横浜市震災誌 第二冊/第3章

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第3章 本市第三方面[編集]

万代町 - 不老町 - 翁町 - 寿町 - 松影町 - 吉浜町 - 長者町自一丁目至四丁日 - 三吉町 - 千歳町 - 山田町 - 富士見訂 - 山吹町 - 永楽町 - 真金町 - 南吉田町 - 堀内町 - 磯子町 - 滝頭町および根岸町(堀割川以西) - 山下町 - 境町 - 港町 - 真砂町 - 尾上町 - 常磐町 - 住古町 - 相生町 - 太田町 - 弁天通 - 南仲通 - 本町 - 北仲通 - 元浜町 - 海岸通 - 新港町 - 中村町(堀割川以西) - 蒔田町 - 大岡町 - 岡村町 - 扇町

第1節 一般状況[編集]

第三方面は関内の全部、その西に続く釣鐘新田の新吉田川以南、その西に連なる大岡川以南、すなわち蒔田・大岡・堀内・滝頭・磯子・岡村等の各地を包擁している広大な区域であって、一帯に平地と丘陵地である。平坦地は、おおむね埋立地であるが、繁栄の街で商店が沢山ある。丘陵地はいうまでもなく住宅も少ない。一般の地勢から見ても、この度の大震災の影響が甚だしかったということは推知されるであろう。ことに本方面中、市内一等地の関内地域は、他に較べるところのないほど、被害は惨烈さを極めた。大きな洋館・大商店等は、第一の激震で、ことごとく粉砕し倒潰した。ついで起った猛火のために、ことごとく焼尽くした。繁華な街は一帯に廃墟と化して、復興容易ならざる状態に陥ったのである。釣鐘新田地域は、関内地域とは異なり、建物がおおむね木造なので、地震には大被害を受けなかったが、火災に依る被害は大きく、一帯に甚大で、たちまち各街は焦土に化したのである。その他の地域中、蒔田・大岡方面の震害は比較的軽微であったけれども、火災は遂に免れること能わず、その中央に連なる大部分は焦土と化した。本方面内に飛地を成して包擁されている根岸町の一部および滝頭・磯子方面の地震は、軽微であったが、刑務所の倒潰・焼失に因って甚大な被害を受けたのみならず、その他所々部分的に、火災を伴った。堀内町の震害は大体に於いて各地域と大差はなく、火災もまた免れて、震災の影響は軽微であった。岡村町は震災そのものが極めて軽徴で倒潰もなければ、全然火災も起らなかった。丘陵地だからもっとものことであろう。しかしこの辺の丘陵地は諸所に崖崩れを生じ、ことに蒔田町・堀内町・磯子町等に於いて甚だしく、磯子町は惨害を出した。区内で最も多く死者を出したのは、いうまでもなく関内各街で、その数は四千数百名の多きに上ぼり、裁判所は圧死百余名、正金銀行前は同じく百名の焼死者を出した。その他吉浜町の河岸、永楽町・真金町遊廓、根岸刑務所の如きは、いずれも多数の死者を出した。

直後、横浜公園は最も適当な避難所となった。釣鐘新田方面に於いては、区域外の中村町の丘地に避難した者が極めて多くその人数は三四万に達した。その他地域は丘地が多かったので、さして困難は感じなかったようである。住民は刑務所の開放で不安を抱いたが、別に事件というようなことは起らなかった。

各地域の状況は順次述べることにする。

第2節 関内[編集]

関内は、横浜港が開かれた頃からあった町で、以来今日まで商業および通商貿易の中心地とされていた。徳川末期、幕府がこの辺を市場として開いた際、入口に通行者の検閲所を設けたので、その構以南を関内というようになったので、とにかく古い町である。当時は会社・銀行・商館・商店・旅館等の大建物が沢山あった。またこの辺は港に近かったので、海運その他すべて港に関する仕事はここを中心としたので、常に雑沓し賑う街であった。この辺は昔海潮の干満した処で、開港後埋め立をして造ったところであるから、地盤が弱いのは当然である。十二年六月、加賀町警察署の調査によると関内全部に元町を含んだ、戸数は五千七百四十、人口二万六千六百二十五(外国人四千五百四十四を含む)であるから、この戸口数より元町の分として約一割を引いた数が、開内全部の数であると見てよいだろう。しかし関内各街は、官公署・会社・銀行・商館等多いため、通勤者の数は人口に数倍で、震災当日も数万の人が来ていたのである。

地域の中央にある横浜公園とその東に通ずる日本大通によって、関内は南北の二区に分たれている。関内北部は普通の街で、関内南部は居留地と呼ばれた外人街である。もっとも近年は内国人も多く居住しているが、外人経営の会社・商館が並んで、多くは西洋風で、一部は支那式であった。外国貿易とりわけ輸出貿易で世界的な貿易港である。横浜港はこの関内一帯を活動の中心地としていたのであったが、大震災のために、この地が全滅した時には貿易界および経済界が大打繋を受けたことは勿論で、横浜市の致命傷であったのである。 横浜公固は面積約二万坪で樹木花草を植え、泉水や噴水あり、市民の唯一の遊場であった。同公園は、市内で主要な避難地となって、数万の市民の生命が辛くも救われたのであった。本地域大部分は埋立地で弱いばかりでなく、煉瓦造の大建物が多かったため激震の襲来と同時に、建物の約八分通りは一瞬の間に倒潰した。震後まもなく各所より発火し、おりからの烈風に火勢を強めて、僅か三四時間の内に関内・関外にわたる一帯は焦土と化したのである。その時地内の街路を歩いていた人や、会社等に在勤中の人々の中に圧死した者、焼死した者、負傷した者が数千もあった。当日、関内に於ける遭難者の数はとうてい正確に計上し難いが、加賀町署の調査によれば四千七八百人ということである。一家全滅は九十二戸の多きに達した。とにかく全市で一番被害の多かった所である。

第1項 関内西北部[編集]

関内西北部は、その西南に大岡川支流があって関外諸街と接している。東南には県庁・生糸検査所・横浜公園等を通じて、東南部の山下町に連なり、東は港内に直面している。本地域には西より順に港町・真砂町・尾上町・常盤町・住吉町・相生町・太田町・弁天通・南仲通・本町・北仲通・元浜町・海岸通の十三街があって、別に南に境町がある。この辺は一帯目貫きの場所であるが、町幅が狭いため大被害を被ったのである。各街はどこでも大商店が軒を貫き並べているが、別けても本町・弁天通の二街路には、会社・銀行等多く、大きな建物が多くあった。海岸通りより新港町一帯は横浜港の埠頭で、税関があった。岸壁には常に大船が横附けになっている様は、貿易港としての盛りであった。税関右の馬車道は車馬・貨物自働車等絶えず往来して、日々大混維を呈していた。突然大地震が起ると同時に、特に竪牢な建物数十戸を除いて殆んど崩壊した。しかし山下町と異なり、半潰のものが少なくなかった。ことに新たらしい建物であった県庁・市役所・開港記念会館・基督教会館・石川組建物等は、いずれも内部を焼かれ、外形のみを残していた。したがって一部の崩壊のため、死傷はすこぶる多く、生埋となった者も数知れない。火炎はたちまち域内約二十箇所から起り、おりからの烈風に勢を得て海岸方面に延焼し、数刻経たぬ間に四辺一面は火の海となってしまった。その時所々に、旋風が起ったが、その著しきものは、午後四時頃北仲通の裁判所附近に、五時半頃境町に、六時頃市役所裏および正金銀行の両側に、六時半頃馬車道に起ったのであった。何分にも各街とも道路狭きため、圧死免れた者も逃げ途に迷ううち、火焔に包まれて焼死した。ことに川崎銀行側・正金銀行表門塀内・県庁港内の如きは死屍累々とし、その数、数十から百余を算した。港内沿岸や、吉田橋附近の川中には無惨な溺死体が水面を覆っていた。溺死者の中には親子・夫妻などが多いらしく、抱き合いあるいは手をつなぎ合うなど傷ましいほどであった。家人が生き埋めになったり、四肢を棟木に挟まれているのを救い出だそうと焦っても到底その暇なく、涙ながら逃げた者、あるいは一旦は逃げ出したものの、再び引き返して家人と運命を共にしたとかいう哀れな話もある。北仲通なる横浜地方・区両裁判所に於いては、所長始め判検事以下の官吏・庸人・弁護士・訴訟関係人・傍聴人等百余名の死者を出した。その他多数の死者を出だした箇所や、死体の累積した場所(凡そ二十人以上)を挙げると、本町一丁目横浜郵便局で九十人、同一丁目神奈川県庁構内で四十人、尾上町馬車道電車交差点附近で三十人、弁天通三丁目原合名会社で二十二人、住吉町五・六丁目の境なる俗称六道の辻で二十二人、相生町五丁目川崎銀行附近で八十人などである。関内各街には幾多の芸妓屋・料理店・待合等も少なくない。関内芸者は百四十一名中十九名の死亡を出した。この地域で焼失した主なる建物は、官公署では横浜税関の大部分・神奈川県庁・中央電話局・生糸検査所・横浜地方および区裁判所・横浜市役所・横浜郵便局・逓信省航路標識管理所・同海事部横浜出張所、会社・銀行では日本郵船会社支店・横浜正金・第一・第二・第三・十五・第百・住友・左右田・若尾・渡邊等の各銀行、原合名会社・横浜取引所、商店では若尾・小野・渋沢・大谷・朝田等の各商店、その他では横浜開港記念会館・本町小学校・横浜小学校・横浜貿易新報社・横浜毎朝新聞社・横浜基督青年会館・指路教会・真砂町市場等で、以上の中には、倒潰の上焼失したものもある。また半壊・大破・小破の程度の上で焼失したのもある。右大建物の中、税関を除くほかは内部が全部焼けて、外廓だけが残ったのである。川崎銀行・石川組・渋沢倉庫・小野商会倉庫三棟は、完全なる建物であっていち早く戸を締め切ったので、倒潰はいうまでもなく、類焼しなかった。

ここに遭難した知名な人は、横浜地方裁判所長判事・末永晃庫・判事宮本安蔵・同西田尚義・検事田中卓一郎・同瀬戸覚三郎・同太田国雄・同丹波良忠・同福鎌文也・同小野廉平・同小菅省三・同巻一郎・横浜刑務所典獄補内山久太郎・供託局事務官関譲・同渡邊隆雄・同森光陰・弁護士佐藤博愛・同二見友三郎・高久忠一・山口喜三太・竹内英・柴田基二・国重貞雄・新居茂・片山藤平・篠田武雄・同宗尚喜・航路標識管理所長吉岡栄三・横浜税関検査課長早川繁雄・横浜郵便局電信課長橋本忠蔵・神奈川県測候所長朝倉慶吉・横浜刑務所庶務課長伊澤健次朗・市会議員飯田久松・山下町郵便局長早川松五郎等の諸氏である。

