横浜市震災誌 第二冊/第4章

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第4章 本市第四方面[編集]

山手町 - 北方町 - 本牧町 - 根岸町(堀割川以東) - 上野町 - 千代崎町 - 中村町(堀割川以東) - 石川町 - 石川仲町 - 元町 - 諏訪町

第1節 一般状況[編集]

第四方面は、市の東南部を占める一帯の丘陵地を区域として、北は中村川とその下流堀川を隔てて、関外・関内に隣り合せ、西は堀内・滝頭および磯子の各町に接し、その境辺に堀割川が鑿たれ、東と南は崖となっていて、その下は東京湾に臨んでいる。域内至る所丘陵起伏して、所々に方言で谷戸という渓谷地がある。なお四辺の崖下にも平地がある。丘陵地は山手町を除くほか、おおむね人家は沢山ないが、渓谷地および低平地は町になっている。上野町・千代崎町・石川仲町・石川町・元町・中村町などは、いずれも商店住宅も相当あって、賑やかであった。山手町は欧米人の住宅地で、早くから拓かれた所で、洋館が立ち並んでいた。本地域に於ける震災の影響は、山手町が丘陵地でもあったにも拘らず、震害・火災共に激しく、惨害を呈した。

前記の低平地および渓谷地がこれに次ぐ被害を見た。山手町を除く丘陵地は、震害が軽微であったのみならず、火災も伴わなかった。根岸・本牧両町の南海岸を成せる一部は低平地ではあるが、被害は例外に軽微であった。なお域内所々に大小の崖崩れを生じ、特に石川仲町に於いて、惨害を呈した。かくて本地域で災害の甚だしかったところは、域内総面積の約五分の一に過ぎなかったけれども、しかも災害の軽微であったのは、主として丘陵地で、人家の疎薄な所であったのに基く。殃死者は山手町および石川仲町・石川町に於いて特に多かったが、大体に於いては少なくて済んだ。ただし通勤人の住家多い所なので、関内方面その他勤務先に於いて殃死を遂げ、あるいは行方不明となった者が少なくなかった。直後中村町・根岸の丘地および新山下町の埋立地は、この第四方面地域の人々のみならず、関内外各方面より逃れ来た者の絶好の避難場所となり、その人々は数万であった。引続き丘陵地や谷戸地に仮住を構える者が多く、また残った家々も寄寓者で満たされた。

第2節 山手町[編集]

山手町は市の東南部の丘陵地の中、最も最色のよいところで、山下町と同じ外人街である。山下町は商業街であるが、ここは高台の静かな街で、学校・病院・旅館・教会堂・劇場・邸宅等、煉瓦造りや、ペンキ塗の洋舘が建てられていた。樹々の生い茂った間に綺麗な洋館が並び立って、なんとも云えない異国情緒が感じられる。この油絵のような所は一夜にして廃墟に化してしまうとは、誰が想像のおよぶ所であろう。この町の震災前の戸数人口は、警察署の調べによると、一千六百十七戸、五千三百七十二人で、そのうち外国人の戸数七百二十一、人口一千六百八十八であった。元来高台で、地盤は強固である筈なのに、傾斜面や窪地を埋めて地ならしもよくせずに、大邸宅を建てたのであったらしい。それであったから、大地震が襲来すると同時に、建物の多くは支離滅裂に粉砕して、即死する者、下敷となって圧死するも者等、実に無惨な光景を呈した。つづいて火は各館七箇所から炎を挙げ、遂に全焼するに至った。焼失した家屋は六百六十三戸であった。罹災建物の主なるものは、山手警察署・元街小学校・キリンビール株式会社、外国関係では西班牙(スペイン)公使館・秘露(ペルー)公使館・仏国総領事官・智利(チリ)総領事・玖瑪(キューバ)総領事館・秘露領事館・横浜一般病院・英国海軍病院・米国海軍病院・フォーレンスクール・セントジョセフスクール半壊・独逸小学校・露国中学校・ユニオン教会・クライスト教会・ローマカトリック教会・ホテルテンプルコート・ブラックホテル・フェアモンドホテル・桜山ホテル・ゲーテ劇場、内外人共同経営のものでは、紅蘭女学校・菫女学佼・女子聖書学校・共立女学校・女子神学校・フェリス女学校等であった。墨西哥(メキシコ)領事館は倒潰したけれども類焼を免かれた。当時、震害が如何に酷烈であったかは、町の東端なる俗称「見晴らし」の崩壊を見ても知れ得るのである。「見晴らし」は新山下町埋立地の頂上にあり、そこは約四十尺の断崖になっている。混凝土で固めた部分が、約三十間ばかりが没落した上に、その左右の崖が七十間ばかりが、大崩落したので、縁に在った住宅三戸はもんどり打って崖下に転落した。その他、地蔵坂の上に在ったテンプルコートは、俗に日光屋敷と呼ばれ、紳商浅野氏の経営に係る有名な旅館で、前持主外人某が日光廟に擬して、ある限りの美を尽くして建てた物であったが、激震一揺の下に崩壊し、石垣諸共坂路の中腹に転落し、まもなく火災に罹り、九名の惨死者を出した。代官坂の上に在ったレッツ建物という煉瓦建五階の外人共同住宅には、露国の亡命客約四十名滞在し、中将アフナチーフ氏の夫人および令嬢も滞在していた。邦人も多少いたのであったが、この建物も微塵に崩壊して、人々大半その下敷となり、あるいはそのまま即死を遂げ、あるいは生埋となったまま、襲い来た猛火のために焼死を遂げたものもあった。辛くも飛び出でた者は数名に過ぎなかった。一年八箇月を過ぎた十四年四月にも、煉瓦屑の中から数人の白骨が発見された。仏国人の経営に係るサンモールスクールの倒潰焼失では、邦人および仏・露両国人の尼僧二十八名枕を並べて惨死を遂げた。その多くは妙齢な人々であったが、六七歳の雛尼が惨死したなどは傷ましきことではないか。五十五番女子青年会館の庭園内には、十四五名の焦死体が横たわっていた。この人達は元町から断崖を攀じ上って避難中、上下からの火気に蒸し殺されたのであった。キリンビール会社は地域の東南に在って、敷坪八千を有する大建物であったが、これまた滅茶苦茶に倒潰かつ焼失して、職工・事務員十六名が殃死した。高い塔状の乾燥室のみが、鉄筋であるので、僅かに倒潰を免かれたけれども、内部は一切焼失した。元町二丁目に面する崖上に在った露国人の住宅、ほか三戸の住宅も崖下に転落した。ユニオン教会・劇場ゲーテ座・仏国領事館・山手警察署等は、その倒潰の様が特に猛烈であった。外人共同墓地の墓石は大半転倒した。墓地の角に設けられた世界戦争の記念門は、先年英国皇儲殿下の手によって除幕式を挙げられたものであるが、惜しくも破壊した。所々地面に生じた亀裂、その他目に触れるもの、一として惨禍の激しかったことを語らざるものは無い。ただ地域の一角にある山手公園のみは、地面に象裂も生ぜず、火災にも冒されず、樹々の葉が茂った広い庭も前のままで、当時この公園こそ唯一の避難場となっていたのである。

