山に奪去り候由、風聞相聞え申候。
【三井両替店焼失をまぬがる】一、鴻池より天五・平五を打潰し高麗橋筋へ出で、三井両替店を打候積りにて、表の暖簾を引ちぎり居候内、石火矢を引通り過候て、両替店は難を遁れ候由。類焼も不㆑致大に仕合なり。石火矢打候に暖簾邪魔になり候由、後来相心得長暖簾懸け申度きものなり。
【三井呉服店へ乱入】一、夫より三井呉服店を戸を大槌を以て二ヶ度打摧き候て、おたれの上の窓へ向け石火矢三打。其後入口より蔵々へ打当て、殊に唐物蔵は戸前を開き打候由。夫故一番に焼落申候。其次岩城を打摧候事三井同様の事。
【一揆平野町にて散散に敗る】一、夫より平野町へ出候て、茨木屋万太郎を〔脱カ〕候積りの処、茨木屋は早朝四つ時は立退き、長町下屋敷へ皆々遁行き一人も居合せ不㆑申、殊に表側余程毀ち有㆑之候を見懸け、此処を行過ぎ候処、茨木屋の内より公儀の伏勢起り、忽ち玉薬持を鳥銃にて打伏せ、其外鳥銃凡二三十挺にて石火矢に附添居候百姓共を打散候処、石火矢引き乍ら淡路町へ難波橋筋を遁行候処、淡路町にて又々尼ヶ崎の勢に出会ひ、鳥銃にて打倒され、槍にて突かれ、此処にて大将と覚しき者一両人打取られ申候由、此処へ死屍三つ、一つは首なし。此淡路町の東にて槍にて突伏せられ候死屍一つ。
一、此死骸の残りの首は、廿一日晩方又々不㆑残公儀より斬帰り候由。
一、此処にて大筒・石火矢一挺公儀へ御取上げに相成候事。
一、此処の近辺にて、廿一日に井戸より鉄大筒二挺引上げ申候由。十九日御取上げ【 NDLJP:24】に相成候を、直様台の車を離し、井戸へ打込置き候のなりと申沙汰す。【井戸より鉄大炮出づ】但し十九日に此処にて一挺取られ候由風聞候へ共、二挺取られ候哉とも被㆑察候。
【諸橋の惨状】一、蘆屋橋・今橋焼落ち、高麗橋・平野橋・思案橋等或は半分又は少々落懸け、危うく相成候由。但し通行はかなりに出来候由。
一、天神橋は焼落ち、橋杭水の上に一二尺計り相見え申し候。
一、此度の総大将大塩平八郎父子天満より行方なく落行申候。并に瀬田済之助・近藤梶五郎・渡辺良左衛門・庄司儀左衛門〈三人は同心〉に以上落行申候。
一、十九日朝樋口氏与力某〈善人の部〉方へ火事見舞に行候処、同席に木屋善七〈伏見町唐物屋〉糟谷某の息小鼓抔居合候由。然る処表に鳥銃の音頻りに聞え候故、出て見候処、鳥銃処々に鳴り、抜身の槍・長刀・劒抔を持ち徘徊する者多く、石火矢を東より引来り打放し候を驚き、家来を連れ其儘遁出し、天神橋へ来り候処、通し不㆑申故西へ遁来候処、青物市場辺にて一人抜身の槍にて乾物屋の表の物を突砕き居候が、樋口氏を見て、槍を以て向ひ来り候故又々取て返し遁候処、跡より追懸け来候故、最早間近く相成、無㆑拠一刀を抜立戻り斬払はんと致し候へば、勢に恐れ候哉遁行候由。其時自身も亦天神橋へ来り候処、通行出来候間漸く遁帰り候由。扨々危き事なり。自身の話なり。
一、篠崎の西隣山田屋大助と云ふ者、天神の社南門を出候時、東より石火矢を引来り大言声にて、「来来の者早く遁げよ
一、或人難波橋北詰へ出候処、東より石火矢を引来り候故、驚き西へ遁げ尼の屋敷にて見受候処、大将と覚しき「者焰硝を持来れ〳〵」と頻りに呼はり候得共、焰硝折節なかりしや、如何致し候か、其内橋を南へ石火矢を引渡しけり。橋の上なる人々一度にどつと遁行きしを見懸けたり。橋の北詰にて斯く呼はりしは、大根屋を打潰さんとの為なりける由、後に風説せり。