本町・弁天通・南北仲通辺は、その一部が開港以前から陸地で、比較的堅固なため、地面に亀裂を生じなかったが、その他には無数の地割れ陥没を生じた。ことに港町河岸は最も甚だしく、その大なるものは幅三・四尺もあった。各街の一丁目ないし三四丁目の者は、主として横浜公園、四五丁目の者は万国橋を渡って新港方面へ、あるいは大江橋を渡って東横浜駅構内へ逃れ、少数の者は正金銀行内に入ったものもあったが、中には逃げ損って焼死した者は無数にあった。弁天・大江・吉田・万国・新港の五大橋が破壊しなかったことは、この地域の避難者に取って幸いのことであった。公園内に入った者は概して助かり、重傷のまま担ぎ込まれて死亡したのが多少あった。当時園内は関内・関外各方面からの避難者数万で埋められ。附近の水道破裂したため、公園内には水が三尺ぐらい溜まったので、却って安全な避難地となった。やがて旋風が起こって、焼屑が雨のように降って来て樹木や積置の木材に燃え付き、園内社交倶築部や図書館や市役所分室なども焼け落ちたが、池のような水溜まりの中にいた人々は水に浸って、熱気に堪えている中に火は次第に鎮まったので、東京被服廠のような大惨禍は免れたのであった。三日となり四日となるにおよび、これら避難民中、他街の人々といえども、霞災三・四日後、避難民の多くは自分の国や、知人の所などへ、行ってしまったので、到底市内恢復は見込みがないように思われたが、配給品なども各地から集まり、やがて、当局の力に依って、復興事業が開始されることになったので、避難民続々と帰って来た。そして町民協力して、復興事業につくしたので、一年後には仮建物ながら、各街共元の通りになったのである。近く政府と市当局の手に依って区画整理が始められるから、やがて震災前より遙か優れた道路・建築が見られるであろう。

1 港町[編集]

港町は関内の西端に位し、片側は大岡川に沿っている。四丁目と五丁目との間は市内交通の要衝たる馬車道である。一丁目には市役所や魚市場などがあった。二丁目から四丁目には、各種の問屋・運送店などが軒を並べ、五・六丁目には指路教会の煉瓦建、その他倉庫などがあって、小建物は少なかった。五丁目の堀越運送店では妻だけ助って主人と子供が六人死んだ。町民の大部分は横浜公園内に避難した。吉田橋は、関外方面から桜木町・神奈川町方面へ避難する唯一の逃路だったので、橋上は人で群った。逃げ後れた人々の中には、火に追われて川に落ちて死んだ人も多くあった。一年有半後の建物数は六十有三である。

2 真砂町[編集]

真砂町は尾上町の西で、公園前から馬車道までが一丁目から四丁目である。二丁目ないし四丁目には、各種の問屋や取引商や商店が軒を並べ、戸数二百五を有していた。家屋は約七分通り倒潰した。まもなく一丁目の魚市場より発火し、隣町より延焼して、全町ことごとく焼失した。町内の死者は七十三名であった。一家全滅と一家で幾人もの死者を出した家とは、一丁目の牛肉店竹内慶太郎方で、夫婦・娘・養子・姪・養家の父の六人および下婢二人。石塚蒲鉾店で、夫婦ほか家族五人および庸人二人。二丁目の鈴木箍店で、夫婦および子供二人。野村政次郎方で、夫婦・娘および孫。坂井天麩羅店で、父および子供三人。鳶職大河原磯之助方で、夫婦・母・娘いずれも焼死した。理髪業小田切松之助氏は一旦逃げ出したが、髪を刈っていたお客のことを案じて引返し、第二震でその客と共に圧死した。町民の多くは、公園内に入って避難した。

3 尾上町[編集]

尾上町一丁目から六丁目は、横浜公園から大江橋までの電車道に添う街で、戸数三百四十七、人口一千七百八十二名であった。家屋は第一震と第二震とに全部倒潰した。僅に一丁目の基督教青年会館、五丁目の渡邊銀行支店および千代田生命保険会社支店等は大破損をしたが、倒潰はしなかった。一丁目四番地、七番地の地先には、四尺強の亀裂を生じ、地盤二三尺陥落して汚水が浸出した。五丁目の電車交差点附近、六丁目の大江橋附近、その他全町到る所四五寸ぐらいの亀裂を生じた。一・二・三丁目は真砂町方面から襲い来た火炎に包まれ、四・五丁目は常盤町方面から延焼し、六丁目は六道の辻附近から発火した。おりから吹き募った南風に煽られて、火力は強く人々は逃げる暇もないぐらいであった。一部の町民は、主として公園地に逃げ、一部の町民は、東横浜駅構内に逃げた。しかして誤って吉田橋方面に行った者は、中途で焼死したり、溺死したものが少なからずあった。午後五時頃風向きが変わると同時に、旋風は突如海岸方面から襲って来て、瓦礫を飛ばし、火焔を捲上げつつ、公園地を抜けて関外方面に去った。居住民の惨死者二百七十四名、その多くは圧死である。町内で最も惨状を呈した所は、馬車道以北の家で圧死・焼死者多く、どこの家でも一人や二人の死者を出し、道路だけにも三十余の惨死体があった。町内の大建物で青年会館および千代田生命保険会社だけは倒潰を免れた。六丁目の煉瓦建物であった指路教会は全潰の上焼失して、惨死者をだした。多く死者を出した家を挙げれば、五丁目の小田原屋旅館は、三階の大建物であったため、主人杉綺崎菊次郎、ほか家族三名、そのほか庸人三名圧死した。氏は齢すでに八十に近く、淘宮術の大家で、町内での名望家で尾上会長として衛生その他公共事業に盡瘁すること二十有余年、先年神奈川県の衛生功労者として賞状を受けた人である。五丁目の真川謄写版店では、三郎夫婦、子供三人に庸人一名が全滅した。五丁目の仕立職三枝行恵方では、妻および子供五名ほかに同居人三名圧焼死して、主人一人だけが助かった。金田料理店では、女将山田テツ、ほか女中四人枕を並べて圧死し、四丁目の菓子店弘栄堂で、主人石上留吉および家族二名、ほかに庸人一名が惨死した。一丁目の鶏卵問屋内藤市太郎方では、主人始め家族・庸人五名逃げ場を失って焼死した。栗原運動具店でも主人夫妻および老人の三名が同様下敷となり、悲嗚を挙げて救いを求めたが、真砂町方面からの猛火を恐れて、誰とて救護に行く者はなく今にも焼死せんとする時、尾上町一丁目岡田理之助長男猛夫、ほか徒弟二名が生命を投げ出して救助した。一丁目の鳥肉販売店岡田理三郎氏は横浜鳥類商同業組合、および尾上町衛生副組合長であるが、早くも公園に避難している町民達を集めて、善後策について協議を開き、この際決して落脱せずに復興に努力しなければならないと、一同を激励した。震災後、救護や復興の事に力をつくし、第一県庁に交渉して、バラック四棟を造って、避難民を収容し、配給品の分配に努力した。

4 常盤町[編集]

常盤町一丁目・五丁目は、災前三百二十二戸、人口約一千四百名を有していた。大地震襲来と共に、火災は町内二三箇所から起り、尾上町方面からも延焼して、遂に全街は火儘に化した。一丁目ないし三丁目の人達は、主に公園へ避難したが、四・五丁目の人達は、主に東横浜駅方面へ避難したが、見当を誤って、他の方面に走った人の中には、中途にしてあるいは避難中に焼死を遂げたのも少なからずあった。町内では一丁目の生糸商根岸安之助方は、夫婦に子供二人、二丁目の羽二重商仲眞一郎方は夫婦に子供一人いずれも圧死して、一家全滅の悲運を見た。これら惨死者の数は約百名で概して四・五丁目に多かったが、他町に比較すれば、むしろ少ない方である。梁や柱に手足を挟まれたままで焼死した者も多かった。その一例を挙げると、四丁目の鳶職花形吉松という老人は、鴨居に脚部を圧せられて、身動きができず、孫がこれを救い出そうと努めている間に、猛火はたちまち後ろに迫って来たので、吉松は死を覚悟して、無理に叱って、孫を逃がしたということである。二丁目なるハイカラ亭事吉川謹一は、一旦飛び出たが、二階に寝かしてあった嬰児に心引かれて、半潰の家に取って返し嬰児を胞えて二階を降る際、第二震で家は全潰して圧死した。四丁目の履物商北澤圓吉は、後隣に住む清元の師匠小池ヨネ方の倒潰した家屋から、稽古弟子四名を救い出したそうである。

5 住吉町[編集]

住吉町一丁目から六丁目は、公園前から馬車道を挟んで、大江橋附近に至る電車道添いの街で震災前の戸数三百七十五、人口約一千八百であった。この街には庸人も少なからずあった。各種の大商店軒を並べ貿易商・仲買商等多く、五六丁目には芸妓屋・料理店などがあって賑やかなところであった。家屋約八分通り倒潰し、所々に亀裂を生じ、電車道は至る所湾曲し、一丁目ではレールが一間も高く持上った所もあった。早くも町内数箇所から発火、常盤町からも延焼して、火は相生町方面に進み、瞬く隙に一面の火となり、一戸も残さず焼失した。罹災した主なる建物は、一丁目では矢崎病院、二丁目では亀井絹物商店、四丁目では八木酒店、五丁目では廣瀬病院、六丁目では朝田回漕店、千登世料埋店等である。死者の数は、あるいは百五六十名ぐらいといわれ、あるいは二百名といわれているが、けだし各家の勤め人・庸人等をも合せれば、二百人に上ぼったであろう。一家全滅の家を挙げれば、一丁目では、市衛生課員入江市太郎方夫婦および子女二人、四丁目では、金物商某方で夫婦・老母および弟一人・庸人一人、亀屋玩具店で夫婦および庸人二人、六丁目では芸妓屋花井方で女将および抱三名・庸人三人等である。全滅にならないが、四丁目豆腐店日下知梅松方では主人および子供五人死して妻一人生残り、洋傘店某方では主人・子供二人・親成の者が二人死して、妻と子供一人とが残された。四丁目新聞売捌店日之出屋では、配達夫十余人の死者を出した。町民は主として公園内に、五六丁目の町民は大江橋および弁天橋を渡って、東横浜駅構内へ避難した。一年有半後の復帰戸数約三百である。

6 相生町[編集]