同街では建物の被害は甚だしかったが、死傷は多いようでも、実は少なかった方である。けだし本街居住の外人は、主として、上流の人士、もしくは紳商で、当時日光・軽井沢等に旅行中の者少なくなかった。また山下町のオフィスに出勤中の者も多かったためであろう。なお、ここには日本人の邸宅も少しはあった。教会関係の男女、そのほか外人に傭われた邦人のコック・ボーイ・ウェートレス・庭作り等も、あるいは外人館の一室に、あるいは庭園の一隅に寄寓し、多数居住していたことで、それ等の遭難ももとより少なからずあったのである。かくて同町の殃死者数は百九十四名、その中主要なる人々は、仏国総領事デジャアデン氏・英国海軍病院長夫人・米国海軍病院副院長夫妻等である。多く死者を出だした家庭を記すと、二十六番小林啓三郎方で主人ほか三名、百二十番仏国人ダルビー方で庸人を合せ七名、七十七番葡国(ポルトガル)人リベル方で家族六名、支那人鮑熴方で主人ほか家族十二名・庸人数名、いずれも圧死を遂げたのであった。

山手町の海に沿った崖下の一帯は、新山下町である。先年来、浅野埋立株式会社の請負によって埋め立てられ、八万坪の面積を有する地である。震災当時はまだ人家もなかったので、山下町および山手方面の好い避難場となり、一時数万の人が逃げ込んだが、海嘯(津波)を恐れて散ったものもあった。二日の夕刻、横須賀の鎮守府から派遣された駆逐艦の陸動隊が、この埋立地に上陸して、ここを救護作業の根拠地とした。幾十隻の船艦が常に往来をして、救護物資を陸揚げし、あるいは避難民を乗せて関西地方に送った。

当時本地域住民の多くは、山手公園・外人墓地・根岸および鷺山方面および新山下町の埋立地に立退いた。当地は市内の他の方面に較ぶれば、避難には概して障害を感じなかった。その後三四日頃より各方面あるいは各地方に分散して、仮屋を造り、十月には関西府県連合寄贈バラックが、山手公園内に建てられた。外国人の多くは我官憲および各本国救護団の保護を受けて、あるいは阪神地方に赴き、あるいは帰国した。震災後の同方面は後かたづけ遅れ、二年も経つ今日でもまだ復興しない。何しても外人居留地であるから、外人が帰って来なければ、どうすることもできない。

第3節 北方 本牧 根岸方面[編集]

北方・本牧および根岸方面は、市の東南部にある丘陵地で、広いところである。丘陵地の多くは畑や林で、人家は少ないけれども、住宅地としてよい土地であるので、紳商の別荘も少なくない。谷戸と称する地や、沿海の平坦地には所々に市街地があって、相当の賑いを呈していた。震災では丘陵地多く人家少ない関係上、被害は少なかったが、電車沿道の市街地は低地なので、麦田・上野・千代崎の一帯と箕輸下・小湊・宮原・原の各一部ないし大部分は、火災を伴って、大きな災害を受けた。堀割川界隈にも火災があって、多少の被害があった。横浜刑務所の被害は甚だしく、収容者および職員に数十名の死者を出し、拘禁設備も全く破壊したので、やむを得ず、収容者の全部一千余名を一時解放するの余儀なきに至った。

広場や丘が多くある北方・根岸・本牧等の方面は、避難地としてよい所なので、各方面から罹災者が蝟集した。学校・寺院等に収容され、または仮小屋を建てて、一時居住した者もあった。残った家屋のやや大構えな所へは、知っている者はもとより、知らぬ者までも、伝手を求めて詰め掛け来た。だから何処の家にも二三の世帯はあった。救護に盡瘁した同地の青年団・救護団・自警団等の活動振りはすこぶる目覚ましかった。

1 北方町 上野町 千代崎町 諏訪町[編集]

北方町は、東の一部が海に面している地域で、丘陵地でもあるが、中ほどには広い平地があって、商店・住宅があり、一部は電車も通じていて、相当賑いを呈していた。地域内は字上野・西之谷・千代崎町・竹之花・小湊などに分かれ、震災前の戸数二千六百八十七を算した。本地域は震災により、各字とも、市街地ではかなり大きな被害をみたのみならず、字上野・千代崎町・竹之花の殆んど全部および西之谷・泉・小湊の一部に火災を伴い、惨害は一層大きかった。崖崩れも所々にあって、これによる被害も少なくなかった。