一、或人曰く其時橋詰の青物市場へ、紀州侯の荷物を揚げ候に付、悪党共石火矢に【 NDLJP:25】て打たんとせしかば、【凶徒紀州侯の荷物を打たんとす】荷物附きの人二十人計り、「是は紀州様の御荷物なるぞ、慮外すな」と呼はり「打たんとならば、我々を打つべし」と云ひければ、其人に向ひ空筒を打ちければ、人々ぱつと散りけるとぞ。
一、或者難波橋を半分渡りける処へ、石火矢を引来り候故、驚き立戻り遁げけるが、こけたりける其上へ追々こけゝる。欄干を持ち漸々立上り一散に遁げけれども、橋の南詰にて石火矢に追詰められ、欄干を越へ岸岐え飛下りすくみ居て、南詰の俵屋の西隣の酒屋を打つを見たりと云へり。
一、天満十丁目筋鳥居通り北へ入る所に、山本屋治兵衛と云ふ木綿屋は、我等知る人なり。其向に紙屋あり、其家へ吉田屋藤兵衛〈船津橋北詰の砂糖屋〉出火見舞に行き酒飲み居候処へ、ばら〳〵と来る故、覗き見候処、一人店の紙へ焰硝を懸け火を附け候故、驚き候て「御助け御助け」と呼はり候処「助けてやる、裏へ遁げよ」と云ふ声と「殺してしまへ」と云ふ声と一時に聞え候故、其儘家内諸共裏へ遁出候処、石火矢を表の二階へ向け打放し候由、跡を見ずして遁出たりとぞ。是亦危き事なりける。夫故山本屋は丸焼に遇ひたる由、今廿二日迄山治に逢はず。
一、天満南は大川、西は堀川、北は寺町通迄。東は川崎野原迄一円に類焼。朝五つ半時より九つ時迄に焼込す、誠に早き火事なり。
【羽州の僧雪堂恵源】一、羽州の僧雪堂・恵源と申すは、七絃琴の上手にて歳六十計り、書も能く書き申候。堺筋淡路町北へ入る西側の裏に寓居せり。出火の節手廻りの物を持遁げんと表へ出で、南の辻へ出かけ候処、辻の真中に石火矢居置き有㆑之候故、驚き立戻り軒下に彳み居候内、大勢辻にて石火矢を見物致し居候者有㆑之、甚だ悠々緩々たる事なりける。暫くして石火矢を少し西へ引戻し候故、此隙にと一散に南へ走り、人影十人計りと思ふ程行過候処へ、南より鳥銃持ちたる人三十人計り来り候て、「辻へ出火此処を打て打て」と頻りに下知する声の聞えけると、一時にぼん〳〵と夥敷鳥銃の声聞えける時、南の瓦町の辻近くにてこけたるが、此和尚のこけた脊の上を、三四人も踏越えたりと覚ゆる時漸〻起上り、北久太二丁目某寺へ遁行たりとぞ。察するに此所は彼首なき死骸の有りし処なれば、南より来りしは尼ヶ崎衆なるべし。扨此話を聞くに、【 NDLJP:26】石火矢を大勢見物し居たる抔甚だ
一、石火矢の前に小旗三本、三社の託宣を書ける由。大旗は上に二つ引き桐の紋附き、下に救民の二字ありける由、何れも白縮緬に染込の幟なりける由。
一、逆賊大塩平八郎始め同人党の出立は、肌に著込様の物を著用、上に具足を著たるもあり。火事羽織もあり。色々ありけるとぞ。又兜を著たるもあり。兜頭巾もありけるとぞ。百姓の方は常体の日庸体なりける由。
一、蕗州子曰く「与力町へ火事見舞に行きたる時、出掛に石火矢を引行くを見たれば、一人白垢を数枚重ねたる者附添ひたり。大方賊首大塩ならん」と云へり。