相生町一丁目から六丁目までの災前戸数三百六、人口約一千五百を有していた。街には中流の商家多く、特に大建物とてはない。激震一揺と共に、全街の家屋は僅かに一丁目某家の土蔵一棟を残しただけで、全潰あるいは半潰した。住民の多くは逸早く逃れ出でて、間近の公園に雲崩れ込んだ。圧死を遂げあるいは、生き埋となった者も多くあった。三丁目の料理店八百政方では、女将以下家族・庸人十六名圧死を遂げた。そのほか一家全滅もしくは全滅に近い程度のもの数戸あった。火元は太田町一丁目角支那料理店、その他三箇所であった。真砂砂町方面から煽りつけた火勢は最も烈しく、たちまち全街ことごとく焦土と化したのである。一丁目の麺麹店坂本寅次郎氏は、隣家の河合茂吉の妻が、一家五人家の下敷になったと知らせに来たので、生埋となっていた茂吉ほか四名を救い出した。公園に入った避難者が静まると、すぐ公園築山に一部落を作って、善後策を講じた。一丁目の自転車商根津酒造蔵が村長格となって、救護・配給万端の事につくした。同君は早くも九月十二日に、自家の焼け跡にバラックを建て、従来の家業につくした。町民はそれぞれ復帰し、中には外からも移住して来て、十三年十二月末までには、二百戸を算するに至った。

7 太田町[編集]

太田町は災前の戸数約二百五十、人口約一千であった。勤め人も多くあった。各種の大商店軒を並べ、貿易業者多く、会社・銀行などもまた多かった。震災では全町建物の約七分通り倒潰した。町内からの発火と相生町方面からの延焼によって、全町ことごとく焼失した。町内の発火箇所は、詳細には判らぬが、罹災の主なる建物は、一丁目で十五銀行・小林貿易店・岩崎家・金子家、二丁目で辛酉銀行・日米生糸会社、三丁目で原合名会社倉庫・関洋服店、四丁目で金森時計店・大川印刷所、五丁目で堀江肥料店・西洋料理日盛楼、六丁目では讃岐屋旅館・海老塚給水店等で、それらの多くは煉瓦造・土蔵造の立派な建物であった。住民の内一丁目ないし四丁目の者は、主として横浜公園内へ、五・六丁目の者は東横浜駅構内へ避難した。町内に於ける死者の数は関内北部諸街の中では最も多く、その数三百六十九人におよんだ。これは勤め人や庸人をも合せた数であるとしても、一戸平均約一人当の死者を出したことヽなるのである。一家全滅もしくはそれに近き程度の家を列挙すれば、一丁目で売薬商宇田川八太郎方は主人・母および娘三人、足袋仕立職横山宇三郎方は主人庸人七人、二丁目で羽二重商松岡嘉古方は主人以下五人、四丁目で伊東屋旅館は主婦・子息・駆人および滞留客等計十四人、洋服仕立職鈴木浪之助方は主人以下三人・庸人一人、葬儀店渡邊慎吾方は五人、衣服商土肥憲次郎方は四人、五丁目で按摩業寺前秀松方は六人、債券商五古周次方は五人・扉人一人、印刷業水上政五郎方は四人、水谷政次郎方は三人、肥料商堀江宗太郎方は主人以下五人、料狸店日盛楼米山フク方は庸人および客五人、通信社日比野重郎方は社主および社員三人、六丁目は不明である。右の中堀江宗太郎氏は市会議員の公職に在った。三丁目なる町衛生組合書記石井梅太郎方は、かかるような悲惨のまっただ中に住み、当日主人夫婦および子供五人・ほかに居合せの親族二人・使丁一人合せて十人もいたのであったが、幸に一人の死者もなく、一同無事に避難したので、当町では珍しい僥倖であると云っている。一年有半後の戸数百八十八、その約四分の一は新来の家である。

8 弁天通[編集]

関内の中枢で、各種の貿易商店・雑貨店、軒を並べ、いずれの店頭も外人が賞美する邦産美術品を飾っていた。弁天通一丁目から六丁目までの戸数人口は災前戸数百六十六、居住者一千五人あった。この辺は永い間火災に遭わなかったので、老舗・旧家などが多く、大抵は土蔵造であって、商品什具を多く貯えていた。また会社・銀行等もまた少なからずあった。大震が突発するや、住家・商店の多くはひとたまりもなく全潰し、土蔵は塗り土を振落された。倒潰しなかったのは川崎貯蓄銀行支店・正金銀行・原合名会社および小野商店の倉庫等であった。但しこのあたり地面に亀裂が比較的少なかったのは、昔の洲干半島の地内で、埋立地が少かったからであろう。この界隈の発火で最も早かったのは、北西隣なる太田町四丁目および同町一丁目で、一・三丁目が真っ先にその方面よりの火先を受けて焼き払われ、継いで五・六丁目がその方面より火先を受けて、一舐めにされた。類焼した建物の主なるものは、一丁目では第三銀行・小野生糸店・山岡毛皮店・山本絹物店、二丁目では、共益不動株式会社・木村生糸店・大和絹物店、三丁目では原合名会社・鹿島屋旅館・河北時計店・日米生糸株式会社、四丁目では信濃屋洋品店・大正生糸合資会社・共同火災保険会社支店・大平生命保険会社支店・日比谷棉花店、五丁目では長野屋旅館、六丁目では槌勝運送店・内国通運会社支店・青木氏邸等で、あらゆる財貨、あらゆる帳簿・書類等をば烏有に帰した。居住者の死者は二百三十余名、そのほか通勤者の遭難も少なくなかった。在店中の内外のお客や、通行人の死傷者も多数あった。死者を多く出した家は一丁目では絹物商鈴木彌次平主人夫妻・庸人二名、ほか子息一名助かった。雑貨商宮崎萬福主人および弟二名ほかに来店中の外国人五名、小野生糸店で店員六名、二丁目では煙草店石原玉三郎主人夫妻以下四名、三丁目では原合名会社で店員庸人二十二名、鹿島屋旅館で夫妻二人・庸人一名、子息は助かる、四丁目では靴商三川信太郎主人・子女二名、内儀は助かる、足袋店福田俊三主人夫妻、その他家族四名・庸人一名、一家全滅、絵草紙店池田幸吉主人夫妻および子息四名、全滅、酒店鈴木宗作主人夫妻および子女二名・庸人一名、全滅、用品店石川伊之助夫妻、全滅・洋品店本多建三妻子女三名・庸人一名、主人は助かる、漆器商吉川信次郎妻子女四名・庸人一名、主人助かる、大正生糸合資会社で社主小川久清夫妻子女四名庸人三名、全滅、五丁目では羽二重商前谷田金之助夫妻女二名、長男は他行して助かる、靴店中村和賀夫妻・子女二名・庸人一名、全滅等である。町民中、一・二・三丁目の人々は、主として公園地に、四・五丁目の人々は、主として万国橋を渡って、海岸および船舶に、五・六丁目の人々は、近きは河川、遠きは水道山方面に避難し、多くは無事であった。河川に赴いた者の中には避難中惨死した者もあり、ことに四・五丁目の人々で、正金銀行に避難したものの中には焼死体になったものもあった。しかし同銀行地下室に最後まで堪えた者は多数助かった。災後諸所に流浪した町民達も漸次に復帰し来たり、過半は従来の家業に従事して復興の事に余念なく、十三年末の調査によれば戸数百四十二、人口六百六で、人口の著しく減じたのは、避難者の多かった結果である。

9 南仲通[編集]

南仲通一丁目から五丁目は、震災前戸数百二十八戸、人口五百七十三を有し、貿易商と仲買業の店が軒を並べて、商取引の活発な土地柄である。大震起こると同時に開港記念会館・正金銀行・川崎銀行等数棟を残したのみで、建物は大抵倒潰した。倒潰の勢い烈しかったのは、三丁目の大濱氏邸の表囲いの、高さ七尺長さ十間の煉瓦塀が、一瞬の間に倒れた。横浜記念会館の塔が倒れなかったは、実に不思議であった。まもなく太田町三・四丁目方面から黒煙が立ち上り、当町に延焼した。二丁目の興信銀行の裏手からも火炎上り、南風に煽られて海岸方面に延焼し、たちまち同町内を焼きつくした。焼失した主なる建物は、左右田銀行・加藤羽二重商店・横浜記念会館・興信銀行・西村・加藤両商店・大濱商店・横浜取引所・岩国屋旅館・江戸幸鰻や・東京火災保険会社支店・正金銀行等である。

またこの町で勤め人として来ていた者の中で、死んだ者がかなりあった。神奈川石川市会議員もここで遭難した。哀話を残した家は、二丁目仲買商諸星嘉七氏一家で、長い間床に就いていた父嘉七氏を、子息の定三氏が背負い、母や妻女や娘と、店員二名を連れてようやく逃れ出て、県庁まで辿り着き、取り敢えず湯呑所で一息ついていると、突然余震が起って、同所はたちまち倒潰し、折角逃がれた七名は、皆下敷になってそのまま即死し、あるいは焼死し、生き残ったのは次男保三氏と、本牧にいた家族二名だけであった。岩国屋旅館は家人と宿泊者六名死亡し、四名の負傷者を出した。横浜毎朝新報社では女工六名席を並べて圧死した。江戸幸鰻屋では店主益本幸次郎ほか家族・庸人全部圧死した。印刷業南仲社では社主藪覚次郎氏のほか職工二十一名が惨死した。福久料理店では庸人四名、北脇仲買店では庸人四名惨死し、寺田理髪店で、主人芳次郎始め家族三名圧死した。五丁目では東京海上火災保険会社の倒潰で、社員九名惨死した。町民の大部分は公園に避難し、五丁目の者は海岸方面・横浜駅構内などへ避難した。中には正金銀行に逃げた者もあったが、中へ入ることのできた者は助かったが、石塀内へ入ったり表門に彷徨っていた人達は皆焼死した。

正金銀行は花崗岩造りで耐震耐火の建物であったので、大地震はなんのことなく、現金・有価証券・その他重要書類は、地下室の大倉庫内に入れ、無事保管することができた。同銀行こそ唯一の避難所であると考えた町民等百余名は南仲通りの表門と、弁天通りの裏門から続々と入って来た。人数は行員と合せ三百名いた。しかし間もなく猛火が四方から襲って来たので、銀行は表と裏の門を閉めて一同は弁天通り方にある地下室へ入って、運を天に任せていた。猛火は遂に、硝子窓と、硝子天井とを熔かして、内部の木造の部分を全部焼き尽くした。地下室に在りし三百人は、四方を火に巻かれながら、いまにも窒息するほど苦しんだが、行員の中に機転の利く者があって、換気法などやっている間に、午後四時頃火も鎮まったので、弁天通り裏門を開いて、一同を行内から出した。彼等は焼け跡の上を踏み越えて、東横浜駅の広場に出て、思い思いの場所に去った。なお気の毒であったのは、一時表門を閉めた後へ、火に追われ追われ正門および南仲通側の石塀の内に入った人々は百余名で、全部黒焼死体となって、重なり合っている様、いかにも無惨であった。

10 本町[編集]

本町通りは横浜市の中心地で、一丁目から六丁目の大通りは、北は弁天橋から南は永く山下町に続いている。各種の会社・銀行・輸出入商店・回漕店・雑貨店等、洋風の建物が並び立っていた。震災前は戸数百五十五、人口約九百五十、他町からの通勤者が数百名あった。激震と共に全街建物は約八割倒潰した。県庁・横浜郵便局・生糸検査所・安田銀行支店・サムライ商会・田中・岡野両商店・清水回漕店・第二銀行・若尾商店・第百銀行支店・横浜貿易新報社・横浜小学校・本町小学校等、多く洋風の二三階建物である。