(イ)上野町 千代崎町 竹之花 泉[編集]

西より東へ順に、上野・千代崎町・竹之花・泉の五字は、北方町の中部を占め、北は一帯に丘陵で、山手町に続き南は平担で市街地を成し、戸数は約二千戸であった。その中上野は約九百戸、千代崎町は百十戸、竹之花は六百戸、泉は四百五十戸を有していた。大震災が起るや、約七分通りは倒潰した。なお所々に発火して、上野町・千代崎町および竹之花は殆んど全滅した。かくて焼失区域は山手町のそれと連絡して、各町火の海となり、焼失戸数約一千五百に上ぼり、字上野の小字豚山の家屋僅かに数十戸を残すのみであった。字泉も西は竹之花の火を被って、約百戸を焼き、南は箕輸下から延焼して来た火を受けて、十六戸を焼いた。罹災した主なる建物は、千代崎町の辛酉銀行支店、竹之花の北方小学校、上野の日蓮宗妙香寺の一部大黒堂等である。崖地は崩落所々に生じ、上野では崖下の四戸建一棟を埋没して、八人生埋めとなった。死者の数は確には判らないが、五字で少なくとも百名を出した。僅かに百十戸の千代崎町ですらも十人、四百五十戸の泉も四十一人に達したのである。上野の運送業酒井竹次郎方では夫婦および子供一人圧死して、一家全滅した。泉の田島某方では妻女と子供三人焼死した。この方面は流言蜚語による騒擾も甚だしく、これがために二三の儀牲者を出だしたことは、遺憾なことである。妙香寺山・山手公園および上台の丘陵が、罹災民の主たる避難場所となった。ここでも仮屋を造って住む者が多かった。妙香寺山では、墓地の卒塔婆を組立てて材とし、二三戸仮屋を造った。これは奇観を呈していた。

(口)西之谷[編集]

西之谷は西南に丘陵を負い、東北は平坦な市街地で、電車路を隔てて、上野町および千代崎町に隣り合っている。災前の戸数約八百。表通には商店があるけれども、大体は勤め人・労働者などの居住地で、農家も幾分混じっている。震災では約百八十戸は全潰し、約四百戸は半潰または大破した。丘地でも約八十戸の中七戸倒潰した。同地では発火しなかったけれども、午後二時半頃になって隣の千代崎町・上野方面の火の手が地内に延焼し来て、電車路沿いの市街地二百四十余戸を焼き払ったが、青年団員等総出となって、下水を汲み出し、消防に努め、ようやくにして消し止めた。北方太神宮の神殿および社務所は焼失したけれども、本堂は青年団員の努力で焼失を免かれた。奥まった地域にある日蓮宗善行寺は、市内有数の伽藍で、本棠庫裡とも傾斜したが、倒潰は免かれた。死者は地元では七人を出したに止まったけれども、関内方面に出勤中遭難したのが四十余人あった。一年有半後の家屋数約六百を算した。震災後、中央方面より避難し来た者は一時四千余人に上ったが、その後大部分は退散したけれども、踏留まって、焼残った家屋に寄寓するものもあれば、あるいは丘地に仮屋を設ける者も少なくなかった。衛生組合員や青年団員等は配給救護のために熱心に働いた。善行寺に寄寓した者が多い時には、五百人にも上り、その後漸次退散したけれども、十一月末には七十名残っていた。その間住職田中海勇氏が配給救護および埋葬・供養等のために努めた。

(ハ)小湊[編集]

北方町の東端海浜なる字小湊は、主として勤め人の住宅で、その他商店・漁屋等三百六十余戸を有する地域で、なお外に俗称チャブ屋という軽便ホテルが十数軒もあった。震災の被害は相当激甚で、全半潰八分通りに達した。地内二箇所より発火し、たちまち約七十戸を一舐めにした。海岸の石垣も所々崩壊した。死者は地元にて十余名、なかんずく高橋病院では患者五名死んだ。他所に出でての遭難者もあった。

(二)天沼および諏訪町[編集]

天沼および諏訪町、三方山手町の丘陵に囲まれた傾斜地である。諏訪町・天沼と続いた町である。震災前には両地合せて戸数百八十八(天沼百四十、諏訪町四十八)、人口七百五を有し、住民の業務は、外人住宅の庸人、または外人を顧客とする洗濯業・雑業等であった。震災の起るや、附近の山手町の洋館は、大部分倒潰したに拘らず、本地域の家屋は、全潰約三割半潰二割であった。町の上ぼり詰の山手町の石垣、高さ約一丈五尺長さ約二十間、本地域に向いて崩落したので、人家三戸を埋め、三人を圧殺した。地内からは発火しなかったけれども、午後三時頃、山手町を焼いた火が、四方から包囲して来たので、皆々めぼしき家財を取纏め、山手町なるセントヂョセフ学校の運動場および外人墓地に避難したが、運動場に入った人々は、いずれも黒煙に取り捲かれ、一人窒死したほどであった。かく全地域は一戸も残さず焼失し、鎮守の諏訪神社も焼失した。死者は地元にて十二人、勤め先にて九人あったが、中にも天沼なる宮内金三郎というは山下町の商館で、妻および二人の子女は自宅で、いずれ殃死を遂げ、一家全滅に陥った。震災後地元の家々は外人の顧客を失ったため、バラック居住者の立退いた後は、急に寂莫となり、一年有半後に至って、ようやく七十七戸で、外人屋敷はない。

2 本牧町[編集]