一、十九日出火天満と聞き、我等天満与力町辺に一向知音もなければ、五つ過堂島船大工町難波屋・鶉屋抔へ行き、火見より火を見るに、驟の事故暫時店にて話し居候処、角力取帰、り「今日の火事は恐しき火事なり。鳥銃抜身にて一向近辺へ行かれ不㆑申、遁帰る由」申候。店方にて話しゝは、「与力町に喧嘩抔出来斬合候由、自焼して切腹致すならん。四軒屋敷故多分大塩氏対手ならん」抔話したり。扨帰りにも処々にて其噂計りなり。帰宅後船場へ火移りける後、逆謀の由風聞人々驚き擾乱となれり。我等も荷物片附け、廿二日夜此迄を認め終りぬ。
一、当一件は一朝一夕の企に無㆑之由、西御奉行様御巡見の御通行天満へ御出の節、七つ時にも相成候へば、其節途中にて変事を起し、直様旗上げ可㆑申巧にて有㆑之候処〈従㆑是上は風聞の説也〉十八日夜泊り番大塩格之助与力小泉某・同心両人其手都合内々申合せ居候処、立聞の者有㆑之、早速公用人槍を以つて小泉を突留め候処、格之介は稲荷の社を越え遁亡候由風聞。〈此一条後に岡氏の文面にて実説相分り候。〉
一、十九日御巡見は十八日御触有㆑之候処、十九日早朝俄に延引の由、御逹し有㆑之。
一、或説に云く、十八日夜小泉某返忠にて内々巧の段、御奉行様へ申上候に付、大塩父子并瀬田才(斉カ)之助御召寄御吟味対決中、返答に行詰り候節、格之介刀を抜き、小泉某が腕を斬落し候に付、御奉行様御怒りにて御手打に可㆑被㆑成候処、瀬田鍋(済カ)之助抱【 NDLJP:27】留め候間、其隙に大塩父子遁去候由、瀬田は連判切腹致し候共申候事。
一、十八日夜守口村吹田の百姓に施行致し遣候間、十九日暁天より大塩宅へ皆々可㆑参候由申触候由。夫故早朝より百姓追々大塩宅へ参り候由。北より走来候百姓共、大塩は何処に御出にて御座候哉と相尋走り参り候者、何十人共不㆑知と風聞。
【大塩市民を語らふ】一、十九日朝大塩宅にて百姓に申聞け候は、「此度万民救の為市中を焼打に致し候間、一味仕り石火矢の車を押行可㆑申段申聞、不承知の者数人斬捨て候に付、百姓皆々恐れ一味致候由。〈後に大塩家宅焼場に死骸六つ埋め有㆑之全一味に背き候者と被㆑存候。〉
一、十八日夜八つ時過天満与力町にて、合図の烽火三つ上げ候由。
一、十九日朝百姓の目前にて、自分の妻・格之助妻子等不㆑残斬殺し候由申候。或説には伊丹紙七と申す者へ、十四日頃大塩中八郎婦人を五六人召連れ参り、預置帰候故、家内には児女の類一人も無㆑之共申す事。
【大塩の扮装】一、十九日与力町へ火事見舞に参り候人、石火矢押行くを見掛け候処、石火矢に附添居候者一人、白無垢の袴幾枚も重ね候者兜を著し居候由。其傍に抜身の槍又は刀を持候者数人附添ひ居候由。長刀も一人有㆑之候由。白袴は大塩平八郎也と申候由。
一、十九日多坂氏〈与力にて善人方〉へ見舞に参り候者承り候は、早朝多坂氏の門長家の壁を摧き、蘆の長さ三四尺計りにて、円行灯位のもの一把擲込候処、忽ち火発し長家・屋根・床も一時に砕け候由、併し能防ぎ候哉、多坂氏一軒は残申し候由。門前は抜身奔走致候由見請帰り申候。帰路裏の竹藪を切開き、遁退き候由。藪間龍吐水の幅より五六寸も広く候に付、棄置候龍吐水を立戻り取帰り候由、此人は平生臆病らしき人に候処、今度は余程勇気の働に御座候。此一条自身の話なり。