まもなく五丁目辺より火を発し、続いて相生町・太田町から火先を受けて、全町はたちまち火に包まれてしまった。土地柄だけに損害は大きく、生糸・貿易品等の損害額は巨額のものであった。

町民惨死者の数は二百四十七人で、このほかに通勤者、通行人等の死者が多くあった。多くは圧死であるが、下敷きになって生きながら焼死した者もあった。一家全滅同様の家、まず上州屋旅館で、主人・家族・庸人等で十一名死亡し、女児一名が生き残った。大勢屋旅館では、主人・家族・庸人等八名死亡して、男児一名が生き残った。松井旅館では家族・庸人等九名死亡して、主人一人だけが残った。この他一家十名内外死んだものが二三ある。横浜小学校では、校外で犠牲になった児童が九十三名あった。本町小学校でも、同様の児童が八十四名あった。

町民の主なる者は大抵は横浜公園に逃げ、五・六丁目辺の者は、弁天橋を渡って東横浜駅構内に避難し、あるいは伊勢山・掃部山、遠くは水道山方面に逃げた者もあった。ある者は海岸方面に逃げて、船舶に収容された者もあった。震災後数箇月間町民の多くは、市の場末に一時仮屋を建てて、辛苦を嘗めつつ、再び帰るために復興を待っていた。一丁目方面が復興の気運に向かって、物資の運搬に必要上、蓮送店・回漕店等が真先に開業したので、急に活気を添えた。かくて大正十三年の末には、戸数は百八、人口は五百三十となった。震災後生糸市場は十数日で復活した。

11 北仲通[編集]

北仲通は一丁目から四丁目で、五丁目は全部横浜地方・区裁判所の構内に属し、六丁目は航路標識管理所・絹業試験所・羽二重検査所等が占めている。各種の会社・商店が軒を並べていた。したがって住民は少ないが勤め人や庸人は多かった。町内の民家や役所は約八分通り倒潰し、多数の死者を出した。火はやがて四丁目附近、その他より発し、一戸も残さず焼き尽くした。焼失の主なる建物は開通社・加藤商店・サムライ商会・女子青年会寄宿舎・紀之国屋旅館等であった。

町内の死者は、勤め人も混じっているので判然とは分らないが、二百名を越していることは確かである。裁判所は百余名死者があった。一家全滅、全滅に近い家を挙げると、多くは三丁目で、鯉淵牧之助方では夫婦ほかに子供三名全滅、鶴田甚平方は夫婦と子供五名全滅、度量衡製造業荒井留吉方は夫婦と子供四名、叺(かます)商青山陪吉方は夫婦と女の子二名・孫一名、艀業齊藤若蔵方は妻・子供三名、粛家日置政吉方は妻・子供二人等である。町の衛生組合長富豪大西源太郎氏も惨死した。

町民の多くは公園に避難したが、中には万国橋を渡って新港方面に行き、繁留中の船舶に救助されたものもあった。東横浜駅に避難したものもある。同町は震災後復興も早く裁判所跡に、大規模の設計の下に、生糸検査所が新築されることになって着手された。

12 元浜町[編集]

元浜町一丁目から四丁目には、各種の会社・商店等がある所であるから、大きな建物が多く、勤め人や庸人が多い。大地震が襲来すると同時に、町内の建物は八分通り倒潰した。まもなく火が発して、石川組の建物を除くほか、他の建物は全部焼失した。その主なる建物は、渡邊銀行・石川回漕店・三井倉庫・共同運輸会社、その他大商店・旅館などであった。岩上合名会社の倒潰はことに激しく、三階の建物は真ん中頃から破壊し、四方に砕け落ちたので、家屋を押し潰し、社員・その他の死傷者を多数出した。社主岩上幸太郎氏も圧死した。

町内の死者の数は約百名であった。一家全滅は、三丁目の菓子商内田金次郎方で、夫婦と女児一人、二丁目の本重貿易会社で居合せた者約十人、四丁目の洒井回漕店で、主人源太郎夫婦と母親・子供との四人、安達善蔵方で五人、斉藤某方で四名等である。

13 海岸通[編集]

海岸通り一丁目より五丁目は、会社・商店のある所で建物は概して大きい。税関の一部もこの町にある。激震が起きると同時に建物は大部分倒潰したので、多数の死者を出した。さらに隣町から延焼して来た火に、ことごとく焼失し、一層死者を増やした。

罹災した主なる建物は、日本郵船会社支店・税関一部・神奈川県港務部・神奈川県測候所・商品倉庫・山形・松永等の回漕店・三井倉庫等である。一家全滅もしくは全滅に近い家は、四丁目の艀船業児玉某方、夫婦・子供二人・老婆・同居人二人、五丁目では本間セキ方、家族三人・庸人二人、田島某方で三人等であった。

14 境町[編集]

境町一・二丁目は震災前戸数五十三、人口約三百を有し、金物営業者多く、医師も割合に多かった。家屋はことごとく倒潰して八十七名の死者を出した。その主なるものは、一丁目の横浜運送株式会社の庸人八名、印字機械商平工五郎方では主人以下家族三名全滅、二丁目の西村貿易店では店員五名、中根家禽店で家族四名等である。二丁目の原田洋食店では、主人夫婦惨死したが、子供二人はほかへ遊びに出ていたので助かった。同店は開業後五日間で災難に遭ったのである。

同町は公園より外には逃げ場はなかったので、町民は先を争って公園に走った。避難者等は不安の中に数日を暮らしたが、やがて衣食物が配給されるようになったので、ようやく安心することができた。住民の大部分は長らく、公園内のバラックに籠もって、惨めな生活をしていたが、その半数の者は焼け跡に帰って家業を始め、半数は他の町に移ってしまった。山手方面から、新たに移って来た者二十余戸あった。

第2項 港内[編集]

激震が起ると同時に、西波止場にある逓信省海事部横浜出張所・横浜税関旅具検査所・同監視部・大桟橋・水上警察署等の建物は、全潰あるいは半潰した。やがて海岸通方面から起った火炎は、おりからの烈風に煽られて、県測候所・県港務部・水上警察署を一舐めにして、波止場一面に拡がり、桟橋上の上屋をも焼失した。

当日は桟橋の右側には米汽船エンブレス・オブ・オーストリヤ号と、左側にはアンドル・ルボン号が繋留されていた。エンプレスは正午キャナダに向かって出帆する予定であったので、桟橋は内外の見送人その他、ポーターや行商人で、千人近くの人出であった。エンブレス・オブ・オーストリヤ号が出帆しようとして錨を上げかけた時、突如として起った恐ろしい激震は、桟橋を破壊した。陸地に続く部分数十間は、水煙を挙げて、海中に墜落し、陸地との連絡は全く切断された。桟橋の上にいた人々は、水中に振り落されて、危うく溺死しようとしたが、本船はいうまでもなく、同船の準備に附近にいた汽艇(ランチ)や、その他碇泊中の船がすぐに救助に努めたので、大抵は救われたが、中には溺死した者もあった。救助された者は、桟橋に上げられて一時は喜んで見たが、陸へ行くことはできなかったので、当惑している間に、突然桟橋上屋が燃え始めたので、人々は絶体絶命に陥った。これを見てアンドル・ルボンは、すぐに梯子をおろして、救助したが、焼死した者、溺死した者は数十名あった。

当日港内には、大小百余の汽船が碇泊していた。東洋汽船のコレヤ丸は、税関第四号岸壁に繋留され、二日に出帆する準備をしていた最中に、突然岸壁が崩れたので、その力で、同船は数十間先に突き出された。その際岸壁にいた船舶関係者・荷役人夫が数十名、海の中へ落ちたので、本船はすぐに救助した。火はやがて、同所の三号上屋から発して、たちまち四辺は火に包まれてしまった。コレヤ丸は火の粉を盛んに浴びるので、やむなく港内第三区に立退き、引続き汽艇を使用して、避難者を救助し、数百名を収容した。

第五号岸壁には、大阪商船のロンドン丸が碇泊し、第六号岸壁には、パリー丸が碇泊していたので、同じく汽艇を用いて、万国橋方面から避難して来た多数の者を救助した。西波止場港湾内および同所から新波止場を経て、弁天川筋の海面には、碇泊中汽船や艀船などが沢山あった。突然沿岸一帯の火がそれらの船舶に襲って来たので、競ってその場から安全な水域に立ち退こうとしたが、四辺は狭く、その上船舶は密集していたのでどうすることもできず、その家族達は船を捨てて、ようやく大船に避難したけれども、逃げ場を失って焼死し、溺死した者は約五十名あった。岸壁は総延長約千百間であるが、被害のなかった所は僅に二百三十三間で、その他は殆んど海中に落ち込んでしまった。

防波堤は東堤、北堤の二つに分れているが、両堤とも数百間沈下し、白赤灯台は見えなくなってしまった。北堤上にあった石造の港務部見張所は破壊してしまった。

港内に於ける船舶の損害は、大正十三年二月二十日までの調査によると、小型蒸気船四十隻、発動機船五十隻、艀船九百八十四隻、その他二百三十八隻で船体損害見積り総額は、三百四十一万三千八百五十六円である。積載貨物損害見積金は四百五十二万百三円に達した。 港内設備の被害が大きかったため、震災後はしばらくの間、船舶の発着が不可能となったので、各方面から輸送して来る罹災民の救護物資は、一時新山下町の埋立地に陸上げされていたが、応急工事をされた桟橋は、九月十九日には早くも巨船を横附けできる運びとなって、年内の船舶は発着共に、ほぼ支障がないようになった。工事はまもなく一千三百万円の巨費を投じて着手した。

第3項 関内東南部(山下町)[編集]

山下町は開港以来の外人居留地で、市の中心地というべき繁栄の町であった。外国商館・商店・会社・銀行・ホテル等いうまでもなくすべて洋館ばかりで、街には婦人洋服店・貴金属宝石店、珍しい日本の骨蓋品や、種々の美しい美術品を飾っていた店などが、人眼を惹きつけていた。往来する人は殆んど外人ばかりで、ホテルに泊っている観光の外人に取って、唯一のお土産買いの場所であった。震災と同時に、この華やかな山下町の居留地は、傷ましい廃墟の地となってしまったのである。

上下動の激震突如襲来するや、煉瓦造りや石造の旧式の建物は、みるみる一斉に倒潰した。この町一帯は埋立地が多いので、地盤が極めて弱かったから、一層倒潰を早めたのであろう。建物の内にいた人はもとより、通行人でも、殆んど逃げる暇はなく、破壊した建物の下敷となって、圧死したのであって、一建物で十名・二十名・数十名という多数の死者を出したのであった。ことに建物が大きかったので、道路は埋められてしまって、辛うじて飛び出した人も、逃げることもできないので、生き埋めになった人達と同様にまもなく襲って来た火に焼死を遂げたのである。