本地域の半は丘陵地で、人家は極めて少なかった。字上台の大部分および字台の北は平地で、市街地であった。戸口もやや稠密している。全地域の戸数約八百三十、人口約四千で市街地には商家が建ち続いているが、その他は勤め人・農家・日稼者が多く、中には相当な邸宅もあった。めぼしき建物としては、瓦斯局本牧出張所・東本願寺出張所等である。家屋諸建物は平地で八分通り、丘陵地では四分通り倒潰した。ことに本地域の被害として著しかったのは、到る所の崖崩れで、台山に六箇所、上台に三箇所、台に二箇所、大鳥に一箇、いずれも大崩壊で、字台山の如きは、高さ約四間・長さ約五十間・幅四間の崩れがあった。高さ五間の字台の崖が崩れ、その下の東本願寺出張所が丸埋めとなって、番人の老婆およびその孫が即死した。亀裂を生じたのは、上台五箇所、台山六箇所、大鳥三箇所であった。震後約二十分を経て、本地域の東北隅字上台二番地の辺より発火し、一方地域外の千代崎町から火が千代崎川を超えて延焼して来た。その他二方面から火に包囲されて、おりからの烈風に、電車通の目貫場所が一面の火となった。土地の有志遠田・金子・今井・池田等の諸氏は、咄嵯協議して、消防出張所に駆け付け、神崎消防手ほか二名の応援を請い、町の若者数十名を集め、消防に着手し、千代崎川にホースをつけて、必死の働きをした結果、さしもの猛火も次第に勢を殺ぎ、午後七時にようやく鎮火した。焼失面積約一町半四方、戸数百三四十で止まった。地域内の殃死者七十七名だが、その中の多くは関内・関外方面にいって遭難したものである。土地での死者は約二十名で、そのうち六名は焼死である。死者を多く出した家は、いずれも字上台で花商安田幸作方では、主人夫婦および老母の即死によって一家全滅。金田カネ方では主婦および庸人一名の即死によってこれも一家全滅。運動具商栗木豊次方では老父・妻女および子息が即死した。難波勝太郎(六十)は妻リツとの間に二人の息子が有り、兄は二十、弟は十八歳ぐらい、兄弟とも日々山下町なる南京街の建具屋に勤めて、家の暮らしを立てていた。震災当日勤め先の家が倒潰したので兄弟は死んでしまった。父親の勝太郎は焼け跡へ行って探して見ると、愛児二人の無残な焼死体があったので、父親は泣きながら家に帰って、母親に話している中、脳貧血で死んでしまった。こんな哀話は沢山あった。

地域の丘陵なる畑や原は、災後恰好の避難場所となって、市内の罹災民数多入り込んだ九月中旬頃には、一日七千余人に達した。避難民は薦木片で仮小屋を建て、畑の野菜を食って生活していた。丘上の墓地にあった数多の卒塔婆は、屈強の小屋掛材料としてことごとく利用されたなど、まるで原始時代に帰ったようであった。地域内の有力者は幸に類焼を免かれた者が多かったので、避難者の救護に何呉となく盡瘁した。大鳥小学校は少し壊れたばかりだったので、避難所として一箇月の間三百余名を収容した。大鳥の牧畜業後藤氏は、乳牛十八頭の乳汁を当初よりことごとく迎難民に配給して、乳児や病者を救った。上台の米穀商池田氏は、蔵米百五十俵を残らず提供して、配給の来る迄の支えをつけた。台山の農家金子林蔵氏という退役水兵は、上台火災の際、挺身出動して黒煙の中を潜り廻り、男一人・女五人を救助し、中村町へも出動して、女四人を瀕死から救い出した。なお土地の混乱を取鎮めんと、二日午後八時、単身小湊よりボートを操って、暗夜の海中に漕ぎ出すこと二時間余、危険を冒して沖合を警戒中の駆逐艦五十鈴に辿り着いて、根岸・本牧方面の混乱状態をつぶさに物語って、警備方を懇請し、その夜自ら二箇小隊の水先案内となって、その上陸を完うせしめた。夜半に近い十一時前後、この一隊が喇叭の音勇ましく、この方面に行進した時には、沿道盛んに歓声湧いて、人の心を強からしめた。その後一隊は妙香寺山ほか一箇所に分かれて駐屯し、警備に努めた。本地域の復帰状態としては、十四年十二月末の調べで、戸数七百三十三、人口二千九百を算した。外人相手の営業は殆んどことごとく復旧しない。

本牧町の東北部を成せる字箕輸・箕輪下・天徳寺・宮原・十二天・原の六字の中、箕輪下・宮原・十二天・原の大部分は市街地で、やや賑わっているが、その他はおおむね丘陵または草原で人家は至って少ない。災前の総戸数千百余、その多くは住宅であるが、電車沿道には商店がある。海浜には別荘・料理店等も少なからず、処々に漁家もある。夏季には海水浴場も開かれる。震災の影響は箕輸下・十二天・宮原および原は概して激甚で、全潰・半潰合せて全戸数の約七分通りに上ぼった。これ等罹災の主なる建物は字天徳寺の真言宗天徳寺・箕輪下の渡邊婦人科医院・琴平神社・字十二天の郷社本牧神社大破程度・宮原の村社吾妻神社半壊当等である。崖崩は字天徳寺地内および十二天の孤丘に生じ、宮原沿海の岸は所々崩壊した。火は箕輪下の電車路を挟んで約五十戸を焼き、北方町字泉に延びて、十六戸を焼いた。その他別に字原と宮原とに延焼し、三百二十一戸を焼失した。この中七十一戸は宮原の罹災で、宮原では青年団が総掛りでようやく消し止めた。箕輪でも別に離れて十二戸を焼いた。本地域全体の死者は地元で二十数名、その多くは宮原および原に於いてであるが、このほか他所に出で遭難した者があった。宮原の齋藤医院では院長佐助夫妻・看護婦一人圧死し、宮原の出口アサ方では六名焼死し、いずれも一家全滅の悲運を見た。他所からの罹災民は、多い時には数千人におよんだ。残存家屋に寄寓したもの多く、箕輸下・天徳寺等の草原に仮屋を構え、露命を繋いだのも少なからずであった。私立貿易中学校は小破であったので、数百人収容されて永らくいた。