一、十九日淡路町一丁目某家内夫婦・子供二人・下女□人の処、主人長病、妻は熱病にて平臥。下女も病気の処火事近く相成候処、頃長柄村親類より参り、妻を駕籠にて連れ、主人を負ひ遁退候節、下女・子供両人を背負ひ家を出でて半町計り参候処、抜身の真中故下女病中と云ひ、旁〻以斃れ候て、漸〻起上り後を顧み候処、已に其家へ石火矢を打ち、黒煙纒ひ候、見ながら遁退候由。
【凶徒の器】一、同日天満焼き歩行候節、旗三本三社の託宣并に桐の紋の旗は前条に記する如し。【 NDLJP:28】其外に題目の旗一本有㆑之候由、見請候者有㆑之の事、其外旗竿に巻附け有㆑之候旗数本有㆑之候由風聞。
一、十九日或人大塩方へ見舞に行き候処、大塩抜身の槍を提げながら、「其方は味方致すべくや不㆑致哉」尋候間、恐敷候故「御身方致すべし」と申候へば、 て振り飯飯つ兵糧と唱へ相渡し、又喰はせもさせ、扨「何ぞ武術を心得候哉」相尋候間、「弓を少々致候由」申候へば、早速弓矢を渡し候間、彼弓矢を持ち跡に付いて、十丁目筋辺にて隙を考へ遁帰候との事。
一、十九日又或者参候処、以前之通申聞け承知の上、金子二両差出し、「是を持て」と申候間、其者申候には「金子は用意御座候」と辞退致し候へば、「然らば車を押せ」と申すに付車を押し、是も天神の東横町辺より遁出し、難なく遁帰り候由。
一、握り飯は五合の飯を二つ宛に握り候を、長持に凡そ五棹も有㆑之と申す事。此五棹の飯出し候事、小人数にては相不㆑成儀、如何致し候哉と申居る者有㆑之、是は実説哉否哉を知らず。
一、伊丹の某と申す馬士両人を正月何れの頃か召寄候処、一人は不参、一人は参り候処、金子五両与へ、「其方に相頼候用事有㆑之候。近日に人足入用に候間仕立申すべく、其節可㆓申遣㆒由」申聞候て帰宅の後、不参の一人へ右金子見せ候処、其者後悔致し参候はゞ、「我も五両貰ひ可㆑申に」と申居候由。其後十八日夕俄に右の者を呼寄せ、金子十両与へ、人数何十人とか仕立て申旨申付候由。因て其者伊丹に帰り、彼一人にも申聞かせ、人足頼候へ共、夜中と云ひ急なる事にて人足一人前一朱宛可㆓遣申㆒候得共、一人にも出来不㆑申故、今一人の彼不参後悔致候者と二人連にて、又々大坂へ参り候道にて、間道より歩行き途中何か道々一人々々まき〳〵参候間、彼一人拾取り見請候処、お祓の裏に紙を附け、「今度万民救の為、大坂市中焼打に致候間、皆々加勢可㆑致候旨」附附け有㆑之候に付、彼者驚き遁帰らんと致し候処、先の一人大に怒り、脇指出抜き斬付けんと致候に付、早速遁出し漸〻遁帰り候由、先の一人は参り味方致候哉、又は他所へ出奔にや帰り不㆑来との事。
一、十九日朝大塩内に居申候若き書生、是は高槻か淀かの五百石も知行を取候侍の【 NDLJP:29】子息の由。勿論一味同心の腹心の若者に候処、大塩命令にて「兜を著よ」と申候へ共、著不㆑申故、強て申候へ共、一向承知不㆑致候処、引捕へ咽笛を抉り殺し候由。
【大塩蔵書を売りて市民に施行す】一、当月六日大塩平八郎所蔵の書物五百両計りの物を売払ひ、市中へ施行に金子を遣す由にて、書林四人に申付け、入札にて両度に売払候由。尤先の一度に売払候節の金子、天王寺辺端々へ施行に遣候由。二度目の金子は施行に施し候事は無㆑之との事、此一段正月下旬より略〻相聞え申候。施行の節長文句のちらし版木に彫り配り候由、此ちらし如何様の書面なるや知らね共〈淡路町辺の井戸より揚候書物別紙に写栗亭に其書有㆑之〉施行は乱妨前故、人々能く存居候。実説無相違也。