建物が倒潰してから約二十分の後、二百番館・二百四十番館・二百五十九番館等の辺りから火は交々発して、関内方面から延焼して来た火と合し、おりから西南の強風に煽られて海岸方面に火勢を逞しく、瞬く間に四辺を火の海と化した。地震では無事に逃げた人も、濛々たる黒煙が眼の前を遮って、行く道さえ判らなかった。あちこちと彷徨って道を捜す間に猛火に包まれて、焼死した者は少なからずあった。二百番館辺の発火は市内で一番早く、数名の消防署員が駆けつけたが、水道は既に破裂しているのを見て、手の附けようもなく、そのまま引き揚げたのであった。かくて猛火は、街を樅横自在に焼き尽くし、午後七時頃には吉浜橋の東南方面から大旋風が起った。八時頃になってようやく鎮火した。余燼は数日間も燻ぶっていた。

三井物産株式会社支店の倉庫は、建第物が極めて堅牢であったため、倒潰を免かれ、すぐに扉を閉じたので内部には少しの損害もなかった。露亜銀行の倉庫は、同じく火災を免れたので、保管中の生糸は後日生糸市場が復活した時、多大の便宜があった。

露亜銀行・岩井ビルディング・中央電話局・米国領事館別館等、その他耐震建物は倒潰しなかったけれど、猛火には遂に堪えられなかった。同町は会社・商館等が多いので、遭難者が他の町々のように町内の住民ではなく、勤め人が多かったとのことである。当日は土曜日で、事務員や庸人は大抵帰ろうとする頃であった。もし地震がもう少し遅かったなら、死者は必ずもっと少なくて済んだであろう。

倒潰して焼失した建物は次の如きものである。日本の建物としては、中央電話局・加賀町警察署・大阪商船会社支店・東洋汽船会社支店等である。外国の建物としてはスタンダード石油会社・露亜銀行・セールフレーザー会社・香港上海銀行・チャータード銀行・独亜銀行・中法実業銀行・グランドホテル・オリエンタルパレスホテル・マイソネットホテル・イースタンホテル、米・支・英・露・仏・独の各総領事館、瑞西(スイス)・葡(ポルトガル)・英・蘭・伊・丁(デンマーク)・西(スペイン)・瑞典(スウェーデン)・チェコスロバキア・諾(ノルウェー)・秘(ペルー)・希(ギリシャ)・白(ベルギー)・亜(アルゼンチン)・巴(パナマ)・棼(フィンランド)・ベネズエラ・ボリビア等の各領事館、英・米・加奈陀・仏の各商務館、米船舶院、支那学校の大同学校・中華学校・華僑学校、外人商業会議所・ドッドウェルビルヂング・サミュールビルヂング・ゼネラルシルクビルヂング・ユナイテッドビルヂング・三江公所・インターナショナルビルヂング・中華会館・関羽廟、外国商館では英一番館を始め、英国商館百五十一(内五十八は印度)、支那商館百三十六、米国商館五十四。その総数は四百三十三である。

英国総領事館の庭内の名樹玉楠も焼失したが、根は焼けなかったので、再び新しい枝葉を出した。ペルリが来朝した時、幕府の役人が玉楠の傍の仮舎で応接したということで有名になっている。

同町を流れている堀川と、大岡川に沿う道路には大小の亀裂を生じた。橋もことごとく破壊あるいは焼け落ちて、避難者の困難は一通りではなかった。谷戸橋は破壊し、前田橋・西ノ橋は焼失した。大岡川では吉浜橋は陥落し、花園橋は焼失した。河中の至る所に惨死体は漂い、黒死体を乗せた焼船が散乱していた。

山下町で最も酸鼻を極めたのは、街の中央部から、西部一帯を占めている南京街であった。同町は支那人の居留地で、狭い街には幾つとなく横丁があって、そこに南京料理の店や、雑貨店や籐椅子屋や、洋服屋などが最気よく軒を並べて、その間に日本人のやっている酒屋や魚屋もあった。とにかく横浜で人気を寄せる唯一の街であった。建物の多くは古い脆弱な煉瓦造りで、軒先が突き合うほど密集していた。全町の建物は第一震で、目茶々々に粉砕されてしまった。続いて火炎は八方から起ったので、逃げる余裕もなく、約五千人の支那人中二千人の惨死者を出した。

海岸通にあったグランドホテルと、オリエンタルホテルの被害も、また酸鼻を極めたものであった。両ホテルは、いずれも煉瓦造りの大建物で見晴らしのよいところであった。両ホテルでは常に夜会舞踊会が開かれ、在留外人の楽しい遊び場であった。当日は丁度午餐時であったが、大地震が襲い来ると同時に、両ホテルは瞬く間に崩壊した。宿泊中の外人や午餐に来ていたお客や、事務員・ボーイ等は、過半数建物の下敷となった。入口や、階上にいた人々はいち早く飛び出し、または辛うじて匍い出したが、奥間にいた者や地下室にいた者などは、どうしても助けることができなかった。早くも襲って来た火に、そうした人々は皆焼死した。グランドホテルでは約九十名の死者を出し、オリエンタルホテルでは約五十名を出した。

当日グランドホテルには、欧米人八十名、主として米人が宿泊していたが、この中の約二十名は、当日正午出帆のエンブレス・オブ・オーストリヤの船客を見送に行ったので、それ等の半分は遭難し、半分は助かったようである。室内にいた同ホテルの社長マクドナルド氏が焼死したことは、震災後、発掘した時、白骨に附いていた時計と鍵とによって、ようやく確められた。なお、同ホテルの役員・事務員・使用人等二百四十名の中、死者は五十一名であった。五番館のクラブホテルでも多数の死者を出した。

その他一建物で、多数の死者を出した所を挙げると、百六十四番ビリドリー商会では店員および庸人二十三名、九十六番のサングルトン商会では二十七名、五番東洋汽船会社では三十一名、百四番福音印刷所では七十五名、横浜郵便局本局では九十名、郵便局電信料金課では三十名、二百十番菅川屑糸商店では三十一名、百七十七番三井物産会社支店では二十三名であった。

九十五番館の某輸出入商会は倒潰を免かれたので、附近の町民はこここそ屈強の避難場所と思って、四十余名も逃げ込んだがたちまち猛火に包まれ、ことごとく焼死した。なお海岸通には、内外人の死体が七十余り折重っていた。米国領事は無残にも県庁前で惨死された。

当町には勤め人が非常に多かったので、住民の死者の数、勤め人の死者の数と、分けて調べることはできない。山下町・元町・関内の一円を管理している加賀町警察署の調査によれば、管内すべての死者四千八百九十人であるというから、その約半二千四百名は山下町の死者であったと見てよい。

同町に於いて、一家全滅の悲運に遭った家を挙げると、次の如くである。百三十七番地表具商、杉本藤三郎方では、夫婦および養子夫婦・孫二人・庸人一人、糸商中村秋三郎方では夫婦および子供二人、同八十七番薪炭商新倉庄作方では夫婦、同牛乳商藤東吉方では夫婦、百二十三番安藤某方では夫婦および子息二人、百八十八番自転車店海老原環次方では夫婦および子供五人・庸人一名、同硝子商店谷田貝久春方では夫婦および娘三人・庸人二名、同錻力商金子亀三方では亀三および母および庸人一名、同家具商山口祥作方では夫婦、百八十七番家具商中西藤吉方では夫婦および娘二人、百三十四番酒商小島一作方では夫婦および娘一人・庸人一名、百三十七番、靴商中村貞治方では夫婦と小児一名、同錠前職木村富次郎方では夫婦・母と子供一名、百三十四番酒商小島逸作方では夫婦、百八十九番家具商藤田四郎兵衛方では夫婦と子供二人、いずれも惨死したのであった。

生命からがらようやく逃出した町民や、勤め人等、幾万の人々は、主として海岸・同埋立地、および横浜公園などへ避難した。港内に碇泊中の船舶に収容された内外人は少なくなかった。避難者の中、勤め人は各自の宅へ帰ったが、家族の安否が判らないで、悲境に陥る者が多数あった。

震災後、同町の人々は、各地へ思い思いに散って、復興の日を待っていた。外人の多くは市の救護を受けたり、各本国の救護団の保護を受けて、多くは阪神地方に赴き、中には帰国した者もあった。支那人も帰国したが、幾分は帰って来て南京街はやや復興し、元の料理店などができている。京浜間に残っている僅かな外人達は、罹災しなかった同国人を頼って寄寓した。罹災した外国領事の中で、英・米二国だけは、すぐに碇泊中の艦船の中に仮事務所を置いた。山下町の建物は煉瓦・石材などで建てた大きなものであったので、焼け跡の整理が非常に困難なために、他の諸街より非常に遅れた。その上に外人が僅かしか帰って来ないので、復興しないのである。ホテルなども容易に復興しない。グランドホテルなどは全然再築をやらないということである。しかし山下町にはテントホテルというハイカラなホテルが、フランス人の手で建てられた。日本の大震災記念ホテルだと、米人の間に評判になり、泊り客も多い。

第3節 釣鐘新田南部および西部[編集]

南吉田町と、その以東に在る十五箇町を一区画として、その被害を記述する。

この地域は、最も新しい埋立地で、吉浜・松影・寿・扇・翁・不老・万代の埋地七箇所と、日の出川を渡って向こうの長者・富士見・山吹・真金・永楽・山田・千歳・三吉の八箇町と、南吉田町の一帯とで、一区画をなしている。中央は商業地で、その賑さは伊勢佐本町界隈に肩を並べている。釣鐘新田の大部分は、去る大正八年四月火災に遭って、その後道路等も拡張され、店舗なども工夫された新たらしいものが立ち、一層好い街となった。

かくのごとく同地域は新たらしい埋立地で、地盤が極めて脆弱であったから、第一震が襲うと同時に、家屋の大半は一堪りもなく倒潰した。水道鉄管の破裂と、地面の亀裂とのために、山吹・富士見・山田・千歳・三吉・永楽・真金、各町に水が氾濫してたちまち四辺は泥海となった。町民はこの出来事に狼狽しているところへ、数十箇所から殆んど一斉に発火し、おりからの烈風に、火勢を強めて火はみるみる一面に拡がり、この地域から伊勢佐木町界隈にまで続いて燃えて行った。当時全市火の海と化していた。

南吉田町の南川ほかの小一部分を残して、全地域は一戸も残らず焼失し、関内・関外まで見渡す限り焦土と化したのである。亀裂はことに甚だしく、各川筋の沿岸には道路の幅五分の一、あるいは三分の二の大地割れを生じた。道路面は川向きに傾き、または陥没し、川岸は殆んど総崩れとなった。電車線路の敷石は跳ね飛ばされ、レールは飴の如くに曲ってしまった。この地域には川が多いので、橋も三十余箇所あったが、大岡川筋の東では、焼失した橋は港橋・花園橋・吉浜橋は一部破壊、新吉田川筋では千歳橋破壊、日本橋破壊、横浜橋一部破壊、長島橋焼失、武蔵橋焼失、山吹橋半焼、千秋橋焼失、鶴ノ橋一部破壊、権三橋焼失、蓬莱橋焼失、池下橋筋では、共進橋焼失、日枝橋一部破壊、その他焼失・破壊した橋は枚挙するに暇あらずである。