本牧町の南部なる字牛込・八王子・下里・矢・和田・三之谷・真福寺・配郷・間門・二之谷・一之谷等の界隈は、地域はすこぶる広いけれども、概して丘陵や草原であるため、人家は多くない。やや市街地らしき所は牛込・八王子・下里・矢・真福寺等の大部分、もしくは一部分で、全地域約一千三百戸の大半は右五字にあるのである。震災の影響は、市街地やや激しく、中でも字矢・牛込・八王子・下里では、家屋は七八分通り倒潰した。これ等罹災建物の主なるものは字牛込の真言宗多聞院・同宗千蔵寺、字和田の本牧小学校・基督教会堂、字下里なる不動堂、字間門の真言宗東福院破損等で、字三之谷なる紳商原氏の三渓園は格別の被害もなかった。字二之谷なる遊楽園は丘上に鉄製の飛行塔を新設し、九月中旬から開園される筈であったが、諸設備、あるいは破壊してしまった。字八王子海岸の某外人住宅は海抜十丈の高所より転落した。字矢では三十五戸、池田では十一戸焼失した。死者は字牛込に三十八人、字八王子に九人、以上は地元および他町に出でての計数で、なお字矢真福寺の地元で二十一人、その他諸字を合し、地元のみでは十四人を算する。

3 根岸町[編集]

根岸町の中、堀割川の東の字上・馬場・下・坂下および川の西なる字広地・分田の六字は東・北・西の三面に丘陵を負い、南の一方が開けて川沿いの低地には、住宅・商店等がある。字広地の大部分は、横浜刑務所が占めている。震災前の戸数一千二百、その約四分が全潰・半潰した。字坂下および馬場の一部が合せて六十余戸焼失した。倒潰の主なる建物としては字馬場の成和石鹸工場・三井製材工場、字上の真言宗宝積寺半壊、宇坂下の真言宗海照寺半壊、宇広地なる横浜刑務所(建物の大部分倒潰の上焼失)を挙げる。天神橋・根岸橋・坂下橋もさしたる異常はなかった。死者は刑務所の分を除き、地元では十数人であったが、関内・関外方面での勤め先で遭難したのが、数十名に上ぼる見込である。

(イ)根岸町の内麦田ほか四区域[編集]

市の西南方、根岸町の一部である柏葉・麦田・鷺山・立野および竹之丸を一画としてここ記す。

この区画は丘陵地・渓谷地が交錯している。渓谷地は俗に鉄砲場と呼ばれて、人家多く、丘陵地には林の間に邸宅が所々にある。東の方は桜道下の隧道口から車道に通じている。五区合して震災前戸数二千二百廿四、人口約一万を有し、住民は通勤者が多い。丘陵地の所々に外人館のあるほか、特に大建物としてはない。大震襲来するや、渓谷地の人家すなわち全区画の約七分は倒潰し、丘陵地の人家は小学校を始めおおむね半潰した。柏葉の市営住宅百一戸も全潰半潰し、十一名圧死した。全地域の殃死者約百名、その中には関内・関外方面に出勤中、遭難した者が相当に多かった。震災後まもなく、千代崎町の某蕎麦屋、他二箇所よる発火し、南風に煽られて、本地域の麦田に延焼し、電車路に沿って、北側約百五十戸、二百八十世帯を焼き払い、隧道口でようやく終熄した。類焼した津之國屋材木店では、最近三万円の木材を買入れてあったので、火が沢山の材につくや、猛烈な勢いで燃え上り、辛くも火を免かれていた電車線路の南方へも、今にも延焼せんとしたので、土地の青年団はすぐに出動して、溝水を堰き止めて水を溜め、極力消防に努めたので、火災から免かれることができた。住民は今日でもなおこれを感謝している。火災に遭った人々は、先を争って背後の妙香寺山および山手公園に避難し、他はおおむねその区々々の丘地に入って、窮乏と不安との中に、数日間を過ごした。その後は主として山下橋方面および小湊方面から輸送された配給品に有付き、ようやく飢渇を免かるのを得た。爾来、丘陵地一帯は恰好の避難場所となり、仮小屋が到る所に建てられて、富めるも貧しきも一様に、惨めな生活を続けていた。流言蜚語も相当盛に喧伝せられ、ためにこの地域で犠牲となったものが両三名あった。災後一年には八分通り復旧した。

(口)根岸町の中、競馬場の北部一帯[編集]

根岸町の中、字相沢・西竹之丸・江吾田・猿田・大芝等、競馬場の北部およびその傍近なる山元町を一括して記述する。この界隈は丘陵地の所々に渓谷地を交え、多くの字に分かれているが、その中で市街地は山元町である。人家のやや多きは前記の五字で、全戸数千八百五十の大部分はこの五字および山元町に包有されている。山元町は、商家は少しばかりで、その他は住宅である。中には細民窟もある。震災はおおむね軽徴で、地域すべてで全潰六十余戸、半潰ないし大破はやや多かった。全潰の主なる建物は字大芝の日蓮宗大円寺、字猿田の日蓮宗円大院、曹洞宗西有寺等で、字江吾田の江吾田小学校、西竹之丸の幼稚園は大破した。根岸競馬場は本邦では最も古く、有名な競馬場である。同所では事務所と観覧場が半壊した。相沢の共同墓地の墓石も約三分通り破壊した。発火は山元町で三箇所、猿田で一箇所あったが、いずれも消し止めて大事に至らなかった。死者は地元では九名に止まったが、他所に出でての遭難者および行方不明者は、百八十五名もあった。他所よりの避難者は多い時には約十万を数え、競馬場内は好い避難場所となった。その他所在に急造のバラックを立てて、露命を繋いでいたものが無数にあった。災後、他町より移り来る者が沢山あった。一年半には戸数約二千に達した。