一、同廿日の説に、「各施行の儀は、平八郎隠居の身分にて〈天満与力の隠居は格録共無㆑之者故町人も同様の事との御叱の由〉 気儘の致方なり」と、御奉行にて御叱り有㆑之候処、平八郎申し候は、「斯る時節柄上より被㆓仰付㆒、大坂中豪富の町人に申付け、大施行可㆑致申処、左様の事もえ不㆑致、都て某の施行を御咎候事不㆑得㆓其意㆒候」抔、上を不㆑憚法外の言共申出候て遁帰り、夫より逆謀を思付候抔との風聞有㆑之候へ共、中々左様の急速の事にては無㆑之哉との風説、翌廿二三日頃相聞候也。廿日頃には専ら是無㆓相違㆒様申触らし候事。
一、又或説に云く、右施行の御糺しの節、返答に行詰り、帰り候後御奉行様を怨み、弑逆の悪謀を思ひ付候とも申す事。
【大塩凶乱に就ての諸異説】一、又或説に云く、西御奉行様近来御出の節、両御番所御立会にて、平八郎を召出し被㆓仰付㆒候は「其方儀未だ老人と申すにも無㆑之事故、斯る時節柄再勤致し、政事御手伝可㆑申旨」御町嚀に御頼の処、平八郎大に立腹致し何か悪言を致し、不承知申し立帰り、其節より謀逆存付とも申候事。
一、又或説に、去冬平八郎東奉行所へ申出候には、「当時米価殊の外高直に相成候間、下々貧窮の者難渋仕候。何卒富豪の町人共へ被㆓仰付㆒、御城の馬場に於て大施行被㆓取行㆒、一人前余程の金子与へられ、并近年の闕所米を市中へ施行被㆑成候へば、一軒前二三俵も当り可㆑申候間、さ候へば市中余程の潤にも可㆓相成㆒候間、早々取行ひ被㆑成度」との事故、御奉行にも尤に被㆓思召㆒、則ち十人両替へ被㆓仰付㆒候処、町人共御断申上候筋有㆑之。御聞済に相成、闕殊の外立腹致し、夫より隠謀を企て、両御奉行所并豪【 NDLJP:30】富の町家を、今度打破りに懸かりしなりとの風聞。
一、或説に云く、元来去年来出雲屋孫兵衛と申合せ、江戸へ廻米の手段有㆑之候処、江戸にて出雲屋の同類被㆓捕召㆒此儀白状致し隠謀露顕に及び候間、出雲孫は御吟味最中故、俄に旗上げなりとも申候事。
一、廿一日平野町辺の井戸より、鎧にて御出候由。尤公儀役人取出し能居候を見受候者の風説なり。取出し候節、早速古葛籠様の物へ被㆑入候間、如何様なる鎧なりしや相分り不㆑申候事。或者の云く「是は鎧ではなし、鎖帷子にて揚羽の蝶の紋〈賊首大塩の定紋也〉 附きたるなりし」との事、又其辺の井戸より白縮緬の幟一本引出し候由。是も公儀役人取揚候を見請候者の咄の由、如何なる旗なりしや知らず。此等は実説なれ共何れが実説なるや分り難し。是やこれ空にて誠にもありつくしなるらん。
【岡翁助の書状】玉造与力岡翁助殿より道修町五丁目原左一郎殿へ来状の写し。〈但し原氏の子息の妻は翁助殿娘故縁者なれば〉
昨日は御手紙只今始て帰宅拝見仕候。十八日夕泊番より帰宅不㆑仕候仕合、十九日午時東奉行山城守殿より、玉造方与力・同心御頼に付、無㆓余儀㆒与力五人・同心廿人罷越し手伝仕候。同日八つ時頃淡路町二丁目にて、大塩組の者平士二人士分と思しき者一人打留め申候。夫より大塩方何れへ参候哉、相知れ不㆑申候。廿日夜には玉造町中焼討との流言に付、余程の手当致候処、何の沙汰も無㆑之候。