この地域として安全な避難地は中村町の丘であったが、そこへ行には車橋を除くほか、いずれも破壊しているので避難するに大障害をきたした。しかし大部分の人は、かかる窮状に陥らない先に逃げたのであったけれど、家族を助けようとしたり、あるいは荷物を持ち出そうとして逃げ遅れた人達は、逃げ道を失って、焼死したのである。しかし、危険を冒して黒煙の中を逃げ、川を泳いで向う河岸に渡って助かった者はある。中には岸の崩れに身を隠して、水を頭からかぶって、熱気に堪え辛うじて助かった者もある。しかし老幼婦女等はどうすることもできず、川の中へ落ち溺死した者が沢山あった。南吉田町の第三小学校の校庭には数十名の焼死体があり、吉浜町の石炭置場には約百名の焼死体が重なり合っていた。

一方横浜公園方面に逃げた者も、吉浜・花園・港の三橋がいずれも破壊していたので、公園に行く道は全く絶え、猛火に追われ、川中へ身を浸して辛うじて助かった者もあったが、溺死したものが多かった。

南吉田町の住民は、近くの堀内町や南太田町の罹災を免れた所へ避難した。横浜遊廓に多数の死者を出したことは、建物が大きいことであったことと、逃げ場がなかったためである。

本地域の中程にある日之出川以西の数箇町は、震災後久しく水道が出なかったで、他町より復興が遅れた。

1 吉浜町[編集]

吉浜町は大岡川と中村川とに挟まれている三角形の町で、震災前は戸数三百余、その多くは商店であった。大地震起るや、たちまち全家屋の八分通りは倒潰した。火は松影町から延焼して、一戸も残さず焼失してしまった。罹災の主なる建物は日本海員掖済会の事務所・寄宿舎・海員養成所・病院・逓信省材料倉庫等である。

掖済会の裏手には、千三百坪ばかりの空地があったが、去る大正八年にこの辺に大火があった時、この空地が唯一の避難場所になったことを同町民は思い出して逃げて来た。隣接の各町からも逃げて来た者もあったから、その数は二百余名もあったろう。しかしまもなく火が、松影町方面から来るようなので、避難者中それを見た人々は他方面に逃げた。正しく三時頃になって、火はたちまち掖済会および逓信省倉庫に燃え移り、積置きの石炭にも火が移ったので、持ち込んだ荷物を惜しんで、ここを離れなかった数十名の人は、遂に無惨な焼死を遂げたのである。

町民の多くは吉浜橋を渡って公園に逃げ、あるいは亀ノ橋を渡って、中村町の丘に逃げたのであって、それ等は皆無事であった。町内の死者は約百名であった。同町での悲惨な家は衛生組合事務員上條金作夫妻、酒店安西喜一方は夫婦・老母、豆腐屋安藤力三方は力蔵と子供三人、船夫斉藤平吉方では夫婦と子供三人、箱商原嘉平方では老母・妻と子供三人、船夫鈴木磯太郎方では妻と子供三人、これ等がいずれも惨死を遂げたのである。震災後同町の戸数は二百五十戸となった。

2 松影町[編集]

松影町は戸数七百七十五で、表通には商店があるけれども、その他は主として勤め人の住居が多い。地盤が比較的強いので家屋の倒潰は全家屋の半数であった。けれど三十分後に発火し、隣接の諸町からも延焼して来て、一戸も残らず焼失した。罹災した主な建物は、亀ノ橋病院、五丁目の製氷株式会社等であった。死者は五六十人を出したが、その過半数は山下町の会社・商店に勤めていた人である。多く死者を出した家は、コック佐々木栄蔵方では栄蔵と子供三人、運転手藤太郎方では藤太郎と子供二人、七宝焼業平井平作方では子供三人、船夫阿部熊吉方では妻と子供二人等である。

3 寿町[編集]

寿町一丁目から四丁目は、埋立地の真中にあって、四百六十戸を有していた。多くは商店で、住宅は少なかった。地震では、全家屋の七分通りが倒潰した。ほどなく零時十分、四丁目から発火、松影町から火を受けて、家屋はことごとく焼失した。罹災した主なる建物は、相模屋呉服店・左右田銀行支店・パブテスト数会等である。死者は六十八名で、中で相模呉服店だけの死者は十名であった。一丁目の経師職長八方で長八と妻・子供一人・徒弟一人が圧死した。町民の多くは中村町の丘地や、横浜公園等に避難した。一年有半後、戸数は約三百戸となった。

4 扇町[編集]

扇町一丁目から五丁目の戸数は、四百六十戸であった。家屋はすべて新しかったので倒潰は約五分通りで、比較的多くはなかった。大岡川と日之出川沿いの道路には亀裂を生じた。 午後一時頃、町内二丁目と四丁目からと発火し、四時頃までにことごとく焼失した。花園橋は焼失したが、扇橋が焼失を免かれたのは、避難者にとって幸いのことであった。焼失した建物は寿警察署と名取ホテルとであったが、ホテルでは止宿中の外人三名と庸人数名が圧死した。死者を多く出した家族は、一丁目の硝子商神田某方で老母・妻と子供二人、二丁目倉庫業小林忠七方では忠七と妻・子供三人、小売商永島政吉方で老母・妻と子供二人であった。一年有半後、復旧した家屋は三百七十戸である。

5 翁町[編集]

翁町一丁目から五丁目の戸数は、震災前は三百戸であった。多くは商店であるが、住宅も相当に多くあった。大地震が襲って来たと同時に、全戸数の約八分は倒潰したが、同町からは発火しなかった。けれど隣町から延焼して、家屋はことごとく焼失した。罹災の主なる建物は、辛酉銀行支店、市営住宅の文化荘等であった。四丁目の寿小学校は、鉄筋コンクリートの建物だけに、少しの被害を受けただけであった。

死者は五十七名を出した。多く死者を出した家は、一丁目の藍問屋平沼磯五郎方で妻と子一人・義妹・下婢一人、三丁目の塗物商太田芳太郎方では弟と子供三人、左官職畑井平次郎方では夫婦と子供二人であった。なお三箇月前に新築した大建物の文化荘の中には、約九十の家庭があったのである。十全病院事務長横田芳次郎氏は、その戸を借りていたが、同所が倒潰した時、同氏・子供二人は圧死した。その他にも死傷者を出した。同町は一年後戸数二百戸となった。

6 不老町[編集]

震災前不老町は、戸数二百五十戸を有していた。大地震では、全家屋の八分通りが倒潰した。火は扇町方面から延焼して来て、三時間の間に町内を焼き尽くした。主なる建物は、安田銀行支店である。

死者は八十五名で、一家で多く死者を出した家は一丁目の魚もし屋田口太郎方で妻および子供四人、二丁目産婆山内ツタ方ではツタと子供一人・助手三人全滅であった。町民の多くは港橋の焼ける前に公園に逃げた。同町は一年半後、戸数三百四十八となった。

7 万代町[編集]

万代町は埋立地の北にあって、吉田・大岡・日之出の三つの川に囲まれている。戸数は百十戸であった。吉田川河岸には倉庫が多い。震災では建物八分通り倒潰した。川岸通りには、あちこちに地割れを生じた。

午後一時半頃、二丁目から発火したばかりでなく、隣町から延焼して来たので、瞬く間に焼失した。権三橋も蓬莱橋も焼け落ちたが、鶴の橋だけは残った。午後五時には、三丁目に大旋風が起って、焼トタンなどが空中に巻き上げられた。罹災の主なるものは、銅鉄器合資会社・葛原冷蔵庫出張所等である。死者は五十三人であった。死者を出した家は、二丁目の羽二重商岡田金次郎方で妻と子供三人、洋服屋永見二男方では夫婦ほか義弟および姪三人、ミシン業上松五郎方で子供二人・庸人二人である。鶴の橋は焼けなかったので、向こう側の伊勢佐木町・蓬莱町界隈の人々の多数は逃げて来て、港橋の焼ける前に、町民と共に公園内に避難した。一年後戸数は百六戸となった。

8 三吉町[編集]

三吉町一丁目より五丁目までは、中村川の北岸に連なって千歳町と真金町に接した長狭い地域である。炎前の戸数各丁目合せて六百五十四、表通りは商家で、裏通りは主として職工および労働者の住居である。震災では家屋の約七分通り倒潰した。続いて午後一時に五丁目より発火し、また千歳町方面の火も加わり、対岸中村町よりも四丁目に飛火して、三時頃には町内一戸も残らす焼失した。罹災建物の主なるものは、四丁目なる増田氏所有の穀物大倉庫である。三吉橋・東橋も焼失した。死者は二・三丁目で十三人、四・五丁目で四十四人、そのほか他町に出た者が一丁目で五人、二・三丁目で五人、四・五丁目で十九人を算する。一丁目では死者一名も出さなかった。四丁目の陶畫師橘富蔵方では妻および子女二人惨死し、主人も負傷のため死亡して一家全滅となった。町民の多くは東橋・車橋を渡り、ある者は石炭船を操って、中村町の丘陵に避難した。四・五丁目の者の一部は間近な第三吉田小学校が一千坪あるので、初めそれに避難したが火に囲まれそうになったので、さらに中村町に避難し辛うじて死を免かれた。しかし荷物に心引かれた者は数十名、遂にそこで焼死を遂げた。一年有半後、家屋の約七分方復旧した。

9 千歳町[編集]

千歳町一・二・三丁目は戸数約四百五十、表通りには商店多く、裏通りには主に技術労働者、自由労働者が住まっていた。表通りは二階建が多いので約八分方も倒潰したが、裏通りはおおむね平家であったので、倒潰したのは少なかった。地面に大亀裂箇所を生じた上、水道が破裂したため、水が氾濫して、亀裂箇所を覆いそれへ落ちて圧死したのが、両三名あった。約四十分の後、三吉町方面および遊廓方面からの火が襲い来て、さらに対岸中村町河岸よりも飛火して、町内一面は猛火に包まれ、一戸も残さず焼失した。死者は一丁目で十人、二丁目で十二人、三丁目で七人、ほかに他町に出でた者が十人内外ある。住民の多くは車橋および東橋を渡って、中村町の丘に避難したが、東橋の火に包まれた後は、川舟で渡った者もあり、向こう岸も火になっていたので、渡ることもできず、船にもぐり、身体中に水を注いで、ようやく焼死から助かった者もあった。三吉町一丁目の空地に入って猛火に襲われながら、三四人の者が助かったのは不思議であった。二丁目の鉄工鈴木亀吉氏は、火中に三人を救い出だした功労者だ。一年半後戸数は四百二戸であった。