(ハ)根岸町の南部一帯[編集]

根岸町の南部一帯の丘陵地およびその崖下の海岸の平坦地を一括して記述する。地域の中丘陵地は人家至って稀で、全地域約八百戸の内約七百戸は、海岸の平坦地なる字西芝生・芝生・滝ノ下・加層の四字に含まれているのである。地盤の関係であろう、丘陵地は同様、平坦地も震災の被害はほんの僅かで、全潰家屋は約一分通り、半壊は二分通りぐらいに止まった。全壊の主なる建物は、字滝ノ上の名所に数えられる白滝不動堂、字西芝生の池端メリヤス工場等である。根岸小学校は所々破壊したぐらいのものである。滝ノ上および芝生に崖崩れが生じ、芝生では一戸埋没された。加層上の外人住宅二戸焼失したけれども、周囲が空地であるので延焼はしなかった。死者は西芝生および芝生に於いて数人を出しただけである。他町に出でての遭難者は、全地域に三十余人あった。他町より避難者の集り来たことは云うまでもないことである。

第4節 中村町[編集]

中村町は市の南部を占めている広い丘陵地と、中村川に沿った平坦地と堀割川を挟 む平坦地との三地域である。丘陵地は概して人が少ないが、根岸・本牧方面の丘陵地に較べれば多い。川沿いの地域は平坦で人家が調密している。家屋の倒潰やや多く、ことに北崖下の低地一帯は焼失して、被害を蒙ったけれども、高台一帯は字谿および平楽を除くほか、概して軽微で、火災も伴はなかった。

(イ)中村町西部[編集]

本地域の中、中村橋の西の字池ノ下、東の字西は市街地であるが、おおむね住宅地で、字道場には広大なる県揮発物貯蔵庫および県衛生試験場がある。総戸数千六百余。震災起こるや、字池ノ下は、水田を埋め立てた所なので、家屋約四分通り倒潰半潰し、相当の被害を見たが、その他の地域は地盤固く、被害は軽微であった。字西ノ谷の河岸通幅約三間、長さ二十間ほど三尺余も陥落し、字池ノ下の池ノ下橋の袂は陥没し、同橋から日枝橋に至る河岸通は、道路の半が岸と共に河中に墜落した。字西の久良岐橋の袂も陥没し、その附近の河岸通も河中に崩落した。道路に異常のなかったのは中村橋以南の河岸通のみで、中村橋が無事であったことは、避難者にとって大助かりであった。字西および彌八ヶ谷に於いては、高さ約二十間の大崖崩れ二箇所あった。あたりの山道は永久に交通杜絶となった。倒潰建物の重なるものは、字西ノ谷なる真言宗弘誓院・亜鉛鍍金会社・三筋石鹸会社、字山田の中華病院等である。火は字西八百七十番地および八百五十四番地の辺より発火し、南東に向かって延焼した。南に向かった火の手は、青年団員その他必死の努力によって辛くも消し止めたが、東に廻った火の手は遂に字道場なる県揮発物貯蔵庫の大建物に燃え移り、当地域のみにて四百五十戸を焼失した。揮発物貯蔵庫の燃え盛る光最は凄絶を極めた。無数の油槽は大音響と共に爆発し、火になった揮発油は中村川に流れたので、川中は一面火となり、橋を焼き、舟を焼き、ことに対岸第三南吉田小学校々庭の集団避難民を焦死せしめた。火は容易に消えず、一週間の間燃え続けていた。字彌八ヶ谷の崖下にあったセールフレーザー会社および横浜亜鉛鍍金会社の両社より発火し、両社は全焼し、約三町を隔てた丘上の民家二戸に飛火して、納屋数棟を焼いた。字池ノ下なるイサゴ豆製造工場からも発火したが、附近住民の努力によって消し止めた。地内殃死者の数は十名に満たなかったけれども、勤め先の他町に於いて死したと想われるものが数十名ある。地元および他町より字池ノ下界隈に避難したものが、一時三万余人の多きに達した。本地域には材木商が多くあったので、材木を提供して貰い、それに鍍金会社貯蔵の亜鉛板も残っていたので、これを利用して仮小屋を作った。一時隙間ないほどにこれ等の仮小屋で埋められた。字道場の揮発物貯蔵庫の焼け跡には関西諸府県庁寄贈のバラック数十棟が建設されたので、罹災民の幾千世帯が永らくここに居住して、バラック村を形成し、集会所・浴場・売店等種々の共同施設もできて、誰云うとなく開西村と称せられるに至った。

(口)中村町東部[編集]