一昨日には東奉行・御城代より、段々の御頼に付、守口へ大塩組在㆑之由に付、打取可㆑申様被㆓相願㆒罷越し候処、守口庄屋三郎兵衛留守中へ参及㆓吟味㆒候処、何れも不㆓相分㆒。夫より吹田村へ罷越し吟味致候処、是も同様。乍㆑去此地にて平八郎伯父罷在候。召取り申すべき心得の処、此伯父権八郎と申者、致㆓切腹㆒候由に付、引取申候。昨日伏見にて平八郎家来二人、守口村三郎兵衛三人手に入申候。未だ平八郎住居相知不㆑申、扨々面白き事共に御座候。十九日より時夜迄伏不㆑申候へ共、草臥不㆑申候。右の事両三年目に有㆑之候へば、術を退け不㆑申は大慶仕候。一両町奉行衆京橋組与力は腹巻計り著用致候事にて、玉造方は平八郎如きに、右様の手当等は不㆑致申候。乍㆑去平八郎組ゟ打出し候鉄炮、玉造方陣笠へ当り打抜申候へ共、一人も疵負候者無㆑之候。唯今【 NDLJP:31】より御城入に付、荒増申上候。尚拝面御咄可㆓申上㆒候 以上。
当廿二日 ひがし
西様
右書状の名当の処西様と有㆑之は、原氏の事。東よりとあるは岡氏自身の事にて、懇意の縁者故、東西にて事済候事と相覚え候。道修町五丁目は玉造より半里も西に相当り候故、如㆑斯歟。
一、廿一二日平野町辺井戸の内より、革葛籠一つ出申候由。内には書物類入れ有㆑之候と申す風聞。如何なる書物なる書物とも見たる人なし。
一、同じ辺の井戸より槍又は鉄炮抔も出で候由風聞。
一、難波橋通り何れか、路次の内に槍一本棄て有㆑之候と申す者あり。
一、勘助島にて大塩組十四歳に相成候者被㆓召捕㆒候由。此者大筒を能く打ち候者の由、但し廿一二日頃也〈但し此者大塩出懸列に□歳にて松本林太夫と有㆑之、其者ならんか〉
【石火矢蔵炮の者召捕らる】一、十九日八つ時頃、石火矢を平野町東より引来り、茨木屋の前より南へ一二挺引行く処、淡路町二丁目にて此石火矢・鉄炮召捕られ候由。尤大塩組遁退候節、自身に井戸へ槍・長刀・刀・石火矢・鉄炮の類抛込置き候哉共被㆑察候。大塩組の遁退候節は、衣類も脱替遁退候哉とも申す人有㆑之候。
一、十九日七つ時頃、堂島巴の辻にて、鉄炮かたげ候平士二人其辺の者集り、討斃し捕へ候由。又蜆橋を北へ一人遁候者有㆑之候をも捕へ候との事。
【吹田の神主】一、吹田西の社の神主は其頃信濃守と申す由、平八郎弟也と申す事。此者前文岡氏書状中に有㆑之。権八郎と申すは同人異名也。此者切腹と申す噂、其後養母を槍にて突殺し〈一説には刀にて両段に切候とも、〉百姓一人に手負せ候処、村中の者驚き表門に集り、彼首騒動致居候内、裏の竹藪を切開き遁亡候由。其跡妻子被㆓召捕㆒、養母の死骸は御検使立ち候て相済み、吹田村は人出入一切禁制致し居候由。
一、伝法屋親類右辺の在に有㆑之。其大庄屋の後に御米蔵有㆑之。其廻りに大池あり。其縁に人一人伏居候を危み、百姓二三人見に行き候処、大に叱候故皆々驚き引返し候へば、直接に咽へ刀を突刺し、其儘ざんぶとはまり候。早速神崎御張へ訴出で候【 NDLJP:32】へば、役人御出被㆑改候処、切腹致し有㆑之、仍て首切落し持帰られ候。其後死骸を長持に入れ来る様被㆓仰付㆒候て、大に騒動致候事右伝法屋へ見舞に見え咄有㆑之候。是誠の吹田村の神主也。