10 山田町[編集]

山田町一・二丁目は富士見町と相並んで、横浜遊廓の東に連なる町である。災前の戸数六百七十。住民は主として商人で、その他は請負業・職工と通勤者である。家屋の倒潰は約六分通り、多くは大破程度であった。町内より発火しなかったけれども、約一時間を経て避廓方面および富士見町より延焼し、たちまちにして一面の火となり、町内一戸も残さず焼失した。罹災の主なるは、一丁目なる浅草観音分堂、個人では素封家山本慶太郎氏および白石作蔵氏の邸宅であった。死者三十八人、ほかに他町に出でての死者約三十人を算した。一家全滅の家二戸を出した。町民の多数は車橋を渡って、中村町の丘上に避難した。扇橋の川中なる荷足船に入り、水を浴びつつ助かった者が、約七十人あったことは天祐というべきであろう。

11 富士見町[編集]

富士見町一・二丁目は、山田町と相並んで横浜遊廓の東に続いている。災前三百六十戸を有し、表通りはおおむね商家である。裏通りは主として商店への通勤者、遊廓の庸人、職工等の住居である。全潰約六分通り、他はおおむね大破小破で、大体一丁目は二丁目よりも潰れ家少なく、市営の托児所も潰れなかった。午後一時頃、町内一丁目より発火し、これと相前後して遊廓方面よりも延焼し、三時頃には町内をことごとく焼き払ったが、五味質店の土蔵一棟が焼け残って、質物の安全なりしは不思議だった。焼失した主な建物は市営託児所、稲荷祠等である。死者の数は四十七人である。一家全滅の悲運を見た家は、二丁目の桶職森川伝蔵方で夫婦および子供一人、原田エイ方で主婦および子供二人である。町民の多くは車橋および東橋を渡って、あるいは川船で向河岸に着き、中村町の丘地に避難した。逃げ後れた約三十人は、千秋橋附近の岸の崩れに降りて辛くも助かった。

12 山吹町[編集]

山吹町一・二丁目は、北は新吉田川に沿い、西は遊郭に連なっている。災前戸数二百十八を有し、表通りはおおむね商家、裏通りは主として職工・沖人夫・船行商等の住居である。表通りは八分方倒潰したが、裏通りはおおむねトタン葺の平家なので、約四分方の倒潰であった。地面は一般に低下して、所々に亀裂を生じ。河岸通り最も甚だしく、護岸は総崩れとなり、なお水道破裂のために、町内一面に浸水した。約五十分して、遊廓方前からと、富士見町方面からと猛火が襲来し。三時半頃には町内ことごとく焼失した。罹災の主なる建物は一丁目私立警醒学校・田中鉄物倉庫等で、橋梁では武蔵橋は破壊の上焼失し、山吹橋は破壊の上一部焼失した。殃死者を挙げれば、町内で二十四人、他町に出で十三人、伊勢佐木町方面より逃れ来り、当町で炎に包まれたのが五人、町内にては歯科医院で治療中の他町の人が二人焼死した。二丁目の彫刻業佐谷徳教氏は永年町内の衛生組合長を勤め、公共の事に熱心であったが、同人および子息夫妻共に殃死して、一家全滅となった。住民の大部分は路上の溢水で火熱を防ぎつつ南方に走り、東橋を渡って遊行坂方面に避難したが、橋の煙に包まれた後は、川船の助を得て、辛うじて向岸に達した。一年有半の後、戸数百九十。約九分通りは霞災前の家である。

13 真金町 永楽町[編集]

真金町および永楽町は横浜遊廓で、廓内は約二万坪の別天地である。廊内の東方が永楽町、西方が真金町である。街路が縦横に交叉して、貸座敷八十三戸、引手茶屋九戸、芸妓屋六戸、そのほか飲食店・遊戯場・普通商店および住宅等を合せて総戸数四百十九、人口四千百五十人、全人口中娼妓約千人、芸妓五十余人を含んでいた。廓内は埋立地であるし、ことに二三階の建物ばかりであったので、第一震が来ると、反町楼を残したのみで、後は全部倒潰した。

地割れ・陥没等が所々に生じ、濁水が噴出して、四辺は水溜となった。遊女達は悲嗚を挙げて逃げ迷った。十二時二十分頃、火は真金町数箇所から発火し、三吉町方面からも延焼して来て、おりからの西南風に煽られて、廓内は猛火の荒れ狂うところとなった。神風楼・二葉楼等、主だった妓楼を始め、全部灰に化した。

死者の数は、およそ四百五十名で、娼妓の死者は数の半分二百二十名であった。楼主の死者九名、ヤリ手・妓夫太郎等の死者は百二十四名であった。各楼の娼妓は、多いのは二十名以上で、少ないのは十人以下であった。美好楼では主人安昨利喜蔵夫婦・老母と子供三名のほか娼妓十名であった。神風楼山口美代方では若主人が生き残ったばかりで、主人・家族・娼妓等二十三惨死した。廓の周囲はトタン板で厳重に囲まれているので、通用門も、非常門もすぐに開けられたが、逃げるには障害が沢山あったので、死者を多く出したのであろう。同町の住民は殆んど中村川方面に逃げ、東橋と三吉橋を渡って、間近である中村町の丘上に避難したのである。しかしほどなく、二つの橋は焼け落ちてしまったので、遅く逃げて来た者は橋を渡ることができず、南吉田町の第三小学校運動場に避難した者は、全部焼死した。

県立真金町病院は二階木造の大建物で、当時は清水院長および職員数名のほか看護婦十一名がいた。病妓は七十六名収容中であった。病舎が全潰するや、まもなく火は発した。院長は部下を指揮し、救助に努めたが、娼妓九名・看護婦一名・庸人一名の死者を出した。焼け跡には看護婦高木ユキ(二十三歳)が、病妓二名を抱えて焼死していた様は無残であった。

震災後、遊廓はまもなく改復し、大正十三年の調査によると、廓内の戸数は四百六十戸、妓楼は六十九戸である。

遊郭の裏通りなる真金町は、普通の街で、震災前戸数は百八十二戸あって、商店・職工・労働者等の住宅で、公設市場もあった。

家屋は七分通り倒潰し、火は三吉町から発火し、たちまち全家を焼失した。死者十九名。住民は三吉橋、東橋の焼けない間は、中村町の丘に逃げることができた。

14 南吉田町四 - 七ツ目[編集]

南吉田町は明治二十年頃吉田新田の沼地を埋め立てた町であるから、地盤は軟弱であるには違いない。激震と共に五千三百の家屋は殆んど全部倒潰した。

南吉田町東部 南吉田町の中央を流れる新吉田川の以東の地域である。震災前は約二千六百戸を有していたが、第二激震で、その八分通りは倒潰した。僅に破損した建物は、南吉田第一・第二・第三小学校のみであった。地割れ、崩壊等数箇所に生じ、中にも堀割川に沿った久良岐橋から、千歳橋附近に至る川岸通りは、大部分川中に崩落した。火は町内数箇所から発火し、その火脚の最も早いものは、千歳橋附近、三吉橋附近と第一南吉田小学校附近からの火で、おりからの烈風に火勢を強め、早くも新吉田川方面に延焼して来て、午後五時頃には、全地域は一戸残らず焼失した。焼失した主要な建物は、第一・第二・第三南吉田小学校・米国ヴァキュームオイル会社・テキサスオイル会社・岩井鉄工場等であった。橋の被害は三吉橋・道場橋は焼失、久良岐橋・千歳橋は破壊、日本橋・横浜橋は破壊、道場橋は重油の火で真先に川に流れ落ちた。三吉橋は三時半頃焼け落ちた。

この地域の人の避難場所は、中村川の橋を渡って、中村町また堀之内の丘に逃げ込むよりほかに道はなかったので、辛くも焼け残った久良岐橋と、千歳橋とは、この地域の者に取っては生命の綱であった。青年団員の決死的活動によって、向う岸へ川船に乗せられた避難者二千以上であろう。逃げ遅れた人々は、中村川沿岸の万治病院跡の広場や、第三南吉田小学校の校庭に逃げ込んだが、ほっと一息つくまもなく、向う岸の中村町の県揮発物貯蔵庫に火が入ったので、火になった重油は流れ出して、四辺一面を火と化してしまった。猛火に包まれてしまっては、避難者たちはもう絶体絶命であった。男たちは燃えている道場橋や、三吉橋を渡って、辛くも向う岸に辿りついたけれども、老人・女・子供にはそんなことはできないので、そのまま焼死したのである。この地域の死者はその数四百八十四人で、大部分は圧死であるが、焼死者も少なからずあった。

南吉田町の西部 南吉田町の中央を流れる新吉田川以西の地域が南吉田西部である。震災前約二千六百戸を有していたが、第一震・第二震に、その九分の建物は破壊した。倒潰を免かれた建物は僅に日枝神社と稲荷神社とであった。火は激震後まもなく、南六つ目四百八十番地辺から発火した。次いで、各所からも発火し、火力は猛烈となって、みるみる全家屋を焼失した。火は北部一帯を焼き払い、午後四時頃風の変わると共に火先を、逆に転じてさらに西南部一帯を焼き払った。飛地の西川ほかも蒔田町からの火を受けて、その北部を焼かれた。稲荷神社は焼失したが、日枝神社は危険が迫りながら不思議にも火災を免れた。当日は拝殿の新築中であったので、葭で拝殿は阻まれていた。突然火の子は葭に飛んで来たので、危く大事に至ろうとしたが、神主たちが協力してすぐに叩き消してしまった。震災後、日枝神社が燃えなかったのは、全く神さまの霊験であると氏子達は思って、皆揃って熱心に信心をしている。本地域の主なる建物は、第一・第二日枝小学校・笠原輸出織物加工場・長町釦工場・龍華絹糸紡績会社等でその他二三の工場、会社があった。焼失した橋は共進橋・葭屋橋・一本橋・万治橋・南吉田橋であった。日枝橋・池下橋の二つが焼けなかったことは、住民に取って幸いのことであった。

南吉田町中部 南吉田町中部は震災前戸数百三十九、表通りは多く商家である。激震起こると共に、市電日本橋出張所と亜鉛葦の長屋十戸とを除くほか、ことごとく倒潰した。河岸通りばかりでなく、至る所に亀裂を生じた。火は家屋が倒潰した後まもなく、地元の支那料理店から発火したが、すぐに消しとめた。しばらくすると、駿河町三丁目と、長者町五丁目とから火を発し、ついで南吉田町の西部の火が延焼して来た。火はたちまちのうち一戸も残らず焼きつくした。死者と行方不明者とが二十九名あった。清水五郎蔵方で一家五人と来客一人の死者を出し、旅館塚田暉一方では一家三名死者を出した。住民の約七分通りは向う岸で火に追われない中に、駿河橋・日本橋・横浜橋を渡って、中村町方面の高台に避難し、二分通りは、山王橋・道慶橋等を渡って、久保山方面に避難した。平野坂定楠氏と茂手木重幸氏との二人は、六十名の避難民を船に乗せて、無事に堀之内へ避難させた。一年有半後の戸数百名。帰って来たのは、表通りの商店五分通りである。