中村町の中で東部にある字東・中居・八幡・中村・山谷を概括して、中村町東部という。地域は人家のない字山谷を除くほか、丘腹の斜面地や、丘下の低地は中村川に臨んでいる。戸数約三千七百戸、住民の多くは労働者・職工等で、安宿が軒を並べている。震災の影響としては丘陵の斜面地とて、地盤は比較的固く、したがって家屋の倒潰少なく、約三分通りに過ぎなかった。倒潰家屋の主なるは、字東なる真言宗玉泉寺のみで、時宗遊行寺は少し破壊したばかりであった。字八幡なる八幡神社も小破程度であったが、字八幡には崖崩れを生じ、崖下の浅村製麻工場全部、秋葉真田工場および桜井真田工場の各一部を埋没して、各数人の生埋めを出した。字東にも崖崩があって、崖下の木賃宿ほか二戸を埋没して、これまた数人を生き埋めとなした。火は地内数箇所より発火し、一面字道場の揮発貯蔵庫よりも延焼して来て、一面の火となったが、それまでには多少余裕もあったので、人々は三吉橋・東橋および車橋を渡って丘上に逃れた。かくて本地域では約三千七百戸の中。約三千三百戸焼失し、字八幡の一部およびその他に於いて、約四百戸だけ類焼を免かれた。類焼の重なるものは県衛生試験場・玉泉寺・八幡神社である。死者は地元では約四十人であるが、他町へ出稼ぎに出でたまま遭難した者が多数あった。一年有半後の戸数は三千三十九戸となった。

(ハ)山手中村町[編集]

中村町の中で丘陵部の大部分を占めている地域で、東方は地蔵坂を以て山手町と接している。地域は谿・打越・平楽・唐沢・中丸などの字に分かれ、災前の戸数千四百六十二を算し、この中に外人の居宅も多少ある。震災の影響は丘陵地のこととて、家屋の倒潰は多くはなかったが、字谿すなわち地蔵坂の附近では、地元の火および崖下の石川方面からの火を受けて、約百六十戸を焼き、字平楽でも発火し、約八十戸を焼いた。焼失した主なる建物は、地蔵坂の真言宗〔ママ〕蓮光寺、平楽の平楽小学校である。字谿には崖崩れを生じて、崖下の石川町は、これがために少なからず損害を被った。死者は地元で約二十人、その中にも、字谿なる写真業出島某方では、主人夫婦および子供四人圧死し、老母一人だけ生残ったという惨事を見た。勤め人多き土地とて、勤め先での遭難は多大に上ぼる見込である。

第5節 石川町 石川仲町[編集]

石川町および石川仲町は、山手町および山手中村町の北にある。崖下にある街が石川仲町で、これと相並んだ川沿いの街が石川町で、両町とも東は一丁目より、西は七丁目にわたり、いずれも人家櫛比して、石川町には商店多く、石川仲町には通勤者および労働者の住宅多く、災前の戸数は併せて一千九百七十三で、約七分は石川仲町に属する。本地域の震災は、単に震災だけでは大惨害を受けなかったが、次いで起った火災で、関内や埋地同様、全地域ことごとく焼失したのみならず、地勢上避難するのがすこぶる困難であったため、惨死を遂げたものすこぶる多かった。激震が起るや地内建物の約二分通りは全潰し、約六七分は半潰であった。石川仲町一丁目ないし五丁目の断崖は、いたる所崩壊し、三丁目の崩壊は、その長さ七十間におよび、崖下の民家約二十余戸その下敷となり、生きながら葬られた者が十八名もあった。突如の凶変に人々いずれも驚愕していた時、石川仲町一丁目三十五番地、同二丁目四十三番地、同五丁目百五番地、同三丁目五十三番地、これ等の場所より何分間の間をおいて発火したのである。なお同町七丁目は、その後中村町方面の火を受けた。強風に煽られて火勢は一層加わり、午後三時頃には地内一面火の海となった。南は斯崖絶壁で通ることはできず、坂路を辿って山手に逃がれても、山手は既に火となっていた。北は中村川で対岸は一面の火の海になっている。西の中村町も東の元町も同様で、何処も彼処も火の巷ばかりで、逃路は全く塞がれてしまった。しかし燃え盛るまでには、多少余裕もあったので、この間見極めをつけた人達や、機敏な人達は逸早く家族をつれて大丸谷・地蔵坂・牛坂・猿坂・遊行坂等を辿って、中村町の丘地や根岸方面に逃げ延びた。しかし家財を運び出そうとしたり、あるいは家人を救い出だそうとして、逃げ後れた人々は襲い来た猛火のため、全く逃路を失ってしまったが、血気のある者は黒煙中を走って血路を開いて逃げおおせた者もあった。煙に捲かれてそのまま焼死した者は沢山あった。船に乗って堀割川〔ママ〕を下った者もあったが、川の両岸も猛火に包まれていたので、中途で船諸共焦死したものもあった。崩壊した崖地を攀じ上ろうとして、土塊諸共火中に転げ落ちたものもあった。ことに石川仲町一丁目と二丁目との間の字大丸谷には、すこしばかりの空地があったので、逃げ後れた数百人はそれへ雪崩れ込んだが、猛火たちまち襲い来た。崖を上らんとしても、おりあしくその処には倒れた高塀が道を塞いていた。一同は死を覚悟するよりほかに道はなかったが、突然群集の中から、石川町の市野佐吉と翁町の大里正雄という二人の若者が躍り出して、必死の力を揮って塀の二箇所を打壊し始めた。数人のものも力を合せて打ち壊したので、ようやく血路は開かれ、絶望した数百名の者はこうじて這い上がり、なお苦心をつづけて、やっとのことで安全地帯に逃げ延びた。しかし後れて来た者や、荷物を惜しんでいた者、おおよそ五十人は、遂にその場で敢なき最期を遂げた。以上は主として両町一丁目ないし四丁目の状況である。六・七丁目でも川筋で避難するのは好いと思って、多くの人々は互に引連れて、一旦船に乗ったのであったが、青年団員等はこれを無諜なことだとし、呼び戻してことごとく上陸させ、丘地方面に尊き避難せしめたので、焼死や溺死する者は少なかった。なお同団員達が倒潰を免かれた石川小学校を焼くまいと、一同死力を出して附近の火を消し止めた。かくて両町は七丁目に僅か十数戸を残しただけで、午後六時頃には全く焼きつくされた。焼失したる主なる建物は鶴屋呉服店・諏訪神社・妙法堂等で、殃死者も少なくなかった。石川町・石川仲町各一丁目併せて百三十五人、同二丁目で五十四人、同三丁目で百二十八人、同四丁目で七十五人、同五・六・七丁目で五十八人、合計四百五十人を算する。五・六・七丁目の多くは圧死者であるが、一丁目ないし四丁目では焼死・溺死が多いように思われる。一家全滅もしくは全滅に近き家を挙げると、石川町一丁目では、勤め人金箱某方で子女三人、鋸目立職加茂下瀧次郎方で夫婦および子息と孫の二人、天ぷら屋山田フミ方で主婦および女子二人全滅、無職河合某方で女子三人、家具職堀内幸助方で夫婦および子女三人・庸人二人、薬種商内田阿曽次郎方で夫婦および女子四人全滅。石川仲町一丁目では、日雇職中西某方で主人および子息二人、骨董商杉山修平方で夫婦および女子二人全滅、医師阪田実方で夫婦および女子一人・看護婦・下婢各一人、俥夫永島某方で家族三人、無職山口某方では老母および子女二人、畳職簑島某方で子供三人、石川仲町二丁目では、洗濯業島根平次方で夫婦および女子一人全滅、荒物商飯塚某方で妻および子孫三人、石川町二丁目では、足袋職湯川某方で妻および子女五人、藍商武藤政吉方で夫婦・母・弟二人・女子一人、船具商長田秀作方で夫婦および子女五人全滅、石川仲町三丁目では建具職稲田大五郎方で夫婦および女子一人全滅、日雇業鈴木某方で妻および子女五人、家作主前田重方で主人・母・女子一人、日雇業富樫仙次郎方で夫婦および女子二全滅、下宿業長尾カヨ方で主婦および姉・女子各一人全滅、酒商鈴木宗八方で夫婦および孫女一人、無職小池権四郎方で主人および女子四人全滅、洗濯業北澤某方で老母および子女二人、丹野清太郎方で夫婦および女子一人、鍛冶職吉澤某方で妻および子女三人、漬物商月村某方で母および女子二人、ボール箱職須藤某方で子女三人、船夫近藤誠次郎方で夫婦および女子三人、洋食店相沢省次郎方で夫婦および男子二人・下婢一人、同四丁目靴職中村貞次郎方で夫婦および男子一人全滅、日雇業鈴木庄次郎方で夫婦および女子一人、石川町四丁目では、日雇業橋本佐七方で父・妻および女子二人等である。大体に於いて、両町とも一丁ないし三丁目に於いてこうした不幸な家が多かった。石川仲町には堀井戸が多少あったので、焼け跡にバラックを建てるものが相次ぎ、四日目には既に十数戸建てられ、鋭意復興に励んで、一年有半後には戸数が災前の七分通りを算するに至った。