一、又或説に右神主宅吟味致し候節、庄屋二人一町程も手前に牀几に懸かり、百姓大勢先に立たせ候処、気味悪しく候てどや〳〵申居候処、中に強気の者両三人竿の先へ提灯を括附け、わつと差出し候処、提灯の弓外れ候にや、そりやこそと遁出し候へば、跡の庄屋も牀几を返し、どつと一同に遁出し候。何の事も無㆑之候故又々詰寄せ、今度は漸〻四五人内に入り候へば、味方の内よりやいと一言悪ちやり申候故、又々先の如く
一、此玄蕃信濃守事、十九日早天長柄の渡場にて申候には、「我等も此渡場渡り候事今日限なり」とて、金一歩渡守に遣す。尤火事装束に槍を持居候由。扨其後其辺の穢多村へ行き、穢多を駆催し加勢に参り、終日相働夜に入り、吹田村へ引取候由風聞す。
一、本町辺の人、十九日出火見舞に参り候処、石火矢に出会ひ、悪党共不㆑知見物致し居候処、先に鉄炮二三十挺切火縄にて行き、次に旗立て大勢抜身にて火事装束を著し参り、其次石火矢、其跡抜身刀三十人計り、其次革葛籠三荷、其次又抜身槍刀三十人計り、其次長持一棹、又抜身三十人計、其外色々物有㆑之候由、都合二三百人も有㆑之候由。難波橋を渡候間、跡に附参り候処、橋の中程迄石火矢放し候に驚き後へ遁戻り、本町へ遁帰り候処、本町辻にも亦、抜身槍・刀二十人計り立並び居候に驚き、其
一、廿一日船場井戸より引揚げ候槍・大筒と申すは、十匁筒なるべし。石火矢は皆木筒なりけるとぞ。
一、十九日に大筒打ち歩行き候節。東与力町にて二挺破砕け、西与力町にて三挺破候由。大筒都合八挺の処、五挺は与力町にて破れ、船場へ引渡りに(しカ)は三挺にて有りけ【 NDLJP:33】るとぞ。
一、或人廿五日与力へ見舞に行候処、主人は留守にて僕計り囲ひを致し居しが申候は、「船場は大に仕合に御座候。八挺の石火矢五挺は与力町にて、三挺引行候なり。八挺皆船場へ行候へば、大変無㆓此上㆒事、大坂中を焼可㆑尽も知れず」と申居り候。
一、二十三四日頃野鴫辺か、悪党の内一人切腹致し居候由風聞。
一、同日頃闇峠にて、一人縊死居候由〈具足著用の儘に候故大笑なりと申事〉
【大塩召捕の風聞】一、廿六日実説相分候。大塩父子専ら江州彦根にて被㆓召捕㆒候由風聞致候へ共、是は人違にて候と被㆑存候。彦根家中の子息一人、大塩門人にて大坂へ参り居候へば、乱妨の節相雑り居候由。夫故彦根へ落行候哉と申す事、鳥井本より高宮へ越し、山中にて被㆓召捕㆒候と申す事此人ならんか。
一、四つ橋の下より刀五本水中より取揚げ候由。悪党共の抛込み置候なりとの風聞、但し八本抛込み置候と申す事。
一、庄司儀左衛門の妻乳呑子を抱へ、下部一人を召連れ、兵庫の親類へ落行候処、向に寄不㆑付候故、有野屋徳蔵を相頼み候処、是も本人はえ不㆑留段々の頼みに、下部の持居候包み出預り置候。三人は宿へ行候処、早被㆓召捕㆒候。有野家内不㆑残大坂表へ御召出に相成候。右は実説。其外悪党共の妻子皆々縁者へ預置き候処、其頃早速被㆓召捕㆒候と申す事。
一、大坂宅焼跡に兜の鉢一つ・刀の身二本焼けて有㆑之候。見来候者有㆑之候。
一、勘助島にて召捕候十四歳の者、白状に、「去年三月頃より炮烙・火矢の玉を数百も張りて計り居申候」との事。
一、一件以前に焰硝蔵にて、革葛籠に二つ焰硝を相求候処、焰硝蔵にて余り沢山に買候故不審致し候処、何れか御大名方の御頼の由、焰硝蔵にも買人大塩故其儘に相渡し候由。但し其節角力取二人にて脊負帰候由風聞。