第4節 市の西南部[編集]

堀内・滝頭・磯子・岡村の各町は蒔田・大岡の二町に続いている大地域で、市の西南部に在る。堀内南は滝頭町、その西南磯子、さらにその北は岡村町で、堀内と滝頭との間には、根岸町の一角が堀割川を挟んでいる。そこに横浜刑務所の建物がある。この地域は、一帯に丘陵地が多いので、人家は少ないが川添いや、海に沿った所は、市街となっている。震災の影響はあまりひどくなかった。火災は各所から起ったが、大事に至らなかた。しかし山崩れはこの地域に最も多く、中にも磯子町では、山崩れのため多くの死者を出した。

1 堀内町[編集]

堀内町は蒔田町の東、中村町の西にある。同町の字新川の一部は、掘割川の対岸に延びている。多くの字が一つとなって、市街を成している。地域の北にある字宮田・門前・石畠・清水谷・女坂辺りは、商家と住宅とがある。しかしその他の字は丘陵地であるから、人家は極めて少ない。戸数六百五十四の中、全潰百二十四戸、半潰六十八戸であった。ただセールフレーザー商会の製材工場七棟が発火し、焼失したぐらいのものであった。これに続いて亜鉛鍍金鍛株式会社も焼失した。字女坂の県爆発物貯蔵所が半潰したが、爆発しなかったのは何より幸いであった。

他町からの避難者は約四千名で、いずれも緑故を頼って寄寓した。震災になって移住者が沢山やって来た。そのため漸次戸数を増して根岸刑務所裏手の、字荒畑などは震災前五戸に過ぎなかったのが、一年後には数十戸になった。当町宝生寺の境内には、震災回向所仮堂が建立された。これよりさき震災後、避難者の冥福を祈るために、横浜公園、その他市内各町で、塔婆や墓標を建てたが、復興につれて、そのままにして置くこともできないで、十三年七月、神奈川県大震災法要会の発起で、有志の賛助を得、県・市に於ける遭難者の回向所を宝生寺に建て、塔婆等を納めたのであった。十三年九月一日、盛大な震災一周年忌の大法要を施行した。

2 滝頭町[編集]

滝頭町は一部丘陵地、一部平地で、堀割川が東部を流れ、海に注いでいる。そこに原の一字があり、川口に別に埋立地がある。戸数は約千戸、人口約四千五百。勤め人の住宅最も多く、商店も相当にある。震災の影響としては八幡橋の西、字浜・上江・北田等の市街地が、被害甚だしく、戸数約三分の一は倒潰した。その他各字では、おおむね大被害を免れた。倒潰した主な建物は市電気局車庫・真言密蔵院・三井物産会社製材工場・八幡神社・輸入獣類検疫所等で、扇ヶ谷の市立万治病院も数棟の建物が破壊した。山崩れは前述のようにひどく、扇ヶ谷では丘の中腹に大亀裂を生じて、水田の中に崩れ落ち、その反動で、前方の水田を七八尺も押出した。崖崩れは道路を山のように埋めて、万治病院の裏門や塀を破壊した。磯子近くの伊勢山の崖崩れも、また甚だしかった。その辺には人家がなかったので崖下で、人夫が一人圧死したに過ぎなかった。火は零時十分頃、字北田の市電気局裏手の住宅から発火し、その附近の家屋を数十戸焼き払った。死者はこの町では無く、外出中の者で二十名ばかりあったらしい。根岸刑務所を出た者たちに、人々は恐れを抱いたが、彼等は割合に善良で、焼けた家々の後片づけを手伝ったりして、報酬に食事を貰って喜んでいた。震災後、この地へ移転して来た者が多くあった。一年半後には戸数約二割増えていた。

3 磯子町[編集]

磯子町の西北は丘陵地で、東南は海を控えた海岸街で、景色のよい所である。震災前は戸数千五百戸と、新築の家が約五十戸あった。字浜は海岸地だけに五百戸あった。字禅馬には二百戸、禅馬の東北なる字広地には戸数同じく二百戸あった。大道筋には商店軒を並べているが、他は多く住宅である。字浜は埋立地であるから被害も多く約五百戸の中、倒潰約百五十、半潰二百を算した。字禅馬・字広地は磯子に次ぐ被害を受けた。罹災した重なる建物は広地の磯子小学校半潰、禅馬工場半潰、金歳院倒潰等である。崖崩れの最も激しかった所は料理屋偕楽園の附近であった。同園の裏には七間も崖が切立っていたが、大震が起こると同時に、恐ろしい地響き立てて、長さ約八十間・幅十数間・坪数約一千坪の断崖が崩壊し、偕楽園の一部である三棟の家屋を押し潰した。その中で女中が十六名惨死した。附近の民家一棟もまた埋没して家人三名は生き埋めとなった。このほか丁度崖下を通っていた数名が生埋めとなった。しばらくして幾人かの死体を発掘したが、崩壊の土石その面積は約四千坪もあったので、到底掘り上げることができなかったので、そのままにしてある。なおこの地域には、和田山にも長さ約六十間の崖崩れがあった。海岸の所々に地割れができた。石垣の破壊したところは多数あった。

次に焼失家屋は、浜は六十三戸、禅馬は五戸、字間坂は三戸であった。類焼が少なかつたことは、町民が協力し消防に努めたからである。町内の死者、浜は九人、禅馬は三人、谷は一人、広地は二人、山田は三人、間坂は一人であるが、これに偕楽園附近の死者を加えると四十人である。他の町に出ていて行方不明になった者は十名あった。前記三人の死者を出した家は三好屋という俥宿であるが、その後主人は非嘆の上、自殺を遂げたとのことである。浜の運送業堀の家でも、夫婦と子供一人が共に圧死した。

震災後各方面から多い時に、避難者一万五千人も来た。中には仮屋を造って住む者もあった。火災の甚だしくなかったのは、何よりの幸いであった。町は一年半後、次第に復興し、震災前よりもかえって戸数も増えて、一千二百七十戸のほか、新築家屋が、二百も建てられた。ことに大通りは道幅も広くされて、電車も通じて町の面目は一新された。

4 岡村町[編集]

岡村町は市の西南に在る一帯の丘陵地で、その辺は畑である。面積は広いけれども、人家はあちこちの谷合いに散在するのみで、その数は僅に百十余戸に過ぎない。家は大抵百姓家で、藁葺である。震災の影響はごく僅かで倒潰した家屋は二十戸、半潰は三十五戸であった。火災はなかった。破壊した寺院・神社は字仲久保の岡村天神で有名なる天満宮・真言宗金剛院・曹洞宗龍珠院等であった。中にも天満宮の被害は、他よりもひどく、拝殿は半潰、神楽殿は全潰した。字仲久保の地先では長さ三十間幅十間の崖崩れがあって、家を一戸埋没し、女一人圧死した。

第5節 蒔田 大岡町方面[編集]

1 蒔田町[編集]

蒔田町は地域の約三分の一が市街地になって、三分の一が丘陵地で、さらに三分の一が田畑であった。この中市街地の八分通りが、火災に罹ったのである。すなわち町内十八字の中で、廻坪・六反目・井領田・宮之脇・三反田・居尻・榎木坪・門田の八字は全部焼失し、一本松・堂面・宿・山之根・西の五字は七八分焼失して、町内約三千戸の内、約二千五百戸を焼いたのである。大震が突発すると同時に字榎木坪・居尻・六反目の辺りは大被害を受けた。家屋おおむね倒潰した。しかし他の字は半潰を僅かに出したばかりであった。倒潰した建物で主なるものは、英和女学校・勝国寺等であった。片岡医院は崩壊のため、院長夫妻・子供一名・看護婦数名が圧死を遂げた。字伊勢山は、特に亀裂が甚だしく、その長さ三十四間・幅四間もあった。

火は家屋の倒潰後、数分も経たぬ間に町内数箇所から発して、居尻・榎木坪はたちまち焼き尽くされ、おりから火は南風に煽られて火勢は一層加えられた。隣接の大岡町も、また三箇所から発火して、当町の方へ迫って来た。午後四時頃になって遂に当地の火と合し、ますます燃え広がって、東北に延び、橋を焼いて南吉田町の火と連り、火は燃え狂って四辺を火の海と化した。同地は震災、徐々復興してはいるが、今日ではまだ旧に復しない。

2 大岡町[編集]

蒔田の西南に連なっている町で、蒔田町と地勢が似ているところである。被害の状態も蒔田町と、同様であった。市街地の家屋の約半分は半潰あるいは大破した。丘地では少しばかり破れたぐらいのものであった。大岡川の堤防、大・小多数の亀裂を生じた。火は中央なる高等工業学校および町内の三箇所から一斉に発火し、東北に向かって延焼し、たちまち市街地を一舐めにした。四時頃になって、さらに蒔田町に延び、逐に南吉田の火と合した。

町内は各字にして云えば、目貫場所の釜田・大橋詰・中島・樋之口・通町の五字は殆んど全部焼失し、石畠・宮之前・堰之上の三字は過半焼失した。字中之町と久能下との二字に跨っている高等工業学校も焼失した。町内約一千二百戸の中、約八百戸の類焼を出したのである。焼失の主要な建物は高等工業で、同校は当市唯一の官立学校で、木造教室付属建物の大部分は、激震と共に倒潰した。化学実験室内二箇所から発火し、二三の小建物を除くほか、ことごとく焼失した。午後一時半頃飛火を通町に送ったのである。かくて学校の被害額は器具標本類等を合せて四十七万余円に上った。当時は体暇であったから、学生には一人も被害者を出さなかった。町内の死者は百二十名であったが、多く勤め先で死んだものである。

当町の発火はたちまち起ったので、字地の住民は、命からがら逃げたのであったが、余裕は十分あったので、家財などを持った者もあったから、大岡川田畑などに、荷物などが落ちていた。この地は格別焼死者を出さなかった。翌日頃から埋立地方面の罹災者が、老人や子供を連れて、続々避難に来て、手蔓を求めて丘地の残った家に寄寓し、手蔓のない者は河辺などに形ばかりの仮屋を立てて、救護物資の配給を受けて、しばらく露命をつないでいた。地元の罹災民も同様であった。また朝鮮人の噂は他の地と変わらず、二三兇事もあった。要するに本街は、被害は甚大であったが、市の中央部に比しては、その被害少なかったことは不幸中の幸であった。町民はこれをせめてもの心遣りとして、中央部の大被害に同情をなし、ひたすら一家一郷の復興に努力した。その後中央部から移住する者も多く新しい家ができて、一年有半には、町内の戸数が、震災より増して約三千三百戸となった。他には見られない盛んな復興の様であった。

関連項目[編集]