第6節 元町[編集]

元町一丁目より五丁目は山手町北崖の下に在る長い街である。町の北なる堀川を渡れば山下町、前後に外人街を控えた関係上、外人をお客とする日需品の商店が軒を並べて、震災前は戸数一千二百十八、人口約六千を有していた。大震が起るや街の背後なる一帯の断崖は到る所崩壊して、崖下に在る数多の家屋を埋めた。また川沿いの道路には、所々大亀裂を生じ、川岸は崩落した。崖崩れの著しき箇所を挙げると、一丁目の増徳院後の、高さ三間の石垣は全部崩壊し、浅間坂のいわゆる百一段は、坂上の雨森家と共に有名なものであったが、地所約三十坪諸共転落して、その真下の二丁目百九十七番地より三丁目百三十二番地までの数十軒の家屋が埋没され、全滅に近き程度の死者を出した。四丁目の丘腹に在った太神宮も、崖崩れのために社殿は破壊し、十余間も押し飛ばされた。橋染は最下流にある山下橋を除く、谷戸橋・前田橋・西ノ橋等ことごとく大破におよび、なかんずく谷戸橋は橋台諸共河中に墜落し、避難船がこれに衝突して、破壊したのもあった。火は各所に発した。おりから強風に煽られて、たちまちのうちに四辺は火となり、一棟も残さず焼失した。逃げるに早かった者は、横浜公園に入った者もあるが、多くは間近なる新山下町埋立地に入り、また中には坂を上ぼって山手公園、外人墓地等に逃げ込んだ。山下橋が僅な損傷で済んだし、火も免れたので避難者にとって大助かりであった。遅れた者は逃げるに途なく、やむなく河中に飛び込んで死んだ者もあり、三丁目の崖上なる山手町五十三番の庭内に逃げ込んだ二百数十名は、上下より煽り付けた熱気のために苦悩一方ならず、焦死者も多数出した。全部で圧死者と溺死者とを四百数十名出した。一家全滅に近い家は二丁目古根村新太郎夫婦および子女二人、五丁目石井文吉夫婦および子一人、二丁目石川重三夫婦および子息の妻・子一人、三丁目柳井宇三郎夫婦および子女二人、四丁目中山兼次郎夫婦および子女三人等である。焼失した主なる建物は、横浜高等女学校・太神宮・増徳院等である。増徳院は古く大同年間の創立に係る真言宗の名刹で、洋館ばかり立っている間に聳立していたので、外人からも珍しがられていた。当時この焼野原に踏止まった町の有志は、元町再興会を増徳院跡に設けて町民を集め、物質配給の事、バラック建設の事、相互扶助の事、進んでは町の復興の事など、何呉となく協議を遂げ、爾来一同鋭意以して之が遂行に努めた結果、一年有半後には六百十五戸の復興を見、町並みも、やや整い、商況も漸次に復活した。

関連項目[編集]