一、十九日淡路町にて被㆓打捕㆒候侍分と覚しきは、大坂近辺の神主にて、炮術師範仕候者打殺され候故、大塩組大に力を落し、夫より落行候事。坂本源之介是も炮術師範仕候者、右同辺にて被㆓打殺㆒候。
【 NDLJP:34】一、廿五日召捕人二人〈実説従是上〉胴丸駕籠に網を著せ来候由。此召人は与力・同心にて、廿三四日頃大坂近辺にて手に入申候なりとの事。但し廿一日伏見にて被㆑捕候大塩守口村庄屋様にては無㆑之候。
一、忠間と申す人の咄に「難波新地の縁家へ見舞に行き承るには、十九日七つ時頃火事装束にて、抜身の槍刀にて二十人程皆々に申候には、「権現様を和泉の岸和田へ奉㆑送堅(警カ)固の役人なるぞ、驚く事なかれ」と申し、南へ行候。其辺の者誠にと存居候処、東照宮様は生玉へ御越に候故、皆々不審致し居候処、大船一艘何丸共不㆑知、行方の不㆑分る船有㆑之、是全く大塩組船にて遁出し候哉と皆々存居候事。」
一、中国屋の親類茨木にて大庄屋、此村尚御城代の領分に候。其故右庄屋百姓数人召連れ又同御領の庄屋是も百姓を召連れ、御城へ御窺に出候処、定路は吹田村への討手にて差支候と存じ、京橋への道へ巡り候処、渡場の堅(警カ)固皆槍・鉄炮にて相改、無㆑障相済又候哉京橋にて、鉄炮の火蓋を切り抜身にて押捕に懸かり候故、我等御城代へ窺に出候由申し候へ共一向不㆓聞入㆒、皆々縄に懸り候。其故庄屋両人は頭へ疵を講け、人足も余程怪我或は袖を落され、又固障半被を抜捨抔を致し、大に騒ぎ申候。今朝河内より来る大塩組の百姓、多く此所にて被㆓召捕㆒、同日故斯不㆑思仕合に及候。然れ共御正しの上早刻相済申候。
【上町石火矢の為め焼かる】一、十九日石火矢一挺高麗橋を渡り上町へ行き、八軒家より辺を打ち、夫より米平を打候故、上町の類焼殊の外火早く、殊に大火に相成候。
一、十九日に加島久加作抔を打立候由流言にて、此辺の者大に恐怖致し遁惑候なり。按ずるに、石火矢八挺なればさも有㆑之処、三挺に相成候故、西辺へ持来候事不㆓相叶㆒と被㆑存候。
一、鴻善は石火矢打候を内より戸を鎖し、畳三畳宛重ね防ぎ、其隙に土蔵を目塗り致候処、大塩組大槌にて戸を打砕候故、畳前へ倒れ候処へ、石火矢打込候間、皆々裏へ遁出候由。
一、或説にはさにあらず。裏より打込候に驚き、皆々土蔵戸前鎖し候て、目塗も不㆑致遁行候故、蔵へ火入候。但し三ヶ所也。亦二畳は重置き打候処、畳へ小さき矢の【 NDLJP:35】如き物、幾つも火になり候が立候との事、遁後れ候者見請候と申事。
【鴻池の蔵を焼く】一、又或説に、鴻善奥方表より大筒打込候に付、大に周章蔵へ遁込候処へ鉄炮を放し候。其故死去被㆑致候との風聞。但し後に実説は、衣裳蔵一ヶ所・手道具蔵一ヶ所・納屋蔵一ヶ所此内米も漬物も有㆑之候故、漬物蔵或は米蔵抔と風聞致候。右三ヶ所火入申候事、
一、十九日平野町・茨木屋にて見居候者有㆑之。石火矢平野町東より引来り、直に難波橋筋を淡路町へ引行候や。茨木屋前にて鉄炮にての出合は、無㆑之候と申風す風聞有㆑之。前文に記置候とは大違の事なり。何れか実説なるやを知らず。
一、天神表門少し西北側の餅屋表通を、十丁目へ大筒引行候を見て、大に周章店の戸をさし切候。悪党者偏執を起し、竹箒へ火を懸け、軒裏を焼廻り候。其故
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